西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年… 西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年4月2日) - 昭和39年(1964年)12月25日)は日本の教育者。日本人の創作賛美歌の有名な古典「山路こえて」を作詞したクリスチャン。松山名誉市民第3号。 祖父は幕末の松山を代表する歌人西村清臣。叔父は道後村村長で道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢。 1871年(明治4年)、愛媛県松山市北京町に伊予松山藩士の長男として生まれる。1885年(明治18年)、愛媛県第一中学校(後の松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)へ入学するが、翌年、廃校。この頃、カトリック教会の洗礼を受けた。 1888年(明治21年)、大阪で英語を学び、大阪基督教会で宮川経輝の教えを受けプロテスタントの信仰を持つ。
安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年… 安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年2月13日) - 1960年10月24日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1… 中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1日(明治4年2月12日) – 1936年(昭和11年)3月14日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(兵庫県第二区選出、当選3回)。尼崎中馬病院主。族籍は兵庫県士族。 摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、浄土真宗本願寺派西性寺の天崎紹印の三男として生まれ、中馬譲吉の養子となった。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学を卒業。日露戦争に従軍し、陸軍一等軍医に任ぜられた。姫路県立病院副院長を務めた後、中馬病院を開業した。一般の診療に従事した。また尼崎市医師会長、琴浦育児院長、尼崎市訓盲院長などを務めた。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2… 北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2月12日〉 - 1927年〈昭和2年〉11月14日)は、日本の彫刻家である。本名は直次郎。 現在の長野県長野市生まれ。幼年期より養父で宮彫師あった北村正信から彫刻を学んだ。後に上京し、1893年(明治26年)に島村俊明や小倉惣次郎、新海竹太郎、安田善次郎らと親交を持った。後に島村から木彫、小倉から塑造を学んだ。また同時期に解剖学についても学び始めた。 1900年(明治33年)より留学のため渡仏し、パリに在住し同地で裸体像等の大理石を用いた西洋式彫刻を学んだ。1902年(明治35年)に帰国し、その後は大理石を用いた彫刻を製作し始めた。これによって日本でブロンズ像に対抗して、初の大理石による彫刻像を導入した事で名を馳せた。
野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年… 野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年4月30日) - 大正8年(1919年)8月28日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 丹波国氷上郡和田村(現在の兵庫県丹波市)出身。1896年(明治29年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業すると、司法官試補として神戸区裁判所に配属された。1898年(明治31年)に検事となり、1900年(明治33年)には判事となった。1901年(明治34年)に退官すると、神戸市で弁護士事務所を開き、神戸弁護士会会長も務めた。 神戸市会議員を経て、1910年(明治43年)の衆議院議員補欠選挙に当選。以後、4回の当選回数を数えた。
川合 貞一(かわい ていいち、1870年4月29日〈明治3年… 川合 貞一(かわい ていいち、1870年4月29日〈明治3年旧暦3月29日〉 - 1955年〈昭和30年〉6月19日)は、日本の哲学者、心理学者。文学博士。慶應義塾大学名誉教授。初代慶應義塾大学文学部長、第2代原理日本社会長。実験心理学者ヴィルヘルム・ヴントの弟子。 美濃国安八郡(現・岐阜県大垣市)に、源十郎の長男として生まれる。明治25年(1892年)に第一回卒業生として慶應義塾大学部文学科を卒業する。 新潟県尋常師範学校教授を経て明治29年(1896年)より慶應義塾大学部文学科の教授となる。明治31年(1898年)に慶應義塾が行った第1回のドイツ留学生として選抜され、ドイツのフリードリヒ・シラー大学イェーナ、ライプツィヒ大学で研究生となる。
渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(18… 渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(1870年4月20日) - 昭和25年(1950年)10月2日)は、日本の官僚、政治家。東京市の各区長や、仙台市長などを歴任した。 教育行政への造詣が深かったことから、仙台市長時代には「教育市長」、また町村合併や産業振興などから、「仙台中興の祖」とも呼ばれた。 宮城県黒川郡大松沢村(現・大郷町)生まれ。渋谷吉三郎の長男。 宮城師範学校(現在の宮城教育大学)を卒業後、宮城県内で教員を務めたのち上京、1906年に日本大学(法科)を卒業した。大学卒業後は文部省に入省、普通学務局第一課長、東京市教育課長職を経て、小石川区(現在の文京区)、麹町区(現在の千代田区)、京橋区(現在の中央区)の、それぞれ区長を歴任した。
