蔭山 如信(かげやま ゆきのぶ、1901年〈明治34年〉3月… 蔭山 如信(かげやま ゆきのぶ、1901年〈明治34年〉3月6日 - 1977年〈昭和52年〉8月25日)は、日本の経営者。徳山曹達(現在のトクヤマ)社長を務めた。 東京都出身。1919年に大倉商業学校を卒業し、同年4月に岩井商店に入社。 1934年9月に徳山曹達に転じ、1939年5月に取締役に就任し、1943年10月に常務を経て、1946年7月に社長に就任。1974年5月に会長を経て、1976年6月には相談役に就任した。 経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟理事、山口放送取締役、RKB毎日放送監査役なども歴任した。 1962年5月に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1977年8月25日、心不全のために死去。
橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 … 橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 - 1990年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、運輸大臣(第40代)、建設大臣(第19代、第26代)、内閣官房長官(第27代、第28代)、自由民主党幹事長(田中内閣)、自由民主党総務会長(佐藤内閣)などを歴任した。 茨城県行方郡潮来町(現:潮来市)の回送問屋の家に生まれた。当初父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)から、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、「闘将」と称された。 1927年(昭和2年)に大学卒業後、朝日新聞社に入社する。
伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955… 伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の海軍軍人、工学者、無線技術者。ドレスデン工科大学Doctor、東京帝国大学工学博士。最終階級は海軍技術大佐。 1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった。旧制第一高等学校を卒業後、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた。
渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈… 渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈明治34年〉3月5日 - 1947年〈昭和22年〉4月29日)は、日本の実業家。渋沢栄一 の孫にあたるが、 父・渋沢篤二が1913年に廃嫡されたため、本家とは別に分家筋として育った。兄に渋沢敬三(栄一の後継者)、次兄に渋沢信雄がいる。 1901年、3月5日に子爵・渋沢栄一の嫡男・篤二と妻・敦子の三男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉に生まれる。 敦子の父(智雄の母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。子爵・渋沢敬三と渋沢信雄の弟にあたる。。 幼少期から身体が弱く、しばしば療養を要したと伝えられている。
澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 … 澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月24日)は、日本の実業家。日本交通の創業者。 1901年(明治34年)3月、鳥取県岩美郡大岩村大谷(現在の岩美町大谷)に生まれる。1914年(大正3年)3月[要出典]、大岩小学校(現・岩美西小学校)を卒業する。春蔵は就学前に足を痛めていたため、自動車で自分の未来を開拓しようと考えた。その頃、日本国内にも自動車の数は少なく、鳥取県内では更に珍しいものだった。春蔵の得た運転免許は鳥取県内第3号であった。 1919年(大正8年)18歳の春蔵は1台のトラックで運送業を始めた。春蔵の事業は先進的だったが、閉鎖的な風土や不便な道路事情などにより、運送業としての見通しが立たなかった。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34… 芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34年> 3月4日 - 2003年 <平成15年> 7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。位階は正三位。芦原義倫は四男。 香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て、1924年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒業。同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年の配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。1946年、同社常務取締役、1950年、同社取締役副社長。 1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任として取締役社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。
