井上 秀二(いのうえ ひでじ、1876年(明治9年)4月16… 井上 秀二(いのうえ ひでじ、1876年(明治9年)4月16日 - 1943年(昭和18年)4月4日)は、日本の土木技術者。 井上成美海軍大将の実兄。井上秀二の家族関係については、井上成美#親族を参照。 宮城県仙台に生まれる。宮城県尋常師範学校附属小学校、宮城県尋常中学校、第二高等学校を経て京都帝国大学理工科大学土木工学科に進み、1900年(明治33年)に卒業(京都帝大土木工学科 第1期生)。成績優秀で恩賜の銀時計を受けた。 京都帝大を卒業した直後に母校の助教授を短期間務めた後は、教職・研究職に就かず、内務省などの中央官庁の官吏にもならず、「求められればどこにでも行く」フリーランス的な土木技術者として生涯を送った。
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玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25… 玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25日 - 没年不詳)は、日本の技術者、実業家。関西ペイントの創業者。旧姓・花山。 三重県員弁郡中上村(久米村中上、東員村を経て現東員町中上)の花山家に生まれる。のち兵庫県の玉水庄太郎の養子となる。 第三高等学校を経て、1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイントを経て独立。1917年(大正6年)に関西ペイント工業所を創業した。研究施設や工場拡大のための資金調達に窮し、岩井勝次郎を紹介され1918年、岩井商店の援助により関西ペイントを設立する事となる。 援助の代償として経営権を岩井商店に譲渡。
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村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治… 村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治9年)1月1日 - 1957年(昭和32年)12月13日)は、日本の農業技術者、政治家。衆議院議員。旧姓・大道。 京都府何鹿郡吉美村(現綾部市)で大道嘉右衛門の二男として生まれる。1898年、大阪府立農学校を卒業。1899年、村上三郎兵衛の長女のへ の入夫となり村上に改姓した。 農事試験場技手、農事巡回教師兼農事試験場長、県立熊本農業学校教諭を経て、村上農園を設立しその経営を行った。その他、何鹿郡農会長、京都府農会副会長、帝国農会評議員、農地開発営団評議員、何鹿郡畜産同業組合長、同郡米穀同業組合長、同郡養蚕業組合長、京都府養蚕業組合連合会議員を務めた。
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石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 -… 石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 - 没年不明)は、日本および台湾の実業家、技術者、電気工業家。 佐賀県杵島郡住吉村(のち山内村→山内町、現・武雄市)で、石川政右衛門の長男として生まれる。家は代々鍋島氏の藩臣だった。幼時に郷校で学を修め、1889年(明治22年)に上京して欧文成功学館に入って語学を学ぶ。その後、工手学校に入り、芝中学校に転校して卒業した後、高等工業学校に入学して電気科を卒業。東京の三吉電気工場に入って、技師となる。 その後、京都電燈付属工場の主任技師に転じ、さらに横浜電話交換局技師、不二製紐会社電気部技師、横浜ヒーリング商社の主任技師などを経て、明治35年に横浜で電気商社を起こして独力で経営に従事するが不成功に終わり、大阪に出て関西電気商社を設立・経営するがこれもうまくいかなかった。
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伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉… 伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉9月13日 - 1939年〈昭和14年〉8月30日)は、日本の土木技術者。「港湾工学の父」と呼ばれる広井勇の小樽港建設における後継者であり、小樽港をはじめとする北海道の港湾建設に生涯を捧げた。「小樽港の生みの親」といわれる広井と共に「小樽港の育ての親」ともいわれる。出生名は伊藤 長市(いとう ちょういち)。福井県大野郡富田村(後の大野市)出身。 江戸時代は庄屋、明治時代には戸長や村長として地域のために尽くした伊藤家の長男として誕生。少年時代は勉強に励み、学業では地元で右に出る者なしとまでいわれた。 一家の長男が家を継ぐのが当然の時代ではあったが、近代化の進む当時の日本にあって、父は旧来の慣習には囚われず、長男である伊藤に、自分の好きな道へ進むよう告げていた。
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青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6… 青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6日 - 1940年(昭和15年)1月6日)は、日本の技術者、実業家。日本信号創業者。電信・無線・信号・電気事業の分野で幾つもの国家的重責を担った。日産自動車のダットサン(DAT)のAは青山に由来する。 1875年(明治8年)7月6日に岡崎で父・鈴山巌と母・智恵の間に生まれる。愛知県額田郡高等小学校卒業。静岡中学校を中退し、1891年(明治24年)9月に上京して東京郵便電信学校に転校した。1892年(明治25年)に青山家に養嗣子として入籍した。1893年(明治26年)に東京郵便電信学校を首席で卒業し、逓信技手に任ぜられ逓信省電務局に勤務した。
