益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月1… 益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。
職業が俳優:5,463人
益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月1… 益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。
大谷 日出夫(おおたに ひでお、1909年9月4日 - 19… 大谷 日出夫(おおたに ひでお、1909年9月4日 - 1971年)は、日本の俳優である。サイレント映画末期の主演俳優で、トーキー以降、とくに第二次世界大戦後は脇に回った。本名鈴木 盛夫(すずき もりお)。 1909年(明治42年)9月4日、福島県、現在の郡山市に生まれる。安積中学を卒業後、一時期鉄道工場に勤務する。 1932年に日活太秦撮影所に入社し、1933年(昭和8年)2月1日、東京・浅草公園六区の富士館等で公開された、辻吉朗監督、湊邦三原作のサイレント映画『霧行燈』に主演して、満23歳で映画界にデビューした。 1934年(昭和9年)、新興キネマの発足に参加、多くの映画に主演した。1942年(昭和17年)の戦時統制による同社の大映(現在の角川映画)への合併後は、出演作の記録がない。
藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979… 藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979年10月23日)は、東京市出身の俳優、元ラグビー選手。日本代表・キャップは1。
大河内 龍(おおこうち りゅう、1909年5月 - 没年不詳… 大河内 龍(おおこうち りゅう、1909年5月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名山田 通(やまだ とおる)。京都の撮影所の助監督から俳優に転向、トーキー時代にサイレント映画を量産した全勝キネマで剣戟スターとしていきなり大成する。大部屋時代は田川 通(たがわ とおる)、一時マキノ 梅太郎(まきの うめたろう、二代目)を名乗った。 1909年(明治42年)5月、静岡県沼津市に生まれる。映画女優の岡島艶子の親戚にあたる。 三重県の旧制三重県励精中学校(現在の三重県立津商業高等学校)から三重師範学校(現在の三重大学教育学部)に転学、卒業後は教員への道を進まず、京都のマキノ・プロダクションに入社、助監督部に配属になる。
小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - … 小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - 1988年4月23日)は、日本の俳優、演出家。
小林 重四郎(こばやし じゅうしろう、1909年3月8日 -… 小林 重四郎(こばやし じゅうしろう、1909年3月8日 - 1996年6月6日)は、日本の俳優、歌手。本名は小林 義雄(こばやし よしお)。 神奈川県横須賀市汐入町出身。日本映画俳優学校卒業。新国劇出身。中里事務所に所属していた。 1924年、劇団「宝塚国民座」に入り、『砂絵呪縛』で初舞台を踏む。 1929年、日活に入社し『雲井竜雄』で映画デビュー。その後、松竹下加茂に移籍するが、1935年、再び日活へ復帰。映画『国定忠治』の劇中歌を唄い評判を得、ポリドールよりレコードも発売。歌う映画スターのはしりとなる。 1938年、一座を結成し、舞台俳優に転じ、テイチクレコード専属歌手としても人気を得る。
大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 198… 大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 1983年11月17日)は、日本の俳優。本名は菅沼 常吉。
佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982… 佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982年9月22日)は、日本の俳優、映画監督。本名は石崎 由雄(いしざき よしお)。旧芸名に島津 元。 渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、愛称は「サブリどん」。日活を経て松竹に入社し、上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、戦前松竹の看板スターとして活躍した。戦後は監督業にも進出し、『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表した。1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せた。主な作品に『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。女優の黒木しのぶは妻、俳優の石崎二郎は長男、ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫に当たる。
