平田 健吉(ひらた けんきち、1885年(明治18年)3月1… 平田 健吉(ひらた けんきち、1885年(明治18年)3月16日 - 1975年(昭和50年)11月9日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。 和歌山県出身。平田健司の四男として生れる。和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)卒を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍砲兵少尉に任官し野砲兵第4連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍砲工学校高等科(第17期)を卒業。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1917年(大正6年)8月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第4連隊中隊長に就任。以後、陸士教官、舞鶴要塞参謀、第1師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官、野砲兵第1連隊大隊長、同連隊付、東京湾要塞参謀、第1師団参謀などを務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第20連隊長に就任した。
田中 肥後太郎(たなか ひごたろう、明治18年(1885年)… 田中 肥後太郎(たなか ひごたろう、明治18年(1885年)3月1日 - 昭和24年(1949年)1月31日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍医学校校長、海軍省医務局長を歴任する。熊本県出身。 明治18年(1885年)2月、熊本県で生れる。大正2年(1913年)東京帝国大学医学部を卒業する。その後、大正15年(1926年)欧米出張を行い、昭和2年(1927年)に帰国する。帰国後、霞ケ浦空軍医長となり、当職を兼務しながら軍医校教官も務める。昭和12年(1937年)12月1日に海軍軍医校教頭となり、佐世保病院長を経て、昭和14年(1939年)11月15日、海軍医学校校長と海軍中将に就任する。
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月… 小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。国務大臣。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。本籍高知県。 いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。 東京府麴町区上六番町で、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。
有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日… 有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日 - 1951年(昭和26年)1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。神野介寿の二男として生れ、有馬良橘の養子となる。東京府立第一中学校を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍大学校(乙種)、海軍砲術学校高等科を卒業。「安芸」「摂津」の各分隊長、練習艦隊・第2艦隊の各参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、佐世保鎮守府参謀、ロシア駐在、兼ロシア大使館付武官補佐官、軍令部兼参謀(ペテルブルク、ストックホルム、オデッサ、パリ各駐在)、第2戦隊参謀、「春日」副長、横須賀鎮守府付、皇族(伏見宮博恭王)付武官、軍令部参謀(第3班第6課長)、「木曾」「古鷹」の各艦長、舞鶴要港部参謀長、ソ連大使館付武官などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14… 吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14日 - 1966年〈昭和41年〉11月14日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。海軍大臣、連合艦隊司令長官を歴任した。 佐賀県出身。士族・峰與八の四男。米屋、吉田祐次郎の養子となる。旧制佐賀中学校に進み、「誠友団」と名づけた交友団体に加入。古賀峯一はこの時以来の友人であり、同会には下村湖人もいた。1923年(大正12年)、分家した。 海兵32期を192名中12番で卒業。すでに日露戦争は開戦しており、「韓崎丸」で訓練を受けた後、「春日」艦長(加藤定吉)附として日本海海戦に参戦した。 吉田が選んだ海軍兵科将校としての専門は水雷で、第一水雷戦隊参謀などを務めている。
日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月… 日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月2日 - 1947年(昭和22年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 愛知一中を経て、鳥羽商船学校本科修了後、1906年11月海軍兵学校(34期)を卒業し、1907年に少尉任官。1912年海軍砲術学校高等科を卒業後、第3艦隊副官、「鞍馬」分隊長を歴任。1917年、海軍大学校(甲種)を卒業。以後、「春日」乗組、軍令部第3班第5課参謀、アメリカ大使館付武官補佐官、「鬼怒」副長などを歴任。 1927年、「大井」艦長となり、さらに「浅間」艦長、海軍大学校教官、「日向」艦長を歴任し、1932年海軍少将に進級。以後、第1戦隊司令官、第11戦隊司令官を務め、1936年に海軍中将・駐満海軍部司令官を拝命。
板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉… 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉1月21日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満洲事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を務め、関東軍防疫給水部(731部隊)の設立にも関わった[要出典]。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 征四郎の曽祖父・佐々木伊兵衛は、盛岡藩上士(御徒目付を務めた)。 征四郎の祖父・佐々木直作(文化14年〈1817年〉- 明治27年〈1894年〉)は、漢学の素養が深く、嘉永3年(1850年)に侍講として盛岡藩に出仕し、藩校作人館助教を経て、明治元年(1868年)に盛岡藩首席家老・楢山佐渡が鳥羽・伏見の戦いの直後に上洛した際に 勘定奉行 兼 京都留守居役 として随行するなど、藩の中心人物の一人であった。
鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1… 鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1970年2月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1… 下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。 日中関係が不穏な時期に下村は第10戦隊司令官に就任した。下村は日本海軍の通信系統、即ち、北京海軍駐在武官→旅順→東京→佐世保→高雄→第三艦隊旗艦出雲から、佐世保、高雄を省略することで、日華事変が勃発した当日に出雲艦上においていち早く事変発生の情報を入手した。第三艦隊司令長官長谷川清と会談中のことであった。
工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日… 工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日 - 1940年(昭和15年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 岡山県出身。工藤敏夫の二男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1916年(大正5年)12月、教育総監部付となり、同課員、陸軍兵器本廠付兼陸軍省軍務局課員、軍務局課員兼参謀本部員、歩兵第9連隊大隊長、同連隊付、陸士教官、参謀本部員などを務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第6連隊長に就任。
國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - … 國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)4月30日)は、日本の海軍軍人、医師。海軍中佐で予備役となったのち、医学博士号を取得した。 海軍兵学校35期。福島県北会津郡湊村(現・会津若松市)出身。 國府は二度改名しており、旧名は横倉房吉と穴澤房吉である。会津中学から府立一中に転校し、海兵の席次は172中名123番であった。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦などがいる。海兵35期の遠洋航海は「松島」が火災沈没事故を起こし、乗組んでいた國府は救助されたが、同期生30名以上が犠牲となっている。海軍将校として装甲巡洋艦・常磐、戦艦・富士、特務艦・朝日、呉海兵団、横須賀防備隊などで勤務した。
佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937… 佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937年3月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は騎兵大佐。 高知県香美郡田村(現在の南国市)に生まれる。共立学校、海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、陸軍騎兵少尉に任官。 陸軍騎兵学校教導隊長、陸軍士官学校馬術部教官、朝鮮龍山騎兵第28連隊長、豊橋陸軍教導学校騎兵隊長などを歴任。1936年(昭和11年)満洲に派遣され佐竹部隊長として活躍中に公傷を負い、翌年3月16日没。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12… 東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の40代内閣総理大臣、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後、A級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 陸軍次官(第25代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)、関東軍参謀長(第10代)を歴任した。 父は岩手県(盛岡市)出身である東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。
眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 19… 眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 1966年10月15日)は、日本海軍の軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。
浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 194… 浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 1945年1月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1884年(明治17年)12月、高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)に浜田勇次郎の子として生まれた。海南中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1917年(大正6年)、歩兵大尉になり歩兵第44連隊中隊長に就任。1919年(大正8年)、シベリア出兵に従軍。1929年(昭和4年)、歩兵中佐に進級。1931年(昭和6年)、予備役に編入された。1937年(昭和12年)、日中戦争(日華事変)で召集。1943年(昭和18年)、陸軍大佐に進んだ。
小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月1… 小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月10日 - 1932年(昭和7年)8月20日)は、日本の海軍軍人。 旧名は庄之助。最終階級は海軍少将。1932年ジュネーブ会議の全権随員。和歌山県鳥屋城村(現有田川町)出身。
坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月… 坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月1日 - 1971年〈昭和46年〉9月21日)は、日本の海軍軍人。海兵33期。最終階級は海軍中将。岳父は宮原二郎(海軍機関中将、男爵)。 岡山県津高郡野谷村(現・岡山市)出身。岡山県士族・坂野半四郎の二男。 岡山県岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第33期)。入校時席次は180名中第84位、卒業時席次は171名中第22位。第一次世界大戦中は、第二特務艦隊参謀として地中海に遠征し、英国海軍との連絡業務にあたった。 坂野は海軍部内で対英米協調派(条約派)の1人に数えられていた。海軍軍事普及部部長在任中に、陸軍強硬派と海軍艦隊派から買収された報知新聞記者に『海軍は宇垣一成 内閣に反対ではない』と発言 したことが海軍大臣・大角峯生の怒りを買い、いわゆる「大角人事」により予備役に編入された。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 19… 高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校35期。最終階級は海軍大将。 1884年10月27日、茨城県稲敷郡桜川村(現・稲敷市)に生まれる。旧制土浦中学校(現・土浦第一高等学校)を経て、1907年(明治40年)11月20日、海軍兵学校35期を172名中10位で卒業。1917年(大正6年)12月1日、海軍大学校甲種学生(17期)。 1923年(大正12年)6月1日、在イギリス大使館付武官補佐官。 1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件発生。高須は軍令部出仕兼海軍省出仕として、この事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。
毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 19… 毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 1936年5月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の三男として生まれる。兄は陸軍少将毛内靖胤。弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、海軍兵学校(33期)、海軍大学校を経て、海軍大学校教官を務めた。佐世保海軍艦船部長、武蔵特務艦長、天龍、那珂、陸奥、尻矢、大泊艦長などを歴任した。航海術の権威で昭和7年(1932年)侍命となった。退役後は太平洋漁業会社顧問として、北洋漁業に関わった。 1936年(昭和11年)5月16日死去。同月18日に行われた葬送の際には、勅使が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月… 尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月28日 - 1953年(昭和28年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・大谷。 佐賀県出身。農業・大谷平治の二男として生まれ、尾高家の養子となる。唐津中学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業する。同期には岡村寧次・土肥原賢二・板垣征四郎・安藤利吉ら陸軍大将がいる。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。日露戦争に出征後、陸士生徒隊付、歩兵第13連隊中隊長などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 陸軍歩兵学校教官、関東兵站参謀、教育総監部付、教育総監部課員などを歴任し、1923年(大正12年)8月、第14師団参謀となる。
鈴木 元長(すずき もとなが、1884年(明治17年)8月3… 鈴木 元長(すずき もとなが、1884年(明治17年)8月31日 - 1941年(昭和16年)7月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日に工兵少尉に任ぜられる。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進し、1909年(明治42年)11月26日に陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業後、更に員外学生として在学した。1911年(明治44年)12月12日に工兵大尉に昇進し、1913年(大正2年)7月10日には東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。 その後、陸軍砲工学校教官等を経て、1919年(大正8年)12月1日に工兵少佐に昇進し、電信第一連隊付等を経て、1924年(大正13年)3月15日に工兵中佐に、1928年(昭和3年)3月7日に工兵大佐に昇進。
浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 … 浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 - 1951年(昭和26年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡、のちの三里村(現高知市)で生まれた。高知県尋常中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、陸軍士官学校第16期、陸軍大学校第29期卒業。1928年(昭和3年)6月7日に奉天軍に応聘され、8月10日に陸軍砲兵大佐に進級した。1929年(昭和4年)3月に山砲兵第9連隊長に転じ、1931年(昭和6年)8月に台湾軍参謀に就任した。 1933年(昭和8年)8月1日に陸軍少将進級と同時に佐世保要塞司令官に着任した。1934年(昭和9年)8月に第6師団司令部附となり、1936年(昭和11年)3月に由良要塞司令官に就任。
穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8… 穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8月13日 – 1959年(昭和34年)2月23日)は、日本の工学者、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将。
松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10… 松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉12月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。「五省」の考案者。 福岡県出身。松下丈吉の長男として生れる。中学明善校を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を卒業し、翌年9月、海軍少尉任官。日露戦争では「松島」乗組として出征し、日本海海戦では「八雲」乗組であった。1910年5月、海軍砲術学校高等科を卒業。「高雄」砲術長、「薩摩」分隊長、第1艦隊参謀などを歴任し、1914年5月、海軍大学校(甲種12期)を卒業した。 「阿蘇」砲術長、艦政局局員、イギリス出張、第4戦隊参謀などを経て、1921年1月、海相秘書官兼副官となり、加藤友三郎大臣に仕えた。
徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月… 徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。
永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 19… 永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 1978年8月18日)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲工学校長。最終階級は陸軍中将。
高松 長三(たかまつ ちょうぞう、1884年〈明治17年〉7… 高松 長三(たかまつ ちょうぞう、1884年〈明治17年〉7月1日 - 1955年〈昭和30年〉1月12日)は、栃木県出身の政治家(衆議院議員)、海軍軍人(階級は海軍主計少将)。旧姓・矢口。相模運輸社長、三笠保存会顧問などを務めた。 矢口長右衛門の三男として栃木県塩谷郡北高根沢村(後の高根沢町)に生まれる。後に高松家の婿養子となった。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 海軍に入ると主計試補に任じられ、1912年(大正元年)主計大尉に任官。1918年(大正7年)に主計少監に進み、1932年(昭和7年)には主計少将に累進する。その間、磐手主計長兼分隊長、海軍省軍需局局員、横須賀海軍経理部第一課長、横須賀海軍工廠会計部長、軍需局第三課長、海軍経理学校教官、連合艦隊主計長、横須賀海軍軍需部長を歴任した。
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月1… 岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月15日 - 1966年〈昭和41年〉9月2日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任。 父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。 1884年(明治17年)5月15日、岡村寧永の子として生まれる。早稲田中学校、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業する。 1904年(明治37年)10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。
越川 彰(こしかわ あきら、1884年(明治17年)5月13… 越川 彰(こしかわ あきら、1884年(明治17年)5月13日 - 1970年(昭和45年)1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。位階勲等は正四位勲三等。 千葉県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学医学部を卒業し、6月29日に陸軍二等軍医に任官された。1915年(大正4年)6月、陸軍一等軍医に進み、1919年(大正9年)9月時点で陸軍軍医学校副官の任にあった。1921年(大正10年)4月、陸軍三等軍医正に進級し、1923年(大正12年)9月時点で鉄道第2連隊附であり、1924年(大正13年)9月時点で善通寺衛戍病院附に転じた。1925年(大正14年)3月に陸軍二等軍医正に進級し、9月時点で佐倉衛戍病院長兼歩兵第57連隊附に就任し、1926年(大正15年)12月に龍山衛戍病院附に転じた。
篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年… 篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年〉5月11日 - 1972年〈昭和47年〉7月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 1884年(明治17年)に群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)で生まれた。旧制高崎中学校、大阪陸軍地方幼年学校を経て、陸軍士官学校第17期卒業。 1931年(昭和6年)に陸軍歩兵大佐に進級。第16師団司令部附となり、大谷大学に配属された。1933年(昭和8年)に歩兵第40連隊長に就任し、満州事変に出動。討伐戦に当たった。 1936年(昭和11年)に陸軍少将に進級し、歩兵第15旅団長に転じる。1938年(昭和13年)に第1国境守備隊長を経て、1939年(昭和14年)3月に陸軍中将に進級し、関東軍司令部附となる。
長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年(明治17年)5月… 長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年(明治17年)5月1日 - 1975年(昭和50年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 沖縄県(旧小禄村當間)出身。農業・長嶺松助の孫として生れる。小禄尋常小学校、那覇尋常高等小学校、沖縄第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第24連隊付となる。歩兵第24連隊大隊副官などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(第28期)を卒業し歩兵第24連隊中隊長に就任。 1917年(大正6年)12月、参謀本部付勤務となり、1918年(大正7年)2月、中国出張を命ぜられ、同年9月から1920年(大正9年)7月までイリに滞在し、同年12月、北京に到着した。
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4… 山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。真珠湾攻撃を指揮した。 新潟県長岡出身。旧姓は高野(たかの)。海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物である。 1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生する。当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と名付けられた。
