三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13… 三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13日 - 1946年(昭和21年)12月15日)は、日本の実業家。芝浦製作所(現東芝)会長や、三井物産社長を務めた。別名・守之助。三井永坂町家7代当主。 東京出身。三井伊皿子家当主三井高生(1843-1914)の三男で、鳥居坂家(三井永坂町家)6代当主・三井高潔(三井篤次郎、三井物産社長)の養子。妻は住友家当主・住友友親の娘で住友友純養妹の楢光。三井高寛や三井高信は兄。横浜商業学校卒業。1899年三井物産船舶課(のちの三井船舶)課長。1904年芝浦製作所(現東芝)会長。1909年三井銀行取締役。1921年から三井物産社長を務めたが、池田成彬三井合名理事による改革で1934年に退任させられ、専門の役員と交代した。
奥村 三樹之助(おくむら みきのすけ、1875年1月13日 … 奥村 三樹之助(おくむら みきのすけ、1875年1月13日 - 1939年6月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1896年、東京法学院卒。横浜燃料、名古屋コークス、横浜石炭同業組合副組合長となる。 1915年の第12回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から無所属で立候補したが落選した。1917年の第13回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1919年に衆議院議員を辞職した。1939年死去。
佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月1… 佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉)は、日本の政治家、実業家。青森県北津軽郡五所川原町会議員。五所川原通運、木造合同運送各社長。佐々木銀行監査役。津軽鉄道社長、青森県議会議員佐々木啓二の祖父。 青森県北津軽郡五所川原町平井町の人。峰五郎の長男。初代佐々木嘉太郎の甥。分家する。 西北運送業界の先駆者。初代日通五所川原支店長。宗教は禅宗。趣味は謡曲。住所は青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)… 長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)1月12日 - 1945年(昭和20年)11月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1894年(明治27年)12月、士官候補生(8期)として陸軍に入る(原隊は歩兵第5連隊)。1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。 日露戦争では歩兵第5連隊中隊長、後備歩兵第5連隊副官として黒溝台会戦に参加した。盛岡連隊区司令官などを経て、1924年(大正13年)2月、歩兵第31連隊長に就任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将昇進と同時に待命となり、同年12月、予備役に編入された。
田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963… 田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963年12月22日)は、日本の元裁判官。東京控訴院長や大審院判事などを歴任し、八幡大学(現・九州国際大学)初代学長を務めた。従四位勲三等。族籍は鹿児島県士族。
五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 19… 五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 1922年4月28日)は、日本の俳優である。 1875年(明治8年)1月8日、栃木県に生まれる。 東京に移り、1900年(明治33年)、満25歳のとき、新派の高田実が主宰する「高田実一座」に入座、東京・本郷座で多く出演した。 1908年(明治41年)に吉沢商店が目黒に開設したグラスステージをもつ映画スタジオ・吉沢商店目黒撮影所に、1910年(明治43年)ころから出演を始める。女形の木下吉之助と多くの作品で共演した。1912年(大正元年)、同社は他の3社と合併してトラスト日活を形成、翌1913年(大正2年)10月には日活向島撮影所を建設・開所し、目黒撮影所を閉鎖した。
井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 -… 井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 - 1963年(昭和38年)7月19日)は、日本の家政学者・教育家。日本女子大学校(現在の日本女子大学)初の女性校長(第4代、1931年11月 - 1946年11月)。 1875年(明治8年)1月6日、兵庫県氷上郡船城村(現・兵庫県丹波市)に生まれる。10歳で氷上郡各町村組合立氷上高等小学校に入学。在学中に裁縫の教師から「女に学問はいらないというのは古い考え方である。これからは女子も大いに勉強して国家に尽くす人にならなければいけない」と言われ、京都府立第一高等女学校を志す。 15歳で京都府立第一高等女学校に進学する。同校の寮で広岡浅子(明治・大正期に活躍した女性実業家)の娘・亀子と同室になった縁で、広岡家が営む大阪の豪商・加島屋久右衛門家にも出入りするようになる。
