布浦 真作(ふうら しんさく、1895年4月17日 - 19… 布浦 真作(ふうら しんさく、1895年4月17日 - 1985年2月27日)は、日本の銀行家。山口銀行頭取を務めた。山口県出身。 1919年に慶應義塾理財科を卒業し、同年4月に山口銀行(現在の三和銀行)に入行。1943年7月に百十銀行常務に就任し、1949年3月には山口銀行頭取に昇格。1974年5月に会長を経て、1980年6月には取締役相談役に退いた。 1958年5月に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年2月27日大腸腫瘍のために死去。89歳没。
野口 喜一(のぐち きいち、1895年(明治28年)4月16… 野口 喜一(のぐち きいち、1895年(明治28年)4月16日 - 1957年(昭和32年)4月2日)は、昭和時代の政治家。実業家。地主。衆議院議員。 神奈川県橘樹郡川崎町南河原(川崎市幸区南河原を経て現幸区駅前本町)の素封家の家に生まれる。1922年(大正11年)3月、明治大学法科を卒業。1924年(大正13年)市制施行直後の川崎市の学務委員に推され、1926年(大正15年)市青年団御幸分会長、1928年(昭和3年)県社会委員となった。 同年9月、川崎市会議員に当選。参事会員となった。さらに1932年(昭和7年)6月より神奈川県会議員に2期当選し、参事会員にも選ばれた。 1937年(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙では神奈川県第2区から出馬し当選。
相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14… 相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14日 - 1989年(平成元年)10月16日)は、日本の独文学者。 東京大学名誉教授、鶴岡市名誉市民(第一号)、勲二等瑞宝章受章、文化勲章受章。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。山形県鶴岡市出身。幼名は鈇太郎(おのたろう)だったが、鉄太郎(てつたろう)と間違えられることが多かったため、数え23歳の年の瀬に郡長の許可を得て守峯と改めた(『茫々わが歳月』p.7)。 木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。 大独和辞典の編纂やゲーテの研究等でも有名。日本独文学会の創設に貢献した。
高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)… 高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)4月13日 - 1974年(昭和49年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板町針生に生まれる。旧制 大田原中学校 卒業(明治45年、第6回卒)。矢板町会議員、栃木県会議員を経て、1942年(昭和17年)に矢板町長に就任。町長は1945年(昭和20年)10月31日まで務めた。 1955年(昭和30年)2月、合併に伴う矢板町長選挙に立候補したが大島喜一郎に敗れた。その後、1959年(昭和34年)2月の矢板市長選挙で当選し、市長は1963年(昭和38年)2月16日まで務めた。市長在任中には、小学校の改築や道路整備などを行い市勢の発展に尽力した。
石原 兵永(いしはら ひょうえい、1895年〈明治28年〉4… 石原 兵永(いしはら ひょうえい、1895年〈明治28年〉4月12日 - 1984年〈昭和59年〉8月17日)は、無教会派のキリスト教伝道者。栃木県生まれ。旧姓・鈴木。1920年青山学院英文学部卒。内村鑑三に師事する。青山師範学校の英語教師となり、石原文子と結婚、石原姓になる。青山師範学校教授を1931年に退職し伝道活動を続ける。
牧野 キク(まきの キク、1895年〈明治28年〉4月12日… 牧野 キク(まきの キク、1895年〈明治28年〉4月12日 - 1996年〈平成8年〉6月27日)は、日本の教育者、学校経営者。北海道の学校法人藤女子学園理事長、藤女子大学初代学長を務めた。藤女子学園創成期の札幌藤高等女学校(後の藤女子中学校・高等学校)時代から、同校2代目校長のクサヴェラ・レーメと共に、女子教育に尽力した。戦中は軍からの圧力に耐えて学校を守り抜き、戦後は藤女子専門学校の設置、新教育制度の施行に伴う藤女子短期大学や藤女子大学の設置など、生涯を女子教育への発展に尽くした。「女子教育の先達」「北海道女子教育の先駆者」とも呼ばれる。富山県富山市越前町出身。 1895年(明治28年)に、富山市越前町で、10人兄妹の第4子として誕生した。
椎熊 三郎(しいくま さぶろう、1895年4月11日 - 1… 椎熊 三郎(しいくま さぶろう、1895年4月11日 - 1965年7月27日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。 衆議院議員(9期)、衆議院副議長(第39代)、衆議院議院運営委員長(第10代)などを務めた。 北海道利尻郡鴛泊村(現・利尻富士町)に生まれ、単身で小樽市に渡る。苦学しながら1914年に小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、へき地教育に携わった後に1918年に『小樽新聞』社会部記者となる。社内の賃上げ争議に加わって退職処分に遭うが、小樽商業会議所会頭だった山本厚三に認められ、秘書として迎えられる。小樽に普通選挙期成同盟を設立して幹事長となり、普選運動に邁進する。
