山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3… 山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3月26日 - 1995年 <平成7年> 12月23日)は、日本の経営者。レンゴー社長を務めた。位階は正五位。 大阪府出身。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年にレンゴーに入社。1947年に監査役に就任し、1950年に取締役、1960年11月に常務、1962年5月に専務を経て、1963年11月に社長に就任。1973年2月に会長に就任し、1984年6月に相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年12月23日肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 20… 大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 2009年7月24日)は、日本の彫刻家。1979年、勲四等瑞宝章受章。1994年、千葉県市川市名誉市民。多くの彫刻作品が市川市内施設、千葉県内各地に設置されている 。 1906年、東京都千代田区生まれ。 1923年、東京高等工芸学校彫刻部に入学。1926年、東京美術学校(現:東京芸術大学)彫刻科塑像部に入学。学科は異なるものの、同期には加藤栄三、東山魁夷らがいる。1928年、千葉県市川市に移住。 1930年、東京美術学校に在学中の第11回帝展に初入選し、その後毎回出品する。1931年東京美術学校卒業。建畠大夢に師事。1932年の『首飾りの女』が第13回帝展の特選を受賞。
第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(… 第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(明治39年)3月25日 - 1979年(昭和54年)9月15日)は、日本の実業家、政治家、芸術家。衆議院議員。島根県知事。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 奥出雲の山林大地主で「たたら御三家」の一つ「田部家」の第23代当主。名は朋之。号は松露亭。茶室「明々庵」の再建や「田部美術館」の設立など文化振興にも尽力した。竹下登元首相も彼が支援した政治家の一人である。 祖父と同じ部屋で寝起きしていたため、大ダンナ教育は早朝から始められた。夜も明けぬ暗いうちに起こされ、武士の出で養子だった祖父の長秋から毎日昔の武士気質を聞かせられたという。 若い頃、女優司葉子の父・庄司繁二郎に良いことも悪いこと(遊ぶこと)もしょっちゅう連れ歩いてもらって教わったこともあり司の姉妹揃って大いに可愛がった。
市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 -… 市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 - 没年不詳)は、日本の経済・思想史研究者。 横浜市生まれ。東京商科大学本科卒。国立国会図書館勤務、国際事業部長、拓殖大学教授。77年定年、名誉教授。城西大学教授。
伊藤 実雄(伊藤 實雄、いとう じつお、1906年(明治39… 伊藤 実雄(伊藤 實雄、いとう じつお、1906年(明治39年)3月25日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、広島県安芸郡熊野町長。 広島県安芸郡熊野村(現熊野町)で、伊藤忠兵衛の息子として生まれた。1938年(昭和13年)私立山陽中学校(現山陽高等学校)を卒業した。 農業を営む。熊野町会議員、同町長、同町農業会長、広島県農業中央会初代会長、全国農業会議所副会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で広島全県区に無所属で出馬して当選し、日本農民党に所属して衆議院議員に1期在任した。その後、1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で広島県地方区に無所属で立候補したが次点で落選した。
河野 鷹思(こうの たかし、本名・河野孝、1906年3月21… 河野 鷹思(こうの たかし、本名・河野孝、1906年3月21日 - 1999年3月23日)は、日本のグラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナー。愛知県立芸術大学名誉教授。日本における商業デザインの草分けの1人。 東京都神田出身。1929年に東京美術学校(現・東京芸術大学)図案科卒業。同年松竹の宣伝部に入り、その後、ポスター、舞台美術、衣裳(コスチューム)、パッケージ、ディスプレイ、(屋外の)サインなど、幅広いデザインをこなした。 名取洋之助の日本工房にも参加し、雑誌NIPPONのレイアウト、グラフィックデザイン等も担当した。 1940年から1941年にかけては、日本写真工芸社に参加し、『VAN』と『NDI』という対外宣伝誌のデザインを担当した。
