安西 愛子(あんざい あいこ、本名:志村 愛子(しむら あい… 安西 愛子(あんざい あいこ、本名:志村 愛子(しむら あいこ)、1917年4月13日 - 2017年7月6日)は、日本の童謡歌手、声楽家、政治家。参議院議員(3期、自由民主党)、安西音楽研究所名誉会長、杉の子こども会名誉会長、日本会議副会長などを歴任。 東京府出身。杉並第七小学校、府立第五高等女学校(現東京都立富士高等学校)卒業後、東京音楽学校声楽科に入学。在学中には浅野千鶴子、長坂好子、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 1942年、同校研究科卒業。コロムビアレコード専属の歌手となる。 1949年には松田トシと共にラジオ番組『うたのおばさん』(NHKラジオ第1放送)に出演、1964年まで番組を担当する。
稲葉 誠治(いなば せいじ、1917年4月13日 - 200… 稲葉 誠治(いなば せいじ、1917年4月13日 - 2001年11月20日)は、静岡県出身の元野球選手(投手)・監督。 静岡の少年野球の強豪・掛川第一尋常高等小学校時代は全国大会に出場し、小学校の一学年上には享栄商業~巨人軍の名捕手・中山武がいた。 旧制岡崎中学校では捕手の佐藤武夫とのバッテリーで黄金期を作り上げ、1935年の夏の甲子園愛知大会では決勝で愛知商業に2-0で敗退。 慶應義塾大学に進学後は、1939年秋季と1940年春季のリーグ優勝に貢献し、1941年には東大戦でノーヒットノーランを達成するなど戦前の東京六大学リーグで活躍。 戦時中はニューギニアで陸軍伍長として兵役に就き、終戦後に帰国。
村井 七郎(むらい しちろう、1917年4月13日 - 19… 村井 七郎(むらい しちろう、1917年4月13日 - 1993年2月21日)は、日本の官僚(大蔵省)。大阪府出身。
豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13… 豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13日 - 2007年(平成19年)2月9日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。筆名は冬欅。 福岡県筑紫郡席田村下月隈(現福岡市博多区下月隈)で生まれる。1937年(昭和12年)福岡師範学校本科第二部を卒業。その後、九州大学教育学部を修了した。 1937年、福岡市吉塚小学校教諭に就任。以後、東住吉国民学校、東光国民学校、馬出国民学校で勤務。戦後、福岡市立東光中学校教諭に就任した。また労働運動に加わり、福岡県教職員組合連合会長(1948-1949)、福岡県中学校教職員組合委員長(1949-1951)、第2代福岡県教職員組合委員長(1951-1953)を歴任した。
南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年… 南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は松角 知己男(まつかど ちきお)。1936年(昭和11年)に大都映画に入社して助監督となり、その後、大毎東日映画部、日本映画社、満洲映画協会を経て、第二次世界大戦後に独立した。1964年(昭和39年)から成人映画を手がけ、黎明期の作家とされる。第八芸術映画プロダクション代表、「亜細亜文化振興会」情報部長を歴任した。 1916年(大正5年)4月13日、長崎県北高来郡湯江村(現在の同県諫早市高来町湯江)に生まれる。叔父に新国劇理事を経て、戦後、東宝取締役、東宝舞台代表取締役社長を歴任した俵藤丈夫(1893年 - 1964年)がいる。
笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 197… 笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 1970年9月16日)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手)。
藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 199… 藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 1996年1月25日)は、日本の政治家。叙正三位勲一等旭日大綬章。 井原市名誉市民。労働大臣、大蔵政務次官などを務めた。 岡山県井原市出身。興譲館中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部卒業。東大法学部では、矢部貞治に師事。帝国石油に就職したが短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。第101燃料廠に配属されバリックパダンに赴任。同廠スラバヤ出張所主任を経て、1943年11月、海軍主計大尉に昇進し同廠会計部員に就任。1944年9月、海軍省軍務局御用掛兼軍需省軍需官となり終戦を迎えた。
坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4… 坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4月13日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、日本の武道家。段位は空手道範士九段、剣道範士七段、居合道範士八段、杖道教士七段。空手家の摩文仁賢和の高弟で、糸洲派正統第三世を継承した。本名、坂上博一(ひろかず)。 1915年兵庫県川西市生まれ、8歳より剣道を伊丹市の修武館道場で学び、後に富山円、志賀矩両範士に師事する。14歳の時に、地元在住、沖縄県出身の玉城より、松茂浪派(泊手)の空手を学ぶ。1933年より居合道無双直伝英信流を穂岐山波雄、福井春政両範士に学ぶ。 1935年4月、国士舘剣道科(現・国士舘大学)に入学。在学中に、沖縄県出身で同期の石川春善と共に、当時笹塚に住んでいた屋比久孟伝より空手道並びに琉球古武道を学ぶ。
平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 201… 平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 2013年7月21日)は、日本の洋画家。 東京都の三宅島出身。白日会会員として白日会展において中沢賞、内閣総理大臣賞を受賞。日展文部大臣賞を受賞。 1992年に『TOKYO』で日本芸術院賞を受賞し、1995年に日本芸術院会員となる。元日展顧問。 三宅島出身ということもあり、風景画を得意としていた。 2013年7月21日、急性肺炎により死去。99歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大宮 敏充(おおみや としみつ、1913年4月13日 - 1… 大宮 敏充(おおみや としみつ、1913年4月13日 - 1976年12月23日)は昭和時代に浅草を中心に活躍したコメディアンである。本名は、恒川 登志夫。大宮デン助はあるいは単にデン助という愛称で広く知られている人物。彼が演じるキャラクター「デン助」は戦後浅草喜劇界やテレビで一世を風靡した。脚本を執筆する際の、ペンネームは言問 三平。
大宮 敏充(おおみや としみつ、1913年4月13日 - 1… 大宮 敏充(おおみや としみつ、1913年4月13日 - 1976年12月23日)は昭和時代に浅草を中心に活躍したコメディアンである。本名は恒川 登志夫(つねかわ としお)。 「大宮デン助」はあるいは単に「デン助」という愛称で広く知られている人物。彼が演じるキャラクター「デン助」は、戦後浅草喜劇界やテレビで一世を風靡した。脚本を執筆する際のペンネームは「言問 三平」。 東京府東京市浅草区(現:東京都台東区浅草)生まれ。旧制第二東京市立中学校※五年制(現:東京都立上野高等学校)を3年で中退後、当時のスター歌手・田谷力三に憧れ芸能界入り。実家からは勘当され独力でタップダンスを習得、これを糧にする。1939年、26歳にて大宮登志夫の芸名で一座を結成。
杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006… 杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006年8月1日)は、日本の文部官僚。文部省大学学術局長、国立科学博物館長、公立学校共済組合理事長などを歴任した。 愛知県出身。東京商科大学付属商業教員養成所を経て、1941年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学では米谷隆三ゼミナールに参加。 東京明治工業専門学校(現明治大学理工学部)教授、文部省初等中等教育局職業教育課長、文部省初等中等教育局中等教育課長、文部省大臣官房人事課長、文部省調査局長を経て、文部省体育局長として東京オリンピックの準備にあたった。 1962年1月から文部省管理局長を務めたのち、1964年から文部省大学学術局長として大学の学部学科増設や大学闘争への対応などにあたった。
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 19… 高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日)は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。 東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。 1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。 1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し、入選する。
横田 信夫(よこた のぶお、1911年4月13日 - 197… 横田 信夫(よこた のぶお、1911年4月13日 - 1978年1月23日)は、日本の経営者。岡山県出身。 1932年に高等試験行政科に合格し、1933年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。逓信省での勤務を経て、1950年8月に日本電信電話公社理事に就任し、1959年9月から1962年9月までに副総裁を務めた。1963年5月に富士重工業社長に就任し、1970年5月から1971年11月までに会長を務めた。NHK経営委員も務めた。妻は波子(藤岡郊二の長女)である。 1978年5月12日急性心不全のために死去。67歳没。
植村 實(うえむら みのる、1910年4月13日 - 196… 植村 實(うえむら みのる、1910年4月13日 - 1966年5月31日)は、日本の経営者。東京都出身。 1933年に東京帝国大学法学部法科を卒業。住友合資、住友本社での勤務を経て、1955年に住友林業社長に就任。 1966年5月31日在職中に心筋梗塞のために死去。56歳没。
