高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10… 高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10月12日 - 1987年(昭和62年)10月23日)は、日本の方言詩人(津軽弁)、医師。推理作家の高木彬光は恭造の甥にあたる。 1903年、青森県青森市に三代続いた開業医の末っ子として生まれた。橋本尋常小学校、青森県立青森中学校を卒業後、一本木村袰月へ代用教員として赴任する。袰月での生活は4ヶ月間ではあったが、後の『まるめろ』のモチーフとなる。高木の没後、当時の教え子たちによって袰月集落を見下ろす高野崎に文学碑が建立されているほか、袰月集落内の国道280号沿いにも文学碑が建立されている。 1926年に弘前高等学校を卒業した後、青森日報社へ入る。
増田 渉(ますだ わたる、1903年10月12日 - 197… 増田 渉(ますだ わたる、1903年10月12日 - 1977年3月10日)は、日本の中国文学者。 1903年、島根県八束郡恵曇村(現:松江市鹿島町)で生まれた。旧制松江高等学校(現:島根大学)を経て、1926年、東京帝国大学文学部を卒業。 1931年、上海で晩年の魯迅に会い師事。魯迅の家に10ヶ月間通い、『史略』などの講義を直接受けた。帰国後も魯迅との書簡の往復は続いた。1935年、『支那小説史略』の日本語完訳版を出版。佐藤春夫と『魯迅選集』を翻訳・刊行し、本格的に作品紹介を行った。 1949年、島根大学文理学部教授。1953年、大阪市立大学教授。1967年関西大学教授。1974年、関西大学を定年退職。
新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12… 新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12日 - 1963年3月23日)は昭和初期から中期に活躍した芸者歌手。鹿児島県の種子島熊毛郡北種子村(現在の西之表市)出身。本名は中山嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。(読み方は同じで「タ子」と書かれた書物もある)。作曲家中山晋平の後妻。享年59。 1903年(明治36年)10月12日、鹿児島県種子島熊毛郡北種子村(現・西之表市)で父今村正義、母チカの元に9人兄妹の長女(第1子)として誕生。出生地の種子島に因んで「タネ」と名付けられた。間もなく両親と鹿児島市に移り住む。 正義は本来畳職人であったが、水商売を好み旅館や料亭など幾多の商売を手がけるもいずれもうまく行かず、鹿児島市内を転々として過ごした。
酒井 三郎(さかい さぶろう、1901年10月12日 - 1… 酒井 三郎(さかい さぶろう、1901年10月12日 - 1982年10月22日)は、日本の西洋史学者、熊本大学名誉教授。 高知県安芸郡生まれ。畠中家に生まれ酒井家養子となる。中学校卒業後、小学校代用教員、1923年准教員、1925年日本大学高等師範部入学、卒業ののち東北帝国大学法文学部卒業。助手をへて、1935-1940年東京帝国大学大学院に在籍。1943-1944年日本女子大学校教授、1951年熊本大学教授、教養部長をへて1968年定年退官、名誉教授、立正大学教授、1976年退職。1959年「J.-J.Rousseauの史学史上の地位」で広島大学文学博士。西洋史専攻。 中学校(旧制)卒から、検定試験をへて東大大学院まで進んだ異色の学究である。
林 一夫(はやし かずお、1900年 <明治33年> 10… 林 一夫(はやし かずお、1900年 <明治33年> 10月12日 - 1978年 <昭和53年> 7月14日)は、日本の経営者。山口県出身。位階は正四位。 1925年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1941年に日本鉱業に転じ、1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1959年に専務を経て、1960年から1965年8月までに副社長を務め、1964年2月には帝石石油社長に就任。1965年8月から1969年5月までに共同石油社長も務めた。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1978年7月14日心不全のために死去。77歳没。
田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12… 田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年)4月23日)は、日本の実業家。東京測器(現・日本ファイリング)株式会社社長。小竹商店、湘南軌道各取締役。 田嶋勝次郎の四男として豊島区に生まれる。祖父の宇太郎は加賀国出身で、江戸に出て東本願寺の寺侍となった。早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業。その後、東京建鉄技師、大東工業副社長、日本鋼鉄家具常務、京浜鋼鉄工業社長、清水建材興行取締役を歴任。1939年(昭和14年)12月23日、東京測器(現・日本ファイリング)株式会社を設立し、同社社長に就任。1961年(昭和36年)紫綬褒章を受け、1970年(昭和45年)11月勲四等に叙せられた。
丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月… 丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年))は、大正後期から昭和期の教育者、政治家。長野県中野市長。位階は従五位。 長野県下高井郡倭村(現中野市)で、教育者・丸山久保吉の長男として生まれた。長野師範学校卒業後、1921年(大正10年)7月、公立小学校訓導に就任。1922年(大正11年)兵役につく。除隊後、下高井郡高丘小学校長、平穏小学校長、中野小学校長を歴任し、長野県視学などを経て、1947年(昭和22年)下高井郡教育会長を務めた。長野県教職員組合執行委員長を経て1955年(昭和30年)長野県教育委員会教学指導課長に就任した。 1962年(昭和37年)8月、中野市長選挙に当選し、1970年(昭和45年)8月まで2期務めた。
寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1… 寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1991年11月5日)は、日本の医学者、日本薬理学会会長。東北大学医学部名誉教授。朝鮮総督府京城医学専門学校教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。東北大学医学部卒業。
水谷 一雄(みずたに かずお、1897年10月12日 - 1… 水谷 一雄(みずたに かずお、1897年10月12日 - 1981年9月12日)は、日本の経済学者。学位は、経済学博士(神戸経済大学・1955年)(学位論文「数学的思惟と経済理論」)。神戸大学名誉教授。従四位勲二等瑞宝章。 1897年、愛知県渥美郡高豊村字七根に生まれる。1923年、神戸高等商業学校卒業、1926年、東京商科大学卒業。 1926年神戸高等商業学校講師、1929年神戸高等商業学校附属商業専門部教授、1932年神戸商業大学助教授、1939年同大学教授、1944年神戸経済大学教授に就任。 1946年、授勲三等瑞宝章、叙従四位。 1953年、神戸大学経済学部教授(1950年とする記述もある)に就任、1955年、学位論文「数学的思惟と経済理論」で神戸経済大学から経済学博士の学位を取得。
木村 清司(きむら せいじ、1896年〈明治29年〉10月1… 木村 清司(きむら せいじ、1896年〈明治29年〉10月12日 - 1980年〈昭和55年〉10月18日)は、日本の内務・厚生官僚、弁護士。官選福井県知事。 新潟県出身。長岡市長・木村清三郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。農商務省に入省し工務局属となる。 以後、工場監督官、鉱務監督官、国際労働会議政府代表顧問(1926年)、秋田県書記官・総務部長、内務省地方局財務課長などを歴任。 1939年4月、福井県知事に就任。戦時体制の整備に尽力。1940年12月、厚生省保険院社会保険局長に転任し、1942年4月まで在任。
深瀬 基寛(ふかせ もとひろ、1895年10月12日 - 1… 深瀬 基寛(ふかせ もとひろ、1895年10月12日 - 1966年8月21日)は、日本の英文学者、翻訳家。京都大学名誉教授。 高知県吾川郡春野町(現高知市)生まれ。1916年第三高等学校卒、1919年東京帝国大学卒。1920年京都帝国大学大学院入学、中学校教諭ののち、1922年松江高等学校教授、1925年三高講師、1927年教授、49年京大教養部教授、1958年10月定年退官、名誉教授、南山大学教授。1966年大手前女子大学教授。没後従三位贈位勲三等瑞宝章受勲。 マシュー・アーノルドやT・S・エリオットの紹介、研究に努めた。1955年、『エリオット』で第6回読売文学賞受賞。若いころ湯浅芳子に恋していたことが瀬戸内寂聴『孤高の人』に書かれている。
平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月1… 平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月16日)は、日本の農商務・農林官僚。内務官僚・平岡定太郎の長男。作家・三島由紀夫の父。少年時代の三島の執筆活動に大反対し、あえて悪役を買って出たことで、三島の反骨精神を目覚めさせて作家としての成長を間接的に助けた。息子・三島の死後は、その毒舌的なシニカルさや、ブラック・ユーモアの入り交ざった回想録『伜・三島由紀夫』を著し、貴重な三島資料を残したことで知られる。 1894年(明治27年)10月12日、東京府東京市赤坂区の日枝神社参道入口付近の家で、父・平岡定太郎(内務官僚)と母・永井なつ(東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女)との間の長男として誕生。
山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉1… 山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉10月12日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、日本の日本画家。高知県幡多郡出身。本名は伝三郎。 四条派の伝統の上に近代的な様式を加えた花鳥画で知られ京都画壇の重鎮であった。 1893年2月17日、高知県幡多郡に生まれる。 1918年山元春挙(早苗会)に師事、1926年、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)在学中に「麗日」が第7回帝展入選。1933年同校選科修了。同年、「菜園の黎明」が第14回帝展特選。 山元春挙没後の1939年、堂本印象(東丘社)に師事。 戦後は日展に出品を続けたほか、東丘社展・京展・関西展等で活躍。1958年の社団法人日展発足時に日展評議員就任。
南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)10月12日 - 1936年(昭和11年)6月22日)は、日本の小説家。
近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月… 近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。
