斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - … 斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - 2004年)は大阪府出身の経営者、サッカー選手。 父親は貿易商であり大阪府で生まれた。 帝塚山学院小学校、桃山中学校を経て、関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学。在学中はサッカー部に所属し1年次よりスタメンGKに定着。同級生に後藤靱雄がおり、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝するなどの成績を残した。 1930年3月に卒業。同年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場し、大会優勝に貢献した。
大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門… 大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門 經輝、1908年〈明治41年〉9月24日 - 没年不詳)は、日本の華族(侯爵)。貴族院侯爵議員、理学博士。 侯爵・大炊御門幾麿と保木江んの息子(庶子)として生まれる。父の死去に伴い、1919年11月21日に侯爵を襲爵。1933年、京都帝国大学理学部を卒業し、さらに同大学院を修了。のちに理学博士号を授与された。1938年9月23日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1935年以降、東京科学博物館嘱託、海軍省軍需局嘱託、帝国石油社員などを務めた。 宗教は仏教。住所は東京豊島区池袋。
吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 19… 吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 1986年1月4日)は、日本の文芸評論家・美術評論家。 福岡県生まれ。本名・彌吉三光(やよし かずみつ)。早稲田大学文学部独文科卒。雑誌記者をへて戦後『新婦人』編集長、のち杉野女子大学教授。福士幸次郎の晩年の弟子。文芸評論のほか日本文化や日本美術、中国美術の評論を多く書いた。特に川端康成を高く評価した。
川野辺 静(川野邉 静、かわのべ しづ、1907年(明治40… 川野辺 静(川野邉 静、かわのべ しづ、1907年(明治40年)9月24日 - 2003年(平成15年)4月25日)は、日本の政治家、小児科医。位階は正五位。参議院議員(1期、自由民主党)。 静岡県静岡市出身。7人兄弟の長女。不二高等女学校を経て、1930年に東京女子医学専門学校を卒業。同附属病院の小児科医局長となる。帰郷後、1935年に焼津市で小児科医院を開業、2年後には静岡市に移転。静岡大火や空襲でたびたび被災するが、恩師の吉岡彌生からの医療器具の寄付や、趣味の日本舞踊を通じて懇意にしていた尾上菊五郎(6代目)の見舞金に助けられたという。 1951年、静岡市議会議員に当選。児童福祉事業中心に活動、静岡県婦人団体連絡会の会長となる。
井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1… 井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1988年11月5日)は、日本の経営者。淀川製鋼所社長、会長を務めた。宮崎県出身。 1934年に京都帝国大学法学部を卒業。京都市役所での勤務を経て、1939年に淀川製鋼所に転じ、1944年に常務に就任し、1957年5月に専務を経て、1962年に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1977年6月に相談役に就任。 1988年11月5日肝不全のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大島 研三(おおしま けんぞう、1907年(明治40年)9月… 大島 研三(おおしま けんぞう、1907年(明治40年)9月24日 - 2008年(平成20年)4月1日)は、日本の内科学者である。 愛知県名古屋市に生まれ、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)に入学する。1931年(昭和6年)に卒業後は同大学の教授だった呉建が担当する内科教室に所属し、筋ジストロフィー発症の実験的研究に携わったことで1938年(昭和13年)に医学博士を取得した。その後は都立養育院付属医院の院長を経て、戦後当時二大腎臓病であった腎結核や高血圧による動脈硬化の研究にも携わる。 1953年(昭和28年)には日本大学の教授となり、教鞭を執る傍ら血液透析機器の普及等にあたった。
森 恭三(もり きょうぞう、1907年9月24日 - 198… 森 恭三(もり きょうぞう、1907年9月24日 - 1984年2月15日)は、日本の新聞記者。朝日新聞所属。 兵庫県西宮市出身。父は神戸市の外国商館に勤務し、兵庫県立第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)に進学したが、在学中に父を失う。1930年、東京帝国大学法学部を卒業後、大阪朝日新聞社に入社。東京帝大在学中には帝大セツルメントの法律相談部で活動した。大阪朝日新聞への就職は母を養う必要からで、社会運動を継続する友人に対して罪悪感を抱いており、大阪経済部に配属後は夜勤料を運動にカンパしていたという。しかし1934年に逮捕状が出た(親友の前田俊彦の妹と交友を持ち、この妹の逮捕による)際に、その執行を差し止めた部長の和田信夫から「人間には得手、不得手がある。