白石 大蔵(しらいし だいぞう、明治3年3月19日(1870… 白石 大蔵(しらいし だいぞう、明治3年3月19日(1870年4月19日) - 1941年(昭和16年)9月9日)は、明治から昭和時代前期の政治家。愛媛県温泉郡素鵞村長、松山市長。愛媛県議会議員。 愛媛県温泉郡枝松村(現・松山市枝松)で生まれる。1891年(明治24年)素鵞村収入役、1907年(明治40年)同村長を経て、1915年(大正4年)9月、県会議員に当選。1期在職した。1931年(昭和6年)1月に松山市収入役を経て、1933年(昭和8年)5月11日に同市長に就任したが、同年11月に病気を理由に退任した。
園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3… 園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3月18日) - 1963年(昭和38年)9月29日)は、女性武道家。直心影流薙刀術第15代宗家。大日本武徳会薙刀術範士。 93歳で死去するまでの生涯で敗北した試合は2回のみといわれる。近代薙刀術史上最高の名人として評価が高い。 仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として現在の宮城県大崎市に誕生する。幼名は「たりた」。これは跡継ぎの誕生を望んでいた父親が、「もう女は足りた」という嘆きから名づけたという。幼い頃から父親の馬を勝手に乗り回すほど活発な少女であったという。 1886年(明治19年)、直心影流剣術の榊原鍵吉門人であった佐竹鑑柳斎(観柳齋)がたりたの住む町で撃剣興行を行う。
鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(187… 鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(1870年4月17日) - 昭和5年(1930年)4月3日)は、明治時代から昭和時代初期の日本の牧師である。 1870年に播磨国飾磨郡姫路町元町(現・兵庫県姫路市)に、姫路藩士で漢学者の鵜崎久平の子として生まれる。1887年、アメリカ南メソヂスト監督教会宣教師のウォルター・R・ランバスから洗礼をうける。献身して関西学院に入学してJ.C.C.ニュートン宣教師に育てられる。メソジストの神戸・広島・大阪・京都で伝道をする。 第三高等学校教授、関西学院教授になり、1912年に日本メソジスト教会機関誌『護教』主筆。1914年には鎮西学院の院長に就任して。
東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870… 東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870年4月16日) - 1938年(昭和13年))は戦前日本の中国法制史学者。臨時台湾旧慣調査会補助委員、法政大学講師、東北帝国大学附属図書館事務嘱託。大町桂月と親交があった。 明治3年(1870年)3月16日土佐国(高知県)に生まれた。1881年(明治14年)小学校を卒業して佐川村に移り、佐川中学分校に入学した。1883年(明治16年)廃校後、伊藤蘭林・山本迂斎に漢学を学んだ。1886年(明治19年)高知に出て、奥宮暁峰・松下武重に経学を学んだ。 1888年(明治21年)大坂に出て、梅清処塾で山本梅崖に古文辞学・英学・数学を学び、1889年(明治22年)塾長となった。
橋口 信助(はしぐち しんすけ、1870年4月16日 - 1… 橋口 信助(はしぐち しんすけ、1870年4月16日 - 1928年2月16日)は、日本の実業家である。住宅メーカーである「あめりか屋」の創業者。 1870年4月16日(明治3年3月16日)、宮崎県南那珂郡飫肥町大字板敷で、橋口善吉と妻・トメの間に生まれる。1885年(明治18年)9月に東京商業学校に入学するも、半年後の1886年(明治19年)2月に中退し、郷里に戻り父を助けて鉱山業に従事する。橋口は石炭採掘業のほか、木材伐採業などにも手を出していたようであるが、いずれも失敗し、義理の従兄弟にあたる小村寿太郎を頼り、再び上京する。明治20年代に、妻・マツと結婚する。マツとの間には4人の子どもを設けた。
崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(18… 崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(1870年4月15日) - 昭和31年(1956年)12月4日)は、日本の農商務官僚、商工官僚。 肥前国小城郡岩松村(現在の佐賀県小城市)出身。崎川幸親の長男。第二高等学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務属、同参事官、同書記官、山林局書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、特許局長、鉱山局長を歴任した。1923年(大正12年)に特許局長官に就任し、1930年(昭和5年)5月には親任官待遇を受けた。 同年7月に退官した後は、北樺太石油株式会社取締役、東洋窒素工業株式会社顧問を務めた。
川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日… 川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日 - 1947年2月12日)は、日本の教育者。学習院教授兼初等学科長、佐賀県師範学校校長、奈良県師範学校校長、和歌山市視学などの職を歴任した。位階勲等は正五位勲五等。文仁親王妃紀子の曾祖父である。 姓の表記に関しては、文書においては「川島」とされる例が多いが、戸籍では「川嶋」である。 1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業・松浦平吉(? - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は かつ(1838年10月13日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 - ?)である。
鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1… 鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1870年4月13日) - 1933年(昭和8年))は、仙台市長。検事。弁護士。 仙台出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、判事検事登用試験に合格した。1898年(明治30年)、湯沢区裁判所検事となり、奈良地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、富山地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、旭川地方裁判所検事正などを歴任した。 1919年(大正8年)、仙台市長に就任し、2期8年務めた。3期目を目指した1927年(昭和2年)8月の仙台市長選挙では、市会(市議会)投票において13票を獲得するも、15票を獲得した山口龍之助に及ばず落選した(当時の市長は公選ではなかった)。
庄 晋太郎(しょう しんたろう、1870年4月11日(明治3… 庄 晋太郎(しょう しんたろう、1870年4月11日(明治3年3月11日) - 1939年(昭和14年)9月14日)は、日本の清酒醸造家、政治家。衆議院議員(山口県第一区選出、当選回数は4回)。沖ノ山炭鉱相談役。山口県水産会長。宇部商工会議所副会頭。族籍は山口県士族。 長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ。庄俊輔の長男。家は代々毛利家の宿老福原家の臣で、父は維新の際勤王の志士であった。 1891年(明治24年)、明治法律学校(現・明治大学)卒業。酒造業を営む。山陽採炭常務取締役、長陽炭鉱、神原炭鉱、沖ノ山炭鉱、宇部銀行、宇部鉄道、宇部セメント製造各重役である。 宇部村会議員、宇部市会議員、同参事会員、山口県会議員、同議長となる。
山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870… 山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)は、日本の地理学者。高知県生まれ。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。専門は地形学であるが、人文地理学でも功績がある。
松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3… 松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1960年(昭和35年)11月25日)は、明治後期から昭和前期の官僚、実業家。初代日本水産社長。 山口県出身。松崎源左衛門の長男として生まれた。旧制山口高等学校卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学(現:東京大学法学部)政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年農商務省に入省し農務局属に任官。以後、水産講習所技師兼農商務省参事官、農商務書記官兼特許局審判官兼樺太庁事務官、農商務書記官・水産局漁政課長、水産局長などを歴任。1917年(大正6年)に退官した。 1919年(大正8年)9月27日、「共同漁業株式会社」(現・日本水産)の社長として就任。
杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3… 杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1917年(大正6年)5月13日)は、日本の明治・大正期の劇評家。本名は諦一郎。 備中国阿哲郡野馳村(現、岡山県新見市哲西町)に生まれた。幼少期から漢文を学ぶ一方で、芝居に親しんだ。 1886年(明治19年)(16歳)、上京して明治法律学校に入学し、中退した。郷土の先輩犬養毅の手配で、犬養がいた朝野新聞に入社し、郵便報知新聞に移り、1894年から歌舞伎の劇評を書いた。 演劇雑誌が少なく、新聞紙上の劇評が読まれる時代だった。贋阿弥の評は媚びなくて、松居松葉・岡鬼太郎と共に『三暴れ』と称され、興行側から脅される事もあったと言う。
石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年… 石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年3月6日) - 1940年(昭和15年))は、日本の実業家・教育家・慈善家・社会事業家。台湾で活躍。台湾初となる私立の図書館「石坂文庫」を創設し、台北州議會議員、基隆夜學會の校長を務めた。「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる。自著『臺灣古代文化の謎』では「圖南」(読みは「となん」であろう)と号した。 石坂荘作は、1870年(明治3年)に日本の群馬県吾妻郡原町(現東吾妻町)で生まれた。原町小学校を卒業後、同地や水戸で漢学を学ぶ。原町小学校教員、近衛工兵中隊隊員を経験する。1896年(明治29年)3月にフィリピンへ向かう途中に立ち寄った台湾で、創刊間もない『台湾日日新報』の記者になった。
