川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日… 川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月14日 )は日本の実業家である。三井生命保険、華興商業銀行勤務を経て神戸銀行取締役となり、その後、阪神相互銀行・第2代代表取締役社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)岡山県川上郡川上町領家(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、画家になる皆見鵬三がいた。1929年(昭和4年)に同校を卒業後、旧制第六高等学校へ入学する。1932年(昭和7年)に同校を卒業後、同年、東京帝国大学法学部へ入学する。1935年(昭和10年)3月に東大法学部政治学科を卒業し、三井生命保険へ就職する。
藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月1… 藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月10日 - 1994年(平成6年)1月9日)は、地質学者であり、教育者でもある。北海道帝国大学理学部を卒業後、理学部助手となり、植物化石の研究に従事。秋田鉱山専門学校教授となり、秋田大学鉱山学部教授、秋田大学名誉教授となる。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 明治44年(1911年)1月10日、川上郡落合村福地(現・高梁市落合町福地)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)を経て広島高等師範学校を卒業。高等師範学校在学中から成羽地域に分布する三畳紀植物化石の研究を始め、北海道帝国大学大石三郎助教授の指導を受け、昭和9年(1934年)北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科に入学、引き続き大石助教授に師事する。
赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7… 赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7日 - 1999年〈平成11年〉8月11日)は、医学博士、眼科医師であり、教育者でもある。戦後、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の眼科の初代教授を務めた後、岡山大学第5代学長、川崎医科大学初代学長、岡山県立短期大学(現・岡山県立大学)学長を勤めた。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1927年(昭和2年)旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)卒業、1931年第六高等学校卒業を経て、岡山医科大学に入学、1935年(昭和10年)に岡山医科大学卒業した。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。1938年(昭和13年)青森県立病院眼科部長として赴任。
武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月2… 武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月29日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、実業家である。元栗本鐵工所専務取締役・顧問を務める。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)岡山県に出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進学する。1927年(昭和2年)に同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。その後、1930年(昭和5年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1933年(昭和8年)3月、工学部採鉱冶金学科を卒業する。 京大卒業後、栗本鐵工所へ就職する。入社後、臨時建設部次長を経て、1954年(昭和29年)に材料研究部次長、1957年(昭和32年)研究所長・技術部長となり。
猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月… 猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月- 1987年(昭和62年)4月11日 )は、日本の植物生態学者である。資源科学研究所研究員を経て、山に牛を放牧する酪農である山地酪農を提唱し日本に広めた。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)に岡山県高梁市で出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学を経て、1928年(昭和3年)に鹿児島市にある第七高等学校理科甲類へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、1932年(昭和7年)東北帝国大学理学部生物学教室へ入学する。1935年(昭和10年)3月に同大学を卒業した。 猶原は大学卒業後、1938年(昭和13年)30歳とき、東京府大泉師範学校の設立時教諭となり、同時期に、企画院の外郭団体として設立された大日本帝国の国策調査・研究を行う機関である東亜研究所に所属する。