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二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)… 二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)7月1日 - 1951年(昭和26年)8月7日)は、日本の農民・農業技術者。阿片の材料となるケシの日本国内栽培に尽力した。「日本の阿片王」と称された。 大阪府三島郡福井村(現在の茨木市)の出身。旧姓は川端。 20歳頃よりアヘン材料となるケシの栽培に興味を示し、台湾総督府要人の後藤新平のバックアップを得ることに成功、福井村でケシ栽培をはじめる。以後ケシの栽培技術と品種の改良に努め、モルヒネ含有量が従来品種の数倍多い三島種を開発した。 昭和戦前期に日本は満州・朝鮮・内蒙古などの植民地・占領地でケシを栽培してアヘンを製造し、これが軍部の収入源となっていた。
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橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4… 橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4月28日 - 1944年(昭和19年)1月18日)は、愛知県額田郡柱村(現・岡崎市柱)出身の技術者・実業家。 日産自動車、ダットサン、いすゞ自動車の前身である快進社の創立者。 1875年(明治8年)4月28日、愛知県額田郡柱村19番(現・岡崎市柱6丁目)に生まれた。父は橋本斧吉、母はくらであり、増治郎は次男だった。生家は「大橋本」と呼ばれる旧家であり、兄の橋本松次郎は岡崎村会議員や岡崎村長を務めている。 羽根小学校、額田郡高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業すると、1891年(明治24年)に東京工業学校(現・東京工業大学)に入学し、1895年(明治28年)に工芸部機械科を卒業した。
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松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - … 松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚。京阪電気鉄道常務取締役。 広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる。 京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。
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斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月2… 斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月24日 ‐ 1971年(昭和46年)6月13日)は、日本の実業家、技術者。妻・アイ子は白根専一の娘。 元加賀藩家老斯波蕃の次男として石川県金沢市に生まれる。第一高等学校を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学造船科を卒業。同年三菱造船株式会社に入社。長崎造船所所長、三菱造船常務を務め、1934年(昭和9年)、三菱造船と三菱航空機を統合して三菱重工業を発足させその初代会長に就任した。1942年(昭和17年)に三菱重工業会長を退任し、造船統制会会長に就任、1945年(昭和20年)まで務めた。 第二次世界大戦後はGHQにより公職追放[要出典]。
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阪田 貞明(坂田貞明、さかた さだあき、1875年 - 19… 阪田 貞明(坂田貞明、さかた さだあき、1875年 - 1923年9月5日)は、日本の都市計画家、官庁土木技術者。東京出身。1919年から、推されて横浜市市区改正局長に転任、1922年の職制改正により同市初代の都市計画局長就任。また水道課長、水道ガス局長まで兼務し、横浜市の都市計画事業に奉じる。1923年、関東大震災発生後復興の最中に病没。震災の際に都市計画の関連資料も焼失、成果は一部しか日の目をみていない。 京都帝国大学理工科大学土木工学科に第一期生として入学。大学在学時に建設中の八幡製鐵所で土木工事の嘱託。1900年卒業後、内務省入省。第一区(東京)土木監督署に配属、利根川改修工事に従事。1906年、本省土木局勤務。
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近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15… 近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15日 - 1954年〈昭和29年〉1月1日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。工学博士。 逓信省の技官として電気局技術課長心得などを務め、退官後は実業界に転じて電力会社にかかわり大同電力常務取締役、昭和電力副社長に就任した。福井県出身。 福井県福井市出身。1874年(明治7年)12月15日、士族近藤寅之助の長男として生まれる。1896年(明治29年)7月第一高等学校第二部工科を卒業し、次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。同期に日本電気会長を務めた秋山武三郎らがいる。 卒業後は逓信省に入り、電気事業の監督にあたる。
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前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1… 前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1906年4月24日、 英語 Shinpei MaekawaまたはShinpei Mykawa)は、愛知県出身の農業技術者。渡米し、テキサス州の南東部に稲作を導入させた。ヒューストンのMykawaという地域名、ならびにMykawa Roadという道路は彼の名にちなんで命名された。"Mykawa"は当初マエカワと発音させるためのスペリングであったが、米国での発音は“マイカワ”である。 前川は高等商業学校(のちの東京高等商業学校→東京商科大学、現・一橋大学)を卒業した。同校は当時、東京の商業学校の筆頭に位置づけられていた。 1903年、海軍士官だった前川は、翌年開催されたセントルイス万国博覧会日本使節団の一員として渡米した。