石田 寿(いしだ ひさし、1895年4月11日 - 1962… 石田 寿(いしだ ひさし、1895年4月11日 - 1962年2月20日)は、日本の裁判官。長崎地方裁判所所長、京都地方裁判所所長、高松高等裁判所長官などを歴任した。 福岡地方裁判所判事などを務めた石田精一の二男として福岡市に生まれる。1913年福岡県立中学修猷館、1916年第五高等学校独語法律科を経て、1920年東京帝国大学法学部独法科を卒業する。在学中の1919年には高等文官試験行政科に合格している。東大在学中は後の首相広田弘毅が創設した学生寮「浩浩居」で生活しており、その頃から広田との信頼関係が築かれた。 卒業後、三菱合資会社に一時勤務するが、1922年司法官試補となり横浜地方裁判所に勤務する。
中里 無庵(なかざと むあん、1895年(明治28年)4月1… 中里 無庵(なかざと むあん、1895年(明治28年)4月11日 - 1985年(昭和60年)1月5日) は、陶芸家。唐津焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)。12代中里太郎右衛門。本名は中里重雄。
川上 澄生(かわかみ すみお、明治28年(1895年)4月1… 川上 澄生(かわかみ すみお、明治28年(1895年)4月10日 - 昭和47年(1972年)9月1日)は、日本の版画家。神奈川県出身。
村松 正俊(むらまつ まさとし、1895年4月10日 - 1… 村松 正俊(むらまつ まさとし、1895年4月10日 - 1981年9月20日)は、文明批評家、翻訳家。
江島 伊兵衛(えじま いへえ、1895年(明治28年)4月1… 江島 伊兵衛(えじま いへえ、1895年(明治28年)4月10日 - 1975年(昭和50年)10月10日)は、日本の実業家、能楽研究家。筆名荏寺 枚平(えじ まいへい)。 東京に生まれる。幼名は銀次郎。1912年に東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学し、1917年に同校本科を卒業した。弓道部出身。 1918年に神田豊穂と春秋社を設立。同社の社長に就任する。その後家業を株式会社化し、1928年にわんや書店社長となる。1935年に鴻山文庫を設立した。 1961年、わんや書店の会長に就任した。松下塗料専務取締役、早稲田印刷監査役、野上記念法政大学能楽研究所顧問、宝生会理事なども歴任した。 著書・論文も多く、また、発行している雑誌『宝生』で「火曜研究会」と銘打った研究座談会を佐藤芳彦ともども主催して、能・謡曲の演者と研究者の交流の場を設けた。
竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉… 竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉4月9日 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の経済学者、教育者。立教大学商学部教授・経済学部教授、国士舘大学教授。 1895年4月9日生まれ。慶應義塾大学理財科を卒業したのち、三井銀行に入行。 同行で4年間の勤務のあと退職し、慶応義塾大学教授のトーマス・E・ジョンの元で研究助手を務め、同大学大学院で経済学および人口論を専攻する。1920年(大正9年)3月、同大学理財科大学院を修了。 1925年(大正14年)に立教大学商学部(現・経済学部・経営学部)教授に就任。経済原論や銀行論を講じる。 1937年(昭和12年)に立教大学スキー部が創設されると、初代部長を務めた。
伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971… 伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971年2月24日)は、日本のドイツ文学者。 1895年、神奈川県横須賀市生まれ。東京帝国大学文学部独文科で学び、1918年に卒業した。 卒業後は第四高等学校教授となった。戦後の1949年7月、第14代第四高等学校校長となった(1950年3月まで)。一方で、同1949年は国立学校設置法の施行による新制金沢大学が設置され、包摂されることとなったことから金沢大学教授となった。1960年に金沢大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は桃山学院大学教授として教鞭をとった。 なお、1909年生まれのドイツ文学者に名古屋大学教授を務めた伊藤武雄がいるが、全くの別人である。
黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 19… 黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 1987年5月20日)は、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身の作曲家。日本の音楽教育と音楽起源の研究に努めた。別名・水田詩仙(みずたしせん)、桑田つねし、秋田実、植村甫(はじめ)、西田徹、藤村俊、藤原俊。次男は黒沢真澄(ヴァイオリニスト)。 黒沢隆朝の父は市太郎、代々神職の家であった。小学校の代用教員の傍ら、秋田県師範学校を二度受験するも極度の近視のため不合格となり、1912年(明治45年)3度目の受験の際に検査表を書き直して合格した。1917年(大正6年)に秋田師範学校を卒業。1918年上京して東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。
富田 芳郎(とみた よしろう、1895年4月8日 - 198… 富田 芳郎(とみた よしろう、1895年4月8日 - 1982年1月8日)は、日本の地理学者。冨田 芳郎とも綴る。 1895年(明治28年)、北海道札幌市で名護屋家の子としてに生まれる。石狩川下流域の花川小学校尋常科六年を経て、公立白石尋常高等小学校の高等科を卒業する。さらに、札幌の北海道師範学校附属小学校高等科3年に入学し、一年間で修了する。その後は、小学校の準訓導の資格を取るため同校の講習所へ通いながら独学した。17歳の時北海道師範学校に入学した。1915年(大正4年)に東京高等師範学校理科3部に入学し、地理学と博物学を専攻した。東京高等師範では地形学を山崎直方・辻村太郎に、地質学を大関久五郎に、人文地理学を内田寛一に学んだ。
鶴見 憲(つるみ けん、1895年〈明治28年〉4月7日 -… 鶴見 憲(つるみ けん、1895年〈明治28年〉4月7日 - 1984年〈昭和59年〉8月18日)は、日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦前の1940年11月から在シンガポール日本総領事を務め、宣伝工作・民族工作を積極的に推進したことで知られる。日本占領時期にはマラッカ州長官を務めた。熱海市長。 1895年4月7日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営・新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の7男(10人きょうだいの末子)として生まれる。 一家は1895年9月に東京・赤坂、1896年1月に父の郷里・岡山、1899年夏に名古屋へ転居。1900年4月、鶴見が5歳のときに母・琴子が病死。
菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日… 菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日 - 1946年〈昭和21年〉6月28日)は、日本の実業家。 日本レイヨン第2代社長。日本レイヨン初代社長菊池恭三の四男であり、妻は貴族院議員下郷久成の二女。 大阪府菊池恭三四男。1895年に市立大阪商業学校(現大阪公立大学)卒業後、アメリカ合衆国にて遊学した。丸川商事社長、杉村倉庫取締役、尾三電力取締役、日本レイヨン取締役、日本レイヨン常務を歴任し、1938年から父の後任として日本レイヨン社長を務めた。また、南海鉄道監査役、スフ製造工業組合監事、日本化学繊維研究所監事なども兼任した。
中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月… 中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月5日 - 1984年〈昭和59年〉1月31日)は、日本の経営者。宇部興産株式会社(現:UBE株式会社)会長、経済団体連合会常任理事、日本経営者団体連盟常任理事、経済企画庁経済審議会専門委員、産業機械統制会理事技術部長。 山口県宇部市出身である。宇部尋常高等小学校を卒業後、山口中学校に入学。中学時代は模型飛行機作りに熱中しながら勉学に励んだといい、卒業後は機械工学を学ぶため東京高等工業学校機械科(現・東京工業大学工学部)に入学した。 1918年(大正7年)3月に東京高等工業を卒業すると、三菱重工業に入社した。当時は戦争景気に沸き高給を約束してくれる会社も多かったが、当時三菱がイスパノシーザーと呼ばれる飛行機を製造していたことから入社を決めたという。
陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4… 陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4月4日 - 1941年〈昭和16年〉9月28日)は詩人、実業家。昭和初期に政治家としても活動した。 1895年、神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市)砂子生まれ。1913年(大正2年)に横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)卒業。 1919年(大正8年)の雑誌『太洋の周辺』の同人になり、1924年(大正13年)に詩集「銅牌」を刊行する。また、労働学校の講師になり、労働者の教育に従事する。 1932年(昭和3年)に社会民衆党から川崎市会議員選に出馬して最高点で当選、1936年には神奈川県会議員にも当選して1938年 - 1939年に県会副議長。
茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2… 茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2日 - 1973年〈昭和48年〉2月5日)は、日本のジャーナリスト、評論家。 熊本県生まれ。東京外国語学校卒。 はじめ左翼だったが、戦時中転向し、戦後も反共の論陣を張った。産経新聞論説委員、世界動態研究所所長、人権擁護調査会常任理事。
生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1… 生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1964年〈昭和39年〉12月2日)は、活動弁士、俳優である。本名は生駒 悦(読み不明)。東京浅草を中心に高い人気を得た。 1895年(明治28年)4月1日、岡山県 真島郡落合村大字垂水(現在の同県真庭市落合垂水)で運送業を営む、若狭屋生駒宗平の長男・悦として生まれる。 1912年(明治45年)、旧制・岡山県立商業学校(現在の岡山県立岡山東商業高等学校)を卒業、役場につとめるが、退職して上京し、早稲田大学に入学した。やがて中退、伊井蓉峰門下から日活(1912年設立)の「活動写真弁士養成所」で弁士の技術を学んだ。 1916年(大正5年)、満21歳のころ、浅草の帝国館で公開されたユニバーサル映画の一連のブルーバード映画作品が大ヒットし、生駒の解説の功とされた。
島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年… 島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年)4月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍少将。 和歌山県出身。島本熊太郎の三男として生れる。和歌山中学校を経て、1916年11月、海軍兵学校(44期)を95名中6番の席次で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍潜水学校普通科を卒業し、「第28潜水艦」(呂号第五十四潜水艦)に乗り組む。海軍水雷学校高等科で学び、アメリカ駐在、「呂号第五十三潜水艦」艦長、第7潜水戦隊参謀、「呂号第二十七潜水艦」艦長などを経て、1930年11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業。 「伊号第六十潜水艦」艦長、第1潜水戦隊参謀、軍令部員(第3部第5課)、練習艦隊参謀、第2艦隊参謀、海大教官、支那方面艦隊先任参謀を歴任した。
田中 万吉(たなか まんきち、1895年4月1日 - 194… 田中 万吉(たなか まんきち、1895年4月1日 - 1945年10月15日)は日本の洋画家。
友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月… 友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉11月16日)は、日本の宗教家、仏教学者である。幼名は春太郎。全日本仏教会創立者。 愛知県名古屋市生まれ。 浄土宗の僧侶となったが、既存の仏教の在り方に疑念を抱いた。浄土宗の僧侶のまま宗教大学へ入り、卒業してさらに慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学文学部史学科でサンスクリット(梵語)を学び、大正13年に卒業。 独・仏に留学し、帰国後に慶應義塾大学予科講師・教授、慶應義塾大学仏教青年会顧問、日本放送協会ラジオ講師、大正大学講師等を歴任。西洋哲学に裏打ちされた仏典研究をはじめる。また、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始し、ラジオや機関誌で思想を広めた。
窪田 俊彦(くぼた としひこ、1895年4月1日 - 198… 窪田 俊彦(くぼた としひこ、1895年4月1日 - 1984年4月12日)は、日本の経営者。石川県出身。 1921年に東京帝国大学を卒業。北海道炭礦汽船での勤務を経て、1961年5月から1965年11月までに札幌テレビ放送社長を務めた。 1984年4月12日、心不全のために死去。89歳没。
内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 197… 内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 1979年5月23日)は、日本の鋳金家、工芸家、教育者。東京美術学校教授、東京藝術大学名誉教授。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。 岩手県盛岡市に生まれる。少年期に釜師有坂安太郎に入門し、のち南部鋳金研究所で松橋宗明に学んだ。その後上京し、香取秀真に師事した。 1920年に東京美術学校に入学し、1925年に鋳造科を卒業した。研究科修了後の1928年、同校助手となった。1926年には高村周豊らと「旡型」を結成し、昭和初期の新工芸運動に参加した。 1927年、第8回帝展に美術工芸部が新設されると「壁画への時計」を出品して入選した。