潮 万太郎(うしお まんたろう、1909年2月4日 - 20… 潮 万太郎(うしお まんたろう、1909年2月4日 - 2000年4月8日)は、日本の俳優。本名は、柴田 作治郎(しばた さくじろう)。 長女は女優の弓恵子、長男は元俳優の柴田昌宏、次男は俳優の柴田侊彦。娘婿は俳優の宮口二郎。 東京市浅草区七軒町(現・東京都台東区元浅草)出身。旧制攻玉社中学校を経て、太平洋美術学校(現・太平洋画会研究所)卒業。 1923年、小笠原映画研究所製作第一作の無声映画『三色すみれ Love in Idleness』で花房 綾夫の芸名でデビュー。1929年、無声映画『修羅城』より芸名を潮 万太郎に改め、本格的に芸能活動を始める。 小笠原プロダクションを経て、日活太秦撮影所、日活多摩川撮影所などで活躍後、合併し設立された大映では脇役として多くの作品に出演した。
清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 197… 清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 1975年〈昭和50年〉10月5日)は、日本の俳優。旧字体: 淸水將夫。 明治大学中退後、滝沢修や宇野重吉らと共に劇団民藝を結成し、死去するまで劇団の代表的俳優として活躍した。また、映画俳優として戦前期から松竹キネマ・新興キネマの作品に出演し、戦後も舞台活動の傍らバイプレーヤーとして数多くの作品に出演した。黒澤明監督作品の常連でもあり、出演本数は300本以上にのぼる。 妻は女優の高野由美。 1908年(明治41年)10月5日、東京府東京市牛込区に生まれる。明治中学在学中から、キリスト教青年会の演劇サークルに入り、新劇に興味を抱く。1926年(大正15年)、明治大学文科に入学後、新劇俳優を目指す。
ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10… ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は、徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(みね こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばした。また、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。結婚は3回、初婚相手は死別、2回目と3回目の女性は姉妹。
十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985… 十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本の俳優。本名は小倉 久雄。東京府東京市日本橋区小網町(現:東京都中央区日本橋小網町)出身。 軽妙洒脱な演技で多くの映画に出演し、個性派の脇役俳優として活躍した。戦前は長岡輝子らのテアトル・コメディに参加し舞台で活動、戦後から映画に出演し、作品数は250本を超える。 幼いころから芸の世界に親しみ(⇒人物)、暁星小学校から京華中学校を経て法政大学経済学部に入学し、在学中の1928年に高見順主宰の劇団制作座に参加。 1930年、大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知り合った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子らが結成したテアトル・コメディの創立に参加し、『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』の主役で初舞台を踏む。
河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉… 河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉8月30日 - 1983年〈昭和58年〉2月20日)は、日本の俳優である。本名中島 誠一(なかじま せいいち)、旧芸名河津 精一(かわづ せいいち)、河津 史郎(かわづ しろう)。 阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画で映画デビューし、マキノ・プロダクション移籍後は沢村國太郎に次ぐ若手時代劇スターとなった。その後、新興キネマに入社して男優の看板スターとして多くの作品に主演し、戦後は個性派の脇役として活躍した。主な出演作品に『首の座』『次郎長三国志』シリーズ、『用心棒』など。妻は女優の高津慶子。 1908年(明治41年)8月31日、東京府東京市日本橋区蠣殻町に生まれる。
小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不… 小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新字体表記小川 国松(おがわ くにまつ)、旧芸名澤村 國丸(さわむら くにまる、新字体表記沢村 国丸)、菊池 一郎(きくち いちろう)ほか変遷がある。映画・新派での子役出身で、松竹蒲田撮影所の少年スターから「純情型二枚目俳優」となる。 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。父は同地で絹糸商を営んでいた。 旧制小学校在籍時、満8歳であった1916年(大正5年)11月12日に公開された天然色活動写真(天活)製作・配給、吉野二郎監督による『水戸三郎丸』に、「澤村 國丸」の名で五代目澤村四郎五郎らとともに出演、主演した記録がある。
