一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年… 一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年)6月6日 - 1964年(昭和39年)11月15日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。新竹州知事、台南州知事。 一番ヶ瀬健太郎の子として東京市に生まれる。第六高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)10月に高等試験行政科合格。卒業後、直ちに農商務省に奉職し農務局属となり、1925年(大正14年)5月に大阪府工業組合監督官、1934年(昭和9年)2月に拓務省管理局地方課長を経て、1935年(昭和10年)5月に台湾総督府殖産局農務課長に転じた。
長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2… 長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2日 - 昭和20年(1945年)11月15日)は、大正、昭和期の日本の陸軍軍人。新潟県頸城郡寺野村東山寺(現在の新潟県上越市板倉区)出身。陸士28期・陸大36期。最終階級は陸軍中将。 明治28年(1895年)6月2日、新潟県頸城郡寺野村(現在の上越市板倉区)に三男三女の長男として生まれる。喜一は、明治35年(1902年)4月寺野村立久々野尋常高等小学校に入学、同41年(1908年)同校を卒業し、有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)に入学する。往復四里の道を通学、帰宅後は農業を手伝うなどの努力家であり、周囲からは大変な頑張り屋として知られていた。
佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月… 佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。 1914年(大正3年)に金沢第一中学校(中学校同期には海軍少将中堂観恵(海兵44期)・海軍大佐橘正雄(海兵45期)が在籍した)を卒業し陸軍士官学校へ入学、1917年(大正6年)5月、官報によると第29期を257番/536名の成績で卒業。このクラスからは1番の河村参郎(中将、第224師団長)、3番の有末精三(中将、参謀本部第2部長)、6番の後藤光蔵(中将、第1総軍参謀副長)、11番の鎌田銓一(中将、第2野戦鉄道司令官)、27番の稲田正純(中将、第16方面軍参謀長兼西部軍管区参謀長)、46番の額田坦(中将、陸軍省人事局長)など昭和の陸軍を牽引した多くの人物を輩出している。
有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年(明治28年)5月… 有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年(明治28年)5月22日 - 1992年(平成4年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の長男として生まれる。 上川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を優等(3番/536名)で卒業し、恩賜の銀時計を受けた。同期には、河村参郎、後藤光蔵、稲田正純、鎌田銓一、額田坦、小松光彦、佐藤賢了、寺田雅雄など昭和の陸軍を牽引した将軍を多く輩出している。旭川に衛戍する歩兵第25連隊附としてシベリアへ出征する。 1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)も優等で卒業し、恩賜の軍刀を受けた。
池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月2… 池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月26日 - 1982年(昭和57年)3月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 1895年(明治28年)に鳥取県で生まれた。陸軍経理学校第7期主計候補生として1917年(大正6年)5月18日に優等卒業し、1926年(大正15年)に陸軍経理学校高等科を優等卒業した。同年4月から1929年(昭和4年)5月まで派遣員外学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。1939年(昭和14年)3月9日に陸軍主計大佐に進級し、8月1日に陸軍省経理局建築課長に就任した。1941年(昭和16年)11月に第23軍経理部長に転じて日中戦争に出動した。
大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25… 大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医少将。海軍乙事件により遭難、殉職。 1895年(明治28年)、神奈川県に生まれる。1917年(大正6年)に千葉医学専門学校に在学中のまま海軍軍医学生になる。翌1918年(大正7年)5月、卒業。海軍少軍医となり海軍軍医学校で乙種学生として学び、霧島乗組になる。その後、駒橋、迅鯨、磐手、高雄の軍医長などを歴任する。 1942年(昭和17年)に海軍省医務局第一課長に就任、同年12月に南東方面艦隊軍医長に就任した。 翌1943年(昭和18年)4月連合艦隊司令長官山本五十六らが乗った一式陸攻が敵戦闘機P-38に撃墜される事件があり(海軍甲事件)、大久保は山本らの検死に立ち会った。
島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年… 島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年)4月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍少将。 和歌山県出身。島本熊太郎の三男として生れる。和歌山中学校を経て、1916年11月、海軍兵学校(44期)を95名中6番の席次で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍潜水学校普通科を卒業し、「第28潜水艦」(呂号第五十四潜水艦)に乗り組む。海軍水雷学校高等科で学び、アメリカ駐在、「呂号第五十三潜水艦」艦長、第7潜水戦隊参謀、「呂号第二十七潜水艦」艦長などを経て、1930年11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業。 「伊号第六十潜水艦」艦長、第1潜水戦隊参謀、軍令部員(第3部第5課)、練習艦隊参謀、第2艦隊参謀、海大教官、支那方面艦隊先任参謀を歴任した。