小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 194… 小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 1945年7月23日)は、日本の医師、医学者。特に眼科学の分野で著名な人物である。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。 1889年(明治22年)長谷川泰の済生学舎(のちの日本医学校、日本医学専門学校を経て日本医科大学)に入門し、3年で医師免状を下付された。 さらに東京帝国大学の選科生として河本重次郎に学び、修了後は軍医として1894年(明治27年)には日清戦争、1905年(明治38年)には日露戦争に従軍。陸軍軍医学校教官、陸軍医務局御用掛となる。 その後は東京第一衛戍病院に勤務。その間、「小口病」として学会に認められた特異な眼病患の最初の研究が成された。
和田 重次郎(わだ じゅうじろう、1875年(明治8年)1月… 和田 重次郎(わだ じゅうじろう、1875年(明治8年)1月6日 - 1937年(昭和12年)3月5日)は、北アメリカ、アラスカ、カナダで著名なマッシャー(犬ぞり使い)。金鉱発掘やトレイル開拓、遭難船救助など行う。アラスカで行われる屋内マラソンランナーとしても三度の優勝を飾る。
河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 … 河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 - 1950年〈昭和25年〉12月23日)は、日本の政治家、実業家。神奈川県会議長。豊川村長。足柄肥料会社社長。曽我銀行取締役。小田原実業銀行専務取締役。 副総理兼東京五輪担当大臣、建設大臣、行政管理庁長官、農林大臣を務めた河野一郎は次男。参議院議長を務めた河野謙三は三男。五女・美喜子はラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)社長や富士観光(現・富士レックス)社長を務めた越田覚造に嫁いだ。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表を務めた河野洋平は孫。外務大臣・防衛大臣、デジタル大臣などを歴任している衆議院議員、河野太郎は曽孫にあたる。
若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日… 若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日 - 昭和21年(1946年)9月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員。東京府平民。位階および勲等は従三位・勲二等。 元総理大臣の橋本龍太郎および元高知県知事橋本大二郎の外祖父。 兵庫県城崎郡豊岡町(現在の豊岡市)の西楽寺に、熊本県人で僧侶である若宮正海の三男として生まれる。 開成中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し、同年12月、逓信省に入り逓信属・管船局勤務となる。また、兄正音の養子となる。 1902年(明治35年)家督を相続する。 北海道逓信局長、北部逓信局長、管船局長兼高等海員審判所長、戦時船舶管理局長などを歴任。
國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1… 國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1932年2月17日)は、徳島県美馬市出身で小野川部屋、草風部屋(京都相撲)、入間川部屋に所属した力士。本名は山本 宇八。8代待乳山、7代稲川。165cm、88kg。最高位は東前頭18枚目(ただし、番付外幕尻格)。 大坂相撲、京都相撲に在籍し、京都相撲では史上最後の大関となった。その後39歳で東上し1914年5月幕尻格で初土俵入幕。それ以後は十両、幕下で過ごし、1919年1月に引退して待乳山を襲名、のち稲川に変更し、出羽海部屋で指導した。 日ノ出松→國岩→國ヶ岩
木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日… 木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日 - 1968年(昭和43年))は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍中将。栄典は正二位勲二等。 1875年、元東与賀村助役木下善次の長男として生まれる。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校に8期生として入校。成績優秀で所謂「恩賜の銀時計」組であった。日露戦争に従軍し、遼陽会戦にて負傷し前線を離れた。戦後は陸軍大学校に学び(陸大18期)ここでも銀時計組となった。 その後は歩兵第56連隊長、第2師団参謀長、歩兵第29旅団長を経て1925年(大正14年)旅順要塞司令官に着任。軍事に加え遼東半島の軍政を司った。
竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月… 竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月3日 - 1966年(昭和41年)12月6日)は、日本の裁判官、検事。 富山県下新川郡入善町出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。浦和地方裁判所判事、東京区裁判所判事、長野区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、和歌山地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任。その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1935年(昭和10年)、広島控訴院検事長となった。1937年(昭和12年)に退官した後は弁護士を開業した。
石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日… 石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、生気研究者。基隆要塞司令官を務めた陸軍少将で、また生気自強療法を唱え生気の医療への応用を図った。従四位勳三等功四級。
登坂 又蔵(のぼりさか またぞう、1875年(明治8年)1月… 登坂 又蔵(のぼりさか またぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 1944年(昭和19年)3月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。山形県米沢市長。 現在の山形県米沢市に生まれる。1897年(明治30年)京都市染織学校訓導を拝命し、1899年(明治32年)退職したのち、1905年(明治38年)東京高等工業学校染織科選科を卒業する。米沢義社取締役、奥羽電気常務取締役を経て、1915年(大正4年)9月、山形県会議員に当選し以来6期務めた。その間、米沢市会議員、同副議長、同議長を歴任。ついで1929年(昭和4年)3月、米沢市長に就任したのち、1933年(昭和8年)11月、山形県会議員に再選した。
沈 鈞儒(しん きんじゅ、1875年1月2日〈同治13年11… 沈 鈞儒(しん きんじゅ、1875年1月2日〈同治13年11月25日〉 - 1963年6月1日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家。立憲派・政学系の政治家で、日中間で武力衝突が勃発すると抗日運動を展開した。そのために蔣介石の弾圧を受けた「七君子」の1人としても著名である。中華人民共和国では初代最高人民法院院長となった。字は秉甫。号は衡山。祖籍は浙江省嘉興府嘉興県。 祖父は蘇州知府、叔父は陝西学政使、父は候補知県という地方官吏の家庭に生まれる。沈鈞儒は幼年で旧学に親しんだが、後に変法派の思想へ傾いた。1900年(光緒26年)、父が死去したため西安に赴き、叔父の下で文書係を務めた。1903年(光緒29年)、挙人となり、翌年、進士となっている。
加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2… 加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2日 - 1932年(昭和7年)11月24日)は、静岡県出身の日本の俳人。別号に清白之舎、千里坊など。本名は孫平。 1875年(明治8年)静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。静岡師範学校(現在の静岡大学)在学中に俳句を始め、正岡子規に入門。高浜虚子、河東碧梧桐とともに、早くから子規門となった若手俳人として注目される。また静岡師範学校の仲間を中心に俳誌『芙蓉』を主宰、同誌を発行する「芙蓉会」は松島十湖、藤田紫亭、渥美渓月、久保田九品太らが集い、静岡における日本派の拠点となった。 静岡師範卒業後、教員となった後も俳句を続けたが、子規亡き後は次第に自由律俳句に傾倒。
児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 -… 児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 - 1900年7月4日)は、日本の明治時代の外交官。父は大審院長を務めた児島惟謙。 1875年(明治8年)1月1日に児島惟謙の長男として東京府神田に生まれる。1881年(明治14年)に錦華小学校(現千代田区立お茶の水小学校)に入学するが、1883年(明治16年)に父が大阪控訴院長となったことから、大阪師範学校(現大阪教育大学)附属小学校に転じる。 同志社普通学校(現同志社中学校・高等学校)を経て、1891年(明治24年)に東京に戻り、商工中学校(現日本大学第三中学校・高等学校)を経て、高等商業学校(現一橋大学)に進学し、1894年(明治27年)に卒業。