曽我廼家 明蝶(そがのや めいちょう、本名:北村 弘一(きた… 曽我廼家 明蝶(そがのや めいちょう、本名:北村 弘一(きたむら ひろかず)、1908年〈明治41年〉6月3日 - 1999年〈平成11年〉4月13日)は、日本の俳優。兵庫県明石市出身。旧字体「曾我廼家明蝶」。 明石の寺の次男坊として生まれるが、まもなく大阪・船場の呉服商の養子となる。成器商業を経て東京の明治学院に進むも中退する。芝居の台本作家をめざして栗島すみ子の父・栗島狭衣の紹介で、1927年に明石潮一座に文芸部員として入る。同期には伴淳三郎と河津清三郎が俳優部にいた(河津は同級生でもある)。1928年に俳優の欠員から舞台にかりだされたのがきっかけで俳優に転じ、その後は曾我廼家五郎劇団に移籍し二枚目として活躍する。
中浜 一三(なかはま いちぞう、1908年3月8日 - 没年… 中浜 一三(なかはま いちぞう、1908年3月8日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。中濱 一三と表記されることもある。本名同じ。大正末期から昭和初期にかけて、松竹蒲田撮影所のB級作品に活躍した二枚目俳優である。 1908年(明治41年)3月8日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)に生まれる、とされている。『日本映画年鑑 大正13年・14年』(東京朝日新聞発行所)には、生年月日は「明治四十年九月十六日」(1907年9月16日)、生地は兵庫県神戸市兵庫区である旨が記されている。 1914年(大正3年)、6歳の時に市川壽藏の弟子となり、初舞台を踏む。その後、兵庫県立神戸第一中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を中退。
海江田 譲二(かいえだ じょうじ、1908年3月1日 - 1… 海江田 譲二(かいえだ じょうじ、1908年3月1日 - 1986年4月11日)は、日本の俳優である。本名は上遠野 武史(かどの たけし)である。 1908年(明治41年)3月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の同県大館市)に上遠野武史として生まれる。 1930年(昭和5年)、同郷の映画監督・辻吉朗を頼って京都に移り、辻の所属する日活太秦撮影所に入社する。同年、辻監督による主演作『股旅しぐれ』で映画界にデビュー、つづいて大河内傳次郎が出演予定だった同監督の『大虚』の主演に急遽抜擢され、スターの道を歩み始める。1931年(昭和6年)、稲垣浩監督の『男達ばやり』で片岡千恵蔵と共演、翌1932年(昭和7年)には、辻監督の『沓掛時次郎』で主演する。
マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月… マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月29日 - 1993年〈平成5年〉10月29日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家。本名:牧野 正唯(まきの まさただ)。 「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の息子。父の死後マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任、生涯に261本もの劇場映画を監督・製作し、日本映画の黄金時代を築いた。沖縄アクターズスクール開設者のマキノ正幸は実子。 甥の津川雅彦が映画監督を務めた際、マキノ雅彦の名義を用いた。 職業名の変遷は下記の通り。 1908年(明治41年)、牧野正唯は、父・省三が映画製作を始めた年の2月29日に京都府京都市上京区で生まれた。
大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 19… 大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 1982年4月14日)は日本の俳優。本名は瀬戸口文夫。 1908年(明治41年)2月25日、熊本県熊本市に生まれる。長崎高等商業学校卒業後、雑誌・新聞記者、専売局勤務を経て、1934年(昭和9年)に村山知義らの新協劇団の結成に参加し、新劇俳優となる。戦後の1947年(昭和22年)、民衆芸術劇場(後の劇団民藝)に入る。戦中から映画にも出演し、独立プロ作品や日活作品に多く出演した。1957年(昭和32年)頃からはテレビドラマにも出演した。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
