沼田 亮義(ぬまた りょうぎ、1894年5月1日 - 198… 沼田 亮義(ぬまた りょうぎ、1894年5月1日 - 1981年1月15日)は、日本の政治家、僧侶。長野県常盤村村長、長野県仏教会副会長、總持寺顧問などを歴任。号は大安。 長野県下水内郡常盤村 (現飯山市照里)生まれ。旧制世田谷中学卒業。1819年(大正8年)曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。 長崎県の三菱鉱業高嶋炭坑布教師、地方改良布教師、宗務所長、宗会議員、特選議員を経て、長野県遺族会理事、長野市老人クラブ連合会長、長野県保護司会理事、常盤村会議員を歴任。1951年に常盤村村長に就任。總持寺顧問、長野市如法寺33世を務める。
榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - … 榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - 1988年1月6日)は、日本の曹洞宗の僧侶、仏教学者、駒澤大学総長。 1893年に静岡県榛原郡菅山村(現牧之原市)の華厳院、榑林拡道の長男として生まれる。 1915年、曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業し、永平寺で丘宗潭について修行。1918年から1921年には岸沢惟安について修行。 1927年に駒澤大学助手に就任、講師、助教授を経て教授、仏教学部長に。1958年に『道元禅の研究』で駒澤大学文学博士。1968年から75年に駒澤大学総長。76年に名誉教授。73年に曹洞宗権大教正に補任。
桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1… 桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1968年5月2日)は、日本の心理学者、僧侶、第十四代浄楽寺住職。 広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区)の浄土真宗本願寺派浄楽寺住職桐原慈見の長男として誕生する。八木尋常小学校(現広島市立八木小学校)、高宮高等小学校、第四仏教中学(現崇徳高等学校)、旧制第三高等学校を経て1919年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業した。東京帝国大学では日本心理学会の草分けである松本亦太郎に師事して心理学を専攻した。卒業の年に実父が他界し、浄楽寺第14世住職を継ぐが引き続き大学院へ進学する。大学院在院中より倉敷労働科学研究所(現・公益財団法人大原記念労働科学研究所)の設立に貢献した。
箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月… 箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月7日 - 1990年(平成2年)2月6日 )は、天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を戦前満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。 福島県石城郡小名浜町(現・いわき市)に生まれる。出生時の名は箱崎作。 1930年、海難事故に遭い遭難者の菩提を願い比叡山に入る。翌年、大乗院住職、小森文諦の門弟となり、文応を名乗る。 四度加行の満行(1932年)、入壇灌頂履修(1933年)を経て、1934年より回峰修行に入る。1938年10月25日より11月2日の間、断食・断水・不眠・不臥の堂入修行をおこなった。
藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3… 藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3月4日 - 1945年〈昭和20年〉3月16日)は、日本の仏教学者、教育者、僧侶。大正大学文学部教授、立教大学文学部教授。京都・帰命院住職、東京芝・天徳寺住職。近代的な研究手法により、従来から不明瞭な部分が多かった浄土教の歴史解明に深く貢献した。号は摂蓮社心誉常阿。 1892年(明治25年)3月4日、茨城県猿島郡岩井村(岩井町、岩井市を経て、現在の坂東市)に生まれる。 1907年(明治40年)に得度(出家)し、東京・増上寺において堀尾貫務から宗脈・戒脈を授けられる。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大史学科国史学専修を卒業したのち、1921年(大正10年)、同大史料編纂所に史料編纂補助嘱託として入り、のちに史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)まで勤務した。
