新貝 正勝(しんがい まさかつ、1944年2月4日 - )は… 新貝 正勝(しんがい まさかつ、1944年2月4日 - )は、日本の元政治家、官僚。元大分県中津市長。元・防衛研究所長。
大分県 中津市:112人
新貝 正勝(しんがい まさかつ、1944年2月4日 - )は… 新貝 正勝(しんがい まさかつ、1944年2月4日 - )は、日本の元政治家、官僚。元大分県中津市長。元・防衛研究所長。
今沢 哲男(いまざわ てつお、1940年8月17日 - )は… 今沢 哲男(いまざわ てつお、1940年8月17日 - )は、大分県中津市出身の日本のアニメーション演出家、アニメーション監督である。 大分県立中津北高等学校を卒業後、印刷会社社員、専修学校桑沢デザイン研究所を経てアニメ業界入り。 下請けアニメ制作会社の「ハテナプロダクション」にてアニメーション演出家としての第一歩を踏み出した。ハテナプロ解散後は、同プロ時代の同僚である香西隆男が設立したスタジオジュニオ(現:ジュニオ ブレイン トラスト)に移籍し、岡崎稔、永丘昭典らと共に同スタジオを代表する演出家として長く活躍した。 演出を手掛けた代表的なテレビアニメは、『新・巨人の星』、『ムーの白鯨』、『太陽の使者 鉄人28号』、『六神合体ゴッドマーズ』、『キン肉マン』、『超電動ロボ 鉄人28号FX』、『デジモンシリーズ』など。
豊國 範(とよくに すすむ、1937年11月30日 - 20… 豊國 範(とよくに すすむ、1937年11月30日 - 2022年2月23日)は、大分県中津市出身(出生地は滋賀県、もしくは朝鮮民主主義人民共和国平安北道(旧朝鮮平安北道))で時津風部屋に所属した大相撲力士。本名は大塚 範(おおつか すすむ)。最高位は東張出小結(1962年5月場所)。現役時代の体格は176cm、131kg。得意手は左四つ、寄り、突き、押し、内掛け。 大分県立中津南高等学校から中央大学に進学し、同大学の相撲部では、主将を務めるなど活躍した。在学中の1960年、周囲の反対を押し切って、同郷の元横綱・双葉山が率いる時津風部屋に入門。同年5月場所に於いて、幕下付出で初土俵を踏んだ。 学生相撲出身者の角界入りは、紅陵大学(現・拓殖大学)出身の吉井改め吉井山(出羽海部屋、最高位・前頭11枚目)以降も、幾人かあった。
松下竜一(まつした りゅういち、1937年(昭和12年)2月… 松下竜一(まつした りゅういち、1937年(昭和12年)2月15日 - 2004年(平成16年)6月17日 )は、日本の小説家、歌人。大分県中津市出身。大分県立中津北高等学校卒業。主要な作品は、記録文学。初期の代表作は、『豆腐屋の四季』。
石川 才顯(いしかわ わざあき、1935年8月10日 - 1… 石川 才顯(いしかわ わざあき、1935年8月10日 - 1996年11月28日)は、日本の法学者。専門は刑事法。元日本大学法学部教授。大分県中津市出身。 日沖憲郎に師事し、刑事法、特に、刑事訴訟法分野においての業績で著名。その著書、論文は多くの刑事訴訟法学者や法律実務家に影響を与え、立命館大学教授の井戸田侃とともに捜査手続の訴訟的構造化に基づいて、捜査機関の攻撃的捜査活動に対して、被疑者側の防御活動捜査活動を対等なものとして位置づけた。その当事者主義的捜査構造から導かれる捜査訴訟構造説(捜査独自性説)の有力な推進者として知られる。それら研究の集大成である主論文『捜査における弁護の機能』に対しては、慶應義塾大学より博士(法学)の学位が授与された。
鈴木 一郎(すずき いちろう、1934年6月23日 - 20… 鈴木 一郎(すずき いちろう、1934年6月23日 - 2013年3月10日)は、日本の政治家、農林官僚。大分県中津市長(4期16年間)。 大分県中津市出身の医師、鈴木圭吉の長男。圭吉は京都帝国大学卒業後、1939年に杵築市で医院開業。一郎は杵築市で育つ。杵築小学校、杵築中学校から東京都立日比谷高等学校に入学。東京大学法学部を卒業後、1957年農林省入省。水産庁参事官、通産省貿易局農水産課長、構造改善局課長、九州農政局次長、東京営林局長、東北農政局長などを歴任。1987年、中津市長に当選。2003年まで4期16年間、財政再建、教育文化施設の整備、中津港の拡充、ダイハツの誘致などに努めた。ダイハツ九州は中津を本社とし、工場は2004年に操業を開始して雇用を生み出している。
巴 里夫(ともえ さとお、1932年11月22日 - 201… 巴 里夫(ともえ さとお、1932年11月22日 - 2016年7月1日)は、日本の漫画家。本名:磯島 重二(いそじま しげじ)。大分県中津市出身。血液型はO型。 関西大学経済学部在学中の1952年にカバヤキャラメルの景品のオマケ漫画を描く漫画家の募集に応募し作品を描いて収入を得る。 1954年、日の丸文庫『母を呼ぶ歌』で貸本漫画家としてデビュー。1956年に上京し、若木書房の社長の勧めで巴里夫に改名。以後、若木書房より貸本少女漫画を多数発表する。 1965年に初の作品『さよなら三角』(『りぼん』)で雑誌デビュー。以後は『りぼん』などで学園系作品の少女漫画を発表する。1978年頃より集英社の編集者として新人漫画家の育成に携わるようになる。
