柴田つる子(しばた つるこ、1921年7月27日 - 199… 柴田つる子(しばた つるこ、1921年7月27日 - 1997年11月28日)は、日本の歌手。北海道函館市出身。本名、西谷ツル子。 函館実習高等女学校を卒業後、歌手の小林千代子に師事。その後、ムーランルージュ新宿座や日劇ダンシングチームで歌っていた。戦時中になると、活躍の場を奪われ退団。1946年(昭和21年)、戦後初めて行われた「コロムビア新人歌手募集」に合格。同期での合格者に岡本敦郎、津村謙がいた。同年5月、「港に灯りのともる頃」(藤浦洸作詞、平川英夫作曲)でデビュー、ヒットする。同時期に活躍していた、奈良光枝、池真理子と共に、コロムビア新人歌手の三羽烏と評された。 1954年(昭和29年)、結婚し引退。
宇井 あきら(うい あきら、本名:宇井昶〈読み同じ〉、192… 宇井 あきら(うい あきら、本名:宇井昶〈読み同じ〉、1921年〈大正10年〉7月26日 - 2009年〈平成21年〉9月1日)は、日本の元作曲家、シャンソン歌手。武蔵野音楽学校声楽科卒業。 1955年にシャンソン歌手としてデビュー。『ひるのいこい』(NHKラジオ第一放送)にレギュラー出演するなどの活動をした後に作曲家へ転身し、シャンソンを中心に歌謡曲やテレビドラマの主題歌、或いは東京都内の小学校校歌に至るまで幅広いジャンルの作品を手掛けた。特に菅原洋一が1970年にヒットさせた『今日でお別れ』は其の年の日本レコード大賞を受賞するなどして宇井あきらの代表作となった。 また、宇野ゆう子を始め、後進のシャンソン歌手育成にも熱意を傾けたことでも知られる。
笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30… 笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30日 - 2007年(平成19年)11月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。 大阪府大阪市出身。小学生の時に美声をかわれて教会の日曜学校で歌う。1939年(昭和14年)、東京音楽学校(現: 東京藝術大学)予科入学。木下保と原信子に師事。本科の同期には同じ声楽部の内田るり子、石井好子、畑中更予(米田更子)、前田幸市郎、器楽部の森正(指揮者)などがいた。1942年(昭和17年)に卒業と同時に藤原歌劇団に入り、同年11月にワーグナーのオペラ『ローエングリン』ヒロインのエルザでデビューを果たす。以来、同歌劇団で1000回余りの舞台を踏み、ワーグナー『タンホイザー』日本初演のエリーザベトなども務めた。
白光 (はく こう、バイ・クァン、Bai Kwong、192… 白光 (はく こう、バイ・クァン、Bai Kwong、1921年〈民国10年〉6月27日 - 1999年8月27日)は、1940年代から1950年代にかけて活躍した中国の歌手・女優。七大歌后の1人。本名は史永芬。 一筋の白い光がスクリーンに映像を映し出す姿に強い印象を受けたことから芸名を白光とした。女優として『蕩婦心』『一代妖姫』『玫瑰花開』といった映画がヒット。1950年代末に芸能界を引退の後、マレーシアの首都クアラルンプールに移り住み、1999年8月27日に結腸癌で病死。 白光は本名を史永芬といい、1921年に京都市(現:北京市)で生まれた。女学校時代に史永芬は北平沙龍劇団という劇団で、端役ながら新劇女優として曹禺の『日出』などの作品の舞台に立っていた。
伊藤 亘行(いとう のぶゆき、1921年(大正10年)2月6… 伊藤 亘行(いとう のぶゆき、1921年(大正10年)2月6日 - 2002年(平成14年)11月10日)は日本の声楽家(バリトン)、オペラ歌手、音楽教育者、作曲家。 三重県四日市市京町生まれ。伊藤家はタイル業、万古焼業を営み父が仕事中にヴァイオリンを弾くのを聞いて、叔母の家でオルガンを弾いたりして幼少年時代を過ごす。旧制富田中学校(現在の三重県立四日市高等学校)卒業。父や親戚を説得して東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学)へ進学し、木下保や中山悌一に師事して1941年(昭和16年)に卒業。大東亜戦争中で音楽関係の仕事がないことから、郷里の東海地方に帰り現在の愛知県立旭丘高等学校や愛知県立明和高等学校の音楽担当の教師となり音楽を教えた。
暁 テル子(あかつき てるこ、1921年1月21日 - 19… 暁 テル子(あかつき てるこ、1921年1月21日 - 1962年7月20日、本名:関根 ひさ)は、昭和20年代に活躍した日本の歌手、女優。愛称は「テリー」。 SSK(松竹少女歌劇団)出身。 1933年(昭和8年)、子役でデビュー。 1939年(昭和14年)準幹部となり、並木路子らと4人のジョリー・シスターズで活躍。 1941年(昭和16年)古川ロッパ一座に入団。東宝、松竹の舞台でも活躍。 戦後はアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)専属となり外国人兵から「テリー」と愛称で呼ばれ人気を博した。 1948年(昭和23年)大映と契約し、『春爛漫狸祭』で映画デビュー。 1949年(昭和24年)、照子からテル子に改名。
