小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13… 小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13年)1月3日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の陸軍砲兵大佐、実業家、右翼の黒幕、右翼団体三六倶楽部主宰者、大政翼賛会総務。戦後A級戦犯として逮捕された。新潟県長岡市出身。 旧長岡藩士・小林保四郎の長男として生まれる。長岡中学・陸軍中央幼年学校を経て、1901年、陸軍士官学校卒業(13期)。同期には志賀直方(志賀直哉の叔父、近衛篤麿の親友)・井田磐楠・林茂清・中岡弥高・建川美次らがいる。 1902年、砲兵少尉となる。1904年、日露戦争に出征し砲兵中尉となる。1908年、陸軍砲工学校高等科卒(14期)、砲兵大尉となる。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 19… 大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 1954年7月19日)は、現在の福井県福井市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は帰山 仁吉。8代大山。179cm、94kg。最高位は東前頭3枚目。 1901年1月初土俵、1907年1月十両昇進。1908年1月、6勝2分2休で、現在なら十両優勝にあたる成績をあげ、翌5月場所で新入幕。3場所連続の好成績で3枚目まで躍進するが、以後は下降線を辿り、十両に陥落。1912年5月に引退して大山を襲名した。1938年5月に廃業し、瀬戸物業を営んだ。 エコノミーホテルほていやブログ~ 両店のルーツと山谷の宿の変遷 ~ - 帰山仁吉とその一族の足跡について書かれた記事 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1… 杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1945年〈昭和20年〉9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将従二位勲一等功一級。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。また、軍要職にあった際の記録を『杉山メモ』として遺したことで知られる。 1880年(明治13年)1月2日、福岡県企救郡横代村(後の小倉市を経て現:北九州市小倉南区横代)に杉山貞の長男として生まれる。 父は天保14年(1843年)8月、豊前国企救郡横代村の農家に生まれ、慶応2年(1866年)の丙寅御変動で農兵として従軍した後、教育者として活躍しており、広寿山福聚寺(現:北九州市小倉北区)に事績が記録される。
長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日… 長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉8月15日)は、日本の神職。熱田神宮名誉宮司。 1880年、石川県の社家に生れる。1911年に神宮皇學館を卒業、1912年に駒形神社宮司となって以降、1913年から大鳥神社、1920年から松尾大社、1923年から多賀神社、1934年から橿原神宮の宮司をつとめ、1936年から熱田神宮宮司、その後同名誉宮司。1946年の神社本庁設立などに尽力した。皇學館大学の初代理事長も務めている。
斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1… 斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の日本の政治家。鉄道官僚。三重県宇治山田市長。 国井清廉の三男として岐阜県、のちの羽島郡笠松町に生まれ、斎藤光の入夫となる。1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。更に大学院に学んだ。帝国鉄道院に出仕し、同書記、同参事、鉄道局参事、札幌、仙台、各鉄道局運輸課長、鉄道監察官を経て、札幌鉄道局長および鉄道省監察局長に進んだのち退官する。その後、参宮急行電鉄専務取締役を経て、1935年(昭和10年)11月、宇治山田市長に就任した。1940年(昭和15年)1月、再選した。3期務め1946年(昭和21年)3月に退任。
松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年… 松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1963年〈昭和38年〉6月2日)は日本の農林官僚であり、退官後に貴族院議員及び参議院議員を務めた。 松村眞平とヒサの間に長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学を首席で卒業し、農商務属兼農商務大臣秘書官となる。同年、高等文官試験に合格し、特許局審査官と農商務参事官を兼任した。さらに農商務書記官に昇進し、大臣秘書官を兼ねた。1910年(明治43年)、法制局参事官に転じ、行政裁判所評定官を兼ね、1918年(大正7年)には法制局第一部長に就いた。その後、農商務省に戻って、畜産局長、商務局長、農林省水産局長、農林局長を歴任し、1929年(昭和4年)には農林次官に就任した。
塩野 季彦(しおの すえひこ、明治13年(1880年)1月1… 塩野 季彦(しおの すえひこ、明治13年(1880年)1月1日 - 昭和24年(1949年)1月7日)は、日本の司法官僚、政治家。司法大臣である。思想検事の主流として活動し、「塩野閥」などと言われた派閥を形作っていたことで知られている。(特捜検察と公安検察の対立参照。)