栗木 安延(くりき やすのぶ、1930年5月8日 - 200… 栗木 安延(くりき やすのぶ、1930年5月8日 - 2002年3月1日)は、日本のマルクス経済学者・歴史学者。専修大学名誉教授。博士(経済学)。 大分県中津市出身。雑貨商の家に生まれる。1944年、旧制大分県立中津中学校(現在の大分県立中津南高等学校・大分県立中津北高等学校の前身)在学中に、熊本陸軍幼年学校に入学した。しかし、敗戦に伴い、陸軍幼年学校は解散し、中津中学校に復学した。中学校卒業後、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)への入学を希望したが、GHQが軍関係の学校に在籍していた者の旧制高等学校入学者に占める割合を制限したため、やむなく1948年、官立明治工業専門学校(現在の九州工業大学)に進学した。
菊池 功(きくち こう、1928年7月9日 - 2006年2… 菊池 功(きくち こう、1928年7月9日 - 2006年2月5日)は、日本の経営者。安川電機社長、会長を務めた。 大分県中津市出身。1956年に慶應義塾大学工学部を卒業し、同年に安川電機製作所(のちの安川電機)に入社した。1978年に取締役に就任し、常務を経て、1985年に社長に就任した。1996年に会長に就任し、1999年には特別顧問に就任。1994年から1996年までに日本電機工業会会長を務めた。 1989年に藍綬褒章を受章。 2006年2月5日心不全のために死去。77歳没。
豊光 重信(とよひかり しげのぶ、1925年9月28日 - … 豊光 重信(とよひかり しげのぶ、1925年9月28日 - 1962年8月6日)は、立浪部屋、時津風部屋(当初は双葉山相撲道場)に所属した元大相撲力士。元若者頭。本名は和間 重信(わま しげのぶ)(旧姓清水)。現在の大分県中津市出身。183cm、84kg。最高位は東十両18枚目。得意技は右四つ、上手投げ。 1941年1月場所に初土俵。1954年3月場所に十両昇進。しかし、連続負け越しで幕下陥落。1957年1月場所に引退し、若者頭に転じた。
濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 199… 濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 1996年6月6日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。大分県中津市出身。 1944年に東京帝国大学第一工学冶金学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。1950年に川崎製鉄に移り、取締役、常務、専務を経て、1986年に副社長に就任し、1990年6月には社長に昇格した。1995年から会長に就任した。 1979年と1981年に大河内賞を受賞した。 1996年6月6日心不全のために死去。71歳没。
大石 泰彦(おおいし やすひこ、1922年7月21日 - 2… 大石 泰彦(おおいし やすひこ、1922年7月21日 - 2014年1月16日)は、日本の経済学者。専門は、近代経済学(厚生経済学・交通問題)。学位は、経済学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京大学名誉教授。元東京大学経済学部長。日本会議代表委員。勲二等瑞宝章受章者。位階は正四位。 大分県中津市生まれ。旧制水戸中学校、旧制水戸高等学校を経て、1943年、東京帝国大学経済学部卒業。 1948年、東京帝国大学大学院特別研究生を退学し、東京大学経済学部助教授に就任。1960年、東京大学経済学部教授に昇任。1969年から1970年まで東京大学経済学部長。1983年、東京大学を退官し、東京大学名誉教授となる。
黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31… 黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31日 - 2023年 〈令和5年〉4月17日)は、日本の実業家。位階は正五位。第一交通産業創業者。 現在の大分県中津市出身。1941年12月に徴兵のため、大分高等商業学校(現:大分大学経済学部)を中退。 終戦後の1960年6月に前身となる、第一タクシー有限会社を創業し、代表取締役社長を務める。 1964年9月に第一通産株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。一地方のタクシー会社であった同社をM&Aなどにより拠点を全国に広げ、8000台を超える全国一のタクシー保有台数を誇る企業グループに成長させた。 1993年4月に現行の第一交通産業株式会社に社名を変更し、2001年6月には娘婿の田中亮一郎が社長に就任したのに伴い、同社の代表取締役会長に就任。