石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月… 石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月24日- 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官、実業家。 石川龍助の長男として、秋田県秋田市に生まれる。札幌中学から東北帝国大学農学科予科にすすみ北海道帝国大学農学部を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾総督府殖産局に奉職する、高等試験行政科に合格。1924年(大正13年)10月、地方理事官に進み、台北州七星郡守に任じ、台北市助役、新竹州内務部地方課長、警務部理蕃課長、台北州警務部長、内務局土木課長、交通局鉄道部長などを歴任した。その後、1942年(昭和17年)7月に陸軍司政長官に任じ、ケドウ州(現インドネシア共和国ジャワ島中部ジャワ州)長官となった。
大林 末雄(おおばやし すえお、1895年〈明治28年〉3月… 大林 末雄(おおばやし すえお、1895年〈明治28年〉3月8日 - 1983年〈昭和58年〉4月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。愛知県宝飯郡佐脇村(のち御津村→御津町、現在の豊川市)上佐脇出身。 旧制愛知県第一中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第94位、卒業時成績順位は96名中第22位。
横井 忠雄(よこい ただお、1895年(明治28年)3月6日… 横井 忠雄(よこい ただお、1895年(明治28年)3月6日 - 1965年(昭和40年)9月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。大分県大分市出身。
岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2… 岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月26日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍中将。 新潟県南蒲原郡三条町(現三条市)出身。旧制新潟県立三条中学校より海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第26位、卒業時成績順位は96名中第13位。海軍砲術学校高等科を卒業後は砲術畑を歩んだ。 1942年4月20日、戦艦「霧島」の艦長に着任し、ミッドウェー海戦、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。第3次ソロモン海戦では米戦艦「ワシントン」、「サウスダコタ」等と乱戦状態になり、舵を損傷した「霧島」は自沈、岩淵は救助され生還した。
川島 四郎(かわしま しろう、1895年(明治28年)2月8… 川島 四郎(かわしま しろう、1895年(明治28年)2月8日 - 1986年(昭和61年)12月3日)は、日本の陸軍軍人、栄養学者。最終階級は陸軍主計少将。農学博士。 京都府出身。東本願寺内陣・川島幸之助の四男として生まれる。京都二中を卒業し、陸軍経理学校に入学。1918年(大正7年)5月、同校(12期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第12連隊付となる。第11師団経理部員、第8師団経理部員、独立守備歩兵第4大隊付兼関東軍経理部員などを歴任。 1927年(昭和2年)5月、経理学校高等科(5期)を卒業した。さらに、員外学生として東京帝国大学農学部農芸化学科に1930年(昭和5年)5月15日まで3年間派遣された。
武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7… 武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7日 - 1966年(昭和41年)8月16日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。地理調査所長を経て初代国土地理院長を務めた。 埼玉県本庄市出身。1915年(大正4年)旧制埼玉県立熊谷中学校卒業後、第八高等学校から大学予科第二部乙類を経て1922年(大正11年)3月31日東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同年9月11日山形高等学校教授に任官(高等官七等)。陸軍工兵曹長を経て、1925年(大正14年)5月18日陸地測量師に任官し陸地測量部付となる。1926年(大正15年)3月31日陸軍工兵少尉に昇進し、1930年(昭和5年)4月1日後備役編入となる。
宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2… 宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。警察官・宮崎岩太郎の長男として生まれる。豊橋中学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第17連隊付となる。陸士予科区隊長などを経て、1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し歩兵第17連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)2月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(外国戦史課)に異動。1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進。
森下 信衛(もりした のぶえ、1895年(明治28年)2月2… 森下 信衛(もりした のぶえ、1895年(明治28年)2月2日 - 1960年(昭和35年)6月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。正しくは、「衛」ではなく旧字体の「衞」である[信頼性要検証]。 愛知県出身。旧制明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)を経て、 1917年(大正6年) 海軍兵学校45期で卒業。戦艦榛名、大和などの艦長を務め、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)では第2艦隊参謀長を務めた。この坊の岬沖海戦時の大和艦長有賀幸作大佐、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将(軽巡洋艦矢矧乗組)とは海兵同期である。数少ない戦艦大和沈没時の生存者であった。 海上幕僚監部装備部長、防衛装備庁長官官房装備官を歴任し、2017年(平成29年)12月に退官した舩木洋海将は孫。
田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月2… 田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月27日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校43期を卒業。席次は95名中42位。1916年(大正5年)12月、海軍少尉に任官。砲術学校高等科で学んだ。1922年(大正11年)12月、駆逐艦「浦風」砲術長。1925年(大正14年)12月、砲術学校教官兼副官を経て、1929年(昭和4年)11月、海軍大学校(甲種27期)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、砲術学校教官、兼水雷学校教官、兼装甲巡洋艦「春日」教官、兼通信学校教官となり、重巡洋艦「青葉」砲術長を経て、1933年(昭和8年)11月、海軍中佐に進級し、連合艦隊参謀、兼第一艦隊参謀に就任。