干潟 龍祥(ひかた りゅうしょう、1892年2月7日 - 1… 干潟 龍祥(ひかた りゅうしょう、1892年2月7日 - 1991年10月13日)は、日本のインド哲学者、僧侶。 福井県遠敷郡雲浜村(現在の小浜市)で小浜藩士であった藤倉政夫の次男として生まれる。初名は末吉。真言宗の僧侶の干潟龍範の養子となり、名を龍祥と改める。 1917年、東京帝国大学文学部哲学科卒。1937年東大講師、1940年、九州帝国大学教授、1950年、九州大学教育学部長。1950年「本生経類の思想史的研究」で東北大学文学博士。1955年に九大を定年退官、名誉教授、福岡女子大学教授、1960年学長、1964年退任。1965年に紫綬褒章、1966年に勲二等瑞宝章受勲。1969年、日本学士院会員。
耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉… 耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉12月2日 - 1970年〈昭和45年〉10月25日)は、日本の実業家、発明家、僧侶。日本溶接界の先駆けとして数々の鉄工所を興し、後半生を耕三寺の建立に捧げた。広島県尾道市名誉市民。出生名、金本 福松(かねもと ふくまつ)。1935年に得度し金本 耕三(かねもと こうぞう)と改名、1956年には耕三寺 耕三と改姓。 耕三は1891年(明治24年)、金本福松として兵庫県神戸市に生まれた。 父親はもと鉄道建設業をしていたが、1893年(明治26年)に福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)に鉄工所を起業する。このとき福松は直方には行かず、母の実家のあった瀬戸内海の生口島(現・尾道市瀬戸田町御寺)に移り住んだ。
中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 19… 中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 1977年1月31日)は、真言宗の僧、インド哲学研究者。 1891年、愛媛県今治市生まれ。旧姓は白石。11歳で得度する。東京帝国大学文学部印度哲学科で学び、1921年に卒業。高楠順次郎に師事した。卒業後は九州帝国大学講師となり、1929年には高野山大学教授、1933年より中国天津日本図書館長、北京大学文学院教授。 戦後日本へ帰国し、1946年より高野山大学教授に復帰。同文学部長、1951年学長を務めた。1952年「ヤーヂユニヤワルキヤ法典の研究」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1958年、密教文化研究所長となる。1964年には再度学長を務める。
清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24… 清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24年〉3月14日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、天台宗の僧、仏教学者、浅草寺貫首。 1891年(明治24年)、群馬県新田郡笠懸村西鹿田(現・みどり市笠懸町西鹿田)の長昌寺住職・林恵順の子として生まれる。幼名・光司。笠懸尋常小学校を経て、県立太田中学校へ進学。1906年(明治39年)清水谷慶順につき得度し、清水谷姓となる。 1915年(大正4年)天台宗大学を卒業。1919年(大正8年)天台宗大学教授となり、1926年(大正15年)の大正大学創設に伴い教授に就任し、1945年(昭和20年)に退任。この間、宮内省職員養成所講師や、比叡山中学校校長も務める。
朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1… 朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗の禅僧。臨済宗円覚寺派管長、円覚寺住職。日本を守る会代表委員、スパイ防止法制定促進国民会議呼びかけ人なども務めた。 静岡県清水市(現在の静岡市清水区)出身。鎌倉・円覚寺住職。臨済宗円覚寺派管長。 32歳の時に日本大学宗教専門部(現存しない)卒。京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。1934年~1942年まで横濱専門学校(現神奈川大学)で倫理学講師を担当、高歯の下駄で鎌倉から通った。その後、駒澤大学教授。 1942年、円覚寺住職。1945年、円覚寺派管長。大戦中は中国や南方で従軍布教をした。
伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月2… 伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月23日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、臨済宗僧侶・仏教学者。 東京・北品川の沢庵宗彭ゆかりの臨済宗春雨寺に生まれる。1912年早稲田大学文学部和漢文学科卒。早稲田第一高等学院教授、高等師範部教授、1942年早大教授。61年定年退任、名誉教授。1941-59年早稲田大学仏教青年会会長。中世文学、仏教文学を教えた。のち春雨寺主管。
