柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は… 柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 福岡県立戸畑高等学校から日本大学へ進学。大学時代は主将として活躍した。1961年に大洋ホエールズへ入団したものの、1年限りで引退。
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柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は… 柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 福岡県立戸畑高等学校から日本大学へ進学。大学時代は主将として活躍した。1961年に大洋ホエールズへ入団したものの、1年限りで引退。
森滝 義巳(もりたき よしみ、1938年3月8日- )は、兵… 森滝 義巳(もりたき よしみ、1938年3月8日- )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 史上7人目の完全試合達成者。 兵庫高校では、1955年に春の選抜に出場。2回戦(初戦)で、後に立教大学同期となる浜中祥和のいた若狭高に敗退。同年夏は県予選準々決勝で長田高に敗れる。 1956年に立教大学に進学すると長嶋茂雄・杉浦忠らの2年後輩となる。杉浦卒業後の3年次からは、1学年下の五代友和と投の二本柱として活躍。東京六大学野球リーグで在学8シーズン中、5度の優勝に貢献した。1957年・1958年に全日本大学野球選手権大会連続優勝。1959年の第3回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、日本の優勝に貢献。
米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥… 米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥取県西伯郡大篠津村(現・米子市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。血液型はAB型。 プロ野球歴代2位(達成当時は歴代1位)の949試合に登板し、歴代2位の通算350勝を記録した。通算先発626登板、通算1940失点、通算1659自責点、通算120与敬遠、通算4561被安打の日本記録保持者。 その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれる。 祖父・長次郎は海産物仲買業を営み、『伯耆国実業人名録』(明治37年 (1904年))に載せられていた大篠津の代表的な商人であった。父・雅明は薪炭雑貨商。
近藤 光郎(こんどう みつろう、1938年3月1日 - )は… 近藤 光郎(こんどう みつろう、1938年3月1日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。1967年と1968年の登録名は近藤 瑞郎(こんどう みずお)。
梶本 靖郎(かじもと やすお、1938年2月26日 - )は… 梶本 靖郎(かじもと やすお、1938年2月26日 - )は、岐阜県多治見市出身の元プロ野球選手(投手)。 兄はプロ野球選手の梶本隆夫。本名は「靖郎」だが、プロ野球選手を退いてから「憲史」という名前を使用している。 岐阜県立多治見高等学校から、1956年に兄・隆夫がいる阪急ブレーブスに入団。隆夫(岐阜県立多治見工業高等学校)とは異なる高校に進んだのは、東京の大学に進学することを念頭に置いたためだった。高校では内野手からスタートして強肩を買われて投手に転向したが、選手も少ない進学校で、3年生の全国高等学校野球選手権岐阜大会も初戦で完封負けを喫した。阪急からスカウトを受けての入団は、女手一つで育てた母・すぎ子への恩返しが理由だったという。
高橋 正勝(たかはし まさかつ、1938年(昭和13年)2月… 高橋 正勝(たかはし まさかつ、1938年(昭和13年)2月26日 - )は、三重県出身の元プロ野球選手(投手)。 三重県三重郡菰野町出身。水谷貞雄監督率いる四日市高校では巽一、島田光二の1年後輩になる。1955年にエースとして春季中部大会決勝に進み、岐阜高を降し優勝。同年夏の甲子園三重県予選も勝ち抜き、三岐大会決勝で岐阜商の清沢忠彦に投げ勝って夏の甲子園への出場を決める。大会では準々決勝で西岡清吉、土居章助のいた城東高に完封勝利、準決勝では優勝候補の中京商を破る。決勝は坂出商の岡崎秀智(中大-電電関東)に投げ勝ち4-1で初優勝を飾る。8月には全日本高校選抜チームとして初のハワイ遠征を果たす。同年の神奈川国体は準決勝で立命館高の富永格郎を打ち崩し、決勝は浜中祥和のいた若狭高との接戦を4-3で制しまたも初優勝。
種茂 雅之(たねも まさゆき、1938年2月13日 - )は… 種茂 雅之(たねも まさゆき、1938年2月13日 - )は、静岡県磐田市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。
大木 利男(おおき としお、1938年2月11日 - )は、… 大木 利男(おおき としお、1938年2月11日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(外野手)。
