上司 海雲(かみつかさ かいうん、1906年(明治39年)2… 上司 海雲(かみつかさ かいうん、1906年(明治39年)2月15日 - 1975年(昭和50年)1月25日)は昭和の華厳宗の僧侶。第206世東大寺別当(住職)。文化人サロンを形成し「観音院さん」の名で親しまれた。 奈良市、東大寺塔頭持宝院に生まれる。1930年、龍谷大学英文科卒。一年志願兵で野砲22連隊に入隊。また太平洋戦争末期に召集され朝鮮に派遣される。1939年、東大寺塔頭観音院住職となる。東大寺学園中学校・高等学校校長、東大寺執事長、華厳宗宗務長等を歴任。1972年華厳宗管長・東大寺206世別当となり、開祖良弁上人の1200年忌を営む。東大寺大仏殿の昭和の大修理のために尽力したが、1975年、任期途中で癌で死去。
林 正義(はやし まさよし、1906年(明治39年) 2月1… 林 正義(はやし まさよし、1906年(明治39年) 2月14日 - 1980年(昭和55年)9月26日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱予備罪で有罪となった海軍中尉である。幽顕塾塾長。 熊本県出身。祖父は横井小楠と親交があった人物で、父は刀工、母は神風連に関わった人物の娘である。島田数雄(上海日報主筆)は叔父。妻は五・一五事件で首相官邸を襲撃した海軍士官の一人、村山格之の姪。 済々黌中学を卒業。福村利明は同級生で、刎頚の仲であった。2年の浪人を経て海軍兵学校56期に入校。高橋赫一、田辺弥八、三上作夫のほか、 古賀清志ら五・一五事件に関わる3名が同期生である。卒業席次は111中107番。
山中 日露史(やまなか ひろし、1906年(明治39年)2月… 山中 日露史(やまなか ひろし、1906年(明治39年)2月14日 - 1971年(昭和46年)5月20日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、室蘭市市政功労者。 北海道室蘭郡室蘭町(室蘭区を経て現室蘭市)で生まれる。1927年(昭和2年)中央大学法律科を卒業し、弁護士を開業した。 室蘭市会議員(2期)、北海道会議員(2期)、同参事会員に在任した。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第4区から日本社会党所属で出馬して当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選した。第25回、第26回総選挙で当選。1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙では次点で落選した。
薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年… 薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年)2月12日 - 2000年(平成12年)6月2日)は、日本の天文学者・科学史学者(中国科学史)。京都大学名誉教授。初めは天文学の研究者であったが、新城新蔵の影響を受けて古代中国の暦法の研究へ転じた。 兵庫県神戸市生まれ。甲陽中学校、旧制大阪高等学校(現大阪大学)理科丙類を経て、昭和4年(1929年)京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒業。 1929年、京都帝国大学副手、1935年(昭和10年)東方文化学院(現京都大学人文科学研究所)京都研究所嘱託、後に同研究員。1948年(昭和23年)京都大学研究員、1949年(昭和24年)同大人文科学研究所教授として、共同研究などにより中国科学史研究を世界的水準で進め高めた。
手嶋 恒三郎(てしま つねさぶろう、1906年2月12日 -… 手嶋 恒三郎(てしま つねさぶろう、1906年2月12日 - 1993年11月2日)は、日本の経営者。千代田火災海上保険社長、会長を務めた。宮城県出身。 1927年に小樽高等商業学校を卒業し、1928年8月に千代田火災海上保険に入社。1948年8月に取締役に就任し、1954年4月に常務、1958年6月に専務を経て、同年9月には社長に就任。1977年7月に会長に就任し、1980年7月に取締役相談役を経て、1983年7月には相談役に就任。 1969年6月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1993年11月2日心不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
