長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26… 長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26日 - 1971年(昭和46年)6月8日)は、日本の経済学者。中央大学名誉教授、松商学園短期大学第4代学長。 1900年、愛媛県松山市生まれ。第四高等学校から、東京帝国大学経済学部に進み、1926年に卒業した。大学院在籍ののち満鉄調査部へ勤務。ベルリン大学留学。 戦後は1948年に中央大学教授となり、経済学部長、経済学研究所長(1964年 - 1966年)などを歴任した。その間、1959年に「福祉国家イギリスの研究:その理念、形成、政策」を一橋大学に提出し、経済学博士の学位を取得。 中央大学を退職して名誉教授となり、1970年4月1日から松商学園短期大学の第4代学長に就任して、4年制大学への昇格を目指すに取り組みに着手したが、在職中の1971年6月8日に急逝した。
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藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 19… 藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 1983年4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)。衆議院議員時代は、山崎 道子(やまざき みちこ)で活動した。 1900年5月26日、岡山県児島郡(旧宇野町、現玉野市)出身。幼少期に生家が没落したため小学校を5年で中退して印刷女工などをしながら後に上京、1915年看護婦試験に合格。賀川豊彦の影響を受けてクリスチャンとなる。派出看護婦、巡回産婆も経験し1925年日本労農党の山崎釼二と結婚、夫婦で貧困と戦いながら農民運動に勤しんだ。1946年の総選挙で静岡県(大選挙区の全県1区)から日本社会党より「山崎道子」として立候補して初当選。
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杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月2… 杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。
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佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月… 佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月25日 - 1985年〈昭和60年〉12月24日)は、日本の政治家。元衆議院議員、第5代日本社会党委員長。 宮城県本吉郡(現在の登米市津山町柳津石貝)に農民の子として生まれる。両親が家出をしているときに出来た子どもだったため、11歳になるまで戸籍に登載されず、小学校教育も十分に受けることは出来なかった。若いころは炭焼きなど、故郷で重労働に従事した。1924年(大正13年)、一念発起して、仙台市に出て、製糸工場の臨時人夫をして金をため、東京に出る。その後、苦学しながら日本大学専門部政治科を卒業した。 1928年(昭和3年)、勤務先の自転車会社でストライキを指導して解雇される。
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西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 -… 西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 - 1983年4月23日)は日本の実業家。シーリージャパンの創業者。諱は光源(こうげん)。 1900年(明治33年)北海道樺戸郡新十津川町にて、西村源蔵の2男4女の次男として生まれる。九歳の時、両親を失い、函館市在住の叔父、河村織右エ門(八代目)に預けられる。少年時代は河村家の四人の子供と一緒に養育された。長じて、九代目河村織右エ門(現在は十代目河村織右ヱ門がコドモわた株式会社を経営)を支えて、(資)河村ふとん(後のコドモわた(株))の総支配人を務め、道内最大手の寝具メーカーの地位を築いた。 早稲田大学専門部政経科卒。1936年(昭和11年)(資)河村ふとんから独立、ミシン業に転進、函館市五稜郭町にて日本ミシン(株)を設立。
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竹内 金治郎(たけうち きんじろう、1900年〈明治33年〉… 竹内 金治郎(たけうち きんじろう、1900年〈明治33年〉5月24日 - 1984年〈昭和59年〉11月5日)は、国文学者。 千葉県君津市生まれ。小学校の代用教員ののち、1930年日本大学法文学部国文科卒、日大教授、1960年「万葉集の修辞的研究」で日大文学博士。70年定年、名誉教授、帝京大学文学部教授、文学部長。77年退任。
