四至本 愛子(ししもと あいこ、1910年12月11日 - … 四至本 愛子(ししもと あいこ、1910年12月11日 - 2013年1月25日)は、日本のジャーナリスト。四至本八郎の妻。大伴昌司の母。戸籍名は四至本アイ。 福島県東白川郡塙町生まれ。宇都宮女学校(現:栃木県立宇都宮女子高等学校)を卒業し、進学のため上京。その後、幼時から関心のあった社会運動に参加するようになり、婦女通信社に記者として勤務するかたわら、社会民衆党の本部に出入りするようになる。1931年には、吉野作造の長女の赤松明子に提唱された社会民衆党の婦人同盟の結成に参加し、広報担当者として機関紙を受け持つ。また、鐘紡本社に鐘紡女工学校を作り、女工たちに社会運動への自覚を促す講義をおこなった。
湯浅 年子(ゆあさ としこ、1909年12月11日 - 19… 湯浅 年子(ゆあさ としこ、1909年12月11日 - 1980年2月1日)は、日本出身の物理学者である。パリのコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所、CNRS(フランス国立中央化学研究所)などで研究した。日本国外で活動した初の日本人女性物理学者といわれる。 東京都上野に生まれる。7人兄弟の6番目で、生家には両親や兄弟の他に、乳母や数名の女中、書生がおり、多人数で暮らしていた。年子の父は福井県出身で、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)機械工学科を卒業し、農商務省の特許局に勤務していた湯浅藤市郎で、退職後に自宅で自動製糸機の発明に没頭し、世界で初めて「完全自動製糸機」を完成させたことで知られる。
古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 194… 古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 1946年5月3日) は、日本の小説家。本名は古沢 玉次郎(ふるさわ たまじろう)、別筆名・秦 巳三雄(はた みさお) 岩手県沢内村(現・西和賀町)出身。岩手県盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒業、旧制第二高等学校(現・東北大学)中退。「戦旗」編集部で秦巳三雄のペンネームで評論、翻訳を発表。その後古沢元のペンネームで「日暦」同人、武田麟太郎主宰の「人民文庫」同人となり小説、評論を発表した。1940年同人雑誌「麦」に発表した「紀文抄」(きぶんしょう)が、第12回直木賞候補作品となる。 第二高等学校では非合法政治活動に身を投じ、学業半ばで放校となったが、上京して新風を巻き起こしていたプロレタリア文学運動に加わり、「日暦」では高見順の「故旧忘れ得べき」に続いて「びしゃもんだて夜話」を三回にわたって連載、郷里の沢内村を題材にした小説を書いた。
佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月1… 佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月11日 - 2006年(平成18年)9月1日)は、日本の法学者(刑法)。弁護士。熊本県出身。 熊本県上益城郡木山町生まれ。旧制熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を経て、1927年旧制第五高等学校卒業。1930年、京都帝国大学法学部卒業後、同大学助手。1932年、同助教授。1933年の滝川事件の際に京都大学を離れ、立命館大学教授に就任するも、1934年に京都大学法学部助教授に復帰した。1941年、同大学教授。 戦後、自著『刑法総論』の国家主義的内容が問題となって教職不適格指定を受け、1947年に京都大学を追放された。同年、弁護士登録。
深沢 晟雄(ふかさわ まさお、1905年12月11日 - 1… 深沢 晟雄(ふかさわ まさお、1905年12月11日 - 1965年1月28日)は、日本の政治家。岩手県沢内村(現・西和賀町)の村長(2代目)を務めた。 明治38年(1905年)12月11日、岩手県沢内村の小地主の家に一人っ子として生を受ける。小学校は村立新町小学校太田分教場に入学した。性格は明るく、人一倍賢いが、心根は常に優しい子だったという。学業が優秀だったことから、後に一関中学校から第二高等学校を経て東北帝国大学に進む。かつて深沢の祖父が政治家をして家財を傾けた経験から、両親からは医者になるよう望まれたが、本人は早くに医学部に愛想を尽かし、後にこっそりと法文学部へと移籍しそのまま卒業した。
浅野 信(あさの しん、1905年〈明治38年〉12月11日… 浅野 信(あさの しん、1905年〈明治38年〉12月11日 - 1984年〈昭和59年〉11月16日)は、日本の国語学者・国文学者。文学博士。和洋女子大学教授、國學院大學講師。本名は浅野信(のぶ)。 1905年(明治38年)、栃木県に生まれる。1929年(昭和4年)、國學院大學卒。松下文法の松下大三郎に学んだ。浅野の文法論も浅野文法とも言われ、「国語学・国文学の泰斗」とされ、文法学のみならず、すぐれた俳諧文芸の研究者としても評価された。1958年(昭和33年)3月、「切字の研究」によって國學院大學より文学博士号を授与される。 著書として、『切字の研究』のほか、『音韻上より見たる俳諧文法論』『日本文法辞典』『日本文法文章論』『日本文法語法論』『日本文法文体論』『日本文法発想論』『文法と文学』『俳諧の語意と文法』など。
鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月1… 鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月11日 - 1978年(昭和53年)2月18日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 民主党衆議院議員で農林水産大臣などを務めた鹿野道彦の父。 山形県出身。1931年(昭和6年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業。京城化学支配人、関西ペイント東京支店長、東京特殊塗料監査役、関西ペイント取締役、徳山曹達(現トクヤマ)取締役、山形天然瓦斯取締役、蔵王高原観光開発取締役社長などを務めた。 1949年(昭和24年)の総選挙で山形1区から出馬し、初当選。以来通算5期務めた。第1次岸改造内閣経済企画政務次官、国土開発審議会委員、自由党総務、自民党国会対策副委員長、衆院公職選挙法改正に関する調査特別委員長等を務めた。
上地 マツ(うえち まつ、1903年12月11日 - 201… 上地 マツ(うえち まつ、1903年12月11日 - 2014年2月10日)は、ブラジルのスーパーセンテナリアン。 1903年12月11日、沖縄県名護市に生まれる。1922年にブラジルに移住した。1925年、上地寛吉と結婚。合計7人の子供がおり、そのうち2人はアルバレスマチャドとカタンドゥーヴァに住んでいたときの出産後に死去した。30年間農業に従事したのち寛吉は1952年に51歳で亡くなり、1961年にサンパウロに転居。 100歳の誕生日を迎えた際は、サンパウロ市議会と沖縄市長から、「存命中の最高齢の日系ブラジル人」として正式に認定された。 2014年2月10日、サンパウロで死去。110歳61日。
大井 篤(おおい あつし、1902年(明治35年)12月11… 大井 篤(おおい あつし、1902年(明治35年)12月11日 - 1994年(平成6年)12月27日)は、日本の海軍軍人。海兵51期・海大34期。最終階級は海軍大佐。 大東亜戦争(太平洋戦争)中に海上護衛総司令部参謀を務め、戦後に『海上護衛戦』(日本出版共同、1953年)を上梓したことで知られる。 1902年(明治35年)12月11日、医師の二男として山形県鶴岡市(現)に生まれる。荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1920年(大正9年)8月26日に海軍兵学校に入校し、1923年(大正12年)7月14日に卒業した(兵51期)。入校席次は11位/293名、卒業席次は9位/255名。兵51期の同期生には樋端久利雄(首席)、小園安名、山本祐二、実松譲、工藤俊作らがいる。
大塚 正(おおつか ただし、1902年〈明治35年〉12月1… 大塚 正(おおつか ただし、1902年〈明治35年〉12月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。陸軍司政官。大阪府堺市長。 大阪市に生まれる。1927年(昭和2年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、1930年(昭和5年)10月、高等試験行政科に合格する。1933年(昭和8年)5月、台湾総督府専売局書記を拝命し、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に任じた。その後、総督官房調査課外務企画各部勤務、新竹州花蓮港庁各総務課長などを経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政長官に任じた。 戦後、堺市長を務めた。堺市長退任後の1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙に旧大阪5区から自由民主党公認で立候補したが落選した。
広橋 真光(ひろはし ただみつ、明治35年(1902年)12… 広橋 真光(ひろはし ただみつ、明治35年(1902年)12月11日 - 平成9年(1997年)5月21日)は、昭和時代の華族(伯爵)・内務官僚。近衛文麿・東條英機両首相の秘書官を務める。戦後、千葉県知事を1か月だけ務めた。 明治35年(1902年)、伯爵・広橋賢光の嫡男として誕生。明治43年(1910年)、襲爵。大正15年(1926年)に東京帝国大学を卒業し、翌年内務省に入省する。この年の12月2日、梨本宮家から規子女王が降嫁する。昭和15年(1940年)、近衛文麿首相の元で内閣総理大臣秘書官を務め、次の東條内閣でも留まった。 昭和22年(1947年)、千葉県知事・小野哲が突如参議院選挙への出馬を表明して辞任したために同県知事に転じる。