稲蔭 千代子(いなかげ ちよこ、1906年(明治39年)2月… 稲蔭 千代子(いなかげ ちよこ、1906年(明治39年)2月11日 - 1980年(昭和55年)10月19日)は、日本の女性アナウンサー。民放初の女性アナウンサー。 1906年(明治39年)2月11日、愛知県碧海郡高浜町(のち高浜市)において長女の林千代子として生を受ける。5歳で中西家に養子に出され、中西千代子となる。中西家は叔母の家にあたる。 1922年(大正11年)愛知県立第一高等女学校本科(のちの愛知県立明和高等学校)を卒業し、同校専攻科英語科に進む。しかし、養父が事業に失敗したことから学校を中退し、養家のためになればと、偶然新聞広告で見かけたという名古屋中央放送局の女子アナウンサーに応募した。
上林 忠次(かんばやし ちゅうじ、1906年〈明治39年〉2… 上林 忠次(かんばやし ちゅうじ、1906年〈明治39年〉2月11日 - 1968年〈昭和43年〉11月23日)は、昭和期の農業技術者、技官、政治家。参議院議員、日本専売公社理事。 京都府出身。1930年(昭和5年)九州帝国大学農学部を卒業した。 1930年、大蔵省に入省し、専売局たばこ技術課長、同生産課長、日本専売公社生産部長、同理事などを歴任した。 1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、1959年(昭和34年)6月の第5回通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。この間、緑風会政務調査会副会長、自民党政審副会長、参議院建設委員長、第2次池田内閣・通商産業政務次官、国会たばこの会副会長などを務めた。
辻村 もと子(つじむら もとこ、1906年〈明治39年〉2月… 辻村 もと子(つじむら もとこ、1906年〈明治39年〉2月11日 - 1946年〈昭和21年〉5月24日)は、日本の小説家。北海道開拓にかける若き日の父親をモデルとして描いた長編『馬追原野』で樋口一葉賞を受賞した。 1906年(明治39)年2月11日、北海道岩見沢志文にて父・辻村直四郎、母・梅路の長女として生まれる。紀元節にあやかり元子と命名される。1912年(明治45年)、志文尋常高等小学校に入学。1919年(大正8年)に小学校を卒業後、父親の故郷である神奈川県小田原の祖母の家に寄留し、小田原高等女学校に入学する。1920年(大正9年)、小田原の祖母の死去に伴い、函館遺愛女学校に転校する。在学中に文学に親しむようになる。
平田 森三(ひらた もりぞう、1906年2月10日 - 19… 平田 森三(ひらた もりぞう、1906年2月10日 - 1966年5月8日)は日本の物理学者。「寺田物理学」の伝統をうけつぎ、日常生活で見かける「割れ目」の研究などで知られている。
松山 緑(まつやま みどり、1906年2月10日 - 200… 松山 緑(まつやま みどり、1906年2月10日 - 2005年3月23日)は、日本の経営者。藤田観光社長を務めた。 長崎県出身。1930年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に安田信託に入社。 1943年に藤田興業に転じ、1957年8月に同和鉱業取締役に就任し、1959年5月に常務を経て、1963年2月に藤田観光副社長に就任し、1977年3月には社長に昇格。 1981年3月に会長、1985年3月に取締役相談役を経て、1991年3月に相談役に就任し、1997年3月には名誉社友に退いた。 2005年3月23日老衰のために死去。99歳没。
射水川 成吉(いみずがわしげきち、1906年2月10日 - … 射水川 成吉(いみずがわしげきち、1906年2月10日 - 1945年3月10日)は、愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は八木 成吉(やぎ しげきち)。 1906年2月10日に愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)で生まれる。地元の土地相撲で大関を務め、その経歴を買われて高砂部屋へ入門し、1924年5月場所において幕下付け出しで初土俵を踏んだが、その場所を負け越してしまい、翌場所は一気に序二段まで降格された。1932年1月に勃発した春秋園事件の影響で十両を飛び越えて新入幕を果たすが、1938年5月場所において二度目となる十両降格を味わい、1939年1月場所を最後に現役を引退、年寄・大山を襲名した後、岩友・西岩の順に変更した。
野長瀬 正夫(のながせ まさお、1906年2月8日 - 19… 野長瀬 正夫(のながせ まさお、1906年2月8日 - 1984年4月22日)は、日本の詩人・児童文学作家。
加藤 誠平(かとう せいへい、1906年2月7日 - 196… 加藤 誠平(かとう せいへい、1906年2月7日 - 1969年5月7日)は、日本の林学者・造園家・登山家。森林利用学の分野で活躍、索道の技術研究、自然保養林制度制定にかかわり、また観光学や風景学、さらに橋梁の美学についても研究を重ねた人物。学位は、農学博士。東京大学名誉教授。放物線索理論による架空索理論の研究や伐木運材技術についての研究で業績をあげ、1957年日本農学賞受賞。著書に「林業土木学」「森林土木」などがある。元ヒマラヤ登山隊長。1963年夏、東大カラコルム遠征隊長を務めた。登山で全身リューマチにかかり、国立伊東温泉病院に入院し治療を受けていた。 父は宗教学者加藤玄智。東京生まれで、東京高等師範学校附属中学校を経て、1926年(大正15年)に旧制静岡高等学校卒業。
浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日… 浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日 - 1995年〈平成7年〉6月21日)は、日本の俳優。本名:武内 武。 福岡県糟屋郡宇美町馬場出身。福岡市立商業学校卒業。新倉事務所に所属していた。 戦前は新築地劇団や劇団文化座などに所属して舞台俳優として活動。戦後は映画俳優として、数多くの話題作や名作に出演する。総出演本数は約300本に上る。個性的で幅の広い演技に定評があり、日本映画屈指の名バイプレーヤーとして活躍した。 1906年(明治39年)2月7日、福岡県糟屋郡宇美町馬場に、呉服商の父・伴太郎と母・むめの3男1女の三男として生まれる。宇美尋常高等小学校を経て1926年(大正15年)に福岡市立商業学校を卒業。
吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978… 吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978年1月26日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。福井県最後(第36代)の官選知事だが、現地には赴任しなかった。 1906年(明治39年)、徳島県海部郡の海産物商の家に生まれる。熊本時習中学、第七高等学校造士館を卒業。1929年(昭和3年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業、内務省に入省し宮崎県内務部土木課兼地方課に勤務。12月、宮崎県知事官房文書課長。以後、島根県警察部警務課長、同特別高等警察課長、熊本県警察部特別高等警察課長、内務省警保局保安課勤務、北海道庁拓殖部長、愛媛県経済部長、軍事保護院援護局指導課長、防空総本部総務局疎開課長、同施設局人員疎開課長、島根県内政部長、兵庫県経済部長などを歴任する。
岩佐 凱実(いわさ よしざね、1906年2月6日 - 200… 岩佐 凱実(いわさ よしざね、1906年2月6日 - 2001年10月14日)は、日本の実業家、銀行家。経済同友会代表幹事、安田銀行常務、富士銀行頭取、経団連副会長。(財)日本心臓財団会長。
堀内 仁(ほりうち まさし、1906年2月5日 - 1988… 堀内 仁(ほりうち まさし、1906年2月5日 - 1988年5月30日)は、日本の弁護士、法学者。 福岡県出身。1928年九州帝国大学法学部卒。弁護士、日本勧業銀行、第一勧業銀行調査部顧問を経て、大東文化大学法学部教授。1976年定年、その後非常勤講師。金融法務が専門。
平山 博三(ひらやま はくぞう、1906年〈明治39年〉2月… 平山 博三(ひらやま はくぞう、1906年〈明治39年〉2月4日 - 1990年〈平成2年〉1月6日)は、日本の政治家。浜松市長、全国市長会会長。旧姓・安間。位階は従四位。 静岡県浜名郡河輪村(現浜松市中央区西町)で、農業・安間伊三郎の三男として生まれ、引佐郡奥山村(現浜松市浜名区)の平山家の養子となる。県立蚕業学校(現静岡県立浜松大平台高等学校)を経て、1928年、早稲田大学専門部法律科を卒業。 卒業後に帰郷し、1928年に静岡県庁に入り、総務部調査課長、労働部長などを歴任。その後、1956年、浜松市助役に就任。1959年5月に浜松市長に選出され、1979年4月まで市長を五期20年にわたり務めた。
大村 秀雄(おおむら ひでお、1906年2月3日 - 199… 大村 秀雄(おおむら ひでお、1906年2月3日 - 1993年1月13日))は、日本の哺乳類学者。日本近代クジラ学の創始者。日本鯨類研究所第2代所長。日本学士院賞受賞。 1906年、東京府生まれ。静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校理科乙類を経て、1929年、東京帝国大学農学部水産学科卒業。 卒業後1年間は内閣の嘱託として人口食料問題調査会の業務に従事し、続く3年間は農林省の嘱託として漁業に関する調査に従事した。この時に沿岸捕鯨の事業場の許可事務や捕鯨統計をまとめたりしたのが鯨との関わりの始まりであった。1933年5月に農林技手として水産庁に勤務を命じられ、1936年8月、地方農業技師として和歌山県経済部水産課に勤務。
木下 順治(きのした じゅんじ、1906年2月3日 - 19… 木下 順治(きのした じゅんじ、1906年2月3日 - 1992年9月23日)は、日本の牧師、聖書学者。 北海道旭川出身。日本神学校(現:東京神学大学)卒。日本基督教団の牧師。豊浦、日立、栃木、東京主僕教会、旭川にて布教。