黒木 曜子(くろき ようこ、1921年(大正10年)1月6日… 黒木 曜子(くろき ようこ、1921年(大正10年)1月6日 - 1959年(昭和34年)2月18日)は日本の歌手。本名は井関富沙子。
横井 輝男(よこい てるお、1920年(大正9年)11月3日… 横井 輝男(よこい てるお、1920年(大正9年)11月3日 - 2000年(平成12年)12月20日)は、日本のバリトン歌手。大阪音楽大学名誉教授。 東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)卒業。香川県出身。妻はソプラノ歌手で徳島文理大学名誉教授の横井順子。 香川県出身。1940年(昭和15年)4月、東京音楽学校甲種師範科に入学。酒井弘、木下保に師事し、1942年(昭和17年)に同校を卒業。東京音楽学校を卒業後は大阪音楽大学で講師となり、教授を経て同大学を退官後は名誉教授に就任した。 1948年(昭和23年)に関西における戦後初のベートーヴェン「交響曲第9番」の演奏となった関西交響楽団の結成一周年を記念した定期演奏会に出演した。
大屋 政子(おおや まさこ、1920年(大正9年)10月27… 大屋 政子(おおや まさこ、1920年(大正9年)10月27日 - 1999年(平成11年)1月16日)は、日本の歌手、実業家、タレント、作家。旧姓は森田。 元帝人社長大屋晋三の妻。実父は元衆議院議員の森田政義。 大阪府大阪市阿倍野区北畠生まれ。父は熊本県天草出身の代議士森田政義、母は大阪府出身。「お嬢様」として育つが、1939年(昭和14年)、政子19歳のとき、父・政義が心臓発作のため急死。これを機に生活は一変。父の取り巻きでにぎわっていた森田家にはもはや誰も寄り付かなくなり、懇意にしていた家を訪ねても、門さえ開けてくれなかった。政子は「没落したらあかんねん」と強く思い、この言葉が政子の口癖になった。
栗本 正(くりもと ただし、1920年(大正9年)9月19日… 栗本 正(くりもと ただし、1920年(大正9年)9月19日 - 1986年(昭和61年)10月28日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、オペラ歌手、音楽教育者、合唱指揮者。元名古屋芸術大学学長。妻も声楽家(メゾソプラノ)の栗本尊子。 台湾出身。父は三輪神社(石川県)等の社掌であったが、台湾基隆神社社掌補任により移住したため、現地にて出生。父の任期満了により帰国、神奈川県立川崎中学校(旧制)卒業。1937年(昭和12年)東京音楽学校入学。同期に中山悌一がいる。1941年(昭和16年)東京音楽学校声楽科卒業。1943年(昭和18年)東京音楽学校研究科修了。宮廷歌手ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。
内田 るり子(うちだ るりこ、1920年8月8日 - 199… 内田 るり子(うちだ るりこ、1920年8月8日 - 1992年5月1日)は、日本の声楽家、民俗音楽研究者。 東京生まれ。1942年東京音楽学校声楽科卒。1952年山形大学助教授、1954年日本女子体育短期大学助教授、1956年国立音楽大学助教授、教授。1962年ウィーン大学哲学科中退。83年『奄美民謡とその周辺』で第1回志田延義賞受賞。91年国立音大名誉教授。91年「奄美民謡とその周辺」で國學院大學文学博士。門下にペギー葉山がいる。
河井 坊茶(かわい ぼっちゃ、-ぼうちゃ、1920年7月24… 河井 坊茶(かわい ぼっちゃ、-ぼうちゃ、1920年7月24日 - 1971年12月1日)は、日本の俳優、歌手、放送タレントである。本名は秋元 喜雄(あきもと よしお)。 1920年(大正9年)7月24日、秋元喜雄として生まれる。早稲田大学理工学部を卒業後、母校の暁星中学校で数学教師をつとめていた。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲、同年8月15日、25歳のときに第二次世界大戦の終戦を迎え、同年11月、復員してきた三木鶏郎が東京大空襲で焼け跡となっていた三木の九段の自宅跡に掘立小屋「鶏小屋第1号」を建てたとき、河井は妻とともに居候する。 翌1946年(昭和21年)1月29日、三木がNHKラジオの番組『歌の新聞』第1回放送に出演するにあたり、繁田裕司(三木)、朝川賞郎、秋元喜雄(河井)3人の「コメディアン・ハーモニスト」名義でともに出演した。
森 光子(もり みつこ、1920年〈大正9年〉5月9日 - … 森 光子(もり みつこ、1920年〈大正9年〉5月9日 - 2012年〈平成24年〉11月10日)は、日本の女優、歌手、マルチタレント、司会者。日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長、フジテレビジョン番組審議会名誉顧問。国民栄誉賞受賞。栄典は従三位・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・文化功労者・文化勲章。東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使。 1920年、京都府京都市出身。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。俳優の嵐寛寿郎の従妹である。長らく「寛寿郎の姪で1923年生まれ」としていたが、1984年の紫綬褒章受章にあたり事実を公表し、訂正している。芸名は嵐の母(伯母)から、女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」とつけられたことによる。
