早見 一十一(はやみ いそい、1895年〈明治28年〉1月1… 早見 一十一(はやみ いそい、1895年〈明治28年〉1月11日 - 1990年〈平成2年〉6月23日)は、日本の美容師。大正時代から昭和時代にかけ、洋髪(女性の西洋風の髪形)の普及に努めると共に、戦後の生活に困窮する女性たちのために早見美容学校(後の早見芸術学園)の創設など、生涯を美容師の地位向上に尽くした。夫(後夫)は早見美容学校初代校長の遠藤千之。栃木県出身。 東京市芝区(後の東京都港区)で、二男二女の兄弟姉妹の次女、三子として誕生した。誕生日の1月11日にちなんで「一十一」と命名された。 小学校卒業までを栃木県小山町(後の小山市)で過ごした後、東京高等女学校、日本女子大学教育学部一部へ進学した。
宮良 長詳(みやら ちょうしょう、1894年(明治27年)1… 宮良 長詳(みやら ちょうしょう、1894年(明治27年)1月11日 - 1965年(昭和40年)1月30日)は、戦前の沖縄県の医師で、八重山支庁の政治家。終戦直後に八重山支庁長を務めた。沖縄県石垣市出身。 明治27年(1894年)1月11日生まれ。大正10年(1921年)に九州帝国大学医学部を卒業する。 大正13年(1924年)に石垣島に帰島し医院を開業する。戦前は八重山諸島の旧制中学校設立運動に関わる。 沖縄戦後は、八重山諸島の混乱を鎮めるために、有志とともに八重山自治会を結成し自治会長に就任する。進駐したアメリカ軍によって八重山支庁長に任命される。 翌年に支庁長を辞任し、以降は八重山人民党を結成するなど、しばらく政治活動を続け、晩年には仏教に帰依する。
鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月1… 鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月11日 - 1964年(昭和39年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 戦時中、情報局情報官として言論統制を行っていた人物として知られる。清沢洌曰く、「日本思想界の独裁者」。石川達三の小説「風にそよぐ葦」で出版社を支配する情報官佐々木陸軍少佐のモデルとされる。 茨城県真壁郡鳥羽村大字鷺島(現:筑西市明野町鷺島)の豪農、鈴木利三郎の第7子として生まれるが、生後まもなく同筑波郡田水山村大字田中(現:つくば市田中)の農家、大里菊平の養嗣子となる。高等小学校卒業後は、農業を手伝いながら帝国模範中学会で自習。 1913年(大正2年)12月、19歳で陸軍砲兵工科学校入学。
大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - … 大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。 1893年(明治26年)1月11日、東京府(現・東京都)に生まれる。 大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現・東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、幕府の御家人出身で、小牧(こまき)が本姓であった。熊本藩出身の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった。 元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、 「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。
鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> … 鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> 1月11日 - 1980年 <昭和55年> 8月21日)は、日本の経営者。位階は正四位。 静岡県磐田市出身。1918年に東京高等商船学校を卒業。日本郵船での勤務を経て、1935年に日本捕鯨(のちの日本水産)に入社し、1950年には社長に就任。1951年には会長も兼務し、1963年には相談役に退いた。 1960年5月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1980年8月21日急性心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月1… 池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月11日 - 1966年〈昭和41年〉7月15日)は大正・昭和時代のジャーナリスト。 秋田県由利郡仁賀保町出身。旧制本荘中、東京外国語学校(現東京外語大学)シャム語科卒。大日本雄弁会講談社社員を経て報知新聞社にうつる。大隈重信の番記者をへてベルリン特派員。『優生運動』(1926-1930)を刊行し、日本の優生学の普及を図った。ワンダーフォーゲル運動を日本に紹介し、足の会を優生運動の一環として行った。 1933年(昭和8年)京城日報に招聘され副社長に就任。昭和14年(1939年)報知新聞に復社し編集局長就任。戦後「秋田魁新報」に随筆「話の耳袋」を長期連載した。
鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11… 鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。 東京市中野区大和町に生まれる。岩手県立一関中学校を中途退学し、私立横浜英語学校へ入学。ついで正則英語学校分校を経て、1917年(大正6年)7月、中央大学法科専門部を卒業する。 卒業後、明治神宮造営局属外苑課経理課次、社会局属を経て、1929年(昭和4年)6月、拓務省へ転じ、1931年(昭和6年)4月、拓務理事官に進んだ。南米課勤務を経て台湾総督府属理事官に任ぜられ、1936年(昭和11年)4月に嘉義市助役、1937年(昭和12年)11月に台北州七星郡守に就任した。ついで宜蘭市長を経て、1942年(昭和17年)4月、花蓮港市長に就任した。
藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11… 藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11日 - 1963年〈昭和38年〉9月19日)は、日本の道路技術者、内務官僚、政治家。 宮崎県都城市生まれ。1914年(大正3年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。同年、兵庫県技師となった。1917年(大正6年)、明治神宮造営局技師に転任した。折下吉延とともに、明治神宮外苑の銀杏並木道路を手がける。1922年(大正11年)、東京帝国大学講師となり道路工学や都市計画施工法を担当した。1924年(大正13年)には内務省土木試験所の内務技師も兼任するようになる。1931年(昭和6年)に日本大学工学部講師となった。1932年(昭和7年)に工学博士を取得した。
松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)… 松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)1月11日 - 1948年(昭和23年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県上妻郡川崎村(八女郡川崎村を経て現八女市)で、土木請負業・松尾藤蔵の二男として生まれる。 三菱合資会社に勤務。1917年(大正6年)嘉穂郡碓井村(現嘉麻市)に松尾鉱業所を設立。その後、稲築村山野(現嘉麻市)の中西炭鉱 (株) の坑長に転じた。1926年(大正15年)田川郡に糸飛炭鉱 (株) を設立。1934年(昭和9年)直方市郊外に新高紅炭鉱を開鉱し、後に小林鉱業 (株) に譲渡した。その他、石炭鉱業互助会相談役、金丸鉱業取締役、久恒鉱業顧問、田籠鉱業顧問、藤井鉱業顧問、三崎鉱業顧問、九州曹達顧問などを務めた。
大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月… 大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月11日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の実業家。住友銀行専務、住友本社取締役、経済評論家。 群馬県太田市大島町出身。東京府立一中に学ぶ。1909年(明治42年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 同年住友銀行に入行。1917年(大正6年)ニューヨーク支店長代理となる。1923年(大正12年)本店外国課長。1925年(大正14年)本店支配人。1932年(昭和7年)常務取締役。1943年(昭和18年)専務取締役。1944年(昭和19年)まで同取締役、1945年(昭和20年)まで同監査役を務めた。1943年(昭和18年)から1947年(昭和22年)まで住友本社監事を務めた。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - … 佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - 1944年)は、佐藤造機(後の三菱農機 → 三菱マヒンドラ農機)の創設者。島根県出雲郷村(現・松江市)出身。
東 則正(ひがし のりまさ、1886年1月11日 - 197… 東 則正(ひがし のりまさ、1886年1月11日 - 1976年4月27日)は、大正から昭和初期にかけてのジャーナリスト、実業家。政治団体東方会の設立者のひとり。 京都府愛宕郡八瀬村(現・京都市左京区八瀬)に生まれる。代々天皇家に奉仕する八瀬童子の出身。早稲田大学卒業後、大東汽船へ入社、中国に渡る。後に時事新報特派員となり、宋教仁、孫文、黄興、蔣介石らと親交を結ぶ。大正5年に中野正剛らと東方会を設立、雑誌「東方時論」を発行。大正8年に東方会を離脱、以後は実業家として活躍。戦後は八瀬にて余生を送った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉… 甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉1月11日 - 1958年〈昭和33年〉3月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市門東町出身。米沢尋常中学興譲館より仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。中央幼年学校生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第32連隊中隊長、参謀本部員、歩兵第40連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第7師団参謀などを歴任。1930年8月、陸軍大佐に昇進し京城帝国大学の配属将校となる。留守第11師団参謀長を経て、歩兵第15連隊長となり、第一次上海事変により動員されるが満州に転用され、馬占山軍の攻撃に従事。
佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960… 佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960年8月15日)は、日本の詩人・英文学者。 1885年、宮城県仙台市生まれた。旧姓・岡。東京帝国大学英文科を卒業。関西学院に勤務したのちに英国留学し、1923年より東京女子高等師範学校教授となった。1924年の京城帝国大学創設に伴い、その教授就任に備えるため再び英国留学を命ぜられ、その後赴任した。1945年、定年退官。 戦後、青山学院大学教授として教鞭をとった。墓所は多磨霊園(21-1-23)にある。 キーツ、ワーズワース、シェリーなど英国ロマン派の詩人を研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内山 完造(うちやま かんぞう、1885年1月11日 - 1… 内山 完造(うちやま かんぞう、1885年1月11日 - 1959年9月20日)は、日本の書店主・文化人。1930年代以降、中華民国と日本の両方で書店経営者として成功し、日中文化人交流に大きな影響を与えた。内山書店は現在も、東京の神田神保町で中国・アジア関連書籍を多く扱っている。 出身地は岡山県後月郡芳井村(現・井原市)で、村長の家に生まれた。 内山は高等小学校を4年で中退。京都と大阪の商家で10数年間店員を勤めた後、1913年3月に上海へ渡った。入信したキリスト教会の牧師の紹介で、大学目薬・参天堂(現在の参天製薬)の出張販売員となるためである。各地を営業するうちに、粗衣粗食に耐える勤勉な苦力(クーリー)や信用を重んじる商人など中国の庶民に深い共感を覚えた。
折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11… 折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11日 - 1950年(昭和25年)1月13日)は、大正から昭和時代の日本の翻訳家、フランス語学者。号に蓼峰、多音祐、R.T.O。 旧信濃国松本藩士・折竹嘉鋭の長男として長野県諏訪郡にて生まれる。1908年(明治41年)東京帝国大学文学部仏文科を卒業後、陸軍教授を経て、第三高等学校教授となり、河盛好蔵、桑原武夫らに教えた。フランス・ドイツ留学を経て、旧制福岡高等学校長に任ぜられ、その後は、関西日仏学館(現:アンスティチュ・フランセ日本の前身の一つ)教授などを歴任する。
赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1882年(明治15年)1月1… 赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1882年(明治15年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月8日)は、日本の実業家である。泰昌銀行頭取。 東京府神田区猿楽町(現東京都千代田区神田猿楽町)で、海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男七女の長男)として生まれ、莫大な遺産を相続した。赤星家の財産はこの弥之助が築いたものである。1895年(明治28年)番町小学校高等科を卒業し、1901年(明治34年)に東京中学を卒業後渡米し、ローレンスビル・スクールに入学。1904年(明治37年)父の病気のため一時帰国。父親の死去にともない家業を継ぐ。1906年(明治39年)に再渡米し、ペンシルベニア大学卒業後、1908年(明治41年)に帰国し、同年12月、一年志願兵として麻布の騎兵第1連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月、予備役編入となり除隊し、1910年(明治43年)予備役騎兵少尉、1922年(大正11年)後備役騎兵中尉となる。
尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 -… 尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 - 1947年1月4日)は、歌舞伎役者。本名:鈴木 僖重(すずき きじゅう) 1882年(明治15年)1月11日鈴木喜右エ門(江戸時代から有名な日本橋・料亭小倉亭~[江戸時代:本所小梅小倉庵]どちらも震災大火のため焼落)の長男として東京市京橋区中橋和泉町1番地に生まれる(現在の中央区築地2丁目)。六代目尾上菊五郎を師匠とし、尾上家の舞台では番頭もしていた。舞台では玉乗りを得意としていた。 幼い頃から歌舞伎座が身近にあったことから歌舞伎の世界に憧れる。当時銀座にあった料亭三浦(現在「新三浦」とし築地に移転)にて菊五郎と話し合い、菊五郎の元で歌舞伎を演じたい僖重と、番頭を欲しがっていた菊五郎の希望が合致し、菊五郎の初めての付き人になった。
佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日… 佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日 - 1940年(昭和15年)9月9日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)。旧姓・永江。 永江慎一の五男として長崎県に生まれ、佐保ケサの養子となり、1909年(明治42年)家督を相続する。1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。農業を営む傍ら、佐世保市会議員、長崎県会議員、同参事会員、鉄道大臣秘書官を歴任する。また、佐世保商工会議所議員、佐世保信託、肥薩貯金、佐世保土地、九州鉄工所各取締役、佐世保鉄工所、大和屋洋服店各取締役社長、佐世保貯蓄銀行監査役などを歴任する。南洋方面視察および派遣軍慰問のため満州、北支那に派遣された。