四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1… 四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1945年8月18日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究者。最終階級は陸軍中将。 京都府山科(現京都市)の旧家(郷士)出身。教員・四手井彦四郎の長男として生まれる。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第23連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を優等で卒業した。 陸軍騎兵学校教官、ドイツ駐在、陸大教官、兼参謀本部員などを経て、1935年(昭和10年)8月から1939年(昭和14年)3月まで侍従武官を務めた。この間、1936年(昭和11年)には、飛行第五連隊で発生した飛行機墜落事故発生の状況実視に遣わせられた。
川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月2… 川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月25日 - 1976年(昭和51年)12月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県出身。農業・川越半之丞の五男として生まれた。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)8月、野砲兵第1連隊中隊長に就任。1926年(大正15年)3月、参謀本部付勤務となり、関東軍幕僚付、第6師団参謀を務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に進級し野砲兵第6連隊大隊長に就任。
辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月1… 辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。 佐賀県出身。商業・辰巳兵三郎の二男として生まれる。佐賀中学校を経て1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。独立守備隊第4大隊付、陸軍歩兵学校付などを経て1925年11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第21連隊中隊長に就任した。
長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年… 長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月… 浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月18日 - 1945年(昭和20年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡大篠村明見(現・南国市明見)出身。浜田正之・礼の四男として生まれた。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業し、1919年(大正8年)11月、同校高等科(25期)を卒業。陸軍工科学校教官などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1925年12月、野砲兵第4連隊中隊長に就任。
長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日… 長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日 - 1978年(昭和53年)12月13日)は、昭和期の大日本帝国海軍軍人。 最終階級は従四位勲二等海軍少将。福井県丹生郡殿下村(現福井市風尾町)出身。長井斎藤別当実盛の後裔と伝える浄土真宗勝鬘寺の長井真応住職の四男。長兄に仏教学者長井真琴博士、三兄に真向法の創始者として知られる長井津がいる。弟の長井洗は陸軍中佐。 東京府立第四中学校を経て、1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。卒業席次は89名中5位(首席は皇族の名誉席次であり、実質上の4位)で、優等生として恩賜品を下賜されている。1918年(大正7年)8月1日、海軍少尉に任官。
高田 利種(たかだ としたね、1895年(明治28年)1月1… 高田 利種(たかだ としたね、1895年(明治28年)1月15日 - 1987年(昭和62年)10月25日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵46期、海大28期。最終階級は海軍少将。戦後は生化学工業株式会社社長。 1895年(明治28年)1月15日、鹿児島県で税務署長・高田利英の二男として生まれる。現在の西之表市出身。京北中学校を経て、海軍兵学校に45期生として入校したが、病気のため留年し1918年(大正7年)11月、46期生として卒業。公的な席次は次席であったが、首席は皇族(伏見宮博義王)の名誉席次であり、実質的には首席である。翌年8月、海軍少尉任官。海軍大学校航海学生として学び、優等で卒業。「第5号駆逐艦(春風 [II])」「野風」の各航海長、横須賀鎮守府付、練習艦隊参謀、「長鯨」航海長などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を次席で卒業した。
浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4… 浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4日 - 1967年〈昭和42年〉10月10日/12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に群馬県太田市鳥山で浅海三津三郎の次男として生まれた。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、陸軍士官学校第29期、陸軍大学校第41期卒業。1938年(昭和13年)12月に北支那方面軍司令部附となり、1939年(昭和14年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1940年(昭和15年)8月に支那派遣軍御用掛となった。1941年(昭和16年)6月に歩兵第76連隊長に転じ、1942年(昭和17年)12月に第39師団参謀長(第11軍)に就任し、中国戦線に出征した。
