牛田 寛(うしだ ひろし、1915年〈大正4年〉4月22日 … 牛田 寛(うしだ ひろし、1915年〈大正4年〉4月22日 - 1965年〈昭和40年〉1月10日)は、日本の政治家、宗教家。参議院議員(1期)。 東京市(現・東京都)に生まれる。横浜高等工業学校(現在の横浜国立大学)機械工学科を卒業後、東京計器製作所(現・東京計器)に勤める。 戦後、都立機械工業専門学校教授、東京都立大学工学部講師を務める。創価学会男子部長(初代)、同会青年部長(第2代)、同会理事、学術部長(初代:1962年9月~)、南米総支部長(初代:1962年11月)等を歴任する。 1959年6月2日、第5回参議院議員通常選挙に、創価学会系無所属として全国区から立候補し、創価学会現役幹部の原島宏治、小平芳平らと共に、当選(当選1期)する。
松平 永芳(まつだいら ながよし、1915年〈大正4年〉3月… 松平 永芳(まつだいら ながよし、1915年〈大正4年〉3月21日 - 2005年〈平成17年〉7月10日)は、日本の海軍軍人、陸上自衛官、神職。靖国神社第6代宮司(1978年 - 1992年)時代には、A級戦犯の合祀を実施したことで知られる。 二女武子の婿は17代目住友吉右衛門である。 東京に生まれる。祖父は松平春嶽。父は春嶽の長男・松平慶民(子爵、宮内大臣、戦後は宮内府長官)。母幸子は男爵新田忠純の四女。妻充子は侍従武官・侯爵醍醐忠重(海軍中将)の二女。また、尾張徳川家を継いだ侯爵徳川義親(靖国会初代会長)は叔父に当たる。 暁星中学校を卒業。1937年(昭和12年)海軍機関学校(第45期)を経て、1944年(昭和19年)10月、海軍少佐・正五位に至る。
高階 成章(たかしな なりあき、大正3年〈1914年〉 - … 高階 成章(たかしな なりあき、大正3年〈1914年〉 - 昭和54年〈1979年〉9月24日)は、日本の神職、神道学者。橿原神宮権宮司。奈良芸術短期大学教授。 大正3年(1914年)、高階研一を父として、兵庫県に生まれた。昭和2年(1927年)、父が諏訪神社の宮司を拝命すると、共に長野県に移ったようであり、このころには#論文に見えるように諏訪信仰に関する論考を著している。昭和12年(1937年)3月、國學院大學史学科卒業。このときの卒業論文題目は「足利氏の郷土に於ける信仰」であった。内務省考証官補、神祇院考証官補、文部省国宝調査嘱託となった。 昭和24年(1949年)6月30日、父が宮司を務める橿原神宮の権宮司に就任した。
河辺 三郎(かわべ さぶろう、旧字体: 河邊 三郞、1913… 河辺 三郎(かわべ さぶろう、旧字体: 河邊 三郞、1913年〈大正2年〉7月24日 - 没年不詳)は、日本の華族(男爵)、神職。 大正2年(1913年)7月24日、河辺博長の三男として、東京都に生まれる。 昭和5年(1930年)4月4日に父博長が帰幽すると、同年7月1日に17歳で家督を継承、男爵となった。昭和11年(1936年)國學院大學付属神道部を卒業すると、同年大洗磯前神社・酒列磯前神社主典に就任、昭和15年(1940年)には伊豆山神社主典に転じた。昭和18年(1943年)からは実業界にて活躍した。昭和23年(1948年)3月28日には長男慶三郎が誕生した。 昭和37年(1962年)、下鴨神社禰宜に就任した。
三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大… 三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大正2年〉3月2日 - 1990年〈平成2年〉6月30日)は、日本の神職、華族。貴族院公爵議員。 父三条公輝、母多栄子(毛利元敏女)の長男として生まれる。1938年、東京帝国大学文学部を卒業。 1938年、厚生省体力局企画課嘱託となる。以後、厚生省人口局管理課嘱託、同研究所人口民族部嘱託を務め、この間、応召を受け陸軍中尉となった。父の死去に伴い1945年12月15日、公爵を襲爵して貴族院公爵議員に就任し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後、春日大社宮司、平安神宮宮司を務めた。 実行 - 公教 - 実房 - 公房 - 実親 - 公親 - 実重 - 公茂 - 実忠 - 公忠 - 実冬 - 公冬 - 実量 - 公敦 - 実香 - 公頼 - 実教 - 実綱 - 公広 - 実秀 - 公富 - 実治 - 公兼 - 公充 - 実顕 - 季晴 - 実起 - 公修 - 実万 - 公睦 - 実美 - 公美 - 実憲 - 公輝 - 実春 - 公隆 - 実久
織田 隆弘(おだ りゅうこう、1913年2月7日 - 199… 織田 隆弘(おだ りゅうこう、1913年2月7日 - 1993年12月31日)は、青森県弘前市出身の宗教家。「密門会」の開祖。高野山真言宗の僧侶。 1975年に「即身成仏を目的とした正純密教を実践する」という真言宗易行派密門会(略称:密門会)を創立。1984年には青森市にキリスト教等を含む、宗派を超えた昭和大仏(日本最大の青銅製大日如来像)を建立。平成五年に遷化。 織田は「(自身を)高野山真言宗の大僧正で、説く真言密教は、弘法大師空海の教えを正しく引き継ぐ、正統で、他の密教まがいの新宗教と区別し“正純密教”」と主張している。 また、「正純密教は、宇宙の真理を人格化した大日如来を本尊とする、自然科学をも包含するスケールの大きい教義であったため、その難解さから長らく塵に埋もれていたが、科学技術の進歩・発展により物理理論が身近になった現代において、ようやく人々にとって理解され易い仏教となったといえる。