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尾形 次郎(おがた じろう、1874年9月15日 - 195… 尾形 次郎(おがた じろう、1874年9月15日 - 1953年9月29日)は、日本の電気技術者、実業家。 福岡藩士尾形喜六の次男として福岡県に生まれる。1892年福岡県立尋常中学修猷館、1895年第五高等学校工科を経て、1898年東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。 1898年三井鉱山に入社、炭鉱坑内の動力を当時主流であった蒸気力から電力に切り替えるための調査と設計を行い、1901年に成し遂げる。その後も電力を応用した多くの設備開発や業務上の改善を推し進め、日本の採炭事業の電化に貢献した。 1909年欧米における電気事業の視察のため派遣され、特に炭鉱に関する電気事業を精査し、1910年帰国しその得た知識をもって数多くの事業の刷新を行った。
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高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5… 高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5月1日 - 1951年〈昭和26年〉4月18日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。 岡山県民・山形和吉の六男として1874年(明治7年)5月1日に生まれる。出身地は岡山県苫田郡津山町(現・津山市)。1878年(明治11年)2月高橋家に養子入りし家を継いだ。山口県立山口中学校を経て山口高等学校に入り、1896年(明治29年)7月に卒業。次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。
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森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3… 森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3月22日 - 1934年(昭和9年)1月23日)は、兵庫県出身の日本の土木技術者。大阪築港工事に8年間従事し、鉄桟橋、神戸築港、防波堤の工事にあたった。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)に生まれる。新治郎とちくの次男。5歳で父を亡くす。明治13年に豊岡小学校に入学。学業が優秀だったことから、地元の資産家の援助により東京府尋常中学校に入学する。さらに第一高等中学校に進むが、資産家が事業に失敗したことで、苦学を余儀なくされた。その状況でも帝国大学工科大学土木工学科に進学し、1898年(明治31年)に卒業した。この間の学費は、出身小学校長の弟だった土木技師の沖野忠雄から援助された。
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小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月2… 小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月27日 - 1921年〈大正10年〉3月20日)は、日本の技術者、経営者。兵庫県出身。ダイヤモンド研磨技術を欧州に学び日本に初めて導入し起業した。また日本初となる蓄音機のルビー針など多くの技術を開発した。文芸評論家小林秀雄の父。幼名・豊蔵。 農家の二男として生まれたが、幼少期に出石藩士・小林家の養子となり、兵庫県師範学校を経て、1899年 東京工業学校(後に東京高等工業学校と改称、現東京工業大学)工業教員養成所金工科卒業。同校の教員となり、1903年に文部省の派遣留学生として1年間欧米の金属技術を視察し研究した。 貴金属時計装身具卸売製造の「村松万次郎商店」の顧問を兼ねていたが、1908年に万次郎が死去すると、真珠養殖に成功していた御木本幸吉に乞われて1910年に御木本真珠店貴金属工場長に就任、社命により1911年にベルギーのアントワープのダイヤモンド研磨工場の研修生となり、日本人で初めて宝石用ダイヤモンド原石のカットと研磨技術を習得する。
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小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
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飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 19… 飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 1913年(大正2年)6月10日)は静岡県出身の鉄道技術者。日本統治時代の台湾総督府鉄道部所属の技師(1897年 - 1913年)。 静岡県沼津市で父飯田弘と吉田姓の母の間に生まれる。東京工手学校(現在の工学院大学)に進学し、土木工学を修めた。
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竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
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桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 19… 桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 1931年4月10日)は、造船技術者、労働運動家。 宮崎県南那珂郡油津(現・日南市)出身。第一高等学校、東京帝国大学工科大学造船科卒業。小村寿太郎の愛顧を受け、米国・英国で10年間造船学を学ぶ。帰国後、三菱造船所、鳥羽造船所の技師長となる。1919年、第1回国際労働会議に労働者代表として出席したが、政府による代表の選定に対して労働団体から反対運動が起こった(国際労働会議代表反対運動)。娘は桝本セツ。