栗本 尊子(くりもと たかこ、1920年(大正9年)5月9日… 栗本 尊子(くりもと たかこ、1920年(大正9年)5月9日 - 2019年(平成31年)1月22日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。二期会名誉会員(2017年時点)本名、栗本 尊(くりもと たか)。旧姓は、小鳥居。 福岡県筑紫郡大宰府町(現:太宰府市)にて、安楽寺五別当の小鳥居家の五女として生まれる。福岡女学校(現:福岡女学院中学校・高等学校)卒業。1941年(昭和16年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業。リア・フォン・ヘッサートに師事。1946年(昭和21年)長門美保歌劇団プッチーニ『蝶々夫人』のスズキ役でデビュー以来、長門美保歌劇団で活躍。1952年(昭和27年)に旗揚げされた二期会に参加。
北 廉太郎(きた れんたろう、1920年(大正9年)3月20… 北 廉太郎(きた れんたろう、1920年(大正9年)3月20日 - 1940年(昭和15年)9月15日)は昭和期の歌手。 現在の山形県鶴岡市出身。 1936年(昭和11年)タイヘイレコードから紀多寛として「男の涙」でデビュー。ポリドールレコード移籍と共に瀧廉太郎をもじった北廉太郎に改名。 「潮来夜船」の大ヒットで知られ、他にも「青春の丘」、「出船の唄」、「追憶の馬車」、「シナの町」、「ヴォルガ旅愁」などヒット曲多数。アイドル歌手として人気を得たが、1940年(昭和15年)、白血病で急逝。享年20。 後に2代目北廉太郎の名前でポリドールよりデビューした小川耕平がいる。 ビクターから「雨の夜船」でデビューした後、ポリドールに移籍。
秋元 雅一朗(あきもと まさいちろう、1920年(大正9年)… 秋元 雅一朗(あきもと まさいちろう、1920年(大正9年)3月2日 - 1990年(平成2年)2月7日)は、日本の声楽家(バリトン、バス)・オペラ歌手・音楽教育者・翻訳家(訳詞家)。二期会の創設メンバーの一人。本名は秋元清一(あきもと せいいち)。旧字体秋元淸一。 作曲家の関口孝明は孫にあたる。 東京府(現: 東京都)出身。1945年(昭和20年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)研究科修了。本科では戸田敏子、畑中良輔らと同級。木下保に師事。 第二次大戦後まもなくの1946年(昭和21年)4月に藤原歌劇團 ビゼー『カルメン』エスカミリオでデビュー。その後オペラへの出演を続け、20年足らずの間に約90本ものプロダクションに出演している。
中山 悌一(なかやま ていいち、1920年2月6日 - 20… 中山 悌一(なかやま ていいち、1920年2月6日 - 2009年9月29日)は、日本のバリトン歌手。作曲家。東京芸術大学教授、武庫川女子大学教授、洗足学園大学客員教授。 大分県生まれ。旧制大分中学校を経て東京音楽学校を卒業。ドイツ歌曲を研究し、日本においては木下保に師事した。ミュンヘン高等音楽学校に留学してゲルハルト・ヒュッシュに師事。1956年に帰国し、演奏活動を再開する。以降放送などで活動を重ね、出演回数は800回を超えた。 また、母校の東京芸術大学などで後進の指導にもあたり、東京芸術大学教授、武庫川女子大学教授、洗足学園大学客員教授をつとめた。弟子には大賀典雄、宮原卓也、伊藤京子等がいる。
川崎 静子(かわさき しずこ、1919年(大正8年)12月3… 川崎 静子(かわさき しずこ、1919年(大正8年)12月3日 - 1982年(昭和57年)10月4日)は、昭和期の声楽家(アルト)・歌手・オペラ歌手・音楽教育者。旧姓は千葉。旧字体表記は靜子。二期会の創設者の一人。 1919年(大正8年)、東京府(現: 東京都)に生まれる。 在学中から東京音楽学校(現: 東京藝術大学)による信時潔『海道東征』のアルトソロを務め、全国で演奏旅行を行なう。 1941年(昭和16年)に東京音楽学校を卒業。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ、田中伸枝、リア・フォン・ヘッサートに師事。 同年に新交響楽団(現: NHK交響楽団)定期演奏会でモーツァルト『フィガロの結婚』のマルチェルリーナを歌い、東京音楽学校以外でのデビュー。
佐々木 成子(ささき さだこ、1919年(大正8年)5月27… 佐々木 成子(ささき さだこ、1919年(大正8年)5月27日 - 2017年(平成29年)5月15日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)、歌手、オペラ歌手、音楽教育者。二期会の結成メンバーの一人。本名: 内田 成(うちだ さだ)。 東京府(現: 東京都)出身。東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。卒業後まもなく大量のSPレコードの吹込みを行なう。 戦後は、マーラー交響曲第8番の日本初演のソロを務めるなど、第一線のクラシックの声楽家として活躍している。 1952年(昭和27年)2月15日に二期会結成披露・基金募集の「ヴォーカル・コンサート」が行われた。
