羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、189… 羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、1896年4月28日 - 1948年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の洋画家、作家、詩人、ジャーナリスト。本貫は羅州羅氏。現在の京畿道水原市八達区出身。女子美術大学の留学生。韓国最初の女性画家で近代朝鮮文学における最初の女性作家とも評される。女性解放論者であり、女性解放のための運動や朝鮮独立運動にも参加していた。初名は児只、字は明順、号は晶月。 1896年4月、父・羅基貞と母・崔是議の間に五人兄姉の二女として京畿道水原に生まれた。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった。幼名は兒只(アジ=子供を意味する)、幼児期は明順(ミョンスン)と呼ばれ、日本留学時から蕙錫、号は晶月(チョンウォル)と名乗った。
藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治2… 藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1963年〈昭和38年〉10月23日)は、昭和時代の台湾総督府官僚。公吏。台中市尹、台東庁長。旧姓は平良、幼名は亀吉。 鹿児島県姶良郡国分町(現・霧島市国府)出身。平良淳夫の四男として生まれ、藤田半次郎の養子となる。日本大学商学部予科を経て、1925年(大正14年)同大文学部法律学科を卒業し、高等文官試験行政科試験に合格する。 合格後、直ちに台湾総督府に理事官として出仕し、1928年(昭和3年)10月に高雄州岡山郡郡守、1929年(昭和4年)12月に台北州勧業課長、1930年(昭和5年)5月に新竹州教育課長、1931年(昭和6年)4月に台北州教育課長を経て、1935年(昭和10年)9月20日に台中市尹に就任する。
川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月… 川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1951年〈昭和26年〉4月24日)は日本の女性歌人。本名、小西 慶子(旧姓、久城)。覇王樹同人の小西憲三は夫。 1898年(明治31年)、福岡県八女郡三河村(現在の八女市)に生まれ、大牟田市で育つ。熊本尚絅女学校卒業後、1916年(大正5年)に白日社の『詩歌』に参加。詩歌の廃刊後は1918年(大正7年)『覇王樹』の創刊と共に参加、同人として出詠。1925年(大正14年)に水町京子、北見志保子らと共に『草の実』を創刊、覇王樹を退いた。1935年(昭和10年)、北原白秋が『多磨』を創刊するとともに同誌に参加する。なお、草の実は戦時中に解散の命で解散している。
李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4… 李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4月26日または1906年6月6日 - 1961年6月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の農業経済学者、農学者、教育者、政治家、実業家、ジャーナリスト。制憲・第5代(参議院)韓国国会議員、檀国大学学長、成均館大学校総長を務めた。 本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。号は心堂。キリスト教徒。 忠清南道舒川郡麒山面出身。漢学教育を経て、1920年に水原農林専門学校卒、1924年に東京帝国大学(現・東京大学)農学部農科卒。日本留学中にキリスト教に入信した。公州永明学校教員を2年間務めた後、1927年にカンザス州立大学大学院修了、1929年にウィスコンシン州立大学大学院農業経済学専攻修了(博士)。
清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 … 清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 - 1976年2月21日)は、日本のアメリカ演劇研究者。 第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学英文科卒。在学中、十一谷義三郎らの『行路』に参加。米国へ留学し演劇を研究、ユージン・オニールを主として研究し、帰国後演劇活動に携わる。東京都立大学 (1949-2011)を経て1956年中央大学専任講師、1964年教授、1967年定年退職。
高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 -… 高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 - 1969年3月12日)は、第2代東京電力(現:東京電力ホールディングス)社長。関東配電社長。 新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長。1952年に東京電力社長。 1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。1969年3月、腸腫瘍のため東京電力病院で死去。72歳。 初代 安蔵弥輔 / 2代 高井亮太郎 / 3代 青木均一 / 4代 木川田一隆 / 5代 水野久男 / 6代 平岩外四 / 7代 那須翔 / 8代 荒木浩 / 9代 南直哉 / 10代 勝俣恒久 / 11代 清水正孝 / 12代 西沢俊夫 / 13代 廣瀬直己 / 14代 小早川智明 初代 新木栄吉 / 2代 新井章治 / 3代 安蔵弥輔 / 4代 菅礼之助 / 5代 青木均一 / 6代 木川田一隆 / 7代 平岩外四 / 8代 那須翔 / 9代 荒木浩 / 10代 田村滋美 / 11代 勝俣恒久 / 12代 下河邉和彦 / 13代 数土文夫 / 14代 川村隆 この項目は、エネルギーに関連した書きかけの項目です。
等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4… 等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1980年〈昭和55年〉12月28日)は、日本の海軍軍人(主計科士官)。海軍経理学校6期。最終階級は海軍主計少将。戦後は公認会計士となり、有限責任監査法人トーマツを創設した。日本公認会計士会長。 群馬県前橋市に生まれるが、幼年期に判事であった父を亡くし、北甘楽郡岩平村(多野郡吉井町を経て現・高崎市)に引っ越す。群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、海軍経理学校を1917年に卒業(6期)、海軍主計少尉候補生を命じられる。遠洋航海を経て、1918年、戦艦「扶桑」乗組。1919年、海軍主計少尉に任官。1920年、海軍主計中尉に進級。