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前川 貫一(まえかわ かんいち、1873年(明治6年) - … 前川 貫一(まえかわ かんいち、1873年(明治6年) - 1955年(昭和30年))は、日本の河川技術者。建築家前川國男と、日本銀行総裁を務めた前川春雄の父。 滋賀県士族・前川勇夫の長男。1897年(明治30年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省土木局に入り、大阪の第五区土木監督署勤務。1898年、新潟の第三区に転じ、信濃川改修の調査と府県の土木の監督係に従事する。1909年、内務省東京土木出張所に転じ、利根川第三期改修の計画にあたる。1911年、欧米各国へ視察出張。1914年に江戸川、1919年に中川の各改修事務所主任などをつとめる。 1919年、当時の技監である神野忠雄の勧めで内務省を休職、日本水力に入り、建設課長として真名川水力工事にあたったが、翌年、経済不況により会社が解散となる。
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牧 彦七(まき ひこしち、1873年 - 1950年)は、日… 牧 彦七(まき ひこしち、1873年 - 1950年)は、日本の道路技術者。都市計画家。 1873年、大分県に生まれる。1898年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。卒業後台湾の台北県、台南県の技師として赴任。総督府民政長官後藤新平の下で土木課長として淡水渓の改皐、道路建設、都市改良、河川改修など工事を1901年までの3年間担当したが、廃県とともに退官する。 1902年、埼玉県技師となり土木課長就任。その後秋田県に異動。この時期耕地整理に関して用水路の設計に新しい方法を求めるため、東北大学農学部に通って研究、これを解決して県在職中に学位論文を起草。 道路技術者などとして著名だが、この時期までは水理、河川関係の仕事に従事し、埼玉県沈床や秋田県の法枠の改良などに力を尽くしている。
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大石 鍈吉(おおいし えいきち、1873年(明治6年) - … 大石 鍈吉(おおいし えいきち、1873年(明治6年) - 1947年(昭和22年))は、日本の技術者、大日本帝国海軍技師。初代海軍省海軍艦政本部海軍技術研究所研究部長。 1893年東京工業学校(のちの東京科学大学)機械工芸部機械科卒業。1896年大日本帝国海軍横須賀鎮守府兵器工場海軍技手に着任。1900年からイギリスに出張し、1904年に帰国すると海軍技師に就任。1916年海軍経理学校教官兼任。1917年造兵廠製造部長。1923年に海軍艦政本部に海軍技術研究所が設立されると、同研究所の初代研究部長に就任し、海軍艦政本部技術会議会員も兼務した。1924年依願退官、従四位、日本光学工業取締役。1933年退任。
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奥田 助七郎(おくだ すけしちろう、1873年(明治6年) … 奥田 助七郎(おくだ すけしちろう、1873年(明治6年) - 1954年(昭和29年)9月8日)は、日本の土木技術者。1874年(明治7年)生まれの記述もみられる。名古屋港開港の功労者として評価される。 1900年7月京都帝国大学理工科大学土木工学科卒業後、愛知県庁に入庁し、1900年(明治33年)8月(1904年(明治37年)とする記述もみられる)に愛知県土木技師となった。奥田は1906年(明治39年)9月28日、開港前だった名古屋港に報知新聞社主催による博覧会「ろせった丸」を入港させた。これは工事反対者を納得させる目的で、本来四日市港に寄港する予定の同船を呼び込んだものである。1920年(大正9年)には初代名古屋港務所長に就任し、名古屋港の発展に貢献した。
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山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧… 山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧暦)(1872年) - 没年不詳)は、日本、台湾、関東州、満洲の土木技術者。 福岡県士族山路圓の長男として、福岡県糟屋郡箱崎町(現・福岡市東区箱崎)に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年7月第五高等学校工科を経て、1899年3月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1899年7月兵庫県技師となる。1901年台湾台中県土木課長に転じ、同年11月台湾総督府技師を経て、日露戦争終結直後の1905年9月、関東州民政署技師となる。1906年9月、関東都督府が設置されると関東都督府民政部技師兼土木課長に就任。ここで修猷館、五高、東大の後輩でもある倉塚良夫を推薦して参加させ、以後、山路と倉塚が中心となって、関東州の道路、上下水道の築造が推し進められた。
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江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5… 江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5年5月17日) - 1957年(昭和32年)5月7日)は、日本の技術者、実業家。速醸酛の発明者として知られ、「酒聖」「酒造界の大恩人」と賞される。 1872年(明治5年)、新潟県糸魚川に生まれる。新潟師範学校、東京高等工業学校応用化学科(現・東京工業大学)卒業。東京税務監督局、大蔵省醸造試験所、大阪工業大学講師などを歴任。1909年、速醸酛を開発した。大蔵省を退官後、1933年(昭和8年)に江田醸造研究所(後の江田醸造株式会社)を設立。1916年に勲六等瑞宝章、1955年に紫綬褒章を受賞。 没後、日本生物工学会による生物工学奨励賞(江田賞)が創設された。