小酒井 義男(こざかい よしお、1906年〈明治39年〉3月… 小酒井 義男(こざかい よしお、1906年〈明治39年〉3月21日 - 1993年〈平成5年〉6月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 岐阜県郡上郡八幡町(現郡上市)出身。1918年(大正7年)八幡町尋常小学校を卒業した。 1927年(昭和2年)美濃電気軌道(現名古屋鉄道)に入社。1945年(昭和20年)名古屋鉄道労働組合の結成に参画し同執行委員長となる。1947年(昭和22年)日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)中央執行副委員長に就任。日本労働組合総同盟(総同盟)愛知県連会長なども務めた。 1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、同党岐阜県連会長などを歴任。1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に社会党公認で出馬して当選し、以後、第4回、第6回通常選挙で再選され、参議院議員に連続3期在任した。
新関 勝芳(しんぜき / にいぜき かつよし、1906年(明… 新関 勝芳(しんぜき / にいぜき かつよし、1906年(明治39年)3月20日 - 1994年(平成6年)4月27日)は、日本の裁判官、弁護士。大阪高等裁判所長官、ロッキード事件の弁護団長を務めた。
唐澤 鹿男(からさわ しかお、1906年〈明治39年〉3月2… 唐澤 鹿男(からさわ しかお、1906年〈明治39年〉3月20日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。公吏。 長野県上伊那郡に生まれる。松本高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学経済学部を卒業する。 卒業後、直ちに台湾総督府に出仕し金融課勤務を発令され、官房審議室勤務を経て、1942年(昭和17年)8月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任した。 戦後、長野県出納長を務めた。
藤井 正男(ふじい まさお、1906年(明治39年)3月19… 藤井 正男(ふじい まさお、1906年(明治39年)3月19日 - 1995年(平成7年)6月12日)は、日本の政治家。第6代福山市長(2期)、衆議院議員(1期)。位階は従五位。 1931年、明治大学法学部卒業。福山市会議員を務めた後、1946年4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙に立候補。落選するも、当選者の渡辺忠雄が公職追放を受け6月22日に辞職。7月4日に繰上補充で衆議院議員となった。 1947年3月19日、公職追放により小林和一福山市長が辞職。かくして、新しく公布される地方自治法に準拠して初代公選市長の選挙が4月5日に行われることとなった。市長選は、市当局の立案した都市計画に反対する藤井と、都市計画遂行を主張する弁護士の徳永豊との一騎打ちとなった。
五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 19… 五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 1978年3月29日)は日本の理学者。 熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、九州帝国大学臨時教員養成所、大阪帝国大学理学部卒業。 宮崎県立延岡高等女学校、熊本県立八代高等女学校教諭などを経て、奈良女子高等師範学校教諭となる。 1949年(昭和24年)、私立暁女子短期大学学長、奈良女子大学教授となり、1953年(昭和28年)に理学部長となる。 1960年(昭和35年)に3度目の理学部長に就任した。1965年(昭和40年)に奈良女子大学長に就任した。 また、大阪帝国大学から理学博士号を授与されている。
森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977… 森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977年6月24日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手・監督・実業家。
本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 200… 本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 2001年2月19日)は、日本の芸能研究者。早稲田大学名誉教授。 福島県本宮町(現・本宮市)生まれ。1929年早稲田大学文学部英文科卒業。宮城県立石巻中学校教諭、1943年『山伏神楽・田楽』『能及狂言考』で藝能学会賞受賞、1949年早稲田大学付属高等学院教諭・同大学文学部講師(-1960年)、1950年文化財保護審議会専門委員(-1986年)、1954年『霜月神楽之研究』で芸術選奨文部大臣賞受賞、東京都文化財専門委員(-1974年)、1960年早稲田大学教育学部教授、「神楽の研究」で早大文学博士、1967年紫綬褒章受章、1971年日本民俗芸能協会会長、1972年河北文化賞受賞、1973年早稲田大学大隈記念学術褒章、1975年『日本の民俗芸能』全5巻で再度芸術選奨文部大臣賞受賞、1976年勲三等瑞宝章受章、早大を定年退職、成城大学講師(-1979年)、1981年日本口承文芸学会会長(-1983年)、1987年民俗芸能協会名誉会長、1990年芸能学会会長(-1992年)、1991年伝統文化ポーラ大賞、1992年『沖縄の祭と芸能』で柳田賞、1995年文化功労者。