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西角井 正慶(にしつのい まさよし、1900年(明治33年)… 西角井 正慶(にしつのい まさよし、1900年(明治33年)5月22日 - 1971年(昭和46年)1月22日)は、埼玉県生まれの国文学者、民俗学者。歌人としても著名で、見沼 冬男(みぬま ふゆお)のペンネームを持つ。折口信夫に師事し、折口信夫の五博士のうちの一人である。國學院大學教授。文学博士。 1900年、埼玉県北足立郡大宮町大字高鼻(現・さいたま市大宮区高鼻町)に生まれる。1918年、私立埼玉中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)卒業。1922年、國學院大學国文科を卒業。 卒業後、埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)教諭となる。1926年、國學院大學神職養成部講師。1928年、國學院大學講師となり、1935年同大学教授。
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益田 豊彦(ますだ とよひこ、1900年5月22日 - 19… 益田 豊彦(ますだ とよひこ、1900年5月22日 - 1974年7月11日)は、日本のジャーナリスト。
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赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月2… 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月21日 - 1982年(昭和57年)8月16日)は、大正末から昭和期の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 東條英機大将の、陸相秘書官・首相秘書官として知られる。小松崎力雄陸軍少将は兄。 陸軍大佐・小松崎清職の三男として秋田県に生まれ、後に赤松久吾の養子となる。京華中学校で学び、仙台陸軍地方幼年学校(33期)を卒業。1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を卒業。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊附となる。 1925年(大正14年)10月、歩兵中尉に昇進。1931年(昭和6年)12月、陸軍大学校(46期)に入学。1932年(昭和7年)4月、歩兵大尉に進み、1934年(昭和9年)11月、陸大を優等で卒業し歩兵第1連隊中隊長となる。
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横山 清松(よこやま きよまつ、1900年 <明治33年> … 横山 清松(よこやま きよまつ、1900年 <明治33年> 5月20日 - 1980年 <昭和55年> 2月21日)は、日本の経営者。グンゼ社長、会長を務めた。宮崎県出身。位階は従四位。 1923年に長崎高等商業学校本科を卒業し、1925年に郡是製絲 (のちのグンゼ) に入社。1952年1月に取締役、1955年2月に常務、1960年1月に専務を経て、1965年10月には社長に就任。1970年1月には会長に就任。 1970年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年2月21日閉塞性黄旦のために死去。79歳没。死没日付をもって正八位から従四位に進階した。
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鈴木 直人(すずき なおと、1900年(明治33年)5月19… 鈴木 直人(すずき なおと、1900年(明治33年)5月19日 - 1957年(昭和32年)9月20日)は、日本の内務官僚、政治家。熊本県知事(官選第35代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。 福島県相馬郡磯部村(現相馬市蒲庭)で鈴木佳衛の二男として生まれた。 旧制相馬中学、水戸高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進み、1926年(大正15年)に同政治学科を卒業し、同年12月、高等試験行政科試験に合格した。東京市役所に入り、その後、内務省に転じ、警視庁警部、沖縄県特高課長、さらに山梨県、広島県の特高課長を歴任した。 その後、埼玉県、東京府の経済課長を経て、1939年(昭和14年)に石川県経済部長に昇進した。
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原 全教(はら ぜんきょう、1900年5月18日 - 198… 原 全教(はら ぜんきょう、1900年5月18日 - 1981年11月)は、日本の登山家。 石川県金沢市川除町生まれ。旧名・坂部武二。8人兄弟姉妹(上から男2人、女6人)の次男。 1917年神田電機学校(現東京電機大学)卒、1917年から雲水修行に入り北陸路を歩く。その後東京市役所都市計画課に勤務し1943年退職。兵役は1937年から2年間、満蒙へ出征。目黒でガリ版印刷『謄友社』を開業(現在は大田区の株式会社謄友社)。その後「新宿バーテンダースクール」の講師を経て、目黒区自由が丘にトリスバー「アイガー」を開店。その後亡くなるまで渋谷区恵比寿駅近くに焼き鳥バー「すず」を経営。没後は嫡男原信彦が後を継ぎ、再開発で立ち退きするまで営業していた。