千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1… 千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1月) - 昭和15年(1940年)12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。 米沢藩士・千坂高雅の三男として生まれる。 明治29年(1896年)11月26日陸軍士官学校(第8期)卒業、明治30年(1897年)6月28日陸軍少尉任官。 明治31年(1898年)歩兵第5連隊付、明治32年(1899年)11月17日陸軍中尉任官。明治36年(1903年)歩兵第31連隊中隊長、明治 37年(1904年)戦時大本営陸軍部管理部 副官歩兵大尉、明治42年(1909年)5月20日陸軍少佐任官。明治 45(1912年)第二師団副官、大正3年(1914年)歩兵第3連隊大隊長 、大正4年(1915年)12月23日陸軍中佐任官、同日予備役編入。
広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年(明治8年)1月 … 広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年(明治8年)1月 - 1936年(昭和11年)5月2日)は、日本の内務官僚。官選宮崎県知事。旧姓・豊田。 香川県出身。豊田官吾の二男として生まれ、広瀬トセの養子となる。第三高等学校を卒業。1904年、京都帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、北海道庁事務官・第二部長、群馬県事務官、和歌山県事務官・警察部長、内務書記官、長野県内務部長、徳島県内務部長、長崎県内務部長などを歴任。 1919年8月、宮崎県知事に就任。新設の県立中学校について、前堀内秀太郎知事が飫肥町(現日南市)に設置の内定を出していたが、広瀬に引き継がれなかったのか下穂北村(現西都市)に設置を約束した(妻中学校)。
荘司 市太郎(しょうじ いちたろう、1874年〈明治7年〉1… 荘司 市太郎(しょうじ いちたろう、1874年〈明治7年〉1月30日 - 1950年〈昭和25年〉2月25日)は、日本の技師、工学博士、工業試験所技師、大阪工業試験所長。工業化学会会長。専門は応用化学。 福井県敦賀郡敦賀町に生まれる。東京府・荘司孝治郎の長男。1900年、家督を相続する。 1899年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。更に大学院に学ぶ。農商務省に入り、技師に任ぜられる。 日本蝋燭製造所顧問、農商務技師、工業試験所技師、特許局技師兼同審査官兼工場監督官、臨時産業調査局技師等に歴任。1918年、工業試験所技師に任じ大阪工業試験所長となり1938年2月、退官する。 族籍は東京平民であった。
平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1… 平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1月29日 - 1960年(昭和35年)3月18日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)、豪農、篤農家、実業家。五所川原銀行頭取。津軽鉄道社長。松木屋呉服店社長。陸奥銀行、佐々木銀行、青森貯蓄銀行、松木屋呉服店、津軽酒造各取締役。鳴海銀行監査役。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市)生れ。平山雄太郎の長男。東奥義塾及び慶應義塾に学んだ。農業を営んだ。村会議員、青森県会議員同参事会員、衆議院議員に挙げられた。陸奥鉄道社長、国有化後に津軽鉄道の初代社長。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市大字湊)にある平山為之助の住居は、1769年(明和6年)建立の古民家で、「旧平山家住宅」として国の重要文化財に指定され保存されている。
野呂 丈太郎(のろ じょうたろう、1874年(明治7年)1月… 野呂 丈太郎(のろ じょうたろう、1874年(明治7年)1月29日 - 1927年(昭和2年)10月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県足立郡安行領根岸村(のち北足立郡神根村、現:川口市安行領根岸)で、染織業・野呂栄次郎の長男として生まれる。東京で警察官を務めながら法律学を学ぶ。その他、榊原鍵吉から剣術を学び、さらに柔道を修めた。父の病により帰郷し家業を継いだ。埼玉製織会社を設立して社長となり、茨城県で鉱山事業も営んだ。 政界では、神根村会議員、北足立郡会議員、埼玉県会議員などを務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から憲政会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
石原 磊三(いしはら らいぞう、1874年(明治7年)1月2… 石原 磊三(いしはら らいぞう、1874年(明治7年)1月28日 - 1916年(大正5年)8月14日)は、日本の内務官僚。警視庁官房主事。位階は正五位、勲等は勲四等。広島県出身。 広島県御調郡美郷村(現・尾道市)にて、平民・石原定七の二男として生まれる。母はタツ(実政元助の二女)。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年11月に高等文官試験に合格した。翌年、埼玉県属に任ぜられ、以後、富山県・岩手県・石川県・愛知県などで事務官・内務書記官を歴任した。 1906年(明治39年)7月には、岩手県第二部長として着任直後に難航していた盛岡市の小学校敷地問題を解決したことが記録されている。