梨木 作次郎(なしき さくじろう、1907年9月24日 - … 梨木 作次郎(なしき さくじろう、1907年9月24日 - 1993年4月9日)は、日本の弁護士、社会運動家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認)。金沢弁護士会会長、自由法曹団常任幹事などを歴任する。 石川県石川郡蝶屋村(現・白山市)出身。日本大学専門部法科を卒業後、弁護士資格を取得。1931年に日本国民救援会の前身である日本赤色救援会へ入り、三・一五事件や四・一六事件をはじめ治安維持法違反事件の弁護に当たるが、1933年の日本労農弁護団一斉検挙事件で検挙。1935年には懲役2年執行猶予2年の有罪判決を受け、5年間の弁護士資格停止を命じられる(弁護士業は1938年に再開)。 1946年に日本共産党へ入党すると、自由法曹団や解放運動犠牲者救援会の再建活動に奔走。
宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈… 宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈明治39年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉7月1日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。 ミノファーゲン製薬創設者。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。月刊誌『軍縮問題資料』創刊者。 参議院議員(2期)、衆議院議員(10期)、日中友好協会会長・名誉会長、日本北アフリカ協会会長。 東京府に生まれる。父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎。父の意志で旧制府立第一中学を経て、東京陸軍幼年学校(25期)に入学し、1924年に卒業。1925年に旧制水戸高等学校に入学。水戸高校時代はマルクス主義に傾倒し、水田とともに東京帝国大学ではなく、学生連合会の要請で京都帝国大学を志望校に選んだ。
隅田 善雄(すみだ よしお、1906年〈明治39年〉9月24… 隅田 善雄(すみだ よしお、1906年〈明治39年〉9月24日 - 没年不明)は、昭和時代の実業家。 広島県に生まれる。隅田光蔵の二男。1931年(昭和6年)慶應義塾大学経済学部を卒業後、東洋紡に入社。購買部、津出張員兼津工場用度掛主任、伊丹製絨工場用度掛主任を経て、資材課長となり、東京資材課長ののち東洋ゴムに転じ業務部長代理兼倉庫課長、事務部長附製品課長、営業部長、資材部長、1952年(昭和27年)参与課査室長、1954年(昭和29年)総務部長、1962年(昭和37年)5月、監査役を経て、1965年(昭和40年)東洋ゴム不動産取締役に就任した。同年退任し、東洋ゴム工業顧問を経て、昌和不動産取締役となった。
森永種夫(もりなが たねお、1906年9月24日 - 199… 森永種夫(もりなが たねお、1906年9月24日 - 1995年3月25日)は、日本の郷土史家。 長崎県出身。1930年東京帝国大学文学部国文学科卒。長崎で高等学校教諭、長崎市立長崎高等学校教頭をへて長崎純心女子短期大学教授。「長崎犯科帳」を主として研究した。
小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995… 小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995年12月13日)は、日本の小説家。 静岡県富士郡吉原町(旧・吉原市)(現・富士市)生まれ。静岡女子師範学校卒。小学校教員を経て、1941年(昭和16年)内閣情報局の国民映画脚本募集に「母子草」が一席入選し、映画化される(田坂具隆監督)。戦後1949年(昭和24年)に「おもかげ」で直木賞候補。恋愛通俗小説を書いた。
相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1… 相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1996年7月6日)は、日本の哲学研究者。
小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)… 小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)9月24日 - 1983年(昭和59年)10月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県北高来郡諫早村原口名(現諫早市)で生まれる。1918年、諫早高等小学校を卒業後西南学院で学ぶが、1922年6月で中退した。 1940年、上海で江南工業 (株) 社長に就任。1951年4月、富陽建設 (株) を設立して社長に就任。1977年に引退した。 政界では、1937年3月に長崎市会議員に当選。1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に長崎県から出馬して当選し衆議院議員を一期務めた。1951年4月、長崎県議会議員に諫早市選挙区から民主党公認で立候補して当選し、一期在任した。