二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)… 二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)1月3日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。地主・二見元次郎の二男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる。1918年(大正7年)3月から1920年(大正9年)10月までシベリア出兵に出征した。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となる。
広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は… 広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1895年に熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校を1915年に卒業(同級生に中川州男)後、海軍機関学校に進む(第27期)。 海軍機関少尉に任官後は特別演習審判官、海軍艦製本部部員、海軍省教育局局員、海軍大学校教官、海軍技術会議議員などを歴任した。この間、海軍大学校機関学科を卒業している。 1943年に第六艦隊の機関長となり、1945年5月に海軍少将に昇進した。最終ポストは佐世保軍需部長だった。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。1950年に54歳で死去。
池田 純久(いけだ すみひさ、1894年(明治27年)12月… 池田 純久(いけだ すみひさ、1894年(明治27年)12月15日 - 1968年(昭和43年)4月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。東大経済学部で統制経済を研究し、統制派の理論的指導者として知られた。 大分県宇佐郡柳ヶ浦村(柳ヶ浦町、長洲町を経て現宇佐市)で、軍人・池田純孝の長男として生れる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第48連隊付に発令。
谷田 勇(たにだ いさむ、1894年(明治27年)12月14… 谷田 勇(たにだ いさむ、1894年(明治27年)12月14日 - 1992年(平成4年)1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍徳島県。東京府で谷田文衛陸軍中将の二男として生まれる。学習院(現学習院中・高等科)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を優等で卒業。電信第1連隊付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀充用を務め、1930年(昭和5年)8月、工兵少佐に昇進し陸大教官に就任。
中村 勝平(なかむら かつへい、1894年〈明治27年〉12… 中村 勝平(なかむら かつへい、1894年〈明治27年〉12月5日 - 1971年〈昭和46年〉6月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。戦後は終戦連絡事務に尽力し、通称「中村機関」を率いた。 1894年(明治27年)12月5日、富山県東砺波郡五鹿屋村五郎丸(現砺波市五郎丸)で農業を営む父、中村宗平、母、ふしいの三男として生れる。1901年(明治34年)4月五郎丸尋常小学校に入学、出町高等小学校を経て1909年(明治42年)開校したばかりの礪波中学校(現富山県立砺波高等学校)に入学した。1914年(大正3年)9月10日、海軍兵学校45期に入校。1917年(大正6年)11月24日、海軍兵学校を首席で卒業。
大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月… 大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月20日 - 1944年(昭和19年)4月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、「陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした」と指摘している。 1914年(大正3年)、新潟県立長岡中学校(第19回卒業)を経て、1917年(大正6年)、陸軍士官学校(第29期)を卒業した。1927年(昭和2年)、陸軍大学校を卒業(第39期)する。 1936年(昭和11年)二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に駐蒙兵団参謀に転任となる。
成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11… 成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11月18日 – 1938年(昭和13年)10月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大佐。位階勲等功級は正五位勲三等功四級。 佐賀県神埼市において士族成富庄吉(佐賀藩士石井探玄の次男、成富延精の養子)の次男として生まれる。生家は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の重臣で、後に佐賀藩主鍋島氏の家老として活躍した成富茂安の養子安利の子孫にあたる。 陸軍士官学校28期を卒業し、1916年(大正5年)陸軍少尉に任官。陸軍大尉の時、陸軍大学校41期に学び、1929年(昭和4年)席次8位の成績で卒業した。 その後、台湾軍基隆要塞参謀、台湾軍司令部付、歩兵第19連隊付、独立歩兵第1連隊大隊長、陸軍歩兵学校教導連隊大隊長、留守第16師団参謀、同参謀長等を歴任し、満洲事変では、中国熱河省及び呼倫貝爾を転戦し、軍功あり。
矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日… 矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。サイパンで戦死、特進により最終階級は海軍中将。 香川県三野郡桑山村(現 三豊市豊中町)出身。矢野英寛の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校(第8回)を経て、1912年(大正元年)9月9日海軍兵学校第43期に成績順位100名中第58位で入校。秋山門造(最終階級中将)は三豊中学、海軍兵学校ともに矢野の一学年先輩であった。 1915年(大正4年)12月16日96名中第12位の成績で卒業。少尉候補生として1等巡洋艦「磐手」乗組、練習艦隊近海航海に出発した。1916年(大正5年)4月3日帰着。
重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月… 重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月15日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。東京府で重見熊雄陸軍中将の二男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し歩兵第49連隊付となる。同年12月、歩兵少尉に任官した。 1922年(大正11年)2月、陸士予科生徒隊付となり、歩兵第49連隊中隊長、第1戦車隊副官、第1戦車隊付を経て、1932年(昭和7年)2月、独立戦車第2中隊長に発令され第一次上海事変に出動した。