真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 200… 真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 2000年2月16日)は、日本の土木工学者。北海道大学名誉教授。
神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 19… 神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 1985年10月5日)は、日本の経営者。豊田通商社長を務めた。岡山県出身。 1925年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に豊田紡織に入社。豊田製鋼(現在の愛知製鋼)取締役、豊田自動織機製作所取締役、豊田製鋼常務を経て、1948年に日新通商(現在の豊田通商)常務に就任し、1950年に専務を経て、1961年11月に社長に就任した。1968年から相談役を務めた。 1985年10月5日、心筋梗塞のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡副 鉄雄(おかぞえ てつお、1901年〈明治34年〉3月2… 岡副 鉄雄(おかぞえ てつお、1901年〈明治34年〉3月2日 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の板前、実業家。金田中、岡半各会長。新橋演舞場、演舞場サービス各社長。 三重県津市出身。片田小学校を卒業する。料理店見習い後、割ぽう鶴屋を開店する。大正時代創業の金田中を、当時の経営者からの願いで譲り受け、1945年に新たに開店する。1959年、新橋演舞場専務に就任。 趣味は書画、ゴルフ、俳句、絵画。住所は東京都中央区銀座7丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 195… 菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 1954年9月26日)は、日本の労働運動家・政治家。全日本労働総同盟本部総主事・日本労働組合総同盟総主事・衆議院議員(3期)を歴任した。 愛媛県越智郡波方村(現・今治市)に、魚問屋の長男として生まれる。旧制愛媛県立今治中学校を卒業後、商社勤務を経て、1920年、旧制第一高等学校に進学。一高在学中に、社会主義思想に触れ、社会主義運動に身をささげる決意をした。1923年に東京帝国大学経済学部に進学。学内で、学生自治権拡大運動や関東大震災の被災者救援運動などを組織した。新人会会員。 1926年、東大卒業後、日本労働総同盟(総同盟)に就職。以後、労働運動の指導に従事し、1934年の第18回国際労働会議・第1回アジア労働組合会議には日本労働代表として参加した。
佐藤 哲郎(さとう てつろう、1901年〈明治34年〉3月1… 佐藤 哲郎(さとう てつろう、1901年〈明治34年〉3月1日 - 1995年〈平成7年〉1月4日)は、日本の政治家。元岩手県水沢市(現・奥州市)長(3期)。 岩手県胆沢郡水沢町(のち水沢市、現・奥州市)出身。1920年(大正9年)、岩手県師範学校(現・岩手大学教育学部)卒。岩手県内の小学校の訓導や校長を経て、戦後、中学校校長となる。岩手県社会教育主事、水沢町教育長となった。 1956年(昭和31年)、水沢市長に立候補して新人1人を破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年1月29日に就任した。 1960年(昭和35年)の市長選も新人1人との争いになったが、これを破って再選を果たした。
平井 参次(ひらい さんじ、1901年〈明治34年〉3月1日… 平井 参次(ひらい さんじ、1901年〈明治34年〉3月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。 兵庫県印南郡志方町(現・加古川市)出身。高等小学校を卒業。1924年、食肉卸業開業。 印南郡食肉卸組合長、同郡家畜商組合長、日本食肉協会理事、兵庫県食肉衛生組合副理事長、兵庫県家畜商業協組理事、兵庫県食肉輸入共同組合副理事長、志方食肉卸小売組合名誉会長、兵庫県食肉卸組合連合会会長、兵庫県食肉環境衛生同業組合・同食肉協同組合相談役、志方町教育委員などをつとめる。 趣味は碁、乗馬。宗教は浄土真宗。住所は兵庫県印南郡志方町志方。家族は妻、次男、次女、孫がいる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年… 永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将[3]。広島県出身。
三田 幸夫(みた ゆきお、1900年3月31日 - 1991… 三田 幸夫(みた ゆきお、1900年3月31日 - 1991年2月11日)は、大正から昭和にかけての登山家。神奈川県横浜市出身。「山のガキ大将」という異名があった。 慶應義塾大学経済学部在籍中は山岳部に属し、槇有恒の指導の下、大島亮介と共に中心的なメンバーとなった。1923年1月、立山(雄山)へ槇有恒、板倉勝宣らとスキー登山を敢行するが、松尾峠にて遭難してしまう。三田は1人救援を求めて立山温泉への下山を強行するも、疲労によって幻影を見るほどであったとされ、結果的に板倉の死を看取った槇に温泉手前で追いつかれるという苦い経験をしている。 1924年の大学卒業後は実業界に入って、後に岩井産業シンガポール支店長や万邦産業取締役、三和興業常務などを歴任した。