染野 檀(そめの まゆみ、1920年2月25日 - 1994… 染野 檀(そめの まゆみ、1920年2月25日 - 1994年11月12日)は、日本の金属工学者。東京工業大学名誉教授。元鶴岡工業高等専門学校校長。元東京工業大学工学部附属工業高等学校校長。 大分県中津市出身。1944年東京工業大学金属工学科卒業、同助手。1960年工学博士。東京工業大学助教授を経て、1966年東京工業大学教授。1969年鉄鋼,非鉄金属および合金とガスの反応に関する研究により日本鉄鋼協会渡辺義介記念賞受賞。1977年東京工業大学工学部附属工業高等学校校長。1980年長岡技術科学大学教授、東京工業大学名誉教授。同年酸素濃淡電池の高温不均一反応の速度論的研究により日本鉄鋼協俵論文賞受賞。
池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月… 池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月14日)は、元マラソン選手、元日本陸上競技連盟オリンピック代表コーチ。大分県中津市出身で1935年にマラソンの世界記録を打ち立てている。 池中は旧制中津中学校(現在の大分県立中津南高等学校)を経て、1932年東洋大学専門部に入学と同時に東洋大学陸上競技部へ入部、その翌年に東洋大学は東京箱根間往復大学駅伝競走初出場を果たす。1935年には東洋大学予科へ入学、この年に池中は世界記録を樹立する。1937年3月文学部卒。1938年には東洋大学本科へ入学する。この間、箱根駅伝には1933年、1934年、1935年、1936年、1937年、1940年の合計6回出場を果たしている。
横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日… 横松 宗(よこまつ たかし、1913年(大正2年)7月19日 - 2005年10月15日)は、日本の近代中国思想研究者・教育学者。元八幡大学(現九州国際大学)学長。大分県中津市生まれ。魯迅、同郷の福沢諭吉研究の第一人者。 学外の役職として、中津市教育委員長、北九州市家庭教育調査委員長、福岡市中国研究センター理事長、福沢諭吉協会会長、九州大学講師、ケンジントン大学(日本校)客員教授等を務めた。 横松は研究対象である福沢諭吉と魯迅に「近代国家主義思想」と「近代的科学精神」という2つの共通の自己確認があると述べている。これは魯迅が東京に留学した経験等から、ある意味魯迅が福沢に影響され啓発された現れとも論じている。
糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - … 糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - 2001年6月15日)は、昭和から平成にかけて活躍した日本の洋画家。シンガーソングライターの具島直子は孫。 呉服商の三男として、大分県中津市に生まれる。少年時代に骨髄炎を患うが、1927年、画家を志し上京し、川端画学校、前田写実研究所に学ぶ。その後前田寛治写実研究所に転じ、1930年、春陽会展に初入選。 1931年より独立展に出品。この頃からシュルレアリスムの影響を強く受け始め、1939年に福沢一郎、北脇昇、麻生三郎、寺田政明らとともに、美術文化協会の結成に参加。1943年には麻生、寺田、松本竣介、靉光、鶴岡政男、井上長三郎、大野五郎とともに、新人画会を結成。
廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月… 廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月23日 - 2025年〈令和7年〉7月29日)は、日本のスーパーセンテナリアン。大分県中津市在住の長寿の女性。2025年5月21日から死去まで日本最高齢であった。 大分県中津市に生まれた。東京都内の学校で美術を学び、後に広島県内で美術教師として働いた。そこで夫と出会い結婚。夫婦には3人の子供がいる。 老人ホームに入る前は、中津市の自宅で、地元の小学生を対象に書道や絵画の授業を行っていた。 2018年9月に107歳で中津市内最高齢として市長より祝福を受ける。 2021年4月30日には、大分県の最高齢者となる。同年9月17日、大分県知事からも祝福を受けた。
平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 198… 平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 1989年10月26日)は、日本の経営者。富士写真フイルム(現在の富士フイルム)社長を務めた。 大分県中津市出身。1933年に関西学院高等商学部を卒業し、1934年に富士写真フイルムに入社。1954年に取締役に就任し、1964年に常務、1969年6月に専務を経て、1971年6月に社長に就任。1980年5月に会長に就任。 1974年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年10月26日、呼吸不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
