松本 賢一(まつもと けんいち、1903年(明治36年)11… 松本 賢一(まつもと けんいち、1903年(明治36年)11月26日 - 1990年(平成2年)11月26日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、広島県呉市長。 広島県で松本勝太郎の三男として生まれる。東洋大学印度哲学科を卒業し、1932年(昭和7年)からベルリン大学に留学し哲学歴史地理を研究した。 農場経営を行い、呉市信用組合長を務め、1950年(昭和25年)三津窯業社長となる。1954年(昭和29年)4月、呉市長に就任。2期在任し、台風災害からの復旧、呉市民大学講座の開設、近隣町村との合併、呉豊栄高等学校(現呉市立呉高等学校)の新設、呉少年合唱団の創設などに尽力した。1961年(昭和36年)10月に市長を辞職した。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 198… 岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 1985年2月9日)は最高裁判所判事。東京都出身。
川崎 長太郎(かわさき ちょうたろう、1901年11月26日… 川崎 長太郎(かわさき ちょうたろう、1901年11月26日 - 1985年11月6日)は、日本の小説家。 神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身。神奈川県立小田原中学校中退。初めアナーキストの周辺で詩作をしていたが、その後、徳田秋声、宇野浩二に出会い、その系譜を継承する私小説作家となる。1935年に「余熱」で一度芥川賞候補になるも、長く不遇の時代が続き、実家の物置小屋を住処にして貧しい生活を続けた。1950年代に「抹香町」「鳳仙花」などの作品で、物置小屋で暮らしながら私娼街に通う初老の男と娼婦との触れ合いを哀感をもって描いて好評を博し、一時のブームとなる。晩年の1970年代に出版が盛んになり、1977年に菊池寛賞、1981年に芸術選奨文部大臣賞を受賞して文学的な評価も定まった。
濱 健夫(はま たけお、1901年(明治34年)11月26日… 濱 健夫(はま たけお、1901年(明治34年)11月26日 - 1984年(昭和59年)4月13日)は、日本の植物学者、細菌学者。専門は海洋や温泉に含まれる硫黄細菌の研究。妻は宗教家の金森通倫の五女・壽々枝。義弟(妹の夫)は元八幡市長の守田道隆。 長野県諏訪郡中洲村(現諏訪市)出身。東京高等師範学校附属小学校、旧制甲府中学、旧制一高を経て、1925年東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、広島高等師範学校教授。1943年日本大学教授、理学博士号取得、勲四等瑞宝章受章。1949年明治学院大学教授。 1916年、日本基督教会山梨教会で金井為一郎から洗礼を受けた。聖書中に出てくる植物に関する研究考察や、キリスト教信仰と自然科学との関係を論じた論文も多い。
天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 -… 天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 - 1992年8月6日)は、日本の書誌学者。 京都府京都市出身。京都帝國大学図書館司書、関西大学図書館図書課長などを歴任。1967年から1972年3月まで東洋大学社会学部教授を務めた。 代表的な編著書に『日本書誌の書誌』。1987年に第1回物集索引賞特別賞を受賞。 大正時代に京都帝國大学図書館に職員として採用されて以来、天野は書誌情報の収集に心血を注ぎ、「書誌の書誌」などの参考図書の作成に生涯を費やした。作成する書誌の原稿ができあがると、それが最もわかりやすい簡明な形式で印刷されるよう、掲載が予定されている刊行物の性格に即して、原稿には割付を加えておくのが常であり、赤インキで細かく清潔に活字の組み方を指示していた。
矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1… 矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1982年2月23日)は、日本の教育学者。ソビエト教育学研究会会長。 1900年、長崎県長崎市に生まれた。1919年、旧制山口高等学校に入学。1926年、京都帝国大学文学部英文学科を卒業。戦前は日本大学工学部予科教授などを務めた。英語教育に携わる傍ら、科学読物の英和注釈本などの出版を通して、科学教育の実践を試みた。独学でロシア語を習得し、ソビエト教育理論や実践を紹介した。 太平洋戦争後は、教育学者として民間教育運動の理論的指導者として活躍した。学界では1960年以降、ソビエト教育学研究会会長を務めた。1982年に死去。 これらの他にロシア共和国教育科学アカデミー編『ソビエト教育科学アカデミヤ版ソビエト教育科学辞典』明治図書出版、1963をソビエト教育学研究会が編訳。
