橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月1… 橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月10日 - 没年不明)は、日本の教育者・政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(1期)。 新潟県出身。出生名は市橋喜一。佐渡トキ保護会会長で「トキ博士」の異名を持つ佐藤春雄は実弟。 1931年(昭和6年)に東洋大学文学部を卒業し、陸軍科学研究所に勤務した。橋本家に婿入りし、劇場の橋本座の経営者も務めた。相川町立相川高等女学校や組合立佐渡高等女学校で教諭を務めた。 1949年(昭和24年)2月には両津町加茂村組合立両津高等学校(現・新潟県立佐渡中等教育学校)の校長事務取扱を命じられ、同年6月には両津高校が新校地に移転した。 1950年(昭和25年)に両津町議会議員に当選すると、1952年(昭和27年)には議員選出の両津町教育長に就任し、両津高校の県立移管に尽力した。
原島 鮮(はらしま あきら、1908年(明治41年) 2月1… 原島 鮮(はらしま あきら、1908年(明治41年) 2月18日 - 1986年(昭和61年) 12月26日)は、日本の物理学者、教育者。東京帝国大学理学博士、東京工業大学名誉教授。分かりやすい教科書執筆に定評があり、物性論や統計力学、特に表面張力の研究に取り組んだ[3][4]。旧制第一高等学校、九州帝国大学、東京工業大学、国際基督教大学、東京神学大学で教授を歴任し、東京女子大学では学長を務めた。実子に原島文雄がいる[3]。クリスチャンであり、温厚な人柄で知られた[4]。
小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月… 小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月27日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡松里村上井尻(塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山上井尻)出身。日川中学校(現山梨県立日川高等学校)を経て、1926年(大正15年)山梨県師範学校第2部を卒業した。 南都留郡盛里小学校訓導、旭尋常高等小学校訓導、山梨国民学校教頭、峡東青年学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)松里中学校長に就任。1948年(昭和23年)山梨県教職員組合執行委員長となり、山梨県連合教育会副会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から無所属で出馬して当選。
乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13… 乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13日 - 2000年(平成12年)9月19日)は、日本の教育者(英語・ドイツ語科)、牧師、軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第9代当主。板垣退助の孫。日本福音ルーテル芦屋教会初代牧師。 1908年(明治41年)1月13日、高知県貫属士族・乾正士の長男として、高知県土佐郡潮江村412番屋敷に生まれる。母は、長野県上水内郡柳里村8番地(現・長野県上水内郡飯綱町柳里中宿164番地)高野直作の長女・八重野。父乾正士は板垣退助の次男にあたる。乾姓を称したのは、退助が戊辰戦争の際、乾姓から板垣に復姓したが、旧来の乾姓が無くなるのを惜しみ正士を後嗣の無い分家の土佐藩士・乾正厚の家督を相続させる形で残そうとしたため。
西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年… 西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年)は、長野県の教育者、書家。雅号は秋象(しゅうしょう)。 長野県生まれ。生家の西川豊後守藤原社家は「家学(かがく)」として、代々有職故実、太鼓・鼓・笛・和歌・書などに嗜んできた。 三重県伊勢市の旧制神宮皇學館附属中学(現皇學館中学校・高等学校)在学中から、書を尾上柴舟(書家・歌人、女子学習院《現学習院女子大学》教授)に師事し、18歳で院展入選、書家活動を開始。官立神宮皇学館大学歴史科卒業後、同政教学部卒業。 その間、尾上柴舟の紹介で京都大学・吉澤義則教授の研究室(国文学)に足繁く通い、教えを受ける。北京大学、台北大学などの講師を務める。
佐藤 源治(さとう げんじ、1908年(明治41年) - 1… 佐藤 源治(さとう げんじ、1908年(明治41年) - 1995年(平成7年)6月9日)は、日本の教育者、民俗学者。朝日村名誉村民(現・鶴岡市名誉市民)。栄典は従四位・勲四等・旭日小綬章。
増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1… 増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1986年2月12日)は、日本の国語教育者・国文学者。専修大学名誉教授。 栃木県生まれ。旧制山形高等学校を経て、1931年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業、岡山県吉備商業学校教諭、1932年横須賀中学校教諭、1938年福井師範学校教授、1946年東京府立第五中学校(のち東京都立小石川高等学校)教諭、1949年東京都立日比谷高等学校教諭。1960年東京都教育庁指導部主査。1968年専修大学文学部教授。1978年定年退職、名誉教授、土浦短期大学教授。
桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)… 桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)10月20日 - 1991年(平成3年)12月23日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 長崎県南高来郡、現在の島原市出身。1932年(昭和7年)早稲田大学文学部英文科を卒業。 新潟県立相川高等学校教諭、新潟県立巻高等学校教諭、新潟県立新潟南高等学校教諭などを務めた。労働運動に加わり、新潟県教職員組合執行委員長、新潟県全官公庁労働組合協議会長、日教組北陸協議会会長に就任。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で新潟県第1区から左派社会党公認で出馬して落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙に出馬して初当選し、以後1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
藤原 繁(ふじわら しげる、1907年(明治40年)10月8… 藤原 繁(ふじわら しげる、1907年(明治40年)10月8日 - 1978年(昭和53年)11月2日)は、東京市小石川生まれの教育者。父・藤原保次郎(岡山県議会議長)、母・ゆきの長男として出生。亜細亜大学の前身である興亜専門学校、また、その前身である国士舘専門学校興亜科創立を首唱。実質的創立者。 菊池武夫、岩田愛之助、太田耕造(のちの亜細亜大学初代学長)松尾忠二郎、副島義一(衆議院議員)らとともに大学発展に尽力した。 辞世の句は、「教え子に情けを夢の50年」
高原 博(たかはら ひろし、1907年〈明治40年〉10月 … 高原 博(たかはら ひろし、1907年〈明治40年〉10月 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の教育者、哲学者(カント美学・デューイ教育哲学)、歌人。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 津市立高等女学校教諭、鹿児島県女子師範学校教諭、広島師範学校教授、静岡女子短期大学教授、静岡女子大学文学部教授、短歌個性主宰などを歴任した。 広島県出身の哲学者である。倫理学を専攻するとともに、探求学習に関する研究も手掛けていた。高等女学校や師範学校の教員を経て、静岡女子短期大学、静岡女子大学で教鞭を執り、後進の育成に努めた。歌集をいくつも上梓するなど歌人としても知られており、多くの歌人を育成した。 1907年(明治40年)10月、広島県で生まれた。
上條 信山(かみじょう しんざん、1907年〈明治40年〉9… 上條 信山(かみじょう しんざん、1907年〈明治40年〉9月20日 - 1997年〈平成9年〉2月12日)は、日本の教育者、書家。信山は号で、本名は周一。宮島詠士に師事し、独自の書風を確立。戦後、毛筆書道を学校教育で復活させる必要性を訴え、実現させた。文化功労者。 1907年、長野県東筑摩郡神林村(現松本市)で農家の三男として生まれた。小学生の頃は野球に熱中していたが、小学校担任の影響で書にも関心が向くようになり、秋山白巌の内弟子として2年間指導を受けた。松本教育実業学校を卒業後、訓導として小学校に勤務する一方、師範学校の受験準備も進め、1925年に長野師範学校に入学した[要出典]。師範学校3、4年の時には信濃毎日新聞と長野県が共催する県展に作品を応募し、連続して最高賞を獲得した(特に、4年の時の審査は比田井天来が行っており、審査後の講評において信山の号をつけられた)。
翁長 助静(おなが すけしず / じょせい、1907年(明治… 翁長 助静(おなが すけしず / じょせい、1907年(明治40年)8月25日 - 1983年(昭和58年)2月6日)は、日本の教育者。政治家。沖縄県真和志市(現・那覇市)長。 沖縄県真和志間切(のち島尻郡真和志村→真和志市、現・那覇市)に生まれる。沖縄県立沖縄第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を経て、1926年、沖縄県師範学校本科第二部卒。 沖縄県内の小学校の訓導を経て、1944年、南風原青年学校校長となるが、太平洋戦争は激化する一方で、翁長は妻子を台湾に疎開させた。翌年、米軍上陸による沖縄戦に遭遇し、実父が目の前で被弾し、死亡した。 戦後は小学校校長に復帰し、1948年、真和志村長に当選、1950年に再選したが、選挙の結果更正により、対立候補が当選者となり、村長を失職した。
小尾 乕雄(おび とらお、1907年(明治40年)7月29日… 小尾 乕雄(おび とらお、1907年(明治40年)7月29日 - 2003年(平成15年)2月23日)は、主に昭和時代に活動した教育者である。山梨県北巨摩郡長坂町(現北杜市)出身。 東京都教育委員会教育長、学校法人文教大学学園名誉学園長・学園長・理事長、文教大学(立正女子大学)・文教大学女子短期大学部(立正女子大学短期大学部)学長、財団法人日本青年館理事長、日本私立短期大学協会会長などを歴任する。。長男の小尾圭之介は元日本放送協会解説委員で晩年は乕雄の後を継いで文教大学理事長を務めた。孫の小尾一介は元Google日本法人執行役員などを務めた実業家。 旧制長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、東京高等師範学校、東京文理科大学を卒業。