熊谷 久虎(くまがい ひさとら、1904年3月8日 - 19… 熊谷 久虎(くまがい ひさとら、1904年3月8日 - 1986年5月22日)は、日本の映画監督。代表作に『蒼氓』 『阿部一族』『上海陸戦隊』などがある。女優の原節子は義妹(妻の妹)である。 大分県中津市に生まれる。大分高等商業学校卒業。1925年に日活入社。大将軍撮影所で田坂具隆の助監督につく。1930年に『恋愛競技場』で監督デビューする。1935年に多摩川撮影所へ移る。1938年に東宝映画へ移籍する。1941年の『指導物語』以降、映画界から離れ、国粋主義思想団体「スメラ学塾」を作り、教祖に近い存在で、学塾内に劇団太陽座を結成する。敗戦前に、九州独立運動を起こし、のち火野葦平の『革命前後』に描かれた。
上田 茂樹(うえだ しげき、1900年7月27日 - 193… 上田 茂樹(うえだ しげき、1900年7月27日 - 1932年4月?)は、日本の社会運動家。日本共産党結成に参加、中央委員を務めたが、地下活動中検挙され、その後の消息は不明。大分県中津市出身。北海道生まれ。 中津藩出身で自由民権運動の闘士だった上田長次郎(のちに戴憲と改名)の八男として北海道で生まれた。官吏となった父の転任によって朝鮮に渡ったが、まもなく大分県中津町(現:中津市)の親戚に預けられ、大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)に進む。 父の事業失敗のため中学を2年で中退し、1917年に上京。昼は横浜のローヤル火災保険会社に働き、夜は正則英語学校で勉強する生活であった。このころから社会主義文献を読み始め、日本社会主義同盟に加盟し、山川均、堺利彦らのML研究会に参加。
大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 -… 大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 - 1990年11月26日)は、日本の歌人。 大分県中津市出身。中津中学校卒業。地元で代用教員をした後、大阪や大連に住んだ。1918年、若山牧水の歌誌『創作』に参加。1922年に静岡県沼津市の牧水宅を訪ね、以降、1928年に牧水が没するまで助手を務めた。そののち改造社に勤務し、大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。1946年、『新道』を創刊、『創作』と合流し選者となった。 牧水の高弟として多数の研究書を執筆し、沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた。 1937年、『東京日日新聞』紙上で萩原朔太郎に短歌を酷評された際に、引用間違いなどを指摘して抗議し、謝罪文を送られている。
伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 19… 伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 1959年3月18日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大分県中津市出身。1920年に東京帝国大学理学部化学科を卒業し、大学院で研究活動をする傍らに福原資生堂に入社した。1930年に資生堂取締役に就任し、専務を経て、1954年6月に社長に就任した。 1957年に藍綬褒章を受章した。 1959年3月18日、脳溢血のためにで死去。63歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 19… 吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 1987年5月1日)は、日本の洋画家。吉田博の妻であり、夫婦ともに洋画家である。 洋画家である吉田嘉三郎と、その妻の吉田るい(英語版)の三女。小学生の頃に上京し、11歳で小山正太郎の画塾不同舎に入門。当時はまだ義兄であった吉田博とともに1903年にアメリカへ渡り、ともに展覧会を開いたことでアメリカ各地で高評価を得た。1907年に文展に入選している。帰国後は、文展や太平洋画会、日本初の女性による洋画団体「朱葉会」などで活躍し、朱葉会では名誉会長を務めた。戦後には油彩画や木版画なども描き、花を題材とした作品などを生み出した。2002年、府中市美術館で「吉田ふじを展」が開催され、翌年には福岡市美術館でも同じ展覧会名の展覧会が開かれた。