多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日… 多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)は、日本の僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を修行。日本への帰国に際して多数の仏典、文献を持ち帰り、斯界の学識経験者として活躍した。 南秋田郡土崎港町旭町(現在の秋田市土崎港)の西船寺の住職の3男として生まれる。家庭が6男2女の子だくさんであまり豊かではなかったため、小学校卒業時から檀家回りをして家計を助ける。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)卒業後、勉学のため京都にのぼり西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。
新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年… 新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年〈明治22年〉9月29日 - 1984年〈昭和59年〉2月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶、書家。雲洞庵四十五世住職。号は無著。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)出身。1911年(明治44年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)7月に第四高等学校を卒業、1917年(大正6年)7月に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。 1918年(大正7年)に雲洞庵四十五世住職に就任、1921年(大正10年)6月に養父で曹洞宗管長の新井石禅に随行してアメリカに渡り、6カ月間、各地を視察、ウォレン・ハーディング大統領に謁見。 1939年(昭和14年)に新潟県仏教各宗代表中支派遣皇軍慰問団団長として中支戦線を巡錫、1942年(昭和17年)に南満州鉄道に招聘されて満州に渡り、各地を行脚、南満州鉄道職員に講演。
海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月2… 海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月21日 - 1961年(昭和36年)1月14日)は、大正・昭和期の冶金学者、僧侶、政治家。衆議院議員、参議院議員、理学博士。 山形県山形市で、浄土真宗本願寺派・明善寺住職、海野覚英の三男として生まれる。1916年(大正5年)東北帝国大学理科大学物理学科を卒業した。 山形県立米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)教諭に就任。1919年(大正8年)農商務省に入省し、製鐵所技手、同技師を歴任。その後、八幡製鉄所研究所員、日本製鐵理事、同研究所調査部長、技術院事務嘱託などを務めた。1935年(昭和10年)鉄炭素の研究で日本学士院賞を受賞した。
塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 -… 塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 - 1971年12月23日)は、天台宗の僧侶、仏教学者。第13代大正大学学長。雅号・一乗子、別名・汲海。 1889年、長野県小県郡神川村(現上田市)に生まれる。1901年、東京浅草寺で得度。天台宗大学(現・大正大学)で学び、1915年に卒業。大谷大学研究科で華厳、唯識、天台宗学を学びつつ、奈良の華厳宗本山東大寺勧学院でも修めた。 1918年より天台宗大中学講師、1927年より大正大学講師となる。研究雑誌「伝教大師研究」を創刊。第2代駒込中学校長・理事長を務めた。1931年より大正大学教授。1951年、同大学学長に就任。1959年に定年退職し名誉教授。
深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1… 深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1968年7月31日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。 奈良県出身。佛教大学(のち龍谷大学)卒、浄土真宗本願寺派。インド留学ののち、1920年仏教大教授。1940年西本願寺勧学。1950年「唯識思想の起源及び発達」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。1955年から米国、カナダ、ハワイの開教区特命布教師。
山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 19… 山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 1979年7月15日)は、曹洞宗の僧侶・禅思想家。駒澤大学総長を務めた。 岐阜県高山市天性寺町生まれ。別名号・鷲峰霊林、仏真宏照禅師。1915年曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。曹洞宗宗学研究生、1918年 - 1925年總持寺宗学研究員。雑誌『禅の生活』の編集主幹となり、講話やラジオ放送に活躍した。1926年世田谷中学校教頭、1938年校長、1941年駒澤大学学監、1942年同大教授、1953年曹洞宗宗学研究所副所長、1960年北米開教総監、1961年「道元禅の基本的性格とその正修行」で駒澤大学文学博士、1964年駒大総長に就任。1968年永平寺副貫首、1975年永平寺75世貫首となる。
夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月… 夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれることもある。戒名は悟真院吟園泰道居士。禅僧としての名は雲水(うんすい)、法号を萠円と称した。
藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)… 藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)12月25日 - 1984年(昭和59年)3月12日)は、日本の中国文学者、真宗大谷派僧侶。 1911年、第三高等学校を卒業。1914年、京都帝国大学中国文学科を卒業。同志社大学教授、同志社女専講師を歴任。僧侶としては西宗寺(京都府京都市下京区)の住職を務めていた。 大正のおわりごろ現地で購入して以来、長年親しんできた中国の李汝珍の小説『鏡花縁』の翻訳を、大学を退官した70歳のとき(1968年)に決意、以後20年以上の歳月を掛けてこれを翻訳し、92歳のとき(1980年)これを出版した。
本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10… 本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉7月29日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 京都出身。旧姓は桐山。幼名は伝次郎。1914年京都帝国大学文科大学印度哲学科卒。1929年京都帝大文学部講師、1934年「印度学方法論より観たる法華経」で文学博士、同年助教授、1935年教授。1948年定年退官、名誉教授、立正大学教授、稲沢女子短期大学(愛知文教女子短期大学)教授、印度文化研究所所長。京都の慈雲院、宝塔寺の住職をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日… 衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日 - 1958年10月13日)は、日本の仏教学者・曹洞宗僧侶。学位は、文学博士。駒澤大学総長(1953年就任)。近代曹洞宗の宗学の確立に尽力。号は不喚。 大分県宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身。雲栖寺・雪洞明につき得度、心月院(兵庫県)にて弘津説三に嗣法して大応寺(山口県)住職となる。1904年曹洞宗大学(現:駒澤大学)、1912年京都帝国大学文学部印度哲学科卒業。曹洞宗大学教授として1921-24年英国、フランス、ドイツに学び、帰国後に駒澤大学教授。1928年京都市安泰寺住職。1937年学寮「道憲寮」を創立。 1944年「宗祖としての道元禅師」で京都大学より文学博士の学位を取得。
亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1… 亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。 1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。
浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 194… 浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 1948年7月25日)は、日本の教育者、浄土真宗僧侶、旧制成蹊高等学校初代校長。旧制姫路高等学校校長、第七高等学校造士館校長、山口経済専門学校校長等も歴任した。 愛媛県越智郡小西村(後の大西町、現今治市の一部)大字脇生まれ。同地の明専寺(浄土真宗)住職であった浅野聖諦の長男。旧制松山中学校(愛媛県立松山東高等学校の前身)を1907年に卒業後、第一高等学校を経て、1914年7月に東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1914年12月7日、文部省教育調査会嘱託となる。1917年5月、アメリカ領ハワイ(布哇)における通俗教育に関する状況調査を嘱託され、またホノルル市にある布哇中学校と布哇高等女学校の教諭に任命される。