北川 定務(きたがわ さだむ、1900年(明治33年)3月3… 北川 定務(きたがわ さだむ、1900年(明治33年)3月31日 - 1963年(昭和38年)2月22日)は、昭和期の弁護士、検察官、政治家。衆議院議員。 佐賀県小城郡芦刈村(芦刈町を経て現小城市)で生れる。1926年(大正15年)3月、日本大学法文学部法律学科(英法)を卒業した。1927年(昭和2年)12月、高等試験司法科試験に合格し、1928年(昭和3年)4月、司法官試補に任官。 1929年(昭和4年)11月、予備検事となる。1930年(昭和5年)11月、台北地方法院検察官に任じられ、以後、高雄支部検察官、台北地方法院検察官を歴任し、1945年(昭和20年)台湾高等法院検察官に就任し終戦を迎えた。
松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月… 松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月31日 - 1988年〈昭和63年〉1月16日)は、歌人、書家。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)出身。旧姓は猿田。本名は郁次郎。橋田東聲に師事し、歌誌『覇王樹』に入り、1954年から同誌主宰。吉田苞竹に書を学び、隷書「杜少陵詩」で64年日本藝術院賞受賞。日展理事、大東文化大学教授。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高野 三三男(こうの みさお、1900年3月30日 - 19… 高野 三三男(こうの みさお、1900年3月30日 - 1979年8月15日)は、東京府東京市深川区(現・江東区)出身のフランスと日本で活躍したアール・デコ様式の画家。
南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月… 南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月29日 - 1986年〈昭和61年〉2月25日)は、日本の画家。花や小動物などをモチーフとして、詩情豊かな作品を描いた。 1900年(明治33年)群馬県前橋市一毛町(現・城東町)に、南城要三郎・ふみの長男として生まれる。群馬師範学校附属小学校を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。前橋中学校の同級生に洋画家の横堀角次郎や詩人の萩原恭次郎がいる。 1918年(大正7年)に同校を卒業すると、先輩の俳優・河原侃二のすすめにより岡田三郎助主宰の本郷洋画研究所に入所し絵画を学んだ。ここで岡鹿之助、伊藤廉と知り合う。1920年(大正9年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。
中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)… 中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)3月29日 - 1944年(昭和19年)8月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県出身。教員・中原寿弥太の長男として生まれる。京都一中を経て、1920年(大正9年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。翌年6月に海軍少尉任官。1923年(大正12年)12月、海軍水雷学校普通科を卒業し夕暮乗組となる。1927年(昭和2年)2月、膠州分隊長となり、第32号駆逐艦(三日月 [II])航海長、鶴見分隊長、疾風航海長などを経て、1931年(昭和6年)12月から一年間、水雷学校特修科学生として学んだ。1932年(昭和7年)12月、栗駆逐艦長に就任し、翌年11月、海軍少佐に昇進した。
寿岳 文章(じゅがく ぶんしょう、1900年3月28日 - … 寿岳 文章(じゅがく ぶんしょう、1900年3月28日 - 1992年1月16日)は、日本の英文学者、随筆家、翻訳家、書誌学者。民藝運動家。和紙研究の第一人者的地位にあり、和紙関係の著作も多い。 妻は寿岳しづ、長女は日本語学者の寿岳章子、長男は天文学者の寿岳潤。 兵庫県明石郡押部谷村(現・神戸市西区)生まれ。家は鈴木家で父は寺の住職。規矩王麻呂と名づけられる。姉の婚家である寺の養子となり、得度して寿岳文章となる。 1919年、東寺中学校卒業、関西学院高等学部英文科入学、失明学生の岩橋武夫を知り、その妹静子を知る。1923年、卒業し静子と結婚(寿岳しづ)。 1924年、京都帝国大学文学部文学科選科入学、1927年、修了。
西広 忠雄(にしひろ ただお、1900年(明治33年)3月2… 西広 忠雄(にしひろ ただお、1900年(明治33年)3月28日 - 1958年(昭和33年)9月23日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事。旧姓・中村。 広島県出身。中村百太郎の二男として生まれ、西広興一郎の養子となる。第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し山形県属となる。 以後、山形県事務官、兵庫県事務官、内務事務官、岐阜県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、内務省書記官・計画局防空課長、同防空局企画課長、警視庁部長・警務部長、東京府内政部長などを歴任。 1943年7月1日、宮崎県知事に就任。