副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)… 副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)は、昭和・平成時代の神職、政治活動家。明治神宮権宮司。「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の両団体の初代事務総長を務め、日本会議に連なる保守運動に挺身した。 広島県広島市生まれ。佐賀藩の須古鍋島家の家臣の副島家に生まれる。父親の副島知一は副島家第13代に当たる。1934年、國學院大學神道部を卒業した。 熊野那智大社、坐摩神社に勤めたのち、1940年に明治神宮に入った。1945年4月の空襲で本殿が焼失すると、戦後、御社殿の戦災復興募金活動や御社殿の復興に尽力したとされる。明治神宮の権宮司をつとめるとともに明治神宮崇敬会の事務局長、理事長、副会長として組織の発展に貢献した。
佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26… 佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26日 - 平成10年〈1998年〉9月22日)は、日本の神職、教育者。宇津神社宮司。 明治45年(1912年)6月26日、佐古吉浦・しづ夫妻の五男として、山口県都濃郡鹿野町(現周南市)に誕生した。 昭和5年(1930年)、旧制山口県立岩国中学校を卒業すると、姉幸嬰の強い影響を受けて、同年4月1日に神宮皇學館本科第二部に入学した。同期には呉市出身の白石舜逸がいた。在学中の昭和7年(1932年)5月、神宮皇學館大講堂に於いてジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの「神道の創造性について」という講演会が開かれこれに出席すると強い衝撃を受け、メーソンの『神ながらの道』を日夜読み耽ったという。
和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉… 和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉5月18日 - 2005年〈平成17年〉5月7日)は、日本の宗教家、政治家。創価学会理事長(第4代)、参議院議員(1期)。 職業軍人として、1942年(昭和17年)暮れ、最前線のニューギニアに出兵。九死に一生を得て、1946年(昭和21年)6月復員。戦後、戸田城聖の下で、柏原ヤスらと共に、創価学会の再建に奔走。同会筆頭理事及び理事、小岩支部長、江東総支部長などを経て、日蓮正宗法華講大講頭となる。 1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら、戦後の戸田城聖体制の下で創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。
伊藤友司(いとう ともじ、1912年(明治45年)5月9日 … 伊藤友司(いとう ともじ、1912年(明治45年)5月9日 - 1967年(昭和42年)8月6日)は、日本の女性宗教家。真如苑霊祖・初代苑主。 僧名は眞如。大僧正。遷化後の法号は摂受心院(しょうじゅしんいん)。夫は真如苑開祖の伊藤真乗。娘は伊藤真聰。 山梨県北巨摩郡高根村東井出(現:北杜市高根町)に内田家の長女として誕生。1915年12月23日、父・内田義平と死別。その後、1919年1月、母・もとよが大芝家に再嫁したので、祖母・内田きん(宝珠院)のもとで育つ。 1931年1月、甲府市の和裁学校に入学。1932年4月27日、伊藤文明(のちの真乗)と結婚。東京・立川に移住。1935年12月28日、運慶作と口伝される不動明王像を勧請。
不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980… 不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980年5月11日)は、日本の女優、女剣劇の開祖。1930年代以降、初代・二代目の大江美智子とともに女剣劇の全盛期を築きあげた舞台女優である。 戦前の女剣劇創成期から、卓越した立ち回り技術と、しばしば「男性的」とも評された中性的なイメージで人気を博した。 本名は迫 静子(さこ しずこ)。旧姓・大西。 1912年(明治45年)3月18日、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)に生まれる。香川県綾歌郡坂出町(現在の同県坂出市)に生まれる。 1916年(大正5年)、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)出身の旅役者・迫日出雄の養女になり、戸籍上の名が「迫静子」となる。
宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日… 宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、日本の武道家、思想家、教育者、社会指導者、社会運動家、宗教家。日本の武道の一つである少林寺拳法の創始者であり、北少林義和門拳第21代正統継承者(事実上の古典的嵩山少林寺における最後の正統継承者) 姓名は中野 理男(なかの みちお)、中野 道臣(なかの みちおみ)を経て、最終的には宗 道臣を名乗った 1911年(明治44年)2月10日、岡山県英田郡江見村(現・美作市)に生まれる。1919年(大正7年)、義父が死亡し、1924年(大正12年)に家出し、祖父の住む満州へと移る。1926年(大正15年)母と妹が死亡、1927年(昭和2年)には妹と祖父が死亡、天涯孤独となる。
清水 信一(しみず しんいち、1910年5月10日 - 19… 清水 信一(しみず しんいち、1910年5月10日 - 1969年1月10日)は、日本の宗教家。天祖光教(てんそこうきょう)の教祖である。男性。天祖光教信者からは「蔽顔の救主(べいがんのくじゅ)」と称される。 石川県江沼郡大聖寺で生まれる。 1923年8月6日(大正12年)、数え14歳の時に福井県の九頭竜川に注ぐ竹田川上流の釜ヶ淵で友人と水浴中に突然神隠しに遭い、京都の鞍馬山に入山。 30歳の初めまで、日本国内・朝鮮半島・満州を巡り、天地創造の神「天祖」より世の救いの啓示を受け、1942年(昭和17年)、愛知県東春日井郡志段味村(現・名古屋市守山区)に本部として聖地「天母里(てんぼり)」を築き、宗教法人天祖光教を設立する。
原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月… 原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月4日 - 1964年〈昭和39年〉12月9日)は、日本の政治家、宗教家、小学校教員。 東京都大田区議会議員(1期)、参議院議員(1期)、創価学会理事長(第3代)、公明党中央執行委員会委員長(初代)などを歴任した。 東京都西多摩郡奥多摩町生まれ。幼名は鯉之助。 1929年(昭和4年)、東京府青山師範学校を卒業。以降26年間、東京各地の小学校教員に就いた。 1940年(昭和15年)、創価教育学会(現:創価学会)の設立と同時に入会する。 1943年(昭和18年)の創価学会弾圧により、治安維持法違反と不敬罪の容疑で牧口常三郎、戸田城聖らが逮捕・投獄された後、留守番役として苦闘した。
櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉… 櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉10月28日 - 2005年〈平成17年〉12月25日)は、日本の神職。 1909年、島根県那賀郡今福村(現浜田市)に社家の長男として生まれる。1931年(昭和6年)に神宮皇學館(皇學館大学の前身)を卒業し、熊本県菊池市の菊池神社の宮司など官国幣社4社の神職を経て、1955年に神宮教化局教導司、1957年より神宮禰宜として奉職。祭祀のかたわらで皇學館大学で祭祀概説の非常勤講師を兼務。1975年に芦屋大学で日本文化研究の教授に就任(1995年まで)。多賀大社宮司、神社本庁総長を務めたのちに皇學館大学理事長に就任。1990年に神社本庁から「長老」の称号をうける。
葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月1… 葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月17日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の神道家。「神社新報」主筆。 葦津耕次郎の長男として福岡県筥崎(現・福岡市東区箱崎)に生れる。葦津家は筥崎宮の社家の一つである大神家の末裔であり、伯父である葦津洗造は同宮の宮司であった。1922年(大正11年)東京府立第五中学校に入学。この頃から社会主義に憧れ、社会科学研究会に参加し、関連する書物を読み漁ったという。周囲はこれを心配し、卒業後は國學院大學に進んだ[要出典]。別に東京外国語学校(現:東京外国語大学)にも入学するが、いずれも退学した[要出典]。1928年(昭和3年)には福島高等商業学校(現・福島大学)に入学するも、翌年退学。
片倉 信光(かたくら のぶみつ、1909年(明治42年)2月… 片倉 信光(かたくら のぶみつ、1909年(明治42年)2月22日 - 1985年(昭和60年)5月3日)は、宮城県仙台市青葉区青葉町、仙台藩藩祖伊達政宗公を祭神とする、仙台市の一ノ宮、青葉神社の宮司。旧仙台藩家老・白石片倉氏第15代当主。父は14代健吉。
出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 -… 出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 - 1978年4月19日)は、神職、京都評論家。 京都市出身。出雲路信直の子孫。國學院大學文学部卒、立命館大学教授、成安女子短期大学学長。
松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1… 松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、日本の神学者(神学博士)。関西学院大学名誉教授。 1908年、東京生まれ。第三高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に進学。1933年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1937年に京都帝国大学講師に採用され、1942年に助教授昇格。 太平洋戦争終結後、戦時中の言動を元に京都大学文学部・教職員適格審査委員会による公職追放の対象となり、1946年に辞職。1950年、日本基督教団の正教師の按手を受ける。 1951年、関西学院大学文学部教授に就任。翌1952年の神学部復興とともに神学部教授、1954年に関西学院宗教総主事となり、1962年に神学部長に就任。