塩川 賢三(しおかわ けんぞう、1870年4月5日〈明治3年… 塩川 賢三(しおかわ けんぞう、1870年4月5日〈明治3年3月5日〉 - 没年不明)は、日本の実業家。深志倉庫社長。六十三銀行常務取締役。軽井沢ホテル、東西商事各取締役。佐久貯蓄銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川仁助の二男。塩川幸太の弟。塩川三四郎の兄。後分家して一家を創立する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月… 若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月4日) - 1907年(明治40年)3月18日)は、日本の園芸家、アサガオ研究家。 上総国武射郡椎崎村(現在の千葉県山武市)の農家出身。東京専門学校(現・早稲田大学)卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月… 加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月 - 1908年(明治41年)11月22日)は、明治時代の外交官。 豊後国玖珠郡森町(現在の大分県玖珠町)に生まれる。当地は明治に至るまで森藩の陣屋町であった。共立学校、第五高等学校を経て1895年7月、東京帝国大学法学部を卒業。高等文官試験に合格し、外務省に入省。領事館補となった。ロンドンの公使館に勤務していた際に南方熊楠と親しく交わった。その後蘇州、香港の各領事、1904年の日露戦争中には仁川領事を歴任した。1906年に天津総領事に就任し、1907年に奉天総領事となり、部下に吉田茂がいた。しかし在職中、病のため明治41年11月22日に39歳にて卒去。
守山 又三(もりやま またぞう、1869年4月30日(明治2… 守山 又三(もりやま またぞう、1869年4月30日(明治2年3月19日) - 1940年(昭和15年)5月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国八代郡、のちの熊本県八代郡太田郷村(太田郷町を経て現八代市)出身。東京高等商業学校で学ぶ。熊本軌道(株)取締役、讃岐電気軌道(株)監査役、京都電気(株)取締役社長となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から大同倶楽部公認でで立候補してトップで初当選した。つづく1912年の第11回衆議院議員総選挙では中央倶楽部公認で立候補して再選。衆議院議員を2期務め、1914年に議員を辞職した。1940年に死去した。
早川 彌三郎(はやかわ やさぶろう、1869年(明治2年)4… 早川 彌三郎(はやかわ やさぶろう、1869年(明治2年)4月28日 - 没年不明)は、日本の裁判官。 1869年、三重県にて出生。1893年7月、明治法律学校卒業。1893年12月の弁護士試験に及第して弁護士登録したものの、翌年12月の判事検事登用試験にも及第したため、司法官の道を選んだ。 安濃津区裁判事を皮切りに、 四日市区、名古屋区地裁判事を経て、台湾総督府法院判官に転じた。1907年から約3年半に亘って、司法制度および訴訟手続法の研究のためドイツに留学し、ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学んだ。 帰国後は覆審法院検察官となり、1921年、大審院検事に補された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(18… 山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(1869年4月27日) - 昭和13年(1938年)9月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、宇和島市長。 宇和島藩士村松喜久造の二男として生まれ、翌年に同藩士山村正の養子となった。1895年(明治28年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格。翌年に宇和島市で弁護士事務所を開業した。 1906年(明治39年)、衆議院補欠選挙に当選。1920年(大正9年)から翌年まで宇和島町長を務めた。宇和島に市制が施行されると市会議員となり、議長に選出された。1922年(大正11年)から宇和島市長を務めた。その間、宇和島運輸株式会社取締役・宇和島鉄道株式会社取締役・南予時事新報社長などを兼ねた。
山路 一善(やまじ かずよし、明治2年3月13日(1869年… 山路 一善(やまじ かずよし、明治2年3月13日(1869年4月24日)- 1963年(昭和38年)3月13日)は、明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。兄に愛媛県師範学校長の山路一遊と、日本興業銀行副総裁の佃一予。夫人「すえ」は山本権兵衛の次女(財部彪夫人の実妹)。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、「海軍航空の生みの親」と呼ばれる。
長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2… 長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1937年(昭和12年)5月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 長内泰民の子として陸奥弘前藩領西津軽郡穂積村(青森県西津軽郡稲垣村を経て現つがる市)に生まれる。東奥義塾を経て弘前公立病院附属医学校に入る。1885年(明治18年)同校閉校に伴い東京慈恵医学専門学校に入学するが、政治家を志し中退し新聞記者となる。その後、北海道に渡り材木商を始めるが挫折し、帰郷する。また、日清戦争に従軍した。 1899年(明治32年)稲垣村助役、1903年(明治36年)郡議から青森県会議員に転じ、1906年(明治39年)第3代稲垣村長に就任する。
山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年… 山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1917年8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。男爵。旧姓:橋本。[要出典] 橋本房吉の長男として、山口県厚狭郡万倉村字矢矯(現・宇部市大字万倉矢矯)に生まれる。幼名を慶蔵と称し、山口師範学校講習科の講習で万倉小学校で教鞭を取り、後東京教導団に入団、時に19歳であった。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(第2期)を卒業する。日清戦争に出征、中尉に進み、1895年(明治28年)山根家に入籍、陸軍少将山根信成の嫡子となる。 1899年(明治32年)12月に陸軍大学校(13期)を卒業し、陸士勤務となる。のちフランスに駐在する。