張 連松(チャン・ヨンソン、朝鮮語: 장연송/張連松、190… 張 連松(チャン・ヨンソン、朝鮮語: 장연송/張連松、1901年12月11日または12月12日 - 1956年10月30日または11月6日)は、日本統治時代の朝鮮の発明家、反戦運動家、詩人、大韓民国の独立有功者、政治家。第2代韓国国会議員。 張 蓮松またはチャン・ニョンソン(장련송)という表記も見られる。日本名は張山 連松。 咸鏡北道吉州郡吉祥里出身。日本大学経済学部卒。日本統治時代には自由杖、二重縫針を発明したほか、20年以上をかけて木で永久機関の「無燃料原動力桓動機(恒動機)」を製作し、1939年に特許局から特許を取得した。また、「善と盗」という論文で個人主義を主張しながら、自由と自然主義を尊重することで人種間・民族間の対立を払拭させ、共存共栄・相互扶助しなければならないことを指摘した。
笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - … 笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - 1967年12月4日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説主幹をつとめた。
菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - … 菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - 1993年2月20日)は、日本美術史学者。 静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)生まれ。慶應義塾大学卒。1946年慶大助教授、1960年「渡辺崋山 近世日本画家の研究」で慶大文学博士。1962年教授。崋山、池大雅など、近世文人画を研究。1966年定年退任。常葉美術館館長、のち名誉館長。
西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11… 西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11日 - 1943年(昭和18年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・数藤。 北海道出身。陸軍中尉・小学校教員、数藤熊七の二男として生まれ、西家の養子となる。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第24連隊付となる。1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業し騎兵第24連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)3月、陸士教官に就任し、1934年(昭和9年)8月、騎兵少佐に進級。1935年(昭和10年)2月、アメリカ駐在を命ぜられ、1936年(昭和11年)8月、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12… 東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。位階は正五位。 戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった。 東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。 秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。
久山 秀子(ひさやま ひでこ、1896年12月11日 - 1… 久山 秀子(ひさやま ひでこ、1896年12月11日 - 1976年12月5日)は、日本の探偵小説家。 覆面作家であり、女性名義で作品を発表していたが、実際は男性である。本名は片山 襄(かたやま のぼる)、のち改名し芳村 升(よしむら のぼる)。別名義に久山千代子、富田達観、片山秀。 代表作は、女スリ師の隼お秀(はやぶさ おひで)こと久山秀子を主人公とする、「隼お秀」シリーズ。 1896年(明治29年)12月11日生。本籍地は東京都目黒区中目黒とされているが、出生地も同じかどうかは不明。出生名は片山襄(かたやま のぼる)で、のちに芳村家の婿養子となり、芳村升(よしむら のぼる)と改名した。本人の述懐によれば、下町生まれの旗本直参の跡取り息子だったが、長唄の師匠の家に婿養子に入ったという。
竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11… 竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11日 - 1958年(昭和33年)2月8日)は、日本の著作家、政治家。衆議院議員。 千葉県下埴生郡八生村大竹(印旛郡八生村を経て現成田市)で生まれる。1918年、東京外国語学校露語科を卒業。朝鮮銀行浦塩支店に勤務。その後、報知新聞記者、東京毎夕新聞記者、国士舘高等拓殖学校講師、朝鮮林業協会附属北方産業研究所主事などを務め、著述家としても活動した。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で千葉県第二区から立候補して当選。以後、27回総選挙まで連続5回当選した。この間、衆議院文部委員長、第3次鳩山一郎内閣の文部政務次官、自由党政調会文教部長、同文化部長、同憲法調査会副会長などを歴任した。
伊藤 徳之助(正字:德之助)(いとう とくのすけ、1894年… 伊藤 徳之助(正字:德之助)(いとう とくのすけ、1894年(明治27年)12月11日 - 1961年(昭和36年)2月9日)は日本の物理学者。別名:伊藤徳之。専門は地球物理学。
伊瀬 幸太郎(伊瀨幸太郎、いせ こうたろう、1894年〈明治… 伊瀬 幸太郎(伊瀨幸太郎、いせ こうたろう、1894年〈明治27年〉12月11日 - 1991年〈平成3年〉1月23日)は、大正から昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員(3期)。 奈良県葛下郡、のちの北葛城郡當麻町(現葛城市)出身。農業を営む。磐城村会議員に選出された。 農民運動に加わり、日本農民組合奈良県連会長、同中央委員、労働農民党奈良県支部連合会書記長、日本労農党奈良県連会長などを務めた。戦後、奈良県労働委員、同農地委員、奈良県指導農業協同組合連合会長、全国農民組合中央常任委員、奈良県農業会議々長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で奈良県全県区から日本社会党公認で立候補して落選。
山中 かく(やまなか かく、1894年12月11日 - 20… 山中 かく(やまなか かく、1894年12月11日 - 2008年4月5日)は、国内最高齢だった女性。愛知県西尾市出身で、弥富市在住だった。 1894年、愛知県西尾町(現西尾市)生まれ。湾岸作業に70代まで従事し、引退してからは弥富市内の老人ホームで暮らしていた。趣味はカラオケで、国内最高齢となった当時は肺炎で寝込んでいた。長寿の秘訣を問われると「栄養ドリンクを毎日飲むこと」と答えていた。 2008年4月5日、居住していた老人ホームで113歳116日で死去。これにより、国内最高齢は沖縄県の知念カマとなった。
古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日… 古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。徳島県警部・古閑巌彦の二男として生まれる。中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議調査班)、陸軍技術本部付兼軍務局課員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 197… 原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 1976年10月10日)は、日本の官僚、経営者。日本長期信用銀行初代頭取を務めた。島根県平田市(現在の出雲市)出身。 1916年に東京帝国大学経済科を卒業。大蔵省での勤務を経て、1939年に日本製鉄に転じ、常任監査役、常務、副社長を歴任した。1943年に東京証券取引所副理事長を経て、1944年に野村合名会社総務理事に就任し、野村銀行(現在の大和銀行)社長、野村證券会長、野村生命会長を歴任した。1952年12月に日本長期信用銀行初代頭取に就任し、1957年11月から1959年5月までに会長を務めた。大和銀行相談役も務めた。 1966年5月に勲一等瑞宝章を受章。
下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉12月11日- 1943年〈昭和18年〉9月12日)は、日本のジャーナリスト。 風刺漫画雑誌『東京パック』(第3次)の編集者で、第4次『東京パック』の創刊者・主宰者。漫画家や画家たちからは「パックのおやじ」と称された。 1889年(明治22年)、秋田県横手市に生まれる。1896年(明治29年)頃、父が死去し、その後家運が傾いて一家離散の憂き目にあった。1898年(明治31年)には家督を継いで横手の大沢鮮新堂という書店に丁稚奉公に入っている。1911年(明治44年)頃には横手に開店した東江堂書店の支配人となった。 1913年(大正2年)頃、東京に出て正則英語学校の夜間で学び、やがてジャーナリズムの道に入った。