牧田 孫太郎(まきた まごたろう、1880年(明治13年)1… 牧田 孫太郎(まきた まごたろう、1880年(明治13年)1月 - 没年不明)は、日本の実業家。 福岡県・牧田嘉三郎の長男。山口高等学校を経て、1907年、京都帝国大学経済科を卒業。大阪合同紡績に入社。成宗電鉄創立と共に入社、支配人に就任。1910年、鞍手軽便鉄道に転じる。1913年、日之出生命(現住友生命)に勤務する。 1918年、分家する。1921年、瀬戸内海横断電力創立に当たる。同社常務取締役をつとめる。1925年、広島電気に入り、取締役兼総務部長に進む。1933年、同社監査役。1938年、同社常務取締役に選ばれる。 常務になってからも総務部長を兼務し、技術関係の仕事を除いた一切の社務を切り回す。
野依 辰治(のより たつじ、1880年〈明治13年〉1月 -… 野依 辰治(のより たつじ、1880年〈明治13年〉1月 - 1940年〈昭和15年〉3月2日)は、日本の実業家。三井生命保険取締役会長。生命保険会社協会理事。族籍は福岡県平民。養子・金城の長男はノーベル化学賞を受賞した野依良治である。 福岡県人・野依範治の長男。1901年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1917年、家督を相続する。 三井物産東京本店に入る。1910年、選ばれてドイツに出張を命ぜられ、未取引地方の開拓に努力する。同社金物部長、営業部長、大阪支店長、専務取締役を経て三井生命保険取締役会長兼常務取締役である。 宗教は真宗。趣味は読書、散歩。
赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27… 赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27日 - 1945年〈昭和20年〉9月10日)は、日本の内務官僚、政治家。静岡県知事、警視総監、貴族院議員。 長野県埴科郡南条村(現・坂城町)出身。赤池七右衛門の長男として生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入り、京都府属となり内務部第一課に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年5月、内務属・大臣官房秘書課兼地方局勤務となり、以後、福島県参事官、同県事務官、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、兵庫県事務官・警察部長などを歴任。 1913年6月、内務省本省に戻り内務書記官に就任。
佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 196… 佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 1967年5月31日)は、明治・大正期の農学者、農業教育者。農学博士。専攻は農業経済学。東京農業大学第3代学長。位階および勲等は正三位・勲二等。 古海三次の三男として山形県米沢市に生まれる。兄は同市議会議長を務めた古海勘三郎。親戚に海軍主計少監となった古海長義がいる。 米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)入学の年、富農の佐藤文太郎に見込まれて養子となり、近代農業の可能性を感得して農学を志し、1904年、東京帝国大学農科大学を首席で卒業した。 帝国大学大学院で農業経済学研究のかたわら、全国農事会(帝国農会の前身)で加納久宜幹事長のもとに会誌『中央農事報』の編集に当たり、プラット『英国農業組織論』やピョートル『田園・工場・仕事場』などを紹介した。
川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月… 川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月28日)は、日本の衆議院議員(無所属→政友本党→立憲政友会)、日本大学学長(1933年就任)。 神奈川県鎌倉郡瀬谷村(現在の横浜市瀬谷区)出身。日本大学を卒業後、オハイオ州立大学で学び、修士号を取得。さらにイェール大学大学院で学んで、法学博士の称号を得た。帰国後、日本大学の幹事、講師、学監、理事、教授、学長を歴任した。 また清浦内閣で小松謙次郎鉄道大臣の秘書官を務めた。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回の当選回数を数えた。その他、川口製糸株式会社社長、瀬谷銀行取締役、日華学会評議員なども務めた。
上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月2… 上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月23日 - 1957年(昭和32年)11月1日)は、日本のドイツ文学者。現代ドイツ文学を専攻。東洋文学・思想のドイツ文学への影響を研究。 鹿児島県徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。東京帝国大学独文科卒。1943年「近代独逸文学と東洋」で九州帝国大学文学博士。第七高等学校教授、第一高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、日本大学教授。1950年定年退任。墓所は青山霊園(1イ3-1)。 帝大時代には小山内薫、武林無想庵、吉田白甲らと同人誌『七人』を創刊し、同人の川田順によると、上村は樋口一葉に傾倒し、「にごりえ」「たけくらべ」は全部暗記していた。
宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)… 宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)1月20日 – 昭和38年(1963年)9月6日)は、大正・昭和期の経営者・財界人。日清紡績社長・会長、日本工業倶楽部理事長、東京市会議員。 栃木県安蘇郡飯田町(現・佐野市)に、佐野商業銀行頭取などを務めていた実業家・小林庄太郎の二男として生まれる。宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)時代は舎監いじめなど問題行動が多く、灸を据えるためか、10ヶ月ほど休学して東京の商店に丁稚奉公させられたことがある。この時の経験が、後に働く者の立場を重視する姿勢を涵養したものと思われる。 第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1906年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、住友別子鉱業所(現・住友金属鉱山)に入社する。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 … 坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 - 1942年2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、高知県高岡郡宇佐村(現・土佐市)に生まれた。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1920年(大正9年)8月、陸軍兵器本廠付となり、1921年(大正10年)4月、歩兵大佐に昇進。同年7月、歩兵第55連隊長に就任。1922年(大正11年)8月、第8師団参謀長に転じ、教育総監部第1課長に移る。1925年(大正14年)5月、陸軍少将に進級し第3師団司令部付となる。
猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日… 猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日 - 1995年〈平成7年〉7月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。かつて日本国内最高齢かつジャンヌ・カルマンに次ぐ世界で2番目の長寿であった愛知県名古屋市出身の女性。 愛知県愛知郡寛政村(現・名古屋市港区寛政町)の農家の三女として生まれ、結婚後三男一女をもうけたが、子四人全員に先立たれた。 100歳ころまでは、杖を使いながら老人ホームの外へ買い物へでかけたり、レクリエーションに参加するなど元気であり、趣味の縫い物を嗜んでいたという。108歳の時には「長生きのヒケツは、病気しないこと」と語っていた。その後、何度か脳卒中で入退院を繰り返し、113歳の時に発症してからは寝たきりであった。
清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 19… 清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 1937年4月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 野洲郡中里村(現・野洲市)生まれ。1902年東京専門学校英語政治科卒。愛国生命保険(株)に入る。その後、江州日日新聞社取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀3区から立憲国民党公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補したが落選。1927年の補欠選挙で初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補してトップ当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で当選。1932年の第18回衆議院議員総選挙では2度目のトップで当選。
寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、… 寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、1879年〈明治12年〉1月16日 - 没年不明)は、日本の商人(稲元屋、呉服商)。神奈川県多額納税者。 神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)出身。川上九兵衛の長男。1892年、寺田満重の養子となり1917年、前名・豊通を改め1921年、家督を相続した。 稲元屋と称し、呉服商を営み、県下の多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は藤沢。 旧稲元屋呉服店は初代寺田三郎兵衛が弘化2年に創業、昭和初期には「湘南の三越」ともいわれていた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
前田 晁(まえだ あきら、1879年(明治12年)1月15日… 前田 晁(まえだ あきら、1879年(明治12年)1月15日 - 1961年(昭和36年)9月9日)は、日本の小説家・翻訳者。号は木城。妻は童話作家の徳永寿美子。
高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)… 高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)1月15日 - 1945年(昭和20年)4月8日)は、日本の海軍軍人。階級は海軍少将。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)。位階は従四位。勲等は勲二等。 岩手県上閉伊郡千徳村(現在の宮古市)生まれ。東北学院を経て、1900年(明治33年)に海軍兵学校を卒業した。日露戦争の際には戦艦「富士」の乗組員として旅順港閉塞作戦や日本海海戦などに参加した。1912年(明治45年)、海軍大学校を卒業し、軍令部参謀、海軍大学校教授を歴任した。第一次世界大戦では青島の戦いで第二艦隊参謀を務めた。その後、海軍大学校教頭、海軍砲術学校校長、第一水雷戦隊司令官などを歴任した。