兒玉 常雄(児玉常雄、こだま つねお、1884年(明治17年… 兒玉 常雄(児玉常雄、こだま つねお、1884年(明治17年)3月29日 - 1949年(昭和24年)10月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍航空兵大佐。 東京府出身。後に陸軍大将となる児玉源太郎の四男として生まれる。陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月30日に陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月21日に工兵少尉に任ぜられる。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進後、陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業、更に員外学生として在学し、1913年(大正2年)7月10日には東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。1914年(大正3年)9月9日に工兵大尉に昇進した。
小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日… 小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校33期。最終階級は海軍中将。 山口県玖珂郡玖珂町(現岩国市)出身。小野友蔵長男。岩国中学校を経て、1905年11月海軍兵学校(33期)を卒業。1906年12月に海軍少尉任官。1912年に海軍大学校乙種及び海軍大学校専修を卒業した後、音羽、韓崎の航海長を経て、1915年軍艦政本部艤装員として英国で建造中だった駆逐艦江風の艤装に従事する。 1916年海軍少佐任官。浅間、鞍馬、霧島、比叡の航海長を歴任し、1920年富士(運用術練習艦)教官兼海軍大学校教官に就任。1921年に海軍中佐に任官、海軍大学校教官専任となる。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。
小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月2… 小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月23日 - 1941年(昭和16年)6月18日)は、日本陸軍の軍人、政治家。貴族院議員・陸軍軍医総監・正三位・勲二等・医学博士・男爵。男爵・小池正直の長男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。 日本陸軍軍医・小池正直の長男として朝鮮釜山に生れる。1902年(明治35年)第一高等学校を首席で卒業する。1909年(明治42年)12月、京都帝国大学の分科大学である福岡医科大学(現・九州大学医学部)を卒業。 歩兵第3連隊(麻布三連隊)に入営。1910年(明治43年)6月、二等軍医となり、近衛歩兵第2連隊に配属された。1912年(明治45年)1月、東京帝国大学大学院に入学した。
飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月1… 飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月18日 - 1977年(昭和52年)9月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県刈羽郡山横沢村(小国村、小国町を経て現長岡市)出身。山横沢村長・飯田貞一の長男として生れる。組合立小国高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、騎兵少尉に任官し近衛騎兵連隊付となる。騎兵第22連隊付などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年(大正2年)12月、参謀本部付勤務となり、独立第18師団副官として青島の戦いに参加。1914年(大正3年)11月、青島守備軍参謀に就任。
小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2… 小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2月1日 - 1938年(昭和13年)9月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・島田。 福岡県出身。旧小倉藩士・農業、島田耕蔵の三男として生まれ、小笠原長舒の養子となる。高等小学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)4月から同年11月まで日露戦争に出征。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業し歩兵第14連隊中隊長に就任した。 参謀本部付勤務(通信課)、参謀本部員、陸大教官、飛行第6大隊付、国際連盟帝国空軍代表随員(1924年6月 - 1925年3月)などを務め、1924年(大正13年)8月、歩兵中佐に昇進。
中村 亀三郎(なかむら かめざぶろう、1884年1月28日 … 中村 亀三郎(なかむら かめざぶろう、1884年1月28日 - 1944年11月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年〈明治17年〉1月2… 荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年〈明治17年〉1月24日 - 1949年〈昭和24年〉12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓:伊藤。 愛知県出身。伊藤松左衛門の四男として生まれ、陸軍二等薬剤官・荻洲郁次郎の養子となる。愛知一中、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊補充隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 歩兵第6連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官、スイス駐在、ドイツ駐在、陸大教官、近衛歩兵第4連隊付、歩兵第44連隊長、第11師団司令部付(支那政府応聘、北京陸大教官)、第1師団司令部付、留守第9師団参謀長、第1師団参謀長などを歴任し、1933年10月、陸軍少将に進級。
永田 鉄山(ながた てつざん、1884年〈明治17年〉1月1… 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年〈明治17年〉1月14日 - 1935年〈昭和10年〉8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。 陸軍中央幼年学校次席卒業、陸軍士官学校首席卒業、陸軍大学校次席卒業を経て参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。 軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。陸軍刷新(長州閥支配打破など)を進めた。 陸軍省軍務局長(階級は陸軍少将)時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された(相沢事件)。 長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。
