増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1… 増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1986年11月23日)は、日本の映画監督、脚本家である。 山梨県甲府市出身。旧制甲府中学から旧制第一高等学校を経て東京大学法学部を卒業。東大法学部時代の知人に三島由紀夫がいる。 1947年、大映に助監督として入社。東京大学文学部哲学科に再入学。1952年、イタリア留学、イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学ぶ。帰国後、溝口健二や市川崑の助監督として参加。1957年、『くちづけ』で監督デビュー。監督第2作『青空娘』より若尾文子とタッグを組み、『妻は告白する』『清作の妻』『「女の小箱」より 夫が見た』『赤い天使』『卍』『刺青』などの佳作にして重要な作品群を残す。
牛原 陽一(うしはら よういち、1924年3月25日 - 1… 牛原 陽一(うしはら よういち、1924年3月25日 - 1977年2月7日)は、昭和期の映画監督。 大正13年(1924年)京都府に映画監督、牛原虚彦と元女優、三村千代子の長男として生まれる。関東大震災で罹災した虚彦・千代子の2人は、横浜より救難船・米国船籍ウェスト・オロワ号に乗り神戸へ。その後、京都へ移り、陽一誕生。 慶應義塾幼稚舎入学後、普通部、経済学部と進学。戦局が悪くなる中、慶應義塾大学を仮卒業し、短期現役海軍主計科士官(12期)を志願し、1944年9月、海軍経理学校に入学。1945年に経理学校を卒業し、同年6月、海軍主計少尉任官と同時に舞鶴海軍施設部配属。終戦後、復員、慶應義塾大学に復学し卒業。
岡本 喜八(おかもと きはち、1924年(大正13年)2月1… 岡本 喜八(おかもと きはち、1924年(大正13年)2月17日 - 2005年(平成17年)2月19日)は、日本の映画監督。本名は岡本 喜八郎(おかもと きはちろう)。 鳥取県米子市四日市町出身。 1941年、鳥取県立米子商蚕学校(現・鳥取県立米子南高等学校)を卒業後、上京。1943年に明治大学専門部商科を卒業後、東宝に入社し助監督となる。しかし、1944年に太平洋戦争の戦局の悪化に伴い召集され、1945年1月に松戸の陸軍工兵学校に入隊。愛知県豊橋市にあった第一陸軍予備士官学校で終戦を迎えた。この豊橋滞在時に空襲で多くの戦友たちの死を目の当たりにし、戦争や陸海軍部に対する大きな憤りを抱いた。 復員後に東宝へ復帰し、マキノ雅弘や谷口千吉、成瀬巳喜男、本多猪四郎らに師事して修行を積む。
石井 輝男(いしい てるお、男性、1924年〈大正13年〉1… 石井 輝男(いしい てるお、男性、1924年〈大正13年〉1月1日 - 2005年〈平成17年〉8月12日)は、日本の映画監督・脚本家である。本名は北川 輝男(きたがわ てるお)。
築地 米三郎(つきじ よねさぶろう、1923年〈大正12年〉… 築地 米三郎(つきじ よねさぶろう、1923年〈大正12年〉9月15日 - 2012年〈平成24年〉3月30日[要出典])は、日本の特撮監督、プロデューサー。東京都出身。 東京品川の大井町に生まれる。生家の前に「大井館」という映画館があり、5、6歳から映画館に毎日通うようになった。 1939年(昭和14年)、神田電機学校(現:東京電機大学)を卒業。父親の親友だった青島順一郎撮影技師の紹介で、映画会社新興キネマに入社。撮影助手となる。 1942年(昭和17年)、新興キネマが大都映画、日活と合併、「大日本映画製作株式会社」となる。各社とも社員を1/3にリストラしての合併だったが、「このなかに何とか残った」と語っている。
井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2… 井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2010年2月11日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家である。 京都市生まれ。京都市立第一商業学校を卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学するも、1943年応召、1945年に復学して1947年に卒業。在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社。自作の脚本を盛んに売り込み、1952年、わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。雪村いづみの音楽映画などを手掛けた。 1955年、日活に移籍。当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。裕次郎は大スターとしての地位を確立した。 1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。
鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月… 鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月24日 - 2017年〈平成29年〉2月13日)は、日本の映画監督・俳優。本名:鈴木 清太郎(すずき せいたろう)。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる。 日活の専属監督として小林旭、高橋英樹、宍戸錠ら当時の日活の主力俳優の主演作品を多く手がけ、その「清順美学」と評される独特の映像表現で名を馳せた。特に宍戸錠主演の『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。一方でその実験的とも言える作風が当時の日活の経営陣の不興を買い会社を追われるなど、境遇は波乱に富んでおり、映画作家として約10年間の空白期間がある(「鈴木清順問題共闘会議」参照)。
曲谷 守平(まがたに もりへい、1923年5月23日 - )… 曲谷 守平(まがたに もりへい、1923年5月23日 - )は、日本の映画監督、脚本家である。 1923年(大正12年)5月23日、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区大井)に生まれる。 慶應義塾大学経済学部卒業。 第二次世界大戦後、東宝争議中の東宝の第三組合(新東宝の前身)でアルバイトしていた関係から、1947年(昭和22年)3月に新東宝映画製作所(のちの新東宝)演出部に入社する。助監督として斎藤寅次郎に師事し、斎藤監督のもと、太泉映画(現在の東映東京撮影所)演出部に出向したこともある。斎藤のほか、阿部豊、中川信夫、並木鏡太郎といったヴェテランたちにも師事し、チーフ助監督に昇進した。 1956年(昭和31年)には、監督に昇進、『美男をめぐる十人の女』で監督としてデビューする。
大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没… 大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である。当初、本名の大西 三郎(おおにし さぶろう)で俳優として活動、戦後、上記の筆名で助監督から監督へ昇進、のちに大西 孝典(おおにし こうてん)、橋本 忠典(はしもと ちゅうてん)とも名乗る。 1923年(大正12年)5月3日、京都府南桑田郡亀岡町(現在の同府亀岡市)に生まれる。 1938年(昭和13年)3月、旧制・亀岡尋常高等小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業、その3年後の1941年(昭和16年)、京都・太秦の日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、俳優課に配属される。「持ち前の明るい人柄」を評価され、前年に自らのプロダクションを解散して日活に入社して当時同社の看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる。
関 喜誉仁(せき きよひと、1923年4月13日 - 没年不… 関 喜誉仁(せき きよひと、1923年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。旧漢字表記関 喜譽仁、別名に沖 全吉(おき ぜんきち)、沖 弘次(おき こうじ)。 allcinema等での読み「せき きよじ」は誤りである。 1923年(大正12年)4月13日、関東州大連市(現在の中華人民共和国遼寧省大連市)に生まれる。 旧制中学校に在学中、校内での月1度の選定上映で映画に夢中になり、東京に出て、日本大学法文学部芸術学科映画専攻(現在の日本大学藝術学部映画学科)に入学する。同学在学中に、マキノ雅弘(当時は正博)に個人的に師事する。関が満18歳であった1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦し、やがて戦況は激化、応召して1944年(昭和19年)9月に同学を繰り上げ卒業する。
福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000… 福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000年〈平成12年〉12月3日)は、日本の映画監督、脚本家。満洲出身。日本大学芸術学部卒業。 1923年、中国吉林省長春県(現・長春市)で生を受ける。父が南満洲鉄道に勤務していたため、幼少期を満洲で過ごす。 1941年(昭和16年)、日本本土へ渡り、松山高等学校へ入学。1943年、日本大学に進学したが、講義にはほとんど出ず、1日の大半を読書と映画鑑賞に費やしていた。在学中、学徒動員に従事。第二次世界大戦中に外地で鑑賞した映画『無法松の一生』に感銘を受け、映画監督を志す。 1946年(昭和21年)、東宝へ入社。助監督募集を聞いて試験に参加し、200人が応募する中で合格であった。
三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年〈大正12年〉1… 三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年〈大正12年〉1月20日 - 2013年〈平成25年〉4月14日)は、日本の俳優、映画監督。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。 息子は俳優の佐藤浩市、孫は俳優の寛一郎。群馬県太田市生まれ、静岡県出身。身長178cm、体重70kg。 個性派俳優として日本映画界を牽引し、圧倒的存在感をスクリーンに残した、日本を代表する名優の一人。デビュー以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演・助演を問わず幅広く出演、映画出演の本数は180本余りに及ぶ。
