樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 199… 樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は、日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授、國學院大學考古学資料館名誉館長、國學院大學栃木短期大学名誉学長、全日本博物館学会名誉会長。文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 奈良県桜井市生まれ。先祖は、織田長益(有楽斎)に発する旧家である。旧制奈良県立畝傍中学校在学中に、学術誌に十数篇の論考を投稿していた。1927年、鳥居龍蔵を慕って國學院大學に入学。1932年(昭和7年)國學院大學文学部国史学科卒業。在学中の1928年(昭和3年)4月には、自身の収集品をもとに博物館の必要性を訴えたことで、國學院大學内に考古学標本室が創設された。
亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 … 亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の内務・労働官僚、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)、福岡県知事(第6代-第9代)。陸軍司政官。 自由民主党元衆議院議員の太田誠一は女婿。 福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)古船場町出身。藤吉の三男。 旧制小倉中学、旧制福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業。内務省に入省。社会局属。労働省労働基準局長、労政局長などを歴任し、1960年(昭和35年)労働事務次官。1962年(昭和37年)参議院議員に当選、大蔵政務次官をつとめた。 1967年(昭和42年)4月、保守・中道統一候補として福岡県知事選挙に出馬し当選。
辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年1… 辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年11月30日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。鴻池運輸創業家に婿入りした辻卓史は子。 1934年に神戸商業大学(現神戸大学)を卒業。サンマス貿易での勤務を経て、1939年に日商に転じ、取締役、常務、専務を経て、1968年10月に日商岩井専務に就任し、1969年11月には社長に昇格。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1980年11月30日急性肝炎のために死去。71歳没。
鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前… 鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前年12月といわれている) - 1938年9月14日)は、日本のプロレタリア文学の影響を強く受けた反戦川柳作家。石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多 一二(きた かつじ)。佐高信は鶴を「『川柳界の小林多喜二』と言われた」と自著で紹介している。 1909年1月1日、石川県河北郡高松町に、竹細工職人の喜多松太郎とスズの次男として生まれた。翌年に叔父の喜多弁太郎の養子となり、1915年尋常小学校に入学し、1923年には高等小学校を卒業する。その間、9才の時に父が死に、母が再婚して兄弟姉妹6人は離別する。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿し、1924年にはペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品を発表する。
寒川 光太郎(さむかわ こうたろう、1908年1月1日 - … 寒川 光太郎(さむかわ こうたろう、1908年1月1日 - 1977年1月25日)は、日本の小説家。本名は菅原憲光(すがわら のりみつ)。北海道羽幌町出身。1940年、『密猟者』で第10回芥川龍之介賞を受賞した。 小学校教員だった父に伴い、8歳から樺太大泊に住む。1926年に北海中学校を卒業後、法政大学英文科に進むが中退。樺太と満州で新聞記者を務めた後に帰国し、喫茶店経営、日本共産党員、樺太庁博物館館員、雑誌編集などの職に就く。 1937年に上京。高円寺で経営していた古書店を家人に委ねて創作活動を続け(その古書店には埴谷雄高が通っていた)、同人誌「創作」創刊号に発表した『密猟者』で、1940年に芥川賞を受賞。
佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日… 佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日 - 1997年(平成9年)6月28日 )は、日本の航空技術者、航空宇宙評論家、作家、エッセイスト。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)生まれ。秋田県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)卒業、1931年(昭和6年)に東京帝国大学工学部航空学科を卒業した。 東京帝国大学卒業後、軍命で日本楽器製造(現ヤマハ)に赴きプロペラの設計を行う。陸軍の九七式戦闘機を担当した。1941年に、ユンカース社からフルフェザー機構・圧縮木材製プロペラ技術導入のため、第二次世界大戦最中のドイツに出張する。 しかし同年6月に、独ソ戦開戦のためにドイツからソビエト連邦に直行するシベリア鉄道経由の帰路が絶たれ、1943年11月まで在独し、その後中立国を迂回する形で帰国した。
中川 秀恭(なかがわ ひでやす、1908年(明治41年)1月… 中川 秀恭(なかがわ ひでやす、1908年(明治41年)1月1日 - 2009年(平成21年)4月26日)は、日本の哲学者、文学博士、Ph.D.(イェール大学)。日本各地の大学の学長・理事長を歴任した。 1908年、島根県周吉郡西郷町(現・隠岐郡隠岐の島町)に生まれた。島根県立隠岐商船水産学校航海科(現・島根県立隠岐水産高等学校)を卒業後、三等航海士として日本・リバプール間を行き来するが、牧師になろうと決心してして大学に入学する。立教大学文学部哲学科で学び卒業。1938年、東北帝国大学法文学部哲学科を卒業。エール大学大学院修了。 帰国後、母校の東北帝国大学法文学部助手に着任。1945年、同学部講師に昇進。
可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944… 可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944年7月18日)は、日本の群集生態学者。「河川形態型」を提唱し、今西錦司と共に棲み分け理論の基礎を築いたが、陸軍に徴兵され、サイパンの戦いで戦死した。 1908年、岡山県勝田郡勝間田町(現:勝田郡勝央町)に生まれる。京都帝国大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた。「河川形態型」が発表された同年、太平洋戦争において36歳という若さでサイパン島にて戦死した。藤吉の墓は勝央町勝間田の共同墓地にある。 河川における上流、中流、下流の形態を特徴的に示すことによって河川そのものの保護や維持、生息する生態系の保護に広く利用されている方法。
藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年… 藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年5月29日)は、日本の水泳・水球選手。ロサンゼルス五輪(1932年)水球日本代表選手主将兼コーチ。元日本水泳連盟会長。実業家、元日本ゼオン専務、関東ゴム社長。早稲田大学商学部卒業。広島県広島市出身。 後年、広島平和記念公園となる広島市中島町の生まれ。中島小学校の先生に水泳にも堪能だった多田徳雄がいて正しい泳法を習う。広島一中(現広島県立国泰寺高校)で水泳部を創部し水泳・水球の名選手として鳴らした。尊敬する中学の先輩・沖田芳夫、織田幹雄を追い早稲田高等学院、早稲田大学と進学する。その全てで主将を務めた。全国から水の英才が集結し、第一次黄金時代を誇った早稲田大学水泳部で活躍する。
前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日… 前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月24日)は、日本の建築学者。建築環境工学の開拓者でかつ熱環境工学の確立者。京都大学総長、日本建築学会会長などを歴任した。日本建築学会賞、日本建築学会大賞などを受賞。勲一等瑞宝章。京都大学名誉教授。 1908年(明治41年)1月1日、高知県吾川郡春野町弘中(現高知市)において、農家の三男として誕生。当時の農家の次・三男は農業を継ぐことはできなかったため、高等小学校卒業後の1923年(大正12年)、教員になるべく高知師範学校に進学した。4年生の時、運動会のアーチの設計を命じられて、参考書として手にした『大建築学』(三橋四郎著)によって建築を志すようになる。
川口 四郎(かわぐち しろう、1908年(明治41年)1月1… 川口 四郎(かわぐち しろう、1908年(明治41年)1月1日 - 2004年(平成16年)12月15日)は、日本の海洋生物学者。理学博士。岡山大学名誉教授。 愛知県生まれ。1930年(昭和5年)、東京帝国大学理学部動物学科卒業後、台北帝国大学副手、同大学講師、同大学助教授、岡山大学講師を経て、岡山大学教授に在任した(1949年 - 1973年)。岡山大学付属玉野臨海実験所(現牛窓臨海実験所)所長を併任。1957年(昭和32年)には、各大学の臨海実験所長が集まる会議に参加した後、皇居に招かれ、昭和天皇に対して座談会形式の合同進講を行った。 岡山大学を退職後、同大学名誉教授を経て、川崎学院教授に在任した(1973年 - 1978年)。