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岡崎文吉(おかざき ぶんきち、1872年(明治5年)- 19… 岡崎文吉(おかざき ぶんきち、1872年(明治5年)- 1945年(昭和20年))は日本の治水技術者。北海道庁の技師として、石狩川の治水計画の基礎を築いた人物。長男の岡崎一夫は自由法曹団団長を務めた弁護士。 岡山県に士族岡崎壽の長男として生まれる。岡山尋常中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、17歳と年齢をごまかし、15歳で札幌農学校工学科に1期生として入学。授業料免除で学資も給付される校費生として、「港湾工学の父」と称せられる広井勇のもとで学ぶ。卒業後は給費研究生となり、21歳の若さで札幌農学校助教授に就任。1896年(明治29年)、北海道庁の技師に任ぜられる。当時の北海道庁長官北垣国道は排水路を運河として活用することを意識しており、札幌・茨戸間運河(現在の創成川)、花畔・銭函間運河、幌向運河、馬追運河の設計と技術を担当した。
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島 重治(しま しげはる、1872年 - 1959年)は、長… 島 重治(しま しげはる、1872年 - 1959年)は、長崎県出身の日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。内務省土木局第一技術課長、大阪市土木部長・理事、土木学会関西支部長・名誉員。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。 1897年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。大阪市に入り、のちの大阪府知事で農務次官の西村捨三大阪築港事務所長の下に大阪築港に従事する。 1905年に退職。韓国政府に招請され、韓国灯台局長などを務める。 1911年、内務省に入り、新潟土木出張所で信濃川の大河津分水工事、千曲川改修工事に従事した。 1922年、大阪市土木課長に転じた後、関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者となる。
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牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月2… 牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月20日〉 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の鉱山技術者、実業家、教育者。 1871年(明治4年)、大阪府北桃谷町に大坂城詰めの幕臣である士族の牧田虎之丞の次男として生まれる。1895年(明治28年)帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業して三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社した。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、三井財閥の最高指導者であった団琢磨の長女を妻に迎えている。1913年(大正2年)工学博士を取得。 1924年(大正13年)には田中鉱山より経営移譲された釜石鉱山株式会社の会長に就任。
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中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4… 中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4年4月6日) - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和時代の土木技術者、内務技監。 中川吉太郎の弟として大和国葛下郡高田村(現・奈良県大和高田市)に生まれ、1913年(大正2年)分家する。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省し、第1区土木監督署附となり、利根川改修の調査に当たる。 1897年(明治30年)土木監督署技師に転じ、翌年、関宿工営所主任として利根川治水工事に関与。1905年(明治38年)内務技師に進み、東京土木出張所技師となる。1910年(明治43年)から一年間、渡欧し、ドナウ川の鉄門などを視察。
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藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4… 藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1936年1月4日)は、日本の技術者。日本におけるカーバイド製造の祖とされる人物である。 佐賀県出身。藤山種廣の長男として生まれる。弟には機械工学者の田中不二がいる。 1898年に東京帝国大学工科大学電気学科を卒業した。1902年に仙台で野口遵とともにカーバイドの製造に着手した。1908年に欧州から戻り、渡欧中に研究完成した石灰窒素の製造法の特許を取得し、日本窒素肥料を設立し取締役に就任した。1912年に北海道に王子製紙苫小牧工場の隣接地に北海カーバイド工場を設立し、王子製紙の余剰電力でカーバイド、石灰窒素等を生産した。
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範多 龍太郎(はんた りゅうたろう、1871年2月20日(明… 範多 龍太郎(はんた りゅうたろう、1871年2月20日(明治4年1月2日) - 1936年(昭和11年)11月10日)は、日本の商人(範多商会、雑貨貿易商)、実業家、造船技術者。日本の造船の近代化を開拓した。 1871年、イギリス人実業家E・H・ハンターと平野愛子の間に生まれ、平野龍太郎として日本の戸籍に入る。龍太郎は神戸市で育ち、神戸一中、神戸商業講習所を卒業後、ドイツのオーデルキルヘン中学に留学し、さらにスコットランドのグラスゴー大学で造船工学と土木工学を修めて、1893年(明治26年)に帰国した。その直後、係累の途絶えていた範多才助なる戸籍を紹介され、同年12月31日付けで範多姓を継承して、範多龍太郎と改名した。