田辺 熊一(たなべ くまいち、1874年(明治7年)1月25… 田辺 熊一(たなべ くまいち、1874年(明治7年)1月25日 - 1940年(昭和15年)4月17日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡巻町長を務めた。 新潟県蒲原郡(後の西蒲原郡巻町、現新潟市西蒲区)で、古着商・田辺間吉の長男として生まれる。1897年、中央大学卒業。巻町役場臨時雇を経て、1898年2月、第4代巻町長に就任し、同年12月まで在任した。その後上京し、西蒲原郡出身の小柳卯三郎代議士の書生となり、東京法学院で学び、1901年に卒業した。その後、斎藤和平太代議士の指導を受けた。 1903年、新潟県会議員に当選。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙で新潟県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
星村 市平(ほしむら いちへい、1874年(明治7年)1月2… 星村 市平(ほしむら いちへい、1874年(明治7年)1月25日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。戒名海徳院釋無量宝寿居士 熊本県玉名市出身。1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。 1923年(大正12年)8月に陸軍歩兵大佐・小倉連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に歩兵第16連隊長を経て、1928年(昭和3年)8月10日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に、のち1933年(昭和8年)4月に後備役に編入した。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。新潟県中頸城郡下堀之内村(現:上越市諏訪)出身。犬養毅の娘婿。 大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。 1925年1月20日の北京での日ソ基本条約締結時、その5日前にスケートで腰の骨を折った為、ベッドの上で調印した。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月24日 - 1965年(昭和40年)1月5日)は、新潟県中頸城郡高田(のち上越市)出身の日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 父は諏訪村初代村長の芳澤襄良。
黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 … 黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 - 1945年5月11日)は、日本の官吏、都市計画家、第3代旧鶴岡市長。 酒田県田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)生まれ。名古屋の都市計画に携わっていた折、イギリスの田園都市の設計を担当したレーモンド・アンウィンに教えを請うたことがきっかけで、アンウィンに傾倒するようになる。田園都市思想を日本の事情を踏まえたうえで、「山林都市」という形で具現化すべく提唱するも、賛同を得るに至らなかった。後に請われて生地、鶴岡市の市長となるも、教育人事をめぐる政争がきっかけで、排斥運動が起き、辞任する。名古屋時代の部下に石川栄耀がいる。石川のことを可愛がり、親しい友人でもあった。
山本 美越乃(やまもと みおの、1874年(明治7年)1月2… 山本 美越乃(やまもと みおの、1874年(明治7年)1月22日 - 1941年(昭和16年)5月13日)は、明治から昭和時代前期の日本の経済学者。京都帝国大学総長。 旧鳥羽藩士・山本昇平の三男として三重県志摩郡鳥羽町に生まれる。鳥羽商船学校を飛び級で卒業し、同志社普通学校を経て、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学選科を卒業する。 大阪高等商業学校(現・大阪市立大学の前身)教諭を経て、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部の構成母体)教授となり、同校の命にて、1905年(明治38年)経済学研究のため欧米に留学。コロンビア大学夏季講座を経て、ウィスコンシン大学大学院で経済学のほか、ポール・ラインシュより殖民政策を学び、文学修士を取得。
近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月2… 近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月20日 - 1942年(昭和17年)6月8日)は、日本の実業家、衆議院議員。号は井堂。秋田県出身。小牧近江(翻訳家・社会運動家)、島田晋作(衆議院議員)は子。 秋田県南秋田郡一日市村(現八郎潟町)の生まれ。旧姓名は畠山留吉。16歳のとき、土崎港(現在の秋田市土崎港)の商人近江谷家の養子となる。最終学歴は、秋田中学校中退。1889年(明治22年)栄治(のちに栄次)の名を襲名すると、20代の青年にして地元経済の基盤作りに取り組み始める。 私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了。改修後の港は近江谷が招請した廣井勇にちなんで「廣井波止場」と名づけられたが、「近江谷波止場」とも呼ばれた。