渡邊 高之助(わたなべ たかのすけ、1919年(大正8年)3… 渡邊 高之助(わたなべ たかのすけ、1919年(大正8年)3月3日 - 2003年(平成15年)7月1日)は、日本の声楽家(テノール)・音楽教育者。新字体で、渡辺 高之助と表記されることがある。 東京府四谷区生まれ。1941年(昭和16年)東京音楽学校声楽科卒業。木下保に師事。東京放送合唱団などで活躍。1952年(昭和27年)の二期会創立以来のメンバー。オペラ歌手として、二期会、グルリット・オペラ協会、長門美保歌劇団等、数多くのオペラに出演し、昭和音楽大学オペラ研究所に記録されているだけでも出演回数は58回にのぼる。 音楽教育面においては1958年(昭和33年)東京芸術大学助教授となり、1960年(昭和35年)声楽科主任、1969年(昭和44年)教授。
岡部 多喜子(おかべ たきこ、1919年(大正8年)2月24… 岡部 多喜子(おかべ たきこ、1919年(大正8年)2月24日 - 2020年(令和2年)10月15日)は、日本の声楽家(ソプラノ、メゾソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。 東京府出身。東京音楽学校卒業。長坂好子に師事。 1942年(昭和17年)2月6日 第13回全日本新人紹介演奏会(夜 日比谷公会堂)でヴェルディ『ドン・カルロス』よりエボリ姫の詠唱、清水脩『春の寺』(記録は『メツォソプラノ』である)を歌う。また、レコードの吹込みも行うなど、戦時中も途切れず音楽活動を行う。 戦後、オペラにおいて、1950年(昭和25年)6月11日に長門美保歌劇團公演 日比谷公会堂 モーツァルト『フィガロの結婚』ケルビーノ(指揮:金子登)、1954年(昭和29年)12月24日、25日、26日、28日 俳優座劇場 二期会 メノッティ『アマールと夜の訪問者』アマールの母(指揮:伊藤栄一)を演じている。
大谷 洌子(おおたに きよこ、1919年1月1日 - 201… 大谷 洌子(おおたに きよこ、1919年1月1日 - 2012年5月8日)は、昭和期の声楽家(ソプラノ)、歌手。出生年を1921年とする文献もある。 広島県広島市国泰寺町(現・中区国泰寺町)出身。両親はいずれも広島一中(現・広島国泰寺高校)の教師だった。1940年武蔵野音楽学校卒業。同期生に高英男、木下忠司がいる。原信子に師事。 同年、ビクターレコードから歌手デビュー。1941年に、柴田睦陸と「出せ一億の底力」を吹き込む。 1942年には、灰田勝彦と、「ジャワのマンゴ売り」や「空の神兵」を吹き込みヒットさせている。 前年、第10回毎日音楽コンクール声楽部門入賞をきっかけに藤原歌劇団歌舞伎座公演『ファウスト』の主役・マルガレーテ役に抜擢されオペラ界にデビュー、新人でマルガレーテを演じた冽子は「オペラ界のシンデレラ」ともてはやされた。
田端 義夫(たばた よしお、1919年〈大正8年〉1月1日 … 田端 義夫(たばた よしお、1919年〈大正8年〉1月1日 - 2013年〈平成25年〉4月25日)は、日本の歌手、ギタリスト。本名:田畑 義夫(読み同じ)。第二次世界大戦前から21世紀初頭まで現役歌手として活躍した。愛称はバタヤン。高い位置で構えるエレクトリック・ギター(ナショナル1124)、独特の哀愁を帯びた歌声、「オーッス!」という威勢のよい挨拶がトレードマークで、広く国民に親しまれた。 三重県松阪市生まれ。3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため慢性的な栄養失調であった。トラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。 13歳より名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公。
高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子、1918… 高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子、1918年12月2日 - 1990年5月27日)は、日本の女優、歌手。歌う映画スターの草分け的存在。父は筑前琵琶演奏者の高峰筑風。妹は女優で歌手の高峰麻梨子。孫は元女優の高峰陽(ひなた)。 1918年(大正7年)12月2日(月曜日)、東京府東京市芝区露月町(現在の東京都港区新橋5丁目)に生まれる。実父・高峰筑風は、独立して高峰流筑前琵琶の宗家となった。東洋英和女学校(高等女学校。東洋英和女学院中学部・高等部の前身)を卒業した1936年(昭和11年)に、筑風が急死。一家を養うために、周囲の勧めもあり映画界入りを決意。帝国劇場の専務の紹介で松竹に入社し、同年に公開された大船映画『母を尋ねて』で女優としてデビューした。
高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9… 高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。日本人のシャンソン歌手の先駆けであり、シャンソン音楽普及の第一人者である。フランスでも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。 大正7年(1918年)10月9日、樺太泊居町で8人兄弟の末っ子として生まれた。生後すぐ、母方の伯母の嫁ぎ先へ戸籍上の養子になっている。芸名である高英男の姓である「高」は旧姓(実家の姓)であり、自身は日本人である。デビュー以来「日本人ではないのでは」という問い合わせが少なからずあった。「高」という姓は大陸名のように思われがちであるが、日本に存在しない苗字ではなく、韓国には同姓同名の映画監督がかつていた。
竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1… 竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1984年4月4日、本名:竹山 逸平)は、昭和20年代に活躍した日本の歌手である。代表曲は「泪の乾杯」、「異国の丘」など。 静岡県浜松市出身。浜松第一中学校を経て慶應義塾大学法学部に進学。大学在学中から歌好きが高じてコーラス部に所属。卒業後は日本火災海上(現:損害保険ジャパン)に就職するも、歌手になる夢が捨てきれず、1943年に日本ビクターから歌手デビューする。 ヒットに恵まれたのは戦後になってからで、1947年に平野愛子の「港が見える丘」のB面だった「泪の乾杯」をはじめ、藤原亮子とデュエットした「誰か夢なき」、1948年に作曲家・吉田正の出世作となり、復員兵の中村耕造とデュエットした「異国の丘」、1949年に再び藤原亮子とデュエットした「月よりの使者」、「熱き泪を」、「流れの船唄」が相次いでヒットとなった。
近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 199… 近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 1992年7月5日)は、東京都出身の歌手、作曲家、映画監督である。本名大蔵 敏彦(おおくら としひこ)。兄は新東宝、大蔵映画社長を務めた大蔵貢、姉はコロムビア専属歌手となった香取みほ子。孫にアイドルグループ「エレクトリックリボン」の元メンバー、ericaがいる。 正則中学校卒業。武蔵野音楽学校在学中に教授と進級試験の方法を巡って対立し、1936年(昭和11年)に退学した。タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷(すべ)ろよスキー」でレコードデビュー。ポリドール・レコード専属になるまで、マイナーレコードを転々とし、その間に大友博(リーガル)、大久良俊(アサヒ)など改名を重ねるが、ヒットに結びつく作品はなかった。
青葉 笙子(あおば しょうこ、1918年(大正7年)3月21… 青葉 笙子(あおば しょうこ、1918年(大正7年)3月21日 - 2012年(平成24年)2月28日)は、昭和時代に活躍した歌手。「鴛鴦道中」などで知られる。本名は小野寺 貞子(おのでら ていこ)。 宮城県仙台市の裕福な家庭に生まれる。幼い頃に母を亡くし、祖父母に育てられる。実家にあった蓄音機から流れる流行歌の世界に憧れるようになり、特に後の恩師となる関種子の歌う「嘆きの夜曲」を聞き、歌手を志すようになる。 1936年(昭和11年)、日本コロムビアが松竹とタイアップして、音丸の「下田夜曲」の宣伝のために開催した歌謡コンクールに応募し、優勝した。このコンクールには、後に活躍する若き日の岡晴夫や近江俊郎の姿もあったが、女性の歌であったためかいずれも落選している。
三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田… 三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田、1918年〈大正7年〉3月13日 - 2005年〈平成17年〉12月9日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・オペラ歌手・音楽教育者。二期会の創設者の一人。夫はピアニストでフェリス女学院短期大学教授兼学長の三宅洋一郎。 福岡市生まれ。父は英文学者・九州帝国大学教授の豊田実。1939年(昭和14年)東京音楽学校を卒業する。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 実質的なデビューは1939年(昭和14年)12月の新交響楽団(現: NHK交響楽団)定期演奏会のベートーヴェン『フィデリオ』マルツェリーネである。 戦時中の1945年(昭和20年)1月においても新交響楽団の演奏会に出演しているのが確認できる。
平井 英子(ひらい ひでこ、1918年1月13日 - 202… 平井 英子(ひらい ひでこ、1918年1月13日 - 2021年2月21日)は、大正末期から昭和初期にかけて童謡のジャンルで活躍した日本の歌手である。出生名は林 秀(はやし ひで)、結婚後の姓名は鈴木 英子(すずき ひでこ)あるいは鈴木 英(すずき ひで)、旧姓は平井。 東京府東京市四谷区(現:東京都新宿区)塩町出身。7歳で幸田露伴の妹幸田延子に師事しピアノを学ぶ。その頃、作曲家の中山晋平の門下生となり、1928年(昭和3年)、ニッポノホン(日本コロムビアの前身)から童謡歌手としてデビューする。日本ビクター(現在のJVCケンウッド)の創立と同時に専属の童謡歌手となる。 野口雨情・中山晋平のコンビによって作曲・作詞された童謡を主に歌っていたが、佐々紅華が作詞・作曲した楽曲も歌い、本人談によると、一番「かわいがって頂いた」のは紅華だという。