大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1… 大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1日 - 1976年(昭和51年)12月18日)は、日本海軍の軍人。戦艦「大和」第4代艦長。最終階級は海軍少将。 伊集院五郎海軍大将の二男として東京で生まれ、大野義方海軍大佐の養子となる。 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を1912年に卒業後、1916年11月、海軍兵学校(44期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。英国私費留学(オックスフォード大学)、「秋風」「高崎」の各航海長などを経て、1928年12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業。 「神通」航海長、第2遣外艦隊参謀、軍令部第2班第3課・第1班第1課の各参謀、第3艦隊参謀、第1遣外艦隊参謀、第11戦隊参謀、軍令部第1部第2課・第3部第7課・第3部第8課の各部員、支那方面艦隊司令部付などを歴任し、1938年11月、海軍大佐に進級。
石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 … 石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1990年〈平成2年〉7月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1915年(大正4年)、陸軍士官学校第27期卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)、陸軍大学校第39期卒業。 1937年(昭和12年)8月に陸軍士官学校航空兵科教官を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍航空兵大佐に進級。支那事変が勃発すると同年10月に第4飛行団参謀および1939年(昭和14年)1月に第21軍参謀を兼職し、ついで同年5月に第21独立飛行隊長を務めた。翌年、1940年(昭和15年)8月に陸軍航空士官学校教授部長を経て、1941年(昭和16年)10月に陸軍少将に進級。
野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29… 野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、日本の海軍軍人。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に空母・「瑞鶴」艦長として参戦した。最終階級は海軍少将。
佐々木 達治郎(ささき たつじろう、1894年(明治27年)… 佐々木 達治郎(ささき たつじろう、1894年(明治27年)8月25日 - 1973年(昭和48年)10月19日)は、日本の陸軍軍人、物理学者。最終階級は陸軍少将。理学博士。 岡山県西北条郡津山町 (現津山市)出身。佐々木清十郎の長男として生まれる。津山中学校(現岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第13連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。野砲兵第11連隊大隊副官を経て、1919年(大正8年)9月から1922年(大正11年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科で学んで卒業した。
岩崎 民男(いわさき たみお、1894年(明治27年)8月8… 岩崎 民男(いわさき たみお、1894年(明治27年)8月8日 - 1978年(昭和53年)1月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。農業・岩崎孝の長男として生まれる。萩中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1926年(大正15年)3月、陸軍兵器本廠付となり陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。1929年(昭和4年)3月、陸軍技術本部付兼陸軍省官房付に発令され、兵器本廠付(陸軍省調査班)に転じた。
岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 … 岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の編集者、書店主、陸軍軍人。大正から昭和初頭の日本に於いて、民族・民俗学や考古学専門の書店「岡書院」、山岳書専門の「梓書房」を創業、経営。民族学・考古学から山岳・自然関係の名著を、短期間ながら多数出版した。 学術史上の名著となる多くの書籍、雑誌を世に送り出した。南方熊楠を最初に見出し、鳥居龍蔵や新村出の著作を出版するなど、岩波書店と並ぶ良心的な出版人として知られた。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。陸軍中央幼年学校から陸軍士官学校(28期)を経て1916年(大正5年)12月26日に歩兵第60連隊附の歩兵少尉となった。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 194… 井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 1944年7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6… 朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6日 - 1966年(昭和41年)1月27日)は日本海軍の軍人、最終階級は海軍少将。 富山県下新川郡前沢村(現:黒部市前沢)出身。「朝倉豊次著作集」によると、魚津中学に5年間通い、海軍兵学校、陸軍士官学校(28期)ほか二校を受験し、全て合格する。陸士については官報にて確認できた。1916年(大正5年)11月、海軍兵学校(44期)を48番/95名で卒業し、翌年12月に少尉任官。海軍砲術学校高等科で学んだ。駆逐艦「羽風」、潜水母艦「迅鯨」の各砲術長、海兵教官兼監事などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業した。同年12月、第2水雷戦隊参謀となり、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第2課兼第1課)、軍令部部員(第1部第2課兼第2部第3課)を歴任。