明石 猛繁(あかし たけしげ、1891年(明治24年)10月… 明石 猛繁(あかし たけしげ、1891年(明治24年)10月12日 - 1941年(昭和16年)7月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 高知県香美郡美良布村(現在の香美市)で、明石秀太郎、秀の長男として生まれた。1910年(明治43年)県立第一中学校卒を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍経理学校(8期)を卒業した。三等主計に任官し歩兵第43連隊付となり、1920年(大正9年)歩兵第44連隊付となりシベリア出兵に従軍。 1928年(昭和3年)陸軍経理学校高等科を卒業。以後、近衛師団経理部員、陸軍被服本廠員兼陸軍経理学校教育部教官、関東軍司令部付などを務める。1938年(昭和13年)主計大佐に昇進。
高谷 道男(たかや みちお、1891年10月12日 - 19… 高谷 道男(たかや みちお、1891年10月12日 - 1994年3月21日)は、日本の経済学者。内村鑑三の弟子でジェームス・カーティス・ヘボンの研究家でもある。 1922年にシカゴ大学を卒業後、関東学院、明治学院の教授を経て、桜美林大学経済学部創立に尽力する。後に同大学経済学部長を務める。 1981年キリスト教功労者の表彰を受ける。 1891年(明治24年)香川県那珂郡丸亀町(現・丸亀市)の呉服町の家に生まれた。小学校の高学年の時に家の商売は借財と火災でたちまち傾き没落したが、家族親戚は高谷には勉学の見込みがあるとみて学問をさせようと努めた。東京高等商業学校(現一橋大学)に合格し育英会の奨学金と親戚の援助などで進学した。
原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10… 原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。特殊潜航艇の育ての親。 1890年(明治23年)10月12日、福島県耶麻郡長瀬村に生まれた。会津中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)9月12日、海軍兵学校41期に入学。同期生に草刈英治(会津中学の同級生)、大田実、保科善四郎らがいる。1913年(大正2年)12月19日、118名中47番の席次で卒業。少尉候補生として練習航海に従事。1914年(大正3年)8月11日、巡洋戦艦「比叡」に乗組。
村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1… 村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1968年8月8日)は、日本の商工官僚、政治家、実業家。商工次官、貴族院議員、法制局長官、綜合計画局長官。 栃木県宇都宮市出身。本籍・愛知県。村瀬七三郎の長男として生まれる。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、兵庫県立洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)、第五高等学校を経て、1914年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。1913年11月、文官高等試験に合格し、1914年7月、農商務省に入り農商務属・大臣官房文書課に配属された。 鉱業監督官、兼工場監督官、兼農商務参事官、法制局参事官、内閣書記官・内閣官房会計課長、法制局第二部長などを歴任し、その間1925年に農商務省が農林省と商工省に分割され、商工省に属した。
徳川 武定(とくがわ たけさだ、1888年(明治21年)10… 徳川 武定(とくがわ たけさだ、1888年(明治21年)10月12日 - 1957年(昭和32年)11月29日)は、大正・昭和期の海軍技術者、華族。海軍技術中将。工学博士。子爵。東京帝国大学教授。
秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月… 秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月12日 - 1958年(昭和33年)2月13日)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。 旧公家出身の伯爵大原重朝の二男であったが、元三春藩主で子爵の秋田映季に嫡男が居なかったため、その娘の芳子と結婚して秋田家を継いだ。養父の死去に伴い1907年(明治40年)3月6日、子爵を襲爵。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学を卒業。同年、逓信省臨時発電水力調査局雇となり、鉄道院技手、同技師などを務める。また、歌会始講頌となる。 1919年(大正8年)5月17日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属し貴族院が廃止された1947年(昭和22年)5月2日まで在任。
毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 19… 毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 1936年5月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の三男として生まれる。兄は陸軍少将毛内靖胤。弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、海軍兵学校(33期)、海軍大学校を経て、海軍大学校教官を務めた。佐世保海軍艦船部長、武蔵特務艦長、天龍、那珂、陸奥、尻矢、大泊艦長などを歴任した。航海術の権威で昭和7年(1932年)侍命となった。退役後は太平洋漁業会社顧問として、北洋漁業に関わった。 1936年(昭和11年)5月16日死去。同月18日に行われた葬送の際には、勅使が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