小山 荘之助(こやま そうのすけ、1906年3月17日 - … 小山 荘之助(こやま そうのすけ、1906年3月17日 - 1993年11月26日 )は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱航空機名古屋製作所に入社した。1965年5月に三菱重工業取締役に就任し、1966年8月にはキャタピラー三菱社長に就任し、1970年1月までに務めた。 1993年11月26日、急性心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 199… 遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 1997年6月)は、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)出身の詩人・児童文学作家。児童文学同人誌『若木』を主催。 1947年(昭和22年)から1967年(昭和42年)まで三好町立三好中学校で教員を務めながら画家としても活動した遠藤稲子は妹。遠藤栄の詩「逝く春」をイメージした油彩の大作「逝く春」なども描いている。 1906年(明治39年)3月17日、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)に生まれた。父は駐在所の巡査を務めていた遠藤寅吉、母はたい。姉に君代、妹に稲子がいる。明治末期には新城町からたいの故郷である岡崎市に転居し、1912年(大正元年)に岡崎で尋常小学校に入学した。
嶺 駒夫(みね こまお、明治39年(1906年)3月16日 … 嶺 駒夫(みね こまお、明治39年(1906年)3月16日 - 昭和49年(1974年)11月16日)は、日本の実業家。元昭和製袋工業社長。 妻の淑子は櫻内幸雄(商工大臣、農林大臣、大蔵大臣を歴任)の二女、娘の貴代子は福田康夫(第91代内閣総理大臣)の妻、孫の福田達夫は衆議院議員。 趣味は音楽、登山。宗教は浄土宗。 中国電力会長を務めた櫻内乾雄とは明治中学校1年生のときからのクラスメートであり、親友だった。妻・淑子は櫻内の妹である。
日野西 義輝(ひのにし よしてる、1906年(明治39年)3… 日野西 義輝(ひのにし よしてる、1906年(明治39年)3月16日 - 1983年(昭和58年)6月15日)は、日本の蛍光体研究者・実業家であり、日本電気化学代表取締役の後、日立ランプ取締役。北海道出身。 北海道茅部郡石倉村(現・森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善の三男)の長男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族である。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため、小学校6年より叔母の家があった岡山県成羽町(現・高梁市)で暮らす。その後、1919年(大正8年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学し同期に石川達三、金澤覚太郎、翁孝文(クラボウ常務)がいた。
野原 正勝(のはら まさかつ、1906年3月16日 - 19… 野原 正勝(のはら まさかつ、1906年3月16日 - 1983年2月10日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(10期)、労働大臣(第30代)を務めた。 埼玉県出身。旧制宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学)卒業後、青森営林局(林野庁)入庁。 1947年の第23回衆議院議員総選挙に盛岡営林署在籍のまま旧岩手1区から出馬し初当選。通算当選10回。自民党内では三木武夫派に属した。 1955年5月23日に公職選挙法違反被告事件につき最高裁判所の言渡した判決に対する訂正の申立が棄却され、被選挙資格を喪失して議員退職した。 第3次吉田茂内閣では農林政務次官を務め、1970年1月から1971年7月まで第3次佐藤榮作内閣の労働大臣を務めた。
朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 … 朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 - 1995年9月9日)は、日本の外交官。連絡調整中央事務局長官、外務審議官を経て、岸信介内閣における日米安全保障条約改定の時期を含め、駐アメリカ合衆国特命全権大使を異例の6年間務めた。1976年勲一等瑞宝章。