与良 ヱ (よら あいち、旧字体: 與良 ヱ、1908年1月… 与良 ヱ (よら あいち、旧字体: 與良 ヱ、1908年1月1日 – 1968年4月11日)は、日本の実業家。中部日本新聞社社長、共同通信社理事。 愛知県出身。父は名古屋新聞社社長を務めた与良松三郎。一風変わった名前は父・松三郎による命名である。元は出生の地にちなみ「愛知」と名づけようとしたが、画数の多さを感じ「アイチ」となり、更に考えを巡らせていくうちに「ア一」となり、最後には漢字のように見せようと一字に直し「ヱ」と名付けられた。 愛知一中を経て、1928年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業し、名古屋新聞社に入社した。1942年の新愛知新聞社との合併で誕生した中部日本新聞社発足の際には監査役に就任した。
石黒 四郎(いしぐろ しろう、1908年1月1日 - 196… 石黒 四郎(いしぐろ しろう、1908年1月1日 - 1968年7月24日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務省特殊財産局長や、賠償庁次長、駐ニュージーランド特命全権大使等を経て、駐メキシコ特命全権大使在任中病死した。 愛知県知多郡河和町(現・美浜町)出身。1930年(昭和5年)高等試験外交科合格。1931年(昭和6年)に東京商科大学(現一橋大学)を卒業して、外務省に入省し、在英国大使館や外務省東亜局第一課で勤務した。 1938年(昭和13年)から在中華民国大使館三等書記官及び在上海領事を務め、上海ユダヤ避難民に関し、犬塚惟重海軍大佐、安江仙弘陸軍大佐と現地調査会で調査を行い、上海ゲットーの整備などを進めた。
坂口 淳(さかぐち じゅん、1908年〈明治41年〉1月1日… 坂口 淳(さかぐち じゅん、1908年〈明治41年〉1月1日 - 1974年〈昭和49年〉8月18日)は昭和期の作詞家。本名は淳太郎。 長野県埴科郡松代町(現長野市)出身。上京後、写真館に勤めながら、西條八十の門下となる。1949年キングレコード専属、のちにヴィクターに移籍。1956年詩誌『熊ん蜂』を創刊し、1974年に脳卒中で死去するまで発行を続けた。随筆集に『石神井だより』、童謡集に『光と風と花と』がある。 「マロニエの木陰」、「子鹿のバンビ」などの童謡を作詞した。松代町の真田公園には、「子鹿のバンビ」の歌碑がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。
人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日… 人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。 1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった。 1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学。
岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 19… 岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 1982年10月23日)は、日本の経営者、工学博士。高知県出身。 1935年に大阪帝国大学工学部機械学科を卒業し、同年にクラレに入社。1959年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1972年1月に学位を取得した。 1982年10月23日腎不全のために死去。75歳没。
清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)… 清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)は、日本の俳優。本名:清水 元義。父は清水新報社社長の清水平吉、長男はNHKディレクターの清水満、娘は『鉄腕アトム』のアトム役の声で知られる声優の清水マリ。 東京市神田区松永町出身。中央大学商学部卒業。 父の平吉が経営する広告代理店・清水新報社での勤務を経て、1937年に村瀬幸子・北村喜八夫妻が創立した芸術小劇場に入団し、新劇俳優として舞台を踏む。戦時中は移動演劇隊に入り、戦後は劇団炎座の舞台に立った。1953年以降は映画俳優に専念し、以降はテレビドラマにも出演した。 映画デビューは1940年に公開された『田園交響楽』。戦後も菅井一郎らの第一協団に参加する傍ら、各社の映画に出演。
小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 19… 小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 1990年7月6日)は、日本の地質学者。東京農業大学教授を務め、1980年定年。地すべりで一度崩れたところは当分は危険がない「地すべり免疫論」の論陣を張る。また、治水については水防林の効用を主張した。 兵庫県出身。実家はもとは出石藩の家老の家柄。第六高等学校から、1934年東京帝国大学農学部林学科卒業。同年から北海道帝国大学農学部に助手として勤務。その後東京帝国大学理学部地質学科に再入学する。 1943年地質調査所に勤務。その後林野庁勤務をへて東京農業大学、また経済安定本部資源調査会に勤めるかたわら、宇都宮大学や秋田大学で非常勤講師を務めた。
嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日… 嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 2016年〈平成28年〉3月29日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。相愛大学名誉教授(2011年時点)。 大阪府大阪市出身。官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。親和高等女学校卒。東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学。高木東六や四家文子と同級。卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となり、山田らが確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれる。修業を終えて帰阪後も声楽家として活動し、大阪BK(NHK大阪放送局)のラジオ放送や公演に出演するが、1934年(昭和9年)に旧家として名高い(嘉納家は嘉納財閥として知られる)灘の酒造家の嘉納鉄夫と結婚して引退。
安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1… 安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉8月3日)は、日本の能楽師(大鼓方)である。位階は従五位。 群馬県前橋市に生まれる。叔母の太鼓の師であった清水正徳に跡継ぎがいなかったことから、11歳の時に上京してその弟子となり高安流の大鼓方を学ぶ。1919年(大正8年)に『猩々』にて初舞台を踏む。1927年(昭和2年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)邦楽科を卒業。 1937年(昭和12年)から1977年(昭和52年)まで母校の東京芸術大学で講師として教鞭を執った。1927年(昭和2年)には兵隊検査により、第二次世界大戦が終戦するまで数回にわたり兵役となった。
有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 199… 有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 1991年7月6日)は、日本の厚生官僚。医師。医学者、軍人。医学博士。専門分野は内科学。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の子として生まれる。1932年北海道帝國大學医学部卒業。1937年同大学院(旧制)修了。1937年同医学部助手。その後、兄たちが所属する日本陸軍の衛生局に入隊。軍医となる。1944年北海道帝國大學で「Allergenに関する研究」にて医学博士を受く。1945年終戦により日本陸軍を離任。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年厚生省に入省。その後、北海道旭川保健所長。国立北海道第二療養所(現国立病院機構北海道医療センター)所長。
座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月… 座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1978年〈昭和53年〉11月28日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県駒ヶ根市長。 長野県下伊那郡上飯田村(現・飯田市)で、座光寺和作、ゆきの二男として生まれた。上飯田高等小学校卒業後、飯田の松濤義塾に学ぶ。1924年(大正13年)4月、上飯田町役場に入り、1933年(昭和8年)長野県庁に転じ長野県書記となり、学務部社会課勤務、飯田職業紹介所勤務、長野県職業課勤務、知事官房秘書課勤務、下伊那地方事務所兵事厚生課長、同総務課長を歴任した。1947年(昭和22年)6月、飯田市助役に就任し、1956年(昭和31年)6月、駒ヶ根市助役に転じた。
伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1… 伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1944年12月11日)は、宮城県遠田郡涌谷町出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は深山 静。170cm、120kg。最高位は西前頭15枚目。 1923年1月初土俵、1932年2月十両昇進。1935年5月新入幕したが、わずか2場所の在位で1936年1月廃業し、茨城県日立市で割烹を経営、のちに北海道に渡ったが、戦時中に若くして亡くなった。 色白の肥満体で玉のようにきれいで(本名も女性っぽい静)、明治の横綱・小錦のようとも言われたが、小錦と違い出足に欠けて勝ち味が遅かった。
伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日… 伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、広島県安芸郡下蒲刈島三之瀬出身の実業家、弁護士。元日本航空(JAL)会長。 1906年、弁護士の永野法城の五男、永野輝雄として出生。日本有数の閨閥地図を作り上げたといわれた"永野六兄弟"の一人となった。 海軍中将だった伍堂卓雄に養子入りし、広島高等師範学校附属小学校・中学校(現・広島大学附属小学校、広島大学附属中学校・高等学校)、第六高等学校を経て、東京帝国大学卒業。卒業後、岩田寅造法律事務所に勤務。1933年、日本鋼管顧問弁護士。 昭和鋼管勤務、鉄道大臣秘書官を経て1941年日本鋼管に入社。
唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1… 唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1976年7月30日)は、政治評論家、ジャーナリスト。 広島県竹原市(当時は竹原町)出身で三男として生まれる。旧制忠海中学校(現在の広島県立忠海高等学校)、第六高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した(1928年)。 東京帝国大学卒業後、国民新聞社に入社した。編集局長などを経て、1940年に退社した。1943年、東京新聞社(現在の中日新聞東京本社)に移り理事、論説委員長を務めた。 一時占領軍の公職追放令で一線を退いたが1950年の解除後、同社に復帰した。復社後は東京新聞の1面コラムに筆名・武原敏として「筆洗」を長きにわたり書き続けた。
北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月… 北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月1日 - 1981年(昭和56年)1月3日)は、日本の部落解放運動家。戦前から部落解放運動を行っており、戦後の部落解放同盟結成時幹部であったが、戦後は全国水平社出身のメンバーらと共に部落解放同盟と対立した。 岐阜県稲葉郡黒野村大字黒野(現・岐阜市)の被差別部落の小作農の貧困家庭に生まれる。父は作蔵。母は琴。高等小学校卒業。 1925年、全水解放連盟に参加。1927年1月、大日本帝国陸軍二等卒として岐阜歩兵第68連隊に入営。同年11月19日、閲兵式にて軍隊内部の部落差別の存在と待遇の改善を昭和天皇に直訴し、逮捕される(天皇直訴事件)。請願令違反で11か月間、大阪衛戍刑務所で服役した後に陸軍教化隊へ編入。
伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年… 伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年9月3日)は、1920年代に活躍した元スキージャンプ選手、実業家。後に全日本スキー連盟の会長を務めた。京都府出身。 父親の伴房次郎は小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長(在職期間1921年11月28日-1935年4月2日) 京都府生まれで小学3年生の時父親の転勤に伴い小樽へ移り住んだ。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校) - 北海道帝国大学農学部 - 日本製粉(現・ニップン)株式会社。 1926年の第4回全日本スキー選手権ジャンプ競技優勝。 1928年のサンモリッツオリンピックにスキージャンプ日本代表として出場するが、コーチも通訳もいない孤独な参戦を強いられたことに加え、台の規模や技術、道具など何もかもが自分たちがやってきたことと違うことに戸惑い本来のジャンプが全く出来ず、転倒もあって(元々、伴は着地は得意な選手であった)最下位に終わった。
吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 197… 吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
厚田 雄春(あつた ゆうはる、1905年1月1日 - 199… 厚田 雄春(あつた ゆうはる、1905年1月1日 - 1992年12月7日)は、日本の映画カメラマン。小津安二郎組の名カメラマンとして知られる。
正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3… 正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3日)は、日本の教育心理学者。 熊本県出身。東京帝国大学卒。浪速高等学校教授、東北大学教授、京都大学教育学部教授。依田新との共著『性格心理学』(1937)で知られた。哲学者カール・ヒルティの翻訳もした。選集全3巻がある。 1959年 従三位勲三等
杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年… 杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年)1月1日 - 1970年(昭和45年)11月17日)は、日本の文筆家・陶芸研究者・歴史研究者。陶芸研究においては、古曾部焼、丹波焼を中心に調査・資料収集を行なった。 大阪市生まれ。東洋大学卒業。小説家として活動した後、陶芸研究・千利休の周辺をはじめとする歴史研究を行ない、兵庫県陶芸館副館長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
渡辺 順平(わたなべ じゅんぺい、1905年1月1日 - 1… 渡辺 順平(わたなべ じゅんぺい、1905年1月1日 - 1976年6月28日)は、日本の経営者。山之内製薬社長を務めた。岐阜県出身。 1925年に富山薬学専門学校を卒業し、1933年には東亜化学研究所を設立。1939年3月に山之内製薬取締役に就任し、1950年11月に常務、1962年2月に専務を経て、1968年8月には社長に就任。1974年8月には会長に就任。 1976年6月28日肺腫瘍のために死去。71歳没。