大平 得三(おおひら とくぞう、1882年10月12日 - … 大平 得三(おおひら とくぞう、1882年10月12日 - 1962年1月15日)は、日本の医学者、衛生学者。九州大学名誉教授、鹿児島県立大学初代医学部長・初代学長・名誉教授、医学博士。 山形県飽海郡酒田町(後の酒田市)本町生まれ。医師大平楨作(山形県済生館医学校元教授)の長男。1900年に旧制荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校および山形県立致道館中学校・高等学校の前身)を卒業。1904年に旧制第一高等学校(東京大学教養学部前期課程の前身)から、京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医科大学、九州帝国大学医学部、九州大学医学部)に2期生として入学。1908年12月に京都帝国大学福岡医科大学を卒業し、衛生学教室の助手となる。
山本 勝次(やまもと かつじ、1880年(明治13年)10月… 山本 勝次(やまもと かつじ、1880年(明治13年)10月12日 - 1928年(昭和3年)1月10日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 山本庄次郎の二男として静岡県浜名郡白須賀宿伝馬街(白須賀町、湖西町を経て現湖西市)に生まれる。小学校を卒業後、敷知郡新所村(浜名郡新所村、湖西町を経て現湖西市)の湖西高等小学校から浜松中学校を経て、1900年(明治33年)東京専門学校政治経済学科を卒業する。浜名郡会議員、白須賀町会議員、同町長、静岡県会議員、浜名郡農会長、県農会、県蚕業組合、県畜産組合の役員などを歴任した。1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第9区から憲政会所属で出馬し当選したが、任期満了を待たずして死去した。
山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - … 山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - 1957年3月21日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。第13代駒澤大学学長、駒澤学園創立者。号は霊岳。別名、天川(てんせん)。 佐賀県藤津郡能古見村(現・鹿島市)大野生まれ。1889年嬉野市永寿寺で出家得度。曹洞宗第一中学林(現・世田谷学園)、1906年(明治39年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。同年11月曹洞宗海外研究生としてインド、セイロン(スリランカ)に留学。1907年よりインド・カルカッタ大学大学院で梵語(サンスクリット)、インド宗教、インド哲学、インド文学を研究。1910年同大学で仏教思想系統論を講じる。1913年(大正2年)帰国。
三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12… 三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12日 - 1942年(昭和17年)5月25日)は日本の教育者。広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、哈爾浜学院院長と多くの学校のトップを務めた。
貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)… 貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)10月12日 - 1937年(昭和12年)11月2日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・野田。 郡長、税務署長、細川家顧問などを務めた熊本県人・野田慶幸の三男として生まれる。1900年(明治33年)貝谷弥三の養子となり、その長女・多美と結婚し貝谷に改姓。 小学校を卒業後に上京し、1899年(明治32年)7月、東京鉄道学校鉄道建設科を卒業し、鉄道作業局建設部、東京市土木技手、熊本県飽託郡道路組合嘱託、同県水力電気調査助手、天草郡吏員を歴任。 1905年(明治38年)4月、三池炭鉱に入社し、工手長心得、工手長、鉱務技士心得、鉱務技士、建築技師、庶務事務員などを務め、1926年(大正15年)10月に退職した。
保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12… 保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、島根県簸川郡出西村長。 島根県出雲郡阿宮村(簸川郡出西村、斐川村、斐川町を経て現出雲市斐川町阿宮)で、保科昌三郎の長男として生れ、1904年(明治37年)家督を相続。1892年に和仏法律学校(法政大学)を卒業する。1893年(明治26年)4月に上京し、1897年(明治30年)東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。農業を営む。 出西村会議員、学務委員、所得税調査委員に在任。1906年(明治39年)島根県会議員に選出され、同参事会員、出西村農会長、島根県農会幹事、簸川郡会議員なども務めた。
坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 … 坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 - 1944年11月14日)は、日本の官僚・内務技官。土木技師・土木工学者。関西高等工学校・関西高等工業学校(現:大阪工業大学)第2代理事長。工学博士(東京帝国大学)。内務省大阪土木出張所元所長。土木学会元関西支部長。元阪神上水道組合長。河川工学(特に淀川)の権威の一人。位階は従三位、勲等は勲三等。 専門は、土木工学・河川工学/海岸工学、水工学。 1874年宮城県仙台生まれ。1900年東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省第5区(大阪)土木監督署にて主任として、淀川第1工区改修工事に従事。1911年同省東京土木出張所に異動し、利根川第3期改修工事従事に従事。