高村 武次(たかむら たけじ、1923年 - 2005年)は… 高村 武次(たかむら たけじ、1923年 - 2005年)は、日本の映画監督、元岩波映画製作所社長。 旧制栃木県立栃木中学校を経て東京帝國大学法学部卒。
弓削 太郎(ゆげ たろう、1923年 - 1973年5月20… 弓削 太郎(ゆげ たろう、1923年 - 1973年5月20日【遺体発見日】)は、日本の映画監督。 東京生まれ。中央大学法学部卒業。1947年、大映東京撮影所に助監督として入社。1960年、「女は抵抗する」で初監督。以後、大映のプログラムピクチャーを多く監督した。 大映倒産後の1972年5月18日に行方不明となり、1973年5月20日に長野県北佐久郡軽井沢町の山中でミイラ化した状態の遺体が発見された。自殺とみられるが詳細は不明である。 特に表記のないものは大映東京作品 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
柴田 吉太郎(しばた きちたろう、1922年12月18日 -… 柴田 吉太郎(しばた きちたろう、1922年12月18日 - 2004年8月7日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)12月18日、北海道に生まれる。 1942年(昭和17年)、早稲田大学専門部を卒業する。1944年(昭和19年)、東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)に入社、中川信夫らに師事した。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝の設立に参加、引き続き中川や清水宏らの助監督を務めた。 1961年(昭和36年)、新東宝が倒産する。同社のプロデューサーだった佐川滉が設立した佐川プロダクションが製作し、新東宝の配給部門を分社化して設立された大宝が配給した映画『黒と赤の花びら』で、1962年(昭和37年)、40歳で監督としてデビューした。
若杉 光夫(わかすぎ みつお、1922年10月28日 - 2… 若杉 光夫(わかすぎ みつお、1922年10月28日 - 2008年12月18日)は、日本の映画監督、演出家。 京都大学法学部卒業後、1947年大映京都撮影所に入所。黒澤明らの助監督を務めるが、1950年レッド・パージで退社。1951年に島耕二の助監督を経験し、劇団民藝演出部に入団。女優の南風洋子と結婚。民藝所属の女優である若杉民(わかすぎ たみ)は娘。 1960年、有馬頼義の小説を原作とする映画『ガラスの中の少女』を監督。同作品で吉永小百合と浜田光夫は初共演した。 「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めていた。2008年12月18日、呼吸不全により神奈川県相模原市の病院で死去。
藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1… 藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1994年5月2日)は、日本の映画監督・演出家・市民運動家。群馬県富岡市出身。
小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 20… 小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 2004年10月12日)は、日本の映画監督、脚本家、占い師、山伏。 戦後、日本映画の最盛期に娯楽性の高い作品を世に数々送り出し、職人監督と評されている。長野県東筑摩郡四賀村出身。 易者・山伏名:小沢 宏瑞(おざわ こうずい)、本名:小沢 茂美(おざわ しげよし)。 少年時代は松本市で上映される無声映画を頻繁に見ていた。1930年に旧制松本中学に入学。日本大学芸術科専門部映画科へ入学し、演劇科には三木のり平、映画科には沼田曜一がいた。在学中の17歳に映画研究会を作り、熊谷久虎・マキノ正博らに講演依頼をしたのが縁で、やがて正博の家に居候をし、薫陶を受ける。
内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 … 内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 - 2000年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)7月13日、京都府宇治市菟道只川に生まれる。 1947年(昭和22年)に設立された新東宝で助監督を務める。1948年(昭和23年)からは市川崑、清水宏、小津安二郎らのチーフ助監督を務めた。 1950年(昭和25年)公開の『雪夫人絵図』では溝口健二監督のチーフ助監督に就いた。1949年(昭和24年)末にラストシーンを十和田の湖で撮影するという溝口とともにロケハンに出かけたが、既に雪が積もっており、危険だと止められたが溝口が聞き入れなかった。そのため、地元の猟師に案内してもらって雪の中を出掛けたが、積雪で歩行が困難なうえに溝口が谷に落ちるなどして大変な苦労をした。