天田 勝正(あまだ かつまさ、1906年3月15日 - 19… 天田 勝正(あまだ かつまさ、1906年3月15日 - 1965年2月27日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 埼玉県大里郡妻沼村(現熊谷市)に生まれる。東京物理学校に学び、日本大衆党に参加。党埼玉県連常任委員・日本農民組合中央常任委員を歴任し、秋田県北秋田郡前田村(現・北秋田市)の小作争議を指導した。 戦後日本社会党・日本農民組合の結成に参加し、1947年の第1回参議院議員通常選挙に埼玉県地方区から立候補し当選。1950年の参院選では全国区から立候補するが落選、社会党の分裂では右派に属し1953年の参院選では埼玉県地方区に戻り、返り咲きを果たす。 社会党再統一後に鈴木茂三郎委員長の下で選挙対策副委員長に就任するが、1959年に社会党を離党。
寺下 岩蔵(寺下 岩藏、てらした いわぞう、1906年(明治… 寺下 岩蔵(寺下 岩藏、てらした いわぞう、1906年(明治39年)3月15日 - 1980年(昭和55年)4月19日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 現在の青森県八戸市出身。八戸尋常小学校(現在の八戸市立八戸小学校)卒。卒業後は左官屋の手伝い、土木労務者、とび職など職業を転々とした後、寺下組を創設し、のち寺下建設工業に改称した。八戸市議、青森県議を5期務め、県議会議長となる。1962年7月、日本赤十字社青森県支部事業資金として10万円を寄付により1963年2月27日、紺綬褒章受章(飾版)。1971年7月、八戸市緑化推進事業費として100万円寄付により同年12月18日に紺綬褒章受章(飾版)。
吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月… 吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月13日 - 1993年(平成5年)10月22日)は、日本の内務・厚生官僚、実業家。最後の官選鳥取県知事。 兵庫県明石市出身。大阪高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県属となる。 以後、労働局事務官、島根県書記官・警察部長、厚生省会計課長、同勤労局長などを歴任。 1947年2月、鳥取県知事に就任。昭和22年度当初予算を編成し、知事選挙を執行して、同年4月に退任。その後、埼玉県副知事に就任した。 1950年、警察予備隊に参加し第1管区総監となるが、部下の不祥事の責任を取り辞職。
油井 賢太郎(ゆい けんたろう、1906年(明治39年)3月… 油井 賢太郎(ゆい けんたろう、1906年(明治39年)3月12日 - 1984年(昭和59年)7月23日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 福島県福島市で、実業家油井徳蔵の息子として生まれる。1925年(大正14年)横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を卒業した。 卒業後、横浜正金銀行に入行。以後、福島栄町郵便局長、九笹機業場監査役、福島絹織物元卸商業組合理事、福島絹人絹織物元配給常務取締役、福島県繊維品価格査定委員会第1部長、油井商店社長、不二社長、福島県織物元配給社長、信夫精器取締役、福島絹業取締役、中央防火塗装社長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に福島県地方区から出馬して当選し、その後、自由党に所属して参議院議員を1期務めた。
佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12… 佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12日 - 1984年(昭和59年)10月11日)は、日本の写真家、歌人。熊本県熊本市出身、私立女子英学塾(後の津田塾大学)卒業。旧姓は梅村。 1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで桜蔭高等女学校(後の桜蔭学園)の教員を務めた後、1947年(昭和22年)、英語教室「津田英語会」創立共に、同会の講師となった。私生活では1928年(昭和3年)に結婚し、二男二女をもうけた。1942年(昭和17年)に東京都世田谷区に移住した。 1950年代頃より、世田谷の自宅を訪れる野鳥を寄せ親しみ、主婦としての家事の合間を縫って観察を続けた。1955年(昭和30年)に日本野鳥の会に入会した。
安 東赫(アン・ドンヒョク、朝鮮語: 안동혁、1906年3月… 安 東赫(アン・ドンヒョク、朝鮮語: 안동혁、1906年3月11日 - 2004年10月14日)は、大韓民国の化学者。本貫は順興安氏。日本名は安東 赫。 1906年(光武10年)3月14日、京畿道高陽市に生まれた。徽文高等普通学校を経て、1926年、京城高等工業学校卒業。1929年、九州帝国大学工学部(現在の九州大学工学部)を卒業した後、京城工業専門学校の教師として赴任した。 1933年には教鞭を取り、中央試験所化学工業部に旗手業務も兼任した。京城工業と中央試験所を行き来しながら化学工学の講義と研究にまい進し、専門の油脂工業分野で6つの特許を取り、約10本の論文を発表した。大韓化学会、大韓窯業総協会、韓国食品科学会会長を歴任し、学術活動にも大きく貢献し、学術院の初代会員や副会長を経て、韓国科学会理事会の1、2代理事長など、様々な学会の会長を歴任し、大韓民国の化学共同学術活動の基礎を固めた。