田中 於菟弥(田中 於兎弥、たなか おとや、1903年9月2… 田中 於菟弥(田中 於兎弥、たなか おとや、1903年9月24日 - 1989年7月12日)は、インド文学者。
大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - … 大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - 1997年5月15日)は、昭和・平成の日本の洋画家。戦後二科会再建時の創立会員。80歳を過ぎてソフトライン、水平線シリーズなど簡潔で色彩豊かな独自の抽象絵画を確立した。東京都庁に壁画がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
久武 雅夫(ひさたけ まさお、1903年(明治36年)9月2… 久武 雅夫(ひさたけ まさお、1903年(明治36年)9月24日 - 2003年(平成15年)10月8日)は、日本の経済学者。専門は数理経済学。学位は、経済学博士(1958年)(学位論文「価格理論の基礎」)。一橋大学名誉教授。国際基督教大学第3代学長。 高知県生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒、同教授、一橋大学教授、1951年に佐藤信吉らと商業数学研究会(のちの日本経営数学会)を設立。1958年「価格理論の基礎」で経済学博士の学位を取得。1965年定年退官、名誉教授、1967年から69年まで国際基督教大学学長、名誉教授、駒澤大学教授、1981年定年。日本数理経済学会会長。2003年10月8日、急性呼吸不全のため川崎市川崎区の病院で死去。
高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 -… 高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 - 1976年8月5日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。広島県広島市出身。 広島市立本川小学校、旧制広島一中を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業、キリンビール入社。1942年営業部第一部長。1943年営業部第一部長兼東京支店長。1944年麦酒配給統制出向。1948年酒類配給公団理事。1949年酒類配給公団解散に伴い、キリンビールに復帰し、同社取締役営業部長に就任。1953年取締役営業部長兼宣伝部長。1958年常務取締役営業部長。1966年専務取締役。1969年から代表取締役社長を務め、史上最高の63.8パーセントの市場シェアを獲得。
服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月2… 服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月24日 - 1956年(昭和31年)3月4日)は、日本の歴史学者(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。島根県浜田市金城町出身。
堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986… 堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986年4月9日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。日本基督教団の会員。オランダ通詞・堀達之助の曾孫。子に倫理学者・英学者の堀孝彦がいる。 山口県赤間に村田豊作、ナリの三男として生まれる。1912年に母方の姓の堀になる。1913年鹿児島のバプテスト教会で青木澄十郎から洗礼を受ける。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1924年東京帝国大学法学部を卒業する。1926年よりイギリスのオックスフォード大学とドイツに留学し、1929年帰国後に台北帝国大学教授に就任する。 1942年より九州帝国大学教授になる。
豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 19… 豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 1972年4月22日)は日本の工芸家、陶芸家、教育者。鋳造、金工の分野で足跡を残した。 1897年(明治30年)9月、福岡県久留米市に生まれる。1915年(大正4年)、福岡県立明善中学校を卒業し、東京美術学校鋳造科入学。1920年(大正9年)に卒業後、研究科に進む。研究科を修了後は、東京高等工芸学校金属工芸科の嘱託となり、1924年(大正13年)、同校助教授となる。 1927年(昭和2年)、帝展に出品して入選。1933年(昭和8年)、帝展に出品した「鋳銅広間用四方花さし」が特選となる。1938年(昭和13年)、東京高等工芸学校教授に就任。1942年(昭和17年)、活動拠点を故郷である久留米市に移す。