林 愛作(はやし あいさく、1873年〈明治6年〉10月12… 林 愛作(はやし あいさく、1873年〈明治6年〉10月12日 - 1951年〈昭和26年〉2月10日)は、明治末から昭和前期のホテル支配人。帝国ホテルと甲子園ホテルで支配人を務めた。 群馬県山田郡下小林村(現在の太田市)の出身。父親が事業に失敗し破産したため11歳で上京し、神奈川県の横浜で親戚が営んでいたタバコ卸の下働きを通じて米国人キリスト教宣教師を知り、19歳で単身渡米して様々な仕事に就く。サンフランシスコの日本雑貨店「シバタ」で働きながら学び、店で知り合った米国女性の推薦と支援でマウントハーモンスクールに入学し、聖書と英語、ビジネスを学んだ。同校卒業後の1900年、ニューヨーク山中商会に入社し、東洋美術を扱う美術商としてニューヨークの社交界にも繋がりを持ち、フランク・ロイド・ライトやフェノロサとも知り合った。
萱野 長知(かやの ながとも、1873年(明治6年)10月1… 萱野 長知(かやの ながとも、1873年(明治6年)10月12日 - 1947年(昭和22年)4月14日 )は、日本の政治運動家・民間外交家で大陸浪人・アジア主義者の代表的人物のひとり。高知県出身。玄洋社社員。別名・鳳梨、無膓庵、微笑。 高知県土佐郡高知北門筋(現高知市永国寺町)で、萱野新作、糸の長男として生まれた。海南学校(現高知県立高知小津高等学校)、高知共立学校で学んだがいずれも中退。自由民権運動に傾倒する。1889年(明治22年)母方の従兄・深尾重亮が経営する大阪時事通信社の社員となる。1892年(明治25年)東京日日新聞に転じ上海通信員となり、佐世保時事新聞の経営も担った。中国語を学び、広東・香港でも新聞通信員を務めた。
藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明… 藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明治5年9月10日) - 1931年(昭和6年)1月15日)は、日本の倫理学者。 1872年、山形県東田川郡狩川村出身。旧姓は石川。号は館山。東京帝国大学を卒業。卒業後は早稲田大学教授を経て、1913年より京都帝国大学教授となった。丁酉倫理会会員。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4… 中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1946年(昭和21年)1月20日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 山形県出身。中里重威の二男として生れる。山形県中学校、攻玉社を経て、1893年12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「葛城」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年3月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生として学んだ。 その後、「明石」砲術長、海兵教官などを経て、日露戦争では「橋立」砲術長として出征した。「常磐」砲術長、軍令部参謀、海軍省軍務局員、イギリス駐在、「阿蘇」副長、軍務局員、軍令部参謀、「春日」艦長、「磐手」艦長、軍令部第2班長などを歴任し、1918年(大正7年)12月、海軍少将に進級。
千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年… 千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年8月28日)- 1943年(昭和18年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。陸軍少将、貴族院男爵議員。
添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(… 添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、埼玉県知事、山梨県知事、山形県知事などの要職を歴任した。 小浜県遠敷郡西津村(後の雲浜村西津、現・福井県小浜市)に、旧小浜藩士、福井県大飯郡長[要出典]、滋賀県神崎郡長[要出典]を務めた添田良平の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。東京帝大では一木喜徳郎のもとで学んだ[要出典]。同年7月、内務省に入省し内務属・庶務局地理課勤務となり、同年10月、兵庫県属・内務部第一課勤務に異動。
幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年… 幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年9月18日) - 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の東洋史学者、教育行政官。幼名・徳治郎(とくじろう)。名前の「坦」は「たん」と読まれることもある。 本職は朝鮮史を専攻する歴史家だが、戦前の統治行政・統治教育を推進した官僚、教育者としても知られている。 大阪府北河内郡門真村(現・大阪府門真市)の旧家である幣原家の長男として生まれる。父・新治郎は市川家に生まれ幣原家の婿養子となっている。坦の次弟は後に外交官・政治家として活動し戦後に内閣総理大臣となった幣原喜重郎である。 1882年(明治15年)泊園書院(現・ 関西大学)で漢学を学び、1893年(明治26年)東京帝国大学文科大学国史学科卒業。