大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975… 大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975年2月7日)は、東京都出身のプロ野球選手、審判員、俳優。のち婿入りし桐林と改姓したが、球界では大貫姓を使い続けた。 荏原中学校を中退し、1923年に芝浦協会へ入団。当時は山本栄一郎がいたため控え投手だったが一度チームが解散し、その後宝塚運動協会として再結成した際には山本が肩の故障で退団したこともあってエースとなり投打の中心選手として活躍した。 宝塚運動協会解散後は宝塚ファミリーランドの経理係を務めていたが、まもなく退職し、満州に渡る。満州時代の詳しい経歴は不明だが、全奉天や大連実業、奉天日満実業などでプレーしていたことが確認されており、「各地のチームの助っ人をしていたのでは」と佐藤光房は推測している。
入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、19… 入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、1906年(明治39年)3月10日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、日本の医学者・衛生学者。熊本大学名誉教授。水俣病の原因物質特定に貢献した。専門は気候衛生学、疫学、食品衛生。医学博士。 1906年、鹿児島県日置郡吉利村(現・日置市)に生まれる。祖父は小松帯刀の侍医で、父も医者。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)、静岡高等学校 (旧制)を経て、1932年京都帝国大学医学部卒業。戸田正三教授の衛生学に入室。1936年11月、「衣服の熱学的研究」で京都帝国大学より医学博士。 1936年11月、大阪市立衛生研究所に入る。1938年の厚生省発足と同時に入局して衛生局技官。
綾田 整治(あやだ せいじ、1906年 <明治39年> 3月… 綾田 整治(あやだ せいじ、1906年 <明治39年> 3月10日 - 2003年 <平成15年> 5月10日)は、百十四銀行元頭取・会長。位階は正五位。 香川県大川郡長尾町(現在のさぬき市)出生。 東京帝国大学経済学部卒業後、高松百十四銀行に入行。 1944年に取締役営業部長、1948年に専務と昇進を重ね、里見信三の死去を受けて第5代頭取(代表者としては8代目)に就任。46歳での頭取就任は全国最年少であった。トップ在任時には、現本店ビルの竣工や東京証券取引所第一部上場を成し遂げたほか、同行を11都府県にまたがる広域地銀に育て上げ、2003年逝去するまで相談役として在任した。死没日付をもって叙正五位。
大八洲 晃(おおやしま あきら、1906年3月10日 - 1… 大八洲 晃(おおやしま あきら、1906年3月10日 - 1975年4月27日)は、富山県西礪波郡(現・高岡市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は坂本 多喜知(さかもと たきち、旧姓:東爪)。最高位は西前頭10枚目(1936年5月場所)。現役時代の体格は192cm、120kg。得意手は左四つ、寄り。 入門前に松竹で映画俳優をしていたという異色の経歴の持ち主。ほぼ同時期に立浪部屋に入門した双葉山と出世を争い、その体格から双葉山よりも有望視されていた。しかし、相手を引っ張り込むだけで技能に乏しい取り口だったため伸び悩んだ。 双葉山は幕下時代に大八洲に「右目が全然、見えないんだ」と打ち明けたが、それは引退するまで2人だけの秘密となった。
小林 佐三郎(こばやし ささぶろう、1906年3月9日 - … 小林 佐三郎(こばやし ささぶろう、1906年3月9日 - 1995年11月30日)は、日本の経営者、工学博士。長野県出身。位階は従四位。 1927年に浜松高等工業学校応用化学科を卒業し、同年に日本製鋼所に入社。 1947年5月に取締役に就任し、1949年12月に常務、1957年11月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1965年11月には社長に昇格。1973年11月に会長を経て、1983年6月から相談役を務めた。 1967年4月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年11月30日心不全のために死去。89歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
鵜飼 信成(うかい のぶしげ、1906年(明治39年)3月9… 鵜飼 信成(うかい のぶしげ、1906年(明治39年)3月9日 - 1987年(昭和62年)5月10日)は、日本の法学者。専門は、憲法・行政法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1956年)。元日本学士院会員。美濃部達吉門下。 1906年、東京都生まれ。 この他、1967年~1973年旧司法試験第二次試験考査委員を務めた この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