正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 192… 正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 1928年6月1日)は、日本の俳優である[4][5][6][7]。本名金子 政國(かねこ まさくに)[8]。伊庭孝門下の新劇の舞台俳優から、時代劇も含めた映画俳優に転向、「和製ロイド」(ハロルド・ロイド)として人気を博したが、早世した[8]。
綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月… 綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1950年〈昭和25年〉9月7日)は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員の綿貫民輔は長男。 兵庫県三原郡賀集村(現・南あわじ市)の南家に生まれる。父は兵庫県議、自由民権家の南嘉五郎。慶應義塾大学部理財科卒。卒論は交通経済学。卒業後は日本電力に入社し、日本電力社員として小牧ダム建設のため富山県井波町(現・南砺市)に入る。ダム建設反対運動のさなか、運動家たちとの接触を通じてダム反対派の中心メンバーの一人だった綿貫栄と知り合う。綿貫栄らが条件闘争派として反対運動からの分派行動をとる過程で親しくなり、綿貫栄の長女と結婚する。綿貫栄の長男が交通事故で亡くなったため婿として綿貫家に迎えられる。
西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 … 西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 - 1944年(昭和19年)4月16日)は、政治活動家。特に、経済の宇野学派を構成する宇野弘蔵や大学教授の高木益郎から高く評価され、西の活動により共産党員となったものも多い。 岡山県勝田郡梶並村(現:美作市)出身。旧制岡山県立高梁中学(現:高梁高等学校)へ進学、同級生に東京帝国大学教授となる宇野弘蔵や関西大学法学部教授になる高木益郎、第一高等学校の特待生となった松田享爾がいた。特に、後に東京帝国大学の教授になり、経済学の宇野学派をつくった宇野は、自身の著書「忘れえぬ級友」で西について言及している。 西は、後に堺利彦を委員長とする第一次共産党に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくが、早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を惹かれていった。
濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 193… 濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 1935年10月29日)は、日本の検事、弁護士、探偵小説家。子爵。貴族院議員。戦後の版では「浜尾四郎」表記が一般的である。作家活動は実働足かけ6年に過ぎず、作品量は長短20篇に及ぶだけだが、戦前派作家として逸することのできない足跡を残している。
横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)… 横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優である。本名:石田 正見(いしだ まさみ)。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり、「しゃべくり漫才」を発明。今につながる漫才ブームを作った。現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖である。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4… 山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4月22日 - 1995年(平成7年)5月20日)は、日本の会社役員、弁護士、裁判官。昭和セメント、肥後製糸各監査役。神戸弁護士会長[3]。最高裁判事[3]。衆議院議員山田喜之助の三男。
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月2… 松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1986年〈昭和61年〉6月15日)は、日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。位階は従三位。 1896年、石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科で学ぶ。1943年(昭和17年)、母校である東京美術学校教授に就任。以後36年間にわたって教鞭を取った。 1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。
堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 … 堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1981年〈昭和56年〉9月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済思想史、社会思想史。日本学士院会員。関西学院大学学長、四国学院大学学長を歴任した。 1896年4月20日、函館市生まれ。1920年、京都帝国大学卒業。河上肇に師事。1925年東北大学教授、1932年大阪商科大学 (現在の大阪市立大学) 教授を経て、1948年関西学院大学教授に就任。1955年に、関西学院大学学長(第5代学長)に就任し、同学長を1966年に退任。同年、四国学院大学学長に就任。理論経済学会、経済学史学会、大洋州経済学会など多くの学会の創設以来の会員、幹事、顧問をつとめる。
