上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2… 上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2004年4月3日)は、日本の武術家。本部朝勇の高弟の一人であり、本部御殿手古武術の第12代宗家。 1904年(明治37年)、沖縄県島尻郡小禄村(現・那覇市小禄)に上原蒲戸の五男として生まれた。上原家は農業と味噌・醤油の醸造を生業とする比較的裕福な家庭であったが、清吉が小学生の頃、兄の事業の失敗で一家は一転苦しい生活に追い込まれた。これが原因で、清吉も進学を断念し家業を手伝うことになった。 1916年(大正5年)に本部朝勇の道場に入門した。本部朝勇は、旧琉球王族である本部御殿の直系当主であり、弟には当時沖縄最強の唐手(現・空手)家として知られた本部朝基をもつ著名な武術家であった。
紙本 栄一(かみもと えいいち、1903年(明治36年)8月… 紙本 栄一(かみもと えいいち、1903年(明治36年)8月5日 - 1995年(平成7年)12月6日)は、日本の武道家。段位は居合道範士九段、剣道範士八段、銃剣道教士七段。居合の流派は夢想神伝流。「剣居一体」を唱え、全日本剣道連盟居合の制定に尽力した。 山口県熊毛郡田布施町の農家の長男として生まれる。小学校3年生のとき、村の駐在から手ほどきされた剣道に夢中になる。「駐在さんと打ち合って小手が決まった、というそのときのワクワクした気分がわたしの人生を決めた」という。 旧制中学校卒業後の1920年(大正9年)、17歳で現役志願兵として海軍呉海兵団に入隊。軍務に精励と同時に、呉鎮守府剣道師範の堀正平並びに海軍集会場剣道教師の福島小一に師事する。
橋本 正武(はしもと まさたけ、1903年〈明治36年〉1月… 橋本 正武(はしもと まさたけ、1903年〈明治36年〉1月13日 - 1983年〈昭和58年〉7月11日)は、日本の武道家(剣道、居合道)、林野技術官僚。 茨城県多賀郡十王町(現日立市)で生まれる。曾祖父、祖父は1864年(元治元年)、天狗党の乱に参加。父熊之介は私塾輔仁学舎で水戸学を学び、水戸東武館で剣道を修めた。その弟の統陽は東京美術学校で彫刻を学びながら有信館で剣道、居合を修行していた。 1920年(大正9年)、県立水戸農学校を優秀な成績で卒業し、進学するために叔父の統陽を頼って上京。統陽の口利きで有信館の二階の部屋を与えられ、予備校に通いながら中山博道に剣道、居合を学ぶ。 1921年(大正10年)、東京帝国大学農学部林学実科に入学。
井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12… 井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12月3日 - 平成6年(1994年)4月13日)は、日本の武道家。親英体道(親和体道)の創始者である。合気道の開祖植芝盛平(うえしば もりへい)は叔父にあたる。 本名は井上要一郎といい、鑑昭は別名である。その他の別名として、祥治(よしはる)・聖祥(せいしょう)・方軒(ほうけん)・照祥(てるよし)と名乗っていた時期もある(この項では、一般的な鑑昭の表記で統一する)。 和歌山県西牟婁郡(現在の田辺市)に生まれる。生家は貿易商を手広く営む裕福な家庭で、生活には何不自由なく育ったが、井上自身はすぐに風邪をひいて寝込んでしまう体の弱い少年であった。
閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治… 閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治35年〉8月3日 - 1988年〈昭和63年〉6月18日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人、居合道家、剣道家。閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子。閑院宮第7代当主にして最後の当主。軍人としての階級は陸軍少将。全日本居合道連盟第2代会長。栄典は大勲位・功四級。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし、「閑院 春仁(かんいん はるひと)」と名乗った。のちに「純仁(すみひと)」と改名した。 1902年(明治35年)8月3日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子(第5子)として誕生。 学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期、兵科・騎兵)を卒業。
富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 197… 富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本の武道(合気道・柔道)家。教育学者(武道論)。日本合気道協会、秋田県角館町(後の仙北市)出身。 満州建国大学教授、早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。