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栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 -… 栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は室井 昇二。最高位は十両10枚目。 栃木県那須郡黒磯町(のち黒磯市、現那須塩原市)出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年「那須昇」の四股名で序ノ口に就く。1929年5月十両に昇進。この場所4勝7敗と負け越し、同地位の翌9月場所でも2勝9敗と負け越し、この場所で廃業した。
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舩木 道忠(ふなき みちただ、1900年(明治33年)5月1… 舩木 道忠(ふなき みちただ、1900年(明治33年)5月18日 - 1963年(昭和38年)1月22日)は、日本の島根県の陶芸家である。 布志名焼舩木窯4代目。島根県無形文化財志布名焼技術保持者。 1900年(明治33年)5月18日、島根県八束郡湯町村志布名(現・松江市玉湯町布志名)の、江戸時代中期に出雲国松江藩藩主・松平不味に命ぜられ「出雲焼」の窯元を開いた「灘舩木」の屋号を持つ布志名焼の舩木平兵衛窯を営む家に、3代目の次男として生まれた。 画家を志して東京美術学校で洋画を学んだが、卒業後は帰郷して作陶活動を開始し家業を継いで布志名舩木窯4代目となった。 舩木窯は、明治、大正時代を通じて美術工芸品を制作し、フランスのリモージュ磁器やアメリカの陶器メーカー「ルックウッド」など、海外の窯元と技術的に競い合っていた。
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下村 彦一(しもむら ひこいち、1900年 <明治33年> … 下村 彦一(しもむら ひこいち、1900年 <明治33年> 5月17日 - 1995年 <平成7年> 4月18日)は、日本の地理学者。広島大学名誉教授。理学博士(東京大学)。勲三等旭日中綬章(1971年)。位階は従三位。 地形・地形区・気候・地図・地理教育などを幅広く研究した。 1900年、兵庫県に長男として生まれる。父の下村三四吉は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の東洋史の教授であった。第二高等学校(現・東北大学)を経て東京帝国大学理学部地理学科に入学。山崎直方・辻村太郎らの指導を受け、1925年に大学を卒業する。卒業と同時に、日本人にはほとんど知られていなかったジュンガル地方の地誌を『地理学評論』創刊号に発表した。
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横田 忠夫(よこた ただお、1900年(明治33年)5月15… 横田 忠夫(よこた ただお、1900年(明治33年)5月15日 - 1940年(昭和15年)10月3日)は、日本の社会運動家。 山形市出身。少年期に母の実家の盛岡市に移る。岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入るが、ストライキを指導したとして退学処分となる。のち、石川金次郎の「牧民会」に入るが、退会する。その後「下層民社」を設立する。1927年(昭和2年)、労働農民党の岩手県支部の結成に参画する。弾圧により同党が解散させられると、岩手無産党を組織し、書記長となり、県内各地の争議を指導した。1933年(昭和8年)、盛岡市議に当選する。1940年(昭和15年)、検挙され、盛岡市内の警察で剃刀で首を切って自殺した。
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西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月1… 西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の日本の俳人。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。歯科医として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。戦後は「天狼」「雷光」などに参加し「断崖」を主宰。 岡山県苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)、父・敬止、母・登勢の四男として生まれる。家は代々漢学者の家系。1906年、父死去、以後長兄の扶養を受ける。高等小学校時代は条虫にかかり虚弱であった。1918年には当時大流行したスペイン風邪で母が死去し、東京の長兄のもとへ移住。
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三田 華子(みた はなこ、本名:三ツ田 ハナ子、1900年(… 三田 華子(みた はなこ、本名:三ツ田 ハナ子、1900年(明治33年)5月15日 - 1983年(昭和58年)10月13日)は、徳島県徳島市出身の小説家。 徳島の民話や伝説に取材した郷土色豊かな作品を残しており、その功績が認められ1977年に第3回徳島県文化賞を受賞。 1900年5月15日、徳島県徳島市古物町(現・南新町)に生まれる。1916年11月、三ツ田富蔵と結婚する。1932年、新聞社募集の民謡に『阿波小唄』が一等に入選する。 1935年、一家で上京する。1939年、日本大学文学部芸術科に入学する。在学中、1年生の時に『二つの公休日』が文芸推薦候補となり、2年生の時に『石切場』が芥川賞候補となり、3年生の時に『祖父』が文芸推薦賞となる。