歌上艶子(うたがみ つやこ、1917年(大正6年)8月25日… 歌上艶子(うたがみ つやこ、1917年(大正6年)8月25日 - )は、日本の歌手。灰田勝彦とのデュエット曲「マニラの街角で」で知られる。本名は横枕三佐子(よこまくら みさこ)。父は帝国海軍軍楽隊隊長の横枕文四郎。 1917年(大正6年)、長崎県佐世保市出身。 松竹少女歌劇団に入団し、1936年(昭和11年)コロムビアから「ピーターパン」でデビュー。1942年(昭和17年)、ビクターから歌謡曲歌手として再デビュー。同年、灰田勝彦とのデュエットで「マニラの街角で」が大ヒットする。 その後は戦時歌謡などを吹き込む。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 -… 浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のソングライター。兵庫県神戸市出身。愛称はハマクラ。府立四中卒業、早稲田大学中退。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は子。元女優の渚まゆみは妻。
安西 愛子(あんざい あいこ、本名:志村 愛子(しむら あい… 安西 愛子(あんざい あいこ、本名:志村 愛子(しむら あいこ)、1917年4月13日 - 2017年7月6日)は、日本の童謡歌手、声楽家、政治家。参議院議員(3期、自由民主党)、安西音楽研究所名誉会長、杉の子こども会名誉会長、日本会議副会長などを歴任。 東京府出身。杉並第七小学校、府立第五高等女学校(現東京都立富士高等学校)卒業後、東京音楽学校声楽科に入学。在学中には浅野千鶴子、長坂好子、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 1942年、同校研究科卒業。コロムビアレコード専属の歌手となる。 1949年には松田トシと共にラジオ番組『うたのおばさん』(NHKラジオ第1放送)に出演、1964年まで番組を担当する。
藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 19… 藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 1974年1月27日)は昭和期の歌手。 山口県萩市出身。東洋音楽学校本科声楽科卒業。 1937年(昭和12年)、「泣いて居る」でビクターレコードからデビュー。 柴田睦陸との「朝だ元気で」、小畑実との「勘太郎月夜唄」、「婦系図の歌(湯島の白梅)」、「小太刀を使う女」、竹山逸郎との「誰か夢なき」、「月よりの使者」など、男性歌手とのデュエットでヒットを飛ばす。 生涯独身で、晩年は横浜で暮らした。 昭和40年代の懐メロブームの際に再登場し、テレビ番組などで自身のヒット曲を披露していた。その際は、ソロで披露することが多く、特に不仲だったとされる竹山逸郎とは、決してデュエットしなかった。
池 真理子(いけ まりこ、1917年1月2日 - 2000年… 池 真理子(いけ まりこ、1917年1月2日 - 2000年5月30日)は、ジャズ・ラテン・フォルクローレの歌手。京都府生まれ。宝塚音楽学校卒業。愛称は「アイク」。なお、サインや後年のテレビ出演のテロップでは池眞理子となっている。宝塚歌劇団24期生。宝塚歌劇団在団時の芸名は三日月美夜子である。 1917年(大正6年)1月2日、京都の万寿寺生まれだが、実家は僧ではなく、父親はその婿養子で京都帝国大学の学生だった。生後6か月で父が結核で亡くなり、母は女学校教員となったため、祖父母の手で養育された。 平安女学院に入学したが、友達の家出に付き合ったことから祖父の怒りを買い、京都高等女学校に転校させられる。
鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1… 鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1997年3月30日)は、日本の歌手。山口県大島出身。 沈没した戦艦陸奥の記念館や、作詞家星野哲郎の出身地で有名な山口県大島出身。岩国中学卒業後、日本大学芸術科に進み、同時に声楽を勉強するために東洋音楽学校にも籍を置く。東洋音楽学校在籍時に、渡辺はま子の「忘れちゃいやよ」などのヒット曲でも知られる細田義勝に見初められ、1938年(昭和13年)5月ビクターより「晴れの土俵」でデビュー。8月「カタカナ忠義」発売。この「カタカナ忠義」は国内よりアメリカ在住の日系人たちの間で評判を取り、米国でヒットする。 その後、細田がテイチクに移籍したのに行を共にする。
渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月… 渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、日本の歌手、作曲家。 沖縄県国頭郡恩納村に生まれ、少年期を鹿児島県の奄美大島龍郷町で過ごす。日本大学藝術学部卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビュー。歌手時代は売れず、津村謙の前座を務めていたこともあった。津村は後に渡久地が作曲した『上海帰りのリル』で大ヒットを飛ばすことになる。 1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。