池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3… 池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3月24日 - 昭和29年(1954年)3月6日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、元俳優である。日活向島撮影所長を皮切りに、撮影所長を歴任し、やがて太秦発声映画を設立、現在の東宝の創成期に関わった人物として知られる。本名は三治、俳優時代の芸名は澤田 憲、澤田 三治。 1877年(明治10年)3月24日、大分県下毛郡大幡村の村長池永為策の三男として生まれる。兄は隆二で、父の跡を継ぐ。 当初壮士芝居の俳優として活躍。山田九州男(山田五十鈴の実父)の一座にいたこともある。 1910年(明治43年)、33歳を迎え、牧野省三の紹介で横田永之助の横田商会二条城撮影所で、同社製作の映画に出演した。
久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉… 久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉2月3日 - 没年不詳)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家。 1874年、父の久衞と母のテフ子の長男として生まれる。宮永小学校を卒業し、片端中等科(学制改革により卒業時は高等小学校)に進学。1894年(明治27年)、叔父の久恒彌十郎が村長であった豊田村役場の書記に就いた。1902年(明治35年)10月に下宮永の区長に就き、1910年(明治43年)まで務めた。 父の久衞は、旧幕時代には中津藩の硝煙製造を担っていたが、廃藩置県を受けてこれをやめて、線香の製造をはじめた。しかし利益が上がらなかったため、精米製粉業をはじめ、中津町内において米の小売業を営んでいる。
上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年… 上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年3月16日)は、日本の経営者。阪神電気鉄道の開業時に技術者として鉄道の敷設を行い、のちに阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)社長を務めた。 大分県下毛郡中津町(現・中津市)出身。大分中学校卒業後、山陽鉄道に就職し、豊州鉄道に転職。同社は九州鉄道と合併し、そのまま建設部主任として留まる。1903年(明治36年)、阪神電気鉄道に移り三崎省三の部下として阪神間に電気鉄道を敷設。翌1904年(明治37年)に阪神電鉄が開通すると阪鶴鉄道に技師長として招かれ、福知山事務所で路線延長に従事する。同線の国有化によって国有鉄道たる鉄道作業局の技師となり、引き続き福知山建設事務所で線路の測量や設計に携わった。
向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6… 向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1946年(昭和21年)8月12日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 大分県下毛郡津民村(現在の中津市)出身で、幼時に長崎に移住した。愛媛県周桑郡長、警視庁警視・新宿警察署長、長崎県対馬島司、京都市助役などを歴任した。 1920年(大正9年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その間、田中義一内閣で逓信参与官を務めた。
久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年… 久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1950年(昭和25年)5月10日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 豊前中津藩領下毛郡上宮永村(豊田村、中津町を経て現中津市)に生まれる。生家は平凡な農家で、青年期は種物売りや荷馬などで稼いだ。近衛歩兵連隊に入隊し、日清戦争に従軍。帰朝後の1897年(明治30年)1月、福岡県田川郡弓削田村(後藤寺町を経て現田川市)に赴き、田川採炭に入社するが程なくして退職する。他にも採炭会社を転々としたが長く続かず、自ら石炭商を開業。ついで日露戦争に従軍し、帰朝後に採炭業を始めた。
磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(… 磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1939年(昭和14年)10月26日)は、明治期の官僚、実業家、貴族院議員。 豊前国中津生まれ。慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。益田孝と面会し三井物産に入社。北海道炭礦汽船に移り社長に就任。日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。