福田 敬太郎(ふくだ けいたろう、1896年9月24日 - … 福田 敬太郎(ふくだ けいたろう、1896年9月24日 - 1980年1月15日)は、日本の商学者・経済学者。学位は、商学博士。神戸大学名誉教授。第3代神戸大学学長(在任:1959年12月16日 - 1963年12月15日)。名古屋学院大学初代学長。独自の観点で商学を体系化した「福田商学」で知られる。弟子は荒川祐吉。 1896年、大阪府大阪市東区で生まれた。大阪府立茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)、神戸高等商業学校(のちの神戸大学、1918年卒)、東京高等商業学校(のちの旧制東京商科大学、現一橋大学)専攻部に進学し、1920年に卒業。同期に平井泰太郎神戸大学名誉教授がいる。 神戸高等商業学校では田崎慎治ゼミナールに所属し、卒業論文のテーマは「海上保険における再保険の研究」であった。
三ッ林 幸三(みつばやし こうぞう、1893年〈明治26年〉… 三ッ林 幸三(みつばやし こうぞう、1893年〈明治26年〉9月24日 - 1977年〈昭和52年〉5月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選1回)。埼玉県会議員、同議長。衆議院議員を務め、国会議員として国政に参加したが、主には埼玉、幸手等地方政界で活動した。 埼玉県北葛飾郡行幸村千塚(現幸手市千塚)に生まれる。三ッ林安五郎の二男。粕壁中学校に学んだ。農業を営んだ。1917年(大正6年)、北葛飾郡行幸村収入役。1924年(大正13年)、行幸村会議員。1928年(昭和3年)、埼玉県会議員(立憲政友会に所属)。1939年(昭和14年)、兼行幸村長。行幸村農会長、県参事会員などを務めた。 1942年(昭和17年)、第46代埼玉県会議長(-1944年)。
池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952… 池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952年10月21日)は、東京府北多摩郡武蔵野村(現:武蔵野市)出身のプロ野球監督・審判。 早稲田中学校を経て、早稲田大学卒業。早大時代は三塁手。卒業後東京六大学野球連盟の審判となる。 1936年、大学の先輩河野安通志が総監督をつとめる大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)の初代監督に就任。河野が後楽園イーグルスを設立すると同時に辞任した。 名古屋軍では後に公式戦の基点となる東京の職業野球連盟発足記念トーナメントで優勝を果たし(ただし、大阪では阪急に、名古屋では大阪にさらわれた。)、「プロ野球選手は自前で養成しよう」との信念から、少年野球から西沢道夫を発掘し、後に中日の大選手になる道筋を作っている。
久留間 鮫造(くるま さめぞう、1893年(明治26年)9月… 久留間 鮫造(くるま さめぞう、1893年(明治26年)9月24日 - 1982年(昭和57年)10月20日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授・法政大学大原社会問題研究所所長。専攻はマルクス経済学であり、『マルクス経済学レキシコン』の編者として有名。立教大学名誉教授の久留間健は彼の子である。 岡山県岡山市に紙問屋の長男として生まれる。家業を継いで欲しいという親の願いに反し、岡山県立岡山中学校、第六高等学校から東京帝国大学法科大学経済学科に入学、1か月後に政治学科に転科。病気による1年の休学をはさんで卒業。ゼミには参加していない。 1918年、住友銀行に入行するが、自分のやりたい仕事ではないと感じ(久留間は学問をしたい、また世の中のためになること、国家のためになることをしたいと考えていた)、また米騒動における労働者階級の力に衝撃を受け、銀行にはいられないと、3か月余りで退行。
内田 銀之助(うちだ ぎんのすけ、1893年(明治26年)9… 内田 銀之助(うちだ ぎんのすけ、1893年(明治26年)9月24日 - 1951年(昭和26年)6月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 東京府出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校第27期卒業。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校第34期卒業。 東京帝国大学法学部を経て、1935年(昭和10年)3月、関東軍参謀、1937年(昭和12年)9月、留守第1師団参謀を経て、同年11月、陸軍歩兵大佐に進む。ついで1938年(昭和13年)8月、第20師団参謀長、1940年(昭和15年)9月、陸軍技術本部附を経て、同年12月、陸軍少将となる。 のち大東亜戦争が勃発すると、1941年(昭和16年)7月、独立混成第5旅団長に補され、青島に駐屯した。
森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日… 森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日 ‐ 1955年(昭和30年)8月6日) は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林町長。由巳雄と表記される場合がある。 宮崎県西諸県郡小林村(小林町を経て現小林市)で、森長興の長男として生まれた。旧制宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 司法官試補に任官し東京地方裁判所で勤務。1921年(大正10年)弁護士を開業した。宮崎市会議員、宮崎県会議員、小林町長に在任。その他、小林町農会長、同農業会長なども務めた。 1936(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から立憲政友会公認で立候補したが落選。
竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1… 竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1954年10月7日)は、日本の英文学者、詩人、翻訳家。 『ルバイヤット』『神曲』などの翻訳がある。 (出典)大阪市生まれ。本名・乕雄(とらお)。父・安治郎は実業家で、のち東海生命保険専務取締役。 関西学院中学校、同志社中学校を経て1910年3月桃山学院中学校卒業。同年同志社神学校進学。1911年京都帝国大学英文科選科に移り、上田敏、新村出(言語学)、藤井乙男(国文学)、吉沢義徳(国語学史)、鈴木虎雄(中国文学)、藤代禎輔(独文学)らに学び、1914年卒業。京都大学在学中の1913年、処女詩集『祈祷』を上梓。 1915年夏、渡米。同年10月イェール大学神学部に入学するが翌1916年に退学し、ニューヨークに出てブルックリン博物館で東洋美術の管理助手として勤務。
須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - … 須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - 1969年1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 19… 松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 1990年3月9日)は、近代日本の建築家。 東京築地にあった工手学校卒業後、辰野葛西事務所所員として東京駅や東京京橋の第一相互館の設計を担当し、第一相互館竣工後、クライアントの第一生命創業者矢野恒太に誘われて第一生命保険初代営繕課長となり、代表作となる第一生命館を設計した。 その後も90歳を超えて第一生命の顧問技師として勤務した。 中央停車場の設計担当者として多くの証言を残しており、松本の半生は伊藤ていじが『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)としてまとめている。 1890年9月24日、宮内省で京都御所の修繕などに携わっていた松本源次郎の長男として、現在の京都市上京区に生まれる。
板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年… 板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年2月5日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の版画家、収集家。孔版画を日本に普及させた。 鳥取県西伯郡東長田村(現南部町)の生まれ。本名は板愈良(いた まさよし)。父は板房太郎。1904年から1945年まで鳥取県内の小学校教員を歴任した。以降、鳥取県の法勝寺村役場に勤務した。大正から没年にわたって孔版画を制作している。独学によって謄写版(ガリ版)を利用した孔版画を制作、つぶし孔版、切り抜き孔版を自ら創案した。また、1917年から『珍道楽』という趣味の団体に参加し、料治熊太など30名の収集家と交流を深めた後、1919年に三田平凡寺の『我楽他宗』に参画し、第二十番十徳山竜駒寺と号して富士山に関する物やこけしなどの郷土玩具、民具、菓子のラベル、ポスターなどを収集し、自らそれらを題材にした絵暦、絵草紙、蔵書票などを制作して同好の士と交換を行った。
徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月… 徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月24日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 山梨県甲府市出身。1906年(明治39年)東京府立第二高等女学校(現東京都立竹早高等学校)卒。 子に即興の話をせがまれたことから童話を書くようになる。1921年(大正10年)に最初の作品集である『薔薇の踊子』を刊行し、以来母子の愛情を主要なテーマとした作品群を発表し、それらは「お母さん童話」と呼ばれた。「フランダースの犬」を始め、翻訳も数多く手がけ、和歌や絵画も手がけた。 夫の前田晁は山梨市出身の小説家・翻訳家で『文章世界』編集者を務めた。
遠山 寛賢(とおやま かんけん、1888年9月24日 - 1… 遠山 寛賢(とおやま かんけん、1888年9月24日 - 1966年11月)は、沖縄県出身の空手家。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)総本部修道舘舘長、大師範。昭和期を代表する空手家の一人であり、糸洲安恒の晩年の高弟の一人として知られる。 遠山寛賢は、旧姓を親泊といい、1888年(明治21年)、沖縄県首里市に生まれた。幼少の頃から、板良敷朝郁、糸洲安恒、東恩納寛量らに師事した。それぞれ、どの時期に師事したかは不明であるが、糸洲に師事したのは、遠山が沖縄県師範学校へ入学(1906年)してからであると考えられる。当時の師範学校の唐手師範は糸洲安恒、師範代は屋部憲通が務めていた。在校中の1908年(明治41年)から3年間、遠山は糸洲、屋部の助手を務めた。
佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 19… 佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 1935年4月16日)は、日本の牧師、神学校教師。日本におけるマルティン・ルターの研究の開拓者である。 1887年(明治20年)福島県会津若松市に生まれる。1907年(明治40年)に第一高等学校に入学する。 同年キリスト教に入信して、組合教会の指導者の海老名弾正から本郷教会で洗礼を受ける。1910年(明治43年)に東京帝国大学に入学するが、同年京都帝国大学に転校する。1913年(大正2年)、京都帝大卒業後、東京帝大大学院でルターの研究を始めた。大学院時代は、日本基督教会の神学校の東京神学社でも学び、富士見町教会で牧会する植村正久に師事した。
浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9… 浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1965年(昭和40年)3月8日)は、大正から昭和時代の政治家・実業家。千葉県東葛飾郡市川町長、初代市川市長。北総鉄道支配人。 浮谷権兵衛の弟として千葉県に生まれる。浮谷家は葛飾郡市川新田で農業を営み、当主は代々権兵衛を名乗っていた。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、東北帝国大学農科大学予科を経て、1913年(大正2年)7月に同大畜産科を卒業する。卒業後、志願兵として1年従軍し、1917年(大正6年)陸軍騎兵少尉に進んだ。 ついで、北海道技手、東北帝国大学農科大学予科講師、宮城県農業技師、京成電軌重役秘書、会計・工務課長、北総鉄道支配人、成田鉄道会社取締役建設部長などを歴任。
中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)… 中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1946年(昭和21年)12月31日)は、日本の俳人。本名・直三(なおぞう)。俳号は他に一碧(いっぺき)。 岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市玉島勇崎)の旧家で製塩業等を営む実業家・中塚銀太の四男に生まれる。 1900年(明治33年)岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高校)入学。1906年(明治39年)中学卒業の年に洗礼を受けクリスチャンとなる。翌、1907年(明治40年)早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し俳句を学ぶ。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。 帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。
渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月2… 渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月24日 - 1959年〈昭和34年〉7月11日)は、日本の実業家、医師である。宇部興産(現・UBE)初代会長。 1886年(明治19年)、山口県厚狭郡宇部村(現宇部市)でのちに沖ノ山炭坑(UBEの前身)を創業する渡辺祐策の次男として生まれる。熊本医学専門学校を経て京都帝国大学医学部を卒業し、父・祐策が創業した沖ノ山炭鉱の医局設立に携わる。 1934年(昭和9年)、祐策の死去に伴い沖ノ山炭坑の社長を引き継ぐ。1942年(昭和17年)、宇部興産設立に伴い同社会長に就任。また、山口県議会議長や山口県医師会長も兼務し、山口県立医学専門学校(のちの山口県立医科大学、現山口大学医学部)の設立に尽力した。
片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1… 片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1972年8月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山形県米沢市出身。片桐作吉の長男として生まれる。米沢中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科を卒業し、「摂津」分隊長、「厳島」分隊長、砲術学校教官などを経て、1918年11月、海軍大学校(甲種16期)を卒業。以後、第2水雷戦隊参謀、軍令部出仕兼参謀、「摂津」砲術長、「出雲」砲術長、海兵教官、海軍省教育局第1課局員などを歴任。 さらに、欧米出張、「大井」艦長、「青葉」艦長、教育局第1課長、「榛名」艦長などを経て、1933年11月、海軍少将に進級。
嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9… 嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍大将正三位勲一等功二級。 海兵32期・海大13期。海軍大臣(第22代)。軍令部総長(第17代)。A級戦犯として終身刑。 1883年(明治16年)9月24日、東京浅草に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。 東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業。
河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日… 河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日 - 1963年(昭和38年)9月27日)は、日本の大蔵官僚、大蔵大臣。
高橋 熊次郎(たかはし くまじろう、1880年(明治13年)… 高橋 熊次郎(たかはし くまじろう、1880年(明治13年)9月24日 - 1957年(昭和32年)11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員。初代上山市長。 福島県信夫郡瀬ノ上村(現・福島市瀬上町)に、醤油醸造業の宍戸家に生まれる。1903年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、セントルイスのブライアント・ストラットン商業大学に学ぶ。1906年に帰国し、山形県南村山郡上山十日町高橋家に婿入りする。 山形商業銀行、山形自由新聞社各取締役、上山電気社長を務める。 1914年10月、上山町の西北部山麓地帯にある金井村黒沢の部落林約7町歩を買収、さらに隣接する上山町三千刈の民有地約8町歩を買収して果樹園、畜産、酪農の農園を造成した。
花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月2… 花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月24日 - 1938年(昭和13年)1月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 沖縄県八重山郡石垣町(現在の石垣市)出身。1899年(明治32年)、沖縄師範学校を卒業して、郷里の大川尋常小学校の訓導となった。1903年(明治36年)に上京して、東京市小石川第一尋常小学校訓導となり、そのかたわら日本大学高等師範科に通った。1906年(明治39年)、日本大学高等師範科を卒業し、東京府豊多摩郡千駄谷尋常高等小学校校長に就任した。その後も夜間通学を続けて、1907年(明治40年)に日本大学法科専門部を卒業した。同年、会計検査院属に任官された。
千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日… 千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の作家、評論家、ジャーナリスト。 山形県酒田市に生まれ、5歳から母の実家がある宮城県美里町、13歳から仙台市で育つ。早稲田大学高等師範部中退。はじめ江東の号で小説を書いたが、以後国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞など新聞の社会部長や学芸部長を務め、その傍ら文芸評論も書いた。『サンデー毎日』編集長として「サンデー毎日新人賞」を開始するなど大衆文学にもかかわる。 大正末から昭和初年にかけての大きな文学潮流となった「新感覚派」の命名者として知られる。 死後、小説家の登竜門として「千葉亀雄賞」が創設され、井上靖、沙羅双樹、黒岩重吾らを輩出した。
木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明… 木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明治2年8月19日) - 1952年(昭和27年)1月1日)は、日本の産婦人科医師・医学者。医学博士、東京帝国大学教授。 1869年(明治2年)、木下凞(ひろむ。1844年 - 1914年)の長男として若狭国小浜に出生。木下家はもと小浜藩の藩医の家で、木下宗白が杉田玄白に師事して蘭方外科医になったのに始まり、凞が4代目にあたる。凞は明治維新によって官医となり、1869年(明治2年)から1873年(明治6年)にかけて横浜でヘボンとシモンズに就いて西洋医学の経験を積んだ。その後、京都に移って京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した。
吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4… 吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4年8月9日) - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本の農学者。農学博士。族籍は東京府士族。 伊予国松山(愛媛県松山市)出身。吉川祐之の長男。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業。翌年から農事試験場技師を務めた。1901年(明治34年)、東京帝国大学農科大学助教授となり、1904年(明治37年)からは東京農業高等学校(現在の東京農業大学)講師を兼ねた。 1903年(明治36年)に清・韓国へ、1907年(明治40年)にイギリス領セイロン・フランス領インドシナへ派遣された。1909年(明治42年)にイギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。