古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 196… 古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 1965年2月16日)は、日本の建築家、建築史家、庭園研究家。神戸高等工業学校校長を務めた。フレッチャー(Banister Fletcher)『建築史』の翻訳でも知られる。日本建築の研究者で東京美術学校(現東京芸術大学)での教職の後、関西に活動の場を移し、その研究を生かし奈良、京都、鎌倉などの文化財修復にあたり、また鐘楼の設計などを多く手がけている。こうした功績で勲一等に叙せられた。 茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として東京に生まれる。1902年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進む。庭園研究を師の辰野金吾に天沼俊一とともに勧められて始める。
新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - … 新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - 1911年1月24日)は、明治期の社会主義者である。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。 熊本県出身。熊本県尋常中学校卒業。東京専門学校中退。 1907年松尾卯一太と『熊本評論』創刊。宮崎民蔵(宮崎滔天の次兄)によって組織されていた土地復権同志会に紙面を提供する。1910年の幸徳事件(大逆事件)で検挙され、1911年1月24日8時55分、市ヶ谷刑務所で絞首刑が執行された。32歳没。
手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 19… 手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 1954年8月16日)は日本の教育者。基督者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。長野県師範学校に入学し、信濃毎日新聞主筆の山路愛山からキリスト教に関する感化を受け、在学中に長野教会で高木信吉牧師から受洗する。明治35年(1902年)、太田水穂が校長を務める東筑摩郡和田尋常小学校に赴任。同37年(1904年)に休職して上京し、植村正久の東京神学社に学ぶ。復職後は上高井郡川田、須坂の各尋常小学校の訓導、東筑摩郡会田尋常小学校校長を経て、明治44年(1911年)長野市後町尋常小学校首席訓導に転じ、教師仲間と「東西南北会」を結成し、形式主義的な教育に対抗して、教師自身の人格を高め、生徒の個性や人格を尊重するという「人格主義教育」を唱えた。
神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月… 神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月10日 - 1924年〈大正13年〉11月21日)は、日本の医師、軍医。李王家御典医。広島県高田郡長田村(現在の安芸高田市)出身。最終階級は陸軍三等軍医正(少佐相当官)。
半澤 洵(半沢 洵、はんざわ じゅん、1879年1月9日 -… 半澤 洵(半沢 洵、はんざわ じゅん、1879年1月9日 - 1972年9月25日)は、日本の農学者・教育者。学位は、農学博士(北海道帝國大學)。日本学士院会員。北海道帝國大學名誉教授。市立名寄短期大学初代学長。北海道札幌郡白石村(現・札幌市白石区)出身。 納豆菌の純粋培養を大正時代に成功させ、納豆製造業の近代化に道を開いたことで知られる。 細菌学を研究し、細菌研究の先駆者にして、第一人者。特に、納豆菌研究が有名。半澤に拠れば「滋養に富み、消化良好にして、欧米のチーズに匹敵する」として、「半澤式納豆製造法」として確立した。従来の藁納豆に比べ、衛生的で、純粋培養の納豆菌の使うだけに高い栄養価も維持された。
長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8… 長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡戸上村長。 大分県大野郡、のちの戸上村(犬飼町、野津町戸上を経て現臼杵市)で、長野音五郎の長男として生まれる。野津高等小学校、臼杵の久保塾で学んだ。農業を営む。 戸上村会議員、同村長を務める。1915年(大正4年)大分県会議員に選出され、政治活動を本格的に開始。憲政会大分県支部常任理事、同幹事長を務め、同党の解散後、立憲民政党に加わり同党大分県支部幹事長となる。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で初当選。