安倍 寛(あべ かん、旧字体: 安倍 寬、1894年〈明治2… 安倍 寛(あべ かん、旧字体: 安倍 寬、1894年〈明治27年〉4月29日 - 1946年〈昭和21年〉1月30日)は、日本の政治家、木材商。衆議院議員(通算2期。第20、21期)。戦後は日本進歩党に所属した。 政治家の安倍晋太郎(外務大臣を務めた)は長男。安倍寛信(経営者)、安倍晋三(衆議院議員、第90・96・97・98代内閣総理大臣)、岸信夫(衆議院議員、防衛大臣)は孫。妻・静子は陸軍軍医監本堂恒次郎の娘(後に離婚)。 1894年、山口県大津郡日置村蔵小田(現・長門市油谷蔵小田渡場)に安倍彪助・タメの長男として生まれる。4歳までに両親が相次いで死亡したため、伯母のヨシに育てられる。父・彪助は郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家からの婿養子であり、母・タメは安倍家の“中興の祖”となった安倍慎太郎の妹である。
柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27… 柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27日 - 1969年(昭和44年)6月7日)は、日本の明治文学研究者・翻訳家。明治文学に関する資料収集・編纂、実証研究で多大な成果がある。 1894年、青森県中津軽郡豊田村(現・弘前市)生まれ。1918年に早稲田大学英文科を卒業。トルストイの小説や、『カーライル全集』、『ホイットマン全集』、『アミエルの日記』など英訳版からの重訳を含め、多くの思想哲学書を翻訳出版した。当初は英文学史研究を志したが、関東大震災で多くの書籍を火災で失ったことをきっかけに明治文学研究へと転向した。1924年には、吉野作造を中心に結成された「明治文化研究会」に参加。
山口 左仲(やまぐち さちゅう、1894年4月21日 - 1… 山口 左仲(やまぐち さちゅう、1894年4月21日 - 1976年3月11日)は、日本の寄生虫学者。学位は、医学博士・理学博士。寄生蠕虫類(吸虫・条虫・線虫・鉤頭虫など)の形態・分類学に関する多くの業績を残した。 長野県南佐久郡小海村(現・小海町)で代々造り酒屋を営んでいた黒澤家の五男として生まれる。 小海村小学校を卒業後、東京の旧制早稲田中学校に進学。医学に進んだ動機は不明だが、1918年(大正7年)に岡山医学専門学校を首席で卒業し、銀時計を授与される。しかし、自分は医者には不向きと考え、同年、同郷の山極勝三郎教授を東京帝国大学医学部に訪ねて病理学教室に入室し、7年間を過ごす。1925年(大正14年)に論文「口腔唾液腺の研究」(原題はドイツ語)で医学博士を取得。
李 鍾栄(イ・ジョンヨン、朝鮮語: 이종영、1894年4月2… 李 鍾栄(イ・ジョンヨン、朝鮮語: 이종영、1894年4月20日 - 1954年2月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、親日派、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 別名には李 鍾滎(イ・ジョンヒョン、이종형)、権 守貞、権 秀貞(クォン・スジョン、權守貞•權秀貞/권수정)などがある。 江原道旌善郡出身。元山普光中学校、早稲田大学政経科卒。三・一運動の後は曺相伯、李光世、金道源などと雲泥洞事件に参加したが、後は関東軍の密偵となり、日本統治時代の後期には朝鮮総督府警務局の嘱託を務めた。戦後は極右性向の大東新聞社の社長を務めた。1950年の第2代総選挙では旌善郡選挙区より大韓独立促成国民会から本名で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。
山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966… 山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966年6月13日)は日本の建築家。逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した。 岐阜県羽島郡上中島村字長間(現・羽島市)生まれ。上中島小学校、岐阜県立大垣中学校、第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学建築学科入学。1920年、青年建築家のグループ分離派建築会を結成する。同年、同校卒業。逓信省営繕課に入り、電信局・電話局(逓信建築)の設計を行う。東京中央電信局(1925年、現存しない)ではパラボラ型アーチの並ぶ個性的なデザインが注目された。1924年から復興局土木部に所属し、永代橋、聖橋に代表される関東大震災後の震災復興橋梁のデザインを行った。