木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈187… 木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈1870年10月12日〉 - 昭和6年〈1931年〉7月18日)は、主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。 通称「キムタカ」。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。 1870年(明治3年)9月18日、愛媛県宇和島市に生まれる。 明治学院を経て、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)史学選科課程に入学、後に同学哲学選科課程に転じて1893年7月修了。陸軍士官学校英語教授職等を務める。 1897年(明治30年)に井上哲次郎・湯本武比古らと大日本協会を組織、同年5月に機関誌『日本主義』を創刊し、日本主義を提唱する。
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2… 木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。尚江は本名。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩に代々仕えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年(明治7年)には巡査となっている。開智学校に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で自由民権運動が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には福沢諭吉『学問のすゝめ』を読んで感動する。1881年に長野県中学校松本支校入学。この頃オリバー・クロムウェルを知って革命を意識、また飯田事件の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。
島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、18… 島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、1867年10月12日(慶応3年9月15日)- 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 越前国勝山藩士・島田静虎、つるの長男(4男3女)として生まれる。京都で旧制中学校の教育を受けて上京し、大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月15日、農商務省に入省し試補となり参事官室に配属された。 1902年、農商務省参事官に就任。以後、林務官、鉱山監督兼農商務省参事官、臨時葉煙草取扱所建築事務官、林野整理局書記官、林務官兼山林局書記官兼農商務書記官などを歴任し、1907年1月、京都府事務官・第一部長兼第三部長となる。
棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(… 棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(慶応2年9月4日)- 1955年(昭和30年)12月11日)は、日本の化学者、実業家である。 新潟に生まれる。後に東京帝国大学(現在の東京大学)応用化学科に所属し、ヨウ素の研究に尽き、特に海藻から抽出された医薬品用のヨードを生産した、ヨウ化カリウムの製造方法の研究によって有名となった。なおこの化合物は後にマッチ製造の原料にもなった。その後も硝酸カリウムや塩化カリウム、クロム酸塩等の研究や開発に携わり、同化合物を用いた肥料も開発した。またこの頃に工学博士を取得している。 1893年(明治26年)に卒業後は多くの企業の設立に携わり、1908年(明治41年)には日本化学工業の設立に携わった。
上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(… 上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(文久3年 8月30日)- 1917年(大正6年)3月13日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県江沼郡動橋村長。 加賀国江沼郡動橋村(石川県江沼郡動橋村字動橋、動橋町を経て現加賀市動橋町)で生まれた。製油業を営む。石川県農工銀行取締役に在任。 動橋村長、江沼郡会議員を務めた。1897年(明治30年)6月、石川県会議員に当選したが、同年12月に失職した。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(石川県郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員に1期在任。1909年(明治42年)6月1日、衆議院議員選挙法違反事件の判決により当選が無効となった。
藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈18… 藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈1861年10月12日〉 - 昭和8年〈1933年〉12月23日)は、日本の数学者、統計学者、教育学者。東京帝国大学理科大学教授、帝国学士院会員、貴族院帝国学士院会員議員、理学博士。 明治期より日本の数学教育の確立と西欧の数学の移入に尽力した。 佐渡国(現: 新潟県佐渡市)に幕臣・藤沢親之の長男として生まれる。1882年、東京大学理学部を卒業、翌年からヨーロッパに留学し、ロンドン大学、ベルリン大学、ストラスブール大学に学ぶ。ストラスブール大学では幾何学の専門家のテオドール・ライエが担当したゼミナールに参加する一方、エルヴィン・クリストッフェルの下で偏微分方程式論などを研究し、同大学に学位論文を提出した。