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1… 垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者・国文学者。 岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。6歳で分家の垣内雲嶙の養嗣子となった。1903年東京帝国大学国文科卒。 東京帝国大学講師、東京女子高等師範学校教授、1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。 筆名として「まつみ」とも読ませた[要出典]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 垣内は国学を研究すると同時に、言語学・心理学・現象学といった西洋諸科学とを止揚する学術体系の構築を目指し、生涯をかけてこれに取り組んでいるが、その渉猟する学術領域の広さ、探究する対象群の深さ、そして独創的な発想と理想の高さは、いずれにおいても他の追随を許さないものとなっている。
谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日… 谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日 - 1962年(昭和37年)3月5日)は、高野寺第4世住職。高野山真言宗宿老・宗機顧問。板垣会館設立発起人。 明治11年(1878年)1月11日、徳島県板野郡鳴門村(現・鳴門市)に生まれる。明治28年(1895年)、高野中学校に入学。明治31年(1898年)、同校卒業後、高野山大学へ進学。さらに京都東寺専修学校に学ぶ。同校卒業後、郷里に戻り、徳島県麻植郡・重楽寺の住職となる。のち、同県板野郡瀬戸町・吉祥寺の住職に転任。さらに同県里浦村師跡・宝珠寺の住職に転じ、鳴門村・潮明寺と兼務した。大正11年(1922年)、高知県高知市・高野寺の第4世住職に就任。
藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月1… 藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師。広島県福山市(旧沼隈郡)の正光寺出身。 この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる。刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77歳
尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治… 尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治11年(1878年)1月11日 - 昭和11年(1936年)6月2日)、は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。いわゆる尾竹三兄弟の一人で、尾竹越堂は兄、尾竹国観は弟。 明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。本名は染吉。父は尾竹倉松。4歳で南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。竹翁とも号す。5歳の時には襖絵などを描き、6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。また10歳の頃から絵をもって家計を助けたともいわれる。明治24年(1891年)富山に移り、兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞『富山日報』挿絵を描く。
野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月… 野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1945年〈昭和20年〉4月2日)は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した南画家、日本画家。 野口小蕙は、明治11年(1878年)1月11日に滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りである野口正章(1849年 - 1921年)の長女として生まれ、郁子と名付けられた。母は奥原晴湖と共に明治女流南画家の双璧といわれる野口小蘋(のぐち しょうひん、1847年 - 1917年)である。父正章と母小蘋(本名親子)は、正章の父野口正忠(柿村(しそん)と号す)が近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は長く野口家に居候をしているような美術愛好家で漢詩家であったことから知り合い、明治10年(1879年)結婚した。
木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)… 木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)1月11日 - 1945年(昭和20年)11月15日)は、日本の化学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。第2代東京写真専門学校(現東京工芸大学)校長。正三位勲一等。 東京府出身。1900年第一高等学校卒業。1904年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業、工学士。1906年東京高等商業学校(現一橋大学)助教授。1916年から1918年までアメリカ合衆国へ留学し応用化学及び商品学を研究。1920年から東京商科大学(現一橋大学)予科教授兼大学教授として、奈佐忠行とともに商品学を担当した。1921年東京商科大学予科主事。1937年退官、東京商科大学名誉教授、東京商科大学講師、叙正三位。
雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11… 雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11日 - 1922年3月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士。愛知県愛知郡鳴海町笠寺鳴尾(現・名古屋市)生まれ。弟子に山田正三、井上直三郎など。 ドイツで民事訴訟法を学んだ後に帰国し、日本の民事訴訟法を体系化。我が国の民事訴訟法学の基礎を築いた。ドイツ法学に依拠する証明責任論を展開し、真偽不明論を提唱した。また、「生きた法学実践」活動として、兼任していた立命館大学の付属研究所の設立に関与するも、雉本の急死でこの研究所は2年という短期間で閉鎖された。 「大正デモクラシーの理論的旗手」と称される。 1917年、鳴海の小作人は、長雨を原因とする凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、鳴海小作争議が勃発する。
小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明… 小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明治2年12月10日) - 1943年(昭和18年)7月26日)は、日本の新派俳優である。本名は西巻行蔵。 新潟県柏崎市に生まれる。後に上京し1891年(明治24年)に川上音二郎一座に加入し、立役が認められた後に同座が経営する劇場において初舞台を踏んだ。1896年(明治29年)には同じ新派俳優だった高田実や初代喜多村緑郎らと共に、成美団の結成に携わり大阪にあった角座および朝日座等で舞台を踏む。 1907年(明治40年)には高田および伊井蓉峰が所属した一座に加入し、再度東京で舞台を踏みその座長も務めた。1913年(大正2年)には河合武雄らが結成した公衆劇団にも加入し、新劇運動に尽力する。
林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日… 林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月24日)は、日本の教育者、キリスト教の社会事業家。 越前国大野(現在の福井県大野市)に、大野藩士林長蔵の長女として生まれる。 1877年(明治10年)に石川県(現在の福井県)第三女子師範学校(後に石川県第三女子小学師範学校と改名)に第1期生として入学する。明治天皇の巡幸の折は名代として来校した大隈重信参議の前で日本外史の一節を講義し、金一封をもらう。1880年(明治13年)に卒業後、大野町の有終小学校で勤務する。 小学校教員時代に歌人布川正沖に和歌を学ぶ。当時あこがれの女性は下田歌子だった。
五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年… 五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1910年〈明治43年〉9月10日)は、日本の歌舞伎役者。養父は十二代目守田勘彌。 元治元年12月14日(1865年1月11日)、三河国の東海道にある池鯉鮒宿の旅籠、巴屋こと林寅吉の次男として生まれた。本名は鉄三郎。母は碧海郡東境村の泉正寺の生まれである。 理由は定かでないが、母親とともに巴屋を出て旅役者となり、女優の中村仲吉に預けられた。10歳の時に東京に向かい、坂東喜知六を頼って坂東利喜松(りきまつ)と名乗った。新富座で踏んだ初舞台が認められて坂東喜知六の養子となった。 1889年(明治22年)に京都の祇園座がこけら落としを行った際、九代目市川團十郎一座に招かれて出演し、非凡な才能を見せつけた。
河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年… 河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年11月22日) - 1930年(昭和5年)9月3日)は、明治大正期の北海道史研究者。河野齢蔵は実弟、アイヌ研究者として名高い河野広道は子、また二女の道子は動物学者犬飼哲夫に嫁ぎ、河野本道は孫に当たる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現・長野県松本市)に河野通重の次男として生まれる。長野県師範学校松本支校を卒業後、1881年に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)で2年間学んだ後、秋田県の小真木鉱山の分析主任となる。 郷里へもどって養蚕業に従事、『信陽日報』客員として活動、またこのころ自由民権運動にも関係していたといわれる。その後、長野県庁や東京中央気象台に勤務、この間の学歴・職歴のなかで、人文・自然科学の広範な教養を身につけている。
東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉… 東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉、1853年1月11日〈嘉永5年12月2日〉 - 1922年〈大正11年)9月25日〉)は、旧会津藩臣(白虎隊士)で、明治から大正にかけての小説家・新聞記者・政治家。財務学士。陸軍大将柴五郎は実弟。代表作は政治小説『佳人之奇遇』。 会津藩士で御物頭格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、上総国君津郡富津村の会津藩陣屋(弘化4年から嘉永7年まで会津藩が富津台場の警備を担当)に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。 藩士子弟の通例に従い、数え10歳より藩校日新館にて小笠原午橋・南摩綱紀に就いて漢学を修め、大学部を経たのち上洛。