片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月… 片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月19日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家。衆議院議員(2期)。地方議員(三重県会議員・四日市市会議員)。三重郡富洲原町の教育者。 1896年(明治29年)4月19日、三重県三重郡富洲原町(現・四日市市)に生まれる。富田一色地区の三重県下の富豪で名門の商家であった片岡家(有力者の片岡徳松の一粒種の子供)の一人っ子であった。金持ちの1人息子でボンボンと呼ばれて、片岡氏は北勢四十八家の1つで堺村城主だった片岡家の一族である。型破りの人物で、親譲りの監元買別所(四日市市に立地)と、米穀取引所仲買店(名古屋市に立地)と、回漕店(三重郡富洲原町に立地)を切廻して一分の隙もなかった。
山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 19… 山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 1970年2月26日)は、日本の実業家。元山下汽船社長、会長。父は山下汽船創業者山下亀三郎。
由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年… 由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年1月27日)は、日本の牧師、讃美歌作家。日本の讃美歌の発展の中心的な役割を果たし、賛美歌「きよしこの夜」の訳者として知られる。パスカルの研究家で「パンセ」を翻訳した。教育者・郷土史研究者足立正の次男。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市)に足立正の次男として生まれ、生後間もなく由木虎松の養子になる。 養父虎松の宣教活動のために、鹿児島、神戸、対馬などに転居する。養父の影響を受けてクリスチャンになり、神戸二中時代に洗礼を受ける。洗礼を受けてすぐの中学3年の時、すでに最初の賛美歌を作った。1914年、死の危険に直面して献身を決意する。関西学院高等学部文科(関西学院大学文学部の前身)で聖書学と神学を専攻する。
松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14… 松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14日 - 1962年(昭和37年)5月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。開拓使の松本十郎の孫にあたる。
手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年… 手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年)4月12日 - 昭和18年(1943年)5月3日)は、日本の経済学者。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授や東亜同文書院大学教授を務め、日本への近代経済学の導入を行った。 栃木県出身。宇都宮市立宇都宮商業学校(現栃木県立宇都宮商業高等学校)を経て、無試験入学で小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に進学し、1916年に同卒業。1919年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部経済科卒業。福田徳三ゼミ出身。 経済学及び統計学研究のため、1920年から1926年までイギリス、アメリカ、フランスに留学。1921年小樽高等商業学校教授、叙従七位。オーストリア学派などの日本への導入を行った。
鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月… 鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月8日 - 1975年〈昭和50年〉5月4日)は、日本の政治家。小田原市長(5期)。歌舞伎研究家 。位階は正五位。 現在の神奈川県小田原市出身。 1909年(明治42年)、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。同級に終生の友となる牧野信一(のち小説家)がいた。早稲田大学英文科中退。早大時代、同人誌「金と銀」「象徴」などを主宰した。読売新聞、朝日新聞、歌舞伎座支配人、松竹系の役員を務めた。 1949年(昭和24年)に小田原市長に初当選し5期務めた。この間、全国市長会副会長、関東市長会会長、国保中央会理事などを務めた。1969年に市長を引退。
萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年… 萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年(明治29年)4月8日 - 1981年(昭和56年)9月5日)は、日本の農業関係者、実業家、政治家。衆議院議員。 神奈川県出身。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業した。 産業組合中央会主事補、全国購買農業協同組合連合会(現・全国農業協同組合連合会)主事、同肥料部長、同常任理事、農林省一般農林水産物価格形成専門委員会専門委員、神奈川県農業会長、同県蚕糸業会長、同県販売農業協同組合連合会長などを務めた。全国購買農業協同組合連合会の創立に加わった。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第3区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日… 小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。3度に及ぶドイツ駐在歴があり、戦後には日独友好にも尽力した。 1896年(明治29年)、兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校を経て、海軍兵学校卒業。 海軍兵学校(第44期)では、入校時成績順位 100名中第5位、卒業時成績順位 95名中第7位と、成績優秀だった。日本海軍には珍しく、自他共に認める親ドイツ派の海軍軍人として鳴らし、そのため部内では、「ドイツ小島」と呼ばれることもあった。 ドイツ駐在は3回に及んだが、同じくドイツとの関係が深く、1938年(昭和13年)からは駐ドイツ大使も務めた陸軍軍人で親ナチスの大島浩とは犬猿の仲だった。