額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 198… 額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の著名な剣道家および居合道家である。その段位称号は剣道範士八段、居合道範士九段に達している。 額田長は1900年、香川県高松市の銀行家の家庭に生まれた。1914年(大正3年)、県立高松中学校に入学し、体育祭の剣道行事で突如10人を勝ち抜き、これが剣道を始めるきっかけとなる。同校剣道部の師範であった植田平太郎(天真正伝神道流)に師事し、その才能を開花させた。 1918年(大正7年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)への入学を目指し上京するが、受験には失敗した。この時、九段坂で高野佐三郎(中西派一刀流)が主宰する道場「明信館」を見つけ、そこに入門した。
藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13… 藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13日 - 1966年(昭和41年)1月4日)は、甲賀流忍術を受け継いだ忍術家・武術家。甲賀流忍術第14世(甲賀二十一家の和田惟政から14代目と称した)。本名は「藤田 勇治」(ふじた ゆうじ)。生涯本名を嫌い、著書では「藤田 勇」(ふじた いさむ)を本名とし「藤田 西湖」(ふじた せいこ)と称す。「西湖」は画家(忍術修行の一つとして画業にも熟達していた)としての雅号。幼少より家伝の忍術を修行し継承、「最後の忍者」という異名を持つ。甲賀流忍術以外に南蛮殺到流拳法、大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術も継承。 東京・浅草出身。日本大学宗教科卒業。
河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月… 河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月19日 - 1974年〈昭和49年〉5月20日)は、日本の居合道家、剣道家、武道家。無双直伝英信流第20代宗家。段位称号は全日本居合道連盟範士、名人位。旧大日本武徳会剣道錬士。現大日本武徳会剣道九段。百錬は号で、本名は稔。 無双直伝英信流第18代宗家、穂岐山波雄ならびに第19代宗家、福井春政に師事し、その後第20代宗家を継いだ。居合に関する書籍を多数出版しており、中でも『大日本居合道図譜(1943年)』、『無雙直傳英信流居合兵法叢書(1955年)』、『居合道真諦(1962年)』などは名著であり、半世紀以上経った現在でもこれをバイブルとする居合道家は少なくない。
黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1… 黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1976年(昭和51年)12月10日)は、日本の武術家。号は鉄心斎。身長165cm。黒田家に代々伝わってきた武術である民弥流居合術、駒川改心流剣術、四心多久間流柔術、椿木小天狗流棒術、誠玉小栗流殺活術を引き継ぐ振武館の道場主。父は黒田正郡。振武館の技は泰治の子の黒田繁樹、そして孫の黒田鉄山へと継承された。古武術の高度な理合を昭和の時代に体現することのできた達人であったと評される。 ※以上は孫の黒田鉄山が祖父から伝え聞いた話として著書等で語ったものである。
政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明… 政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明治29年〉1月19日 - 1973年〈昭和48年〉7月9日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道範士七段。居合の流派は無双直伝英信流。 高知県吾川郡小川村(現・いの町小川柳野)で生まれる。高知県立第一中学校に入学し、吾川郡の中学生用の寄宿舎で生活しながら、剣道を川崎善三郎に学ぶ。寄宿舎の先輩で高知県立第二中学校5年生の森繁樹から、第二中学校で大江正路という剣道教師が希望者に居合(無双直伝英信流)を教えていると聞いた政岡は、居合を習ってみたいと思うようになる。その翌年、第二中学校は第一中学校に合併され、大江は第一中学校に赴任した。
尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月1… 尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月13日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の剣術家。流派は無雙神傳英信流、無双神伝抜刀術兵法第18代宗家、神伝流始祖宗家、貫心流剣道免許皆伝、全国居合道連盟初代会長。全日本居合道連盟3代会長。居合道十段、剣神位。剣道九段範士。 徳島県鳴門市大津町大代生まれ。幼少の頃から剣道の修行に励み、貫心流剣道の免許皆伝を允可される。45歳のとき無双神伝抜刀術兵法17代宗家植田平太郎竹生より本格的に居合道を学び始める。昭和19年12月31日、大日本武徳会会長東條英機から居合道練士の称号を拝受する。 1949年(昭和24年)7月25日、無双神伝抜刀術兵法18代宗家を継承する。
久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年… 久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年10月31日)は、日本の武道家。大東流合気柔術の継承者である。 1895年、高知県安芸郡佐喜浜村(現・室戸市)出身。大阪の成器商業学校(現在の大阪学芸高等学校・附属中学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学(第13回生)。神戸高商では相撲部のキャプテンを務め、関西学生相撲大会で優勝するなどした。 1919年(大正8年)に神戸高商を卒業し、鈴木商店に入社。鈴木商店と深い関係がある高知商業学校(現在の高知商業高等学校)の校友となり、職務の間に同校をたびたび訪れて相撲部のコーチを務めた。鈴木商店内には「高商派」(神戸高商出身者)と「土佐派」(高知県出身者、とくに高知商業出身者)の派閥があり、久はその双方に属し得る立場であったが、金子直吉の側近を自負した久は土佐派の中核となって行動し、台湾銀行からの金子退陣要求に対して強い抵抗を示した。
国井 善弥(國井 善彌、くにい ぜんや、1894年1月20日… 国井 善弥(國井 善彌、くにい ぜんや、1894年1月20日 - 1966年8月17日)は、昭和の日本の武術家。鹿島神流第十八代宗家。福島県いわき市常磐関船町宿内出身。本名は道之。昭和の今武蔵と呼ばれた。 祖父の16代国井新作、父の17代国井英三により、幼少期から家伝の鹿島神流(鹿島神伝直心影流)を教わる。父の命で19歳で外に出て佐々木正之進から新陰流剣術、栖原邦泰から馬庭念流剣術、妙道流柔術を師事。鹿島神流を大成させる。 その後、第1次世界大戦に徴兵され、卓越した武術が軍内で評判となり、陸軍戸山学校の教官に任じられる。中山博道らと共に古流武術を組み直し、戸山流片手軍刀術を開発。成果を上げたことにより校庭に本人の銅像が建立された。
奥田 真夫(おくだ さねお、明治27年(1894年) - 昭… 奥田 真夫(おくだ さねお、明治27年(1894年) - 昭和61年(1986年)5月13日)は、明治・大正・昭和時代の剣術家。初め剣道と直心影流(薩摩影之流)を修めたが、後に第十一代宗家薬丸兼文より薬丸自顕流剣術を継承する。 長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)卒業後、百四十七銀行(現在の鹿児島銀行)に勤務。1943年(昭和18年)に満州に渡る。帰国後、東條病院事務官として勤務する。そのかたわら、薬丸自顕流の指導に尽力すること五十余年、この間、各地での古武道大会に出場した。戦前に奥田より薬丸自顕流の指導を受けた者の証言では、時代が戦争中であったこともあり、薬丸自顕流の特徴的な稽古法である立木打ちの際、立木を飛び越えたり、その下をくぐらせたり、ジグザグに走って掛りの稽古をするなどしていたようである。
山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月… 山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月20日 - 1978年〈昭和53年〉12月25日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道教士七段。流派は無双直伝英信流。 高知県香美郡赤岡町須留田で生まれる。香南八ヵ町村組合立城山高等小学校卒業後、唐箕作りの大工修行をしながら大日本武徳会赤岡支所及び高知支部で川崎善三郎らに剣道を学ぶ。1917年(大正6年)、大江正路に入門し、無双直伝英信流居合術を学ぶ。1922年(大正11年)4月、上京し、岩倉鉄道学校3年生に編入するも、同年8月に退学、帰郷する。 土陽新聞通信員兼高知農学校の剣道及び生理衛生科教師となる。1939年(昭和14年)、京都で開かれた全国青年剣道大会に高知農学校剣道部員を引率し、350校の中で準優勝に導いた。