篠田 康雄(しのだ やすお、1908年〈明治41年〉1月3日… 篠田 康雄(しのだ やすお、1908年〈明治41年〉1月3日 - 1997年〈平成9年〉2月1日)は日本の神職。神社本庁総長、熱田神宮宮司、皇學館大学理事長、同総長などを歴任した。 1908年 三重県宇治山田市(現伊勢市)に篠田幸雄(神宮禰宜)の三男として出生。1930年 神宮皇學館本科を卒業と同時に国幣大社多度神社に奉職。その後、1932年別格官幣社北畠神社主典、1933年官幣大社多賀神社主典を経て1939年官幣大社熱田神宮禰宜となる。1942年同神宮権宮司に就任。1945年に神道指令により官制職廃止。引き続き権宮司として長谷外余男宮司(当時)を助け熱田神宮戦災復興を成し遂げ1964年熱田神宮宮司に任命され1986年まで在職し名誉宮司となり1997年逝去した。
二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月1… 二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月18日)は、日本の細菌学者、医師、実業家、宗教家。 石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業(34期)。 1936年3月から1937年12月まで、金沢医科大学 (旧制)(現金沢大学医学部)細菌学教室講師を務めた。1938年11月18日、金沢医科大学 (旧制)より医学博士号を取得。 のち大日本帝国陸軍技師となり、731部隊(関東軍防疫給水部本部)に所属、第一部第十一課結核班(二木班)班長。 1945年頃、金沢市で与論社を創設し、雑誌『パブリックオピニオン』を発行。1946年上京し、雑誌『日本与論』を発行した。同年、ジープ社社長として、右翼系政界誌『政界ジープ』を創刊。
黒神 直久(くろかみ なおひさ、1907年〈明治40年〉12… 黒神 直久(くろかみ なおひさ、1907年〈明治40年〉12月5日 - 1987年〈昭和62年〉5月11日)は、日本の政治家、神職。山口県徳山市長(3期)、神社本庁総長を歴任した。 山口県都濃郡徳山町(現・周南市)の遠石八幡宮宮司の家に生まれる。1930年(昭和5年)3月、國學院大學神道部卒業。1932年(昭和7年)3月、県社祐綏神社社司、1933年(昭和8年)5月、県社児玉神社社司、1938年(昭和13年)2月、県社遠石八幡宮社司などを歴任し、この間、徳山町立実業実践学校講師を務めた。1947年(昭和22年)3月、徳山市復興土地区画整理委員会副委員長、同委員長などを務めた。 1952年(昭和27年)8月24日付で徳山市長の池清が健康上の理由により辞職。
安藤 貞重(あんどう さだしげ、1907年〈明治40年〉8月… 安藤 貞重(あんどう さだしげ、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1997年〈平成9年〉1月20日)は、日本の神職。安積国造神社第62代宮司。 1907年(明治40年)8月19日、福島県に生まれる。父は安藤國重、母トシは福島稲荷神社社家の丹治家出身。 旧制安積中学校(のちの福島県立安積高等学校)出身。1930年(昭和5年)12月までに文部省から歴史科の教員免許状を取得した。1931年(昭和6年)、國學院大學国史学科卒業。同年、累代社家を務めている実家の安積国造神社の社掌に就任。 1933年(昭和8年)、福島稲荷神社社司の丹治経也が帰幽すると、その子経幸がまだ幼かったため代わりに同社社司に就任。
牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 198… 牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 1986年9月17日)は、日本の民俗学者、神職、歌人。現代に神がかりを残す大元神楽の伝承者で主に神楽と田植歌の分野で功績を残している。 1907年4月5日、島根県邑智郡市山村(現江津市桜江町市山)に生まれる。実家は神職を家職としていた。 1921年、市山村尋常高等小学校を卒業し島根県立浜田中学校に入学するも、長期の病気療養を経て1925年に退学、広島市の私立山陽中学校に編入し1927年に卒業した。医科大学進学を希望していたが、兄の死により牛尾が家業を継ぐことになり國學院大學神道部に進学する。なお母の死によって上京は1年遅れる。 在学中、鈴木棠三、三谷栄一らとともに方言研究会を創設し会誌「方言」を発刊するも3号で廃刊する。
藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月… 藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月1日 - 1966年(昭和41年)1月6日)は、日本の宗教家。天光教教祖。愛媛県四国中央市出身。本名は照見。 愛媛県宇摩郡土居町(現:四国中央市)で農家の三男として生まれた。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格して外務省に入り、上海領事館、漢口領事館に勤務した後、1935年(昭和10年)に退官、その後は満洲にて事業を営んだ。 19歳のときに大祖神からの神示を受けたとし、1938年(昭和13年)に「道照明神」の神号を名乗った。1948年(昭和23年)に東京都大田区大森で信修会教団を設立。1958年(昭和33年)に天光教と改称し、本部が大阪市天王寺区堂ヶ芝へ移る。
伊藤 真乗(いとう しんじょう、本名:伊藤 文明、1906年… 伊藤 真乗(いとう しんじょう、本名:伊藤 文明、1906年(明治39年)3月28日 - 1989年(平成元年)7月19日)は、日本の宗教家。真如苑開祖。 山梨県北巨摩郡秋田村(現:北杜市長坂町)出身。妻は真如苑初代苑主の伊藤友司。娘は真如苑2代苑主の伊藤真聰。 山梨県北巨摩郡秋田村(現:北杜市長坂町)で伊藤文二郎と母・よしえの次男として生まれる。少年期は天理教信者であった母の影響で天理教に親しみ、曹洞宗の禅寺の檀家総代であった父からは、禅と家伝の易学「甲陽流病筮鈔(びょうぜいしょう)」を学んだ。 1923年(大正12年)、父の死去に際し、上京。東京中央電信局(現・NTT)購買部に勤務するかたわら夜学に励む。
石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - … 石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - 1936年9月25日)は、日本の宗教家。福岡県柳川市(旧 福岡県山門郡)出身で、京都帝国大学卒業後、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となり、内モンゴル・ハイラル(満州)に西本願寺末寺を開設した。本名は石橋 肇(いしばし はじめ)。 幼少の頃より聡明で、旧柳川藩主立花家から学年で一人だけに与えられる「殿さま御褒美」を毎年貰い神童と呼ばれた。矢留尋常高等小学校を卒業した14歳の時、柳川市恵比寿町の浄土真宗本願寺派法霊山西方寺へ上がって仏門に入り、そのつてから広島の同系寺院へ移り、広島高等師範学校を経て京都帝国大学へ進学。京都帝国大学卒業後、優秀な成績と人物を見込まれ、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となって薫陶を受けた。
中山 正善(なかやま しょうぜん、1905年(明治38年)4… 中山 正善(なかやま しょうぜん、1905年(明治38年)4月23日 - 1967年(昭和42年)11月14日)は、日本の宗教家。天理教の2代真柱。管長。 天理教の教祖・中山みきの孫で初代真柱である中山眞之亮とその妻の中山たまへの長男として生まれた。三島尋常小学校在学中の1914年(大正3年)12月31日に眞之亮が亡くなり、翌1915年1月21日に10歳9ヶ月で管長に就任した。しかしながら幼少であったため、山澤為造が管長職務摂行者として教務に当たった。 14歳で旧制天理中学校に入学、19歳のときに旧制大阪高等学校に入学、1925年(大正14年)4月、学生の身分ながら正式に天理教管長に就任、この年に後の天理大学となる天理外国語学校を設立し、自ら校長となっている。
高橋 道男(たかはし みちお、1905年〈明治38年〉2月1… 高橋 道男(たかはし みちお、1905年〈明治38年〉2月18日 - 1969年〈昭和44年〉8月7日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(1期)。 熊本県熊本市で高橋卯治郎の長男として生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学文学部文学科(独文学専攻)を卒業した。 1928年、天理外国語学校講師に就任。以後、天理図書館(現天理大学附属天理図書館)建築現場事務担当、天理教海外伝道部課長、天理図書館主任、天理教東京出張所長、同総務長、日本宗教連盟理事、天理教教会本部役員、天理教責任役員、天理大学理事兼評議員、(株)天御津組監査役、共立出版(株)監査役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
長尾 薫(ながお かおる、1904年〈明治37年〉10月28… 長尾 薫(ながお かおる、1904年〈明治37年〉10月28日 - 1982年〈昭和57年〉2月22日)は、日本の神職。橿原神宮宮司。劔神社宮司、御上神社宮司、橿原神宮権宮司を歴任し、また滋賀県神社庁参事、奈良県神社庁長、神社本庁常務理事などを務めた。 明治37年(1904年)10月28日、岡山県勝田郡豊並村(現奈義町)大字関本に生まれた。 大正10年(1921年)4月1日、皇典講究所神職養成部(現國學院大學)乙種に入学。大正12年(1923年)3月30日、皇典講究所國學院大學神職養成部乙種を卒業し、同時に雅楽部を修了した。 大正12年(1923年)7月12日、橿原神宮に奉職して出仕となり、八級俸を受けた。
浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月… 浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月9日 - 1984年〈昭和59年〉4月27日)は、日本の宗教家。妙信講(現:冨士大石寺顕正会)の創立者。 1904年(明治37年)、愛知県西尾市に生まれ、1923年(大正12年)、19歳で上京する。1926年(昭和元年)12月、22歳の時に白須郁三に折伏されて日蓮正宗に入信し、妙光寺(東京都品川区)所属の信徒となった。 1936年(昭和11年)、白須郁三と共に妙光寺から妙光院(現在の妙国寺。東京都板橋区高島平)へと所属寺院を移り、信徒総代となった。その後再び妙光寺に移る。1942年には、妙光寺所属の法華講の一講中として「東京妙信講」を結成し、講頭に就任した。
柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20… 柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20日 - 1994年(平成6年)8月11日)は、日本の海軍軍人、宗教家。福島県相馬郡出身。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 福島県相馬郡松ヶ枝原釜(現相馬市原釜)に生まれる。子供のころはひ弱で言語障害をもっていた。少年時代から作文と弁論は苦手であったという。小学校を6年と父の意思で高等科を2年経た後、相馬中学に100人中14番の成績で入学。柴田によれば中学時代は数学の神様と呼ばれ、中学1年の時に催眠術を覚え、中学4年の時に的中率100%の数理的占い法を発明したという。中学5年の1学期に予言的占師ドウシタイと1週間寝食を共にし奥義を伝授されたという。
太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照… 太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照(あつてる)、旧姓・井上、幼名・淳麿、1904年2月15日-1985年8月4日)は、日本の宗教家、浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派総長、全日本仏教会理事長、日本宗教連盟理事長を歴任。光接寺(阿久根市)住職。 鹿児島県谷山町和田(現・鹿児島市内)の妙行寺の生まれ(次男)。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)文科を1924年3月に卒業。1928年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1929年鹿児島県阿久根町の光接寺の養子となる。1950年から1974年まで宗会議員(7期)。浄土真宗本願寺派内局総務(1952年~1953年)、築地別院輪番(1956年~1960年)を経て、1962年~1965年と1969年~1974年に本願寺派総長。
守屋 光春(もりや みつはる、明治37年〈1904年〉2月1… 守屋 光春(もりや みつはる、明治37年〈1904年〉2月1日 - 昭和63年〈1988年〉1月26日)は、日本の政治家、神職。歌人としては花醉(かすい)と号した。 政治家として神奈川県三浦郡葉山町の町議会議員を2期、町長を3期務めたほか、神職としては四條畷神社宮司、森戸大明神宮司、伏見稲荷大社宮司を歴任し、伏見稲荷大社名誉宮司となった。息子は、のちに同じく葉山町長を務めた守屋大光。 明治37年(1904年)2月1日、守屋喜代太郎・ヒデ夫妻の長男として、神奈川県に生まれた。守屋家は森戸大明神の累代の社家である。 地元の旧制中学校を卒業後、大正12年(1923年)國學院大學高等師範部に入学。在学中は折口信夫・武田祐吉らに古典を学び、特に短歌に秀でていた。
璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - … 璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - 1983年(昭和58年)8月16日)は、璽宇(じう)の教祖。本名は「長岡良子(ながおか ながこ)」。 璽光尊こと長岡良子は、1903年(明治36年)、岡山県御津郡江与味村(現久米郡美咲町江与味)に農家の娘として誕生した。当時の名前は大澤 ナカ(おおさわ なか、大澤 奈賀とも)。 璽宇の公式見解によると、璽光尊は旧岡山藩池田家第13代当主の侯爵池田詮政と安喜子夫人との間に生まれたご落胤であるという。ただし「落胤」とは高貴な男性が配偶者ではない女性と関係して産ませた私生児のことを意味する語なので、この場合は意味が通じない。安喜子夫人は皇族の出自で、池田家へ降嫁する前は安喜子女王といった。
慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3… 慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3月12日 - 平成2年〈1990年〉3月20日)は、昭和時代から平成時代にかけての日本の神職。伊勢神宮大宮司。 1903年(明治36年)、三重県に生まれた。生母は京都府士族籍の女性清水ウタである。慶光院家は伊勢神宮の式年遷宮再興に尽力した慶光院院主の遺跡を継いだ慶光院盈子が維新後に興した家である。父・利敬が二条斉敬の息子であることから、俊は鎌足の直男系男子孫にあたる。俊は、利敬の最初の息子ではあったが庶子であったため家督を継ぐことは無く、のちに分家する。 1916年(大正5年)、三重県立第四中学校に入学。同級生にはのちに日本を代表する映画監督となる小津安二郎がいた。