小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 198… 小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 1989年8月7日)は、日本の実業家。中部日本放送 (CBC) の事実上の創業者で、第4代代表取締役社長。中日新聞社取締役。 石川県石川郡野々市村(現:野々市市)に生まれる。 明治大学を卒業後、1929年に名古屋新聞社に入社。1942年に新愛知新聞社との合併で中部日本新聞社(1971年より中日新聞社)となった後の1946年に社会部長、1949年に出版局長となる。その傍ら、「民主国家として言論の自由を取り戻すためのフリーラジオを」という強い願いを持ち、民間放送の創設に熱意を燃やす。 1950年4月、中部日本放送の創立委員に就任。当時の杉山虎之助中部日本新聞社社長、中部財界、さらには許認可権者である逓信省やGHQを説得し、初代社長に佐々部晩穂を据え、自身は代表取締役常務に就任。
大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 -… 大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。荒磯部屋→春日野部屋所属。本名は宮川→槙勇。最高位は十両7枚目。 北海道釧路市出身。荒磯部屋に入門し、1923年5月「大寉」の四股名で序ノ口に就く(のち春日野部屋に移籍)。1929年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1930年1月再十両。この場所は3勝8敗と負け越したが、翌3月は6勝5敗と勝ち越し、十両での唯一の勝ち越しとなる。当時は2場所の成績で番付を作成されたため、合計の成績が9勝13敗と負け越しとなったため再び幕下に落ちた。「大鶴」と改名した1931年1月三回目の十両昇進となったが、この場所と翌場所も負け越し、5月に幕下に落ちた。
北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年… 北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年4月16日)は、日本の俳優、脚本家。本名:山田 東吾 。東京府東京市京橋区出身。 東京市京橋区生まれ。三光尋常小學校卒業。1922年、早稲田大学文学部に入学するも2年で中退。日活封切館・新宿帝都座の次席弁士として無声映画末期の説明界で存在感を示した。弁士時代の名前は山田無声。その後、松竹大船撮影所脚本部に所属したのち、1937年に日活多摩川撮影所に俳優として入社。 1937年の映画『限りなき前進』でデビューするや、注目され始め、助演俳優として活躍 。1942年に統合で大映東京に移籍。1948年にフリーとなって、1950年に松竹大船に所属、重厚な雰囲気から、主に校長や重役、父親役で数多くの映画に出演。
石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1… 石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉10月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)、前橋市長(5期)。前橋市立工業短期大学学長。大日本帝国陸軍軍人(陸軍曹長)[要出典]。 群馬県勢多郡木瀬村大字野中(現・前橋市野中町)出身。永明尋常高等小学校を経て、1922年(大正11年)県立前橋中学校卒業。警視庁麻布警察署書記として勤務の後、日本大学に学ぶ。1926年(大正15年)司法試験合格。1927年(昭和2年)に日本大学法科を卒業し、同年法律評論社の編集記者として勤める。1928年(昭和3年)弁護士となる。須永好による強戸村農民運動に協力した。
仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月… 仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月22日)は、日本の法制史学者。東京大学名誉教授。中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。正三位勲二等瑞宝章。宮城県仙台市生まれ。 旧制松本高等学校文科甲類を経て、1928年に東京帝国大学法学部を卒業。東方文化学院東京研究所研究員に着任。第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』を著した。本業の中国法制史の分野でも、『中国法制史』『中国法制史研究』(朝日賞受賞)などの大著を世に送り、学会をリードした。