安部 キミ子(あべ キミこ、1907年〈明治40年〉7月12… 安部 キミ子(あべ キミこ、1907年〈明治40年〉7月12日 - 1996年〈平成8年〉3月8日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(1期)。 山口県大津郡仙崎村(仙崎町を経て現長門市仙崎)で生まれる。仙崎小学校、山口県立深川高等女学校(のち山口県立大津高等学校)、文化服装学院本科を経て、1938年(昭和13年)共立女子専門学校(現共立女子大学)本科を卒業した。同年、防府市立実践女学校教諭に就任。その後、母校の深川高等女学校教諭に転じた。 1946年(昭和21年)深川幼稚園、私立長門文化服装学院を設立して、園長、院長に就任。公選で山口県教育委員に選ばれた。また、日中友好協会理事、原水爆禁止日本協議会幹事、日本アジア連帯委員会常任理事、日朝協会副会長などを務めた。
小林 倭文(こばやし しずり、1907年5月21日 - 20… 小林 倭文(こばやし しずり、1907年5月21日 - 2005年1月17日)は、日本の女性教育者。長野県長野市に本部のある学校法人長野家政学園創設者で、当学園設置の長野女子高等学校初代校長、および長野女子短期大学初代学長を務めた。 長野県更級郡八幡村(現・千曲市八幡)にて、小川今朝治(倭文の後年の回想では「区長のような役を務めていた」とある)と妻の和佐の長女(兄が2人いた)として生まれる。当時の八幡村は、武水別神社の門前として栄えていた。縄文人が植物の表皮を爪ではがして織った倭文織にちなんで倭文(しずり)と名付けられる。 小さい頃より父親より、実践女子大学の創立者下田歌子や共立女子大学の創立者鳩山春子の話を聞いて育ったため、徐々に女子教育に興味を持つようになる。
野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 199… 野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 1993年)は、日本の児童詩人、教育者。 福島県小名浜(現いわき市)生まれ、茨城県平潟町育ち。1928年東京府立青山師範学校卒、29年同専攻科卒、詩人・大関五郎に師事。東京府北多摩郡砧小学校教師、滝野川小学校教諭。小砂丘忠義の『綴方生活』同人。1944年浅草区新堀国民学校教諭、集団疎開、敗戦ののち46年小島小学校教諭、日本作文の会創立に参加。中央区月島小学校長を最後に1968年定年退職。作文、児童詩の指導を行った。「のぐちしげお」とひらがなの筆名を用いた。
力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 19… 力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 1994年9月9日)は、日本の教育者、山口大学第4代目学長。同大学工業短期大学部元学長。専門はドイツ語。 山口県立医学専門学校ドイツ語講師 。 大学紛争時の1969年8月から1970年3月まで山口大学教養部長を務め、その後、学長代行を経て、1971年4月に、2年間空席となっていた学長職に就き、学長として1973年まで務めた。 同大学構内吉田遺跡の調査団長の一人。他に市川禎治、中村正二郎も加わった。同大学工業短期大学部の学長。
仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-199… 仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-1995年2月14日)は、日本の教育者、言語学者、琉球大学名誉教授。
近山 金次(ちかやま きんじ、1907年4月12日 - 19… 近山 金次(ちかやま きんじ、1907年4月12日 - 1975年11月6日)は、日本の歴史学者(古代ローマ史・中世精神史)、教育者。学位は文学博士(慶應義塾大学・1950年)。慶應義塾大学名誉教授。 慶應義塾大学予科教員、慶應義塾大学文学部教授、慶應義塾中等部部長(第3代)、清泉女子大学文学部教授などを歴任した。 東京府東京市出身の西洋史学者である。慶應義塾大学文学部を卒業すると、同大学の予科の教員を経て、文学部で教授を務めた。また、慶應義塾中等部の部長も兼務した。その後、清泉女子大学に転じ、文学部の教授を務めた。また、翻訳者としてガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』を日本に紹介したことでも知られている。
山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 -… 山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 - 1990年6月13日)は日本の金属工学、材料工学者、教育者。 1907年(明治30年)京都府に生まれる。京都府立第二中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学機械工学科に入学。1921年(大正10年)に卒業すると、そのまま同大の講師を務めた。1923年(大正12年)東北帝国大学助教授、1927年(昭和2年)には東京高等工業学校の講師を兼ねた。1928年(昭和3年)ドイツに留学、1930年(昭和5年)に帰国後、京都大学教授。その後、東京工業大学金属科長、静岡大学学長兼短期大学学長、武蔵工業大学学長などを務めた。