また、1929年(昭和4年)7月1日には貴族院議員に勅選され、研究会に所属して死去するまで在任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) … 佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) - 1944年(昭和19年))は、明治期の鉄道実業家。 豊前国(現・大分県)中津生まれ。藩校進脩館、中津市学校を経たのち慶應義塾を経て郷里中津に帰る。山陽鉄道、豊州鉄道を経たのち日本紡績会社社長となる。その後南海鉄道(現・南海電気鉄道)に転じ副支配人となる。のちに欧米を視察し南海鉄道に改良を加える。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日… 宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1940年(昭和15年)3月1日)は、日本の実業家、酪農家。北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている。 豊後の下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる。生家に伝わる家系図によれば、当初は仙二郎と命名されたが、戸籍簿に誤って「仙太郎」と記入されてしまい、これが本名となった。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年1… 和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。 従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。 豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。 はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に寄食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。
吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年… 吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年9月6日)は、日本の洋画家、教育者。 豊前国下毛郡(現・大分県中津市)で、代々中津藩の御用絵師を務めた晴野家に生まれる。幼少の頃より日本画を学び、中津市学校卒業後、1877年に京都の田村宗立が主宰する明治画学館に入門。 1881年第2回内国勧業博覧会に大分県を代表する洋画家として出品し、同年帰郷して母校中津市学校の助教諭となる。これと時期を前後して吉田家の養子となる。1882年第1回内国絵画共進会、1884年第2回内国絵画共進会に出品。 中津市学校廃止により、1886年上京し、本多錦吉郎の西洋画塾彰技堂に入門するが、同年9月福岡県尋常師範学校の助教諭に着任。
宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年1… 宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。 帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年… 留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年2月19日) - 没年不詳)は日本基督教会の牧師である。 山脇藤吉、ブンの次男として、豊前国中津(現・大分県中津市)に生まれ、留川家の養子になる。留川家の家督を継ぐ。中津藩の儒学の大久庭家塾をへて、1872年(明治5年)より、3年間藩校の修徳館で、英語と数学を学んだ。続いて、1875年(明治8年)秋にヘンリー・スタウトの塾に入り英語を学ぶ。スタウトの家庭礼拝に出て、スタウトから聖書を学ぶ。1876年(明治9年)頃スタウトの影響でキリスト教に入信し、1876年12月25日に長崎一致教会(現・日本基督教団長崎教会)でスタウトから洗礼を受ける。
野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日… 野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日(安政元年1月1日) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の会社役員。多久鉱業、古賀山炭坑各取締役。族籍は福岡県平民。 豊前国下毛郡宮園村(現・大分県中津市耶馬溪町大字宮園)出身。朝吹泰蔵の三男。1864年に野依半七郎の養子となり、1877年に家督を相続する。会社の重役である。住所は佐賀市西田代町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6… 山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6年1月7日)- 1932年(昭和7年)6月9日)は、明治期の実業家、政治家。初名は克己。 豊前国下毛郡中津(現大分県中津市)で、中津藩士・山口広江、デンの長男として生まれた。中津藩儒に学び、1869年(明治2年)慶應義塾に入る。 1873年(明治6年)朝吹英二らと慶應義塾出版局を設立。1874年(明治7年)出版局支店を山口県豊浦郡赤間関(現下関市)に設け、その他呉服店を経営した。1877年(明治10年)西南戦争勃発により戦火に巻き込まれることを恐れで帰郷した。同年、田舎新聞、鶴屋商会の経営に参画。1882年(明治15年)豊州立憲改進党の創立発起人となり、大分県会議員、同常置委員、県会議長を務めた。
