海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 19… 海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 1953年)は、明治期の大日本帝国陸軍軍人。茨城県龍ケ崎市出身。最終階級は歩兵特務曹長。日露戦争にて金鵄勲章を受章した。 明治期・皇室警護の近衛兵として、全国将兵の中から選抜(五代前まで調査があり、県知事・連隊長・郡市役所幹部・駐在の警察官の責任で推薦された)され、「近衛連隊」に入隊。当時、歴代の皇太子が在籍した近衛歩兵第一連隊は、帝国陸軍の最高峰だった。 日露戦争に出征し、奉天進軍。明治38年(1905年)3月10日、奉天付近では既に屍が累々としており、海老原半三郎の所属する近衛歩兵第一連隊においてもロシア軍の総反撃により、将兵はことごとく第一戦に展開し、肉弾相打つ激戦となる。
山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月… 山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月15日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村(現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した。 松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された。
新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12… 新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉11月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県出身。新井沢次郎の四男として生まれる。群馬県境野小学校、同山田第一高等小学校、錦城商業学校を経て、1896年(明治29年)11月陸軍士官学校(8期)を卒業。翌年6月、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵第16、9、35の各連隊付を経て、1903年(明治36年)陸軍大学校に入学。 日露戦争の勃発に伴い修学を中退、原隊復帰、第一回旅順攻撃(歩兵第35連隊第12中隊長)、第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。 1907年陸軍大学校(第19期)を卒業。
朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2… 朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2日 - 1929年(昭和4年)9月6日)は、明治から大正時代の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。貴族院議員、子爵、工学博士。福知山藩13代(最後)の藩主朽木為綱の子。妻は徳川篤守の娘芳子。陸軍の火薬研究の権威であった。 1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24… 阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24日 - 1953年〈昭和28年〉9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期(恩賜)、陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。 予備役編入後、内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第59代)、翼賛政治会総裁(初代)、貴族院議員、朝鮮総督(第9代)を歴任した。 石川県金沢生まれ。父は旧金沢藩士・阿部信満。東京府尋常中学校を経て、第四高等学校に進むも中退し、陸軍士官学校に進んで陸軍砲兵将校となる。陸軍少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長の要職を務め、陸軍中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して陸軍大将に親任された。
町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16… 町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。
福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 19… 福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 1959年7月30日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日… 伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日 - 1958年(昭和33年)6月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 岡山県岡山市桶屋町出身。鹿児島県士族の伊丹親恒の長男として生れる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第20連隊付となる。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第20連隊中隊長に就任。参謀本部出仕、参謀本部員を経て、1904年(明治37年)4月、第10師団参謀に発令され日露戦争に出征した。