村山 新治(むらやま しんじ、1922年7月10日 - 20… 村山 新治(むらやま しんじ、1922年7月10日 - 2021年2月14日)は、日本の映画監督。兄はドキュメンタリー監督の村山英治。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。1941年に長野工業学校卒業後、記録映画の助監督を経て、1949年に東映の前身である太泉映画入社。今井正らの助監督を務めた後、1956年に東映教育映画部の『わんぱく時代』で監督デビュー。1957年の『警視庁物語 上野発五時三十五分』で一般映画も監督するようになる。その後も『警視庁物語』シリーズをはじめとしたセミ・ドキュメンタリー的な作品を多く手がけた。 1970年代以降は主にテレビドラマ演出に活躍の場を移し、『特捜最前線』や一連の東映不思議コメディーシリーズなどの監督を長年にわたって務めた。
竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - … 竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - 2011年9月11日)は、日本の映画監督である。名の読みは「しげきち」説あり。日本映画監督協会会員。 1922年(大正11年)6月15日、山梨県甲府市に生まれる。 1940年(昭和15年)、旧制・甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業、第二次世界大戦の召集を受け出征、戦後1946年(昭和21年)に南方戦線から復員する。1947年(昭和22年)、俳優の長谷川一夫が主宰する新演伎座の文芸部に入社し、映画監督の衣笠貞之助や冬島泰三に師事する。 1953年(昭和28年)、宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)助監督課に移籍、冬島のほか、豊田四郎、丸根賛太郎、佐伯幸三らの助監督を務め、1959年(昭和29年)、同社が製作した劇場用映画『やりくりアパート』で監督に昇進、社員から契約監督となる。
番匠 義彰(ばんしょう よしあき、1922年5月13日 - … 番匠 義彰(ばんしょう よしあき、1922年5月13日 - 1992年4月12日)は、日本の映画監督。 東京都出身。父は鹿児島教会牧師や北陸学院短期大学学長を務めた番匠鉄雄。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(1940年=33回卒)を経て、1945年に早稲田大学文学部英文科卒業。大学在学中の1943年、松竹大船撮影所に助監督として入社。中村登の下で松竹大船に特徴的な映画技術や映画作法を習得。1955年、「かりそめの唇」で監督デビュー。特に喜劇を得意分野としたが、逆に情緒的・悲劇的作品においても評価を得た。1965年の「ウナ・セラ・ディ東京」をもって退社、フリーとなって活動の場をテレビ映画へ移した。
二本松 嘉瑞(にほんまつ かずい、1922年4月9日 - 没… 二本松 嘉瑞(にほんまつ かずい、1922年4月9日 - 没年不明)は、日本の元映画監督。神奈川県鎌倉市出身。出生地は福島県。 松竹が製作した唯一の怪獣映画『宇宙大怪獣ギララ』の監督として知られる。 早稲田大学商学部卒業後、同大学文学部演劇科在籍のまま、1948年に松竹大船撮影所に入社。木下惠介、黒澤明などの助監督を担当した。松竹入社前、早稲田中学校の社会科教師で永六輔を受け持っていた。 1951年の『少年期』では助監督として参加するほか、倉木先生役で出演。これは木下惠介の指名によるもので、木下は脚本の執筆段階から倉木先生役に二本松を起用することを考えていたのだとされる 1960年に渡米し、ハリウッドで合成特殊技術を学ぶ。
山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980… 山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980年6月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)3月5日、兵庫県神戸市に生まれる。立教大学卒業。 京都の映画界に入り、伊藤大輔監督の門下となり助監督を務める。1947年(昭和22年)、新東宝で助監督となる。1950年(昭和25年)、中川信夫監督の『アマカラ珍騒動』等でチーフ助監督を務めた。 1956年(昭和31年)、監督に昇進し、嵐寛寿郎主演の『剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動』で監督としてデビューした。1961年(昭和36年)の同社の倒産までに22本を監督した。1960年12月公開の『東海道非常警戒』について、映画評論家の水野和夫は、「脱出という主題を具体的な速度感で映像化して行くクライマックスのカット・バックは山田達雄監督自身が堕落した現代映画の枠から脱出するかのごとく見事」であり、「日本映画界の底辺にあると思われている人たちが、実は最も力をこめて日本映画の土台をかためていることを再認識して、僕は激しい感動を禁じえなかった。
西條 文喜(さいじょう ふみき、1921年10月23日 - … 西條 文喜(さいじょう ふみき、1921年10月23日 - 1988年6月9日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家・詩人である。本名は伊奈 文喜(いな ふみき)、別名は鶴巻 次郎(つるまき じろう)。詩人としては本名を名乗った。 1921年(大正10年)10月23日、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。伯父に作詞家の西條八十(1892年 – 1970年)、叔父に映画監督の伊奈精一(1898年 – 1962年)がいる。 旧制・駒込中学校(現在の駒込高等学校)に進学、叔父・伊奈精一の影響により幼少より映画に親しみ、1940年(昭和15年)3月、同校を卒業するとともに、叔父の紹介を得て、同年4月、新興キネマに入社する。