久世 竜(くぜ りゅう、1908年〈明治41年〉1月19日 … 久世 竜(くぜ りゅう、1908年〈明治41年〉1月19日 - 1985年1月5日)は、日本の殺陣師・俳優。俳優活動時の旧芸名は岬 弦太郎(みさきげんたろう)。 1908年(明治41年)1月、愛媛県東宇和郡野村町高瀬に生まれる。 叔父の経営する神戸の久保田商会で襦子()の裁縫箱を輸出する業務を見習っていたが、1922年(大正11年)ぐらいの頃に「いやなことがあって」辞め、京都へ出る。これが14歳だか15歳だか、久世本人の記憶にも定かでないという。 尾上松之助の忍術映画や外国の連続ものの活動写真を休みのたびに観ていて、「役者になろう」と決心。まず長谷川伸を訪ね、牧野省三に紹介を受ける。が、牧野は「やめとけ、役者になる顔じゃない」とぴしゃりと言い、「仕事の世話をしてやるから、当分俺のところで飯食って遊んどけ」と久世を居候させてくれた。
伴 淳三郎(ばん じゅんざぶろう、1908年〈明治41年〉1… 伴 淳三郎(ばん じゅんざぶろう、1908年〈明治41年〉1月10日 - 1981年〈昭和56年〉10月26日)は、昭和期のコメディアン、俳優。本名は鈴木 寛定(すずき ひろさだ)、愛称は「バンジュン」。息子はスタイリストの山本康一郎(1961年生まれ)。 山形県米沢市に南画家の鈴木蘭涯と、妻フクの息子として生まれる。父について山形と東京を行ったり来たりするが、5歳のときから山形市小姓町で育つ。 山形市立第一尋常小学校卒業後、熊谷市の兄の家に寄宿して高等小学校に通っていたが、兄との折り合いが悪く家出し、東京に出る。そこで、母方の叔父で新派劇の河合武雄の番頭をしていた斎藤好三郎を頼り、「文芸協会」出身の新劇俳優、東儀鉄笛の付き人となり、彼が主演した映画に出演する。
織田 政雄(おだ まさお、1908年1月6日 - 1973年… 織田 政雄(おだ まさお、1908年1月6日 - 1973年8月30日)は、東京都出身の俳優。本名は斎木 政雄。後名は織田真佐男。 戦前は舞台俳優として活動し、戦後から多くの映画やテレビドラマに出演した。その地味な風貌から脇役ばかりを演じたが、名監督の一流作品に起用され、日本映画黄金期の中で約150作以上の映画に出演した。 1908年(明治41年)1月6日、東京市牛込区早稲田(現在の東京都新宿区)に生まれる。6歳で舞台に立ち、後に東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)を卒業。 1930年(昭和5年)、尾上菊五郎が創設した日本俳優学校に第一期生として入り、卒業後の1934年(昭和9年)に日本俳優学校劇団に参加した。
山室 耕(やまむろ こう、1907年12月17日 - 没年不… 山室 耕(やまむろ こう、1907年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は西森 高茂(にしもり たかしげ)。旧芸名は村上 英二(むらかみ えいじ)、光 一(ひかり はじめ)。 1907年(明治40年)12月17日、高知県高知市に生まれる。高知城東商業学校(現在の高知中学校・高等学校)を卒業。 1927年(昭和2年)、村上英二という芸名で日活大将軍撮影所(後に日活京都撮影所・日活太秦撮影所)に入社。一時期、本名の西森高茂名義で活動した時期もある。1933年(昭和8年)には日活多摩川撮影所現代劇に移籍。後に芸名も光一と改名して、1936年(昭和11年)公開の内田吐夢監督映画『人生劇場 青春篇』などに出演。
毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 19… 毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 1931年3月20日)は、日本の俳優である。本名は毛利 隆(もうり たかし)。旧芸名は毛利 多加志(読み同じ)。松竹蒲田撮影所のサイレント映画で活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1907年(明治40年)11月30日、福岡県門司市新町(現在の同県北九州市門司区)に生まれる。実父は歯科医を営んでいた。 豊国中学校(現在の豊国学園高等学校)を卒業して上京し、法政大学予科に入学するが、病気のため中退。1927年(昭和2年)、本名の毛利隆名義で阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に入り大部屋俳優となる。その後、毛利多加志を名乗って小澤映画聯盟、岡田嘉子・竹内良一一座を経て、1929年(昭和4年)7月、松竹蒲田撮影所へ入社。
永田 靖(ながた やすし、1907年10月11日 ‐ 197… 永田 靖(ながた やすし、1907年10月11日 ‐ 1972年9月12日)は、日本の俳優。 長崎県島原市出身。台北高等学校文科卒業。その後上京し、1930年に新築地劇団に入る。久保栄演出の『新説国姓谷合戦』で初舞台を踏んだ。1934年の日本新劇祭で真山青果原作の『玄朴と長英』で高野長英を演じて好評を得た。1935年、『なみだの母』で映画初出演。1938年応召される。1940年に除隊するが、新築地劇団は強制解散させられた。以後、日活(合併後は大映)の映画に出演し、『将軍と参謀と兵』などで軍人の役を演じた。また、東宝演劇研究会を経て、丸山定夫らと苦楽座に入った。1945年に再び応召。戦後は第2次新協劇団をへて、1948年に、俳優座に入団した。