上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893… 上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893年3月30日 - 1987年)は、日本の武道家である。大阪で空真流空手道を発展させた。 3歳のとき、兵庫県赤穂市で上島作治郎、松原嘉年、赤田政治から今真流柔捕術を学び始める。 9歳のとき、沖縄出身の赤穂市警察官上島菅から空手型のピンアンとクーシャンクー(公相君)を教わり研究を始めた。 1918年、25歳で上島は今真流柔捕術の教授に任命された。 1926年、本部朝基著『沖縄拳法 唐手術 組手編』の出版にあたり、本部門下の唐手術普及会幹事長、杉本得二とともに編集に携わる。大阪市東淀川区に移り1925年(大正14年)上島柔道場を開設。また沖縄の空手教師数名がそこで空手も練習し、教えた。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。 1893年(明治26年)、香川県高松市に生まれた。本名は良助。小学校時代、竹内流腰廻を竹内緑に、無相流柔術を松井三蔵に、直心影流剣術を井上正広に学ぶ。中学校時代には、柔道を岡野好太郎に、竹内流を竹内兵衛に、剣道を上原宗九郎、植田平太郎(天真正伝神道流)らに学んだ。 1913年(大正2年)、慶應義塾大学部理財科に入学。剣道部に入り、真貝忠篤(窪田派田宮流)に学ぶ。また中山博道の道場・有信館に入門して神道無念流剣術を修行した。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。
大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治2… 大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1981年〈昭和56年〉6月1日)は、日本の武道家、弁護士。 熊本市生まれ。大野家は熊本藩藩主細川氏の家臣であった。熊雄は幼時より熊本藩伝の新陰流剣術、伯耆流居合術を修行し免許皆伝を授かる。熊本県中学済々黌、京都帝国大学経済学部、法学部を卒業。 東亜同文書院教授、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学学生主事を歴任。大日本武徳会で武道の修練、大映京都撮影所で剣戟映画指導も行った。著書に『剣士内藤高治』、『剣士一代』、『日本名刀伝』がある。 1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬したが落選した。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。
吉澤 一喜(よしざわ かずき、1886年(明治19年)4月2… 吉澤 一喜(よしざわ かずき、1886年(明治19年)4月28日 - 1972年(昭和47年)10月26日)は、日本の武道家。 段位は居合道範士九段、剣道範士七段、銃剣道範士八段、柔道八段、整復術八段。“武道日本一合計四十段”と称され、全日本柔道選士権で優勝した戦績を有すほか、伯耆流居合では大家としてその名を知られた。身長180cm以上、体重約94kgの偉丈夫であった。 熊本県下益城郡松橋歌里(現宇城市松橋町)の傘屋に生まれ、幼少より剣道、柔道を学んだ。宇土鶴城学院中等部を卒業後、同校の助教を務めた。 日露戦争開戦後の明治38年、志願して陸軍歩兵第13連隊に入隊した。 その後陸軍戸山学校に入校し、明治41年卒業に際し、成績優秀により明治天皇から恩賜の銀時計を受けた。
植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年〈明治16年〉12… 植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年〈明治16年〉12月14日 - 1969年〈昭和44年〉4月26日)は、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。 和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市)の富裕な農家に生まれた。大東流を初めとする柔術・剣術など各武術の修行成果を、大本教や神道などの研究から得た独自の精神哲学で纏めなおし、『和合』、『万有愛護』等を理念とする合気道を創始した。開祖の他の敬称として「翁」(おう)。特に古い高弟は「翁先生」・「大(おお)先生」と呼ぶ。 身長156cmながら大相撲力士を投げ飛ばすなど幾つもの武勇伝が有り、また老境に至っても多くの“神技”を示し「不世出の達人」と謳われた。
野口 清(のぐち きよし、1877年 - 1930年)は、日… 野口 清(のぐち きよし、1877年 - 1930年)は、日本の柔術・剣術家。号は潜龍軒、一威斎。名は兼信。 神道六合流柔術と神道扶桑流剣道の創始者である。明治時代に兄の野口正八郎が始めた帝國尚武會で師範長を務めた。昭和頃に帝國尚武會の会長となった。 別名、野口潜龍軒(のぐちせんりゅうけん)。 1877年(明治10年)10月、栃木県下都賀郡絹村(後の小山市)の野口長重の次男として生まれる。野口家は幕府旗本大森信濃守の末裔である。父長重は大日本武徳会に所属する剣術家であった。また、兄の野口正八郎は帝国尚武会を設立して武術の通信教育をしたことで知られている。幼少より父長重から夢想流柔術、無念流剣術を学ぶ。