工藤 寛得(くどう かんとく、1849年1月11日〈嘉永元年… 工藤 寛得(くどう かんとく、1849年1月11日〈嘉永元年12月17日〉 - 1911年〈明治44年〉12月17日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名は六太郎。 陸奥国岩手郡大更村(岩手県北岩手郡大更村、西根村、西根町を経て現八幡平市大更)で、工藤織人の長男として生まれる。生家は古くから林業や商業などで財を成した。藩校作人館を経て、江戸に出て安井息軒の門に学び、帰郷後の1879年(明治12年)北岩手郡会議員に当選する。自由民権運動に際しては多くの資金援助を行った。ほか、北岩手郡各村連合会議員、岩手県会議員、岩手県農工銀行発起人などを歴任した。 1890年(明治23年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から翌年の6月12日まで在任。
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈18… 品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈1841年1月11日〉 - 1891年〈明治24年〉2月18日)は、江戸時代のオランダ語通訳、幕臣。明治時代の官僚。通称・英輔。 肥前国長崎で品川権左衛門の子として生まれる。兄の品川九十九は大村藩の御用商人で、義理の兄弟に石鹸工場創業の吉村又作(現在のマリンフード創業者)、甥に平野富二がいる。同族のオランダ通詞の品川徳三郎の養子となる。オランダ語をはじめ英語も習得していたため、ペリーの浦賀来港により幕臣に抜擢され、横浜で通弁となる。安政6年(1859年)に幕府が各国と通商条約を締結する際通弁を務めた。また通弁のかたわら横浜で洋学教授を行った。
大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈179… 大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈1793年1月11日〉 - 明治4年8月17日〈1871年10月1日〉)は、幕末・明治維新期の国学者、神道家。石見国津和野藩出身。 別姓は野之口。名に一造、匠作、仲衛など。諱は秀文、秀清、隆正。字は子蝶。号は葵園、佐紀乃屋。 津和野国学の泰斗として、国学史上の四大人観を確立し、「文武虚実論」に代表される学問論を残した。神道家としては石見国に於ける大国主信仰の復興にも貢献した。 津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれた。 1805年(文化3年)に平田篤胤の門下となり国学を学ぶ。さらに昌平黌においても古賀精里に儒学を学ぶが、こちらは文化7年去っている。
希良々 うみ(きらら うみ、1月11日 - )は、元宝塚歌劇… 希良々 うみ(きらら うみ、1月11日 - )は、元宝塚歌劇団雪組娘役。 岡山県倉敷市、県立倉敷天城高校出身身長162cm。愛称は「ともか」。妹は星組娘役の星咲希。 2012年4月、宝塚音楽学校入学。同期には元宙組・花組トップ娘役星風まどか、音くり寿、聖乃あすか、元花組トップ娘役華優希、風間柚乃らがいる。 2014年3月、宝塚歌劇団に100期生として入団。入団時の成績は14番。月組公演「宝塚をどり/明日への指針/TAKARAZUKA 花詩集100!!」で初舞台。 2015年2月、組廻りを経て雪組に配属。 2017年11月-2018年2月、『ひかりふる路〜革命家、マクシミリアン・ロベスピエール〜/SUPER VOYAGER!-希望の海へ-』を怪我のため、全日程休演。
陰山 真寿美(かげやま ますみ、1月11日 - )は、日本の… 陰山 真寿美(かげやま ますみ、1月11日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。京都府出身。青二プロダクション所属。 小学校時代のクラブ活動で担任の教師から「演劇部を作る」と言われて誘われて演劇部に所属。中学、高校時代も演劇部に所属しており、その時の演劇部では男役を演じていた。高校時代は女子校に通っていた。 京都ノートルダム女子大学在学中に青二塾大阪校15期として入塾。その後、京都府から上京して青二プロダクションに所属して声優としての活動を始める。 方言は京都弁、関西弁。 趣味は食べ歩き、ギター、生け花、歌唱、ストリートダンス。特技は蕎麦打ち、欽ちゃん走り。 資格・免許は普通自動車免許(AT車)。
井上 トモノリ(いのうえ トモノリ、1月11日生)は、日本の… 井上 トモノリ(いのうえ トモノリ、1月11日生)は、日本のソングライター、編曲家、ギタリスト。山口県宇部市出身。ハイキックエンタテインメント所属。 自身のバンドはTAYNTON(テイントン)。福岡で活動の後、東京で活動。 幼い頃に母親の影響でビートルズとカーペンターズを聴いて育ちBOØWYを聴きバンドに目覚める。高校時代、ハードロック、ヘヴィメタルに明け暮れる。大学でギターポップのバンドを組み福岡で活動、後に上京。自身のバンドの活動と共に作家として活動中。 おはガールちゅ!ちゅ!ちゅ! かと*ふく(加藤英美里、福原香織) CRAYON POP Gothic×Luck SWEET CUTIE LOVELY DELUXXX DOKUMO BOYS!&GIRLS! 名古屋おもてなし武将隊 ハマトラ (アニメ) BOYS AND MEN 研究生 ミス・モノクローム(cv.堀江由衣)
西尾 浩司(にしお こうじ、1月11日 - )は、日本の歌手… 西尾 浩司(にしお こうじ、1月11日 - )は、日本の歌手。愛知県西尾市出身。 歌謡曲歌手、西尾市出身、1月11日生まれ。趣味は車、カメラ。好きなアーティストは西城秀樹。18歳で上京、数年間モデルと俳優業、バンドボーカル等をした。2018年、キングレコードの歌手東山彩とともに歌謡曲ユニット 東→西「抹茶恋時雨」「どこまでも」で歌手デビューを果たした。「どこまでも」はカラオケDAM、JOYSOUND配信中、東海ラジオ番組主題歌である。ゆるキャラ「西尾くん」と同じ苗字ということで「西尾ず」を結成した。
Viki (1月11日 - )は愛知県西尾市出身のシンガーソ… Viki (1月11日 - )は愛知県西尾市出身のシンガーソングライターである。 2003年5月21日「ちがうよ」でメジャー・デビュー。 四谷天窓.comfortを中心にライブ活動もしている。