三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日… 三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日 - 1975年(昭和50年)9月24日)は、日本の映画監督。代表作は勝新太郎を主演に起用した「座頭市」シリーズや市川雷蔵主演の「剣」三部作(『斬る』『剣』『剣鬼』)に「眠狂四郎」シリーズ、若山富三郎を主役に据えた映画版『子連れ狼』シリーズなど。 神戸の海運業者の父親と、京都の芸妓の母親との間に、妾腹の子として京都市に生まれる。神戸市出生との説もあり、成人するまで母親に一度も会うことなく育った。旧制中学校卒業後、旧制高等学校には進学せず、立命館大学の専門部商学部を卒業。その後、日活京都撮影所に助監督として入社。1942年(昭和17年)に召集され、満州へ配属される。
赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1… 赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1月3日 - 1994年6月26日)は、日本の脚本家、映画監督、テレビドラマ演出家、著述家、大学教官である。日本映像学会会員。 1921年(大正10年)1月3日、東京府東京市神田区小川町(現在の東京都千代田区神田小川町)に、神保町の東京堂(現在の東京堂書店)支配人の子息として生まれる。 旧制・第一高等学校在学時の1940年(昭和15年)に、橋川文三と同級であり、橋川に保田與重郎の『後鳥羽院』等の著作を勧めている。自らも詩作を行い、『歴程』同人であった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、同校を卒業して東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学した。
森園 忠(もりぞの ちゅう、1921年 - 1983年2月1… 森園 忠(もりぞの ちゅう、1921年 - 1983年2月19日)は、日本の映画監督。本名は小鷹 忠(こだか ただし)。中国大連市出身。 明治大学文学部を卒業と同時に大映に入社。その後、松竹→民芸映画社を経てフリーとなる。社会派の作品で知られた。 1983年2月19日午前10時25分に脳内出血で代々木病院で死去(享年61歳)。
林 摶秋(りん でんしゅう、ウェード式:Lin Tuan-c… 林 摶秋(りん でんしゅう、ウェード式:Lin Tuan-chiu、1920年10月6日 - 1998年4月4日)は、台湾の映画監督・劇作家。日本統治期から演出家として活動し、戦後は映画界に転身して台湾映画の近代化をすすめた。日本留学時には「林博秋(りん・はくしゅう)」を名乗っていた。 林は台北で8つの鉱山を管理する富裕な家に生まれ、1938年に高校を卒業後、明治大学政治経済学部へ留学した。この間に新劇への関心を深め、ムーランルージュ新宿座の座長の仲介により、在学中から東宝映画で助監督として働き始める。このときマキノ正博や阿部豊など著名監督の作品にも関わっている。卒業後はムーランルージュ新宿座の文芸部につとめ、このとき初の自作戯曲『奧山の社(深山的部落)』を執筆・上演。
田中 徳三(たなか とくぞう、1920年9月15日 - 20… 田中 徳三(たなか とくぞう、1920年9月15日 - 2007年12月20日)は、日本の映画監督である。関西学院大学文学部卒業。大阪市東区(現・中央区)船場出身。
的場 徹(まとば とおる、1920年〈大正9年〉7月10日 … 的場 徹(まとば とおる、1920年〈大正9年〉7月10日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の特撮監督、撮影技師、ドキュメンタリー監督。東京市(現・東京都)麹町区有楽町出身。 1920年(大正9年)7月10日、東京の有楽町に生まれる。幼少時より映画に憧れを持つ。 1937年(昭和12年)、旧制中学時代にP.C.Lのエノケン物の映画を観て、「数十人に分身したエノケンの孫悟空」などといった、トリック撮影の魅力にはまる。父親、兄ともに絵描きで、母親は別方面への進学を望んだが、結局、東京美術学校 (現:東京芸術大学)に進む。 1938年(昭和13年)、東京美術学校を卒業。撮影助手募集の新聞公募を見て、日活多摩川撮影所の「技術部」に姫田真佐久と共に入社。
松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年(大正9年)7月… 松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年(大正9年)7月7日 - 2009年(平成21年)8月15日)は、日本の映画監督。元海軍士官で、僧侶でもある。法名、釈 宗惠(しゃく しゅうえ)。 島根県江津市桜江町(元邑智郡桜江町)の浄土真宗の寺の五男に生まれる。小学校から井原村満行寺(現・邑智郡邑南町)に移り、中学は広島新庄中学に入学して2年生から広陵中学(現・広陵高校)に転校し、広島市へ出た。1938年(昭和13年)に卒業した後には京都へ進み、1941年(昭和16年)に龍谷大学専門部を卒業。日本大学芸術学部に移り、在学中の1942年(昭和17年)には映画に仏心を注入したいと考え、東宝演出助監部に入る。