東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9… 東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9月17日 - 1994年(平成6年)9月8日)は、日本の俳優、随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。身長159cm。 新築地劇団を経て小沢栄太郎、千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心。 1907年(明治40年)9月17日(火曜日)、群馬県富岡市七日市の造り酒屋の家に生まれる。父は江州の山村から単身で関東に移り、辛苦して酒造家となった人で、根っからの日野商人(近江商人)だった[要文献特定詳細情報]。
落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月2… 落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月23日 - 1992年〈平成4年〉8月20日)は、日本の俳優、劇作家、演出家。本名同じ 群馬県高崎市出身。1920年(大正9年)高崎中央尋常高等小学校を卒業後、横浜興信銀行高崎支店に勤務。 1923年(大正12年)/1924年(大正13年)、高崎市郷土芸術社の結成に参加。1932年(昭和7年)、児童演劇運動を開始。1946年(昭和21年)、群馬演劇文化集団を結成。同年、劇団ポポロ座を設立。 1956年(昭和31年)、松竹大船撮影所入社。研究グループ、船の会を設立し、永井秀明、里見孝二とともに幹事役を務める。 映画の制作本数の減少を受けてテレビへの進出を考え、『ここに泉あり』で共演した椎原邦彦の紹介で彼が所属しているグループ・てえぶらにテレビ関係のマネジメントを委託。
田村 邦男(たむら くにお、1907年7月15日 - 194… 田村 邦男(たむら くにお、1907年7月15日 - 1941年2月12日)は、日本の俳優である。本名田村 邦夫(たむら くにお)。日本大学相撲部出身、157cmの短躯ながら90kgの巨漢俳優として知られる。 1907年(明治40年)7月15日、愛知県名古屋市長久寺町(現在の同市東区白壁)に生まれる。 1920年(大正9年)、旧制・名古屋中学校(現在の名古屋高等学校)に入学、バスケットボールおよび柔道において、学生選手として活躍した。1925年(大正14年)、同校を卒業して、東京に移り、日本大学専門部商科(旧制大学専門部)に進学、相撲部に所属して大毎大会(現在の全国学生相撲選手権大会)等で活躍し、その一方で日本大学劇研究会にも所属して演劇にも関わった。
伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不… 伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名は前島 昌彦(まえじま まさひこ)。大映の名脇役の一人である。 1907年7月8日、静岡県伊東市に生まれる。実家は医院を経営していた。 1925年、錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業。1932年、松竹蒲田撮影所に入社。後に松竹大船撮影所に移り、大部屋俳優として多数の作品に脇役として出演する。 1946年2月に上原謙の一座に入り、共に実演の舞台にも立っていたが、その後は大映に移籍し、1971年の大映倒産まで脇役として長く活躍する。その後は東京俳優生活協同組合に所属し、出演を続けたが、1976年10月7日にフジテレビが放映したテレビドラマ『同心部屋御用帳 江戸の旋風II』第28話「十手の重み」に出演して以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である。
五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(… 五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(明治40年)4月17日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、歌舞伎役者・俳優。俳名は橘丈。屋号は豊島屋。本名は寺田勝次。 曾祖父は二代目嵐璃珏。四代目嵐芳三郎の子。 東京の上野の生まれ、本郷元町尋常小学校卒業。1914年に三代目嵐市太郎の名で本郷座で初舞台。五代目市川鬼丸(後の三代目尾上多賀之丞)の部屋子になり、1921年に市村座に参加。1927年6月に五代目嵐芳三郎を襲名。1944年に前進座に参加。女形、二枚目を得意とし晩年は老け役に徹した。 1954年に文部省芸術祭奨励賞受賞。 墓所は台東区一乗寺にある。戒名は「前勝院技能日芳居士」。
大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16… 大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16日 – 昭和55年(1980年)8月21日)は日本の映画俳優。常用漢字では「大日方 伝」と表記する。 福岡県小倉市堺町の地元の料理家で指月館という敷地が一丁四方ある裕福な名家に生まれたが、父の時代には家は衰えていたという。少年時代からよく喧嘩をしていて顎に傷が残った。中学校卒業後に家族で東京府に移り、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)を卒業後、しばらく園芸好きの兄の農園を手伝ったが東洋大学社会科へ進む。 昭和5年(1930年)、大学卒業後に日活の専属俳優として『至誠の輝き』で銀幕デビュー。デビュー後に日活で数作に出演した後、松竹(松竹蒲田撮影所)へ移籍し同社の専属俳優となる。