宮脇 紀雄(みやわき としお、1907年2月15日 - 19… 宮脇 紀雄(みやわき としお、1907年2月15日 - 1986年11月18日)は、日本の児童文学作家。 岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)出身。 農業、岡山市で書店勤めや書店経営をしたが、1935年上京して坪田譲治に師事。土師清二の知遇を得て童話を書き始める。1969年「山のおんごく物語」で野間児童文芸賞、1976年「ねこの名はヘイ」で日本児童文芸家協会賞、1977年「おきんの花かんざし」、1980年「かきの木いっぽんみが三つ」で産経児童出版文化賞を受賞。海外児童文学、日本の古典などの再話を数多く行った。 生態学者の宮脇昭は弟。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日… 伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日 - 1983年(昭和58年)4月11日)は、日本の英文学者、お茶の水女子大学名誉教授。戦前に2つの日本の大学を卒業する。その後、渡米しカリフォルニア大学ロサンゼルス校英文科に学ぶ。帰国後、大学教授としてジェイン・オースティン、ヴァージニア・ウルフなどを研究・翻訳した。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1906年(明治39年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の父・伊吹岩五郎、母・美志の四女として出生する。親戚には、群馬大学医学部教授の伊吹令人がいる。1923年(大正12年)3月、16歳のとき、地元の岡山県立順正高等女学校(現:岡山県立高梁高等学校家政科)を卒業する。
肥田 次郎(ひだ じろう、1906年(明治39年)9月28日… 肥田 次郎(ひだ じろう、1906年(明治39年)9月28日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、大正から昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。岡山県高梁市出身。 1906年(明治39年)岡山県川上郡成羽町(現:高梁市)で貧しい小作農家に生れる。地元の吹屋小学校を卒業後、八百屋、呉服屋、食堂などで働き大阪市へ移住する。 1921年(大正10年)ころ初めてメーデーに参加。1922年(大正11年)南海鉄道(後の南海電気鉄道)に電気工夫として入社。電気労働組合に加入。独学でアナキズムを学んだ。1923年(大正12年)大阪英語学校初等科で学び、徴兵され陸軍伍長で除隊。南海鉄道技師となる。 戦後、南海電鉄労働組合執行委員長、日本私鉄労働組合関西地方連合会執行委員長、大阪地方交通運輸労働組合協議会議長、大阪府地方労働委員、同あっせん委員などを務めた。
金澤 覚太郎(かなざわ かくたろう、1906年(明治39年)… 金澤 覚太郎(かなざわ かくたろう、1906年(明治39年)6月23日 - 1970年(昭和45年)9月15日)は、日本の放送人、放送研究家である。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「金沢」とも表記される。 岡山県高梁市に生まれる。1919年(大正8年)、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三などがいた。1924年(大正13年)に旧制第六高等学校文科乙類に進み、1927年(昭和2年)に卒業する。東京帝国大学へ進学し、1930年(昭和5年)に東京帝国大学法学部を卒業した。 1933年(昭和8年)に満洲電信電話に入り放送に従事、新京中央放送局長、満州放送総局副局長などを務めた。
妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 … 妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 - 1969年(昭和44年)8月13日)は、日本の教育者。東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)を務めた後、旧制山口高等学校(山口大学経済学部の前身)・島根大学教授、岡山大学助教授、北海道大学、神奈川大学教授となる。岡山県高梁市出身。 1905年(明治38年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の妹尾善平の子として生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)旧旧制松江高等学校文科乙類に進学、1926年(大正15年)、同校を卒業し、東京帝国大学文学部独文学科へ進学した。1930年(昭和4年)3月に同大学を卒業した。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10… 長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事。岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。
鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1… 鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1976年〈昭和51年〉)は、日本の哲学者であり言語学者でもある。関東学院大学等の大学講師も努めた。岡山県高梁市出身。 1903年(明治36年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀がいる。1920年(大正9年)3月に同校を卒業。同年旧制第六高等学校へ入学する。1924年(大正13年)3月に卒業し、京都帝国大学文学部哲学科へ入学。 その後、1927年(昭和2年)3月に京大を卒業し、そのまま京都帝国大学大学院文学研究科宗教学専攻科へ進学する。
三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29… 三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)5月18日 )は、岡山県高梁市出身の医学者。京都大学名誉教授。佳木斯医科大学講師、岐阜県立医科大学教授・学長心得(代理)を経て京大医学部教授となる。第21代京都大学医学部附属病院長、国立京都病院長を務めた。 1902年(明治35年)に岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)で生まれる。その後、1915年(大正4年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同校は、後に三宅の上司となる井上硬の出身校でもあり、三宅も井上と同じ学歴を歩むだけでなく、医者としても同じコースを歩むこととなる。 1920年(大正9年)に卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。
藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10… 藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、実業家である。日本油脂常務取締役の後、ニッサン洗剤工業社長。岡山県高梁市出身。 1902年(明治35年)岡山県上房郡津川村(現:高梁市)に生れる。その後、1922年(大正11年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、翌年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1926年(大正15年)同校を卒業し、東京帝国大学工学部へ進学する。その後、1929年(昭和4年)3月、同大学応用化学科を卒業する。 大学卒業後、帝国火薬工業へ就職し、入社後、愛知県知多郡武豊町にある豊武工場に配属されラッカーの研究及び製造に従事する。
川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月1… 川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月13日- 1986年(昭和61年)7月28日)は、日本の医学者であり、満州国ハンセン病療養所・同康院の初代院長を務めた後、厚生省医務局長を務めた。国立がん研究センターの設立に深く関わり、顧問となっている。岡山県高梁市出身。位階は正五位。 1902年(明治35年)岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)の川上佐源太の三男として出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀、言語学者の鳴瀬恒太郎がいた。1920年(大正10年)同校を卒業し、慶應義塾大学予科へ進学する。その後、慶應義塾大学医学部へ入学し、小林六造教授に従う。
平川 唯一(ひらかわ ただいち、1902年2月13日 - 1… 平川 唯一(ひらかわ ただいち、1902年2月13日 - 1993年8月25日)は、日本放送協会(NHK)アナウンサー・ラジオ英語会話講師を務めた人物。通称「カムカムおじさん」。 ラジオ番組『英語会話』講師を1946年から1951年まで務め人気を博す(番組は『カムカム英語』という別名で知られる)。岡山県上房郡津川村(現・高梁市)出身。次男の洌も英会話講師であるほか、ウクレレ奏者でもあり、その第一人者である。 1902年、岡山県上房郡津川村(現・高梁市)の農家の次男に生まれた。1916年に津川尋常高等小学校高等科2年を修了し農作業の手伝いをしていたが、1918年の16歳のときABCも知らないで、数年前からアメリカに出稼ぎに行っていた父を追って兄と渡米し、ポートランドで半年ほど線路工夫などに従事し、その後シアトルに移って古屋政次郎(英語版)が経営する商店の店員として半年間勤務する。
森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11… 森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11日 - 1992年(平成4年)8月3日)は、日本の放送人、実業家である。朝日新聞社に勤めたのち、東京放送テレビ(通称:TBSテレビ)常務取締役や子会社のラジオ東京サービス社長を務める。中央放送広告社長も務めた。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「森沢」とも表記される。 1901年(明治34年)岡山県上房郡豊野村(現:高梁市)の父・森澤清六と母・ひさの七男として出生する(出生地は東京、誕生後すぐに地元へ帰省)。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1920年(大正9年)に旧制第六高等学校文科甲類へ進学する。 その後、1922年(大正12年)3月、同校を卒業し、京都帝国大学法学部へ進学する。
久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月… 久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月2日 - 1947年〈昭和22年〉12月26日)は昭和期の作詞家。別名・ペンネームとして、水久保弘・砂原鹿郎が確認されている。 岡山県川上郡富家村大字布瀬出身。 幼名(本名)は嘉雄。寺の長男として生まれた。岡山県師範学校卒業。幾つかの教員養成課程で研鑽し、若くして主席訓導(教頭職相当)まで進んだ。小学校教諭をしながら地元の青年たちの詩作の指導に当たり、「岡山青年」の詩部門の選者を務めた。 大正の終わり頃、中央詩壇の野口雨情などの勧めもあり、上京。その後、1931年(昭和6年)にコロムビアレコード入社する。始めは童謡を作詞し、新民謡運動にも力を注いでいたが、流行歌作家に転身。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10… 光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10月9日 - 1944年(昭和19年)6月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。 イタリアでバドリオ政権が連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動。フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキ(イタリア語版)率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる。
大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18… 大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18日 - 1980年(昭和55年)4月13日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、第15代日本弁護士連合会会長、関西大学理事・顧問を務めた。岡山県高梁市出身。 1896年(明治26年)岡山県上房郡上竹荘村(現:高梁市)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、関西大学へ進学する。1917年(大正6年)7月に関西大学専門部法律学科を卒業し、翌年、1918年(大正7年)4月に日本大学法学高等研究科(現:日本大学法科大学院)を専攻する。1919年、同校を卒業し、1920年(大正9年)12月11日、大月は弁護士試験に合格する。
高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1… 高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1932年(昭和7年))は弁護士であり教育者。関西大学法学部教授、社会運動家。岡山県高梁市出身。 岡山県に生まれる。地元に近い旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾がいる。このうち西雅雄、宇野弘蔵とは中学卒業後も親交があった。1915年(大正4年)に同校を卒業し、宇野と同じ第六高等学校文科丙類へ進学する。1918年(大正7年)同校を卒業、京都帝国大学法学部法律学科へ進学する。