倉橋 良介(くらはし りょうすけ、1919年11月19日 -… 倉橋 良介(くらはし りょうすけ、1919年11月19日 - 1995年5月1日)は、日本の映画監督である。日東テレビ映画常務取締役、プロダクション鷹取締役を歴任。別名に風魔 三郎(ふうま さぶろう)。 1919年(大正8年)高知県香美郡土佐山田町(現香美市)に生まれる。京都府立京都農林学校卒業後、京都市役所の吏員として5年間働く。 その後松竹京都撮影所に入社、『破れ太鼓』(1949年)の木下恵介、『薔薇合戦』(1950年)成瀬巳喜男の助監督を務めた記録がある。1954年(昭和29年)1月27日に公開された、岩井半四郎主演の『とのさま街道』で監督に昇進している。以降、1960年(昭和35年)までの6年間に16作を監督している。
野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月… 野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月23日 - 2005年(平成17年)4月8日)とは、日本の映画監督。父は映画監督の野村芳亭、祖父は浮世絵師の二代目野村芳国。 父・芳亭は日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた。その関係で、京都と東京を行き来して育つ。京都市生まれで、生後まもなく東京市浅草区に移った。蒲田小学校から暁星小学校、暁星中学校を経て慶應義塾大学文学部芸術学科卒業。大学卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。 1946年に復員。黒澤明作品の『醜聞』『白痴』では助監督を務め、黒澤からは「日本一の助監督」と評価された。1952年の『鳩』で監督デビュー。
古澤 憲吾(ふるさわ けんご、1919年〈大正8年〉3月30… 古澤 憲吾(ふるさわ けんご、1919年〈大正8年〉3月30日 - 1997年〈平成9年〉1月16日)は、日本の映画監督。佐賀県鳥栖市出身。 1943年(昭和18年)、日本大学専門部美学科を卒業し、東宝に入社[要出典]。同年、海軍の航空戦隊に入隊。 1944年(昭和19年)、東宝が陸軍省の至上命令で製作した『加藤隼戦闘隊』(山本嘉次郎監督)に助監督参加。 1945年(昭和20年)、復員後、日大に復学。 1947年(昭和22年)、日大を卒業。 1948年(昭和23年)、東宝の監督部に入社。東宝復帰後は、市川崑、渡辺邦男、松林宗恵、本多猪四郎、稲垣浩、鈴木英夫らの助監督を務めた。 1959年(昭和34年)、『頑張れゴキゲン娘』で監督に昇進する。
近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 199… 近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 1992年7月5日)は、東京都出身の歌手、作曲家、映画監督である。本名大蔵 敏彦(おおくら としひこ)。兄は新東宝、大蔵映画社長を務めた大蔵貢、姉はコロムビア専属歌手となった香取みほ子。孫にアイドルグループ「エレクトリックリボン」の元メンバー、ericaがいる。 正則中学校卒業。武蔵野音楽学校在学中に教授と進級試験の方法を巡って対立し、1936年(昭和11年)に退学した。タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷(すべ)ろよスキー」でレコードデビュー。ポリドール・レコード専属になるまで、マイナーレコードを転々とし、その間に大友博(リーガル)、大久良俊(アサヒ)など改名を重ねるが、ヒットに結びつく作品はなかった。
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日… 西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督。鳥取県出身。 西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。 大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。
木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010… 木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010年3月21日)は、日本の美術監督、映画監督。 東京都恵比寿出身。日本映画・テレビ美術監督協会顧問、日本映像美術協議会JVA賞審査委員長、日活芸術学院学院長、映画美学校理事、東京工芸大学芸術学部客員教授、京都造形芸術大学映画学科准教授を務めた。 十代の頃より、舞台美術監督伊藤熹朔に師事。1941年、日活に入社。しかし、翌年に日活は新興キネマ、大都映画と合併して大映となる。『海の呼ぶ聲』(1945年 / 伊賀山正徳監督、封切は終戦後)で美術監督に昇進。1954年、映画製作を再開した日活へ移籍。 1963年、『悪太郎』をきっかけに鈴木清順監督作品の美術を担当、「清順美学」と呼ばれるその作風の創造に大きく貢献する。