上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月… 上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月13日 - 1996年 <平成8年> 8月20日)は、日本の経営者。大正製薬社長、会長を務めた。静岡県下田市出身。位階は従五位。 夫は大正製薬社長、参議院議員などを歴任した上原正吉。正吉との間には実子は無く、そのため実兄の次男である上原昭二を養子に迎えている。 1955年7月に大正製薬取締役に就任し、1962年9月に副社長を経て、1965年6月には社長に就任。1966年9月に副社長、1973年5月に副会長、1981年6月に会長。当時は政治活動等で多忙な正吉に代わり、大正製薬の経営を実質的に采配しており、一部では「ゴッドマザー」とも称された。
湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13… 湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13日 - 1994年(平成6年)10月19日)は、日本のアララギ派の歌人。ペンネーム: 杉 鮫太郎(すぎ さめたろう)、岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1908年(明治41年)岡山県岡山市に住む父・湯浅立太郎、母・いなよの長男として出生する。その後、父が警察官であるため、岡山県内を転々と転勤し、岡山市内の小学校から、旧制岡山県立第二中学校(現:操山高校)入学を経て、旧制津山中学(現:津山高校)、旧制高梁中学(現:高梁高校)へ転校する。高梁中学を1928年(昭和3年)に卒業する。 同年(昭和3年)、岡山県警察部へ就職し、通信技手として働く。
秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年… 秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年3月25日)は、日本の医師。医学者。専門は微生物科学。元北里大学学長。旧姓は藤松。細菌学者の秦佐八郎の養子となった。 長野県東筑摩郡会田村(現・松本市)出身。1934年慶應義塾大学医学部卒業。内科入局、助手、1934年12月 - 1936年3月、短期現役軍医、1936年北里研究所研究員となり(生化学、藤田秋治部長)、1938年7月 - 1945年12月、軍務(山西省陸軍病院、東京第一陸軍病院)、1939年医学博士。論文の題は「組織内Cytoclirom C定量法の研究」。 1948年北里研究所同研究所長、1954年8月-1955年11月、ラトガース大学微生物研究所留学、1961年北里研究所所長。
村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 -… 村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 - 1991年12月23日)は、日本の西洋史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。 1907年、東京帝国大学教授・村川堅固の長男として東京浅草に生まれた。成蹊中学、浦和高等学校を経て、東京帝国大学西洋史学科に進んだ。1930年に卒業。 卒業後は、第一高等学校教授となった。1940年、東京帝国大学助教授に就任。戦後の1947年に教授昇格。1968年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。1967年に日本学士院会員に選出された。 1970年1月7日には講書始の儀で進講者をつとめ、「アリストテレスと歴史学」を講義した。1991年に死去。 父に続いて西洋史研究を進め、ラテン語辞典編纂Thesaurus Linguae Latinae編纂などを通して、日本における古代ギリシャ、ローマ研究の基礎を築いた。
佐藤 貫一(さとう かんいち、1907年4月13日 - 19… 佐藤 貫一(さとう かんいち、1907年4月13日 - 1978年2月26日)は、日本の刀剣学者。(財)日本美術刀剣保存協会常務理事。刀剣博物館副館長。貴ノ花後援会会長。号は寒山。 日本刀研究の権威として知られる[要出典]。特に新刀の研究で知られ、古刀の研究で知られる本間薫山と並んで、しばしば両山と呼ばれる[要出典]。 栄典・称号は従四位・勲三等・瑞宝章・文学博士(國學院大學)・剣道教士七段。
水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月1… 水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月13日 - 1976年〈昭和51年〉12月22日)は、日本の政治家。位階は従二位。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度にわたり務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家でもある。 千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐(現在の香川県)の地から移住してきた家系とされる。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長を務めた。旧運輸事務次官と日本航空副社長を務めた町田直は妻の実弟である。実家は、旧水田家住宅として保存されている。 旧制安房中学校(現・千葉県立安房高等学校)、旧制水戸高等学校(茨城大学の前身校)を卒業し、東京帝国大学を当初は志望したが、学生連合会の要請で親友の宇都宮徳馬とともに京都帝国大学(法学部)に入学した。