矢島 八洲夫(やじま やすお、1900年3月28日 - 19… 矢島 八洲夫(やじま やすお、1900年3月28日 - 1983年9月2日)は、日本の新聞記者、ジャーナリスト。朝日新聞社常務取締役、こどもの国初代園長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第八高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学法学部卒業。1924年朝日新聞社入社。総務局長、取締役を経て、常務取締役。 1963年の村山事件の際、横田武夫(取締役)、中川英造(取締役)、安井桂三郎(名古屋本社業務局長)らとともに辞表を提出。業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職。1964年3月、元社長で大株主の村山長挙は矢島ら復職した5人の役員の職務執行停止の仮処分申請を裁判所に提出。
向井 一男(むかい かずお、1900年(明治33年)3月27… 向井 一男(むかい かずお、1900年(明治33年)3月27日 - 1969年(昭和44年)1月24日)は、日本の囲碁棋士。愛媛県出身、田坂信太郎門下、方円社、日本棋院所属、八段。1935年の全日本囲棋選手権大会優勝。晩年一時清純を名乗る。日本棋院棋士会長を務めた。 愛媛県越智郡伯方島に生まれる。1914年(大正3年)上京し、郷里に近い尾道出身で方円社の田坂信太郎に入門。1918年初段。1920年に若手棋士による六華会を設立。1924年三段時に日本棋院設立に参加し、1926年の院社対抗戦では4人抜き。この1926年から比叡山の修学院村に1年間籠る。 1935年四段時に本因坊戦の前哨戦である全日本囲棋選手権大会で、トーナメントを勝抜いて鈴木為次郎、呉清源とのリーグ戦出場。
森永 太平(もりなが たへい、1900年3月25日 - 19… 森永 太平(もりなが たへい、1900年3月25日 - 1983年3月6日)は日本の実業家。第3代森永製菓社長。
今村 長太郎(いまむら ちょうたろう、1900年(明治33年… 今村 長太郎(いまむら ちょうたろう、1900年(明治33年)3月25日 – 1969年(昭和44年)6月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 和歌山県和歌山市で生まれた。メリヤス製造業を営み、和歌山商工会議所議員、和歌山メリヤス生地工業組合理事長、和歌山県莫大小製造統制組合理事長、同県メリヤス商工業協同組合理事長、日本メリヤス工業会理事、同会生地部全国委員長、日本メリヤス統制取締役などを務めた。 政界では、1940年(昭和15年)から1947年(昭和22年)まで和歌山市会議員に在任。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で和歌山県第1区から日本自由党公認で立候補して当選し、次の第24回総選挙でも当選し、衆議院議員に連続2期在任した。
小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 19… 小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 1975年10月7日)は、日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。
志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)… 志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)3月24日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の教育者、方言や俗言の研究者。佐賀県出身。佐賀龍谷短期大学副学長を務めた。 1900年(明治33年)佐賀県佐賀郡久保田村(現・佐賀市久保田町)の宗教家、志津田富太郎の四男として出生。横江の久保田第二尋常小学校、高等科は元小路の思斉尋常高等小学校(現・佐賀市立小中一貫校思斉館)に入学。高等科の卒業を前に師範学校入学。卒業後、江北小学校へ赴任。その後さらに日本大学高等師範を卒業。その後、鹿島中学校(旧制)母校佐賀県師範学校で後輩の指導にあたり、佐賀大学合併後は付属中学校総務に転出。
吉村 正(よしむら ただし、1900年〈明治33年〉3月23… 吉村 正(よしむら ただし、1900年〈明治33年〉3月23日 - 1984年〈昭和59年〉4月9日)は、日本の政治学者。早稲田大学教授、東海大学教授、東海大学初代政治経済学部長を務めた。 1900年(明治33年)、福井県福井市木田町に生まれる。1919年4月、早稲田大学高等予科に入学。1921年(大正10年)4月、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。1924年3月、同大学卒業。同大学大学院に進み、高橋清吾の下で政治学を専攻する。1929年9月~1931年12月、コロンビア大学に留学、マッキーヴァ―の指導を受ける。その後、イギリス、ドイツでの研究を経て、1932年9月に日本に帰国。 同年9月に早稲田大学講師、1934年に同大学助教授、1938年に同大学教授に就任。
林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日… 林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第73連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第24連隊付となり、陸軍戸山学校教官、豊予要塞参謀を経て、1932年(昭和7年)7月、参謀本部付勤務となる。参謀本部員、参謀本部付(在支武官室)を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