常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19… 常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19日 - 1922年6月19日)は、茨城県東茨城郡(のちの水戸市)出身の大相撲力士。第19代横綱。本名は市毛 谷右衛門(いちげ たにえもん)。 大相撲を「国技」に押し上げ、その品格力量から角聖と呼ばれた。出羽ノ海部屋師匠として3横綱4大関など多くの力士を育て、出羽海一門を角界の保守本流として確立したほか、ちゃんこ鍋や後援会などの風習を始めたとされる。 1874年(明治7年)、旧水戸藩士だった市毛高成の長男として水戸の宝鏡院の門前に生まれる。市毛高成は明治維新後に河川運送業と倉庫業を営んだが、荷主から預かった商品を騙し取られ、責任を一身に負って弁償してからは経営が悪化して両方とも倒産してしまった。
森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明… 森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明治7年〉1月18日 - 1938年〈昭和13年〉4月12日)は、日本の医学者、精神科神経科医。(森田)神経質に対する精神療法である「森田療法」を創始した。 高知県野市町(現・香南市)生まれ。号は形外。 高知県立第一中学、第五高等学校、東京帝国大学医科大学を卒業。東京帝国大学では呉秀三門下。巣鴨病院に勤務。根岸病院顧問(1906-29)。東京慈恵会医科大学教授を務める。 1919年(大正8年)、妻の久亥の助けを借りながら、自宅を利用して神経症の入院療法を開始する。
賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月… 賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月16日 - 1949年〈昭和24年〉4月6日)は、日本の農商務官僚、実業家。台湾総督府総務長官。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町佐田)で、佐田賀来氏一族の賀来重八郎の長男として生まれ、親戚の賀来熊次郎(本名は惟達、『大神系譜』の著者)の養子となる。第五高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、農商務省に入り、鉱山局属となる。 1900年(明治33年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。東京鉱山監督署で鉱山監督官として勤務。1903年(明治36年)9月、台湾総督府に転じ、同年10月、民政部通信局庶務課長に就任。
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)… 岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)1月14日 - 1942年(昭和17年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。自転車輸入商、相模鉄道社長。衆議院議員(通算6期)。 神奈川県横浜市相生町で、米屋・岡崎安之助の長男として生まれる。10歳で家出し上京、漢学塾の書生となり、1889年に高等商業学校(現一橋大学)に入学、同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)などがいた。1895年に卒業後三井物産に入り、取引先のアメリカ人に同行して渡米、一年余欧米を視察し、帰国の船中で徳富蘇峰と知り合う。三井に戻り結婚ののち、独立し京橋に日米商店(のち日米富士自転車)を開く。1898年よりたびたび海外へ視察に向かい、主要メーカーと特約を結び、大阪にも支店を持つなど成功する。
横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日… 横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日 - 1938年(昭和13年)4月14日)は、日本の政治家・衆議院議員(公友倶楽部)、貴族院議員、石川県多額納税者、資産家、実業家。温泉電軌、横山鉱業部、ボルネオ護謨各社長。共同生命保険、金沢電気瓦斯各取締役。尾小屋鉱山監査役。金沢倉庫相談役。金沢商業会議所会頭。族籍は石川県士族。 加賀八家横山氏一門で、石川県士族の横山隆興(11代当主横山隆章三男)の長男。金沢市生まれ。1895年、東京物理学校を卒業。以来専ら自家経営の鉱業に従事し、1906年、満韓巡遊の途に上り親しく鉱業を視察する。1912年、金沢市で開催された第2回帝国菓子飴大品評会会長に就任する。
赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942… 赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942年3月28日)は、日本の実業家。三菱財閥に入社し、小岩井農場場長、三菱地所社長・会長などを務めた。熊本県八代郡鏡町上鏡(現在の八代市鏡町上鏡)出身。法科大学(現在の東京大学法学部)卒業。 熊本県八代郡の豪農・下山群太の二男として生まれてすぐ熊本藩士・赤星五郞八の養子となる。旧制五高を経て東京帝国大学法科大学政治科卒業後、三菱財閥に入社。小岩井農場が岩崎家によって直接経営されるようになった際に同農場の場長に抜擢され、1916年まで場長を務めた。当時小岩井農場は多額の累積赤字を抱えており、従業員の待遇は非常に悪かった。陸治は農場のオーナーであった岩崎久弥の全面的な支持のもと、従業員の給料を引き上げ、日用品を安く提供し、借金の返済の相談に応じるなど数々の待遇改善策を打ち出した。
長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 193… 長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 1931年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1894年(明治27年)宮崎県尋常中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)を第1回生として卒業。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科を中退し、アメリカのテキサスに留学し農業を学ぶ。その後、中国に渡り、天津に在留し、肥料製造及び販売業に従事し、その傍ら倉庫業を経営し、天津商工銀行取締役となる。また、天津居留民団行政委員会議員、同議長、天津日本人商業会議所評議員を歴任する。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において宮崎県区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。
香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954… 香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。 帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。 千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。
岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 … 岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 - 1943年〈昭和18年〉7月23日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。官選栃木県知事、樺太庁長官、警視総監、貴族院議員。旧姓・浜田。 山形県出身。米沢市関東町にて餌差(足軽階級)であった浜田長之助の長男として生まれ、岡田義質の養子となる。米沢尋常中学興譲館を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学撰科を卒業。同年12月、文官高等試験に合格し、内務属となり警保局に配属された。 1899年5月、沖縄県参事官兼臨時沖縄県土地整理事務局事務官に就任。以後、山梨県警察部長、千葉県警察部長、新潟県事務官・第四部長、警視庁第二部長、同官房主事などを歴任。
成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 … 成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 - 1950年(昭和25年)2月20日)は、日本の内務官僚。内閣拓殖局長、官選奈良県知事。 1874年(明治7年)1月、成毛勝蔵の長男として千葉県香取郡高岡村に生まれる。帝国大学農科大学乙科、東京専門学校英語政治科(現早稲田大学政治経済学部)、和仏法律学校(現法政大学)法律科(1901年(明治34年))を卒業する。 1905年(明治38年)11月に高等文官試験行政科に合格して、大蔵省に入省し内務省に転じた。宮城県玉造郡長、富山県事務官・警察部長、秋田県・熊本県・兵庫県の警察部長、埼玉県・兵庫県・愛知県の内務部長を歴任する。 1922年(大正11年)に奈良県知事に就任し、1927年(昭和2年)に内閣拓殖局長に就任する。
中山 龍次(なかやま りゅうじ、1874年(明治7年)1月1… 中山 龍次(なかやま りゅうじ、1874年(明治7年)1月1日 - 1962年(昭和32年)6月29日)は、日本の逓信官僚。新潟県十日町市長。 新潟県中魚沼郡十日町村(現在の十日町市)出身。1892年(明治25年)、東京郵便電信学校を卒業。逓信技手に任じられ、東京郵便電信学校教授、通信技師、逓信技師を歴任した。イギリス・ドイツ留学後、1913年(大正2年)から在官のまま中華民国交通部顧問を務めた。 1928年(昭和3年)に退官した後は日本放送協会関東支部常務理事となり、1934年(昭和9年)からは日本放送協会常務理事・業務局長となった。1937年(昭和12年)に退任した後は、1938年(昭和13年)から電気通信協会初代会長を務めた。