木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月1… 木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月13日 - 1986年〈昭和61年〉10月10日)は、日本の航空機設計者。航空機研究者。工学者。航空工学教育者。東京帝国大学教授、日本航空学会会長等を歴任。戦後は日本大学で後進の育成にあたり、1974年(昭和49年)から日本大学名誉教授。 日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、日本初の飛行を実現させた。 1904年(明治37年)、北海道にて出生。木村家の先祖は南部藩士であり、五戸(現在の青森県三戸郡五戸町)にて代々代官を務めていた。
永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904… 永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904年4月13日 - 1985年2月22日)は、将棋棋士。飯塚勘一郎八段門下。棋士番号は21。栃木県佐野市生まれ。 東京府立工業高等学校卒業後、1929年(昭和4年)に飯塚勘一郎八段に入門。 翌1930年(昭和5年)、初段昇段。 1937年(昭和12年)、四段昇段。 戦後に開始された順位戦(1946年〈昭和21年〉)には主旨不賛成のため参加せず。 その後、現役を引退。奨励会幹事を務める傍ら、長く観戦記執筆を手掛ける。 1948年(昭和23年)、五段昇段。 1950年(昭和25年)、六段昇段。 現役当時から文筆に長じる。 雑誌「将棋研究」(将棋研究会)でも執筆を行う。
佐藤 武(さとう たけし、1903年4月13日 - 1978… 佐藤 武(さとう たけし、1903年4月13日 - 1978年12月8日)は、日本の映画監督である。松竹蒲田撮影所から東宝映画、戦後の新東宝へと転身した。 1903年(明治36年)4月13日、東京府荏原郡目黒村(現在の東京都目黒区)に生まれる。 1932年(昭和7年)ころに、松竹キネマの松竹蒲田撮影所演出部に入社、清水宏、島津保次郎に師事する。同年、詳細不明の映画『かくて田園は輝く』で監督としてクレジットされているが、このころの佐藤は、サード助監督程度のランクにいた。 1938年(昭和13年)、東宝映画の東宝映画東京撮影所に入社、『チョコレートと兵隊』で監督に昇進する。 第二次世界大戦終了後の1947年(昭和22年)、新東宝映画製作所(のちの新東宝)設立に参加、同社の初年度に『九十九人目の花嫁』を監督する。
薮田義雄(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2… 薮田義雄(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2月18日)は、日本の詩人。 神奈川県小田原市生まれ。旧制小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた。 関連資料が小田原文学館に展示されている。
三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月1… 三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月13日 - 1987年(昭和62年)11月25日)は、昭和期の漁業経営者・政治家。衆議院議員。 石川県金沢市出身。1927年(昭和2年)金沢医科大学附属薬学専門部を卒業した。 北海道白老郡白老村(現白老町)に移住し、漁業、薬局、整骨院を営む。1933年(昭和8年)から1947年(昭和22年)まで白老村会議員に在任。所得税調査委員、白老商業協同組合理事長、苫小牧工業学校(現北海道苫小牧工業高等学校)嘱託教師、胆振漁業会会長などを務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第4区から民主党所属で出馬して当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選し、衆議院議員を1期務めた。
小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月… 小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月13日 - 1996年(平成8年)8月29日)は、日本の歴史学者。成蹊大学名誉教授。愛知県出身。 1901年(明治34年)、愛知県愛知郡天白村(現在の名古屋市天白区)に小島万太郎の子として生れる。1919年(大正8年)に愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業、1923年(大正12年)3月に神宮皇學館本科を卒業と同時に神宮文庫司書兼神宮皇學館助手に任じられる。同年12月、一年志願兵として名古屋歩兵第六連隊に入隊、終えて東京帝國大學史料編纂業務嘱託、その後同大学史料編纂官補。 小島家は代々、熱田神宮大宮司領の庄屋として村方役をつとめ、父も鉦作が熱田神宮の神職になることを期待していた。
佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 … 佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 - 1936年4月10日)は、日本の地理学者。民俗学・経済学・社会学的な研究を加味して人文地理学を追究した。1930年前後に目覚ましく活躍するものの、36歳で亡くなり、研究生活は10年間にとどまった。 1901年、秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)で生まれる。幼くして父母を亡くし、祖母に育てられる。小学校卒業とともに広島県呉市に住む叔父にひきとられ、広島県立呉中学校(現在の広島県立呉三津田高等学校)で学ぶ。卒業後は第二高等学校(現在の東北大学)文科に入学した。休日ごとに仙台の周辺を歩いたという。卒業後は東京帝国大学理学部地理学科に進み、山崎直方・辻村太郎・多田文男らの指導を受ける。
安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月1… 安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月13日 - 1974年 <昭和49年> 6月24日)は、日本の経営者。大分県別府市出身。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 1926年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。藤本ビルブローカー銀行での勤務を経て、1943年に大和証券に転じ、1948年に取締役に就任した。常務、専務、名古屋支店長を経て、1958年11月に副社長に就任し、1963年4月に社長に昇格し、1970年11月までに務めた。経済団体連合会常任理事も務めた。 1974年6月24日脳出血のために死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙され、勲二等旭日重光章を追贈された。
飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月1… 飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月13日 - 1993年(平成5年)11月18日)は、日本の実業家。髙島屋社長・会長を務めた。京都府京都市出身。 髙島屋副社長を務めた飯田忠三郎の次男として生まれる。 1926年に慶應義塾大学法学部卒業後、高島屋へ入社。大阪支店長、常務、専務を経て、飯田直次郎社長の急逝に伴い、1952年2月に創業者一族3代目の社長に就任。横浜、ニューヨークへ出店するなど多店舗化を進め、トップマネジメントの強化を図り、組織を合理的に改革し、人事を刷新して新しい時代に即応する近代的な経営管理方法を推進した。1960年に会長に退き、新社長には飯田直次郎の長男である飯田新一が就任した。
関口 春次郎(せきぐち はるじろう、1900年4月13日 -… 関口 春次郎(せきぐち はるじろう、1900年4月13日 - 1978年1月22日)は、日本の金属工学者。名古屋大学名誉教授。日本学士院賞受賞。溶接工学の開拓者で溶接学会会長も務めた。 栃木県出身。1921年東北帝国大学工学部専門部機械科を卒業。米沢工業学校(現山形県立米沢工業高等学校)で教諭として働く。1930年には東北帝国大学工学部金属工学科を卒業。釜石鉱山に入社すると釜石鉱業所の工務調査課に配属され、藤田俊三のもとで働いた。その後もう一度勉強がしたいと思い立ち釜石鉱山を退職。1938年東北帝国大学金属材料研究所助教授。1940年工学博士。1941年名古屋帝国大学工学部教授。1952年溶接学会会長。
小川 久義(おがわ ひさよし、1900年(明治33年)4月1… 小川 久義(おがわ ひさよし、1900年(明治33年)4月13日 - 1954年(昭和29年)5月25日)は、日本の政治家、参議院議員(2期) 富山県上新川郡針原村小西(現・富山市)の農家に生まれる。新庄尋常高等小学校(現・富山市立新庄小学校)を卒業。農業のかたわら地元の青年団や農業会のリーダーとなる。青年団時代は短距離走の選手として鳴らし、農業会では早くから針原村農業会長を務める。 1946年(昭和21年)春、推されて県農業会の副会長に就任。 1945年12月に結成されたばかりの日本農本党の幹事長に選ばれ、農業会を中心に政治活動を行う。また農業団体の再編成が行われたのに伴い,県農協連絡協議会会長となる。
権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月1… 権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月13日 - 1961年(昭和36年)11月3日)は、唱歌「たなばたさま」作詞者・童謡詩人。本名は権藤はなよ。結婚前は伊藤はなよの旧姓で作品を発表、結婚後はペンネーム権藤はな子を使っていた。2008年頃までは、「権藤花代」という漢字名が使用されていたが、その後は本名の「権藤はなよ」が一般的になっている。実兄の伊藤生更はアララギ派の歌人であり、短歌結社「美知思波」を創立している。 1899年(明治32年)山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に、父・伊藤友重(ともじゅう)、母・やよの次女として生まれる。 1919年(大正8年)山梨県師範学校(現・山梨大学)を卒業。