林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 194… 林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 1947年7月18日)は、日本の医師。全生病院(国立療養所多磨全生園)、国立療養所長島愛生園、国立療養所星塚敬愛園(園長)に勤務し、国立療養所大島青松園で、病気療養をした。特に光田健輔を助け、光田反応を完成させた。クリスチャン、ヒューマニストであり、南九州、とくに奄美、沖縄のハンセン病患者救済に取り組み、理想の療養所建設に力を注いだが、志半ばで病に倒れた。 1900年11月26日、画家林竹治郎の息子として北海道札幌市に生まれる。1926年に北海道帝国大学医学部を卒業し、同年5月から全生病院に勤務。1930年、タイのバンコクで光田反応を名前をつけず発表。
三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 199… 三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1923年に東京商科大学を卒業し、三菱銀行に入行。京都支店長、大阪支店長、取締役を経て、1956年5月に常務に就任した。 1959年11月に島津製作所に移り、専務に就任。副社長を経て、1965年5月から1971年5月までに社長を務め、1971年5月から会長に就任し、1981年6月から相談役に就任した。 京都商工会議所顧問も務めた。 1970年に勲三等旭日中綬章を受章し、1976年に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日肺炎のために死去。93歳没。
名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月… 名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月26日 - 1977年(昭和52年)2月20日)は、日本の経営者。戦後の山梨中央銀行頭取。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)に広瀬久政の三男として生まれ、繁と命名される。山梨県立日川中学校(現在の山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て大正11年(1922年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行し神戸支店に勤務したが、胸を患い退職。その後、療養しながら東京帝国大学の大学院に在籍し工場経営学を専攻し、東京高等商船学校(現在の東京海洋大学)の講師を務めた。 その間、甲府市長、貴族院議員を務めた甲府市山田町(ようだまち)の商家名取忠愛の二女淑子と大正13年(1924年)11月に結婚し、名取繁と名乗ることとなった。
真崎 長年(まさき ながとし、1895年(明治28年)11月… 真崎 長年(まさき ながとし、1895年(明治28年)11月26日 - 1965年(昭和40年)11月3日)は、日本の内務官僚。官選佐賀県知事。 長崎県出身。真崎雄四郎の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1921年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し茨城県属となる。 以後、内務属、山口県警視・保安課長、青森県学務部長、岩手県書記官・学務部長、愛知県学務部長、大分県書記官・警察部長、宮崎県総務部長、福島県総務部長、大阪府学務部長などを歴任。 1940年4月、佐賀県知事(「佐賀県知事一覧」参照)に就任。1941年3月、朝鮮総督府学務局長に転任し、1942年10月まで在任。
太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 19… 太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 1988年4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1913年、長崎市立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)卒。酒業を営む。島原町議、島原商工会評議員、金銭債務臨時調停委員となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では長崎1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙では非推薦で落選。1946年の第22回衆議院議員総選挙は長崎県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補したが落選した。1949年の第24回衆議院議員総選挙は長崎1区から民主党公認で立候補したが落選した。
野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉… 野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1918年〈大正7年〉10月31日)は、愛媛県温泉郡素鵞村(現・松山市小坂町)出身の俳人である。本名は守隣(もりちか)。前号に柏葉、朱燐洞など。 父は温泉郡役所の官吏で、母は機織りなどで家計を支えた。13歳の時に母を亡くし、その後父と同じ温泉郡役所で書記を務めながら松山夜学校に通った。短歌を趣味とする上司の影響で「柏葉」と号して作句を始めた。 松山に帰った河東碧梧桐の新俳句に傾倒し、森田雷死久に師事。18歳の時に愛媛新報の俳壇に入選した。東京で自由律俳句の創始者荻原井泉水と出会い俳句雑誌「層雲」に参加。柏葉から朱燐洞と改号し、俳句結社「十六夜吟社」を結成、主宰となる。