阪田 誠盛(さかた しげもり、1900年3月21日 - 19… 阪田 誠盛(さかた しげもり、1900年3月21日 - 1975年2月)は、日本の実業家。陸軍将校。日本陸軍の特務機関である「松機関(阪田機関)」を組織、満州・上海・香港を舞台に数々の謀略に携わる。帝国陸軍はもとより、蔣介石率いる国民軍からも絶大な信頼を得た稀有な日本人。中国名は田誠。 1900年3月21日、和歌山県田辺市生まれ。幼名は文吉。生家は阿部で藤原の流れをくむ、代々神官を務めた名家である。父親は阿部誠輝(しげてる)。剣の達人であった誠輝は、西南戦争で官軍将校として出征、田原坂の戦闘において武功をあげた。後に明治政府より男爵位を叙せられるが「分不相応」と返上している。誠輝の死後、母親のタツが奈良の豪商、阪田作次郎の養女となり、阪田姓を名乗るようになる。
丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年… 丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年3月22日)は、日本の国文学者。明治大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市平之町に生まれ、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を1918年3月に卒業。同校3年次に1年休学しており、その間、文学書を読みあさっていた。また、当時の校長の方針で旧制第二鹿児島中では国語の副読本に田山花袋の随筆「椿」が使われており、この頃から自然主義文学に興味を抱く。 1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)を、1930年に東京帝国大学文学部国文学科をそれぞれ卒業。旧制第七高校では文芸部に入っていた。また、学生時代から「潮騒」主宰の太田水穂に師事して短歌をつくる。
太田 光二(おおた みつじ、1900年〈明治33年〉3月20… 太田 光二(おおた みつじ、1900年〈明治33年〉3月20日 - 1973年〈昭和48年〉1月7日)は、日本の政治家、新聞記者。第13-15代岡崎市長(3期)、愛知県会議員、岡崎市会議員、全国市長会副会長、日本消防協会副会長などを歴任した。 父親は伊賀八幡宮の神官の家来だった鈴木四郎三郎。鈴木が愛知県額田郡下山村田代(現・豊田市下山田代町)に逃れ、魚行商人をしていた頃、三男として生まれた。5歳の時、一家をあげて本籍地の岡崎へ戻った。のちに母方の実家の太田家を継ぐ。 広幡町立広幡尋常高等小学校(現・岡崎市立広幡小学校)を卒業後、教師として身を立てるつもりで足助町の准教員養成講習会に通う。免許を受ける際、修身の科目を落としたため教師の道は一旦閉ざされる。
岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月1… 岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月19日 - 1945年〔昭和20年〕2月14日)は、日本の画家・風俗研究家。旧姓は宮瀬(みやせ)。 三重県志摩郡鳥羽町(現・鳥羽市)にて宮瀬家の次男として生まれる。三重県立第四中学校卒業後、親の意志により神宮皇學館へ進むも肌に合わずに中退し、中学時代から親交のあった竹久夢二が教鞭を執る東京の文化学院絵画科へ転校し、夢二に師事。夢二の代作を務め、また夢二本人から「日本一の夢二通」と称される。『明星』を通して与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交流があり、夫妻が監修した『日本古典全集』の編纂に参加した。1920年(大正9年)12月に両親が離婚し、母方の姓である岩田を名乗るようになる。
金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 … 金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 - 1982年(昭和57年)2月24日)は、日本の銀行家。位階は従三位、勲等は勲二等。 富士銀行頭取、会長。第6代プロ野球コミッショナー。ドラフト制度導入に尽力したことで知られる。 旧制新潟県立小千谷中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。帝大時代は大正デモクラシーの時代でもあり、蠟山政道、福岡誠一らと社会改良に関して語り合う一本筋の通った青春時代を送った。 1924年(大正13年)安田銀行に入行(後に富士銀行に改称)。49年副頭取、 57年頭取、63年会長、75年顧問。 明治生まれの硬骨のバンカーとして知られ、会長に退いてからは財界で活躍し、大の巨人軍ファンであったことから、政財界人で後援組織「無名会」を結成し、会長を務めた。
津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年… 津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、実業家。 津上嶮路の四男として、福岡県糸島郡北崎村(現・福岡市)に生まれる。津上製作所(現・ツガミ)創業者津上退助は実兄。1920年福岡県中学修猷館、1922年3月第五高等学校理科乙類を経て、1925年3月九州帝国大学工学部機械工学科を卒業。 卒業後、三菱鋼業に入社。1928年津上製作所に転じ、1929年技師長となる。1940年名古屋帝国大学工学部教授、および愛知県工学試験所部長を兼ね、1945年津上製作所取締役に選ばれ、1947年常務に進む。1964年5月津上文化機器販売社長に就任。 機械学会(現・日本機械学会)評議員、長岡市商工会議所理事、日本小型工作機械工業会(現・日本精密機械工業会)会長なども務めている。