落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1… 落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、日本の武道家、政治家。 鳥取県出身。米子市西町、落合甚大夫の養子。少時より剣道を修業する。米子中学校(現・米子東高校)修学。1905年、大日本武徳会教員養成所に入所、内藤高治範士の門下生となる。卒業後米子中学校(現・米子東高校)武道教員を拝命する。 1912年に師範学校、中学校教員剣道講習会において課程を修了する。1917年12月より1921年10月まで西区長として自治に尽力する。1921年9月より1927年3月まで米子町会議員として町政に参与する。1927年7月、西区長に再任。 1921年に剣道精錬証を取得、武徳会地方幹事、青年演武大会審判員となる。
園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3… 園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3月18日) - 1963年(昭和38年)9月29日)は、女性武道家。直心影流薙刀術第15代宗家。大日本武徳会薙刀術範士。 93歳で死去するまでの生涯で敗北した試合は2回のみといわれる。近代薙刀術史上最高の名人として評価が高い。 仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として現在の宮城県大崎市に誕生する。幼名は「たりた」。これは跡継ぎの誕生を望んでいた父親が、「もう女は足りた」という嘆きから名づけたという。幼い頃から父親の馬を勝手に乗り回すほど活発な少女であったという。 1886年(明治19年)、直心影流剣術の榊原鍵吉門人であった佐竹鑑柳斎(観柳齋)がたりたの住む町で撃剣興行を行う。
武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859… 武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者。 以下の生い立ちは、大東流合気柔術の伝承によるものであり、各種事典、小説、漫画『王道の狗』『銀色の路』などは、大東流口伝の歴史で書かれた『武田惣角と大東流合気柔術』を引用している。 会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県)河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内兼規の娘・富。 惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。 惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。
本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年… 本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年3月10日) - 1928年(昭和3年)12月27日)は、日本の剣術家、政治家。流派は本間念流。称号は大日本武徳会剣道範士。衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡赤堀村(現・群馬県伊勢崎市)の本間千五郎の三男。家伝の念流剣術(本間念流)を修行する。 明治時代に榊原鍵吉が撃剣興行で前橋を訪れ、その後榊原に入門。山岡鉄舟にも師事する。 1893年(明治26年)、警視庁の各警察署に撃剣試合を挑み、門奈正、内藤高治、佐々木正宜、夏目又之進、得能関四郎、柴田衛守ら撃剣世話掛を連破する。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に当選。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に当選。
納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭… 納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭和9年(1934年)2月)は、日本の剣術家。流派は戸田流。称号は大日本武徳会剣道範士。 肥前国小城郡西川(現在の佐賀県小城市)に生まれる。納富家は小城藩の武術師範の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が明治30年(1897年)7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父と祖父のどちらを指しているか不明)は「真之乱流組打・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・根岸流長刀」9代師範とある。納富家の道場での他流試合や道場での修行中に無念にも亡くなった人々を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。 「鬼塚」は、納富道場へ来訪した諸国を廻る武者修行の剣士や道場破り、他流試合などの中で亡くなった人々のみを葬ったと言われているが、道場の稽古中に無念ながら亡くなった身寄りの無い門下生や、諸国巡礼中に病気や怪我により亡くなった方々を弔うための塚である。