大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年… 大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年)11月26日 - 1952年(昭和27年)4月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 奈良県十津川村湯之原に大前憲保の三男として生まれる。湯之原尋常小学校を卒業し、1912年(明治45年)十津川中学文武館(現奈良県立十津川高等学校)に学び、卒業後伏見の工兵第十六大隊に士官候補生として入隊。1915年(大正4年)5月25日に陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第十六大隊付となる。1916年(大正5年)11月27日に陸軍砲工学校(24期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1919年(大正8年)4月15日に工兵中尉に昇進、1922年(大正11年)3月31日には東京帝国大学理学部物理学科を卒業した。
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1962年〈昭和37年〉9月10日)は、日本の農業土木学者、農林技官、政治家。参議院議員(1期)、農学博士。 長野県、現在の上田市で溝口多門司の長男として生まれる。1920年(大正9年)東京帝国大学農学部農学科を卒業した。新潟県産業技師となり、青森県耕地課長を経て、1928年 (昭和3年)農林省農務局に転じた。1938年(昭和13年)青森県三本木原開墾国営事務所長兼秋田県田沢疎水開墾国営事務所長に就任した。1941年(昭和16年)農林省耕地課長に転じ、農地開発法の制定や、戦時下の食糧増産政策の推進を担った。 戦後、1945年(昭和20年)農林省開拓局第二部長に就任し、復員者などの生活支援と、切迫した食糧不足に対応するため開拓事業を進めた。
山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月… 山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月26日 - 1971年(昭和46年)11月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福岡県出身。山田定直陸軍大佐の長男として生まれる。松江中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を5番/117名の成績で卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。1916年(大正5年)12月から翌年まで航空術学生として学んだ。横須賀航空隊付、フランス駐在、横須賀航空隊分隊長、同飛行隊長、霞ヶ浦航空隊教官などを経て、1928年(昭和3年)12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業した。 連合艦隊参謀、軍令部第1班第2課参謀、同第2班第3課参謀、第1航空戦隊参謀、海軍省臨時調査課員、フランス大使館付武官、軍令部第3部第7課長、横須賀鎮守府付、「蒼龍」「加賀」の各艦長などを経て、1941年(昭和16年)10月、42期の一選抜組として少将に進級。
三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 … 三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 - 1951年4月22日)は、北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)出身で伊勢ノ海部屋(入門時は尾車部屋)に所属した大相撲力士。本名は小西 善七(こにし ぜんしち)。最高位は東関脇。明治時代以降初の北海道出身関取。 1892年11月26日に北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)で松前藩家臣、小西弥蔵の7人目の男児であることから「善七」と名付けられた。1901年に瀬棚に住んでいた兄に引き取られて運搬業を手伝っていたことで力が付き、米2俵を軽々持ち上げるほどの怪力で周囲を驚かせていたところ、地元の小料理屋「高砂」を経営していた相撲通の主人に見出され、力士を勧められた。
古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月2… 古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月26日 - 1979年(昭和54年)3月28日)は、日本の心理学者である。別名に壺井 潔(つぼい きよし)がある。 熊本県熊本市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)にて哲学科に所属し、後に同じく心理学者となる浜中浜太郎、黒田亮らと共に心理学を学ぶ。1915年(大正4年)に卒業を迎えたが、その後も同大学に残留し経済学科に所属した。1920年(大正9年)に卒業後は、旧制の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)より留学のため渡米し、その後はイギリスにてロンドン大学に入学する。