中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5… 中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5日 - 1965年(昭和41年)3月8日)は、愛媛県出身の日本の洋画家。雅号として「和光」の名を持つ 。 幼年期よりキリスト教の洗礼を受け、1955年(昭和30年)以降は聖イエス教団所属、晩年は熱烈なキリスト教徒として生活した。 1896年(明治29年)4月5日、「北野 和高」として愛媛県大洲に生まれる。1908年(明治41年)、家族と共に宮城県へ転居。 1914年(大正3年)に宮城県立仙台第一中学校を卒業。同年上京、葵橋洋画研究所に入所し黒田清輝に師事。1916年(大正5年)、東京美術学校西洋画科へ入学、1921年(大正10年)同校卒業、研究科へ進む。
山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日… 山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月20日)は、日本の実業家であり、愛知県を主な販売エリアとする自動車ディーラー・愛知トヨタ自動車の創業者である。愛知県自動車配給社長、愛知トヨタ自動車社長・会長(初代)などを歴任した。 1896年(明治29年)、愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に生まれた。 1913年(大正2年)、慶應義塾商工学校に入学した。在学中は慶應普通部の野球部に所属し、腰本寿監督の下、投手・キャプテンとして1916年(大正5年)の第2回全国中等学校優勝野球大会に出場、投打に活躍し優勝に貢献した。この時のチームメイトには、エドウィン・ダンの三男である日米混血のジョン・ダン、ハワイ出身の日独混血の河野元彦などがいた。
柴田 健太郎(しばた けんたろう、1896年(明治29年)4… 柴田 健太郎(しばた けんたろう、1896年(明治29年)4月 - 没年不詳)は、日本、満洲国の裁判官。 福岡県出身。1914年(大正3年)福岡県立中学修猷館、1917年(大正6年)第一高等学校独法科を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 宮崎地方裁判所、熊本地方裁判所、甲府地方裁判所、千葉地方裁判所、東京地方裁判所、東京控訴院の各判事を経て、1938年(昭和13年)満洲国最高法院審判官となり、1939年(昭和14年)新京高等法院次長に就任。 1943年(康徳10年)6月、新京法政大学学長に就任。
葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30… 葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30日 - 1971年(昭和46年)12月16日)は、日本の華族、神職。正四位。伯爵。 子爵鍋島直柔(旧蓮池藩主家)の三男として生まれたが、藤原北家勧修寺流(藤原為房の次男藤原顕隆が家祖)の流れを汲む葉室家に婿養子に入り、36代目当主となる。明治大学卒業後、安田銀行勤務などを経て、賀茂御祖神社(下鴨神社)宮司となり、興亜学院理事長なども務めた。
林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日… 林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日 - 平成2年(1990年)10月4日)は、日本の化学者、理学博士、東京工業大学名誉教授、鶴岡工業高等専門学校初代校長。
荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1… 荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1981年11月27日)は、日本の医学者、京都大学名誉教授、関西医科大学学長・名誉教授、杏林学園理事。 荻生家は儒学者である荻生徂徠で有名な家系である。 規矩夫の父、荻生録造は、旧姓を福永といった。1859年、幕臣福永清右衛門の三男として江戸麻布新網町で生まれ、荻生家に養子に入りその家督を継いだ。明治維新に伴う徳川家の駿河転封にあたり現在の静岡県沼津市八幡町に移り住んだ。そののち、東大医科に入学し、千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)眼科学第2代教授となり、近代眼科学の礎を築いた。 規矩夫は録造の三男として1895年に千葉県千葉市猪花町79番地で生まれる。
夏堀 悌二郎(なつぼり ていじろう、1895年(明治28年)… 夏堀 悌二郎(なつぼり ていじろう、1895年(明治28年)4月29日 - 1967年(昭和42年)12月2日)は、日本の政治家。青森県八戸市の6代目~7代目市長。 青森県三戸郡地引村(現在の南部町)生まれ。東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。1920年(大正9年)、判事として前橋、東京、釧路の裁判所に勤務した。小樽地方裁判所判事となり、退官。小樽市で弁護士を開業し、1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)まで2期北海道会議員を務めた。 夏堀源三郎の要請で帰郷し、1943年(昭和18年)八戸で弁護士を開業、1946年(昭和21年)には、自由党から出馬し、八戸市初の公選市長となった。 山内亮の市長辞任により、当時の市議会議長であった鈴木惣吉より「今日の社会情勢から市会で決定することについては無理があるため、世論を尊重する公選としたい」との提案があり、議員全員がこれに賛成し、市長公選が実現した。
井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月… 井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月28日 - 昭和42年(1967年)6月30日)は、日本の政治運動家、革命家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。 沖縄県那覇市出身。1912年(大正元年)鹿児島一中を卒業、1916年(大正5年)慶應義塾大学部予科に入学し、卒業。1918年(大正7年)同大学部理財科に進む(後に中退)。在学中に、「日本社会主義同盟」、山川均らが主宰していた水曜会で活躍。1921年(大正10年)12月より翌年11月まで一年志願兵として鹿児島歩兵連隊に入隊。24年春から秋頃まで大阪の『関西日報』の記者となる。 1923年(大正12年)に日本共産党に入党。