今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17… 今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉3月29日)は、日本の教育者、数学者、科学史家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。イギリスの動物学者・ランスロット・ホグベンの『百万人の数学』を翻訳したことでも知られる。 東京都出身。東京帝国大学理学部数学科を卒業後、東京物理学校(現・東京理科大学)や慶應義塾大学、法政大学などで教鞭を執る傍ら、1933年(昭和8年)に日本共産党へ入党。1940年1月の「唯研事件」第2次一斉検挙をはじめ、戦前は3度の逮捕・投獄を余儀なくされたが、その間も数学・科学史関連の著書・訳書を多数発表した。 戦後は読売新聞論説委員を経て、1946年には民主主義科学者協会(民科)設立に関わり、常任幹事や事務局長に就く。
安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月1… 安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月11日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の教育者、政治家。元鳥取県議会議員。元米子市教育長。号東馬。 地方教育行政の要として野坂寛治市長のもと教育基盤の確立に尽力。米子市独自の教育立地計画を樹立することが肝要と6年間にわたり現場教職員と一体となり実態調査を実施。その結果を4冊にまとめ逐次刊行した。このことは全国的に注目された。また、全国の都市教育委員会の教育長に呼びかけて全国都市教育長会を結成し、地教委本来の使命達成に努めた。その他、県立移管となった市立米子高等学校の開設「米子市小学校再配置計画」の立案実施を行った。 鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の「大阪屋」という割烹旅館の長男として生まれた。
樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 198… 樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 1985年10月12日)は、日本の初等教育者。 長野県小県郡中塩田村(現上田市)出身。旧制上田中学を経て、1926年東京府青山師範学校卒業、1930年同専攻科修了。東京都の小学校教諭をへて、港区桜田小学校校長、同区西桜小学校校長。日本幼児教育研究会会長を務めた。
阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24… 阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 講道館創始者嘉納治五郎に直接柔道の手ほどきを受けた直弟子で大正末期から昭和初期の現役時代には得意の背負投を武器に一世を風靡し、後には全日本柔道連盟評議員・常任理事、境港市教育委員長、鳥取県体育協会評議員、鳥取県柔道連盟会長、境港市体育協会会長を務めるなど日本柔道界の重鎮として知られた。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市高松町)出身。県立米子中学校(現・県立米子東高校)時代には右の一本背負投や跳腰で名を馳せ県下に伍する者無く、身長165cm・体重68kgの小兵ながら在学中に大日本武徳会で2段位を取得した。
和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 199… 和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 1993年5月15日)は、日本の教育家、文筆家。 鎌倉生まれ。父は鉱物学者の和田八重造。 浦和高等学校卒、1929年東京帝国大学法学部法律学科卒。17歳の頃から人生に深く悩み、28歳で機縁にめぐりあって東京西荻窪で青年のため、一誠寮をという寮を開く。 戦後は小田原で「はじめ寮」、1967年から山北町に一心寮を設けて青少年と生活をともにする。 くだかけ会(家庭教育を見直す会)主宰。同行教育人生科を提唱。息子の和田重良が後継者となり「くだかけ生活舎」を運営している。
鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日… 鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日 – 1970年(昭和45年)8月30日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 秋田県南秋田郡北浦町(現男鹿市北浦)で生まれる。1926年(大正15年)秋田県師範学校を卒業し、さらに同校専攻科を1933年(昭和8年)に卒業した。1926年に小学校教員となり、1946年(昭和21年)高清水小学校長、1947年(昭和22年)高清水中学校長に就任。1946年、秋田県教職員組合が結成され初代委員長に就任し4期在任した。 1947年、秋田県議会議員に当選して連続3期在任した。1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に秋田県地方区から日本社会党公認で出馬して初当選。
嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日… 嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 2016年〈平成28年〉3月29日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。相愛大学名誉教授(2011年時点)。 大阪府大阪市出身。官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。親和高等女学校卒。東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学。高木東六や四家文子と同級。卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となり、山田らが確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれる。修業を終えて帰阪後も声楽家として活動し、大阪BK(NHK大阪放送局)のラジオ放送や公演に出演するが、1934年(昭和9年)に旧家として名高い(嘉納家は嘉納財閥として知られる)灘の酒造家の嘉納鉄夫と結婚して引退。
入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(… 入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(明治40年) - 1989年(平成元年))は、日本の詩人・児童文学作家・教育者・経営者。 北海道小樽市生まれ。1928年(昭和3年)旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)卒業。 在学中に詩誌「北斗星」を創刊。旧制中学校教諭]しながら、作詩活動を続け、詩誌「青光」を創刊。1936年(昭和11年)に第一詩集「あしかび」を刊行。その後官憲の弾圧を受け、教職を辞職し、1943年(昭和18年)に満州国に渡る。満州国日本人中学校の教員をしていたが、終戦。シベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国。 1956年(昭和31年)北海道詩人協会の設立に参画し、同協会事務局長に就任( - 1976年(昭和51年))。
田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 199… 田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 1998年5月17日)は、日本の教育者、哲学者。山口大学第2代目学長。同大名誉教授。文学博士(1944年、九州大学にて取得)。雅号は周陽。 1906年山口県防府市の生まれ。旧制山口高等学校を経て、1930年九州帝国大学哲学科を卒業。1938年に広島高等学校教授兼九州帝国大学助教授、1944年より九州帝国大学専任となる。1952年より山口大学文理学部西洋哲学科教授。1944年8月、九州大学にて、「プラトンとアリストテレス」で文学博士。1958年山口大学第2代目学長に就任(1962年まで)。同大名誉教授、1970年より山口女子大学(現・山口県立大学)学長・名誉教授。
滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 19… 滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 1992年12月13日)は、日本の教育者、教育学者。 秋田県湯沢市生まれ。生家は旧士族で父親は道太郎。両親ともに教師。教員準備場から秋田師範学校に進んだ。父の指導を受け自由律俳句に親しみ、俳号は三千夫。万葉研究家境田四郎教諭のもと、文学教育の重要性に目覚め、専攻科を卒業。秋田師範付属小学校の訓導時代の1930年『北方教育』を創刊し、生活綴方運動を展開し「東京綴方の会」に参加。1932年上京し成蹊学園訓導となり、日本大学卒業。また教育科学研究会言語教育部会に参加。戦後、1946年児童雑誌『銀河』創刊に参加、1957年成蹊学園教育研究所長、1966年東京成徳短期大学教授、東京教育大学教授として国語教育、児童文化を研究。
須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月… 須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月30日 - 1982年(昭和57年)10月18日)は、日本の教育者・児童文学者。 教員、編集者を経て山形新聞社論説委員兼文化部長を歴任。また山形県芸術文化会議会長、山形県県民芸術祭運営委員長などを務め、戦後の同県における教育文化活動の主軸を担った。さらに無着成恭を見いだした。 山形県宮内町(現:南陽市)出身。郵便局員でホトトギス派の俳人である流陰と号した父・多蔵と母・ていの三男として生まれる。幼いころから読書家として過ごす。1923年(大正12年)に山形県師範学校に入学すると文芸部委員になり、校友会雑誌『真琴』で短歌や文章を発表した。卒業後、宮内小学校訓導に就くが自身の力量不足を実感し、より一層学問を修めようと決意。