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)… 山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日 - 1972年(昭和47年)12月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等。 広島県佐伯郡宮内村(廿日市町を経て現廿日市市)に生まれた。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し、第一遣外艦隊司令部附兼参謀、「日進」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し、海軍大学校甲種第24期学生となる。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった。
石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11… 石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11月26日 – 1969年(昭和44年)8月16日)は、日本の文芸評論家、政治家。衆議院議員、埼玉県議会議員(いずれも立憲政友会)。父の石坂金一郎も政治家で、郡会議員、県会議員を務めた。 埼玉県大里郡中奈良村(後の奈良村、現在の熊谷市)に大地主の家の長男として生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て1902年(明治35年)に第二高等学校に進学。1906年(明治39年)に東京帝国大学理学部に進学したが中退して、1910年(明治43年)に同文科大学哲学科に再入学した。帝大在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。
越智 太兵衛(太兵衞、おち たへえ、1882年(明治15年)… 越智 太兵衛(太兵衞、おち たへえ、1882年(明治15年)11月26日 - 1961年(昭和36年)10月20日)は、明治末から昭和前期の産業組合運動家、政治家。衆議院議員。 奈良県添上郡発志院村(治道村、生駒郡郡山町を経て現大和郡山市発志院町)で、越智太郎の長男として生まれた。1902年(明治35年)奈良県立郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業した。農業に従事。 1911年(明治44年)2月、発志院信用組合を設立し組合長に就任。以後、同組合の規模を拡大し、産業組合の普及と実践に尽力した。1917年(大正6年)奈良県信用組合連合会が設立され監事に就任し、理事、常務理事を歴任。1930年(昭和5年)奈良県購買販売組合連合会が設立されると理事に就任し、1931年(昭和6年)県信用組合連合会、県購買販売組合連合会の各会長となり、1935年(昭和10年)両組合が合併して奈良県信用購買連合会が設立すると同会長に就任。
有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年〈… 有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年〈明治15年〉11月26日 - 1974年〈昭和49年〉9月15日)は、日本の画家・小説家。号は雨東生、十月亭。 神奈川県横浜市月岡町(現在の横浜市西区老松町)出身。志賀直哉や児島喜久雄とは少年時代からの友人で、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠の如く』を書いた。長くヨーロッパに留学したが、その際、有島の恋人(女中)を志賀らに託し、帰国後、彼女と結婚の意志がないことを示したため、志賀との間に疎隔が生まれ、敗戦後、志賀は『蝕まれた友情』(1947年(昭和22年))を書いて絶交。 有島武郎の弟、里見弴の兄。妻の信子は原田熊雄の妹でドイツとのクォーター。
緑川 兼吉(みどりかわ けんきち、1878年〈明治11年〉1… 緑川 兼吉(みどりかわ けんきち、1878年〈明治11年〉11月26日 - 1906年〈明治39年〉6月1日)は、青森県平川市(旧南津軽郡)出身で高砂部屋、中村部屋(大坂相撲時代)に所属した元大相撲力士。本名は一戸 兼吉。身長173cm、体重89kgと小兵だった。 1894年1月初土俵(序ノ口)。1899年1月新十両。十両では順調に勝ち星を重ね、1900年1月には6勝2敗の成績で優勝相当成績を挙げた。 しかし、翌1900年5月新入幕を果たすも、突然脱走。大坂相撲に加入して相撲を取っていたが、1904年5月にまたも脱走し、源氏山頼五郎一派に加わって各地を巡業した。1906年5月になって漸く帰参を許されたが、脳充血に罹り、6月1日に27歳で急死した。
長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11… 長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11月26日 - 1940年〈昭和15年〉8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。『太陽』1906年10月に「幻滅時代の芸術」を発表した。その後、『太陽』1908年1月の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。
岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1… 岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1962年6月21日)は明治時代から昭和時代中期にかけて活動した日本のジャーナリスト、労働運動家。 筆名は香摘(こうてき)。栃木県出身。 栃木県河内郡宇都宮町(現在の宇都宮市)で元宇都宮藩の士族・岸上安敬の四男として生まれる。尋常小学校の頃は成績優秀であったが、教師に吃音をからかわれたことが原因で不登校となったため、従兄を頼って埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市浦和区)へ移り住んだ。 従兄は印刷工を営んでいたが、ここで知り合った高木旭山の誘いにより劣悪な環境での労働を強いられていた工員の待遇改善活動へ身を投じ、活版工懇話会の設立に参加して機関紙の編集委員となった。
藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応… 藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応3年11月1日)- 1936年(昭和11年)12月12日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家、銀行家。宇部銀行頭取。貴族院多額納税者議員。族籍は山口県士族。 藤本蔓平の長男として後の長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)に生まれた。岩国の東沢瀉塾で学んだ。漢学を修めた。1877年(明治10年)7月に家督を相続する。 1896年(明治29年)以降、石炭鉱業を経営し、宇部電気、宇部銀行、宇部鉄工所各取締役、宇部村信用購買販売組合理事のほか、宇部商工会議所議員、防長林業、宇部セメント(後の宇部興産、現在のUBE/UBE三菱セメント)各取締役、大和護謨栽培監査役などを務める。
辻 寛(つじ ゆたか、文久元年10月24日(1861年11月… 辻 寛(つじ ゆたか、文久元年10月24日(1861年11月26日) - 昭和4年(1929年)9月24日)は、衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 伊勢国三重郡水沢村(現在の三重県四日市市)に辻武平治の長男として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、三重県山田郡立中学校の教諭に任じられた。その後、三重新聞社の社長として経営にあたり、また雑誌「三重県人」の主幹となった。 三重県会議員を経て、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第11回・第12回でも再選された。 その他、三重県農工銀行の監査役も務めた。
松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1… 松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1858年11月26日) - 昭和18年(1943年)6月30日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)。 加賀国石川郡村井村(現在の石川県白山市)出身。松田太郎兵衛の長男として生まれる。津田純一に法律学を、沼田悟郎に経済学を学んだ。1877年(明治10年)、戸長となり、1884年(明治17年)には石川県会議員に選ばれた。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第11回まで9期務めた。第2回衆議院議員総選挙における選挙干渉の際には30余箇所の重軽傷を負った。 その他、石川機業会社・北陸鉄道会社の創設に関わり、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)まで北陸自由新聞社の経営にあたった。
加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安… 加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安政4年10月10日) - 1934年(昭和9年)1月16日)は、熊本バンドの一人である。 1857年肥後国菊池郡広瀬村(現・菊池市)に生まれる。1872年熊本洋学校に入学し、1876年(明治9年)1月30日に花岡山で奉教趣意書に署名する。L.L.ジェーンズから洗礼を受ける。 1876年9月に同志社英学校に入学する。海老名弾正、小崎弘道、森田久万人らと西京第三公会に転入会する。 1879年(明治12年)、同志社英学校を第1期生として卒業する。同志社の同志社女学校、予備学校、普通学校の教員になり、英語、数学、物理を教えた。 1883年(明治16年)熊本バンドの海老名弾正、宮川経輝、横井時雄、金森通倫、上原方立らと一緒に、東京の新栄教会で開催された、第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として出席する。