瀬川 光行(せがわ みつゆき、1868年9月24日(慶応4年… 瀬川 光行(せがわ みつゆき、1868年9月24日(慶応4年8月9日) - 1933年(昭和8年)10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1886年、東京専門学校政治経済科卒。読売新聞記者となる。著述業と出版業に従事し、元元堂書房を経営する。中等教科書協会幹事、陸海軍用達会社社長、磐城炭礦(株)取締役社長、明治製靴(株)取締役を務める。四谷区議、東京市会議員、同参事会員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において東京1区から憲政会公認で立候補したが落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙において東京1区から立憲民政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。
黒川 義太郎(くろかわ よしたろう、1866年9月24日(慶… 黒川 義太郎(くろかわ よしたろう、1866年9月24日(慶応2年8月16日) - 1935年(昭和10年)9月20日)は日本の獣医、動物園長。 1866年安房国北三原村(現・千葉県南房総市)生まれ、ただし「自然誌古典文庫創始号(近藤, 1988)」によれば、「慶応2年(1866)8.16江戸番町に生れる」となっている。1892年7月、帝国大学農科大学獣医学科乙科(実科)を卒業し、同年7月15日、帝室博物館天産部付属上野動物園に採用され、上野動物園最初の選任獣医師となる。1907年3月に石川千代松動物園監督のもとでキリンが導入され、動物園の年間入園者が初めて100万人を突破する大変な人気となるが、キリン購入の経緯が上層部に報告されていなかったらしく、この問題で初代動物園監督であった石川千代松は同年5月15日に上野動物園を辞任する。
木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2… 木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2年8月16日〉 - 1923年〈大正12年〉6月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(鳥取市選出、当選1回)、地主。旧姓は足羽。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。士族・足羽純亭の六男。1889年、木下家に養子入りする。鳥取市会議員、同議長、鳥取県会議員、同参事会員、鳥取県農工銀行取締役となる。 鳥取電燈創立の際に監査役となり、のちに取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鳥取市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月1… 小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月10日) - 1933年(昭和8年)5月6日)は、日本の医師。宮内省侍医寮御用掛、日本赤十字社医員。伊藤博文や李王世子一家の侍医を務めた。 1860年、現在の新潟県新発田市に生まれる。小山家は医者の家系であった。1891年に発生した濃尾地震に際しては、当時の岐阜県武儀郡関町に設置された赤十字社仮病院で被災者の救護活動に従事した。1909年(明治42年)10月26日、枢密院議長伊藤博文の侍医として彼のハルビン訪問に隨行した際、朝鮮の独立運動家であった安重根の銃撃により重傷を負った伊藤博文の救命処置をする。小山善はこの際のことについて「伊藤公がハルビン駅に到着しロシア軍隊の前を通っていたとき、爆竹のような音を聞き同時に伊藤公が負傷したことを確認したため、直ちに救命活動を行った。
藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年… 藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年8月18日〉- 1926年〈大正15年〉7月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。私立遺芳館、電信学校を経て、1880年(明治13年)12月、海軍兵学校(7期生)を卒業し少尉補、1883年(明治16年)11月に少尉任官。日清戦争には砲艦「大島」分隊長として従軍。1897年(明治30年)11月、防護巡洋艦「高砂」の回航委員に任命され、イギリスに出張し「高砂」副長となり翌年に帰国。 その後、防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、海軍省軍務局第2課長、軍令部第2局長を歴任し、1903年(明治36年)10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。