高島 正義(たかしま まさよし、1938年2月7日 - 没年… 高島 正義(たかしま まさよし、1938年2月7日 - 没年不明)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 西南学院高校では、1956年に春季九州大会県予選南部準決勝に進むが修猷館高に敗退。卒業後は門司鉄道管理局に進み、都市対抗などで活躍。この時のチームメートに宮川孝雄がいた。 1960年に東映フライヤーズへ入団。1年目から西園寺昭夫の控え三塁手として起用され、6月からは西園寺の故障もあって26試合に先発出場。その後は一時低迷するが、1963年には準レギュラーとして復帰。1964年は二塁手も兼ね自己最多の124試合に出場、うち32試合に先発する。翌1965年は主に守備固めとして出場、1966年限りで引退。
ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉… ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本のプロレスラー、タレント、元プロ野球選手。本名および旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平()。 日本のプロレス界の史上最大の長身と巨体を持ち、力道山・アントニオ猪木と並んで日本のプロレスそのものを代表する存在である。コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博した。現役時代は、当時の世界最高峰の王座であるNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。全日本プロ・レスリング代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。三条市名誉市民。 リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアがババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)と命名したことに由来する。
種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は… 種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。妻は宮田征典(読売ジャイアンツ同期入団)の姉・鈴子。孫はシンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ。 上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高の義原武敏や境高の米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は1957年に米子鉄道管理局へ入社し、改札の切符切りなどの業務に従事。鉄道関係の略号などに詳しくなったほか、レールの上を走る汽車や貨車の車種を当てる特技も身に付けた。1961年にはクラレ岡山の補強選手として都市対抗に出場し、北海道拓殖銀行との1回戦に登板したが、敗戦投手となっている。
益田 昭雄(ますだ あきお、1938年1月15日 - )は、… 益田 昭雄(ますだ あきお、1938年1月15日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手(投手)。 1970年の「黒い霧事件」にて敗退行為に関与したとして、池永正明らと共に永久追放処分とされた。 山口県立久賀高等学校から社会人野球の山陽特殊製鋼へ進み、1962年の第33回都市対抗野球大会に出場すると2回戦(対日本鉱業日立戦)で石戸四六(日立製作所からの補強選手)と投げ合い完封勝利を収めた。チームは準々決勝まで進出するも東洋レーヨンに敗れた。 同年に読売ジャイアンツへ入団し、1963年に初勝利を含む2勝を挙げる。翌年こそ勝ち星を挙げられなかったが1965年と1966年に4勝を挙げ、1966年の日本シリーズ(対南海ホークス戦)では3勝2敗で迎えた第6戦の先発を任され、皆川睦雄と投げ合い完封勝利を収めた。
浜中 祥和(はまなか よしかず、1938年1月14日 - )… 浜中 祥和(はまなか よしかず、1938年1月14日 - )は、福井県出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 若狭高校では、同期のエース松井武雄を擁し1955年春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では準々決勝に進むが、県尼崎高の今津光男投手に完封を喫する。夏の選手権は、2回戦で立命館の富永格郎投手に抑えられ敗退。同年の神奈川国体は決勝に進むが、エース高橋正勝を擁する四日市高に接戦の末に3-4で敗れ、準優勝にとどまる。 卒業後は立教大学へ進学。長嶋茂雄の2年後輩に当たり、東京六大学野球リーグでは5回優勝。1957年、1958年に全日本大学野球選手権大会連続優勝。リーグ通算37試合出場、126打数33安打、打率.262。