土井 忠生(どい ただお、1900年(明治33年)3月16日… 土井 忠生(どい ただお、1900年(明治33年)3月16日 - 1995年(平成7年)3月15日)は、日本の国語学者。キリシタン文献の国語学的研究を専門とする。
渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 … 渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 - 1978年12月22日)は、日本のジャーナリスト、放送タレント、文筆家。 東京出身。杉靖三郎の兄。東京外国語学校仏語科を経て1928年東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。1924年東京朝日新聞社に入社。パリ支局長、ストックホルム支局長を務め、1955年退社して社友。戦後は、NHKのラジオクイズ番組「話の泉」に8年間休まず出演。聴取者から寄せられた難問奇問に、その博識ぶりで「物知り博士」として知られた。
富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 197… 富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本の武道(合気道・柔道)家。教育学者(武道論)。日本合気道協会、秋田県角館町(後の仙北市)出身。 満州建国大学教授、早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。
板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月… 板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月15日 - 昭和26年(1951年)7月16日)は、劇作家、士族。伯爵板垣退助の孫、鉾太郎の次男。母は松本丑太郎の長女節子(せつこ)。号は青牛。宗旨は曹洞宗。別名は山内守正。
堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明… 堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明治33年)3月15日 ‐ 1978年(昭和53年)6月27日) は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(3期)、愛媛県温泉郡立岩村長、同郡北条町長。旧姓は阿部。 愛媛県越智郡、のちの玉川村(玉川町を経て現今治市)の阿部家に生まれた。1918年(大正7年)麻布獣医畜産専門学校(現麻布大学)を卒業。立岩村の技術員・獣医師となり、同村の堀本家の養子となった。 立岩村長(1930年9月-1938年1月在任)、北条町長(1939年7月-1940年12月在任)を務めた。1931年(昭和6年)9月、愛媛県会議員に選出され、立憲民政党に所属して1946年(昭和21年)月12月まで連続4期在任した。
銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月1… 銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月15日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。1920年(大正9年)5月に陸軍士官学校第32期卒業。のち東京帝国大学冶金学科を卒業する。 1940年(昭和15年)8月、陸軍砲兵大佐に進み、1941年(昭和16年)6月、陸軍技術本部研究所所員、1943年(昭和18年)10月、小倉陸軍造兵廠第2製造所長を経て、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に進級する。ついで同年9月、小倉陸軍造兵廠糸口山製造所長となった。
舟木 重彦(ふなき しげひこ、1900年(明治33年)3月1… 舟木 重彦(ふなき しげひこ、1900年(明治33年)3月15日 - 1951年(昭和26年)3月6日)は、昭和時代の日本の図書館学者。図書分類法、件名目録法の権威。 石川県金沢市にて生まれ、高知県で育つ。1924年に第四高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部文学科に入学。1927年に同学部独逸文学科を卒業。同年12月から1928年3月まで姫路高等学校講師を務めたのち、千葉高等園芸学校で英語とドイツ語の講師を勤める。1931年に帝国図書館に入り、1947年、文部省図書館職員養成所の初代所長となる。1950年に海外の図書館事業調査のため渡米し、翌年3月の帰国直後に死去。
金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月1… 金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月15日-1982年(昭和58年))は、日本の建築家、建築教育者。金沢庸治とも表記される。 東京出身。1917年(大正6年)3月に京北実業学校中学校を卒業。1919年4月、東京美術学校図案科第二部予備科に入学(1923年5月に図案科第二部は建築科となる)、1924年3月、建築科の第1回生として卒業。同年、一年志願兵として近衛輜重兵大隊に入隊。1927年4月に東京美術学校の講師となり、1936年1月、助教授に就任、1946年3月に退職 建築設計も平行して手がけ、恩師である岡田信一郎の建築事務所のスタッフを務める。一説には、岡田が設計した黒田記念館(1928年)、明治生命館(1934年)の装飾を担当したとも言われる。