安達 潮花(あだち ちょうか、明治20年(1887年)12月… 安達 潮花(あだち ちょうか、明治20年(1887年)12月11日 - 昭和44年(1969年)6月5日)は、華道家。いけばな安達式挿花創流者、いけばな近代化の先駆者。広島県豊田郡内海村跡(現在の呉市安浦町安登)生まれ。本名:良雄。 安浦町浄念寺に生まれる。7歳から池坊のいけばなを習いはじめ、忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)から早稲田大学政経学部に進むが中退し花の道に進む。形式美だけを追う当時の華道界をきらい、「一切の因習、定型を捨てて模倣をなさず」と飾花を提唱、生花を傷花として退け、大正6年(1917年)安達式挿花を興した。西洋花弁装飾に触発された家庭いけばなを創案、洋風化し始めた生活様式に合う近代花として人気を博し、上流の婦人たちの大きな支持を得た。
森 兼道(もり かねみち / けんどう、1887年(明治20… 森 兼道(もり かねみち / けんどう、1887年(明治20年)12月11日 - 1981年(昭和56年)1月29日)は、日本の弁護士、警察官、政治家。衆議院議員。 鹿児島県 姶良郡、後の帖佐村(帖佐町、姶良町を経て現姶良市)で、森兼友の七男として生まれる。1922年(大正11年)日本大学専門部法律家を卒業した。警視庁巡査、警部補を務め、1923年(大正12年)弁護士を開業した。 本所区会議員、東京市会議員、同参事会員、同学務委員、同財政調査会長などを務めた。1936年(昭和11年)2月、 第19回衆議院議員総選挙に東京府第4区から立憲民政党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 戦後に帰郷して、鹿児島県弁護士会長、鹿児島地方裁判所調停員、鹿児島家庭裁判所調停員を務めた。
大塚 惟精(おおつか いせい、1884年〈明治17年〉12月… 大塚 惟精(おおつか いせい、1884年〈明治17年〉12月11日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員。熊本県士族。 栃木・福岡・石川・広島の各県知事を歴任し、中国地方総監在任中に原爆投下により被爆死した。 細川侯爵家に仕えた書家・大塚惟一の長男として熊本県に生まれる。 済々黌中学・五高を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、11月、高等文官試験に合格し翌12月、内務省に入省、愛知県属(内務部庶務課)となった。そして徳島県・宮城県・神奈川県の警察部長を歴任したのち、栃木県知事(1924年(大正13年)6月 - 1926年(大正15年)9月)、福岡県知事(1926年(大正15年)9月 - 1927年(昭和2年)5月)、石川県知事(1927年(昭和2年)5月、ただし1日のみの在任)を務めた。
広幡 忠隆(ひろはた ただたか、1884年〈明治17年〉12… 広幡 忠隆(ひろはた ただたか、1884年〈明治17年〉12月11日 - 1961年〈昭和36年〉4月12日)は、日本の政治家。逓信官僚。華族。貴族院侯爵議員、皇后宮大夫。第10代広幡家当主。 東京府で侍従・広幡忠朝の長男として生まれる。父の死去に伴い1905年(明治38年)1月23日に侯爵を襲爵。 学習院中等学科、同高等学科を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年12月10日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1910年(明治43年)2月、内閣総理大臣官房事務嘱託となる。
相生 枩五郎(あいおい まつごろう、1882年12月11日 … 相生 枩五郎(あいおい まつごろう、1882年12月11日 - 1922年3月16日)は、現在の和歌山県和歌山市出身で朝日山部屋および高田川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は川口 清一郎。身長166cm、体重109kg。最高位は東大関。 大阪相撲の朝日山部屋に入門し二瀬川 清二郎を名乗って1898年10月見習となる。1903年5月十両。1904年1月歌舞伎から取った放駒 長吉と改名。同年5月入幕。1907年1月新大関となりその場所9戦全勝を記録した。1910年2月7勝2分の土付かずで2度めの優勝相当成績を残すが場所後に脱走して東京相撲に移った。 東京では相生 枩五郎と名乗り1911年1月三役格付け出し。
安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 193… 安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 1931年10月27日)は、日本の実業家。 士族・安田仲元の長男として、福岡県に生まれる。1897年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1900年東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 日本鉄道に技手として入社し、機関庫主任などを務める。1907年明治製糖の創立に参画、後に同社常務取締役に就任する。 明治商店取締役、明治製菓取締役、河西鉄道監査役、十勝開墾監査役、東京高等工業学校講師なども務めている。