曾我 正史(そが まさし、1906年3月9日 - 1987年… 曾我 正史(そが まさし、1906年3月9日 - 1987年3月4日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、映画監督、脚本家である。旧芸名曾我 正男(そが まさお)、映画監督としては振津 嵐峡(ふりつ らんきょう)を名乗った。戦後、大映専務取締役、東京第一フィルム代表取締役等を歴任した。 1906年(明治39年)、新潟県中蒲原郡亀田町に生まれる。大倉商業学校(現在の東京経済大学)卒業。 初期には、帝国キネマ演芸で脚本を書き、助監督をしていた。記録に登場する最初の作品は、1926年(大正15年)12月1日に公開された、帝国キネマ演芸芦屋撮影所製作、市川百々之助・霧島直子主演、押本七之助監督による『侠客』であった。
吉野岩 畄吉(よしのいわ とめきち、1906年3月8日 - … 吉野岩 畄吉(よしのいわ とめきち、1906年3月8日 - 1954年1月30日)は、徳島県那賀郡見能林村(現在の阿南市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は高島 留吉(たかしま とめきち)。最高位は西前頭5枚目(1933年5月場所)。身長173cm。体重82kg。 土地相撲で大関を務めていたことがきっかけで、幕下付出で初土俵を踏む。しかし負け越して翌場では序二段に降下する。その後着実に昇進し、1931年5月場所に十両に昇進するがすぐに陥落、1932年1月場所は幕下で迎えた。しかし、春秋園事件で出羽海部屋の関取のほとんどが脱退、穴埋めとして1932年2月場所の番付では十両に返り咲き、それをきっかけにして1933年1月場所で幕内昇進を果たした。
具 本雄(ク・ボヌン、朝鮮語: 구본웅、1906年3月7日 … 具 本雄(ク・ボヌン、朝鮮語: 구본웅、1906年3月7日 - 1952年2月2日)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の画家、彫刻家、美術評論家。 本貫は綾城具氏。号は西山(ソサン、서산)。 漢城府生まれ。幼少の頃使用人の不手際により脊椎を傷め、肢体障害者となった。儆新高等普通学校(現・儆新高等学校)在学中高羲東より洋画を学び、その後金復鎮により彫刻を学んだ。朝鮮美術展覧会で彫刻部門に『顔習作』が特選で入賞した。その後日本に留学し、川端画学校、日本大学、太平洋美術学校(現・太平洋画会研究所)で学び、太平洋美術学校在学中2度個展を開いた。1933年に帰国し、1934年に牧日会を創設し、1938年に総合文芸誌『青色誌』を創刊し李箱、李陸史などの作品を掲載した。
川村 智治郎(かわむら としじろう、1906年3月7日 - … 川村 智治郎(かわむら としじろう、1906年3月7日 - 2003年1月27日)は、両生類の研究者。第3代広島大学学長。 滋賀県生まれ。(旧制)広島文理科大学に進学、広島文理科大学時代の指導教官は阿部余四男教授で、卒業論文はウズラに関する内容であった。1933年(昭和8年)に同大学を卒業後、同大学助手・講師、京都帝国大学講師、広島文理科大学助教授を務めた。 1935年(昭和10年)9月から翌年3月までの半年間、広島高等師範学校の動物の授業を担当した。 1947年(昭和22年)12月6日、広島県内に昭和天皇の戦後巡幸があった際には、厳島に宿泊していた昭和天皇に召し出されて「両生類における実験発生学的研究」について奏上する機会を得た。
矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2… 矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2001年2月22日)は、日本の社会政策学者。中央大学名誉教授。中央大学経済学部長や、社会政策学会代表幹事を務めた。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を経て、1931年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。井藤半彌ゼミ出身。1958年から1960年まで第5期社会政策学会代表幹事。1963年から1967年まで中央大学経済学部長。1970年から1972年まで第11期社会政策学会代表幹事。中央大学バドミントン部部長なども務めた。中央大学定年後、1986年まで亜細亜大学教授。2001年2月22日、急性肺炎のため死去。
田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5… 田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5日 - 1993年〈平成5年〉12月10日)は、日本の実業家、政治活動家、CIA協力者。フィクサーともいわれる。 戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した。 資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。