大西 善太郎(おおにし ぜんたろう、1857年11月26日(… 大西 善太郎(おおにし ぜんたろう、1857年11月26日(安政4年10月10日)- 1918年(大正7年)5月7日)は、明治から大正前期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県有馬郡三輪村長、同郡道場村長。 摂津国有馬郡田中村(下田中村、兵庫県有馬郡三輪村下田中、三輪町、三田町を経て現三田市下田中)で、農業・大西利右衛門の息子として生まれる。普通学、和算学を修めた。農業を営む。 1880年(明治13年)有馬郡西組選挙郡農会員に就任。以後、全国米麦外三品共進会審査員、下田中村会議員、有馬郡連合会議員、摂津5郡連合農談会員、同会長、摂津5郡連合勧業会員、有馬郡連合町村会議員、同郡全町村勧業委員などを歴任。
越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(184… 越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(1849年11月26日) - 明治10年(1877年)5月1日)は、幕末の筑前福岡藩士、勤皇家、自由民権運動家。 福岡藩士・井土佐平太の次男として生まれる。藩校修猷館に学ぶ。維新後に分家し越智姓を名乗る。 戊辰戦争では皇軍の福岡藩軍に属し、大砲隊長・根本源五左衛門のもとで東北地方に転戦し功を挙げ、賞典禄を受ける。その後、高場乱の興志塾に学び、ここで同志となる武部小四郎や、後に玄洋社を設立する箱田六輔、進藤喜平太、奈良原至、宮川太一郎、頭山満らと出会う。 1874年2月、江藤新平が挙兵した佐賀の乱に際し、博多に来ていた内務卿大久保利通に面会して調停を申し出たが、かえって大久保と児玉源太郎に鎮撫行動を要請され、政府軍の鎮撫隊の小隊長として箱田、宮川ら450名余を率いて佐賀に入った。
大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化… 大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化2年10月27日〉 - 1925年〈大正14年〉3月12日)は、日本の政治家(貴族院議員、衆議院議員、青森市会議員)、青森県の大地主、醸造家、青森県多額納税者、資産家、実業家。青森商業会議所会頭。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡蜆貝村(現・青森県青森市)出身。大坂彌吉の長男。漢学を修めた。幼くして両親と死別して孤児となった。一時ヤクザの世界に身を置いた。塩町に貸座敷・大金楼を開業した。のち酒造業、質屋を開いた。清酒醸造兼金銭貸付業を営んだ。 青森商業銀行、青湾貯蓄銀行、青森電燈会社、青森瓦斯会社などを設立した。青森商業銀行、青湾貯蓄銀行各頭取、青森電燈、青森倉庫、青森瓦斯各社長、青湾貯蓄銀行、歌舞伎座各取締役などをつとめた。
浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1… 浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1843年11月26日(天保14年10月5日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治時代・大正時代の実業家であり政治家。美濃国恵那郡岩村(現・岐阜県恵那市岩村町)出身。 浅見家は岩村藩初代藩主松平家乗が慶長6年(1601年)に転封の際に上野国那波から随行して来たといわれ、累代の当主は、岩村藩の御用達職、庄屋、問屋職などを勤め、藩の財政を支えていた。與一右衛門は浅見家9代目当主にあたる。幕末から明治の変動期に岩村町の再建に尽力し、また岐阜県議会議長や衆議院議員を歴任した。 また、私財を投じて1906年(明治39年)には岩村・大井間に電気鉄道の岩村電気軌道を開通させた。
長井 氏克(ながい うじかつ、1841年11月26日(天保1… 長井 氏克(ながい うじかつ、1841年11月26日(天保12年10月14日) - 1904年(明治37年)10月9日)は、衆議院議員(立憲政友会)、津市長。 津藩士の子として伊勢国津に生まれる。戊辰戦争の際には大軍監として藩兵を率いて仙台・秋田に進軍した。1869年(明治2年)、津藩少参事に就任し、1871年(明治4年)には権大参事に昇進した。 1878年(明治11年)、「伊勢新聞」を創刊し、社長に就任した。また代言人免許を取得し、代言組合会長になった。 1880年(明治13年)より三重県会議員、同議長を務めた。1887年、三重同志会を立ち上げて自由民権運動を推進し、大同団結運動に参加し、自由党が成立するとこれに加入した。
岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10… 岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10月21日(1839年11月26日) - 大正4年(1915年)1月1日)は、日本の農政家、報徳運動家、実業家、政治家、衆議院議員。遠江国報徳社社長、掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)創業者。 二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。 遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