近藤 平三郎(こんどう へいざぶろう、1877年12月11日… 近藤 平三郎(こんどう へいざぶろう、1877年12月11日 - 1963年11月17日)は、日本の薬剤師、薬学者(薬化学)。勲等は文化勲章。学位は薬学博士。日本学士院会員。 陸軍薬剤官、塩野義商店顧問、乙卯研究所所長、東京帝国大学教授、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長などを歴任した。 現在の静岡県賀茂郡松崎町にて生まれた。本郷のドイツ語学校から東京帝国大学医科薬学科に進み、長井長義に師事。帝大卒業後は大学に籍を置きながらも陸軍薬剤官として入隊し、日露戦争に薬剤師として従軍。陸軍医学校教官を経て、ベルリン工科大学に留学して有機化学を専攻した。 1911年に帰国すると塩野義商店の塩野長次郎の懇請を受け、塩野義商店顧問に就任。
津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12… 津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12月11日 - 1949年(昭和24年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→新政会)。弁護士。 大分県大分郡滝尾村(現在の大分市)出身。第五高等学校を経て、1904年(明治37年)に京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり大分地方裁判所に勤務したが、辞して1905年(明治38年)に同地に弁護士事務所を開いた。1908年(明治41年)に大分弁護士会長に選ばれ、1911年(明治44年)には大分市参事会員に選ばれた。 1912年(明治44年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回に至るまで連続3回当選を果たした。
藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11… 藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11日 – 1951年(昭和26年)12月30日)は、日本の弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。司法参与官。広島市長(官選)。早稲田大学評議員。 愛媛県新居郡中荘村大字中村(現在の新居浜市)出身。藤田甸之の四男。 1898年(明治31年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語行政科を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格。 1901年(明治34年)、大阪に弁護士事務所を開き、1903年(明治36年)に広島市に移った。広島では弁護士副会長や弁護士会長を務めた。 広島市会議員、広島県会議員、県参事会員、県会副議長を歴任した後、1927年(昭和2年)の衆議院議員補欠選挙に当選。
瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 19… 瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した。 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている。
大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月… 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケ)初代社長。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶(後のINAX、現・LIXIL)社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた。 大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する。慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任。
小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月1… 小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月11日)- 1942年(昭和17年)5月3日)は、明治後期から昭和前期の銀行家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現鹿児島市高麗町)で、旧鹿児島藩士・小森新蔵の六男として生まれる。1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 衆議院事務局に入り同属に任官。1902年(明治35年)台湾銀行に転じて書記に就任。植民経済研究のため1905年(明治38年)アメリカ合衆国に留学しハーバード大学で学んだ。その後、ボストンのキタピポヂー銀行での実務研修、欧州各国の視察旅行を経て、1908年(明治41年)に帰国した。