松本 一郎(まつもと いちろう、1900年(明治33年)3月… 松本 一郎(まつもと いちろう、1900年(明治33年)3月15日 - 1968年(昭和43年)10月26日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員。 三重県一志郡、のちの一志町(現津市)で生まれた。明治大学専門部法科で学んだ。尾崎行雄の秘書を務めた。 一志郡大井村長、三重県会議員、三重県耕地協会長、三重県農業共済組合連合会長、三重県畜産会長などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて三重県第1区で民主党から出馬し当選し、第24回、第25回、第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算四期務めた。この間、衆議院建設委員長、同農林水産委員長、第2次池田内閣・科学技術政務次官、民主党会計監督、民主自由党相談役、同民情部長、自由民主党全国組織副委員長、全国農業共済協会副会長などを務めた。
朝光 亀太郎(あさひかり かめたろう、1900年3月14日 … 朝光 亀太郎(あさひかり かめたろう、1900年3月14日 - 1937年12月1日)は、現在の大阪府東大阪市出身で朝日山部屋、出羽海部屋、再度朝日山部屋に所属した力士。本名は塚本 亀太郎。身長167cm、体重98kg。最高位は西前頭6枚目。 大阪相撲の朝日山部屋に入門、1919年5月に初土俵を踏む。朝潮を名乗り1923年5月に入幕を果たしたが、その場所前に起きた紛擾事件(龍神事件)で場所は中止、彼も一時廃業して東京に移った。東京では出羽海部屋に身を寄せ、1924年1月十両格付出で東京の土俵に上ったが、さすがに東京では朝潮の名は名乗れず朝千鳥と名乗った。すると、すぐに大阪への復帰が認められ、1924年1月の大阪相撲に、朝潮の名で幕内格で復帰した。
白井 俊明(しらい としあき、1900年3月13日 - 19… 白井 俊明(しらい としあき、1900年3月13日 - 1975年1月8日)は、日本の化学者。 1923年東北帝国大学理学部化学科を卒業。東京帝国大学理学部助手に採用。1940年、東京大学地震研究所、理化学研究所に勤務。 1950年、東京大学教養学部教授となった。1951年、東京大学に学位論文を提出して理学博士号を取得。1960年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東京理科大学教授として教鞭をとった。1970年に東京理科大学を退職。
島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7… 島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7月9日)は、沖縄県の教育者、社会福祉活動家。第二次世界大戦後、米統治下の沖縄で、おもに児童・青少年に関わる様々な社会福祉事業に関わり、「戦後沖縄の "福祉の母"」と称された。 1900年、当時の美里間切伊波村(現在のうるま市)に、貧しい小作農であった伊波家の末子として生まれる。1919年、沖縄県女子師範学校を卒業して、山田尋常高等小学校訓導となり、以降、長く小学校教員を務めた。1921年、同じく小学校教員であった島有剛と結婚して島姓となり、翌1922年以降、5男2女をもうける。1945年、沖縄戦の中でふたりの子を失う。 1948年、小学校教員を依願退職して、越来村(現在の沖縄市)へ移り、越来村婦人会を結成して戦災母子世帯の救済や青少年の健全育成をめざす活動に取り組む。
田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月… 田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月13日 - 1985年(昭和60年)10月11日)は、昭和期の洋画家。現在の熊本県玉名市出身。 教員を務める傍ら熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展に連続出品。具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成し、熊本の洋画史をリードしながら郷土熊本の自然の美をテーマに一貫して具象絵画の世界を追求、熊本における美術振興に寄与した。 その絵画精神は自然観照にもとづく美学の実践であり、力強く表現されている。 画業60余年、とりわけ1950年代中頃から展開する「球磨川」「天草」そして晩年の「阿蘇」シリーズの作品は、田代芸術の写実観を如実に物語っている。
ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sug… ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sugimoto 日本名:杉本謙、1900年3月12日 – 1990年5月8日)は日本出身の画家、絵画教師及び第二次世界大戦における日系人の強制収容の経験者である。1952年にアメリカの市民権を取得した。 和歌山県海草郡湊村(現・和歌山県和歌山市湊)に生まれる。スギモトの父親はスギモトが生まれてすぐに渡米し、母親も9年後に渡米したため、スギモトとその弟は母方の祖父母に養育された。母方の祖父は武家の出であり、絵画を多数所有しており、スギモトは幼いころからそれを模写し絵画に親しんでいた。 1919年、スギモトは和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)4年生修了後、ヘンリーに改名し、カリフォルニア州ハンフォードで両親とともに暮らすこととなった。