中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1… 中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1月1日 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた。 1884年(明治17年)1月1日、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町、2005年3月27日までは群馬県新田郡尾島町大字押切)の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。1898年(明治31年)3月、尾島尋常高等小学校卒業。1903年(明治36年)10月、海軍機関学校入学(第15期生)。1907年(明治40年)4月25日、海軍機関学校卒業。
尾畑 義純(おばた よしのり、1884年〈明治17年〉 - … 尾畑 義純(おばた よしのり、1884年〈明治17年〉 - 1957年〈昭和32年〉)は、日本の海軍法務官。最終階級は海軍法務中将。 東京府出身。東京帝国大学法科大学法律学科卒業。 海軍主理試補、海軍中主計、海軍主理、海軍主計中尉、海軍司法事務官兼海軍法務官を経て、海軍省法務局長。墓所は多磨霊園。
井上 二三雄(いのうえ ふみお、1883年〈明治16年〉12… 井上 二三雄(いのうえ ふみお、1883年〈明治16年〉12月25日 - 1919年〈大正8年〉3月5日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦において日本初の航空作戦に参戦し、のちに殉職した。最終階級は海軍中佐。血盟団指導者の井上日召は弟。 群馬県利根郡川場村谷地に、医師・村会議員の井上好人の子として生まれる。前橋中学校沼田分校(現・群馬県立沼田高等学校)卒業後、成城中学校を経て海軍兵学校33期。同期生に豊田副武、豊田貞次郎、中村亀三郎らがいる。1906年(明治39年)12月少尉任官。初級士官時代の「音羽」、「三笠」乗組みなどを経て、大尉進級後の1912年(大正元年)10月に航空術研究委員を命じられる。
安藤 三郎(あんどう さぶろう、1883年(明治16年)12… 安藤 三郎(あんどう さぶろう、1883年(明治16年)12月24日 - 1963年(昭和38年)8月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 旧黒羽藩家老・安藤小次郎の長男として生れる。東京府立第四中学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。歩兵第66連隊付などを経て、1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第66連隊中隊長、陸士教官、参謀本部員、中国政府招聘(北京陸軍大学校教官)、歩兵第40連隊付などを歴任し、1925年(大正14年)5月、航空兵科に転じ航空兵少佐となり下志津陸軍飛行学校教官に就任した。
村井 勝(むらい まさる、1883年(明治16年)12月24… 村井 勝(むらい まさる、1883年(明治16年)12月24日 - 1968年(昭和43年)10月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1883年(明治16年)に山口県で生まれた。陸軍士官学校第15期、陸軍砲工学校高等科第15期(優等)、東京帝国大学機械工学科卒業。1923年(大正12年)4月に陸軍造兵廠名古屋工廠千種機器製造所長に就任し、1925年(大正14年)12月に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)8月に陸軍造兵廠技術部長に転じ、1930年(昭和5年)6月に陸軍技術本部仏国駐在官に就任した。 1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部部員に就任し、1932年(昭和7年)4月に陸軍砲工学校砲兵科長を経て、1934年(昭和9年)8月に陸軍技術本部第3部長に就任した。
山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月… 山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月7日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦においては日本初の航空作戦に携わった。最終階級は海軍少将。 愛知県に生まれる。海南中学校を経て明治38年(1905年)11月海軍兵学校(33期)を卒業、明治39年(1906年)12月20日海軍少尉任官。海軍大学校乙種学生を経て大尉任官後の1912年(明治45年)6月26日に海軍航空術研究委員に任ぜられた。7月に渡米して飛行免状を取得し、帰国後は同委員会練習将校の指導に当たった。 1913年(大正2年)6月24日に水上機による世界高度記録(2,500m)を達成したとされる。
田尻 昌次(たじり しょうじ、1883年(明治16年)10月… 田尻 昌次(たじり しょうじ、1883年(明治16年)10月28日 - 1969年(昭和44年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。陸軍の船舶輸送制度を整備し「船舶の神」と呼ばれた。 1883年(明治16年)に兵庫県但馬、現豊岡市日高町浅倉で生まれた。1893年(明治26年)に父親の知人に引き取られ、神奈川県尋常中学校に編入学する。1901年(明治34年)に第三高等学校への進学が決まったが、郷里の祖父が病に倒れたため帰郷。府中尋常高等小学校の代用教員を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校に入学。1905年(明治38年)に第18期卒業、歩兵第20連隊留守部隊に配属された。
上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)… 上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)10月15日 - 1947年(昭和22年)3月11日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 秋田県出身。1901年(明治34年)12月[要出典]、士官候補生(15期)として陸軍に入る。1903年(明治36年)陸軍士官学校を卒業し、翌年2月に陸軍砲兵少尉任官。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)卒業し、参謀本部要塞課に配属された。 陸軍重砲兵学校教導大隊長、同教育部長、横須賀重砲兵連隊長等を歴任し、1932年(昭和7年)8月、陸軍少将へ昇進。陸軍重砲兵学校幹事、野戦重砲兵第4旅団長、陸軍重砲兵学校長などを経て、1936年(昭和11年)4月、陸軍中将に進級。