前田 幸作(まえだ こうさく、1895年(明治28年)4月2… 前田 幸作(まえだ こうさく、1895年(明治28年)4月28日 - 1987年(昭和62年)9月19日)は、昭和期の実業家、映画興行主、政治家。衆議院議員。旧名・幸三郎。 京都府紀伊郡深草村(深草町を経て現京都市伏見区深草)出身。神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだ。 京都市寺田キネマ (株)に入社し、第二京極支配人を務めた。その後、東亜キネマに移り、その経営となった福岡市の映画館東亜倶楽部(前名・抜天〔バッテン〕館)支配人として1927年(昭和2年)3月に赴任した。昼・夜入替制を連続興行に変更し、低料金制の導入、ポスターの全廃、無料入場券の配布、割引券の飛行機による散布などの奇抜な宣伝を行い話題となった。
奥津 彦重(おくつ ひこしげ、1895年4月28日 - 19… 奥津 彦重(おくつ ひこしげ、1895年4月28日 - 1988年3月13日)は、日本のドイツ文学者。東北大学名誉教授。 滋賀県出身。1920年東京帝国大学文学部独文科卒。東北帝国大学法文学部助教授、東北大学教養部教授、1959年定年退官、名誉教授となった。主としてゲーテを研究した。
鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 19… 鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 1987年4月4日)は、日本の外交官。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、外務省に入省した。 国立国会図書館に終戦連絡横浜事務局長時代の史資料436点が所蔵されている。
池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月2… 池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月26日 - 1982年(昭和57年)3月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 1895年(明治28年)に鳥取県で生まれた。陸軍経理学校第7期主計候補生として1917年(大正6年)5月18日に優等卒業し、1926年(大正15年)に陸軍経理学校高等科を優等卒業した。同年4月から1929年(昭和4年)5月まで派遣員外学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。1939年(昭和14年)3月9日に陸軍主計大佐に進級し、8月1日に陸軍省経理局建築課長に就任した。1941年(昭和16年)11月に第23軍経理部長に転じて日中戦争に出動した。
中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月… 中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月2日)は、日本の詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想に拠り、さらに日本人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血を引くと論じて著書の発禁処分を受けた。「皇漢医学」の名称の下に漢方医としても活動し、製薬事業を興すとともに、関連する著作も書いた。筆名として、中山 啓を用いた時期がある。 石川県金沢市に生まれ、幼い頃から宇宙に興味を寄せ、自然科学者を夢みた。
竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月… 竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月25日 - 1959年(昭和34年)7月23日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、愛知県碧海郡刈谷町長、刈谷市長。刈谷市名誉市民。 愛知県碧海郡刈谷町肴町(現刈谷市)で、紺屋業・竹中石松の長男として生まれる。1913年(大正2年)、愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。1918年(大正7年)愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)を卒業した。同年、愛知県立愛知病院(現名古屋大学医学部附属病院)に勤務し、1921年(大正10年)耳鼻咽喉科病院を開業した。 1932年(昭和7年)刈谷町会議員に選出され、以後、刈谷町長、愛知県町村長会長、愛知県会議員などを務めた。
大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25… 大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医少将。海軍乙事件により遭難、殉職。 1895年(明治28年)、神奈川県に生まれる。1917年(大正6年)に千葉医学専門学校に在学中のまま海軍軍医学生になる。翌1918年(大正7年)5月、卒業。海軍少軍医となり海軍軍医学校で乙種学生として学び、霧島乗組になる。その後、駒橋、迅鯨、磐手、高雄の軍医長などを歴任する。 1942年(昭和17年)に海軍省医務局第一課長に就任、同年12月に南東方面艦隊軍医長に就任した。 翌1943年(昭和18年)4月連合艦隊司令長官山本五十六らが乗った一式陸攻が敵戦闘機P-38に撃墜される事件があり(海軍甲事件)、大久保は山本らの検死に立ち会った。
田村 秀吉(たむら ひできち、1895年(明治28年)4月2… 田村 秀吉(たむら ひできち、1895年(明治28年)4月25日 - 1955年(昭和30年)10月9日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、大蔵参与官。弁護士。 徳島県那賀郡新野村(現在の阿南市)出身。1923年(大正12年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験行政科・司法科に合格した。内務省に入り、青森県や復興局に勤務した。その後、東京帝国大学大学院で学び、政策研究会(のち大東亜研究所)を創設。1933年(昭和8年)から弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回、第21回でも再選された。その間、小磯内閣で大蔵参与官を務めた。戦後の1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。