田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 197… 田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 1978年12月1日)は、岡山県出身の教育者。 1898年4月13日 岡山県小田郡旧小田町(現・矢掛町)に生まれた。 岡山県立矢掛中学(現・岡山県立矢掛高等学校)卒。 1918年7月 第三高等学校 (旧制)卒。 1923年3月 東京帝国大学経済学部卒。 1923年4月 松山高等商業学校教授。 1930年 - 1932年ドイツ留学。 1934年10月 松山高等商業学校第三代校長に就任。 1944年3月 松山高等商業学校が松山経済専門学校へ名称変更することに伴い松山経済専門学校校長就任。 1947年2月 占領政策の教員適格条項に触れ同校校長辞任。
高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)… 高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)4月13日 - 1974年(昭和49年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板町針生に生まれる。旧制 大田原中学校 卒業(明治45年、第6回卒)。矢板町会議員、栃木県会議員を経て、1942年(昭和17年)に矢板町長に就任。町長は1945年(昭和20年)10月31日まで務めた。 1955年(昭和30年)2月、合併に伴う矢板町長選挙に立候補したが大島喜一郎に敗れた。その後、1959年(昭和34年)2月の矢板市長選挙で当選し、市長は1963年(昭和38年)2月16日まで務めた。市長在任中には、小学校の改築や道路整備などを行い市勢の発展に尽力した。
阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日… 阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日 - 1972年〈昭和47年〉1月2日)は、日本の技術官、実業家。 逓信省、東京市、鉄道省に勤務した後、北海道新聞社社長となり、北海道放送を設立して初代社長を務めた。 阿部宇之八の三男として札幌区に生まれる。札幌区創成尋常小学校、札幌区創成高等小学校、北海道庁立札幌中学校を経て、1911年(明治44年)第一高等学校第二部甲類に無試験検定で入学、1914年(大正3年)同校第二部工科卒業。1917年(大正6年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。 同年逓信省に入省。翌1918年(大正7年)に九州逓信局水力課長となり、九州各地の河川水を発電に利用するための水量調査を行った。
徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 19… 徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は、日本の弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。本名は福原駿雄(ふくはら としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長。
大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日… 大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日 - 1950年4月5日)は、現在の福岡県糸島市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉村 嘉右衛門。最高位は東関脇(1922年1月場所)。現役時代の体格は175cm、101kg。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。非力ながら出足は鋭かった。 福岡県志摩郡芥屋村(のち糸島郡芥屋村→同志摩村→同志摩町、現在の糸島市)出身。1909年1月山分部屋から初土俵を踏む。後に出羽海部屋に移籍する。四股名は故郷の名勝「芥屋の大門」に因んだ。順調に昇進し1914年1月十両、1917年1月入幕した。175cm、101kgの体でもろ差し、右四つを得意とし、上手出し投げも得意とするなど技巧派。
井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 -… 井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 - 1976年3月4日)は、ジャーナリスト、社会学者。 和歌山県出身。東京帝国大学卒。1916年東京日日新聞社入社、大阪毎日新聞社出版局次長。1946年創刊の「新大阪新聞」主筆。1949年関西大学教授、60年定年、1966年追手門学院大学教授。1959年「社会交通と文化交流に就いての社会学的考察」で関西大学文学博士。
飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月1… 飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月13日 - 1946年(昭和21年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、弁護士。 茨城県筑波郡真瀬村(現在のつくば市)出身。飯野茂吉の二男として生まれ、1910年(明治43年)に茨城県会議長飯村忠七の婿養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学を卒業後、一年志願兵制度によって陸軍三等主計に任じられた。退役後は弁護士を開業した。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。その間、米内内閣で厚生参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会を結党にも参加している。
石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1… 石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1962年1月17日)は、日本の作曲家。日本にレオ・オーンスタインのピアノ曲を紹介した。 福島県相馬郡長塚村(現在の双葉町)出身。1906年、19歳のとき相馬中学を卒業後、半年ほど代用教員を勤めた。その年の9月にアメリカに渡った。カリフォルニア州サクラメントで女性音楽家のベリングスにピアノと英語を学び、サンノゼ市のパシフィック大学音楽部に入学、ピアノと作曲を学んで1918年卒業。 1920年帰国後、朝鮮総督府社会課長として平安南道に赴任。この時李王家から依頼されて朝鮮雅楽の研究も行い、15年をかけて五線譜に書き写し、計283曲、五千ページに及ぶ業績を遺す。
勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4… 勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4月13日 - 1936年(昭和11年)11月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・勧修寺顕允の長男として生まれる。父・顕允の死去に伴い、1900年(明治33年)10月4日、家督を相続し伯爵を襲爵(しゅうしゃく)した。 1908年(明治41年)東京高等農学校を卒業。1910年(明治43年)以降、殿掌、掌典、陵墓監、同志社女子専門学校講師、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)講師などを務めた。 1919年(大正8年)6月14日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月… 久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月13日 - 1976年(昭和51年)1月27日)は、日本の鉄道官僚。工学博士。貴族院男爵議員。 男爵・文部大臣久保田譲の長男として生まれ、1936年(昭和11年)に襲爵した。1905年(明治38年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。アメリカ合衆国に留学し、鉄道・橋梁建築を学んだ。帰国後、鉄道院雇、同技師、東京建設事務所長、鉄道省建設局線路調査課長、同工事課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道省運輸局長、鉄道次官などを歴任した。運輸局長の時には外国産のバスに押されていたところ、国産バスの開発推進を菅健次郎に指示した。 1934年(昭和9年)に退官した後は、鉄道協会理事、大日本体育協会専務理事、東京オリンピック組織委員会事務局長などを務めた。
大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1… 大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1936年6月2日)は、日本の心理学者。かつ真言宗智山派の僧である。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)生まれ。幼年の時期に長久寺・鈴木快秀の下に出家し真言宗智山派の僧籍を持つ。日本において最も早い時期に、欧米の実験心理学を紹介した人物の一人である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、心理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ 心理学)。 この項目は、社会科学に関連した書きかけの項目です。
高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 19… 高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 1948年2月2日)は、明治期から昭和期の日本の文芸評論家、評論家。 大阪府出身。本名は芳次郎(よしじろう)。為替貯金管理所勤務から1898年に上京して、早稲田大学文学部英文科卒。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行、また佐藤義亮が創刊した『新声』の編集に加わり、文芸時評で活躍。当時の同僚に金子薫園や千葉亀雄など。その後、「国民新聞」「東京毎日新聞」「二六新報」などの記者を務める。1901年、『文壇照魔鏡』で与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられた。のち明治文学史、水戸学の研究に専念、昭和期には国粋主義・軍国主義に走った。1940年「大日本史に現はれた尊皇精神」で日本大学文学博士。
伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 19… 伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 1930年4月19日)は、日本の教育者。東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の初代校長として大正自由教育運動(欧米では「新教育運動」)を担い、当時としては画期的な教育を次々と打ち出した型破りの教育者として知られる。 明治10年(1877年)4月13日、長野県諏訪郡四賀村五八五七番地(現・諏訪市四賀普門寺)で、富農の伊藤孫右衛門の三男として生まれる。母は河西兵四郎の長女・りか。長七が3歳のときに母が死去したため、祖母のなかに育てられた。 幼少より神童と囃され、入学年齢よりも1年早く就学した。上桑原学校初等科を経て、1888年、郡立諏訪高等小学校3年に編入。
15代 榎本 次郎右衛門(えのもと じろううえもん、1876… 15代 榎本 次郎右衛門(えのもと じろううえもん、1876年(明治9年)4月13日 - 1926年(大正15年)5月11日)は、明治時代後期から大正時代の政治家。衆議院議員(1期)。 先代榎本次郎右衛門の子として千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て現在の我孫子市)に生まれる。小学校、中学校を経て、東京法学院を卒業し、家業の農業を手伝う。布佐町会議員を経て、同町長を4年務め、東葛飾郡会議員、千葉県会議員などを歴任する。ほか、会社、銀行の重役を務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では千葉県郡部から憲政会所属で出馬し当選。1期務めた。
高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13… 高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13日 - 1947年〈昭和22年〉1月25日)は、日本の国文学者、作詞家。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)(学位論文「日本歌謡史」)。号は斑山(はんざん)。 1876年、長野県水内郡永江村(現・中野市永江)の豪農の家に生まれた。1887年、豊津学校永江支校小学中等科を卒業。1890年3月、下水内高等小学校高等小学科を卒業。 1890年5月、永田尋常小学校授業生(代用教員)となった。しかし3年後の1893年、長野県尋常師範学校に入学。1897年3月には同師範学校を卒業した。1897年4月からは下水内高等小学校訓導となった。1898年6月、国語科の師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状を取得。
佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治… 佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治8年)4月13日 - 1926年(大正15年)3月6日)は、日本の仏教学者・教育者。大谷大学教授、第3代大谷大学学長。大谷大学の組織と研究方針を確立させた人物として知られる。清沢満之門下。著作に『親鸞聖人伝』、『支那浄土教史』などがある。 1875年(明治8年)、愛知県碧海郡古井村(現・愛知県安城市)にある真宗大谷派の願力寺に生まれた。乳は山田才相、母はつやまであり、次男だった。 幼少時、大分県日田郡日田町の咸宜園(大谷派長福寺の学寮を起源とする)に学び、1888年(明治21年)、東本願寺が設置した三河育英教校に入学。その後、1893年(明治26年)、実質的に東本願寺の運営だった京都府立尋常中学校に編入し、翌年には東本願寺設置の京都第一中学寮に入学した。
柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1… 柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1955年6月19日)は、日本の大正から昭和時代前期にかけて活動した歌人、作詞家。鳥取県出身。 1875年(明治8年)、鳥取市藪片原町に生まれる。1896年(明治29年)に鳥取県尋常師範学校を卒業後、県内各地の小学校訓導を経て東京高等師範学校国文科へ入学し、1903年(明治36年)に卒業する。 旧制都城中学校で教諭を1年間務めた後、1904年(明治37年)に岐阜高等女学校へ転任。和歌や長詩を嗜み、1908年(明治41年)に文部省が懸賞募集した新体詩で第一部二等に入賞する。1915年(大正4年)11月に執り行われた大正天皇の御大典記念事業として京都市が歌詞を募集した「京都市歌」で応募作が二等に入賞したが、一等は「該当作なし」となったため柏木の応募作が採用となり、1951年(昭和26年)に現行の市歌へ代替わりするまで歌い継がれた。