種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治… 種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治郎、1869年4月22日〈明治2年3月11日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家。泉醤油社長。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、平民・川崎潮平の長男。須藤与惣に就いて漢学を修める。1878年9月に先代源一の養子となり、1880年に家督を相続、1893年9月に旧名・豊治郎を改める。 身を実業界に投じ、1912年に有志と謀り醤油醸造業を開始し、泉醤油株式会社を起こし、推されて社長となり傍ら貝塚織物、川崎肥料の監査役を兼ねる。東洋商工、貝塚紡績各取締役をつとめる。 貝塚実業界の第一人者であった。趣味は読書、囲碁、抹茶、謡曲、旅行、漢詩。
小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈186… 小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈1869年4月21日〉 - 昭和22年〈1947年〉8月4日)は日本のテロリスト。別名に六之助/録之助(ろくのすけ)。日清戦争の講和会議に際して清国全権大使・李鴻章を狙撃したことで知られる(李鴻章狙撃事件)。 現在の群馬県館林市大島町に生まれる。父・孝八郎は県会議員を務めた村の名士であった。 館林で高橋渡に3年ほど理学の教えを受け、さらに栃木県中学校に学ぶ。栃木県中学校を中退。1884年(明治17年)ごろに上京して慶應義塾に学ぶが1886年(明治19年)に脚気で退塾し故郷へ帰る。放蕩のため父から勘当され、1888年(明治21年)に廃嫡された。
川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年… 川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年3月5日)- 1908年(明治41年)6月15日)は、明治時代の小説家。大阪生まれ。本名亮、別号に煙波山人。
伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年… 伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年3月3日) - 1914年(大正3年)10月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 第一次世界大戦において防護巡洋艦・「高千穂」艦長として戦死した。 佐賀県佐賀市松原にて佐賀藩士伊東祐寿の三男として生まれる。維新後間も無く父を亡くし、藩中老として総野軍監を務めた祖父の伊東祐元に育てられる。攻玉社を経て明治19年(1886年)海軍兵学校に進み、明治23年(1890年)卒業(17期)。同期に秋山真之、山路一善、森山慶三郎らがいる。 海軍少尉に任官後、日清戦争に参戦。威海衛で行われた世界初の水雷夜襲実施の際は、占領した砲台に赴き港内偵察にあたった。
富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869… 富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869年4月14日)/明治4年7月3日(1871年8月18日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸・按摩の指導に取り組んだ。 明治2年(1869年)3月3日/明治4年(1871年)7月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる。3・4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う。
赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年… 赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年2月29日) - 1941年(昭和16年)7月5日)は、日本の実業家。南満州鉄道理事としてオイルシェール事業に取り組んだ。 赤羽家は「高遠以来」と称される保科家時代からの会津松平家家臣である。山形藩時代には1000石、500石、400石、150石を食む赤羽家があり、江戸時代を通じ100石以上の赤羽家が複数存在した。赤羽四郎(スペイン公使)や、陸軍航空草創期の軍人である赤羽佑之(航空兵大佐)などは同族である。赤羽の実父は禄100石の会津藩勘定頭、斗南藩大属会計係であった赤羽治平友温。克己はその三男で、同藩士赤羽友春の養子となる。養母は若松市長松本時正の妹、長男はコーネル大学出身の中島飛行機技師で、第二次世界大戦期は同社の誉発動機推進主任を務める。
木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(18… 木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(1869年4月9日) - 昭和22年(1947年)3月28日)は、日本の明治から昭和初期にかけての政治家。貴族院議員、衆議院議員、関東長官。美食家としても知られ、著書『美味求真』は、食通の原典として今日も名高い。 1869年(明治2年)に大分県宇佐郡安心院町木裳(現在の宇佐市)に生まれる。1892年(明治25年)東京法学院(現中央大学)卒業。政治家を志し、貴族院議員、衆議院議員として当選9回。この間、所属政党は、国民党、立憲同志会・憲政会、立憲政友会、政友本党などにめまぐるしく移り変わり、政界の策士と呼ばれた。選挙違反事件に連座したこともあったが、1927年(昭和2年)の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年… 藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年2月26日) - 1919年(大正8年)1月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 長門国大津郡、後の菱海村(現長門市)で山口県士族・藤津正憲の長男として生まれ、1870年(明治3年)5月に家督を相続する。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1897年(明治30年)陸軍大学校に入校し、1900年(明治33年)同校を第14期で卒業する。 近衛野砲兵連隊大隊長、下関要塞参謀を経て、1911年(明治44年)11月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第4連隊長に任官。