近藤 賢二(こんどう けんじ、明治7年(1874年)1月 -… 近藤 賢二(こんどう けんじ、明治7年(1874年)1月 - 昭和23年(1948年))は、日本の実業家。横浜商工会議所常議員。東洋麻糸紡績、朝日スレート、日本カーボン、石綿織機、眞崎大和鉛筆、日の出石綿工業社、横浜耐火煉瓦、横浜帆布各(株)社長、昭和電極製造、昭和特殊鋼、松尾礦業、日本炭素工業、湘南電気鉄道、太平運輸、木曽発電各(株)取締役。東洋電機製造(株)監査役。 近藤家は兵庫県津名郡生穂村に住し代々庄屋を務めた家柄である。近藤正惠の長男として明治7年(1874年)1月出生し後先代みねの養子となる。明治21年(1888年)家督を相続。 明治27年(1894年)同志社を卒業。台湾総督府に勤めた後実業界に入り、サミュエル商会(シェルの前身)・ライジングサン石油(昭和シェル石油の前身)に勤務する。
窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1… 窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1月27日 - 1937年(昭和12年)7月26日)は、内務官僚、岡山市長。 岡山県浅口郡船穂町(現在の倉敷市)出身。坪井良一郎の二男として生まれ、窪谷勝蔵の養子となった。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)、判事検事登用試験に合格し、さらに高等文官試験にも合格した。1902年(明治35年)に検事となり、東京区裁判所・東京地方裁判所に勤務した。翌年、辞職して弁護士を開業した。 その後内務属として内務省に入り、大阪府警視、関東州民政署警視、関東都督府事務官兼参事官、統監府書記官、佐賀県事務官・警察部長、熊本県事務官・警察部長、高知県内務部長、群馬県内務部長を歴任した。
4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 -… 4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 - 1928年3月15日)は、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)出身の実業家・政治家。株式会社吉村商店を設立して縮緬(丹後ちりめん)製造業を営み、峰山町長や衆議院議員(2期)を務めた。 1873年(明治6年)1月、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)の太田治右衛門の二男として生まれた。幼名は新太郎。1880年(明治15年)2月13日生まれとされることもあり、京都府出身とされることもある。長兄の太田寿之助は江原銀行株式会社専務取締役などを務めている。 小学校卒業後に京都市の西本願寺経営学校で学んだ。高等商業学校(後の旧制東京商科大学、現・一橋大学)を卒業したとされることもある。
田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年〈明治6年〉1月… 田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年〈明治6年〉1月20日 - 1935年〈昭和10年〉8月27日)は「天下の糸平」と呼ばれた相場師・田中平八の孫。英国ケンブリッジ大学に留学し、帰国後ラグビーを日本に伝えた。 生糸や洋銀の相場で巨額の富を得た田中平八。その長女・登羅(とら)と、婿であり糸平不動産や田中鉱山を興した田中菊次郎(北村菊次郎)の間に長男として生まれた。 当時の進学予備校であった神田淡路町の共立学校(現・開成中学)に一時在籍し、学習院尋常中等科(現・学習院中等科)へ入学。1887年(明治20年)に留学準備のため横浜のヴィクトリア・パブリックスクールに入学。ここで後に共にラグビーを日本に伝えるエドワード・B・クラークと出会う。
日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日… 日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日 - 1921年(大正10年)6月1日)は、日本の構造家、建築系構造工学者、京都帝国大学工学部教授。 専門は建築材料学・構造建築学・材料強弱学などで、鉄筋コンクリート建築の権威と呼ばれた。 福井県士族日比登の二男として生まれる。磯部尚は実弟である。明治18年、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学。明治30年、帝国大学工科大学土木科を卒業し工学士となり、京都帝国大学理工科大学助教授となる。 明治35年土木工学硏究のためドイツに留学、明治37年帰国し工学博士の学位を取得。大正3年7月京都帝国大学工学部工科大学教授。 京都大学旧工学部建築学教室本館(総合研究15号館)等の構造設計を手がける。
佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20… 佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20日 - 1951年(昭和26年)1月25日)は、日本の宗教家、真言宗の僧侶。真言宗総本山醍醐寺第九十六世座主、真言宗醍醐派管長、三宝院門跡、京都専門学校校長(現・種智院大学学長)。 (西院流(にしのいんりゅう) * 保寿院流・仁和御流・西院流を仁和三流と称す 《前座主大僧正惠眼大和尚嘆德文》 [昭和二十六年二月十四日、眞言宗醍醐派管長佐伯恵眼大僧正の本葬儀に讀まれたもの。(漢文) ] 夫れ以るに、佛教は實相の門なり、固より寂滅の樂あり。人間は爲の境なり、豈に常住の想を作さむや。 伏して惟れば、故の醍醐派管長・醍醐寺座主・三寶院門跡・大僧正惠眼大和尚は、早く二親の撫育を辭して、西國の密室に入る。