高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - … 高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - 2009年9月5日)は、昭和中期(1960年代前半)のプロ野球選手(外野手)。 東京都神田出身。錦華小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校)で野球を始める。立教高校(現・立教新座高校)では1年生からレギュラーとなり、中堅手として1955年の春の甲子園に出場する。1回戦で坂崎一彦、山本八郎らのいた浪華商に完封負け。浪華商はこの大会に優勝する。同年夏は都予選準々決勝で早実高に敗退した。 1956年立教大学に入学するが、2年生までベンチ入りすらできなかった。2年生時の1957年11月3日立教大学が東京六大学野球の秋季リーグで優勝を決めた日の夜に、高林は前科3犯の窃盗犯を捕獲して、神田警察署から表彰状と賞金500円を受け取る。
坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 20… 坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 2014年1月28日)は、大阪府豊中市出身のプロ野球選手(外野手)。 1953年浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)に入学。投手から野手に転向し、2年生の1954年に右翼手として春の選抜に出場する。2回戦でこの大会に優勝した飯田長姫高のエース光沢毅に抑えられ敗退。翌1955年の春の選抜では「4番打者・中堅手」として出場。チームは順調に勝ち上がり、決勝戦で桐生高校と対戦。桐生高校監督の稲川東一郎は坂崎に対して勝負を避ける選択を取る。坂崎は2打席敬遠されたが、第3打席に桐生高エースの今泉喜一郎は勝負し、その打席で2点本塁打を放つ。結局、浪華商は延長11回にサヨナラ勝ちして、18年ぶり2回目の優勝を飾った。
今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 20… 今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 2009年1月26日)は、昭和期の日本のプロ野球選手。ポジションは捕手、内野手。背番号44。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学卒業。 埼玉県入間郡鶴ヶ島町(現在の同県鶴ヶ島市)出身日本大学鶴ヶ丘高等学校→高橋ユニオンズ・トンボユニオンズ・高橋ユニオンズ→日本大学 高校在学中に高橋ユニオンズの入団テストを受け合格。高校に通学しながらプロ野球選手として活躍する異色の経歴を持つ。現役時代は日本初の300勝投手・スタルヒン投手ともバッテリーを組むが、高校卒業と同時に高橋ユニオンズの球団合併に伴い引退し、日本大学に進学。プロ経験者のため大学リーグではプレーできなかったが、高木時夫(中日)、宮田征典(巨人)らとともに野球部で大学生活を送った。
金沢 宏(かなざわ ひろし、1938年 - )は、山口県出身… 金沢 宏(かなざわ ひろし、1938年 - )は、山口県出身のアマチュア野球選手(投手)。 岩国高校では、エースとして1955年秋季中国大会県予選準決勝に進むが山口高に敗退。翌1956年春季山陽大会では決勝に進出するが、岡山東商に大敗を喫する。同年夏は県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。高校同期に杉本公孝がいた。 早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中2回優勝。1959年春季リーグでは野村徹とバッテリーを組み、1年下の安藤元博との二本柱で活躍。木次文夫、徳武定之らの強力打線の援護もあって、4連覇を続けてきた立大に競り勝ち優勝を飾る。同季のベストナインにも選出された。直後の全日本大学野球選手権大会でも決勝で再試合の末、関学を降し優勝。
五代 友和(ごだい ともかず、1938年 - )は、鹿児島県… 五代 友和(ごだい ともかず、1938年 - )は、鹿児島県出身の元アマチュア野球選手(投手)。 鹿児島玉龍高校では、エースとして1956年春の選抜に出場。2回戦(初戦)で県岐阜商の田中和男に完封を喫する。同年夏は県予選を勝ち抜き東九州大会に進むが、1回戦でエース三浦清弘を擁する別府鶴見丘高に完封負け。 立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは在学中5回優勝、全日本大学野球選手権大会2回優勝。1957年には春秋季連続優勝を経験。長嶋茂雄、杉浦忠らが卒業した1958年も森滝義巳とともに投手陣を支え、リーグ四連覇を果たす。1959年秋季リーグでも早大との優勝決定戦で森滝をリリーフし優勝を飾った。同年の第3回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、日本の優勝に貢献。
畑 隆幸(はた たかゆき、1937年12月24日 - )は、… 畑 隆幸(はた たかゆき、1937年12月24日 - )は、大分県日田市出身のプロ野球選手(投手)である。左投左打。
麻生 実男(あそう じつお、1937年12月17日 - 19… 麻生 実男(あそう じつお、1937年12月17日 - 1991年11月22日)は、広島県福山市出身のプロ野球選手(内野手)。右投げ右打ち。1960年大洋V1戦士の一人で、勝負どころで快打を連発し大洋初優勝に貢献した。