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濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月… 濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月19日) - 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の技術者、実業家。第3代三菱造船(現三菱重工業)会長を務めた。 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現大村市野田町)で、初代村長一瀬信造の次男として生まれた。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業後、1891年東京工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、三菱合資入社。長崎造船所で「常陸丸」の受注にあたるなどし、同所機械工場支配人を経て、1898年三菱造船所電気主任技師。三菱造船所副長を経て、1917年三菱造船長崎造船所所長。1920年三菱造船常務取締役。1925年三菱造船会長。1931年蔵前工業会理事長。
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三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:187… 三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:1871年2月24日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。 三根正亮は、明治4年1月6日(新暦:1871年2月24日)、福岡県三根幾次の長男として生まれた。1890年(明治23年)福岡県立尋常中学修猷館、1892年(明治25年)7月熊本の第五高等中学校工科を経て、1895年(明治28年)7月帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。大学在学中に京都電気鉄道の設計に関与している。 卒業後はすぐに逓信省へ入省。
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玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治… 玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1946年(昭和21年)12月26日)は、日本の技術者、発明家。 福井県出身。1895年(明治28年)に東京帝国大学工科土木科を卒業した。1898年(明治31年)から足尾銅山に勤務し、銅山で使用されていたイギリス製の空中ケーブルの改良に従事した。1902年(明治35年)に自在運搬器を発明し、1907年(明治40年)に玉村工務所を開設した。同年1907年に有翼抱索子を発明して新型ケーブルを開発した。 1919年と1933年に全国発明表彰の有功賞が授与されている。
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新元 鹿之助(にいもと しかのすけ、1870年9月20日(明… 新元 鹿之助(にいもと しかのすけ、1870年9月20日(明治3年8月25日)- 1949年(昭和24年)3月8日)は、日本の鉄道技師、土木技術者、歌人。台湾総督府鉄道部長。旧姓・福崎、号・松園。 薩摩国鹿児島郡、のちの鹿児島県鹿児島市で、福崎市兵衛の二男として生まれ、新元正兵衛の養子となる。鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校本科から1895年(明治28年)7月、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省して鉄道作業局技手に任官し、のち技師として福島県、静岡県などの保線事務所に勤務して鉄道建設、改良工事に従事した。1897年(明治30年)4月、台湾総督府に転じ、一貫して鉄道技師として台湾での鉄道改良、建設のため測量、建設、改良などに尽力した。
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山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治… 山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治3年8月19日) - 1939年(昭和14年)6月23日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)会長や、日本化成工業(のちの三菱化学、現在の三菱ケミカル)社長を務めた。 鹿児島県生まれ。東京数学院(現東京高等学校)を経て、1897年に東京工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、1900年から1903年まで農商務省海外実業練習生としてブリュッセルのガラス工場に留学した。 農商務省嘱託を経て、1906年東洋硝子技師。1908年旭硝子工務長となり、岩崎俊弥による旭硝子創業に加わり、欧米の調査などを行った。1918年日米板ガラス取締役。旭硝子常務取締役を経て、初代社長の岩崎の死後、1931年から後継として旭硝子取締役会長(第2代社長)を務めた。