田口 連三(たぐち れんぞう、1906年2月3日 - 199… 田口 連三(たぐち れんぞう、1906年2月3日 - 1990年3月14日)は、日本の実業家。石川島播磨重工業社長や、同社会長、日本機械工業連合会会長、日本・トルコ協会会長などを歴任した。 山形県出身。1929年米沢高等工業学校(現山形大学工学部)機械科卒業、石川島造船所入社。1950年取締役に昇格。1964年社長。1970年日本機械工業連合会会長。1972年会長。1973年日本産業広告協会会長。1979年相談役。1980年日本・トルコ協会会長。日本銀行参与なども務めた。
菊池 揚二(きくち ようじ、1906年2月1日 - 1978… 菊池 揚二(きくち ようじ、1906年2月1日 - 1978年12月22日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 中央大学在学中に戦前の東京学生柔道界の花形として活躍し、東京学生連合と警視庁との対抗試合や満州との対抗試合で名を馳せた。このほか昭和天覧試合や全日本選士権大会でも活躍し、戦後は指導者として警視庁や母校・中央大学の師範を歴任して多くの後進を指導。実父は菊池謙二郎、義父は講道館10段永岡秀一で、存命中は“最も毛並みの良い柔道家”との評を得ていた。 旧制第二高校校長等を務め硬骨な教育家として知られる菊池謙二郎の二男として、茨城県の水戸市に生まれた。当時、父が中国の上海市にて東亜同文書院の教授(実際は教授の上の現地責任者の教頭)を務めており、市内を流れる大河・揚子江の“揚”の字と、二男の“二”の字を取って“揚二”と名付けられたという。
加藤 五郎(かとう ごろう、1906年2月1日 - 1991… 加藤 五郎(かとう ごろう、1906年2月1日 - 1991年から1996年の間に没)は、日本の造園家。京都府京都市に造園会社を設立し、以後京都を中心に数多くの名庭の整備を手がけた[要出典]。 1982年(昭和57年)に日本造園学会上原敬二賞を受賞した。 京都市の公園形成史や造園の歴史と文化に関する研究に貢献、近代京都の庭園・公園づくりに大きな足跡を残した。 東京農業大学を卒業した。 手がけた事業としては、京都御所の庭園改修、平安神宮の庭園の設計、京都市内の公園や学校庭園の設計などがあげられる[要出典]。 京都市の都市緑化行政において、加藤の貴重な情報ソースが利用されている。加藤は、伝統的な日本庭園の技法を尊重しながらも、西洋の造園術も取り入れた近代的な庭園作りを目指した。
三澤 二郎(みさわ じろう、1906年2月1日 - 1999… 三澤 二郎(みさわ じろう、1906年2月1日 - 1999年7月3日)は、日本の経営者。ミサワホーム社長を務めた。長野県南安曇郡明盛村(現安曇野市)出身。長男は三澤千代治。 1923年に旧制松本中学校を卒業し、後に長野県にある材木会社である三沢木材店に入社。 1953年に社長に就任し、新潟県の信濃川流域で相次いで設置されていた水力発電所向けに木材を納入し、会社を発展させた。1967年10月に三沢木材店から分離して、設立されたミサワホーム社長に就任。1971年に社長の座を三澤千代治に譲り、自身は会長に就任し、1976年には相談役に退いた。 1982年に勲四等瑞宝章を受章。 1999年7月3日老衰のために死去。
築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 -… 築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 - 1989年6月27日)は、日本の東洋史学者。 京都府京都市生まれ。京都府立第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)卒、東京高等師範学校地歴科卒、1934年東京文理科大学東洋史学科卒、群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)教諭、神戸市立第一中学校(現神戸市立葺合高等学校)教諭、岩手県師範学校教授、北海道第三師範学校教授、青森師範学校教授、弘前大学助教授、1968年「唐代政治制度の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。西京大学助教授、1953年京都府立大学教授、1969年定年退官、名誉教授、園田学園女子大学教授、京都産業大学教授。
秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 200… 秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 2000年1月3日)は、日本の運輸官僚。海運総局長官・運輸事務次官を務めたのち、日本空港ビルデング初代社長や東京モノレール社長を歴任した。通産官僚の秋山收は子。 岡山県岡山市出身。1924年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1928年京都帝国大学法学部卒業。逓信省に入省(淀橋郵便局)。海運局次長、運輸省参事官、海運局長などを経て、1948年海運総局長官。1949年6月運輸事務次官。1952年1月退官。日本空港ビルデングの設立に参加、民間資本を集めて1953年に初代社長に就任した。のち相談役。このほか、東京モノレール社長(1965年)、東京シティ・エアターミナル会長、ロイヤルパークホテル社長、国際港湾協会初代事務総長、日本航空協会会長(1991年)も務めた。
藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 198… 藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 1988年10月6日)は、昭和期の経済学者、立教大学名誉教授。専門は財政学。財政学研究の第一人者として、地方財政論を開拓した権威。 1905年(明治38年)、京都府宮津市に生まれる。1930(昭和5年)九州帝国大学(現・九州大学)経済学部卒業。1934年(昭和9年)京都大学大学院修了。 立命館大学講師、財団法人東京市政調査会(現・後藤・安田記念東京都市研究所)調査課長、明治大学講師、中央大学講師を務めたのち、1946年(昭和21年)、立教大学教授に就任。 1952年(昭和27年)、立教大学経済学部経済学科長に就任。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)まで経済学部長を務め、大学施設の増築にともない大学院読書室の開設を実現し、経営学科(現・経営学部)関連のスタッフの充実に尽力した。
師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年… 師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年〉2月26日 - 1991年〈平成3年〉2月28日)は、日本の実業家、無産運動家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡飯能町(現飯能市)で生まれる。1926年(大正15年)、明治大学専門部法律科を卒業。武州産業代表取締役に就任し、木工業大栄商会を設立した。 大学卒業後、無産運動に加わり、日本労農党中央委員、全国農労大衆党中央執行委員、社会大衆党西多摩支部長を務めた。 戦後の1945年(昭和20年)に日本社会党に入り、1948年(昭和23年)、同埼玉連合会長に就任。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第2区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月… 安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大尉。二・二六事件に関与した皇道派の人物で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。 1905年(明治38年)2月25日、岐阜県揖斐郡揖斐町が本籍、父・栄次郎が石川県立金沢第二中学校の英語教師を在職中(1903年4月 - 1907年8月)に金沢市で三男として生まれる。父はその後慶応普通部の英語教師となる。輝三は宇都宮中学校、仙台陸軍幼年学校、陸士予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校38期を207番/340名で卒業する。同期に二・二六事件の首魁のひとり磯部浅一(元近衛歩兵第4聯隊附、元一等主計)がいた。
鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月2… 鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。弁護士。台東庁長。 栃木県宇都宮市に生まれる。1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、在学中に高等試験行政科に合格する。同年8月、台湾総督府営林所勤務を拝命し、1931年(昭和6年)5月、台北州淡水郡守に任じた。ついで新竹州警務課長、台北州警務課長、同教育課長、高雄州地方課長、知事官房文書課長兼務、興亜院廈門連絡部在勤、米穀局総務課長を経て、台東庁長に就任した。 戦後、弁護士となり、熊谷、墨田、渋谷、久喜各簡易裁判所判事を経て、1975年(昭和50年)定年退官した。
筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月2… 筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月20日)は、日本の元皇族。旧華族。山階宮菊麿王第3王子。靖国神社第五代宮司。位階勲等は従三位勲一等侯爵。皇族時代の名と身位は藤麿王。 1905年(明治38年)2月25日午後10時15分、山階宮菊麿王の第3王子として誕生。御七夜の3月3日に「藤麿」と命名された。 1925年(大正14年)2月25日、皇族として貴族院議員に就任。同年3月23日勲一等旭日桐花大綬章受章。 皇族男子として初めて皇族軍人としての義務を免除され、東京帝国大学国史学科で黒板勝美に師事する。義務を免除された理由は、明治天皇により、将来、伊勢の神宮の祭主となることが定められていたためとされる。
萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25… 萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25日 - 1994年(平成6年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、日立市長(3期)。 秋田県出身。1929年東京帝国大学英法科卒。日立製作所に入り、日立工場に勤務する。同工場労務係長、庶務課長を経て1943年総務部長に就任する。この間1939年に日立市議に選出された。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた後、日立電鉄専務取締役を経て、社長に就任した。1963年日立市長に就任、3期務め、1975年に引退した。1994年死去。死去後日立名誉市民に選ばれた。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23… 丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23日 - 1993年(平成5年)9月7日)は日本の僧。曹洞宗大本山永平寺第77世貫首。曹洞宗管長。道号法諱「瑞岳廉芳」、慈光圓海禅師。
生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月… 生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月23日 - 2000年〈平成12年〉1月18日)は、日本の歌人。沼田市名誉市民。日本歌人クラブ初代会長、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、現代歌人協会理事。戦後の女流歌人の第一人者と称される。旧姓・間宮。 三重県宇治山田町宮後(現・伊勢市)生まれ。父・間宮斎一、母・きよの四女。出生時は7ヶ月の未熟児だった。宇治山田高等女学校(現・三重県立宇治山田高等学校)を経て、1926年(大正15年)に日本女子大学家政科卒業。帝国大学哲学科聴講生となる。同年10月、横山有策の媒酌により生方誠と結婚。群馬県沼田市で薬局「かどふぢ(角藤)」を経営する生方家に入る。
増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年… 増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年)2月23日 - 昭和45年(1970年)12月13日)は日本の実業家、政治家。境港商工会議所第2代会頭。元増谷薬局代表取締役。元境町会議員。三代目当主。本名は正巳。 鳥取県境港市出身。実家は薬種商。 米子中学校(現米子東高校)、金沢医科大学付属薬学専門部(現在の金沢大学薬学部)卒業。 大正14年(1925年)から大阪で自家製剤を修行して帰郷し、家業の薬種商・増谷薬店“杏花堂”を手伝う。昭和22年(1947年)境町の町会議員を務める一方、境港商工会議所初代会頭松本豊の後を受けて2代目会頭に就任する。 昭和25年(1950年)境町だけでなく米子駅前にも出店し、実弟・芳郎とともに有限会社増谷薬局を設立するなど、会社を大きく発展させた。
上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま ま… 上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま まさすけ)、1905年(明治38年)2月23日 - 1989年(平成元年)4月11日)は、日本の劇作家・小説家。姉は童謡詩人の金子みすゞ。
日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 … 日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 - 1987年(昭和62年)9月25日)は昭和期の日本の経営者。日本興業銀行常務、日産化学工業社長、山一證券社長・会長、国際電信電話会長を務めた。義父は元住友総理事・大蔵大臣の小倉正恒。