出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月… 出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月15日 - 1973年(昭和48年)5月6日)は、日本の宗教家。大本教主補佐。教祖の出口王仁三郎の第三女・八重野の夫。本名は伊佐男で、「宇知麿」は王仁三郎に命名された宗教名。 愛媛県喜多郡大洲村(現・大洲市)の佐賀家に生まれる。1918年(大正7年)8月23日、綾部の皇道大本へ初参拝。10月に愛媛県立八幡浜商業学校(現愛媛県立八幡浜高等学校)本科1年を中退して、綾部へ移住し、大本で奉仕生活に入る。 1922年(大正11年)、王仁三郎の近侍となる。 1924年(大正13年)2月、八重野と結婚して出口家に婿入りする。同年4月、大本教主補佐に任命される。
門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年… 門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の実業家、政治家、宗教家。 学習院大学名誉教授門脇卓爾の父。 鳥取県西伯郡所子村(現:大山町)の豪農の家(門脇家住宅として現存)に生まれる。父・門脇才蔵、母・チヨノの長男。米子中学校を経て、大正13年(1924年)京大修了。 所子村産業組合長、所子村農会長、所子村長を経て米子銀行取締役、鳥取県産業組合連合会理事米子支所長、米子銀行常務取締役を歴任した。1941年(昭和16年)合併により山陰合同銀行取締役に就任した。その後、1946年(昭和21年)に常務取締役となった。1959年(昭和34年)11月6日の株主総会で常務取締役を退任した。
湯浅 清子(ゆあさ きよこ、1901年〈明治34年〉1月1日… 湯浅 清子(ゆあさ きよこ、1901年〈明治34年〉1月1日 - 1972年〈昭和47年〉4月22日)は、日本の教育者、宗教家である。元日本基督教女子青年会副会長。夫は同志社総長の湯浅八郎、矢嶋楫子の孫。湯浅洋は息子である。旧姓鵜飼清子。 1901年に鵜飼猛、妙子の長女として東京府に生まれる。1913年に女子学院に入学し、祖母矢嶋楫子や植村環の薫陶を受けた。 1914年からアメリカ合衆国アイオワ州シンプソン大学で学ぶ。1922年に卒業し、イリノイ州で湯浅八郎と結婚する。夫と共に、ヨーロッパで学び、1924年に帰国する。1927年、26歳の時に京都YWCAの会長になる。日本YWCAの要職を歴任した。
許 永鎬(ホ・ヨンホ、朝鮮語: 허영호、1900年12月21… 許 永鎬(ホ・ヨンホ、朝鮮語: 허영호、1900年12月21日 - 1952年1月30日?)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、社会運動家、仏教の僧侶・宗教家、大韓民国の教育者、政治家。制憲国会議員。 別名に許 允(ホ・ユン、허윤)などがある。号は玄州(ヒョンジュ、현주)。法名は鏡湖(キョンホ、경호)。日本名は徳光 允、徳光 翼。 慶尚南道釜山府(現・釜山広域市)出身。東萊高等普通学校(現・東萊高等学校)、東洋大学、大正大学仏教学科卒。 梵魚寺が運営する中等学校の3年在学中に三・一運動に関連する東莱市場の独立万歳デモを主導したため、逮捕され1年間投獄された。出獄後は日本留学を経て、朝鮮に帰り講演活動を行った。
東井 三代次(とうい みよつぐ、1900年〈明治33年〉12… 東井 三代次(とうい みよつぐ、1900年〈明治33年〉12月14日 - 1998年〈平成10年〉8月2日)は、昭和期の宗教家、政治家。衆議院議員。 滋賀県出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 天理教教庁印刷所長、同庶務課長、同輸送部長、同東京出張所長兼教庁総務、図書出版 (株) 養徳社社長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で奈良県全県区に無所属で立候補して初当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で奈良県全県区に無所属で立候補して再選。1949年(昭和24年)1月、第24回総選挙に民主党公認で立候補して再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月… 柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月25日 - 1971年(昭和46年)4月30日)は、日本の政治家、宗教家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 徳島市幟町に生まれる。徳島県立徳島中学校、第六高等学校卒業後、京都帝国大学文学部社会学科へ進学し卒業。 大学卒業後は天理教が中心となって設置した奈良県の天理中学校に奉職し校長まで務め、後に徳島に戻り天理教徳島教区長・天理教名東大教会長を歴任した。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、1952年(昭和27年)まで3期を務めた。1949年(昭和24年)には第3次吉田内閣で文部政務次官を務めた。 