川島 雄三(かわしま ゆうぞう、1918年2月4日 - 19… 川島 雄三(かわしま ゆうぞう、1918年2月4日 - 1963年6月11日)は、日本の映画監督。 青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。家は代々伝わる商家(酒屋)で、もともとは近江商人の出。父・徳蔵、母・ヨシの三男として生まれる。ヨシは下北半島の大畑八幡神社の娘で、川島が5歳のとき死亡。その後は義母に育てられる。運動は駄目だったが、成績優秀で本を読むのが好きな子供だった。 青森県立野辺地中学校(現:青森県立野辺地高等学校)卒業。明治大学専門部文科文芸科に入学、学生時代は映画研究部に在籍。大学卒業後、松竹大船撮影所監督部に入社。撮影所前の松尾食堂に入り浸り、居候となる。食堂の娘と縁談話が持ち上がったが、子供を作れない体であることを理由に断る。
安田 義章(やすだ よしあき、本名:安田安造<やすだ やすぞ… 安田 義章(やすだ よしあき、本名:安田安造<やすだ やすぞう>、1918年<大正7年>1月22日 - 2008年<平成20年>10月18日)は、日本の性風俗研究家、AV男優である。最晩年の別称は安田老人。 1918年(大正7年)1月22日、指物師である父、安田利作、母、キヨノの長男として、東京都荒川区にて出生。生家は職人を何人も雇う、家具製造所であった。木工が好きではなかった安造は、高等小学校卒業後の1930年(昭和5年)、神田の文房具店に奉公に出された。 この頃、得意先の女子店員に誘惑されたり、公衆便所を覗いたりして性に目覚める。 その後、築地の魚河岸で働くが、1年もしないうちに辞め、実家へ戻った。
丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 -… 丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 - 1999年)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、演出家、文筆家である。脚本家としての筆名に栄町 はじめ(さかえまち はじめ)がある。日本映画監督協会元会員、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。専修大学文学部講師、シナリオ・センター講師を歴任した。黒澤明の『生きる』、『生きものの記録』でチーフ助監督を務めたことでも知られる。 1917年(大正6年)11月17日、三重県多気郡下御糸村(現在の同県同郡明和町)に生まれる。のちに三重県立松阪高等学校の教諭を務めた丸林勝人(1921年 - 2010年)は実弟。 1937年(昭和12年)3月、早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)を卒業、同年4月には旧制早稲田大学文学部国文科(現在の早稲田大学文学部日本語日本文学コース)に進学、当時の恩師に河竹繁俊(1889年 - 1967年)がいた。
小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年… 小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年7月20日[要出典])は、日本の映画監督、テレビディレクター。岡山県川上郡吹屋町(後の高梁市成羽町吹屋)出身。 1935年に香川県立高松商業学校を卒業し、日本大学芸術学部映画学科に進学。在学中、自作の脚本が映画監督の白井戦太郎に認められ、彼に師事するために1938年に大学を中退。大都映画に助監督として入社する。 1940年に東宝映画へ移籍して編集技師になるも、1947年に[要検証 – ノート]再び助監督となり、山本薩夫に師事する。 1955年からは東映京都撮影所で活動。1958年にテレビディレクターに、そして1960年に映画監督になる。
望月 優子(もちづき ゆうこ、本名:鈴木 美枝子、旧姓:里見… 望月 優子(もちづき ゆうこ、本名:鈴木 美枝子、旧姓:里見、1917年1月28日 - 1977年12月1日)は、日本の女優、映画監督、政治家。参議院議員(1期、日本社会党)。位階は正五位。 神奈川県横浜市出身。妹は女優の中村雅子。加藤嘉は義弟(妹の夫)。1930年、東京市立忍岡高等女学校(現東京都立忍岡高等学校)を中退。 望月美恵子の芸名でムーランルージュ新宿座などで初舞台を踏む。 1942年、川端康成の媒酌で鈴木重雄と結婚。戦後は劇団民藝に参加。 1950年に松竹と契約。1958年『米』での演技が評価されてブルーリボン主演女優賞受賞。三益愛子と並んで「母物映画女優」と呼ばれた。 1959年(昭和34年)8月2日、モスクワ国際映画祭に出席のため、ソビエト連邦を訪問。
深田 金之助(ふかだ きんのすけ、1917年1月19日 - … 深田 金之助(ふかだ きんのすけ、1917年1月19日 - 1986年11月27日)は、日本の映画監督、映画製作者、元撮影技師である。 1917年(大正6年)1月19日、島根県八束郡揖屋村(現在の松江市東出雲町揖屋)に生まれる。松江商工学校(現在の学校法人島根学園)を卒業後、松江高等簿記学校(現在の松江西高等学校)に進学したが、中途退学した。 1935年(昭和10年)、日活に入社し、日活京都撮影所撮影部で撮影助手になる。1941年(昭和16年)、技師に昇進、同年5月11日に公開された『天兵童子 第一話 幼き英雄』(監督組田彰造)で撮影技師としてデビューするとともに、『天兵童子』4部作すべてを手がける。
堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12… 堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12月28日 - 2012年〈平成24年〉9月5日)は、日本の映画監督。成城大学名誉教授の堀川直義は兄。 京都府京都市出身。東京市立一中(現:九段高校)、成城高等学校(現:成城大学)を経て、1940年、東京帝国大学文学部卒業。同年、東宝撮影所製作部に演出助手係として入社。最初に山本嘉次郎の『馬』の盛岡ロケから助監督として参加し、この時にチーフ助監督だった黒澤明と仲良くなり、仕事を終えるといつも2人で飲みに回ったという。入社1年後にオーバーワークがたたって肺を病み、1年半休職する。復帰後はすでに監督になった黒澤の作品に就き、『一番美しく』『続姿三四郎』に参加、1945年に軍隊に召集されるが、敗戦となり10月に復員して東宝に戻る。
福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 19… 福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督、脚本家である。別名船橋 一(ふなばし はじめ)。1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画、松竹京都撮影所と移る。第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける。1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・インドネシア映画(英語版)も手がけた。 1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる。
日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)… 日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)は日本の映画監督、脚本家。宮崎県出身。通り名は「はんめい」。妻は元東宝専属女優の川合玉江。 主に時代劇やアクション映画などの監督を務めた。 宮崎中学校卒業後、衣笠貞之助に師事。 1936年(昭和11年)、松竹下加茂撮影所に入社。 1941年(昭和16年)、東宝に移籍。 1950年(昭和25年)、『淑女と風船』を中野潔と共同監督。 1954年(昭和29年)、『透明人間』(小田基義監督)以後、映画脚本家としても活躍。 1955年(昭和30年)、『姿なき目撃者』で正式に映画監督デビュー。 1959年(昭和34年)、東宝を退社。 1960年(昭和35年)、第二東映に入社。
鈴木 英夫(すずき ひでお、1916年〈大正5年〉5月10日… 鈴木 英夫(すずき ひでお、1916年〈大正5年〉5月10日 - 2002年〈平成14年〉5月2日)は、日本の映画監督。愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)出身。スリラーとサスペンスの名手とされ、最晩年に再評価された。 1916年(大正5年)5月10日、現在の愛知県蒲郡市に生まれる。家業の船舶運送業を継ぐべく進学するが、映画好きが昂じて、1933年(昭和8年)日本大学藝術学部に入学。23歳になる1939年(昭和14年)、卒業と同時に豊田四郎の遠縁を頼って新興キネマ東京撮影所の助監督部に入社。1943年(昭和18年)東宝への移籍を経て、1944年(昭和19年)大映東京撮影所に移籍。 1941年(昭和16年)、助監督の身分で舟橋聖一の原作を脚色した『母代』が、師匠である田中重雄監督の手によって映画化され、評判になる。
南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年… 南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は松角 知己男(まつかど ちきお)。1936年(昭和11年)に大都映画に入社して助監督となり、その後、大毎東日映画部、日本映画社、満洲映画協会を経て、第二次世界大戦後に独立した。1964年(昭和39年)から成人映画を手がけ、黎明期の作家とされる。第八芸術映画プロダクション代表、「亜細亜文化振興会」情報部長を歴任した。 1916年(大正5年)4月13日、長崎県北高来郡湯江村(現在の同県諫早市高来町湯江)に生まれる。叔父に新国劇理事を経て、戦後、東宝取締役、東宝舞台代表取締役社長を歴任した俵藤丈夫(1893年 - 1964年)がいる。
柳澤 壽男(柳沢 寿男、やなぎさわ ひさお、1916年〈大正… 柳澤 壽男(柳沢 寿男、やなぎさわ ひさお、1916年〈大正5年〉2月24日 - 1999年〈平成11年〉6月16日)は、日本の映画監督である。 1916年、群馬県佐波郡玉村町に生まれる。 溝口健二に師事。松竹下加茂撮影所にて、大曽根辰夫や犬塚稔の助監督を務めた。亀井文夫監督の『小林一茶』を見て、ドキュメンタリー映画への道を志すことになり、1942年に松竹を退社した。1943年から1950年までのあいだ、日本映画社にて、『富士山頂観測所』などの作品を手がけた。1953年に岩波映画製作所と契約し、『新風土記 北陸』や『室町美術』などの文化映画を手がけた。1960年代半ばに岩波との契約を解消したのち、自主製作のドキュメンタリー映画に転身し、『夜明け前の子供たち』や『風とゆききし』などを手がけた。