留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 19… 留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 1981年5月3日)は、日本の内務官僚、実業家。官選秋田県知事、警視総監、北海道庁長官。 岡山県高梁市出身。社会事業家・牧師、留岡幸助の三男として生まれる。早稲田中学、第二高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、兵庫県属となり内務部地方課に配属。以後、兵庫県加東郡長、石川県理事官兼警察部工場課長、同県視学官、京都府内務部庶務課長、栃木県書記官・学務部長、香川県書記官・警察部長、千葉県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁部長・総務部長などを歴任。
笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)1… 笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)11月12日- 1955年(昭和30年) )は、日本の鉱山技師であり実業家でもある。日窒鉱業(現:ニッチツ)取締役。日窒コンツェルン首脳陣の一人。野口遵の鉱山業における片腕となり活躍した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の笹田三太郎の次男として誕生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1911年(明治44年)同校を卒業、第一期生として秋田鉱山専門学校(現:秋田大学鉱山学部)冶金学科へ入学する。 同校では、夏期に1・2年生は、教官同伴で4~5週間の実習、3年生では、各自実習と称して企業で働く、今のインターンシップの様な制度があった。
吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月2… 吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月26日 - 1985年(昭和60年)11月15日)は日本の弓道家。正法流を創始した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県高梁市の旧備中松山藩士の家に生まれる。先祖代々備中松山藩主板倉家に仕えたが、早くに両親に死別し、祖父文治郎に育てられる。藩士であった祖父に幼少から剣術を習い、旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1909年(明治42年)に早稲田大学予科へ進学する。早稲田大学では、初め剣道部に所属した。その後、早稲田大学商科へ進み、翌年の7月に弓術に出会った。 同年、大学2年で中退し、京都帝国大学政治学科の聴講生となる。
横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 -… 横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 - 1969年(昭和44年))は、日本の水産学者である。甲殻類の分野で大きな成果あげ、有名なボタンエビを発見した人物として知られている。長崎大学水産学部教授を務めた。長兄は、日本競馬会常務理事の横屋潤。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の三男として生れる。猷の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。兄である長男横屋潤は日本競馬会(現:日本中央競馬会)の設立と常務理事を務め、次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日… 中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。 法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。 日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された。
難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972… 難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972年3月7日)は岡山県出身の社会運動家。 高梁川の支流成羽川の一支流、日名川の源である熊之谷(現・高梁市成羽町上日名)に生まれる。父は小学校の校長であった。自身は部落外の出身だが、9歳で部落差別の存在を知る。経済的理由で旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)への進学を断念。15歳で準教員の試験に合格。16歳で阿部小学校の準訓導となる。翌年、近似(ちかのり)という被差別部落の分教場に派遣されて生徒指導に悩み、自信を失って教師を辞職。 1912年、朝鮮の京城日報記者となり、1917年に帰国。1918年、東京時事新報社に入り、1919年、大阪時事新報社社会部長に転じる。
信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月1… 信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月15日 - 不明 )は日本の実業家である。三井物産参事。岡山県高梁市出身。 1886年(明治19年)、岡山県川上郡(現在の高梁市)で生まれる。旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部甲類に進学、中学時代の同期である池田亮次と同級生だった。1908年(明治41年)、同校を卒業し、東京帝国大学工学部機械工学科へ進学した。1911年(明治44年)7月同大学を卒業後、25歳で三井物産へ就職した。 入社後、信原は、ドイツにあるベルリン支店に勤務となった。そこで十数年勤務し、帰国後は同社の総務部長に昇格した。
堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治… 堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治18年)11月6日 - 1975年(昭和50年)12月20日)は、日本の鉄道官僚であり、実業家でもある。鉄道省建設局長を務めた後、建設会社である間組(現:安藤・間)の社長代行となる。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の高田浦吉の四男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1904年(明治37年)、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1908年(明治41年)6月、同校を卒業し、同年、東京帝国大学工科大学へ進学する。1911年(明治44年)同大学土木工学科を卒業する。
三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 … 三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 - 不明 )は、日本の銀行家であり、実業家である。漢城銀行(現・新韓銀行)常務取締役となり、戦後日本製鋼所参事を務めた。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。 1903年(明治36年)、同校を卒業し、翌年、旧制第六高等学校文科甲類と札幌農学校予習科を受験する。岡山市にある旧制第六高等学校へ進学し、1908年(明治41年)6月に同校を卒業する。
横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日-… 横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日- 1950年(昭和25年))は、日本の農林官僚であり農林技師である。種馬師となり、東京競馬場長に就任。後年は日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事となった。日本競馬会の理事長安田伊左衛門を補佐した。名馬であったダイオライト購入にも携わる。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の長男として生れる。潤の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。弟の次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役、三男横屋猷は長崎大学水産学部教授を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年… 長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年)7月22日 - 1958年(昭和33年))は、教育者であり、実業家でもある。大阪高等商業学校(現:大阪公立大学)教授を経て、大阪無線電気学校の初代校長。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生まれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には山発産業社長になる山本発次郎、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事になる横屋潤がいた。1904年(明治37年)同校を卒業する。 第六高等学校へ進学し第二部(工理農コース)理科乙類(医薬農学部進学コース)でドイツ語を学ぶ。
米川 琴翁(よねかわ きんおう、1883年(明治16年)12… 米川 琴翁(よねかわ きんおう、1883年(明治16年)12月25日 - 1969年(昭和44年)1月24日)は日本の岡山県高梁市出身の地歌筝曲家。娘は生田流家元の米川敏子。 幼時から弱視で異母兄である米川暉寿に箏を習った。15歳から斉藤芳之都に箏曲を師事した。1905年(明治38年)に上京し、小出といから三弦を学んだ。その後一時的に姫路で指導をしていたが、東京に戻り、1922年(大正11年)研箏会を創設し、自らが会長となって多数の弟子たちの育成に励んだ。1919年(大正8年)に13弦の低音箏などを開発した。1959年(昭和34年)に長男の米川親利に会長の座を譲り、琴翁と名乗った。ロシア文学者の米川正夫は弟。
林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 194… 林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 1947年10月26日)は、経済学者であり、教育者でもある。早稲田大学大学部法学科卒業後、古河鉱業に入社し、欧米を視察。帰国後、早稲田大学政治経済学部教授、早稲田大学総長代理を勤めた。岡山県高梁市出身。 明治16年(1883年)、岡山県上房郡高梁町八幡(現・高梁市)にある藤井種次郎の二男として生れ、母の実家・林家を継ぐ。地元の旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)から大阪府立第一中学校(現・大阪府立北野高校)に転校、東京専門学校高等予科を経て、明治38年(1905年)早稲田大学大学部法学科を卒業、古河鉱業に入社、労働問題の調査研究にあたる。 入社後の大正9年(1920年)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)… 平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)4月29日 - 1967年(昭和42年)7月24日)は、岡山県川上郡備中町(現・高梁市)出身の地方政治家。倉敷市長、津山市長。 1882年、川上郡備中町で生まれる。学校は、岡山県師範学校へ進学した。 1929年から1937年まで、倉敷市長を2期務める。 1943年から1946年まで、津山市長を務めた。戦後、公職追放となった。その後岡山県議会議員を務めた。 1967年7月24日死去。享年85。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 … 杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。退官後は、日本製鋼所の社長を務めた。 明治13年(1880年)に岡山県上房郡高梁町の備中松山藩士杉忠三郎と、その妻で由との間に次男として生まれる。地元の高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。中学時代に母の由が死去する不運に見舞われる。しかし、母の葬式では、一切涙を見せることはなかった。 卒業後、単身で当時、神奈川県横須賀にあったいわゆる「海軍三校」の一つ海軍機関学校へ入学(他二つは、海軍兵学校および海軍経理学校)。
綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月… 綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。
木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8… 木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8月8日) - 1894年(明治27年)7月29日)は、日清戦争で戦死した大日本帝国陸軍のラッパ手。 戦死しても口からラッパを離さなかったとされた。そのエピソードは1902年(明治35年)から1945年(昭和20年)まで小学校の修身の教科書に掲載され、戦前戦中の日本人においては広く知られた戦争美談であった。 小平は現在の岡山県高梁市成羽の農業・木口久太の長男として生まれ小学校に進学するが、1884年(明治17年)12月に中退。その後小泉鉱山で鉱山夫として働く。1892年(明治25年)12月から広島歩兵第21連隊に入営し歩兵二等卒となり、1894年(明治27年)6月に日清戦争に出征する。
山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867… 山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867年12月18日) - 昭和27年(1952年)11月21日)は、日本の漢学者・陽明学者・教育者。二松学舎専門学校の初代校長。二松学舎名誉学長、大東文化学院名誉教授。幼名は鎨三郎、本名は準、字は士表、済斎は号で正しくは濟齋である。 済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島中洲に学んだ。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった。
留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年… 留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1934年(昭和9年)2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(のち教護院、後の児童自立支援施設)教育の実践家。 児童養護施設東京家庭学校(東京都杉並区高井戸東)および児童自立支援施設北海道家庭学校(北海道紋別郡遠軽町留岡)の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 1864年4月9日(元治元年3月4日)、髪結い床を営む吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として備中国高梁新町(後の岡山県高梁市新町)に生まれ、まもなく隣の南町(後の高梁市南町)で米屋を営んでいた留岡金助(1835年-1904年)の養子となった。
国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864… 国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864年2月2日) - 昭和37年(1962年)5月1日)は、日本の検事、朝鮮総督府官僚。錦鶏間祗候、宮中顧問官。教育者。 備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年(明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格。岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した。1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月… 東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月18日(1863年3月7日) - 大正5年(1916年)1月24日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政本党)。弁護士。 備中国川上郡松原村(現在の岡山県高梁市)出身。司法省法学校で法学を学んだ。1888年(明治21年)より松江、東京、大阪の各裁判所で判事を務めた。1893年(明治26年)に官を辞し、大阪で弁護士を開業した。 1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第6回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(186… 二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(1860年1月24日) - 大正15年(1926年)9月7日)は明治・大正期の日本の牧師、教育者。 備中松山藩士の片貝正倫・ヨシの子として生まれ、藩医二宮英庵の養子となる。 1876年(明治9年)4月に岡山師範学校を卒業し、小学校教員をしながら自由民権運動の演説会などで活動していたが、新島襄や金森通倫の岡山伝道に接したことがきっかけで1880年(明治13年)に岡山教会で新島から洗礼を受け、さらに同志社の速成邦語神学科で学んだ。 1882年(明治15年)には高梁教会の設立に尽力したあと、美作落合教会の2代目牧師に就任する。さらに愛媛県の今治教会に転じ、横井時雄牧師を助けて松山伝道にも加わり、1885年(明治18年)に松山第一基督教会(現・日本基督教団松山教会)を設立した。
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年)… 大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は、実業家。岡山県高梁市出身。諱は義質、号は達堂。1888年、倉敷紡績を設立。 大橋澤三郎は万延元年(1860年)11月12日、川上郡吹屋村(現:高梁市成羽町吹屋)の中山実富の四男に生まれた。 井原興譲館(現:備中興譲館)、坂田警軒の門に入り、経史を修め、頭角をあらわした(倉敷文庫「倉敷人物百選」より)。 澤三郎は倉敷村(現:倉敷市)大橋重質(和泉大橋家)の長女・竹の婿養子となり分家した(通称:向大橋家)。 かって東京に遊学して英語を学び 、また経済に明るく、新知識を身につけていた澤三郎(当時26歳)は、小松原慶太郎(当時24歳)、木村利太郎(当時26歳)と相携えて、「知識交換会」を結成。