川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)… 川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、本名:岡村 郁二郎、1907年〈明治40年〉3月15日 - 1957年〈昭和32年〉6月21日)は、昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。いわゆるボーイズものの創始者である。灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、近年、再評価が為されている。戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。 東京府東京市本郷区根津の印刷所を経営する岡村嘉松の子として生まれる。貧しかった少年時代に、家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に転落してしまう。この不慮の事故により脊椎カリエスを患うことになり、これが終生川田を悩ませる病となる。
井染 四郎(いぞめ しろう、1907年3月8日 - 1943… 井染 四郎(いぞめ しろう、1907年3月8日 - 1943年6月23日)は、日本の俳優である。本名は齋藤 四郎(さいとう しろう)。伊染 四郎と表記に揺れがある。日活太秦撮影所、日活多摩川撮影所などで活躍した二枚目俳優の一人である。 1907年(明治40年)3月8日、東京府東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)に生まれる。 旧制獨逸学協会中学校(現在の獨協高等学校)を経て法政大学文科に進学するが、中退。大学在学中、築地小劇場のエキストラに応募するも落選してしまい、結局は自動車会社に勤務する、とされている。1934年(昭和9年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社)等によれば、築地小劇場に加入して初舞台を踏むが、僅か1年余りで退いてしまい、自動車会社を3ヶ月勤務した後、失業生活を半年ほど過ごしたという旨が記されている。
星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日… 星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は川上 英男(かわかみ ひでお)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1907年(明治40年)3月、神奈川県横浜市北方町(現在の同県中区同町)に生まれる。 京都市立工業学校(現在の京都市立洛陽工業高等学校)を卒業後、貿易商社に入るが、1926年(大正15年)7月、マキノ・プロダクションへ入社する。同年8月27日公開の曽根純三監督映画『砕かれた人形』で映画デビューを果たし、金が有り余るという男役を演じた。以後、マキノの中堅俳優として多数の作品に出演した。翌々年1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村天授ヶ丘(現在の同府京都市右京区花園天授ヶ岡町、マキノ・プロダクション内)、京都府京都市一条通大将軍坂田町7番地(現在の同府同市北区大将軍坂田町)と転々と住み、趣味は絵描き、ダンス、散歩であり、洋酒と外国煙草が嗜好であるという。
林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 1988… 林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 1988年12月9日)は、日本の俳優である。本名久保 十郎(くぼ じゅうろう)。引退後、実業家となった。 1907年(明治40年)3月、佐賀県杵島郡橘村(現在の同県武雄市橘町)に生まれる。 旧制・佐賀県立鹿島中学校(現在の佐賀県立鹿島高等学校)に進学するも、1923年(大正12年)に中途退学し、二代目市川荒太郎に入門して歌舞伎役者となる。翌1924年(大正13年)、師の荒太郎とともに京都の松竹下加茂撮影所に入社、師の主演映画に「林 誠之助」の名で助演して、映画界にデビューする。同年末、師の荒太郎は同撮影所を退社、それを機に、林は松竹キネマに残留し、東京の松竹蒲田撮影所に異動する。
椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年… 椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名間瀬 松太郎(ませ まつたろう)、別芸名津島 慶一郎(つしま けいいちろう)。 1907年(明治40年)1月3日、東京府東京市日本橋区のうち、のちの江戸橋地域(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。 1924年(大正13年)3月、東京・神田錦町の旧制・錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、西巣鴨町の国際活映(国活)に入社する。しかしながら当時の国活は経営が悪く、減産体制となっており、翌1925年(大正14年)には同社は倒産、椿は同年12月、兵庫県西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する。