大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日… 大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日 - 2007年(平成19年)5月24日)は教育者で、大宅壮一の妻、大宅壮一文庫の理事長を務めた。 三女は評論家の大宅映子。富山県魚津市出身。 旧姓、奥田。富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。 1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。4人の子供に恵まれた(大宅歩、映子のほか二女。)。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」の理事長を1971年の発足以来、終生務めた。 1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。
中川 重雄(なかがわ しげお、1906年8月24日 - 19… 中川 重雄(なかがわ しげお、1906年8月24日 - 1989年3月4日)は、日本の物理学者、教育者。立教大学理学部元教授・学部長、立教大学原子力研究所所長、立教大学野球部元部長。妻・京子は佐々木隆興の三女。 中川友次郎(内務・農商務官僚、群馬県知事)の三男として東京に生まれる。 1930年(昭和5年)東京帝国大学物理科を卒業。満鉄中央試験所職員、理化学研究所職員、大阪帝国大学理学部講師、佐々木研究所理事を務めた。 1949年(昭和24年)に、理化学研究所から立教大学理学部に赴任した中川重雄を中心に、立教大学宇宙線研究室が開設。理学部教授の中川が行う宇宙線観測実験の成果は新聞紙上を賑わせることとなった。
曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月… 曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月16日 - 2013年(平成25年)11月27日、旧姓:山本)は、日本の教育者、教育学者。教育学・心理学・精神医学が専門。日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立、運営した。 福岡教育大学教育学部教授、韓国社会事業大学(現大邱大学校)教授・大学院長、社会福祉法人しいのみ学園理事長兼園長を歴任。関西大学法学士、広島文理科大学文学博士、九州大学医学博士。福岡教育大学名誉教授、韓国・建陽大学校名誉教授、中国・長春大学名誉教授、上海・華東師範大学名誉教授、モスクワ心理教育大学名誉教授。大韓民国国民勲章受章、ペスタロッチー教育賞受賞。吉川英治文化賞受賞。
田中千代(たなか ちよ 1906年8月9日 - 1999年6… 田中千代(たなか ちよ 1906年8月9日 - 1999年6月28日)は、教育者、服飾デザイナー。昭和初期に渡欧し欧米の文化・服飾を学び、日本に近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った。民族衣装の研究・収集家でもあった。
黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、190… 黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、1906年7月27日または1907年7月27日 - 1987年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 京畿道平沢郡(現・平沢市)出身。中東学校(現・中東高等学校)卒、1927年早稲田大学政外科修了。1930年に平沢郡協同組合組合長、1944年に朝鮮商工会平沢郡出張所長を務めて、平沢郡農会議員、平沢郡国民会長、生活必需品商業組合理事長、平沢畿湖水利組合組合長、平沢中学院設立者・院長、朝鮮紡績理事・重役、世界食糧農業機関韓国支部副会長、京南水利組合組合長、テドン産業会長、第3代国会農業資金特別対策委員会委員長・水害対策委員会委員長、民主共和党政策委員を務めた。
尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 197… 尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 1977年9月7日)は、日本の教育者・文学者(俳文学)。岩手大学名誉教授。俳号は白路(はくろ)。旧姓は片瀨(かたせ)。姓の「澤」は旧字体のため、新字体で尾沢 喜雄(おざわ よしお)とも表記される。 東京府立第二高等女学校教諭、埼玉県立久喜高等女学校教諭、長野県篠ノ井高等女学校教諭、長野市立中学校教諭、岩手師範学校教授、岩手大学学芸学部教授、岩手大学教育学部教授などを歴任した。 1906年6月、片瀨政十郞の二男として生まれたが、尾澤惠の養子となった。長野県北安曇郡七貴村出身。長野師範学校、旧制の松本高等学校の文科を経て、東京帝国大学に進学し、文学部の国文学科にて国文学を学んだ。
足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 19… 足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 1957年11月27日)は、日本の教育者、政治活動家。岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)の創立者として知られる。 愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市)に生まれる。岡崎市立広幡尋常高等小学校、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、大阪外国語学校ドイツ語科を卒業。文部省在外研究員としてドイツに留学。ベルリン大学卒業後、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スウェーデン、中華民国などを視察した。また、フランスのニースで開かれた国際新教育会議に日本代表として出席した。 1933年(昭和8年)に帰国し、神戸高等商船学校教授に就任。
兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1… 兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1987年8月30日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の小説家、法学者、教育者、政治家。号は玄民。初期はプロレタリア作家、中期は純粋文学、そして後期は親日派として時代に翻弄された[疑問点 – ノート]。解放後は、韓国において法学者、政治家として活動した。大韓民国憲法の起草者でもある。 1906年5月13日、ソウル嘉会坊斉洞に生まれる。杞渓兪氏(朝鮮語版)。1914年、斉洞公立普通学校に入学、1919年、京城高等普通学校に入学し、教育を受ける。京城高等普通学校を卒業後、1924年、京城帝国大学予科に入学する。この年、朝鮮人学生団体「文友会」を組織し、機関紙『文友』の発刊に携わった。
古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 20… 古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 2003年2月6日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 鳥取県西伯郡法勝寺村(現・南部町)出身。小学校高等科まで剣道に励み、旧制米子中学校(現・県立米子東高校)でも剣道部に入部するが上級生に気の合わない者がいて退部、阿部信文の勧誘もあり柔道部へ転入部した。阿部や山根英師など諸先輩の胸を借りて学業成績が下がるほど柔道に熱中し、親や兄弟が柔道をやめるよう言ったが親の目を盗んでは稽古に励んだ。1924年、旧制松江高校主催の山陰中学校大会の選手に選ばれて出場、旧鳥取一中学校(現・県立鳥取西高校)相手に2人勝ち抜き、選手としての地位は確立された。
今井 誉次郎(いまい たかじろう、1906年〈明治39年〉1… 今井 誉次郎(いまい たかじろう、1906年〈明治39年〉1月25日 - 1977年〈昭和52年〉12月16日)は、日本の国語教育者、児童文学作家。 岐阜県出身。岐阜師範学校卒。岐阜県で小学校教師となり、のち上京、雑誌『綴方生活』の編集に携わる。東京で再度教師となり、1950年『農村社会科カリキュラムの実践』で毎日出版文化賞受賞。52年設立された日本作文の会委員長に就任。著作集全6巻がある。
宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - … 宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - 1997年5月22日)は、日本の教育者、実業者、歯科医である。コープオリンピア、中野ブロードウェイなどを開発した東京コープ販売社長、南国酒家経営者、城西歯科大学、岐阜歯科大学創立者。慶應義塾大学医学博士。三男は宮田侑。 特記なきものは著書『一瞬と永遠――建学の精神の基礎にあるもの』著者略歴より。 北海道の湧別町川西に早期開拓民として高知県から入植した宮田亀之助の3男として1906年1月7日に生まれる。上京後、逓信官吏練習所(もしくは逓信講習所)で無線や電気材料学を学ぶかたわら、大阪歯科医学専門学校に通う。1923年に父親が病死したため生活は苦しく、運転手などをして学費を稼ぎ、1931年3月に卒業、同年12月に東京・大塚駅北口に宮田歯科医院を開業する。
福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 19… 福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 1988年(昭和63年))は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身で、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業後、小学校教諭として教育者の道を歩み始め、続いて京都府立聾学校教諭、さらに京都府立盲学校教諭として教育活動に従事し、聾・盲児のために一生を捧げた。 また、野の思想家「宮崎童安」に師事し、童安亡きあと、『地獄の聖書』『童安童話集』など童安の著書多数を自費出版したのをはじめ、有縁の人々の歌集や追悼集を数多く出版した。就中特筆すべきは、『新井奥邃の思想』『内観祈祷録・奥邃先生の面影』を自費出版した事であろう。福田家の一族に明治維新のとき、長州の勤皇運動を助けて活躍した勤皇家・福田理兵衛がいる。
芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)… 芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)は、日本の教育者。 愛知県碧海郡明治村(安城市根崎町)に生まれる。名古屋市立城山中学校など、名古屋市内の小中学校長を歴任する。また、その後、中京女子大学において教授を務める。作文教育の実践、名古屋方言の研究において成果を残す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