中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28… 中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28日 - 1977年(昭和52年)12月22日)は、日本の海軍軍人。海兵43期、海大26期。最終階級は海軍中将。戦時中は特攻作戦を承認し強く推進した責任者でもある。「日本海軍の提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評される一方で、終戦時には部下に「俺は死ぬ係じゃないから」と発言したことでも知られる。 1894年(明治27年)6月28日、長野県諏訪郡豊田村(現諏訪市)で農業・染色を営む父・忠助のもとに生まれる。中澤宗家は代々諏訪藩右筆だったが、明治維新により帰農した。父・忠助は豊田村村長も務めた。旧制長野県諏訪中学校を経て1912年(大正元年)9月9日、海軍兵学校第43期に100名中71番の席次で入校。
山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月… 山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月25日 - 1977年(昭和52年)1月30日)は、日本の陸軍軍人、指揮者、クラリネット奏者。最終階級は陸軍軍楽少佐。陸軍戸山学校軍楽隊長、初代警視庁音楽隊長。 明治27年(1894年)、長崎県壱岐郡香椎村勝本浦(現・壱岐市勝本町勝本浦)に生まれる。大正元年(1912年)陸軍戸山学校軍楽科に入学してクラリネットで軍楽隊生活に入り、大正9年(1920年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科卒業。昭和5年(1930年)からフランスに留学し、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団で軍楽隊の演奏法、指揮法を身につける。その後ドイツにも留学する。
田村 浩(たむら ひろし、1894年(明治27年)5月23日… 田村 浩(たむら ひろし、1894年(明治27年)5月23日 - 1962年(昭和37年)12月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・戸倉。 広島県出身。戸倉浩夫の二男として生まれ、左官職・田村直蔵の養子となる。ホノルル小学校、広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1921年(大正10年)4月から翌年3月まで、東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し野砲兵第6連隊中隊長に就任。
今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月… 今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月15日 - 1977年(昭和52年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 新潟県出身。新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第21連隊付となる。1920年(大正9年)4月、騎兵中尉に昇進した。 1922年(大正11年)2月から10月まで陸軍航空学校操縦学生となる。同年11月、飛行第1大隊付に発令され、1924年(大正13年)11月、下志津陸軍飛行学校教官に異動し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵中尉となる。
綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月1… 綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月18日 - 1980年(昭和55年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・矢野。 大分県出身。農業・矢野黙三郎の息子として生まれ、綾部伝一郎陸軍少佐の養嗣子となる。中学済々黌、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官、騎兵第12連隊付となる。陸軍騎兵学校で学ぶ。1918年8月から翌年7月までシベリア出兵に出動。再度、騎兵学校で学んだ後、1924年11月、陸軍大学校(36期)を首席で卒業した。 騎兵第12連隊中隊長、陸軍省軍務局課員(軍事課)、ソ連駐在、参謀本部員、兼軍令部員、関東軍参謀(作戦主任)、参謀本部課長などを歴任し、日中戦争に騎兵第25連隊長として出征した。
片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12… 片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12日 - 1963年(昭和38年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。旅館業・片岡平八郎の四男として生まれる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 参謀本部付、参謀本部員を経て、1928年(昭和3年)3月、陸軍兵器本廠付となり、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部政治学科で1931年(昭和6年)3月まで聴講した。
柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9… 柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9日 - 1943年(昭和18年)11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 兵庫県加東郡上東条村(現、加東市)森出身。旧制兵庫県立小野中学校を経て海軍兵学校卒業(43期)。アメリカ海兵隊をして「恐怖のタラワ」と言わしめた守備隊司令官である。ただし柴崎自身はアメリカ軍の攻撃初日に戦死し、海軍中将に特別進級している。柴崎の戦死は、司令部があった地下壕を負傷者の治療にあてるために移動している最中であった。このことを知った部下達は、「司令官は我々を助けるために戦死した。司令官のためにも最後まで戦う」と決意した。
秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年〈明治27年〉4月6日… 秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年〈明治27年〉4月6日 - 1949年〈昭和24年〉3月22日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。対ソ諜報を専門とする情報将校として陸軍中野学校初代校長、星機関長、関東軍情報部長を務めた。陸士26期。最終階級は陸軍少将。 1894年(明治27年)4月6日、秋草直右衛門の4男として栃木県足利市に生まれ、幼くして東京の同族・秋草晃の養子となる。1914年(大正3年)、陸軍士官学校26期卒業。陸軍依託学生として東京外国語学校に学び、後にハルピンに留学。参謀本部付、関東軍特務機関に務めるなどして、1933年(昭和8年)、ハルピン特務機関の補佐官となり、諜報活動で活躍し対ソ諜報の第一人者となる。