清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)… 清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)は、日本の俳優。本名:清水 元義。父は清水新報社社長の清水平吉、長男はNHKディレクターの清水満、娘は『鉄腕アトム』のアトム役の声で知られる声優の清水マリ。 東京市神田区松永町出身。中央大学商学部卒業。 父の平吉が経営する広告代理店・清水新報社での勤務を経て、1937年に村瀬幸子・北村喜八夫妻が創立した芸術小劇場に入団し、新劇俳優として舞台を踏む。戦時中は移動演劇隊に入り、戦後は劇団炎座の舞台に立った。1953年以降は映画俳優に専念し、以降はテレビドラマにも出演した。 映画デビューは1940年に公開された『田園交響楽』。戦後も菅井一郎らの第一協団に参加する傍ら、各社の映画に出演。
大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、… 大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。当初のキャリアは水谷 登志夫(みずたに としお)名義で、監督、俳優としてスタートした。 1907年(明治40年)、広島県呉市に生まれる。旧制・神戸第二中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)卒。1923年(大正12年)、子爵家の長男、23歳の小笠原明峰が京都に設立した小笠原プロダクションに参加、翌1924年(大正13年)、水谷 登志夫名義で『風船売りの小母さん』(短編)を自らのオリジナル脚本で監督し、デビューしている。同プロダクションでは、同作以降は俳優として、1926年(大正15年)の同社の解散まで4本に出演した。
伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年… 伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年5月6日)は、日本の俳優。
浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 -… 浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 - 1944年12月27日)は、日本の俳優である。本名は金谷 幸太郎(かなや こうたろう)。 1906年(明治39年)12月1日、北海道函館区に「金谷幸太郎」として生まれる。 1927年(昭和2年)、日活太秦撮影所に入社する。翌1928年(昭和3年)、デビュー作である志波西果監督の『無念丸橋忠弥』に主演した。同作以降、脇を固める役が多くなる。1932年(昭和7年)には日活を退社し、フリーランスの役者として、日活太秦作品にも日活と配給提携をしていた片岡千恵蔵プロダクション作品にも出演した。1935年(昭和10年)、第一映画設立に参加、高島達之助・溝口健二共同監督によるトーキー『お嬢お吉』に出演する。
滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 20… 滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本の俳優、演出家。本名は滝沢 脩。
見明 凡太朗(みあけ ぼんたろう、1906年10月15日 -… 見明 凡太朗(みあけ ぼんたろう、1906年10月15日 - 1987年)は、日本の俳優。旧芸名は見明 凡太郎(読み同じ)。 本名は見明 すすむ(みあけ すすむ)。元妻は女優の村田知栄子(1947年離婚)。 島根県美濃郡高津村(現・益田市)出身。1906年島根県美濃郡豊田村の渡辺市太郎の次男として出生。高津村で染屋を営む見明家の養子となる。 1923年に下関商業高校を卒業後、日本映画俳優学校に第2期生として入学。同期には島耕二、小杉勇がいた。その後、1926年に日活に入社。1927年公開の映画『彼を繞る五人の女』(監督:阿部豊)でデビューを果たし、翌1928年の映画『松竹梅』で初主演を果たす。1932年から1934年にかけて不二映画社、新興キネマに在籍したのち日活に復帰した。
市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年… 市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年)5月8日 - 1978年(昭和53年)1月15日)は、歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分する剣劇俳優であった。戦後は芸名を百々木 直(ももき なお)と名乗った。本名は上田 直正(うえだ なおまさ)。 広島県広島市に生まれる。 1911年(明治45年)、『近江源氏戦陣館』の小四郎で初舞台を踏む。12歳のとき、市川中車の門下となりちんこ芝居(小青年歌舞伎)の一座を組織して各地を巡業、葉村屋一派、中村扇雀一座などにも加入出演した。 1922年(大正11年)9月、17歳のときに、帝国キネマ演芸(帝キネ)小坂撮影所へ入社、同年、中川紫郎監督の『異端者の恋』や『大江戸の武士』に出演し、映画俳優としてデビュー。