縣 康(あがた やすし、1906年 - 2000年5月3日)… 縣 康(あがた やすし、1906年 - 2000年5月3日)は、日本の教育者、経営学者。立教大学元教授、立教高等学校(現・立教新座中学校・高等学校)元校長、立教英国学院創設者・元校長・理事、香蘭女学校元校長・理事、立教学院元理事・評議員。 1906年、静岡県生まれ。1930年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 富山薬学専門学校教頭を経て、1931年から立教大学で商業概論、銀行論、銀行会計などを講じる。1937年、立教大学教授に就任。 1944年、立教理科専門学校教授、同生徒部副部長に就任。1945年、GHQにより公職追放(立教関係者で追放された11名のうちの1名)となるが、翌年5月、司令部の解除により立教大学に復職。
田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月1… 田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月18日 - 1976年(昭和51年)10月17日)は、日本の微生物学者、教育者、京都大学名誉教授。 東京出身。1931年、京都帝国大学医学部卒業後、京大助教授となる。軍部から多額の資金援助を得て微生物学の研究を進め、関東軍防疫給水部本部(いわゆる731部隊)が発足すると部隊に加わり、第一課課長としてチフス菌を用いた生物兵器を含む研究を指揮することとなった。 戦後は日本に引き揚げ、神戸医科大学教授などを経て、1956年には京大に戻り医学部微生物学教室で教授を務めた。1966年に定年退官した。1976年10月17日、気管支炎のため京都市左京区の自宅にて死去。
海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 19… 海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 1997年6月18日)は日本の作曲家、教育者である。宮城県において音楽教育に尽力した。また、東北地方の多くの学校の校歌や、戦後のラジオ番組において多数の童謡の作曲を手掛けた。三男の海鋒正毅はクラリネット奏者である。 海鋒は山形県北村山郡山口村(現在の天童市)で生まれた。東京音楽学校(後の東京芸術大学)臨時教員養成所を卒業し、熊本県立山鹿高等女学校勤務を経て、1933年(昭和8年)から宮城県仙台市の音楽指導員となった。この時、尋常小学校、高等小学校、計22校で月に最低一回は指導する決まりだった。この頃、児童唱歌コンクール(後のNHK全国学校音楽コンクール)において市内の東二番丁尋常小学校や南材木町尋常小学校が優勝しており、仙台で合唱の流行があった。
岡本 薫(おかもと かおる、1905年10月9日 - 198… 岡本 薫(おかもと かおる、1905年10月9日 - 1987年1月9日)は、日本の作家、教育者。 大分県臼杵生まれ。松山高等学校卒、1929年東京帝国大学文学部独文科卒。1932年横浜市役所社会課勤務。1938年浦賀造船所勤務。39-41年陸軍中尉として応召。敗戦により浦賀造船を退社、文筆家となる。1964年光明学園理事。75年理事長。19歳のころから山崎弁栄の「光明主義」に帰依していた。
薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月… 薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉8月3日)は、日本の声楽家(テノール)、オペラ歌手、音楽教育者、音楽評論家、音楽学者、合唱指揮者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県出身。1930年(昭和5年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 卒業後、戦前からリサイタル、コンサートで活動し、特にドイツ歌曲を得意とした。 戦後まもなく演奏活動に復帰。門下生の柴田睦陸が結成し、二期会の母体となった東京藝術大学歌劇研究部 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』の主役ファウストを務めている。
梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 19… 梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 1993年8月4日)は、日本の哲学者・教育者。専門は教育哲学・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに関する研究。北海道における学校経営者。 北海道留萌市出身。1925年札幌師範学校卒業。卒業後、北海道小樽市の小学校訓導として奉職するも、1926年に東京高等師範学校文科第三部に入学。1930年同学校卒業、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)英語教諭。1938年北海道庁立小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)英語教諭に転任。1942年東京文理科大学哲学科に入学、1944年同大学卒業。同年9月、北海道第一師範学校講師、同年12月教授。