小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応… 小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応2年11月5日)- 1929年(昭和4年))は、埼玉県出身の医師である。 武蔵国秩父郡高篠村定峰出身。貧しい百姓の家に生まれ苦労したが、辛酸奮励の中で医学を修め医者となる。1887年(明治20年)医学開業試験に合格した後、軍医として、日清戦争や日露戦争に参戦する。 明治34年(1901年)より3年間ドイツ・プロイセン国ゲッティンゲン大学医学部へ留学し、「脳の腫瘍に関する症候」についての論文を記して医学博士号(ドクトル・メディチーネ)を取得して帰国する。ゲッティンゲン大学では、当時医学部長であったヴィルヘルム・エップシュタイン教授や特任講師であったビッケル講師、ルートゥビッヒ・アショフ教授(1903年からマールブルク大学教授となり、心臓のペースメーカーの生みの親といわれる田原淳博士と共に過ごした時期もあった)に師事。
神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶… 神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶応元年10月24日) - 1930年(昭和5年)12月2日)は、日本の酪農家、銀行家、政治家。日本で最初の西洋式牧場の開設者。長野県平民。牧畜業。神津宗家20代。子孫には東京税理士会会長の神津信一税理士がいる。 信濃国佐久郡志賀村(現在の長野県佐久市志賀)の豪農の家に生まれた。信州で指折りの豪農であった神津家は、代々九郎兵衛を名乗る「黒壁家」と、17世紀後半に分かれた「赤壁家」がある。邦太郎は「黒壁家」の出身である。神津家は先代九郎兵衛より家道大に振るう。 邦太郎は村の小学校である志仁学校を卒業すると、1881年東京へ出て慶應義塾に入った。
岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11… 岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11月13日)- 1910年(明治43年)9月4日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。幼名・信二郎。号・吉甫。 丹波国加佐郡大俣村(京都府加佐郡岡田上村字大俣、加佐町を経て現舞鶴市大俣)で、郷士、大庄屋、農業・岩田伊左衛門、千重の二男として生まれる。草場船山に師事し漢学を修めた。1879年(明治12年)ころに上京し、称好塾に入り杉浦重剛の薫陶を受けた。代言人(弁護士)を目指し1884年(明治17年)大学予備門を卒業。司法省法学校に進み1887年(明治20年)10月に卒業して代言人資格が与えられた。 1889年(明治22年)京都市で法律事務所を開設し、民事専門の弁護士として活躍した。
森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月… 森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月11日) - ?)は戦前日本の医師。旧姓は姫野、後に赤星。東京大学医学部別課卒。宮城県古川病院初代院長。赤星研造養子だったが、離縁し故郷大在村竹下で森医院を営んだ。 文久3年(1863年)11月1日豊後国海部郡竹下村の農家姫野平治郎と綱子の三男として生まれた。14歳の時海部郡儒学者阿部一行に入門した。16歳の春、父不在のため、母の許しを得て豊前国中津に留学して白石照山に学び、同年暮大分県師範学校に入学した。 1881年(明治14年)5月師範学校を退学し、上京して東京大学医学部別課に入学したが、1年後実家が災難に遭い、学資の仕送りを受けられなくなった、群馬県、山梨県の医師等の家に身を寄せた後、再び上京して知人宅に滞在中、友人の紹介で元東京大学医学部教授赤星研造に学資を得られることとなり、養子となった。
笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(… 笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(文久1年11月10日) - 1929年(昭和4年)7月21日)は、日本の警察官、実業家。愛知郡長退官後に名古屋市東郊耕地整理組合長ほか複数の土地整理組合で幹部を務め、名古屋における土地整理事業の先駆者に位置づけられる人物である。石川電気鉄道社長。 会津藩藩士笹原八百吉の長男として若松栄町に生まれる。福島師範学校の前身校に学んで教職に就いたのち埼玉県で巡査となり、山梨県警察部警務課長を経て、静岡県警察署長まで昇進した。1904年(明治37年)に辞職後、賀茂郡、南設楽郡で郡長を務める。1913年(大正2年)3月に愛知郡郡長を辞任し、名古屋市東郊耕地整理組合長、八事耕地整理組合、港東土地区画整理事業組合及び音聞山土地区画整理事業組合の各副長として当時の名古屋市近郊の土地整理事業を推進した。
沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月… 沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月11日(安政2年11月3日) - 1934年(昭和9年)3月21日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 肥前大村藩士・沢山熊右衛門の長男として生まれる。長崎広運館にて英学を修める。1899年(明治32年)家督を相続した。島原水電、沢山汽船、沢山兄弟商会、遠洋漁業、九州汽船各社長、長崎銀行頭取、長崎製鉄所取締役などを歴任した。ほか、長崎市名誉参事会員、同市会議員、長崎商業会議所副会頭などを務めた。 1925年(大正14年)長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保1… 野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日)– 1910年(明治43年)8月1日)は、幕末の岡藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・首藤。幼名・長之助、半之允。 豊後国直入郡竹田町(大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる。藩校・由学館、経武館で学び、その後、長崎に遊学した。文武に通じ、廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部、大分郡長、直入郡長を歴任した。その後、1886年(明治19年)大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官、高知県書記官を務めた。 1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され、衆議院議員を通算2期務めた。
10代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1835年12月11… 10代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1835年12月11日(天保6年10月22日) - 1891年(明治24年)10月14日)は、幕末から明治期の豪農、政治家。旧名・次左衛門光則。 甲斐国八代郡南八代村(山梨県東八代郡南八代村、八代村、八代町を経て現笛吹市)で生まれた。生家の加賀美家は八代郡小石和筋きっての大富豪。幕末には甲州田安家領の支配勘定格・郡中取締役を務めた。 明治維新後、1872年(明治5年)八代郡第7区長、同第8区長に就任し、藤村紫朗県政に協力した。その後、第22区長、第23区長となる。1878年(明治11年)東八代郡長に就任し東山梨郡長を兼務した。 その後、県内の民権派に対抗して立憲保守党の設立に尽力した。
姫宮 さら沙(ひめみや さらさ、12月11日 - )は、日本… 姫宮 さら沙(ひめみや さらさ、12月11日 - )は、日本の作詞家、モデル。兵庫県出身。血液型は、A型。 2歳からピアノを習う。17歳から声楽、聴音、作曲、音楽理論を習い始めたが、J-POPに転向し、渡辺プロダクション「東京音楽学院」にてヴォーカルレッスンを受ける。 28歳の時に作詞講座を開始。作詞家の松井五郎に師事。講座では「特別構成賞」や「敢闘賞」を受賞する。この頃から、作品が書籍化されることになる。その後、ビクター音楽カレッジに通学。作詞家の伊藤あきらに師事。「ビクター音楽カレッジ作詞大賞 銀賞」を受賞する。 作家事務所に所属し、2005年にテレビアニメ『IZUMO -猛き剣の閃記-』のオープニング曲のカップリング曲「Everything's all right」にて、作詞家としてメジャーデビューを果たす。
ジェームス ほたて(12月11日 - )は、日本の漫画家。兵… ジェームス ほたて(12月11日 - )は、日本の漫画家。兵庫県明石市出身。過去に高橋 くるみ(たかはし くるみ)名義を使用し、小暮 マリコ(こぐれ マリコ)名義でも作品を発表している。 1998年、『MANGA絶対満足』(笠倉出版社)でデビュー。以後『漫画ばんがいち』などの他の成年誌、さらには『ヤングコミック』を初めとする一般誌に発表の場を広げる。2001年からは『COMIC MUJIN』掲載作品(およびジェーシー出版・ティーアイネット刊行の単行本)で「小暮マリコ」名義を、2002年からは『コミックPOT』掲載作品(およびメディアックス刊行の単行本)で「高橋くるみ」名義を使用していた。小暮・高橋名義の単行本は、どれもその後ジェームスほたて名義で再発行されている。