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島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日〈明治3年8… 島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日〈明治3年8月7日〉 - 1946年〈昭和21年〉2月17日)は、日本の鉄道技術者。日本機械学会会長(1918年・1923年 - 1924年)。子、孫と三代に渡り鉄道技術者を生んだ。 和歌山県和歌山市出身。実家は代々続く「島喜」という薬問屋。第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部機械工学科)を卒業し1894年に関西鉄道に入社。関西鉄道では、高性能機関車「早風(はやかぜ)」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世する。 1907年に関西鉄道が国有化されると鉄道院に入省し鉄道作業局工作課長。
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三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明… 三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明治3年5月28日)- 1930年(昭和5年)1月31日)は、明治後期から昭和初期の水産技術者、漁業家、政治家。衆議院議員。 豊後国大野郡、のちの大分県大野郡赤嶺村(三重村、三重町を経て現豊後大野市三重町赤嶺)で、三浦喬三の長男として生まれる。1891年(明治24年)法律を学ぶため上京したが、村田保と面会すると日本の水産業振興の重要性を説かれ、水産伝習所(のち東京水産大学、現東京海洋大学)に入学した。1894年(明治27年)水産伝習所を卒業。北海道に渡り水産業の視察、研修を行う。 1896年(明治29年)に帰郷し、大分県庁に入庁して大分県技手、同県水産試験場長、同水産試験業技師、大分県技師、勧業課長などを歴任し、水産業、特に遠洋漁業の振興に尽力した。
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岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年… 岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年11月20日) - 昭和12年(1937年)5月18日)は日本の気象観測技術者。石垣島において気象観測を通じ台風の研究を行った一方、沖縄県八重山地方の生物や民俗、歴史に関する研究も行い、著書などを通じて、それまであまり世に知られていなかった同地を広く世に知らしめた。南方熊楠同様、当時としては珍しい地方に根を下ろした多面的文化人といえる。 号は糸数原主人、袋風荘(たいふうそう)主人、蝶仙、蝶翁。 明治2年10月17日(1869年11月20日)、仙台藩士の子として宮城県仙台市に生まれる。第二高等中学校(現 東北大学)へ入学するも在学中に気象技師を志し中退。
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佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月1… 佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月19日 - 1929年(昭和4年)11月7日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の土木技術者。神戸市技師長を長年務め、布引五本松ダム(日本初の重力式コンクリートダム)・烏原立ヶ畑堰堤・千苅ダムという神戸市の水道事業を支える三つの主要な貯水施設を設計・施工した人物として知られる。神戸の近代水道の礎を、全員日本人の技術陣を率いて完成させた人物として評価されている。 1869年(明治2年)6月19日、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれた。1891年(明治24年)、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 帝国大学卒業の同年(明治24年)、大阪市技師に就任した。
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和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈186… 和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈1868年12月21日〉 - 1921年〈大正10年〉3月15日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。逓信技師を経て実業界に入り名古屋電灯常務などを務めた。子に気象・地震学者の和達清夫がいる。 明治元年11月8日(新暦:1868年12月21日)、和達孚嘉の長男として東京の浅草に生まれる。父・孚嘉は江戸幕府の旗本であったが、明治維新後に移住先の静岡県を振り出しに宮城県や山形県で役員生活を送り、晩年には第5代仙台市長(1907 - 1910年)を務めた人物である。 1889年(明治22年)7月東京の第一高等中学校工学部を卒業したのち、1892年(明治25年)7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省へ入る。
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木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2… 木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・西川。 山城国綴喜郡、のちの京都府綴喜郡田辺村(田辺町を経て現京田辺市)で、西川長次の二男として生まれ、1885年(明治18年)木村艮司の養子となり、1891年(明治24年)4月、家督を相続した。1896年(明治29年)7月、帝国大学農科大学農学科を卒業した。 京都府技師となる。同年8月、京都府農会技師兼幹事となり1908年(明治41年)4月まで在任。この間、京都府立農林学校嘱託教師、京都蚕業講習所嘱託教師、京都府立農事試験場嘱託なども務め、京都府下の農業振興に尽力した。