吉頂寺 晃(、1906年(明治39年)4月7日 - 不明)は… 吉頂寺 晃(、1906年(明治39年)4月7日 - 不明)は、日本の俳優。本名は岡崎 光彦(旧名・岡崎 光)、旧芸名に吉頂寺 光、吾妻 三郎。東京市神田区出身。 第一早稲田高等学院を中退した後、高松プロ吾妻撮影所の研究生となる。 1926年(大正15年)、タカマツ・アズマプロ製作の『男児一諾』でデビューする。翌1927年1月、松竹蒲田撮影所に移り、吾妻三郎に改名。小津安二郎監督のデビュー作『懺悔の刃』などに主演するが、松竹蒲田が時代劇の制作を停止したことから退社。1928年2月に河合プロダクションに入社するが、同年6月に東亜キネマに移籍し、芸名を吉頂寺 光に戻す。1930年1月、帝国キネマ長瀬撮影所に移籍し、新興キネマに組織変更された後も在籍。
西村 青児(にしむら せいじ、1906年3月30日 - 19… 西村 青児(にしむら せいじ、1906年3月30日 - 1948年)は、日本の俳優である。本名西村 清司(にしむら せいじ)、旧芸名日向 錦之助(ひゅうが きんのすけ)。旧漢字表記西村 青兒。 1906年(明治39年)3月30日、北海道小樽市に生まれる。 北海道庁立小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、満18歳になる1924年(大正13年)、兵庫県西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。1926年(大正15年)3月、同社を抜けて小林一三や坪内士行らが結成した宝塚国民座に一時期参加したが、翌年1927年(昭和2年)3月には東亜キネマに復帰、京都・等持院の京都撮影所に所属する。同年からは、「日向 錦之助」の名で、井出錦之助監督の『夜光珠を繞る女性』や米沢正夫監督の『光に向ふ人々』(1928年)等に主演・準主演級で出演するが、1929年(昭和4年)夏に同社を退社している。
笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没… 笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没年不詳)は、日本の俳優。東京府荏原郡目黒村(現:東京都目黒区)出身。劇団同志座創立メンバーの一人。
大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975… 大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975年2月7日)は、東京都出身のプロ野球選手、審判員、俳優。のち婿入りし桐林と改姓したが、球界では大貫姓を使い続けた。 荏原中学校を中退し、1923年に芝浦協会へ入団。当時は山本栄一郎がいたため控え投手だったが一度チームが解散し、その後宝塚運動協会として再結成した際には山本が肩の故障で退団したこともあってエースとなり投打の中心選手として活躍した。 宝塚運動協会解散後は宝塚ファミリーランドの経理係を務めていたが、まもなく退職し、満州に渡る。満州時代の詳しい経歴は不明だが、全奉天や大連実業、奉天日満実業などでプレーしていたことが確認されており、「各地のチームの助っ人をしていたのでは」と佐藤光房は推測している。
浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日… 浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日 - 1995年〈平成7年〉6月21日)は、日本の俳優。本名:武内 武。 福岡県糟屋郡宇美町馬場出身。福岡市立商業学校卒業。新倉事務所に所属していた。 戦前は新築地劇団や劇団文化座などに所属して舞台俳優として活動。戦後は映画俳優として、数多くの話題作や名作に出演する。総出演本数は約300本に上る。個性的で幅の広い演技に定評があり、日本映画屈指の名バイプレーヤーとして活躍した。 1906年(明治39年)2月7日、福岡県糟屋郡宇美町馬場に、呉服商の父・伴太郎と母・むめの3男1女の三男として生まれる。宇美尋常高等小学校を経て1926年(大正15年)に福岡市立商業学校を卒業。
三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日… 三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉7月18日)は、日本の俳優。本名・長岡 正雄(ながおか まさお)。 東京都で生まれ、新潟県三島郡与板町(現・長岡市)に育つ。本名は長岡 正雄(ながおか まさお)。元与板藩士で、陸軍軍人となり三條中学校の助教諭や、帝国生命保険の書記などを務めた父・茂雄と母・マツの間に6人兄弟(男4人・女2人)の長子、長男として生まれた。1924年(大正13年)に獨協中学校(旧制中学校)を卒業し、茂雄がのめりこんでいた影響で演劇(新劇)の世界に足を踏み入れる(茂雄も演者として舞台に立っていたようである)。同年に『ヴェニスの商人』で初舞台を踏んだ。
島田 正吾(しまだ しょうご、本名;服部 喜久太郎<は… 島田 正吾(しまだ しょうご、本名;服部 喜久太郎<はっとり きくたろう>、1905年12月13日 - 2004年11月26日)は、新国劇の俳優。横浜市生まれ。