青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日… 青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日 - 1946年(昭和21年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛知県愛知郡長湫村(現長久手市)で、青山甚兵衛の長男として生まれる。1896年(明治29年)陸軍士官学校第8期卒業。日露戦争に出征。 1917年(大正6年)8月に大阪連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐、1920年(大正9年)8月に近衛歩兵第4連隊長を経て、1924年(大正13年)2月に陸軍少将・第10師団司令部附となる。その後、1925年(大正14年)4月に歩兵第22旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15… 升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15日 - 1949年(昭和24年)5月10日)は、日本の政治家、官僚、弁護士、陸軍軍人。衆議院議員(立憲民政党)。最終階級は陸軍大尉。 島根県飯石郡赤名村(現・飯石郡飯南町)に難波常八郎の子として生まれ、伯母升田きしの養子となった。1900年(明治33年)11月21日、陸軍士官学校(12期)を卒業し、1901年(明治34年)6月25日、歩兵少尉に任官。日露戦争への従軍を経て、陸軍大尉に累進した。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業し、1913年(大正2年)には法律科を卒業した。高等文官試験に合格し、陸軍省参事官、岐阜県不破郡長、同本巣郡長、国勢院事務官、同書記官、大蔵事務官、国勢院総裁秘書官を歴任し、1922年(大正11年)に退官して弁護士を開業した。
水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年… 水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年(1875年)5月24日 - 昭和20年(1945年)10月18日)は、日本海軍の軍人・軍事評論家。最終階級は海軍大佐。父は旧松山藩能方の水野光之で末子。
小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年… 小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。
植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日… 植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日 - 1962年〈昭和37年〉9月11日)は、日本の陸軍軍人。陸士10期、陸大21期。陸軍大将正三位勲一等功三級。 大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。陸軍軍吏、植田謙八の二男として生れる。北野中学校、東京高等商業学校(現:一橋大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、騎兵少尉任官。陸士生徒隊附、騎兵監部員などを経て、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業。第18師団参謀、第16師団参謀、陸軍省軍務局課員、参謀本部附(欧州出張)などを歴任。シベリア出兵に際しては、浦塩派遣軍参謀として出征した。
関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年(明治8年)2月15… 関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年(明治8年)2月15日 - 1939年(昭和14年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1875年(明治8年)2月15日、高知県長岡郡大篠村(現在の南国市)に生まれた。初め宮地氏を称し、3歳にして父に別れ、醫家関田修斎に養われて、その家を継いだ。夙に才学に秀で、海南学校より海軍兵学校に進学し卒業(24期)。明治30年10月、少尉候補生を命ぜられるとともに軍艦比叡乗組となり、後、松島や厳島に転じ、翌年4月1日海軍少尉に任ぜられ、尋いで5月10日正八位に叙せられた。宇治艦長、最上艦長、松江艦長、満州艦長などを歴任。のち少将を任官。退役後は郷土史の研究をした余生を過ごした。
重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14… 重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14日 - 1938年(昭和13年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。広島県出身。
緒方 勝一(おがた しょういち、1875年1月25日 - 1… 緒方 勝一(おがた しょういち、1875年1月25日 - 1960年12月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)… 長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)1月12日 - 1945年(昭和20年)11月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1894年(明治27年)12月、士官候補生(8期)として陸軍に入る(原隊は歩兵第5連隊)。1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。 日露戦争では歩兵第5連隊中隊長、後備歩兵第5連隊副官として黒溝台会戦に参加した。盛岡連隊区司令官などを経て、1924年(大正13年)2月、歩兵第31連隊長に就任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将昇進と同時に待命となり、同年12月、予備役に編入された。
木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日… 木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日 - 1968年(昭和43年))は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍中将。栄典は正二位勲二等。 1875年、元東与賀村助役木下善次の長男として生まれる。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校に8期生として入校。成績優秀で所謂「恩賜の銀時計」組であった。日露戦争に従軍し、遼陽会戦にて負傷し前線を離れた。戦後は陸軍大学校に学び(陸大18期)ここでも銀時計組となった。 その後は歩兵第56連隊長、第2師団参謀長、歩兵第29旅団長を経て1925年(大正14年)旅順要塞司令官に着任。軍事に加え遼東半島の軍政を司った。
石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日… 石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、生気研究者。基隆要塞司令官を務めた陸軍少将で、また生気自強療法を唱え生気の医療への応用を図った。従四位勳三等功四級。