木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21… 木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。 江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。
牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1… 牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1975年5月3日、本名:宇野主一)は、日本の映画説明者、漫談家。東京演芸協会第2代会長。
北村 義男(きたむら よしお、1905年(明治38年)2月2… 北村 義男(きたむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1979年(昭和54年)12月1日)は、日本の医学者。石川県七尾市出身。第四高等学校(現:金沢大学)、東京帝国大学(現:東京大学)医学部卒業。 1930年(昭和5年)に東京帝国大学医学部卒業後、1930年(昭和11年)に医学博士号を取得。1936年(昭和28年)に徳島大学教授となる。1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)までは同大学医学部付属病院(現:徳島大学病院)の院長も兼任していた。その後は医学部長を経て1970年(昭和45年)に同大学学長に就任。 1977年(昭和52年)に四国女子大学(現:四国大学)学長に就任したが、1979年(昭和54年)に満74歳で逝去。
光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月… 光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月20日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鹿児島県肝属郡牛根村、後の垂水市牛根境に生まれる。貧農の塩屋家の8人兄弟の五男。小学校卒業後、母校の小間使いとして働く。1919年(大正8年)鉄道員の求人に応募し、福岡県の折尾駅に勤務。1年半後に鉄道員を辞め、大阪の紡績会社で給仕として働きながら夜学に通う。その後、上京して新聞配達をしながら神田の予備校に通ったが、関東大震災被災のため大阪へ戻って、ガラス会社の職工となり、1925年(大正14年)関西大学専門部別科入学。さらに京阪商業学校(後の大阪府立守口高等学校、現大阪府立芦間高等学校)を経て、1931年(昭和6年)関西大学専門部法科を卒業した。
本庄 陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-193… 本庄 陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-1939年7月23日)は、日本の小説家である。北海道石狩郡当別町出身。 北海道に移住した元佐賀藩士・本庄一興の六男として生まれる。家業は農業と雑貨商で、8歳のときに渚滑村(現紋別市)に移住。同地の尋常高等小学校卒業後、代用教員を務める。兄を頼って樺太で1年生活した後、上京して青山師範学校(現東京学芸大学)に編入する。小学校の教師として、東京の名門、誠之小学校に勤務していたが、新興教育運動に参加し、下町の学校を希望して、東京府深川区にある明治第二尋常小学校に転任する。そこでの経験はのちに「白い壁」という作品として結実した。 その後、1930年3月に東京教員消費組合の事件で検束されたことを理由として退職勧告を受ける。
米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月… 米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月19日 - 1994年(平成6年)3月18日)は、日本のシュルレアリスムの洋画家、詩人。 山梨県甲府市にて甲陽館米倉旅館を営む両親のもとに、次男として生まれる。 1922年、山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。1923年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)経済学部に入学し、後に日本にシュルレアリスムの紹介をおこなう詩人、山中散生と親交を結ぶ。1926年、名古屋高等商業学校を卒業する。 1928年、伯母が経営する伊藤学園甲府女子商業学校および甲府湯田高等女学校(現甲斐清和高等学校)の教諭となる。1930年、甲府市において辻葦夫、中村宗久、小柳津経広、田中常太郎、小宮山堅次とともに六人社を結成し、第1回展を開く。