中山 素平(なかやま そへい、1906年(明治39年)3月5… 中山 素平(なかやま そへい、1906年(明治39年)3月5日 - 2005年(平成17年)11月19日 )は、日本の銀行家。日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取、同会長、経済同友会代表幹事、海外技術協力事業団(現:国際協力機構)会長等を歴任。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ一方、部下からは「そっぺいさん」と呼ばれ慕われた。
亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 … 亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の美術史学者。 宮城県伊具郡角田町(現・角田市)出身。吉野臥城(甫)の三男として生まれ、1922年(大正11年)亀田よねの養子となる。宮城県立第一中学校、第二高等学校理科甲類、東北帝国大学文学部卒、奈良国立博物館学芸員、1950年(昭和25年)東北大学文学部助教授、1952年(昭和27年)教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。1962年(昭和37年)「白鳳後期美術の諸形相」で東北大学文学博士。
橋本 福夫(はしもと ふくお、1906年3月4日 - 198… 橋本 福夫(はしもと ふくお、1906年3月4日 - 1987年1月13日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 兵庫県宍粟郡(現・宍粟市)出身。実家は田路家だが、直ぐに叔母の橋本家へ養子に出る。1930年、同志社大学英文科卒。パン屋、英語教師等の職を転々とし、戦後長野県追分にコミューンを建てる。1951年東邦大学講師、1953年聖書学園短期大学助教授、1954年専修大学商経学部専任講師、1956年助教授、1960年青山学院大学文学部第二部専任講師、1963年助教授、1966年教授。1976年定年退職。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
上廣 哲彦(うえひろ てつひこ、本名:上廣 三郎、1906年… 上廣 哲彦(うえひろ てつひこ、本名:上廣 三郎、1906年(明治39年)3月2日 - 1972年(昭和47年)10月6日)は、日本の社会運動家。実践倫理宏正会の創立者。栄典は従四位、勲三等旭日中綬章。 1906年3月、広島県山県郡豊平町(現:北広島町)に生まれる。 広島市で育ち、旧制中学卒業後、鉄工所や日本貯蓄銀行(現在のりそな銀行)などに勤務。1923年頃死線を彷徨う大病をし、その中から人生の目的と使命を悟る。 この後、人生の生き方についての哲学的な考察を深め、ひとのみち教団など様々な団体の遍歴をした。 1943年、三菱工作機械広島製作所(後の三菱重工業広島祇園工場)に入社し、社員教育を行う訓育課勤務していた時の1945年8月6日、アメリカ軍の広島市への原子爆弾投下により、爆心地から1.6キロの国鉄横川駅構内で被爆した。
守屋 美賀雄(もりや みかお、1906年3月 - 1982年… 守屋 美賀雄(もりや みかお、1906年3月 - 1982年10月18日)は、日本の数学者。高木貞治門下の一人。専攻は整数論。父親は守屋荒美雄(すさびお)で、帝国書院、関東第一高等学校、吉祥女子中学校・高等学校の創立者。洗礼名は「ミカエル」。理学博士。1949年から始まったイールズ声明(1949年占領軍総司令部民間情報部最高教育顧問官イールズが全国の大学をまわって、講演の中で共産主義者を大学から追放すべきだと主張していた)では、1949年5月15日に北海道大学でイールズの講演に対し、カトリック信者として真っ向から反対している。
村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 19… 村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 1969年12月22日)は、日本の実業家。村田機械創業者。旧姓:岩城。 明治38年(1905年)小浜市湯岡、岩城喜左衛門の3男として出生。大正8年 – 今富尋常高等小学校高等科卒業、嶋長商店入店。 大正9年 – 京都市 村田直商店入店。昭和8年 – 村田家入籍、同社専務。昭和10年 – 西陣ジャカード機製作所設立。 昭和14年 – 東亜機械製造株式会社設立。昭和20年 – 村田繊維機械株式会社、村田産業株式会社設立。 昭和37年 – 村田機械株式会社設立、京都商工会議所副会頭、会頭代行。 昭和42年 – 藍綬褒章受章、機械振興協会賞受賞。昭和44年(1969)- 12月22日死去、勲三等瑞宝章受章、京都南禅寺に葬る。
織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日… 織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト。 「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた。