大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年… 大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年10月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月18日, Ōe Shikei Masaji, 17th head of the Musō Jikiden Eishin-ryū)は、日本の武道家。無双直伝英信流居合術第17代宗家。大日本武徳会居合術範士、剣道教士。号は「蘆洲」。字は「子敬」と称した。 無双直伝英信流居合術第17代宗家で、英信流は土佐藩において長谷川流、英信流、長谷川英信流、無雙直傳流、無雙神傳流などとも呼ばれており、大江はこれを無双直伝英信流に統一し、あわせて業の形の統一を図った。江戸時代「御留流(おとめりゅう)」として藩外不出だった英信流を、明治の世になり全国に広く伝えた。
国吉 真吉(くによし しんきち、1848年 - 1926年)… 国吉 真吉(くによし しんきち、1848年 - 1926年)は、琉球王国時代から明治期にかけて活躍した沖縄県の武術家。 国吉真吉(琉球方言で、クニシ シンキチ)は、1848年、父・国吉真善、母・マチの長男として那覇・久茂地村に生まれた。あだ名は、のちに名護間切(現・名護市)に転居した事から“久茂地の山原国吉(やんばる・くにし、やんばるは名護など国頭郡の俗称)” と呼ばれた。因みに、廃藩置県以前の沖縄本島には「山原」という名字(家名)は存在しないので、これは山原国吉(やまはら・くにきち)という姓名ではない。他に“国吉のタンメー”、“武士国吉”とも呼ばれた。国吉家は、査姓国吉親雲上真元を元祖とし、その七世国吉筑登之親雲上五男真一を系祖として分かれた琉球士族であったとされる。
逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - … 逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - 1894年〈明治27年〉)は、幕末から明治の武士、剣術家、警察官。 生年は1834年(天保5年)ともいわれる。佐倉藩藩士・逸見信敬(立身流第17代宗家)の子として生まれ、家伝の立身流を修行する。立身流は袋竹刀で打ち合う古式の剣法であったが、江戸で竹刀防具を用いる撃剣試合が盛んになると、佐倉藩も1850年(嘉永3年)に他流試合を許し、北辰一刀流や鏡新明智流などを招いて学んだ。鏡新明智流からは高弟の上田馬之助が来て、逸見は上田の指導を受けた。 1860年(万延元年)、父より立身流居合目録を受ける。父の計らいで藩から剣術留学の許しを得て、1861年(万延2年)に江戸に出て、鏡新明智流士学館道場を主として1年間撃剣を修行。
奥村 左近太(おくむら さこんた、1842年(天保13年)-… 奥村 左近太(おくむら さこんた、1842年(天保13年)- 1903年(明治36年)1月11日)は、幕末から明治の剣術家。流派は直心影流を学んだ後、奥村二刀流を創始した。称号は大日本武徳会精錬証。幼名は寅吉。 岡山藩士・奥村安心の子として生まれる。干支が壬寅であったことから寅吉と名付けられた。1855年(安政2年)、13歳で直心影流剣術の阿部右源次の道場に入門。同門に右源次の息子・阿部守衛がいた。剣術のほかに起倒流柔術や日置流印西派弓術、香取流槍術、砲術、馬術も学んだ。 1859年(安政6年)1月から回国修行の旅を繰り返す。この間に、伊予西条藩士・高橋筅次郎(田宮神剣流)が二刀を遣うのを見て、2年もの間、二刀を工夫し、左の大刀を横一文字に、右の小刀を大刀に交差し頭を庇いながら腰を引き、前かがみにする構えの奥村二刀流を編み出した。
籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保1… 籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保11年3月21日) - 1899年(明治32年)3月30日)は、平戸藩士、剣術家、政治家。旧名は桑田源之丞。 滋賀県知事、元老院議官、島根県知事、新潟県知事、貴族院議員を歴任した。心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた。 平戸藩家臣桑田安親の長男として肥前国松浦郡平戸村(現・長崎県平戸市)に生まれる。先祖に戦国武将の籠手田安昌、籠手田安経、籠手田安一がいる。 平戸藩(松浦静山)伝の心形刀流剣術を学び、免許皆伝を得る。幕末には藩探索方に任じられ京都で情報収集を行う。その傍ら直心影流戸田一心斎(栄之助)の道場に通い、師範代高山峰三郎と面識を持つ。