須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6… 須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6年1月6日) - 1928年(昭和3年)6月23日)は、明治期の教育者。師範学校校長を歴任。 豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。
山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月… 山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月13日〈嘉永5年5月26日〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日)は、明治期の官僚。内務省初代県治局長、山梨県知事(官選第6代)、三重県知事(官選第4代)、宮内省調度局長、錦鶏間祗候。旧名・賢吾。 豊前国下毛郡諫早村(現大分県中津市三光諫早)出身。山崎直高の長男として生まれる。明治3年6月(1870年)、新政府に出仕し民部省十四等出仕となる。新設の工部省に移り、明治4年9月(1871年)、造船中師に任官。 明治5年2月(1872年)、産業技術調査のためフランスへ出張。ウィーン万国博覧会事務官も務めた。1875年1月に帰国。1877年1月、太政官少書記官となり、さらに同大書記官を務める。
川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年… 川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年) - 明治24年(1890年)1月)は、明治時代の篤志家、自由民権運動家。静岡監獄副典獄(副刑務所長)。政治犯として入獄していた際に金原明善と出会い、後に明善とともに出所者の保護事業に参画し、近代日本における更生保護の発展に寄与した人物として知られる。 1852年(嘉永5年)、中津藩の下級武士の子として生まれる。国学者・水戸学者である渡辺重石丸が主催する私塾・道生館にて、後に国学者となる増田宋太郎らとともに学び、尊王攘夷思想を持つようになる。増田とは終生の盟友であり、明治維新後も自由民権運動に共に携わることとなる。 自由民権運動では増田とともに1874年(明治7年)に政治結社『共憂社』を創設し、1875年(明治8年)には大阪の愛国社会議にも出席していた。
永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - … 永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - 1897年(明治30年)1月28日)は、日本の武士(中津藩士)、自由民権運動家。 中津藩士・永田源右衛門の長男に生まれる。幼名は兼太郎。1871年(明治4年)、藩主奥平昌邁に続いて慶應義塾に入塾した。廃藩置県のため中津市学校の教員となるが、まもなく退任して義塾に戻り1875年(明治8年)卒業。1877年(明治10年)7月から高知の立志学舎に英学教師として派遣され、傍ら自由民権運動に没頭。1880年(明治13年)に愛国社に加わった。愛国志林記者、愛国新誌記者、山陽新報主筆、日本立憲政党新聞記者などを経て1882年(明治15年)には福井の杉田定一に招かれ北陸自由新聞主筆となり、1884年(明治17年)東海暁鐘新報の主筆となり、海南新聞、北陸公論、江湖新聞、東海新報、岡山日報を歴任。
小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) -… 小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) - 1909年(明治42年)4月26日)は、日本最初の歯科医師。豊前国中津(現・大分県中津市)出身。 中津藩甲州流軍学師範役・小幡孫兵衛の長男で、慶應義塾塾長となった小幡篤次郎の従弟。 藩校・進脩館に学び、15歳で元服して藩大砲方に加わり長州戦争で初陣。1869年(明治2年)20歳で上京、叔父・小幡篤次郎を頼って芝新銭座の慶應義塾に入り、さらに同郷出身の医師・佐野諒元について医学を修め、次いで近藤良薫について横浜で外科を習得。 米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学び、1874年(明治7年)医制の公布の後、第1回目の医術開業試験に「歯科」として受験し合格した。
朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年… 朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日) - 大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。王子製紙取締役会長。幼名は萬吉、鐵之助。族籍は大分県平民。短期だが三井財閥のトップである三井合名会社理事長を務めたこともある。 三越社長、帝国生命保険社長を務め、千代田組を創業した朝吹常吉は息子。マリンバ奏者の朝吹英一、フランス文学者の朝吹三吉と翻訳家の朝吹登水子は孫であり(ともに常吉の子)、フランス文学者、詩人の朝吹亮二は曾孫。弟・野依範治の曾孫が2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治である。中上川彦次郎は義兄にあたる。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子は玄孫である。
橋本 雄造(はしもと ゆうぞう、1848年11月5日(嘉永元… 橋本 雄造(はしもと ゆうぞう、1848年11月5日(嘉永元年10月10日) - 1916年(大正5年)9月24日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本又右衛門の二男として生まれる。1872年(明治5年)長崎に移り外国貿易業に従事。運輸業も営む。商号は中津屋。 1894年(明治27年)長崎県会議員に選出され、長崎市会議員、長崎商業会議所議員も務めた。1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙に長崎県長崎市から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任。 1904年(明治37年)6月、長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1911年(明治44年)9月28日まで1期在任した。
三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - … 三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - ?)は、明治期の武士(中津藩士)、恵比寿麦酒会社(恵比寿ビール)支配人。 豊前国中津生まれ。進脩館に入り漢籍を学ぶ。1864年(元治元年)福澤諭吉と共に上京し築地福沢塾(慶應義塾)に入り洋学を修める。1866年(慶応2年)長州征伐が起こると奥平氏と同じく徳川氏に与して参戦。海軍兵学寮の教授となり英学を教授する。1876年(明治9年)東京大学医科大学の事務局に入る。のちに退職し東京府目黒村の副支配人となる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1… 福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1847年 - 1900年)は、日本の教育者、実業家。中津藩士で、旧名は和田慎二郎(慎次郎)。江戸幕府によるイギリス留学(慶応二年幕府イギリス留学生)の際に福澤諭吉により福澤姓に改められて名を英之助とし、諭吉の実弟ではないが対外的に弟となった。東京・築地に童蒙学舎を設けたほか、横浜で貿易商を営んだ。 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)出身。旧名は和田慎二郎(慎次郎)で、兄の和田克太郎と2人兄弟。 1863年(文久3年)初夏に慶應義塾(鉄砲洲時代)に入塾。また、文久2年4月から慶應2年10月まで福澤諭吉に従い、地理書究理書などを研究したとある。
浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) -… 浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) - 1909年(明治42年)11月14日)は、日本の教育者・英語学者・翻訳家。「慶應義塾仮憲法」制定後の初代慶應義塾長をつとめた。 1845年(弘化2年)、豊前中津藩士浜野覚三の子に生まれ、はじめは丑之助と称す。1864年(元治元年)、福澤諭吉帰郷の際、小幡篤次郎ら同藩の子弟五人とともに福澤に伴われて出府、同年6月に慶應義塾に入塾した。卒業後は教員となり、1874年(明治7年)から1878年(明治11年)までの間、中津市学校の校長として赴任した以外は一貫して慶應義塾に教鞭をとった。中津市学校の校長を辞してのち、再び義塾に戻って、1878年(明治11年)ごろから塾長の任についていたが、1881年(明治14年)1月「慶應義塾仮憲法」の制定により改めてそれにもとづいて初代慶應義塾長に選ばれた。