船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 … 船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月12日)は、日本の政治家。位階は従二位勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議員(当選15回)。第51代・56代衆議院議長、自由民主党副総裁等を歴任。 政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は長弟、衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は次弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。 なお名の「中」は「なか」が正しい読みで、「あたる」は誤読である。
児島 高信(こじま たかのぶ、1895年(明治28年)4月2… 児島 高信(こじま たかのぶ、1895年(明治28年)4月22日 - 1947年(昭和22年)8月12日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市(渋谷区)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に朝鮮総督府事務官となった。同参事官、殖産局商工課長、財務局理財課長、全羅南道内務部長、総督官房会計課長、鉄道局理事を歴任。1936年(昭和11年)、咸鏡北道知事に就任し、1940年(昭和15年)に李王職次官に転じた。1945年(昭和20年)、李王職長官事務取扱。1946年(昭和21年)1月、同職官制廃止後は宮内省御用掛を務めた。1947年(昭和22年)8月12日死去。天皇、皇后、皇太后より祭粢料を賜った。
三浦 一雄(みうら くにお、1895年4月22日 - 196… 三浦 一雄(みうら くにお、1895年4月22日 - 1963年1月30日)は、日本の官僚、政治家。青森県三戸郡五戸町出身。位階は正三位。勲一等瑞宝章。父は五戸町長や青森県議会議員を務めた三浦道太郎。また、祖父の三浦泉八は十和田湖畔・宇樽部の開拓者として知られる。 1895年(明治28年)、青森県三戸郡五戸町に生まれる。仙台の第二高等学校から東京帝国大学へ進学し、在学中に上杉慎吉を中心に東大に組織された全日本興国同志会に入会。同大学を卒業後、農商務省入省。同期に岸信介ら。 1925年(大正14年)に農商務省が商工省・農林省(現 農林水産省)へと分割されると農林省へ転籍し、農山漁村経済更生運動に深く関わり一時期企画院に出向した後に農林次官を最後に農林省を退官。
池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月2… 池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月22日 - 1920年〈大正9年〉1月18日)は、日本の華族(侯爵)。旧岡山藩池田家第14代当主。 父は池田詮政。母は久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王。26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため、弟の政鈞(後に宣政と改名)が家督を相続した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 198… 三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 1981年10月24日)は、日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦広。 1895年(明治28年)山口県萩市の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる。1908年(明治41年)、明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する。また、祖父の勧めから江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ。1937年(昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した。
森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 19… 森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 1983年2月13日)は、日本の建築家。建築研究者。三重県生まれ。京都大学名誉教授。また東海大学教授を歴任。過去の様式からの分離を宣言した分離派建築会に名を連ね設計活動を始めるが、西洋建築の歴史的研究を経て、ギリシアやローマの古典精神を探求し、建築論研究にも力を注いだ。 県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年(大正9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。 1934年に「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18… 大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18日 - 1977年〈昭和52年〉7月19日)は日本の詩人・翻訳者・作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。1932年までは篤夫(あつお)と名乗っていた。太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、児童文学作品他、「国境の町」などの歌謡曲、「大地讃頌」をはじめとした合唱曲、軍歌(戦時歌謡)、社歌、校歌、自治体歌の作詞も多い。1967年紫綬褒章、1972年勲四等旭日小綬章。 広島県広島市天満町(現在の西区天満町)出身。生家は裕福な呉服商であったが、彼が物心付く頃には没落しており、貧しい暮らしの中で育った。少年時代に『アラビアン・ナイト』や巖谷小波の『世界お伽噺』を読み、文学者を志す。
西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月… 西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月17日 - 1970年(昭和45年)3月20日)は、戦前日本の部落解放・社会運動家、政治運動家、著述家。本名は清原一隆。 全国水平社設立の中心人物で差別され苦しんでいた、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。従弟の亀本源十郎も水平社で活動していた。 奈良県御所市の被差別部落の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。