平岡 倭文重(ひらおか しずえ、1905年(明治38年)2月… 平岡 倭文重(ひらおか しずえ、1905年(明治38年)2月18日 - 1987年(昭和62年)10月21日)は、作家・三島由紀夫(本名:平岡公威)の母。漢学者・橋健三の次女。加賀藩の漢学者・橋健堂の孫。少年時代の三島由紀夫の文学的才能を発見し、その成長を励ました。 1905年(明治38年)2月18日(土曜日)、倭文重は東京の小石川区指ヶ谷町92番地(現・東京都文京区白山)で、父・橋健三と母・トミの間に次女として生まれた。橋家は、代々金沢藩主・前田家に仕えていた儒者の家系であった。父・橋健三は漢学者で、東京開成中学校の5代目校長を務めた。倭文重の上には、健行、雪子、正男、健男、行蔵、の兄と姉、下には、妹・重子がいる。
初田 佐一郎(はつだ さいちろう、1905年2月18日 - … 初田 佐一郎(はつだ さいちろう、1905年2月18日 - 2001年3月18日)は、日本の実業家。滋賀県出身。 滋賀県立膳所中学校(現膳所高等学校)を経て、和歌山高等商業学校(現和歌山大学)卒業後、鉄道省に入省。太平洋戦争中は陸軍司政官としてフィリピンに派遣された。その後、京阪バス株式会社常務取締役、株式会社京阪交通社社長、株式会社日本レンタカー京阪社長等を務める。財団法人大阪陸運協会常任理事、財団法人大阪陸運協会会長を歴任後、財団法人大阪陸運協会顧問、京阪電鉄客員等を歴任した。著書には「生き残った者」洛陽社(1947年)等がある。
高橋 道男(たかはし みちお、1905年〈明治38年〉2月1… 高橋 道男(たかはし みちお、1905年〈明治38年〉2月18日 - 1969年〈昭和44年〉8月7日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(1期)。 熊本県熊本市で高橋卯治郎の長男として生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学文学部文学科(独文学専攻)を卒業した。 1928年、天理外国語学校講師に就任。以後、天理図書館(現天理大学附属天理図書館)建築現場事務担当、天理教海外伝道部課長、天理図書館主任、天理教東京出張所長、同総務長、日本宗教連盟理事、天理教教会本部役員、天理教責任役員、天理大学理事兼評議員、(株)天御津組監査役、共立出版(株)監査役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
川田 寿(かわだ ひさし、1905年(明治38年)2月18日… 川田 寿(かわだ ひさし、1905年(明治38年)2月18日 - 1979年(昭和54年)7月5日)は、日本の経済学者。元慶應義塾大学、大阪学院大学教授。 茨城県稲敷郡朝日村(現・土浦市および阿見町に分離)で生まれる。慶應義塾大学に進学し、社会科学研究会に加入するとともに、学生社会科学連合会再建運動に加わる(後者は野呂栄太郎の影響による)。しかし、1930年(昭和5年)に検挙され、大学は3年で中退した。 アメリカ合衆国に渡り、ペンシルベニア大学大学院でニューディール下の労働運動研究に従事する。アメリカでは反戦運動にも加わった。 1941年(昭和16年)に帰国して、世界経済調査会主事となる。 1942年(昭和17年)9月11日、神奈川県警察部特高課に「アメリカ共産党の指令を持ち帰った」という容疑により妻とともに検挙される。
宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月… 宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 佐賀県小城郡小城町(現小城市)に生まれる。1917年(大正6年)5月に渡台し、小中学を経て1927年(昭和2年)3月、早稲田大学付属早稲田第二高等学院を卒業し、1933年(昭和8年)10月、高等試験行政科に合格した。同月、鉄道部監督課勤務となり、台湾総督府交通局書記を拝命する。1937年(昭和12年)9月、台中州彰化市助役に就任し、1938年(昭和13年)8月、新竹州中壢郡守に転じた。のち地方警視、台北州警務部保安課長、交通局参事、鉄道部経理課長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政官に任じた。
藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 19… 藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 1976年11月8日)は、日本のジャーナリスト。 東京書籍取締役、東京教育研究所理事。 明治38年(1905年)福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)西山手で出生。小浜市立雲浜小学校、旧制小浜中学校、第四高等学校文科を経て、京都大学文学部哲学科、同大学院卒業。 昭和7年 – 朝日新聞社(大阪)入社、学芸部員、昭和22年から23年3月まで図書編集部次長。 昭和24年 – 東京書籍株式会社取締役、編集部長。 昭和28年 – 東京教育研究所理事、専務理事。昭和39年12月 – 東京書籍株式会社退任。