石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1… 石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1月21日 - 1973年〈昭和48年〉1月17日)は、静岡県出身の昭和期の実業家、出版者、曹洞宗の僧侶。化学工業新聞社、国際情報社、国光印刷、大法輪閣の創業者。 静岡県小笠郡大須賀町(現、掛川市)に生まれる。1891年、浜岡町新野(現、御前崎市)の想慈院に引き取られる。この頃、可睡斎で日置黙仙禅師に師事。1903年上京。化学工業新聞社社長に就任。科学知識普及協会を設立。1921年、『科学知識』創刊。1922年有限会社国際情報社を設立、『国際写真情報』創刊。1923年『劇と映画』創刊。1924年『国際写真グラフ』『婦人グラフ』創刊。1934年9月『大法輪』創刊。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9… 青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9月28日 - 1956年(昭和31年)11月7日)は、日本のチベット研究者で僧侶。チベット=西本願寺間の交換留学生としてチベットのラサ市に派遣され、ダライ・ラマ13世の教学顧問を務めた。 1886年、浄土真宗本願寺派末寺正福寺(現在の滋賀県高島市)生まれ。京都府立第二中学校から京都仏教大学(現龍谷大学)に入学。在学中の1910年(明治43年)、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査に従事し、1911年(明治44年)、ロンドンで教育事情調査に従事する。同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見し、学僧ツァワ・ティトゥーを日本への留学生として同行する。
影山 堯雄(かげやま ぎょうお、1886年8月10日 - 1… 影山 堯雄(かげやま ぎょうお、1886年8月10日 - 1983年5月22日)は、日蓮宗の僧、仏教史学者。 熊本県人吉市生まれ。1914年日蓮宗大学(現立正大学)卒、1926年日本大学法文学部宗教学科卒。日蓮宗宗学全書編纂委員。日蓮宗大学教授、立正大学教授、日蓮宗学研究所所長。1957年定年退任、名誉教授。1965年「江戸時代における法華教団の布教の研究」で立正大学文学博士。本地院日深上人。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
半田 孝海(はんだ こうかい、1886年6月28日 - 19… 半田 孝海(はんだ こうかい、1886年6月28日 - 1974年9月17日)は日本の天台宗の僧侶、平和運動家。 茨城県水戸市生まれ。10歳で長野県上田市の常楽寺の養子となる。旧制京北中学校、旧制第七高等学校造士館、東京帝国大学文学部心理学科卒卒業。1917年常楽寺住職に就任し、上田自由大学を積極的に支援した。1920年上田蚕糸専門学校講師、1929年天台宗教学部長、同比叡山中学校長、学監などを経て、1950年天台宗大僧正となり、1959年善光寺大勧進副住職を務め、のち名誉貫主なる。また比叡山樹王院住職も務めた。 戦後は平和運動を推進し、1947年から長野県仏教会会長を務め、米軍の浅間山演習場計画には先頭に立ってこれを阻止し、1956年、原水爆禁止日本協議会の代表委員兼長野県協議会長を務めた。
宇佐 玄雄(うさ しずお/げんゆう、1886年4月15日 -… 宇佐 玄雄(うさ しずお/げんゆう、1886年4月15日 - 1957年2月14日)は、日本の臨済宗の僧、精神科医(医学博士)。京都三聖病院の初代院長。森田正馬の弟子で森田療法の実践者。 この頃、倉田百三(この時の体験が『神経質者の天国』になる)を治療 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
藤井 日達(ふじい にったつ/にちだつ、1885年(明治18… 藤井 日達(ふじい にったつ/にちだつ、1885年(明治18年)8月6日 - 1985年(昭和60年)1月9日)は、熊本県阿蘇(現・阿蘇市一の宮町)出身の僧侶。 大分県の臼杵農学校に学び、1903年(明治36年)に臼杵の日蓮宗法音寺にて出家。1912年(大正元年)日蓮宗大学(現在の立正大学)入学。さらに浄土宗大学院、真言宗学林、法隆寺勤学院、真言宗連合大学、臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。 1918年(大正7年)10月、旧満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を、静岡県富士市の田子の浦に建立する。1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)ガーンディーと出会い、非暴力主義に共鳴。
高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 195… 高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 1953年1月9日)は、日本の仏教学者、僧侶である。哲学館(現・東洋大学)で井上円了から仏教学を学んだ後に、智山専門学校校長。大正大学教授。真言宗智山派管長。智積院55世能化。真言宗上品蓮台寺住職となる。仏教学の専門は密教学。
泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 194… 泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 1947年12月28日)は、浄土真宗の僧、仏教学・サンスクリット学者。 三重県津市安濃町安部の円称寺(真宗大谷派)に生まれる。1907年真宗大学卒。1918-19年インド、ヨーロッパに学ぶ。真宗大学教授、大谷大学教授、同図書館長。真宗大谷派学僧。
重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)… 重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)11月18日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、日本の東洋学者・真言宗豊山派僧侶。 愛媛県温泉郡荏原村生まれ。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業。 1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任。1944年9月、定年退官。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した。
羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月… 羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月17日 - 1974年〈昭和49年〉8月13日)は日本の仏教学者、浄土真宗の僧侶。 福井県遠敷郡出身。旧姓・向嶋。号・青浜。1909年京都帝国大学文科大学哲学科を首席で卒業。同大学院を経て副手、1923年講師、1927年助教授、1935年教授。1921年龍谷大学教授を兼ね、1931年大谷大学教授を兼ねる。1934年「西域仏教ノ特徴」で京大文学博士。1936年龍谷大学長。1943年9月京大定年退官。京大、龍谷大、京都女子大学各名誉教授。浄土真宗本願寺派総務。1955年紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受勲。1945年戦後のGHQ指導のもとの教育刷新委員会において教育基本法原案の骨組みを担当した第一特別委員会のメンバー。
安藤 文英(あんどう ぶんえい、1883年7月15日 - 1… 安藤 文英(あんどう ぶんえい、1883年7月15日 - 1958年4月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。駒澤大学教授、總持寺顧問、学校法人総持学園理事長などを歴任。号は哲山。 明治16年、尾張国熱田(愛知県)生まれ。秋野孝道に参道。1910年(明治43年)曹洞宗大学(現: 駒澤大学)卒業。4年間、内地留学生として宗学研究を行う。1910年から可睡斎にて参禅学道。1921年に曹洞宗第一中学林教頭、1926年に同校長。1944年より總持寺監院。駒澤大学教授、神奈川県仏教会顧問、静岡県周智郡大洞院独住八世、崇信寺44世などを務める。 著書に「修証義通解」「永平大清規通解」、共著に「正法眼蔵註解全書」「禅学辞典」など。
稲葉 道意(いなば どうい、1882年(明治15年)8月19… 稲葉 道意(いなば どうい、1882年(明治15年)8月19日 ‐ 1968年(昭和43年)3月20日) は、明治末から昭和期の僧侶、政治家。衆議院議員、真宗大谷派・岐阜信願寺住職。 岐阜県不破郡赤坂村(赤坂町を経て現大垣市)で生まれ、稲葉現意の養子となる。1908年(明治41年)真宗大学(現大谷大学)を卒業。岐阜信願寺住職に就任した。 真宗大谷派宗議会議員、同副議長、同議長を歴任。1937年(昭和12年)教化研究所の初代所長に就任。さらに、真宗大谷派参務、同内務局長、同教学局長を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に岐阜県全県区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
宇井 伯寿(うい はくじゅ、1882年(明治15年)6月1日… 宇井 伯寿(うい はくじゅ、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗僧侶・インド哲学研究者・仏教学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・1921年)。駒澤大学学長、帝国学士院会員、文化勲章受章。 1882年(明治15年)6月1日、愛知県宝飯郡御津町(現・豊川市)に宇井善五左衛門、うい夫妻の五男として生まれる。幼名は茂七。12歳で同郡の曹洞宗の東漸寺の活山卍寿のもとで出家し活翁と号し、伯寿と改名。高等小学校卒業後、小坂井の報恩寺内にあった曹洞宗小学林に入り、さらに合併により愛知中学林(現・愛知中学校・高等学校)に学んだが、ストライキにより1901年(明治34年)退校処分となった。
宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治1… 宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗の僧侶、インド哲学研究者、仏教学者、文学博士。日本学士院会員。本名は茂七(しげしち)。
岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961… 岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961年12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学学長。 明治15年(1882年)4月7日、埼玉県北埼玉郡上会下村(鴻巣市)に生まれる。同村の雲祥寺にて出家。 明治39年(1906年)に曹洞宗大学林(駒澤大学)を卒業し、布教使となり各地を歴訪。世田谷中学(世田谷学園)教頭を経て、大正14年(1925年)に駒澤大学教授に就任。昭和19年(1944年)に『日本禅籍史論』で文学博士となる。 戦後は、昭和22年(1947年)から28年(1953年)まで駒澤大学長となる。 昭和36年(1961年)12月29日に遷化。
今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 19… 今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 1968年12月31日)は、明治-昭和期の僧侶・図書館学者。幼名は市次郎。別号は天瑞・南岳。愛媛県西条町(現在の西条市)出身。 熱心な仏教徒だった母の意向で、西条市にある臨済宗の名刹保国寺の養子となり、同寺を継ぐべく育てられる。西条中学校(現 愛媛県立西条高等学校)卒業後、第五高等学校を経て、1907年に東京帝国大学哲学科倫理学科を卒業。1908年7月同大学大学院修了。 1913年東京市立日比谷図書館の職員となり、1914年には31歳で館長に抜擢され、日本図書館協会副会長に就任する。また、1921年から20年にわたって図書館員教習所講師を務めた。
佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月1… 佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月10日) - 1945年(昭和20年)5月17日、俗名:佐々木栄多)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京美術学校彫刻選科(後の東京芸術大学)を卒業。米国仏教協会(後の米国第一禅堂)を1930年にニューヨークに創設した。アメリカ合衆国での禅宗発展に影響を与えた指月は、米国で生活し指導を行った最初の日本人師家たちの一人である。1944年、米国人ルース・フラー・エヴェレットと結婚した。1945年5月、法嗣を残さずに死去。著名な彼の生徒の一人アラン・ワッツは、1930年代後半に短い間彼の許で学んだ。号は曹溪庵。 1882年、三重県に生まれた。
栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - … 栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - 1953年5月27日)は、真言宗の僧、仏教学者。 香川県三野郡吉津村(現・三豊市)の宮本伝蔵の三男。幼名は伊半太。1891年仁尾村(現・三豊市仁尾町)の不動護国寺栂尾本元について得度、養子となって祥雲と名のる。真言宗連合高等中学卒。1910年高野山大学講師、1921年ヨーロッパ、インドに学ぶ。1924年帰国、高野山大学教授。1945年学長。1947年高野山密教研究所長。
望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1… 望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1967年11月28日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 山梨県出身。旧姓は田中。号・日電秋江。1888年得度。1910年日蓮宗大学林(現立正大学)卒業。研究院に学び内地研究員を経て、日蓮宗大学教授。1926年立正大学教授、文学部長、1944年学長、日蓮宗学研究所長。1952年定年退任、名誉教授。1957年「日蓮教学の研究」で東洋大学文学博士。静岡・富西寺住職、本覚寺住職、東京・宣明院住職、山梨・妙法寺住職。記念として日蓮宗の仏教研究に対する望月学術賞が創設されている。
木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 19… 木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 1930年5月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶(岩手県東慈寺住職)で、インド哲学者・仏教学者。日本における近代仏教学の確立に貢献した。学位は、文学博士。東京帝国大学教授。 1881年に岩手県滝沢村一本木(現在の滝沢市一本木)に、父亀治と母リツの次男として生まれる。幼名二蔵。一家は1984年に大更村(現在の八幡平市大更)へ移り住み、父は当地で酒造業を営む工藤家の家事手伝いを勤めた。1891年に父が亡くなった後、母の労苦を見かねて酒造店で小僧修業していたところ、東慈寺の住職であった十九世村山実定に見込まれて養子となり出家。実定の号である泰山から一字を与えられ、泰賢と称した。
楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9… 楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9日 - 1967年〈昭和42年〉2月25日)は、日本の僧侶、政治家。衆議院議員(1期)。龍谷大学教授。 岐阜県大野郡、のちの揖斐郡大野村(現大野町)出身。1907年、東京帝国大学史学科卒。京都帝国大学大学院に進み、西蔵史を研究する。龍谷大学教授兼図書館長、山東省済南高等師範学校教授、台北高等女学校教諭兼台北高等商業学校教授、台南第二、第一の各高等女学校校長を経て、台湾総督府在外研究員として欧米各国に留学する。帰国後、台北高等学校、台北高等商業学校各教授、台北第一中学校校長を歴任する。仏教更新社を創立、社主となり、月刊紙「更新」を発行した。
金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3… 金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3日 - 1976年〈昭和51年〉10月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。 1881年、新潟県高田の真宗大谷派最賢寺に生まれる。1899年、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。1901年、京都より東京に移転開校した真宗大学(現・大谷大学)予科に入学、初代学長であった清沢満之の影響を受ける。1904年、同卒業。以後、新潟に帰郷し、寺務に従事しつつ処女作『真宗の教義と其の歴史』を執筆。
弘一(こういつ、1880年10月23日 - 1942年10月… 弘一(こういつ、1880年10月23日 - 1942年10月13日)は、中華民国の詩人、禅僧、音楽教育者、芸術教育者。本名は李叔同。又名は李息霜、李岸、李良、譜名は文涛、幼名は成蹊、学名は広侯、字は息霜、別号は漱筒。法名は演音、号は弘一と晩晴老人。仏教徒には「重興南山律宗第十一代祖師」と崇められたという。 1880年、天津に生まれる。祖父は李鋭、父の李世珍は吏部主事。李叔同の親は敬虔な仏教徒だった。 1884年(光緒10年)、5歳の時、74歳の父は病気で亡くなった。 1885年、李叔同は啓蒙教育を受け始めた。 1887年、常雲荘に師事。李叔同は四書五経、金石、書道を勉強し始めた。 1895年、16歳の時、輔仁書院に入学。
植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年〈明治13… 植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年〈明治13年〉8月15日 - 1942年〈昭和17年〉7月20日)は、日本の実業家、政治家、僧侶(僧名は龍山)。衆議院議員(栃木県第1区選出、立憲政友会) 栃木県那須郡、のちの川西町(黒羽町を経て現大田原市)に生まれた。先代植竹三右衛門の二男、植竹三右衛門の弟。1901年(明治34年)高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。1903年、あるいは1911年、分かれて一家を創立した。朝鮮清津港において対支露貿易業を営み、同地日本人会議長、並びに商業会議所会頭に挙げられた。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に栃木県第1区(宇都宮市)から立候補して当選。
大村 桂巌(おおむら けいがん、1880年(明治13年)2月… 大村 桂巌(おおむら けいがん、1880年(明治13年)2月10日 - 1954年(昭和29年)10月2日)は日本の教育者、浄土宗の僧侶。大日本帝国の陸軍士官学校の教授、芝中学校・高等学校の第5代校長、大正大学の第11代学長などを務めた。 1880年(明治13年)2月10日、滋賀県愛知郡葉枝見村三ツ谷(現在の滋賀県彦根市)常光寺住職の父・哲誉上人、母・琴鶴の長男として生まれる。幼名は里磨。里磨は得度となし、桂巌と改名し、浄士宗の中学及び大学を卒業したのち、内地留学生に特選され東京都へ移り明治43年に東京帝国大学哲学科教育学を卒業。その後、陸軍士官学校の教授、芝中学校・高等学校の第5代校長、大正大学の第11代学長などを務めた。
孤峰 智璨(こほう ちさん、1879年8月16日 - 196… 孤峰 智璨(こほう ちさん、1879年8月16日 - 1967年11月1日)は、日本の曹洞宗の僧侶。神奈川県最乗寺住職、總持寺独住18世貫首。俗姓は奥田。号は瑩堂。 明治12年富山県生まれ。1892年13歳で得度、石川県永光寺の孤峰白巌の法をつぐ。1901年から臨済宗円覚寺の釈宗演、長国寺の杉本道山、西宮海青寺の中原南天棒、原劉洲らに師事。1904年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1909年教導講習院卒業。 1905年から千葉泉福寺、長野県頼岳寺、石川県永光寺、神奈川県最乗寺各住職。1928年師家となり、最乗寺専門僧堂長、長野県専門尼僧堂長、曹洞宗総持寺副監院、藍院、副貫首を経て1957年貫首。