富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日… 富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日 - 1967年(昭和42年)10月16日)は、日本の小説家。柔道五段。東京府生まれ。明治大学商学部卒。初め心座文芸部に入って新劇運動に参加したのち、『姿三四郎』が大変な人気を呼んで流行作家となる。戦後『面』『刺青』で直木賞受賞。映画化、ドラマ化された作品も多く、大衆文学の大家として人気を博した。 柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。永田町小学校(現千代田区立麹町小学校)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、明治大学商学部。在学中、詩誌『感情革命』を創刊する。1928年、河原崎長十郎らの心座文芸部に参加する。他のメンバーに舟橋聖一、村山知義らがいた。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1… 森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1日 - 1964年(昭和39年)11月17日)は、日本の経済学者。専門は経済史。 1904年、岡山県上房郡上水田村(現:真庭市北房地域)生まれ。岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、関西電力取締役になる板野道夫がいた。1921年3月に同校を卒業、板野と同じく同年4月第六高等学校文科乙類に進学。1924年3月六高卒業、同年4月東京帝国大学法学部に入学。1927年3月東大法学部卒業した。 1927年6月、京城帝国大学法文学部助手に任ぜられる。1929年京城帝大助教授に就任。1945年11月敗戦により引き上げ。1946年5月名目のみ教授となるが自然退官。
進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1… 進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の政治家、実業家。 早稲田大学政治経済学部卒業後、中野正剛秘書、西日本新聞社の前身の九州日報社取締役を経て、玄洋社社長となる。戦後に自由民主党に加わり、衆議院議員を経て、福岡市市長を4期務めた。 福岡市西職人町(現中央区舞鶴)出身。旧福岡藩士・進藤喜平太(玄洋社の創立者の一人)の四男。 旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年(昭和4年)、中野正剛の秘書となり、1933年(昭和8年)に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て、1944年(昭和19年)10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年(昭和21年)にGHQにより解散させられるまで社長を務めた。
増本 甲吉(ますもと こうきち、1904年(明治37年)1月… 増本 甲吉(ますもと こうきち、1904年(明治37年)1月1日 - 1991年(平成3年)3月14日)は、日本の拓務・内務官僚、国会職員。最後の官選岐阜県知事。 現在の大阪府羽曳野市出身。増本有吉の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、日本電力株式会社に入社。1929年、拓務省に入省し、拓殖局属となる。 以後、台湾総督府事務官、拓務書記官、樺太庁内務部長、石川県内務部長などを歴任。 1947年3月、前任の桃井直美が知事選に出馬のため辞任したことに伴い岐阜県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月に知事を退任。
土州山 好一郎(としゅうざん こういちろう、1904年1月1… 土州山 好一郎(としゅうざん こういちろう、1904年1月1日 - 1977年5月4日)は、高知県香美郡赤岡町(現香南市)出身で二子山部屋に所属した大相撲力士。本名は武内 好春。最高位は東前頭4枚目(1934年5月場所)。 現役時代の体格は179cm、112kg。得意手は上突っ張り、出し投げ。 同郷の土州山役太郎の経営していた二子山部屋に入門、1922年5月場所に初土俵を踏む。三段目から幕下で苦労していたが、土佐ノ海から師名の土州山に四股名を改めた直後の1932年1月に起きた春秋園事件で大量の脱退者が出たので、繰り上がって同年2月の改正番付で新十両を果たした。その機会を生かして1933年1月場所に入幕、以後6年にわたって幕内中堅力士として活躍した。
鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1… 鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1976年〈昭和51年〉)は、日本の哲学者であり言語学者でもある。関東学院大学等の大学講師も努めた。岡山県高梁市出身。 1903年(明治36年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀がいる。1920年(大正9年)3月に同校を卒業。同年旧制第六高等学校へ入学する。1924年(大正13年)3月に卒業し、京都帝国大学文学部哲学科へ入学。 その後、1927年(昭和2年)3月に京大を卒業し、そのまま京都帝国大学大学院文学研究科宗教学専攻科へ進学する。