楠本 章三郎(くすもと しょうざぶろう、1839年(天保10… 楠本 章三郎(くすもと しょうざぶろう、1839年(天保10年) - 1906年(明治39年)12月30日)は、日本の剣術家(神道無念流)。楠本正隆実弟。 楠本章三郎は大村藩士である父楠本直右衛門と母フジの次男として天保10年(1839年)に生まれ。、実兄の正隆と共に文武の業を修めた。藩命で江戸に遊学。剣術は神道無念流練兵館に14歳で入門する。 練兵館では、若年であった章三郎はたいへん可愛がられた。齋藤篤信齋館長をはじめ、齋藤新太郎、章三郎より6歳年上の齋藤歓之助、そしてすでに塾長であった同郷の荘勇雄から大いに錬られていく。章三郎は、篤信齋館長から稲妻(突技)、軽強の霞返による変化躰数多種を伝授。
内田 良五郎(うちだ りょうごろう、1837年5月13日(天… 内田 良五郎(うちだ りょうごろう、1837年5月13日(天保8年4月9日) - 1921年(大正10年)9月22日)は、日本の武術家である。玄洋社社員。内田流短杖術の祖(神道夢想流)。 天保8年(1837年)4月9日に筑前国福岡地行五番丁で黒田藩(福岡藩)藩士の平岡仁三郎の子として生まれる。 剣術は小野派一刀流の幾岡平太郎の門に入り免許を得て中西忠太の皆伝を許された。 柔術は扱心流を藩の師範石川雄兵衛に、天真正伝神道夢想流杖術、及び一角流捕手は平野吉右衛門に、砲術は津田武右衛門に学び、鎗術と共にその師から免許を受けた。 晩年に洋杖術を創案し、内田流短杖術を創始した。 また、神道夢想流杖術の普及に尽力した。
五藤 正亮(ごとう まさすけ、1835年〈天保6年〉 - 1… 五藤 正亮(ごとう まさすけ、1835年〈天保6年〉 - 1898年〈明治31年〉, Gotō Magobei Masasuke, 16th head of the Musō Jikiden Eishin-ryū)は、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第16代宗家。字は「孫兵衛」。無双直伝英信流道場再興の祖。 1835年(天保6年)、土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる。 居合を無双直伝英信流第15代宗家・谷村亀之丞自雄に師事し修行。 明治維新以後、廃刀令の煽りを受け剣道も居合も衰退し、また特に長谷川英信流居合は江戸時代藩外不出の「御留流(おとめりゅう)」で、町中に道場も無く、藩校の一部で伝えられたのみで、これを習った者が元々限られたのに加えて、廃藩置県後は藩の庇護も解かれ、存続の危機にあった。
桃井 春蔵(もものい しゅんぞう、文政8年(1825年) -… 桃井 春蔵(もものい しゅんぞう、文政8年(1825年) - 明治18年(1885年)12月3日)は、江戸時代末期から明治時代の剣術家(鏡新明智流第4代)。旧姓は田中、幼名は甚助、通称は左右八郎、諱は直正。「桃井春蔵」の名は士学館の館主が代々襲名した名跡であり、直正は4代目桃井春蔵である。「品格随一」といわれた。 駿河国沼津藩藩士・田中豊秋の次男として生まれる。沼津で直心影流剣術を2年ほど学び、天保9年(1838年)に江戸へ出て、14歳で鏡新明智流の道場・士学館(3代目桃井春蔵)に入門。17歳で初伝目録を得て、才能を師匠に見込まれ、その婿養子に取り立てられる。 23歳で皆伝、25歳で奥伝を得て、嘉永5年(1852年)、27歳で士学館4代目桃井春蔵を継いだ。
岡田 惣右衛門(おかだ そうえもん、明和2年3月15日〈17… 岡田 惣右衛門(おかだ そうえもん、明和2年3月15日〈1765年5月4日〉 - 文政9年9月24日〈1826年10月25日〉)は、江戸時代の剣術家。柳剛流兵法(剣・居合・杖・長刀)の開祖。諱は奇良。 武蔵国葛飾郡惣新田(現埼玉県幸手市)出身。幼くして文武を磨き、18歳で江戸に赴き心形刀流、伊庭直保の弟子大河原有曲に学び、さらにその後武者修行に出て広沢長喜から三和無敵流や山本流等を修め、柳剛流を起こした。 北辰一刀流の玄武館同様、神田お玉ヶ池界隈に道場を構えており、万延元年(1860年)の『武術英名録』によれば門人数は北辰一刀流を超えていたという。 柳剛流は相手の脛を斬ることと、斬撃の際に左右の足を入れ替える飛び違いの技法に特徴があり、実戦力の高い剣術に昇華させた。
大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 -… 大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 - 1790年3月28日〈寛政2年2月13日〉)は、土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家。字は「元右衛門」。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。 享保11年(1726年)、土佐藩士(馬廻役・300石)・大黒好勝(文之丞)の三男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる。 武士の嗜みとして、無双直伝英信流居合を、林安太夫政詡より習う。 明和2年(1765年)、父好勝の跡目相続。 安永6年(1777年)、馬廻組頭、天明2年(1782年)大目付(大監察)切支丹改役、翌年(1783年)、軍備御用兼帯となる。 長谷川英信流居合の伝書を林安太夫政詡から受け、第11代宗家となる。