佐々木 高行(ささき たかゆき、1830年11月26日〈文政… 佐々木 高行(ささき たかゆき、1830年11月26日〈文政13年10月12日〉- 1910年〈明治43年〉3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の政治家。爵位は侯爵。幼名は万之助、通称は三四郎。初名は高喜(たかあつ)、高春(たかはる)と称し、高行(たかのり)に改名した後に、現在の名称に改名した。佐佐木高行とも表記される。土佐三伯の1人(他に板垣退助・後藤象二郎)。著作である日記『保古飛呂比』は幕末・維新期の第一級資料として知られる。 藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名。明治政府高官の中でも保守派を代表する1人であり、明治天皇の信任を楯に政治体制を巡り伊藤博文らと争った。
加藤 素毛(かとう そもう、1825年11月26日(文政8年… 加藤 素毛(かとう そもう、1825年11月26日(文政8年10月17日) - 1879年(明治12年)5月12日)は、江戸時代後期から明治時代初期の俳人である。 名は雅英。幼名は藤平(後に十郎)、号は素毛、周海、米行子、霊之庵、君林舎。 江戸幕府の万延元年遣米使節随行員の一人である。 飛騨国益田郡下原郷下原町村(現・岐阜県下呂市)の名主、加藤三郎右衛門の次男として生まれる。高山で飛騨郡代の公用人となる。当時の郡代であった小野高福から漢学、地役人山崎弘泰(田中大秀の門弟)から国学、山崎弓雄(山崎弘泰の子)から和歌を学ぶ。また小野高福の子である山岡鉄舟とも交流する。 嘉永5年(1852年)に公用人を辞し、関西、九州へ吟行の旅に向かう。
舞咲 りん(まいさき りん、11月26日 - )は、宝塚歌劇… 舞咲 りん(まいさき りん、11月26日 - )は、宝塚歌劇団雪組に所属する娘役。
阪本 智美(さかもと さとみ、11月26日 - )は、日本の… 阪本 智美(さかもと さとみ、11月26日 - )は、日本の女性声優。兵庫県尼崎市出身。EARLY WING所属。 ※太字は、メインキャラクター かつて所属していた声優 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:芸能人)。
フワちゃん(本名:不破 遥香〈ふわ はるか〉、年齢非公表11… フワちゃん(本名:不破 遥香〈ふわ はるか〉、年齢非公表11月26日 - )は、日本の女性プロレスラー、お笑いタレント、YouTuber。芸能事務所はワタナベエンターテインメントを経て、現在は無所属(フリーランス)。 2024年8月11日から自身のSNSを通して起きた一連の不祥事により一切の芸能活動を休止していたが、2025年11月7日に活動再開を発表した。 東京都八王子市出身。自身の性格について、「マジで真っ当な人気者タイプで、超明るかった」と語っている。小学2年生から小学4年生までアメリカのロサンゼルスに居住していた帰国子女。中学校ではバスケットボール部、立川高校在学時は陸上部に所属した。高校生時代は東京都の大会に800m走で出場したが、予選敗退となった。
五月女 舞香(さおとめ まいか、11月26日 - )は、日本… 五月女 舞香(さおとめ まいか、11月26日 - )は、日本のフリーアナウンサー。アリゲーター所属。 東京都出身。聖心女子大学卒業。 2012年4月、富士重工業 (SUBARU) の本社ショールームやイベントでの宣伝業務に携わる「スバルスターズ」のメンバーに選出され、2016年3月まで活動を続けた。 スバルスターズでの活動を終えた後、2016年4月から2022年9月まで青森テレビ (ATV) のアナウンサーを務めていた。 退社後、2022年11月1日付でアリゲーターに所属。以後は司会業とアナウンスを主とした活動を展開している。
針山 莉奈(はりやま りな、11月26日 - )は、テレビユ… 針山 莉奈(はりやま りな、11月26日 - )は、テレビユー福島のアナウンサー。 富山県氷見市出身。群馬県立女子大学卒業。 大学卒業後、NHK富山放送局で契約アナウンサーとして、活動していた。 NHK富山放送局退社後、2026年4月にテレビユー福島(TUF)に入社。同期に、櫻井脩弥がいる。 2026年5月1日に初鳴きをし、TUFでのアナウンサーデビューした。 現在は、JNNニュースの県内ニュースを中心に担当している。 2026年6月12日からは、夕方の情報番組ステップ にも出演している。 Category:テレビユー福島のアナウンサーを参照 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
杉本善徳(すぎもと よしのり、11月26日 -)は、日本のシ… 杉本善徳(すぎもと よしのり、11月26日 -)は、日本のシンガーソングライター、ギタリスト。大阪府八尾市出身。血液型はO型。Waiveが解散した2005年末よりソロ活動を開始。現在は、音楽活動以外にも多岐にわたって活動している。 1994年、fin-de-siecleを結成。1995年、IVを結成。1997年、Rayを結成。 1999年、Kreisに所属し、ミニアルバム『EVER SEEN』をリリース。同年11月29日、Ray解散。 2000年1月、Waiveを結成。同月9日に初ライブを行う。 2005年12月1日、Waive解散。同月25日、日本武道館でのライブイベント『天嘉-四-』を皮切りにソロ活動を開始。