高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年>… 高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年> 3月30日 - 1985年 <昭和60年> 6月20日)は、日本の銀行家。十六銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岐阜県出身。1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1930年に赤坂銀行に入行。1942年5月に十六銀行に転じ、1948年6月に取締役、1953年4月に常務、1954年6月に専務を経て、1958年2月副頭取に就任し、1963年2月小寺勝昌頭取の急逝に伴い頭取に昇格。1984年3月に会長に就任。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月20日呼吸不全のために死去。80歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
巽 盛三(たつみ もりぞう、1905年 <明治38年> 3月… 巽 盛三(たつみ もりぞう、1905年 <明治38年> 3月30日 - 1990年 <平成2年> 11月8日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。位階は正五位。 広島県出身。1926年に和歌山高等商業学校を卒業。倉敷紡績、倉敷レーヨンでの勤務を経て、1953年4月に山陽放送常務に就任し、専務を経て、1965年5月には社長に就任した。1974年5月に会長に就任し、1977年6月に取締役相談役を経て、1981年6月に相談役に退いた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年11月8日、呼吸不全のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月2… 村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月29日 - 平成11年(1999年)2月5日)は、明治 - 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。新宮市名誉市民。武蔵野美術大学名誉教授。閉校した文化学院および文化学院芸術専門学校(埼玉県庄和町)講師。元日本美術家連盟理事長。 抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。 岐阜県に生まれ、村井昌澄と、とみゑの次男。眼科医のであった父の転勤によって、幼少期を和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)で過ごす。新宮第一尋常小学校3年生の頃にスケッチをしている西村伊作(後に入学する文化学院の創設者)に出逢う。西村の作品を後ろから覗き見た経験が美術に対して興味を持つきっかけの一つになる。
上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> … 上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> 3月29日 - 1971年 <昭和46年> 8月25日)は、日本の経営者。積水化学工業社長、積水ハウス産業代表取締役を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業。報知新聞社での勤務を経て、日本窒素肥料に転じた。1947年に取締役に就任し、1951年2月に再び取締役に就任し、同年9月に積水化学工業社長に就任し、1960年8月に積水ハウス産業代表取締役に就任した。その一方で、讀賣テレビ放送取締役、関西経済連合会理事も務めた。 1957年に紺綬褒章を受章し、1963年に藍綬褒章を受章した。
藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - … 藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - 1976年1月13日)は、日本の編集者・歴史家。出雲国風土記偽書説など大胆な新説を唱え、松本清張が師事した在野の古代史家として知られる。 京都市生まれ。1924年京都市立第一商業学校専修科卒業。1925年京都帝国大学文学部史学科選科入学、1928年中退。 1928年至誠堂に入社し、1932年飛鳥園、1933年日出芸林社と転籍し、書籍の編集者として活躍する。1934年株式会社便利堂に入社し、1950年同社取締役に就任。1951年に退社。同年、自ら綜芸舎(綜芸種智院に因む)を創立する。この間、文献、美術、石造文化財などの史資料を使った古代史研究や能楽研究、易学研究の著作・論文を公刊した。
大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 198… 大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 1989年1月29日)は、日本の洋画家、美術評論家。愛知県出身。早稲田大学卒。山本鼎に油絵を学び、1931年、ヨーロッパ留学。帰国後国画会展、春陽会展に出品。1939年以後、独立展に出品、「裸婦」で岡田賞を受賞。風景画を得意とした。