石川 恵也(いしかわ けいや、1937年12月8日 - )は… 石川 恵也(いしかわ けいや、1937年12月8日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。
井石 広一(いいし ひろかず、1937年11月23日 - )… 井石 広一(いいし ひろかず、1937年11月23日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。 赤穂高校から1956年に広島カープへ入団。 1958年に一軍初出場も同年で引退。
牧野 宏(まきの ひろし、1937年11月9日 - 1994… 牧野 宏(まきの ひろし、1937年11月9日 - 1994年1月20日)は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 成田高等学校では投手、五番打者として活躍。1955年夏の県予選、南関東大会で3完封、5本塁打を記録。南関東大会決勝で鴻巣高を延長10回の末に破り、夏の甲子園に出場。甲子園では2回戦(初戦)で津久見高の田中喜八郎と投げ合うが、大差で完封負けを喫する。高校同期に左翼手、四番打者の平山正行(南海)がいた。 法政大学へ進学。エース、中心打者として活躍するが、東京六大学野球リーグは当時、長嶋茂雄、杉浦忠らの立大全盛期であり、法大は優勝に届かなかった。しかし1957年秋季リーグで、シーズン最優秀防御率0.19のリーグ記録を達成。
土井 豊(どい ゆたか、1937年11月1日 - )は和歌山… 土井 豊(どい ゆたか、1937年11月1日 - )は和歌山県那賀郡池田村(現:紀の川市)出身の元プロ野球選手。 1956年に那賀高校から大阪タイガースに入団。当時は貴重な左腕で1958年に20試合に登板し2勝を挙げた。しかし、その後は精彩を欠き1962年高井良一男と共に、飯尾為男・福塚勝哉との2対2の交換トレードで毎日大映オリオンズに移籍。移籍後の登板はほとんどなく、1963年に退団した。
赤井 勝利(あかい かつとし、1937年11月1日 - )は… 赤井 勝利(あかい かつとし、1937年11月1日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手(外野手)。 米子南高校から1957年に広島カープへ入団。 1軍出場は2年目の1試合だけに留まり、1959年に引退した。
五島 道信(ごとう みちのぶ、1937年10月21日 - )… 五島 道信(ごとう みちのぶ、1937年10月21日 - )は、富山県魚津市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。 富山県立魚津高等学校では同僚となる石黒誠作の2年後輩にあたる。卒業後日本カーバイドを経て1956年に近鉄パールスへ入団。翌年は開幕戦から12試合連続「1番・中堅手」でスタメン出場した。また、1959年にも開幕戦に「8番・左翼手」でスタメン出場しており、期待された選手だったが打撃が振るわず、この年限りで引退した。引退後は帰郷して、魚津国際カントリーに勤務。
佐々木 勲(ささき いさお、1937年10月10日 - )は… 佐々木 勲(ささき いさお、1937年10月10日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手(捕手)。
江藤 愼一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 20… 江藤 愼一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 2008年2月28日)は、熊本県山鹿市出身(福岡県北九州市生まれ)の元プロ野球選手(捕手、内野手、外野手)・監督、解説者。「愼」の字を新字体にした江藤 慎一の表記で広く知られる。
江藤 慎一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 20… 江藤 慎一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 2008年2月28日)は、熊本県山鹿市出身(福岡県北九州市生まれ)のプロ野球選手(捕手、内野手、外野手)・監督、解説者。 前妻は元宝塚歌劇団44期生の瀬戸みちる。次女のはやせ翔馬は74期生。プロ野球選手、コーチ、慶大の監督を務めた江藤省三は実弟。 北九州で生まれたが、太平洋戦争による集団疎開で各地を転々とし、幼少時より新聞配達やアイスキャンディー売りなどで家計を助けていた。八幡製鐵で外野手を務めていた父から野球を教わり、捕手となる。小学4年次の1947年に母の郷里である山鹿へ引っ越す。中学進学後の1950年から本格的に野球を始め、4番・捕手として県大会に出場するなど活躍した。
山本 文男(やまもと ふみお、1937年9月20日 - )は… 山本 文男(やまもと ふみお、1937年9月20日 - )は、広島県広島市観音(現西区観音)出身のプロ野球選手、プロ野球審判員で、元セントラル・リーグ審判部長。審判員袖番号は28(1988年初採用から1996年引退まで、2001年以降牧田匡平がつけている。)。