南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治3… 南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治36年)1月1日 - 1954年(昭和29年)4月7日)は、日本の弁護士、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員で大東亜参与官を務めた。 群馬県勢多郡横野村(現在の渋川市)に生まれる。鳥山源吉の二男。後に南雲貞三の養子となった。1926年(大正15年)に高等試験司法科に合格し、翌年に同行政科に合格した。1928年(昭和3年)に中央大学法学部を卒業し、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)、民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後3回連続当選を果たした。その間、鈴木貫太郎内閣で大東亜参与官を務めた。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に改進党から立候補したが、落選した。
相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月… 相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月1日 - 1962年(昭和37年)1月27日)は、昭和期の日本の水産学者。 1925年(大正14年)、東京帝国大学農学部水産学科を卒業後、農林省(現 農林水産省)水産講習所・水産試験場技師を経て、1942年(昭和17年)より九州帝国大学の教授となり、同大天草臨海実験所長、長崎大学教授、水産庁調査研究部長、津屋崎水産実験所長を兼任。その他、中央漁業調整審議会委員、日本学術会議会員などを歴任した。プランクトンの研究に従事し、国内の水産資源学の発展に尽力した。1938年(昭和13年)、「日本産短尾甲殻類ノ幼形ニ関スル研究」で農学博士。1949年(昭和24年)5月31日、熊本県に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、九州大学付属天草臨海実験所の所長を務めており、昭和天皇に無脊椎海棲動物標本の説明役を担った。
千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年… 千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年7月19日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル会長、千明牧場代表を務めた。 1903年1月1日、群馬県利根郡片品村出身。千明賢治の長男。旧制沼田中学校、旧制新潟高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学し、1930年に卒業。大学院で2年間学んだのち南満洲鉄道に入社し、1937年退社。この間1936年に日光華厳滝エレベーター株式会社、株式会社丸沼温泉ホテル各社長に就任。また1949年6月より日光国立公園観光株式会社社長に就任し、1950年8月に辞任するまで同職に在任。このほか群馬官材事業協会、国有林材生産組合、群馬県養鱒漁業協同組合などで要職を務めた。
内田 一郎(うちだ いちろう、1903年1月1日 - 198… 内田 一郎(うちだ いちろう、1903年1月1日 - 1983年6月9日)は、日本の経営者。広島県出身。 1922年に東京歯科医学専門学校を中退し、1923年に中国新聞社に入社。1952年に中国放送に転じ、1958年に取締役に就任し、1959年10月に常務、1968年10月に専務を経て、1970年5月から1973年5月までに社長を務めた。 1973年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年6月9日結腸腫瘍のために死去。80歳没。
雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月… 雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1999年〈平成11年〉12月2日)は、日本の編集者。 山梨県南巨摩郡鰍沢町(現・富士川町)生まれ。早稲田大学社会哲学科卒。在学中から、早稲田の先輩である嶋中雄作宛に毎月『中央公論』の精細な批評を書き送り、1928年(昭和3年)中央公論社に入社、1929年(昭和4年)7月『中央公論』編集長に就任。谷崎潤一郎を担当し、1932年(昭和7年)出版部長に転じる。1934年(昭和9年)より『谷崎潤一郎訳源氏物語』を担当し、山田孝雄に校閲を頼む傍ら、谷崎との相談で皇室に関する部分の削除を決めた。 1937年『中央公論』編集長に復帰するも、1938年(昭和13年)同誌3月号に石川達三「生きてゐる兵隊」を掲載したことで石川とともに刑事告発され、責任をとって退社。
佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998… 佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998年6月4日)は、日本の哲学者、早稲田大学名誉教授。 岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)出身。早稲田大学哲学科卒業。1975年まで早大教授。1998年、肺炎のため死去。