西村 実造(にしむら じつぞう、1894年(明治27年)4月… 西村 実造(にしむら じつぞう、1894年(明治27年)4月19日 - 1950年(昭和25年)8月7日)は、日本の政治家。兵庫県生まれ。公選初代埼玉県知事。1947年(昭和22年)カスリーン台風被害、1948年(昭和23年)埼玉県庁舎焼失など乗り切り、西村県政と謳われた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月1… 綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月18日 - 1980年(昭和55年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・矢野。 大分県出身。農業・矢野黙三郎の息子として生まれ、綾部伝一郎陸軍少佐の養嗣子となる。中学済々黌、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官、騎兵第12連隊付となる。陸軍騎兵学校で学ぶ。1918年8月から翌年7月までシベリア出兵に出動。再度、騎兵学校で学んだ後、1924年11月、陸軍大学校(36期)を首席で卒業した。 騎兵第12連隊中隊長、陸軍省軍務局課員(軍事課)、ソ連駐在、参謀本部員、兼軍令部員、関東軍参謀(作戦主任)、参謀本部課長などを歴任し、日中戦争に騎兵第25連隊長として出征した。
北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 -… 北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 - 1969年12月25日 )は、日本の銀行家、経営者。滋賀銀行頭取を務めた。 滋賀県大津市出身。1917年に東京帝国大学独法科を卒業。横浜正金銀行での勤務を経て、1953年4月に滋賀銀行監事に就任し、1957年10月には頭取に昇格。1963年10月には会長に就任。75歳没。 横浜正金銀行からスイスの国際決済銀行 (BIS)に派遣されていた1945年、同じく派遣者の吉村侃とともに、スイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)およびスイス駐在陸軍武官の岡本清福の支援を得ながら、スウェーデンからBISに派遣されていたペール・ヤコブソンを介して、アメリカの諜報機関戦略情報局 (OSS)のアレン・ウェルシュ・ダレスとの間で日本の終戦工作を(ヤコブソンが別々に日本とアメリカの関係者と会合する形で)おこなった。
留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 19… 留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 1981年5月3日)は、日本の内務官僚、実業家。官選秋田県知事、警視総監、北海道庁長官。 岡山県高梁市出身。社会事業家・牧師、留岡幸助の三男として生まれる。早稲田中学、第二高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、兵庫県属となり内務部地方課に配属。以後、兵庫県加東郡長、石川県理事官兼警察部工場課長、同県視学官、京都府内務部庶務課長、栃木県書記官・学務部長、香川県書記官・警察部長、千葉県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁部長・総務部長などを歴任。
藤野 恵(ふじの めぐむ、1894年(明治27年)4月16日… 藤野 恵(ふじの めぐむ、1894年(明治27年)4月16日 - 1949年(昭和24年)10月9日)は、日本の内務・文部官僚。官選県知事、文部次官。 広島県出身。藤野玖三の四男として生まれる。広島県立福山中学校、第六高等学校を卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 1920年10月、群馬県多野郡長に就任。以後、静岡県理事官・内務部社会課長兼調査課長、臨時震災救護事務局事務官、内務省社会局事務官、兼社会局書記官・社会部福利課長、同部保護課長などを歴任。 1935年1月、香川県知事に就任。 1936年6月、文部省実業学務局長に転じ、さらに同普通学務局長を務めた。
湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4… 湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4月14日 - 1978年(昭和53年)12月2日)は、日本の政治家。1959年から1971年まで富山市長を3期務めた。位階は正五位。 富山県上新川郡東岩瀬町(現富山市東岩瀬町)出身。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)卒業。1929年(昭和4年)富山市議会議員に初当選、以後富山市議会議員(3期)、富山県議会議員(3期、自由党(現自由民主党)公認、1952年から1954年まで富山県議会議長)、自由党県連幹事長を歴任。 1959年(昭和34年)富山市長に当選就任。以後1971年まで3期にわたり市長を務めた。 全国市長会理事、加越能鉄道(現加越能バス)取締役、立山黒部貫光取締役を歴任。
矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 197… 矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 1972年3月9日)は日本の医師、医学者、衛生学者。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)生まれ。1917年旧制東京慈恵医院医学専門学校卒業。1922年からドイツのフライブルク大学に留学し、細菌衛生学を学ぶ。帰国後の1925年に東京慈恵会医科大学教授となり、衛生学教室を創設。1956年には学長に就任した。 研究では特に、生物発光に関する研究、日光紫外線に関する研究で知られ、郷里の諏訪湖産のヌカエビの発光の本態が淡水棲発光バクテリアの感染によるものであることを発見(ホタルエビも参照)、また各種魚類における共棲発光の実例を実証した。戦後は日本で最初に蛍光顕微鏡を開発し、結核菌の検出などの実績を上げた。
阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日… 阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日 - 1972年〈昭和47年〉1月2日)は、日本の技術官、実業家。 逓信省、東京市、鉄道省に勤務した後、北海道新聞社社長となり、北海道放送を設立して初代社長を務めた。 阿部宇之八の三男として札幌区に生まれる。札幌区創成尋常小学校、札幌区創成高等小学校、北海道庁立札幌中学校を経て、1911年(明治44年)第一高等学校第二部甲類に無試験検定で入学、1914年(大正3年)同校第二部工科卒業。1917年(大正6年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。 同年逓信省に入省。翌1918年(大正7年)に九州逓信局水力課長となり、九州各地の河川水を発電に利用するための水量調査を行った。
徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 19… 徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は、日本の弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。本名は福原駿雄(ふくはら としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長。
田中 豊(たなか ゆたか、1894年(明治27年)4月12日… 田中 豊(たなか ゆたか、1894年(明治27年)4月12日 - 1988年(昭和63年)5月16日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、長南町名誉町民を務めた。 千葉県上埴生郡庁南町(長生郡庁南町を経て現長南町)で生まれる。1912年(明治45年)千葉県立大多喜中学校(現千葉県立大多喜高等学校)を卒業した。 千葉県藁工品を設立し、埴生かます・むしろ産業の振興に尽力した。また、千葉県叺納入組合長、千葉県農水産社長、日本藁工品配給 (株) 評議員・千葉県出張所長、全国農業会千葉県藁工品事務所長、千葉運輸会長、千葉興業社長、ゆたかストアー社長、同会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で千葉県第3区から民主党公認で出馬して当選。
宮崎 清(みやざき きよし、1894年(明治27年)4月12… 宮崎 清(みやざき きよし、1894年(明治27年)4月12日 - 1970年(昭和45年)1月20日)は、日本の実業家。三井物産社長や、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた。 愛媛県今治市生まれ。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産入社。1943年三井物産常務取締役。1944年から三井物産社長。同年大正海上火災保険取締役。第二次世界大戦後、三井財閥の解体にあたり、住井辰男三井本社筆頭常務理事らと、連合国軍総司令部との交渉にあたった。1946年電気化学工業特別管理人。三井物産解体後は、公職追放となり、白洋貿易社長、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12… 片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12日 - 1963年(昭和38年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。旅館業・片岡平八郎の四男として生まれる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 参謀本部付、参謀本部員を経て、1928年(昭和3年)3月、陸軍兵器本廠付となり、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部政治学科で1931年(昭和6年)3月まで聴講した。
堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 197… 堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 1976年2月2日)は日本の生化学者、医学博士、大学教授。名古屋大学名誉教授、一宮女子短期大学名誉学長。 愛知県名古屋市出身。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学)、東北大学医科大学卒業。生化学を専攻し、愛知医科大学・名古屋医科大学・名古屋大学教授、和歌山県立医科大学教授を歴任した。1976年2月2日、脳血栓のため愛知県名古屋市中京病院で死去。81歳。告別式は愛知県医師会講堂で行われた。 名古屋日独協会の活動に尽力。1964年から1976年に亡くなるまで協会長として活動した。晩年にはドイツ連邦共和国功労勲章(大功労十字章)を受賞している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
鶴田 常吉(つるた つねきち、1894年4月10日 - 19… 鶴田 常吉(つるた つねきち、1894年4月10日 - 1988年9月29日)は、日本の教育者。国文学者。四国女子短期大学(現四国大学)初代学長。徳島県三好市出身。広島高等師範学校卒業。 三好郡三野町(現在の三好市)出身。広島高等師範学校(現在の広島大学)卒業。 徳島師範学校学長、新制徳島大学学芸学部初代学部長、四国女子短期大学(現四国大学)初代学長等を歴任。また1964年から1972年までは徳島大学渭水会会長を務めた。 また徳島市立川内北小学校、三好市立池田小学校、三庄中学校(現東みよし町立三加茂中学校)等の校歌の作詞も手掛けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9… 柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9日 - 1943年(昭和18年)11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 兵庫県加東郡上東条村(現、加東市)森出身。旧制兵庫県立小野中学校を経て海軍兵学校卒業(43期)。アメリカ海兵隊をして「恐怖のタラワ」と言わしめた守備隊司令官である。ただし柴崎自身はアメリカ軍の攻撃初日に戦死し、海軍中将に特別進級している。柴崎の戦死は、司令部があった地下壕を負傷者の治療にあてるために移動している最中であった。このことを知った部下達は、「司令官は我々を助けるために戦死した。司令官のためにも最後まで戦う」と決意した。
金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 198… 金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 1985年3月21日)は、プロレタリア文学の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員。 秋田県秋田市土崎港古川町の舟問屋の四男として生まれる。本名・吉太郎。15歳で一旦上京して電気工事の仕事をするが帰郷し、19歳で秋田工業学校機械科を卒業。母校の助手を経て土崎小学校の代用教員を務める。1916年、上京して武者小路実篤の書生となる。 1921年、尋常小学校の同級生だった小牧近江や今野賢三とともに、社会主義思想の文芸雑誌『種蒔く人』を創刊。『解放』に発表した「地獄」が出世作となる。1924年からは『種蒔く人』の後継誌『文藝戦線』を創刊。戯曲、脚本も書いた。
三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963… 三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963年7月28日)は、日本の女優である。東京市出身。夫は映画プロデューサーの森田信義。黒澤明映画をはじめ多くの東宝映画に出演した。出生名は宮田 ハル(みやた はる)、結婚後の本名は森田 ハル(もりた はる)。 東京市神田区神保町出身。1912年、跡見高等女学校を卒業後、島村抱月が結成し、松井須磨子らが所属する芸術座の演劇学校に入校する。1915年、三好栄子の芸名を名乗り、浪花座での大阪公演『清盛と仏御前』で初舞台を踏む。トルストイ作の『復活』や『アンナ・カレニナ』などの舞台に立ち、着実にキャリアを積むが、松井須磨子と衝突して芸術座を脱退し、同じく芸術座を脱退していた沢田正二郎に誘われて、1917年、新国劇結成に参加する。
卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4… 卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4月8日 - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、新湊町長。 富山県射水郡新湊町四十物町(現射水市八幡町)で、卯尾田兵次郎、やい夫妻の長男として大井清平宅で生まれる。文珠寺尋常高等小学校高等科を経て、1914年(大正3年)3月、富山県立高岡中学校を卒業。同年4月、早稲田大学商科に入学し、1918年(大正7年)7月に卒業した。 大学卒業後、神戸市の下里貿易商会に入社。1923年(大正12年)2月、新湊立憲青年党を結成し総理に就任。1927年(昭和2年)9月、富山県会議員に当選。以後、名誉職参事会員、新湊町長(6期)、新湊町職業紹介所長、都市計画富山地方委員会委員、新湊警防団長などを務めた。