木戸 美摸(きど よしのり、1937年9月18日 - 202… 木戸 美摸(きど よしのり、1937年9月18日 - 2023年12月25日)は、兵庫県加古川市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 兵庫農業短期大学附属高等学校を経て、1955年に読売ジャイアンツへ入団。 2年目の1956年に一軍初登板で3勝を挙げるが、5月20日にで開催された広島戦(広島総合)で巨人に3連敗してイライラしていた熱狂的な広島ファンがスタンドからビール瓶などを投げ込み、マウンドからベンチへ引き上げようとしていた木戸の右足にビール瓶が命中し、膝下を2針縫う負傷をした。 3年目の1957年には17勝7敗で新人の藤田元司と並んでチームの勝ち頭になると共に勝率.708で最高勝率のタイトルを獲得し、防御率2.36でリーグ6位に入った。
小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 202… 小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 2020年1月13日)は、秋田県出身のプロ野球選手(外野手)。左投左打。 秋田高校では1954年、2年生の時にエース青山伍(大映スターズ)を擁し、四番打者、右翼手として第36回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦(初戦)で恵川康太郎のいた三原高に敗退。青山以外のチームメートに高橋捷郎(慶大-東洋レーヨン)がいた。同年の秋季奥羽大会県予選も決勝に進むが、エース嵯峨健四郎を擁する秋田商に惜敗。翌1955年夏は奥羽大会1回戦で岩手高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は立教大学に進む。東京六大学野球リーグでは5度の優勝を経験。4年時の1959年秋季リーグで優勝に貢献し、自身もベストナイン(外野手)に選ばれている。
土居 章助(どい しょうすけ、1937年9月3日 - )は、… 土居 章助(どい しょうすけ、1937年9月3日 - )は、高知県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
阿南 準郎(あなん じゅんろう、1937年9月2日 - )は… 阿南 準郎(あなん じゅんろう、1937年9月2日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
加藤 力雄(かとう りきお、1937年9月1日 - )は、愛… 加藤 力雄(かとう りきお、1937年9月1日 - )は、愛知県蟹江町出身の元プロ野球選手。 松蔭高校では二塁手であったが中京大学準硬式野球部では投手で4番を打ち、1960年に中日ドラゴンズへ入団。1961年に外野手へ転向。1963年引退。
河原 主尚(かわはら きみなが、1937年9月1日 - )は… 河原 主尚(かわはら きみなが、1937年9月1日 - )は、岡山県久米郡久米町坪井出身のプロ野球選手(内野手→外野手)。 岡山県立津山高等学校から、1957年に大阪タイガースにテスト入団。当初は打力を買われて、内野手の入団だったが、やがて強肩に注目が集まり、外野手にコンバートされてウエスタン・リーグに出場するようになった。一軍では打席に経つ事はなかったが、4試合代走で出場した事がある。翌1958年に引退。
後藤 武晴(ごとう たけはる、1937年9月1日 - )は、… 後藤 武晴(ごとう たけはる、1937年9月1日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。 脇町高校から東洋大学を経て1960年に東映フライヤーズへ入団。1軍試合出場は1年目の2試合のみとなり1963年に引退。
菊地 彰穂(きくち あきほ、1937年9月1日 - )は、愛… 菊地 彰穂(きくち あきほ、1937年9月1日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。 八幡浜高校から1956年に大映スターズへ入団。1957年に退団。
竹下 元章(たけした もとあき、1937年8月26日 - 1… 竹下 元章(たけした もとあき、1937年8月26日 - 1985年8月12日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(捕手)。右投右打。 兵庫県立西宮高等学校を卒業。 1956年に広島カープへ入団。 1958年に公式戦初出場を果たすも、田中尊らの壁に阻まれて出場機会には恵まれず。 1961年オフに現役を引退した。 その後は三菱電機グループである指月電機製作所に転職し、同社の北関東営業所に配属されたため群馬県に在住していた。 1985年、第67回全国高等学校野球選手権大会に群馬県代表として出場する東京農業大学第二高等学校野球部在籍の息子・政宏(まさひろ)の応援で阪神甲子園球場へ向かうため、8月12日に羽田発伊丹行の日本航空123便に搭乗し、墜落事故に巻き込まれ死亡。