千葉 周作(ちば しゅうさく)は、江戸時代後期の武士・剣術家… 千葉 周作(ちば しゅうさく)は、江戸時代後期の武士・剣術家。北辰一刀流の流祖。幼名於兎松、周作は通称で、諱は成政。合理的かつ実戦的な剣術体系を確立し、宮本武蔵らとともに剣聖の一人に数えられる。創設した江戸時代最大規模の剣術道場の千葉道場は、人格や精神の涵養にも重きを置き、坂本龍馬をはじめとする幕末の志士や、渋沢栄一ら、後の日本を担う人材が多く輩出したことから、現代剣道の発展のみならず、日本の政治・産業の歩みにも影響を及ぼしたとされる。 特に坂本龍馬は千葉家との深い交流を通じて人的ネットワークを広げ、日本初期の商社的組織として評価される海援隊を後に創設した。その事業や人脈の一部は維新後の岩崎弥太郎に受け継がれ、やがて三菱財閥、そして現在の三菱グループの形成へとつながっていく。
茂山 雅司[読み疑問点]は、群馬県桐生市出身の武術家。陸軍戸… 茂山 雅司[読み疑問点]は、群馬県桐生市出身の武術家。陸軍戸山学校出身。実戦刀法(実戦斬り)抜刀道変応自在流宗家であり、宮本武蔵円明流判官派高橋華王伝第十五代宗家。現在世界武道連合会長を務める。その他、日本兵法太閤木葉流、軍刀術戸山流居合道、護身術、全日本刀道連盟、剣道小太刀道、柔術柔道の師範でもある。実践斬りの腕は武道家の間で高い評価を得ている[独自研究?]。いわゆる真剣白刃取りが可能な人物とされる。
勝瀬 光安(かつせ みつやす、1905年(明治38年) - … 勝瀬 光安(かつせ みつやす、1905年(明治38年) - 1993年(平成5年))は武術家。号は景正。水鷗流居合剣法第十四代宗家、正木流福原派鎖鎌術第十一代宗家 。神道無念流剣術、強波流棒術、天神真楊流柔術免許皆伝。全日本居合道連盟範士九段。全日本剣道連盟居合道八段、剣道七段、杖道七段。静岡清水の地で碧雲館道場を開き、水鷗流を伝えた。 明治38年(1905年)、現在の浜松市天竜区春野町にある秋葉山本宮秋葉神社近くの旅館の息子として生まれる。 少年時代、旅館にしばしば長逗留する修行僧水間半兵衛に武の才能を見出され、水間から水鷗流を学ぶ。 大正14年(1925年)、浜松商業学校を卒業し木材を扱う会社に就職、木材の取引で東京の木場に出掛ける機会が多くなり、その足で演武大会や中山博道の「有信館」に出向き、様々な武道家と交流を持った。
水口 敏夫(みずぐち としお、男性)は、日本の武道家であり、… 水口 敏夫(みずぐち としお、男性)は、日本の武道家であり、空手指導者。島根県益田市出身。国際空手道連盟 極真会館水口派の館長。岡山市北区に極真会館水口派総本部道場を構える。段位は六段。金沢工業大学卒業。 中学生の時に和道流空手を初め、高校時代は柔道部に所属し弐段を取得する。大学進学とともに極真会館石川県支部に入門。石川県支部長の浜井識安から指導を受け、増田章らとともに本格的に空手修行をする。第12回全日本大会に初出場、ベスト16まで進む。第14回大会でブレイクし、ブラジル支部のアデミール・ダ・コスタ、日本のエース松井章圭を下して、決勝で三瓶啓二に敗れるも準優勝。 その後、第15回大会では竹山晴友に敗れて第5位。
加藤 禮詮(かとう れいせん)は、日本の僧、霊術家、居合道家… 加藤 禮詮(かとう れいせん)は、日本の僧、霊術家、居合道家。法名は光明大聖(27代目)。 加藤清正の傍流にあたる家柄に生まれる。母親は財産目当てで父親と結婚したため、母親には愛されず、母親に暴力を振るわれる幼少期を過ごす。5歳の時に父方の祖父母に引き取られ、修験者であった祖母の兄との出会いから仏門に入る。 大学に入学し得度する。そこで仏とは男性的でもあり女性的でもあるが、男性でも女性でもないと教わる。特定の寺院には所属せずフリーランスの僧侶として活動した時期がある。 2019年7月より大阪で死と死体を疑似体験できるというサービスが始められる。そこでは葬儀を行うというプランもあり、依頼内容によっては、かとうれいによる読経も行われている。
黒田 正郡(くろだまさくに、天保12年(1841年) - 大… 黒田 正郡(くろだまさくに、天保12年(1841年) - 大正9年(1920年))は、武術家。通称寛。号は龍心斎。幼名は鉄之助。 越中国富山(現・富山県富山市)に生まれ、父、正好より民弥流居合術、駒川改心流剣術、四心多久間流柔術、椿木小天狗流棒術、誠玉小栗流殺活術を引き継いだ。息子の黒田正義、黒田泰治、曾孫の黒田鉄山も有名な武術家になっている。
坂(阪)部 大作(さかべ だいさく、1836年(天保7年10… 坂(阪)部 大作(さかべ だいさく、1836年(天保7年10月)- 1908年(明治41年)9月)は、日本の武士(三河吉田藩藩士)、剣術家。流派は鏡新明智流。称号は大日本武徳会剣道範士。 三河国吉田(現愛知県豊橋市)に生まれる。13歳から21歳まで、同藩で剣術を修行する。 1856年(安政3年)、21歳で江戸へ出て、鏡新明智流桃井春蔵の道場士学館に入門。頭角を現し、上田馬之助、久保田晋蔵、兼松直廉とともに「桃井の四天王」と謳われる。 1859年(安政6年)、24歳で鏡新明智流免許を得て帰藩する。 1862年(文久2年)、藩主松平信古が大坂城代を拝命したので坂部も随行し、1865年(慶応2年)まで大坂表講武所で剣術を指南する。