今崎 半太郎(いまさき はんたろう、1869年4月5日 - … 今崎 半太郎(いまさき はんたろう、1869年4月5日 - 1957年2月28日)は、隠岐知夫郡西ノ島の浦郷出身の政治家。1904年(明治37年)から1946年(昭和21年)まで、43年間もの長期間にわたって島根県知夫郡浦郷村(現・隠岐郡西ノ島町)の村長を務めた。「浦郷の父」とされる。 今崎は1869年(明治2年)4月5日に隠岐諸島西ノ島の浦郷で生まれた。尾張屋(屋号)の佐藤大四郎の次男である。 1889年(明治22年)以後には各地で町村制が施行され、1904年(明治37年)5月1日には隠岐諸島でも町村制に準ずる「島根県隠岐国ニ於ケル町村ノ制度ニ関スル件」が施行された。近世以来の浦之郷村が単独で自治体を形成し、同年5月1日に島根県知夫郡(現・隠岐郡)浦郷村が発足、35歳の今崎半太郎が初代浦郷村長に就任した。
大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明… 大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明治2年2月22日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月27日)は、大相撲の大関。身長170cm、体重105kg。最高位は横綱(五条家免許)。 出生地は尾張国知多郡(現在の愛知県半田市乙川殿町)出身。生年月日は1869年(明治2年)2月22日説と1871年(明治4年)3月20日説があり、苗字も「吉田」と「竹内」の2説あったが、大碇の生年月日は1869年(明治2年)2月22日で苗字は「竹内」であることが外国旅券下付表や除籍謄本などで確認された。その後、「吉田嘉平」に一旦、養子縁組し、1871年(明治4年)3月20日に愛知県知多郡南知多町内海の「日比長三郎」の養嗣子となり同家に入籍した。
南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年… 南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年2月21日) - 1949年(昭和24年)5月1日)は、日本の陸軍軍人、銃器開発者。東京砲兵工廠提理、南部銃製造所創設者。階級勲等は陸軍中将勲二等。工学博士。 明治末期、大正、昭和にかけて銃器開発で活躍した日本陸軍技術将校である。日本の警察が制式採用する拳銃ニューナンブM60や、明治時代の傑作軍用小銃と評価される三八式歩兵銃などにその名を残す。 肥前鍋島藩の士族、砲術家の南部春雍の二男として生まれる。母親は幼少の時に亡くなり、実家も大変貧乏だったため10歳で商家に奉公に出される。苦労を重ねた後、佐賀中学、干城学校を経て、陸軍士官学校合格(2期)。
長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(186… 長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(1868年4月30日) - 昭和9年(1934年)7月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。法学博士。キリスト教徒。 安房国安房郡勝山(現在の鋸南町)に安房勝山藩士長島永豊の長男として生まれ、1872年(明治5年)に一家は東京に移住した。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法省参事官試補となるが、1893年(明治26年)に辞して弁護士を開業し、後には東京弁護士会会長に就任した。また日本法律学校・明治法律学校・和仏法律学校・東京法学院・専修学校で講師を務め、日本法律学校では幹事となった。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
神野 勝之助(かみの かつのすけ、1868年4月29日(慶応… 神野 勝之助(かみの かつのすけ、1868年4月29日(慶応4年4月7日)– 1928年(昭和3年)10月5日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、貴族院議員。
森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年… 森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年4月7日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の医学者、京都帝国大学医学部教授。 医師・森島玄仙の長男として1868年に美濃国(現・岐阜県)で生まれる。1893年東京帝国大学医科大学を卒業。薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用される。1896年よりドイツ、ベルギーに留学しストラスブール大学(当時ドイツ領)でシュミーデベルク教授に師事した他、ライプチヒ大学、ゲント大学で研究に携わる。 1899年、京都帝国大学医科大学助教授に任じられ、1900年 帰国と同時に薬物学第一講座教授となる。1925年7月21日-1928年4月21日の間医学部長をつとめた後、1928年退官し、名誉教授となった。
玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(18… 玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(1868年4月28日) - 昭和17年(1942年))は、日本の教育者。 宮城県仙台市出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、東京高等師範学校附属中学校英語歴史科講師となる。1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校教諭となり、1898年(明治31年)に宮城県尋常中学校教諭に転じた。1901年(明治34年)、第二高等学校教授となり、1928年(昭和3年)に校長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、名誉教授の称号を受けた。
奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月… 奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月6日〉- 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。 農業を営み、村議会議員を務めた奈良彦一郎と母ふみ子(宇都宮藩士の娘)の次男として下野国都賀郡南摩村上南摩(現:栃木県鹿沼市)に生れる。兄は彦作。6歳で村の寺子屋で、元日光の士族入江裕次郎に四書五経を学ぶ。進文学舎、陸軍有斐学校を経て、1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、砲兵少尉任官、近衛野砲兵連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。
生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎… 生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎、1868年4月26日〈明治元年4月4日〉 - 没年不明)は、日本の地主、家主、資産家、名望家、兵庫県多額納税者。族籍は兵庫県平民。 兵庫県有馬郡大沢村(現・神戸市北区大沢町)生まれ。上西文右衛門の二男。先代五郎兵衛の養子となる。1894年、家督を相続し、百太郎を改め襲名する。貸金業、土地家屋貸付業を営む。 兵庫県の大地主である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は真宗。趣味は書画、骨董、読書。兵庫県在籍で、住所は神戸栄町通2丁目、別宅は中山手通4丁目。 家系について『人事興信録』によると「生島家は古くより神戸に住し、醸造を業とし、同地草分けの旧家で資産家として名がある」という。
仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4… 仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4月2日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の法学者。京都帝国大学名誉教授。財団法人立命館初代協議員。日本民法典の成立に寄与。 指導教官である穂積陳重の法律進化論の流れを汲み、法理学・法史学・比較法学を近接させた立場であった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月… 日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月1日) - 1926年(大正15年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。肥後国人吉藩、現在の熊本県人吉市の生まれ。15歳のときに鹿児島市の三州義塾に入学。成績優秀につき三州社の社費生に選ばれて東京専門学校(現早稲田大学)に入学。1889年、東京専門学校英語本科卒。卒業と同時に三州義塾の英語教師に任命される。1891年、鹿児島新聞社(現南日本新聞社)の誘いにより客員として入社。1891年10月7日、鹿児島県加治木村(後に加治木町、現姶良市)の日野家に養子として迎えられ鹿児島県人となる。明治末期には佐藤平右衛門と加治木電気会社を設立。
田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4… 田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4月22日(明治元年3月30日) - 1951年(昭和26年)2月17日)は、日本の商人(米並びに酒商)、神奈川多額納税者、政治家。衆議院議員(神奈川県第四区選出、当選1回)。 三重県飯南郡花岡村(現松阪市)出身。高橋萬蔵の六男。田川幸蔵の養子となり1901年、養弟國太郎の後を承け家督を相続する。米並びに酒商を営む。 田浦町議、三浦郡議、神奈川県議、所得税、営業税の各調査委員、鎌倉銀行取締役、田浦土地建物取締役社長となる。 1922年、神奈川4区の補欠選挙において憲政会公認で当選した。衆議院議員を1期務めた。 1951年2月17日に死去した。
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応… 田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応4年3月26日) - 1939年(昭和14年)11月9日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 丹波国多紀郡篠山(現在の兵庫県丹波篠山市)出身。1890年(明治23年)、海軍兵学校を卒業。日清戦争では『扶桑』に乗り組み従軍した。1900年(明治33年)にロシアに留学を命じられ、その後軍令部に勤務した。1909年(明治42年)に在ロシア大使館附武官に就任。1914年(大正3年)からは馬公要港部参謀長、海軍大学校教官、軍令部第三班課長を歴任した。1919年(大正8年)より浦塩派遣軍附となった。 海軍随一のロシア通であったが、帝政ロシアの没落とともに1923年(大正12年)に予備役に編入された。