知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993… 知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993年7月25日)は、沖縄民謡の歌手、作詞・作曲家。知名定男の父として知られている。 沖縄県具志川市(現在のうるま市具志川)生まれ。太平洋戦争中は現在の北九州市で暮らしながら筑豊炭田で働いていた。その際に息子の知名定男が生まれた。 戦後しばらくの間、大阪で暮らし、関西における沖縄音楽の中心的人物の一人となるが、1956年、定男ら家族を引き連れて沖縄に密航。 1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、宮廷音楽湛水流の研究や箏曲譜などの編纂にも取り組んだ。 作詞・作曲家としても活躍し、名作の数々は現在でも沖縄県内で広く歌い継がれている。
加古 三枝子(かこ みえこ、1916年3月22日 - 200… 加古 三枝子(かこ みえこ、1916年3月22日 - 2002年12月17日)は、日本の声楽家。本名・小泉三枝子。兵庫県高砂市生まれ。東京音楽学校声楽料卒業。 1940年から1971年までお茶の水女子大学講師、1957年から1972年まで東京芸術大学講師を務めた。1957年、ヒンデミット「マリアの生涯」を日本初演。30代の時、11歳年下の音楽学者・小泉文夫と恋におち、周囲の反対を押し切って結婚し、小泉が50代で死んだ後その思い出を刊行した。自身の詩「碧い部屋」に柴田南雄らが曲をつけ、自作自演を行っており、CDも製作された。墓所は渋谷区法雲寺 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 -… 岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月19日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は佐々木 辰夫(ささき たつお)。愛称は「オカッパル」「オカッパレ」 千葉県木更津市に生まれる。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで、成績はいつも「丙」だったという。6年生の時に音楽の先生から人前で歌を歌うことを勧められ、歌うことに興味を持ったという。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その一年後には上野松坂屋に勤める。 1934年(昭和9年)に、上原げんとと出会い、その後に妻となる奥田清子とも出会う。
藤井 典明(ふじい のりあき、1915年(大正4年)11月2… 藤井 典明(ふじい のりあき、1915年(大正4年)11月26日 - 1994年(平成6年)11月17日)は、日本の声楽家(バリトン、一部にテノールとなっているものも存在する)、合唱指揮者、音楽教育者。名前の読みをテンメイとしている資料もある。 広島県出身。1940年(昭和15年)東京音楽学校卒、1942年(昭和17年)東京音楽学校研究科修了。 1940年(昭和15年)読売新人演奏会でデビュー。オペラでは、藤原歌劇団を中心に、バリトン歌手として出演するとともに、1947年(昭和22年) - 1955年(昭和30年)藤原歌劇団合唱部の指導にあたった。オペラの公演に関わった記録は66回に及ぶ。 音楽教育面では、1940年(昭和15年)東京音楽学校教師。
伏見 信子(ふしみ のぶこ、1915年(大正4年)10月10… 伏見 信子(ふしみ のぶこ、1915年(大正4年)10月10日 - 生死不明)は、日本の女優、歌手。本名は伏見 延子。別名は伏見 延江(ふしみ のぶえ)。 東京市浅草区小島町出身。同志社女学校(現・同志社女子中学校・高等学校)高等女学部卒業。父伏見三郎が新派の俳優で、早くから姉の直江と共に舞台の子役などで新派の舞台に出演。1926年(大正15年)、姉と帝国キネマに入社。 1927年(昭和2年)、姉の伏見直子=伏見直江と阪東妻三郎プロへ移籍し、同年11月、日活大将軍現代劇部に入社。時代劇部へと移り、「大地に立つ」、「小市民」に主演。 1928年(昭和3年)、同志社女学校高等女学部に入学。4年通学の傍ら「春または丘へ」の主役を務める。
三門 順子(みかど じゅんこ、1915年〈大正4年〉9月25… 三門 順子(みかど じゅんこ、1915年〈大正4年〉9月25日 - 1954年〈昭和29年〉4月4日)は、栃木県佐野市出身の歌手。本名:富山 静子。 長唄を習い、18歳の時、NHKのオーディションを受け合格。NHK文芸部、久保田万太郎の推薦でキングレコードに入る。 1935年(昭和10年)7月にキングレコードから「水兵節」でデビューしこの年から専属制度を設けたキングレコードの第一号歌手となる。1937年(昭和12年)「さくら道成寺」「祇園絵日傘」、1939年(昭和14年)「暁の決死隊」、1941年(昭和16年)「筑紫の明月」、1947年(昭和22年)「それで良いのよ」などがヒット。1938年(昭和13年)に児玉好雄と吹き込んだ「愛馬行」(愛馬進軍歌のB面)が大ヒットする。
糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 199… 糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 1991年10月23日)は、沖縄民謡の歌手、舞踊家。 8歳の頃から玉城盛義に師事。 1958年に玉城流師範免許を取得し、1976年には糸和会を設立した。 戦後沖縄の民謡、舞踊界の先駆的存在として活躍した一方で、空手にも秀でていた。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23… 奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23日 - 2006年(平成8年)3月6日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。本名:久本 智重子(ひさもと ちえこ)。 千葉県千葉市出身。1937年(昭和12年)東京音楽学校本科卒業。1939年(昭和14年)同校研究科修了。世代柄『此の決意』(テイチク1943年2月新譜、東海林太郎・奥田智重子)等の軍歌の録音もある。 1949年(昭和24年)東京でリサイタル・デビュー。1953年(昭和28年)渡独、フライブルク音楽大学で学ぶ。1955年(昭和30年)同大学卒業。1955年(昭和30年) - 1958年(昭和33年)同大学マイスターコース修了。
松田 トシ(まつだ トシ、1915年3月7日 - 2011年… 松田 トシ(まつだ トシ、1915年3月7日 - 2011年12月7日)は、日本の歌手、声楽家(声域はソプラノ)。松田敏江の芸名でも活動した。 神奈川県横浜市出身。東京音楽学校本科卒業。在学中は長坂好子、マリヤ・トルに師事。卒業後、日本大学芸術科や東京女子体操音楽学校の講師となる。 1936年、NHKにおいて「フォーレ歌曲」を初放送。その後は国民歌謡で、「蘭花の頌」「満州帝国皇帝陛下奉迎国民歌」「日本婦人の歌」を放送。戦後もラジオ歌謡で「白鳥の歌」「ブンガワン・ソロ」など吹込みヒットさせた。 1949年8月からは、NHKで放送開始した『うたのおばさん』に約15年間出演。安西愛子と共に「うたのおばさん」として親しまれた。
二葉 あき子(ふたば あきこ、1915年2月2日 - 201… 二葉 あき子(ふたば あきこ、1915年2月2日 - 2011年8月16日)は、日本の女性歌手。 広島駅のすぐ北側、広島県広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。本名は加藤芳江。 広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)を経て、1935年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。 レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。
酒井 弘(さかい ひろむ、1914年(大正3年)11月3日 … 酒井 弘(さかい ひろむ、1914年(大正3年)11月3日 - 1996年(平成8年)12月9日)は、昭和期の歌手。 兵庫県丹波篠山市出身。大阪音楽学校、武蔵野音楽学校中退後、1935年(昭和10年)に東京音楽学校に入学する。同校卒業後、テノール歌手として活躍。1937年(昭和12年)3月、ポリドールから「春の感傷」でレコードデビュー。その際は三村博という変名であった。その後、コロムビアレコードに移籍し、代表曲は「戦友の遺骨を抱いて」(この曲は各社競作)、「比島決戦の歌」、「あゝ紅の血は燃ゆる」、「僕は空へ君は海へ」など戦時歌謡中心である。戦後は東京芸術大学で助教授を務める。1982年(昭和57年)まで同校に勤務し、「発声の技巧とその活用法」などの著書のほか「日本歌曲の歌い方と日本語の発音」などの著書も発表した。
霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日… 霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日 - 1984年(昭和59年)4月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本 榮吾。福島県双葉郡大久村(現在のいわき市)出身。1979年(昭和54年)紫綬褒章受章。 1914年(大正3年)に福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。 浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年(昭和11年)にコロムビアに入社。
新橋 喜代丸(しんばし きよまる、1914年〈大正3年〉6月… 新橋 喜代丸(しんばし きよまる、1914年〈大正3年〉6月22日 - 没年不明)は昭和初期に活躍した芸者歌手。本名生駒光江。 1914年(大正3年)岡山県真庭郡落合町(現在の真庭市)に生まれる。1933年(昭和8年)に上京し新橋喜代三に師事する。1935年(昭和10年)の『月の東京』でデビューして以降、タイヘイレコードの歌手として『花嫁双六』などのヒット盤を出した。