水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 … 水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 - 1929年(昭和4年)4月30日)は、日本の華族(子爵)・政治家。貴族院の院内会派・研究会の幹部で、加藤高明内閣の陸軍政務次官。水野宗家第18代当主。旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の五男。養父は旧結城藩当主家の水野忠愛。妻は旧菊間藩主・水野忠敬の三女・貞子。教育調査会会員、臨時教育会議委員、学習院御用掛、鉄道会議臨時議員などを歴任した。 1879年(明治12年)1月5日、旧紀伊新宮藩藩主・水野忠幹の五男として東京府で生まれる。1884年(明治17年)10月に水野宗家第17代当主・水野忠愛の養嗣子となって同年12月に家督を相続する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学卒業。
大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4… 大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の郷士家。農業土木技術者。大場家は源平合戦(治承・寿永の乱)に勇名を知られた大庭景親の後胤で近世では代々世田谷郷の井伊家領土の代官。信続は13代目にあたる。父信愛の長男として世田谷邸世田谷代官屋敷に生まれる。 東京帝国大学農科大学農学科に入学し、学生時代農科の端艇部ボート選手として紫友会に活躍。1903年(明治36年)卒業後、兵役に服し陸軍砲兵少尉に任じる。1905年(明治38年)大学院に進学。農業工学を研究し、また1年間大学主催の耕地整理講習会にも参加。その後、東京農業大学の前身東京高等農学校講師、農商務省嘱託。
牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4… 牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4日 - 1941年(昭和16年)8月29日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。専門は財政学。学位は経済学博士(東京帝国大学) 牧野鼎藏の三男として熊本県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を1897年(明治30年)に卒業して、熊本県立商業学校で英語や地理を教え、間もなく教頭になる。その後佐賀県立佐賀中学校、暁星中学校等の教壇に立つ。 同郷の大先輩である清浦奎吾が農商務大臣に就任すると、清浦の要請で農商務省特許局嘱託の農商務大臣秘書に転身し、清浦と久米金弥特許局長が創設した工業所有権保護協会の機関誌『工業所有権雑誌』の主幹も務める。
中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3… 中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3日 – 1968年(昭和43年)2月18日)は、農商務官僚、商工官僚、実業家。 熊本県出身。第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。翌年より農商務試補、山林局事務官、水産局書記官、広島大林区署長、高知大林区署長、東京大林区署長、大臣官房文書課長、会計課長、特許局長、山林局長を歴任した。1924年(大正13年)、農商務次官に就任し同年末に製鉄所長官に転じた。1934年(昭和9年)、製鉄所が日本製鉄株式会社に改組されると初代社長に就任し、1939年(昭和14年)まで在任した。
島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 -… 島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 - 1915年〈大正4年〉7月28日)は、日本の漢学者・書誌学者。若くして校勘学で名をあげ、日中の文人と広く交流した一方で、書籍の窃盗などの事件を起こし、37歳のとき自殺した。 字は彦禎または彦楨。号は双桂后人。 1879年(明治12年)1月2日、東京府小石川区(現在の東京都文京区)にて、島田篁村を父とする学者の家系に生まれる。幼少から漢籍を愛し神童と評されたが、吃音を患い会話が苦手だった。 1891年(明治24年)、東京高等師範学校付属尋常中学校に入学、幼馴染の永井荷風や井上唖々と親交する。荷風の回想によれば、彼らはともに軟派で文弱だったため、しばしば同級生の鉄拳制裁の対象になったという。
国米 泰石(こくまい たいせき、1879年1月1日 - 19… 国米 泰石(こくまい たいせき、1879年1月1日 - 1957年12月30日)は、鳥取県八頭郡智頭宿(現・智頭町)出身の仏像修復師(仏師)。墓所は智頭町の興雲寺。 約50年に渡って仏像の修復などに携わり、16府県の95以上の神社・寺院にある約320の仏像修復を手掛けた。「今日の日本の国宝・重要文化財の仏像の命脈は泰石によって保たれた」と称されている。 1879年(明治12年)1月1日、鳥取県八頭郡智頭宿(現・智頭町)に生まれた。父は狩野派の画家である小林桃渓(国米善太郎)、母は諏訪神社の小林正広神主の長女八重野であり、泰石は次男だった。なお、鳥取市が刊行した『鳥取市七十年 市史』では国米泰石が「本市出身」とされている。
22代目田部 長右衛門(22だいめ たなべ ちょうえもん 1… 22代目田部 長右衛門(22だいめ たなべ ちょうえもん 1878年(明治11年)1月31日 - 1956年(昭和31年)6月11日)は日本の実業家・政治家。奥出雲の山林大地主田部家の第22代当主。貴族院議員。農業。島根県多額納税者。勲四等。旧姓は宇山、名は茂秋。田部長右衛門 (23代)は二男。田部長右衛門 (21代)は養父。 島根県能義郡伯太町母里(現在の安来市)の宇山清左衛門の三男に生まれ、飯石郡吉田村、田部長秋の養子となる。1926年(大正15年)家督を相続し前名種之助を改む。 1903年(明治36年)早稲田大学政治科を卒業。家業を継ぎ農業に従事する。 島根県農会副会長、日本勧業銀行島根地方顧問、島根地方森林会議員、大日本山林会・帝国森林会各評議員、山陰合同銀行取締役等その他種々の名誉職を歴任した。
吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月2… 吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男である袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。 明治11年(1878年)、宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。当時の吉野屋には、祖母、両親、5歳と3歳になる二人の姉、そして父の姉夫婦が同居していた。
杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)… 杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)1月29日 - 1966年(昭和41年)2月15日)は、日本の法学者。専門は比較法学、フランス法。東京帝国大学法学部教授、日本学士院会員などを歴任した。 1878年(明治11年)、東京府平民杉山勘蔵・かねの長男として、東京市下谷区にて生まれる。私立小学校、中学校を経て、1899年(明治32年)に第一高等学校を卒業。同年、東京帝国大学法科大学仏法科に入学し、1903年(明治36年)に卒業、法学士の称号を得る。同年、同大学院に進み、翌年には学習院教授として民法、ローマ法を講じる傍ら、法政大学、早稲田大学、明治大学、日本大学で講師として教壇に立つ。
大石 大(おおいし まさる、1878年(明治11年)1月28… 大石 大(おおいし まさる、1878年(明治11年)1月28日 - 1966年(昭和41年)2月10日)は、日本の政治家。 高知県長岡郡長岡村(現南国市)に出生。小学校を3年で退学。1895年(明治28年)以降、長岡村役場書記、代用教員、裁判所書記などを経て、1903年(明治36年)に明治法律学校を卒業。1904年(明治37年)、関西法律学校に学んだ。大阪府警部などを務めた後、1912年(明治45年)から実業界に転じ、愛媛鉄道、大分国東鉄道等の重役、社長を務めた。1918年(大正7年)、政界に転じ、1920年(大正9年)5月の第14回総選挙で政友会から立候補し、衆議院議員に当選(以降、5回当選)。
秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 196… 秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 1963年5月)は、日本基督教会の牧師。1918年から25年間、日本統治時代の朝鮮京城で牧師を務めた。植村正久門下。 1878年(明治11年)、徳川慶喜の御典医、柏原孝章の三男として静岡市に生まれる。致(いたす)は徳川慶喜が命名。静岡師範学校附属小学校、静岡県尋常中学校卒業。尋常中学では、兄の柏原知格が結成した城内倶楽部(静岡中学野球部の前身)に所属した。第四高等学校在学中にクリスチャンとなり、1908年(明治41年)東京帝国大学法科卒業後、直ちに牧師となった。 「父が福沢諭吉と同門の親友で維新前後のハイカラであったため、科学的精神を尊重し、無宗教、伝説打破、個人の自由を標榜し、運動を奨励、健康で体格の良いことを誇りとしたが、このような家庭に成長した私がどのようなものに成ったかと言えば、放縦我侭、傲慢軽率、胸中燃える野心を抱蔵する一個の始末に負えぬ人物と成った。
小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
石川 弘(いしかわ ひろむ、1878年1月25日 - 192… 石川 弘(いしかわ ひろむ、1878年1月25日 - 1929年1月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府、のちの大阪市出身。1895年、大阪府立農学校(現・大阪府立大学)修了。農業を営む。東成郡小路村長、同村会議員、東成郡会議員、同議長、所得税調査委員、東成郡農会長、大阪府農会長となる。 1919年6月10日の大阪府会議員補欠選挙に東成郡から立候補したが、落選した。同年9月25日の選挙で初当選を果たした。同年10月21日から第27代同副議長となった。1923年9月25日の選挙で再選を果たした。同月、第28代副議長に再任された。1925年7月に東成区選出議員となった。同年、大阪市会議員となった。
野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25… 野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月3日)は、日本の英語教師。陸軍士官学校英語教官、明治学院講師。夏目漱石の弟子として知られ、漱石の日記や随筆等に度々登場する。 1897年(明治30年)鹿児島県尋常中学造士館卒業後、第五高等学校文科一に進学した。1900年(明治33年)、東京帝国大学英文学科に入学した。小泉八雲や夏目漱石の教えを受ける。同級生に皆川正禧がいて親友となる。卒業後、1904年(明治37年)2月から東京日比谷中学校講師、陸軍士官学校英語教官、明治学院講師を経た後、漱石の斡旋で、1908年(明治41年)6月、郷里鹿児島の第七高等学校造士館教授に就任した。
若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月… 若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月24日 ~ 大正10年(1921)7月6日)は、満蒙独立運動に関わった活動家である。 明治29年(1896)9月22日に原田村(現・島根県隠岐郡 隠岐の島町 原田)の秋庭源太の養嗣子となるが、明治30年(1897)5月24日離縁、父親・彰信の戸籍に戻る。 明治31年(1898)1月31日に彰信の戸籍より分家届出。 明治34年(1901)1月に設立された黒龍会(国家主義団体)に所属。第一次満蒙独立運動(大正元年・1912年)、第二次満蒙独立運動(大正5年・1916年)に関り、殉難した。 現在のモンゴル国にはいった最初の島根県人とされている。