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丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日)… 丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日) - 1955年〈昭和30年〉1月18日)は、明治時代-昭和初期の土木技術者、工学博士。 1868年(慶応4年)名古屋生まれ、1889年東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。内務省に入り内務技師。仙台、大阪、名古屋の土木監督署で勤務。1900年-1901年に欧米出張(横浜港新港埠頭建設のため)。大蔵省臨時建築部第二課長橫浜支部長、同臨時建築課長などを歴任。この間、木曽川、淀川、最上川の治水事業、横浜、神戸の港湾改良事業などに携わる。1915年、工学博士。1919年、依願免官。同年、日本水力株式会社取締役。1921年、東京市道路局長、河川課長・建築課長事務取扱。
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飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1… 飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1867年11月28日) - 昭和2年(1927年)7月29日)は、日本の実業家、技術者。同志社の教授を経て、ノリタケカンパニーリミテドや、鳴海製陶を創業した。 加賀国大聖寺藩(現石川県加賀市大聖寺町)出身。父は旧大聖寺藩士飛鳥井清。東京工業学校(現東京工業大学)陶器玻璃工科でゴットフリード・ワグネルに師事して青磁を研究し、1890年に卒業後、同志社波理須理化学校(のちの同志社大学理工学部)陶磁器科長・教授等を経て、1896年に森村組に入社し、名古屋支店で洋食器の研究開発に従事。1897年から農商務省海外貿易練習生としてヨーロッパに留学。
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松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応… 松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応3年8月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本の実業家、土木技術者。大倉土木(現・大成建設)常務取締役を勤めた。 塩飽諸島の讃岐国那珂郡廣島(現・香川県丸亀市)に生まれる。工手学校建築科(現・工学院大学)を首席で卒業後、当時の大倉組に入社する。入社後は設計や工事監督を歴任した。日本最初の地下鉄となった東京地下鉄道上野駅 - 浅草駅間(現・東京メトロ銀座線)の起工式では、東京地下鉄道社長の早川徳次らとともに杭を打ち込んだ。次女は彫刻家の高村光雲の三男高村豊周と結婚している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
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三崎 省三(みさき せいぞう、1867年8月22日〈慶応3年… 三崎 省三(みさき せいぞう、1867年8月22日〈慶応3年7月23日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月23日)は、日本の技術者・経営者。阪神電気鉄道代表取締役を務めた。兵庫県氷上郡黒井村出身。 東洋英和学校、成立学舎を経て、1886年12月に渡米。1891年、サンフランシスコのボーイズハイスクールを卒業し、1891年10月にスタンフォード大学へ一期生として入学。翌年、パデュー大学3年生に編入(飛び級)し、1894年6月卒業した。電気工学を専攻し、学士(BME: the degree of Bachelor of Mechanical Engineering)となった。。帰国後は、1894年11月に三吉電機工場に入社し、京都電気鉄道の電車のモーターを製作した。
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笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3… 笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3年4月11日) - 1960年(昭和35年)7月24日)は、日本の技術者、実業家。日本で先駆け的にディーゼル機関を開発し、新潟鐵工所社長や同社会長を務めた。 長州藩士の長男として萩町川島村(現山口県萩市大字川島)に生まれる。父が「士族の商法」で事業に失敗したため中学校に進学する資金がなく、公費で通える山口師範学校(現山口大学教育学部)を1885年に卒業し、船木小学校校長となった。その後叔父の援助などもあり、1892年に東京工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業し、東京石川島造船所へ入社した。 銅ヶ丸鉱山機械課長を経て、1897年日本石油付属新潟鉄工所技師長に就任。
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前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - … 前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - 1931年1月21日)は、日本の電気技術者、実業家。日本電気の共同創業者として知られる。 慶応3年4月11日(グレゴリオ暦1867年5月14日)、前田武平の次男として越後国北蒲原郡堀越村大野地(現阿賀野市)で生まれた。実家は裕福な農家であったが前田は郷里で農業を続けることを望まず、1882年(明治15年)に親に無断で上京し、中村正直の同人社に入塾。親もやがて軟化して遊学を許し、前田は2年後に学業を終えて一度帰郷するが、給費付きの学校である電信修技学校のことを知り、1884年(明治17年)に再び上京、入学した。1887年(明治20年)2月に同校を卒業すると逓信省に入省した。
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