1970年(昭和45年)、春の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月1… 戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月11日 - 1958年〈昭和33年〉4月2日)は、日本の宗教家、教育家、実業家、数学者。 創価教育学会理事長(初代)、創価学会会長(第2代)、法華講総講頭などを歴任した。 出生名は、戸田 甚一(とだ じんいち)。数度の改名を経て「城聖(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。 教職者として戸田は現場教育に必要なものをまとめ上げ、文部大臣に建白書を提出する。20歳の時に上京。牧口常三郎に出会い、東京市立西町尋常小学校の代用教員として採用された。その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、院外団に身を投じ、犬養毅の側近であった立憲政友会所属の衆議院議員古島一雄の知遇を得る。
北村 サヨ(きたむら さよ、1900年1月1日 - 1967… 北村 サヨ(きたむら さよ、1900年1月1日 - 1967年12月28日)は、日本の宗教家。「踊る宗教」こと天照皇大神宮教の教祖。 山口県玖珂郡日積村(現柳井市日積)に出生。21歳の時に結婚を契機に山口県熊毛郡田布施町の北村家に嫁ぐ。自民党参議院議員の北村経夫は孫。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
中山 吾一(なかやま ごいち、1900年 - 1995年)は… 中山 吾一(なかやま ごいち、1900年 - 1995年)はカナダで活動した聖公会の司祭。 19歳で単身カナダに渡り、英国人の牧師の説教を契機に神学を学び、聖公会の司祭となった。伝道活動に生涯を捧げ、参事司祭(Canon)の称号をたまわり、イギリス女王エリザベス2世から銀メダルを授与された。娘は詩人・作家のジョイ・コガワ。 1900年(明治34年)、愛媛県喜多郡蔵川村(現 大洲市)に生まれた。14歳の時、京都に上洛。新聞配達をしながら京都市左京区聖護院にあった京都正則予備学校(現在の京都両洋高等学校)に学び、ここで中根正親(後の両洋学園長)に邂逅した。1918年(大正7年)同校を卒業後、立命館大学予科に進学したが、ある日、日本を離れて世界に雄飛しようとの大志を立て、バンクーバー在住のおばを頼って単身カナダへ渡った。
大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月… 大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、日本の宗教家、俳人。 岡山県井原市出身。大阪貿易語学校(現・開明中学校・高等学校)卒業後、逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。「大耕」主宰。1963年、愛媛県教育文化賞を受賞。種田山頭火の顕彰にも努めた。
常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月… 常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月12日 - 1989年〈昭和64年〉1月2日)は、日本の政治家、参議院議員(2期)、宗教家、文筆家。 1899年(明治32年)福岡県糟屋郡古賀町(現古賀市)に生まれる。慶應義塾大学部理財科に在学していたが、卒業前に結核に倒れ、同大学を中退。闘病と共に天理教の修養を始める。 1935年(昭和10年)修養団体『中心社』を創設。その後、月刊誌「中心」を主宰し中心社主幹。この他、養護施設中心学園、養護老人ホーム中心荘を経営して社会福祉に貢献、健康学園を創建。兼ねてよりの持論である5健運動を推進する。 1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙全国区に緑風会から出馬し参議院議員に当選。
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12… 岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県浅口郡玉島町出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。
伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 196… 伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 1969年1月9日)は、奈良県北葛城郡新庄町生まれの宗教家。浄土真宗華光会の創始者、真宗興正派学頭。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
北畠 義郎(きたばたけ よしろう、1897年(明治30年)7… 北畠 義郎(きたばたけ よしろう、1897年(明治30年)7月31日 - 1961年(昭和36年)1月15日)は、明治から昭和期にかけての華族、神職。従四位、男爵。 男爵・新田忠純の長男(庶子)として生まれた。1923年明治大学法学部政治学科卒業。男爵・北畠克通の養子となり、1929年に男爵を叙爵。新田神社々司を経て、北畠親房などをまつる霊山神社の宮司に就任した。 山岳をはじめ、スポーツに親しみ、明大山岳会の結成に加わると共に、明大の後輩にあたる陸上競技選手の南昇竜らを後援した。