小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月2… 小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月24日) - 昭和30年(1955年)12月5日)は、明治から昭和時代の社会事業家。大正7年(1918年11月30日)私立感化教育機関札幌報恩学園創立。少年教護と障害児救済につくした。 長野県筑摩郡松本(現松本市)の商家の長男として生まれる。小学に入学後すぐに、父が米相場に手を出し家が破産。その後間もなく母と父も亡くなり10歳の時より紙問屋に年期丁稚奉公に入る。この時より慈善貯金を始め公共慈善の為に70回以上も支出した。23歳の時13年奉公した奉公先を辞め、1900年(明治33年)に小池家再興のため新天地、北海道函館区の地を踏む。同年空知支庁長・山田有斌が身元引受人となり空知支庁に採用される。
好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23… 好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23日-1973年(昭和48年)4月14日)は、日本の教育者、研究者、キリスト教思想家、宗教家である。 視覚障害当事者として、イギリスの制度を日本に輸入し視覚障害者の権利向上のため尽くした。日本盲人の父と称される。 大阪市東区瓦町に生まれる。幼少期から網膜色素変性症のため弱視であった。 大阪府立第一中学校を卒業。 1898年前後(明治31年) 内村鑑三の聖書研究会に参加し、キリスト教徒となる 1900年(明治33年)東京高等商業学校を卒業。 1901年(明治34年)オックスフォード大学ジーザス校に留学。 1902年(明治35年)日本に帰国後、『真英国』を著す。
吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1… 吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1月21日 – 1933年(昭和8年)4月23日)は、日本の外交官。駐トルコ大使。
赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月… 赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月20日または10月11日 - 1953年〈昭和28年〉11月24日)は、日本の洋画家、教育者。 赤松良子は3女である。 現在の岡山県津山市本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。 小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。
五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1… 五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1月19日 - 没年不詳)は、日本の外交官。バンクーバー領事、特許弁理士、弁護士。 長野県更級郡今里村出身。法政大学在学中の1907年(明治40年)に第14回文官高等試験行政科合格。同年更級郡会議員。翌年の1908年(明治41年)に法政大学卒業後、中央大学、東京帝国大学法科大学政治学科選科に進学。外務省入省。通商局を経て1916年(大正5年)ポートランド領事事務代理。1918年(大正7年)に副領事。 1923年(大正12年)にバンクーバー領事に就任。1924年(大正13年)、前年の関東大震災による影響で一時帰国、内務省経理部供給課に配属。
鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18… 鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、日本の古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。燕市名誉市民。 父鈴木惕軒は、長善館二代館主、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻鶴代は陸羯南の次女。 幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学漢学科卒業。同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。
伊藤 貞次(いとう ていじ、1878年〈明治11年〉1月17… 伊藤 貞次(いとう ていじ、1878年〈明治11年〉1月17日 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の実業家、政治家。第15代広島市長。広島商工会議所顧問。族籍は新潟県平民。 元キャンディーズのメンバーで、俳優水谷豊の妻である女優・歌手の伊藤蘭は曽孫、女優の趣里は玄孫にあたる。 新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。伊藤東蔵の長男。早くに父を亡くし、一家は困窮する。母の実家・渡邊家に身を寄せる。農作業に精を出す。 1896年、家督を相続する。1897年3月、東京数学院中学全科を卒業。鉄道局運輸課傭、北海道庁事業手。1899年7月、大蔵省文官普通試験に合格、同年8月北海道庁鉄道書記試験に合格。