織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月… 織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月9日) - 1939年(昭和14年)3月24日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。 尾張国中島郡日下部村(愛知県中島郡日下部村、大里村、稲沢町を経て現稲沢市)出身。織田文信の長男として生まれた。 1879年(明治12年)、中島郡役所雇となり、1885年(明治18年)に準判任官に昇進し、1888年(明治21年)には郡書記に任じられた。しかし翌年辞職して、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補、検事、判事を歴任したが、1902年(明治35年)に農商務省に移り、林務官、林務課長、主計課長、特許局審査官、特許局事務官を歴任した。
武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(… 武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(安政4年8月25日) - 没年不明)は、日本の政治家、銀行家。埼玉県大里郡榛沢村長。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。 埼玉県大里郡榛沢村(のち岡部町、現・深谷市)出身。兵助の嫡男。寺子屋に学び、私塾等にて漢学を研修する。農業を営む。戸長連合村副戸長を歴任する。 榛沢村助役に推され、10数年に亘り勤続して村長を補佐する。1894年4月に榛沢村長に就任し、1902年10月に退職する。榛沢村会議員を4期つとめる。 村政の元老で、多年自治開発に努力精進して名望が高かった。 武政家は旧幕時代、組頭をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
沢田 耕治郎(さわだ こうじろう、1850年10月12日(嘉… 沢田 耕治郎(さわだ こうじろう、1850年10月12日(嘉永3年9月7日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 近江国蒲生郡、のちの滋賀県蒲生郡桐原村(現近江八幡市)で生まれる。漢学と法律学を学ぶ。戸長、桐原村会議員、同村長、滋賀県会議員、徴兵参事員、地方森林会議員、近江米同業組合会議員、蒲生倉庫(株)取締役社長、蒲生銀行頭取となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙で再選を果たした。1904年の第9回衆議院議員総選挙で三選した。衆議院議員を3期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙で落選した。
大里 忠一郎(おおさと ちゅういちろう、天保6年8月21日〈… 大里 忠一郎(おおさと ちゅういちろう、天保6年8月21日〈1835年10月12日〉 - 明治31年〈1898年〉6月7日)は日本の実業家。 信濃国埴科郡西条村(現長野市)の旧家・相沢家に生まれ、松代藩士の大里忠右衛門の養子となる。家老の真田桜山に抜擢され、戊辰戦争にも従軍し、大垣で岩倉具定に松代藩の恭順を申し出、東山道鎮撫軍の監軍岩村高俊を上田に迎えた。戦後に藩主の真田幸民より賞典禄26石を賜った。松代藩産物会所に関係し、明治維新後は松代商法社の役人となった。また廃藩置県に伴う士族授産として製糸業に着目し、明治5年(1872年)に開業したばかりの官営富岡製糸場を視察の末、明治7年(1874年)に西条村六工地籍に六工社を有志ら7名と共に設立した。
菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年… 菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年9月9日) - 1893年(明治26年)5月4日)は、江戸時代から明治時代の武士(盛岡藩士)、実業家。明治期に盛岡一の大富豪となった。 陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市大迫町)にて盛岡藩上級武士の藤枝宮内家臣(藩主から見れば陪臣)菊池弥兵衛、セキの三男として生まれた。父弥兵衛は金吾を医者にしようと、紫波郡郡山駅(現在の紫波町日詰と二日町の上町・下町を合わせた通称地名)に住む木村某という医師に預けたが、数日で脱走し実家に帰った。 1826年(文政9年)、盛岡に出て藩の重臣である加判役の花輪伊豆守に仕えた。後に同藩士大石貫一郎家に養子として入り、大石金吾と名乗る。
森田 理紗子(もりた りさこ、10月12日 - )は、日本の… 森田 理紗子(もりた りさこ、10月12日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター。 ガールズバンド・きみとバンドのメインボーカル兼ギター。越前あわら観光大使。福井県あわら市出身。血液型はA型。 中学生の頃、いきものがかりの「花は桜君は美し」に衝撃を受け、音楽に関心を持ち歌を口ずさむようになる。その際、友達に何気なく「意外と歌上手なんだね」と言われたことをきっかけに歌手を志す。 高校2年生の頃から月に2回東京のスタジオに歌のレッスンに行き、ライブハウスに出るようになる。 高校卒業時に、父親にギターを買ってもらい、弾き語りを始める。 2013年「RISAKO」としてライブデビュー。 2015年にアーティスト名を「morimori」へ改名。
花乃 まりあ(かの まりあ、10月12日 - )は、元宝塚歌… 花乃 まりあ(かの まりあ、10月12日 - )は、元宝塚歌劇団花組トップ娘役。