千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1… 千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1月) - 昭和15年(1940年)12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。 米沢藩士・千坂高雅の三男として生まれる。 明治29年(1896年)11月26日陸軍士官学校(第8期)卒業、明治30年(1897年)6月28日陸軍少尉任官。 明治31年(1898年)歩兵第5連隊付、明治32年(1899年)11月17日陸軍中尉任官。明治36年(1903年)歩兵第31連隊中隊長、明治 37年(1904年)戦時大本営陸軍部管理部 副官歩兵大尉、明治42年(1909年)5月20日陸軍少佐任官。明治 45(1912年)第二師団副官、大正3年(1914年)歩兵第3連隊大隊長 、大正4年(1915年)12月23日陸軍中佐任官、同日予備役編入。
小川 關治郎(おがわ せきじろう、1875年〈明治8年〉 -… 小川 關治郎(おがわ せきじろう、1875年〈明治8年〉 - 1966年〈昭和41年〉)は、日本の陸軍法務官。甘粕事件や二・二六事件で軍法会議に携わった人物として知られる。 1875年(明治8年)、愛知県海東郡木折村(現在の愛知県あま市)に生まれた。20歳頃までは同地にて過ごしたものの幼少の頃より向学心が強く、中学卒業後は一度就職したが1898年(明治31年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学している。 大学では座布団がすり切れるほどに国史・法律の勉強を重ねたと言われている。卒業年次は不詳ながら、1904年(明治37年)12月には司法官試補を命ぜられて、当時の『官報』では、横浜地方裁判所及び同検事局並びに横浜区裁判所及び同検事局において「事務修習スヘシ」と記されている。
伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11… 伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11月28日 – 1959年(昭和34年)3月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 長崎県長崎市出身。1898年(明治31年)、陸軍士官学校を卒業。最終階級は陸軍大佐。シベリア出兵に従軍した。帝国在郷軍人会長崎市聯合分会長、同本部評議員、同西彼杵郡聯合分会長、長崎護国会長、大政翼賛会長崎県協力会議長、同中央協力会議員などを務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に長崎1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。
久野 工(ひさの たくみ、1874年〈明治7年〉11月10日… 久野 工(ひさの たくみ、1874年〈明治7年〉11月10日 - 1960年〈昭和35年〉6月3日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。神奈川県横須賀市長。海軍主計中将正四位勲二等。 旧土佐藩士・久野克記と母・亀の長男として高知県土佐郡久万村(初月村を経て現・高知市)に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1891年(明治24年)高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)を経て、明治法律学校2年修了。 1896年(明治29年)海軍少主計候補生を命ぜられ、佐世保海兵団附、佐世保鎮守府監督部附を経て、1905年(明治38年)海軍主計少監に進む。ついで、英国出張(鹿島回航委員)に赴き、1910年(明治43年)造船造兵監督会計官に任官すると、英国へ再度赴任し、1912年(明治45年)帰朝する。
八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9… 八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9日 - 1938年(昭和13年)1月16日)は、日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。 福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。 1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。
池田 岩三郎(いけだ いわさぶろう、1874年(明治7年)8… 池田 岩三郎(いけだ いわさぶろう、1874年(明治7年)8月23日 - 1937年(昭和12年)2月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。広島県出身。
南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 … 南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。
松井 兵三郎(まつい ひょうざぶろう、1874年〈明治7年〉… 松井 兵三郎(まつい ひょうざぶろう、1874年〈明治7年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉9月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功五級。 京都府上京葭屋町通(現京都市上京区)で商家・松井鑰三郞の長男として生まれ、1883年(明治16年)に家督を相続した。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業。 1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年(明治30年)1月、陸軍歩兵少尉に任官し近衛歩兵第1連隊付となる。1901年(明治34年)10月、陸軍大学校(18期)に入学したが、日露戦争勃発のため1904年(明治37年)2月に陸大を中退。
藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月… 藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月15日 - 没年不明)は日本の陸軍教授、教育者、数学者。 石川県士族の家に生まれる。1891年(明治25年)7月に予科を卒業し、9月に第四高等中学校の特待生を勝ち取った。1894年、(明治28年)7月、第四高等学校第二部理科を卒業。1898年(明治31年)7月、東京帝国大学を卒業。8月12日、高等官八等を以て陸軍教授に就任し、8月13日に陸軍砲工学校附を命じられた。8月19日、東京帝国大学大学院に入学し、帰納幾何学を専攻。学士会にも参加している。1903年(明治36年)12月1日より砲工学校に復職。1904年(明治37年)10月28日、歩兵少尉に任命され従軍、翌1905年(明治38年)12月30日に退役した。
渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉… 渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉4月16日 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士8期・陸大17期首席。最終階級は陸軍大将。位階勲等は 従二位勲一等功五級。 1874年(明治7年)、愛知県小牧町(現:小牧市)に生まれる。煙草商である和田武右衛門の長男であったが、19歳の時に、同県岩倉町(現:岩倉市)の母親の実家である農業・渡辺庄兵衛の養子となった。貧窮のために小学校を中退せざるを得なかった。満20歳となった1894年(明治27年)4月に徴兵検査を受けて甲種合格し、同年8月、陸軍士官学校の召募試験に合格し、陸士8期を卒業して陸軍歩兵将校となった。
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治… 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治7年〉3月9日 - 1951年〈昭和26年〉1月1日)、または梨本 守正(なしもと もりまさ)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。梨本宮家第3代当主。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。明仁上皇の大叔父にあたる。また、娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王公族だった李王垠に嫁いでいる。 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。
雨宮 量七郎(あまみや りょうしちろう、明治7年(1874年… 雨宮 量七郎(あまみや りょうしちろう、明治7年(1874年)2月26日 - 昭和40年(1965年)2月)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉病院長、海軍医学校校長、海軍省医務局長を歴任する。埼玉県出身。 明治7年(1874年)2月26日、雨宮春潭の三男として出生する。明治33年、東京帝国大学医学部を卒業し、東京海軍軍令部に所属する。その後、海軍造幣廠、海軍軍医学校へ入校し卒業を経て、呉海軍病院第二部長となる。この後、海軍軍医学校教官、同校教頭となり、艦政本部技術会議員、佐世保鎮守府軍医長、呉海軍病院長を経て、大正13年(1924年)12月1日、海軍医学校校長となる。 翌年、大正14年(1925年)12月1日に海軍中将に昇進し、海軍省医務局長に就任。
香椎 秀一(かしい しゅういち/ひでかず/ひでいち、1874… 香椎 秀一(かしい しゅういち/ひでかず/ひでいち、1874年2月23日 - 1962年4月13日)は、大正から昭和期の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍中将香椎浩平の兄。 福岡県出身。福岡県立尋常中学修猷館を経て、1895年(明治28年)1月1日に陸軍士官学校(6期)を卒業。同年5月、歩兵少尉任官。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業。のちドイツ駐在となる。 1914年(大正3年)8月、大分連隊区司令官に就任。1915年(大正4年)8月、歩兵大佐に昇進し、同年9月21日、歩兵第61連隊長となる。1917年(大正6年)4月5日に関東都督府(後の関東軍)高級参謀に転じた。
星村 市平(ほしむら いちへい、1874年(明治7年)1月2… 星村 市平(ほしむら いちへい、1874年(明治7年)1月25日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。戒名海徳院釋無量宝寿居士 熊本県玉名市出身。1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。 1923年(大正12年)8月に陸軍歩兵大佐・小倉連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に歩兵第16連隊長を経て、1928年(昭和3年)8月10日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に、のち1933年(昭和8年)4月に後備役に編入した。
津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月… 津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月25日 - 1930年(昭和5年)9月2日)は、大日本帝国陸軍の軍人、政治家。熊本県出身。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 熊本藩士、陸軍大尉・津野田是秋の長男として生まれる。中学済々黌、陸軍幼年学校を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(第6期)歩兵科を首席卒業。同年5月、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第1連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業。 1901年(明治34年)6月、参謀本部出仕となり、参謀本部部員、フランス駐在、参謀本部付を経て、1904年(明治37年)5月、第3軍参謀に発令され日露戦争に出征。
吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月… 吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月17日 - 1959年(昭和34年)1月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。吉川弥之助の長男として生れる。周陽学舎、鴻城義塾、山口高等学校を経て、1895年12月、海軍兵学校(22期)を卒業し、1897年1月、海軍少尉任官。日露戦争では、第14水雷艇隊艇長として出征し、日本海海戦には、駆逐艦「陽炎」艦長として参加した。海兵副官を経て、1909年5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業した。 「豊橋」副長、第1潜水艇隊司令、イギリス駐在、海大教官、「伊吹」副長、第3艦隊参謀長、「利根」艦長、艦政本部造船造兵監督官、海軍省人事局第1課長、「比叡」艦長などを歴任し、1919年12月、海軍少将に進級。
宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11… 宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11月3日 - 1948年(昭和23年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 島根県出身。のちの能義郡広瀬町(現安来市)で生まれる。1896年(明治29年)11月に陸軍士官学校(第8期)を卒業し、1897年(明治30年)6月、砲兵少尉に任官。 1903年(明治36年)、砲兵大尉に進み野戦砲兵第2連隊中隊長となり日露戦争に従軍した。1920年(大正9年)4月に野砲兵第1連隊長、同年9月に陸軍砲兵大佐を経て、1924年(大正13年)12月に陸軍少将・澎湖島要塞司令官に任官。 その後、1926年(大正15年)3月に野戦重砲兵第1旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6… 宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 高知県香美郡夜須村西山(現・香南市夜須町西山)に生まれる。周馬・政の長男。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)から東京成城中学校に転校し、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。第3軍に属し、日露戦争に出征。 1913年(大正2年)台湾総督府陸軍副官、1920年(大正9年)8月に津連隊区司令官、1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)8月に歩兵第45連隊長に任ぜられた。
山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31… 山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31日 - 1971年〈昭和46年〉1月11日)は、日本陸軍の軍人・著述家・中国文学研究者・翻訳家。別号は三志園、海城。最終階級は陸軍大佐。陸軍の中国通(支那通)の一人として知られ、繆斌工作に関与していた。娘婿は自由民主党の政治家である三原朝雄。新潟県村上本町表新町(現・村上市)に生まれる。 旧士族・山縣正升の長男として生まれる。村上私学校を中退して陸軍教導団歩兵科に入り、1894年(明治27年)3月に卒業。歩兵二等軍曹として日清戦争に参戦した。1898年(明治31年)12月、士官候補生となり、陸軍士官学校(12期)に入学(同期に小磯國昭らがいる)。
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。
堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉… 堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉5月25日 - 1955年〈昭和30年〉5月12日)は、明治から昭和時代の医学者、大日本帝国陸軍軍医。 堀内直学の長男として丹波国多紀郡篠山北新町(現・兵庫県丹波篠山市北新町)に生まれ、1888年(明治21年)7月、家督を相続する。 1894年(明治27年)第二高等学校医学部(現・東北大学医学部)を卒業し、陸軍に入り、三等軍医となる。1896年(明治29年)台北病院医務嘱託、台北県医院医員、台湾総督府医院医員、台湾総督府医学校助教授、同校舍監、同校教授、同医院医長を歴任する。1912年(大正元年)多紀郡出身者として初めて医学博士の学位を授かる。
伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14… 伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14日 - 1951年(昭和26年)9月15日)は、明治後期から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。海軍造機少将、貴族院男爵議員。 東京府出身。海軍士官・伊藤雋吉の長男として生まれる。父・雋吉の死去に伴い、1921年(大正10年)5月10日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1898年(明治31年)10月、海軍造船学生となり、1899年(明治32年)6月、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。同年6月、海軍造船中技士に任官し横須賀海軍造船廠造機科主幹に就任。以後、艦政本部部員、造船監督官、舞鶴海軍工廠造機部長、艦政局第三課長などを歴任し、1917年(大正6年)6月、横須賀海軍工廠造機部長に就任。
金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 19… 金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 1933年6月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月2… 有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月21日 - 1955年(昭和30年)1月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県豊浦郡、のちの長府町字金屋浜(現下関市)出身。旧長府藩士・有川常友の長男として生れる。山口高等中学校中退を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(6期)を卒業。同年5月、工兵少尉に任官し工兵第5大隊付となる。1898年(明治31年)12月、陸軍砲工学校高等科(6期)を優等で卒業し陸軍築城部本部付となる。 1899年(明治32年)8月、ドイツ駐在となり、砲工学校教官を経て、1904年(明治37年)6月、第8師団兵站電信部長に就任して、同年10月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征し、この間、第3軍司令部付(兵站電信部長)を務めた。
羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月1… 羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月16日 - 1944年(昭和19年)2月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。政治家。最終階級は陸軍少将。功四級。 兵庫県多紀郡出身。鳳鳴義塾(現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)を経て、1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。歩兵第6連隊附となり、日露戦争に出征。 戦後、名古屋陸軍幼年学校生徒監、近衛歩兵第2連隊大隊長を歴任。ついで、1917年(大正6年)8月に釧路連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第58連隊長(第13師団、歩兵第26旅団)に補されシベリア出兵に従軍。その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将に昇進と同時に待命。
安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治… 安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治6年〉3月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 徳島県名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる。1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する。1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業。 参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀。1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・京都連隊区司令官。
木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 … 木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 - 1972年8月25日)は、日本の陸軍軍人。歩兵将校の後主計科に転じ、陸軍被服本廠長・第1師団経理部長・陸軍経理学校長を歴任する。階級は陸軍主計総監。 広島県福山市に生まれる。尋常中学福山誠之館を経て、1891年(明治24年)志願兵として入営、1892年(明治25年)から陸軍士官学校(5期)に入校、1894年(明治27年)7月27日に卒業する。同年9月18日、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵将校として大尉迄進むが、1902年(明治35年)から経理将校を目指し陸軍経理学校に入校する。 1904年(明治37年)に卒業し改めて陸軍二等主計に任官され騎兵第1連隊附を命ぜられる。
緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 … 緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 - 1940年〈昭和15年〉6月4日)は、熊本県出身の日本の剣道家(教士)、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は、陸軍歩兵中尉(従七位勲六等)、元熊本県議会議員。 明治6年(1873年)1月12日、父清彦、母千伊の長男として熊本県西合志村梅屋敷(現合志市)に生まれる。 心通学舎(現・合志小学校)から済々黌で学び、東京師範学校に入る。剣道は新陰流(戸波派)宮川末五郎の相伝を受け、第十九代当主となる。 明治30年(1897年)から明治33年まで第五高等学校に奉職。同僚に夏目漱石がいる。 明治33年(1900年)三宅多留次と武徳祭にて柔道試合。 明治36年(1903年)より紫溟会から熊本県議会議員選挙に出馬、当選。
平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - … 平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - 1942年(昭和17年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵少佐。『会津戊辰戦争』の著者として知られる。 父は旧会津藩士・平石甚五郎。平石は再建された会津中学の1回生で、松江春次は同級生である。中途退学し1893年(明治26年)陸軍教導団歩兵科生徒隊に入団。翌年、歩兵第17連隊附二等軍曹となる。日清戦争を迎え、橋頭集、楊家屯、羊亭集と歴戦し、一等軍曹へ昇進した。戦役中は台湾へも渡っている。帰国後歩兵第32連隊附等を務め、曹長として陸軍士官学校に勤務し、陸軍経理学校軍吏学生に採用された。のち日露戦争に出征し、少佐まで昇進している。
宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5… 宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5年11月25日〉 - 1945年9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1872年(明治5年)、高知城下大川筋(現在の高知市)に生まれた。海南中学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業した。 堺連隊区司令官などを経て、1915年(大正4年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第68連隊長に就任。1917年(大正6年)8月、第1師団参謀長となり、中支那派遣隊司令官に転じ、1919年(大正8年)4月、陸軍少将に進級。
上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(… 上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(明治5年11月20日)- 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。 香川県香川郡一宮村(現高松市)で上原秀次郎の長男として生まれる。1896年5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年1月25日、陸軍歩兵少尉に任官。義和団の乱、日露戦争に出征。陸軍大学校(17期)で学び、1903年11月28日に卒業した。 以後、参謀本部部員、陸軍大学校教官、第4師団参謀、歩兵第62連隊長、第11師団参謀長、陸軍航空部附、航空部員などを歴任。1921年7月20日、陸軍少将に進み近衛歩兵第1旅団長に就任。