若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 199… 若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 1998年)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。 東北高校時代は若生智男・若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 1955年に西鉄ライオンズへ入団。 1957年には6月から先発陣の一角となり9勝を挙げ、同年の巨人との日本シリーズでも最終戦の第5戦に先発し、チームの2年連続日本一に貢献。背番号が見えるくらい全身を捻り、下手投げからキレの良い変化球を投げる「ロカビリー投法」で一世を風靡。 1960年には初の2桁勝利となる13勝、同年のオールスターにも選出されるが出場を辞退した。
本田 威志(ほんだ たけし、1937年8月20日 - 201… 本田 威志(ほんだ たけし、1937年8月20日 - 2010年7月27日)は、日本の元プロ野球選手(内野手)。愛知県岡崎市出身。
嵯峨 健四郎(さが けんしろう、1937年8月15日 - 2… 嵯峨 健四郎(さが けんしろう、1937年8月15日 - 2011年11月1日)は、秋田県秋田市上北手出身のプロ野球選手(投手)。 秋田商業高では、エースとして1954年秋季東北大会準決勝に進むが、盛岡商業高に敗退。翌1955年も夏の甲子園県予選を勝ち抜き、奥羽大会に進むが1回戦で盛岡工業高に敗れる。なお、高校時代の1年後輩には、後に大毎オリオンズや阪急ブレーブスなどで活躍する三平晴樹がいた。三平も高校卒業後、嵯峨と同じルートでプロ入りしている(但し、プロでチームメイトになる事は無かった)。 高校卒業後は、社会人野球の日本鉱業日立に入団。1956年の都市対抗野球にエースとして出場、準々決勝に進むが大昭和製紙に敗れる。
前岡 勤也(まえおか きんや、1937年8月13日 - )は… 前岡 勤也(まえおか きんや、1937年8月13日 - )は三重県亀山市出身の元プロ野球選手。旧姓、旧登録名(1958年まで)は井崎勤也(いざき きんや)。
藤本 勝巳(ふじもと かつみ、1937年8月8日 - )は、… 藤本 勝巳(ふじもと かつみ、1937年8月8日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)。
富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 20… 富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 2018年12月20日)は、茨城県出身のプロ野球選手。 土浦第三高校では、エースとして1954年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、水戸一高に惜敗。高校同期に石上滋夫がいる。 1956年に石上とともに南海ホークスへ入団。1年目から一軍で起用され4勝を挙げるが、その後はやや伸び悩む。1960年にはウエスタン・リーグで防御率1位を記録。1961年にも4勝、1962年には自己最多の40試合に登板するが、1964年限りで引退。引退後は日立電線の土浦工場に勤務した。
義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2… 義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2010年)は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。 安来中学校(現在の安来市立第一中学校)から米子東高校に進学。高校再編に伴って野球部員が分散を余儀なくされ戦力が手薄となっていたため1年春から先発投手として起用される。1953年秋季中国大会県予選決勝で境高の米田哲也に投げ勝ち本大会に進むが、準決勝でエース横溝桂を擁する岡山東商に敗れ春の選抜出場を逸する。2年時の1954年には阪神軍でプレー経験がある監督の大橋棣の下、夏の甲子園に出場。1回戦は滝川高に延長11回サヨナラ勝ち。2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。1954年は持病の肋間神経痛のため精彩を欠き、夏の県予選は準決勝で倉吉東高に敗退した。
伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 -… 伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 - 2011年11月30日)は、島根県簸川郡大社町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
田中 喜八郎(たなか きはちろう、1937年7月26日 - … 田中 喜八郎(たなか きはちろう、1937年7月26日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
石井 登(いしい のぼる、1937年7月23日 - )は、岡… 石井 登(いしい のぼる、1937年7月23日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手。
一色 俊作(いっしき しゅんさく、1937年7月22日 - … 一色 俊作(いっしき しゅんさく、1937年7月22日 - 2013年4月24日)は、日本の高校野球指導者。元愛媛県立松山商業高等学校野球部員で、後に監督として愛媛の高校野球の基礎を作った。