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納言 恭平(なごん きょうへい、1900年(明治33年)5月… 納言 恭平(なごん きょうへい、1900年(明治33年)5月12日 - 1949年(昭和24年)7月6日)は、日本の小説家である。本名は奥村 五十嵐。 熊本県玉名郡天水町(現在の玉名市)に生まれる。熊本県立熊本工業高等学校卒業後、1918年(大正7年)に一時期八幡製鉄所に勤務した。同年上京し新潮社に入社後、同社発行の雑誌だった『文学時代』及び『日の出』の編集に携わる。 1939年(昭和14年)には海音寺潮五郎らと親交を持ち、『文学建設』の編纂に携わった事により主に時代小説の執筆を始めた。晩年は捕物作家クラブ(後の日本作家クラブ)の創設にも加わった。
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高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11… 高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本戦前期の写真家。弁護士でもあった。 1900年 (明治33年) 5月11日、福岡県生まれ。1924年に慶応義塾大学経済学部理財科を卒業したが、その後九州帝国大学に入学、同大学法文学部法律科を1932年 (昭和7年) に卒業した。 1935年 (昭和10年) 頃に「福岡写友会」に入り、本格的に写真撮影を始めた。いくつかの写真クラブを経て[要出典]、1939年 (昭和14年) に「ソシエテ・イルフ」を結成、中心メンバーとして活躍した。「イルフ(IRF)」は「フルイ(古い)」の逆並びで、「新しい」を意図していた。
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楠木 直道(くすのき なおみち、1900年5月10日 - 1… 楠木 直道(くすのき なおみち、1900年5月10日 - 1983年8月17日)は、日本の経営者。大分県出身。 1924年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東京石川島造船所に入社し、自動車部に配属。1937年に東京自動車工業(現在のいすゞ自動車)に転じ、取締役、常務、専務を経て、1962年11月に社長に就任。1965年6月には会長に就任。乗用車のデザインに慧眼を持ち、専務の時代に国産車ベレルの開発あたって、「これからの自動車デザインは感覚のフレッシュな若い人にやらせるべきだ」と強く主張し、いすゞの存亡をかける新車デザインを芸大在学中の学生に託している。社長時代にベレット、会長時代に117クーペなどデザインに優れた乗用車の開発を主導した。
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吉田 賢抗(よしだ けんこう、1900年〈明治33年〉5月1… 吉田 賢抗(よしだ けんこう、1900年〈明治33年〉5月10日 - 1995年〈平成7年〉4月28日)は、日本の漢文学者。学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)(学位論文「北宋における心性論の研究 契嵩と王安石を中心として」)。東北大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。第八高等学校卒、東京帝国大学文学部支那哲学科卒。 松本高等学校教授、第二高等学校教授、戦後東北大学教養部教授、1961年「北宋における心性論の研究 契嵩と王安石を中心として」で東洋大学文学博士。 1964年東北大を定年退官、名誉教授、東北工業大学教授、名誉教授、桜美林大学教授。
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高塩 三郎(たかしお さぶろう、1900年〈明治33年〉5月… 高塩 三郎(たかしお さぶろう、1900年〈明治33年〉5月10日 - 1977年〈昭和52年〉1月14日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県塩谷郡喜連川町長、剣道六段教士。 栃木県塩谷郡喜連川町(現さくら市)で、高塩武の三男として生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学政治経済学部を卒業した。在学中は弁論部に所属し、のち「高塩しゃべ郎」と称された。 1929年(昭和4年)喜連川町会議員に当選。3期12年町会議員を務めた。1947年(昭和22年)栃木県議会議員に就任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
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木下 半治(きのした はんじ、1900年5月9日 - 198… 木下 半治(きのした はんじ、1900年5月9日 - 1989年8月14日)は、日本の政治学者。右翼思想や日本の国家主義運動を研究。 兵庫県出身。東京帝国大学法学部卒。在学中新人会に入る。卒業後『無産者新聞』などに関わり、1942年読売新聞入社。戦後1954年「フランス国家主義運動史」で東大法学博士。愛知大学教授、東京教育大学教授、明治大学教授、理事。
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上山 輝一(かみやま てるいち、1900年〈明治33年〉5月… 上山 輝一(かみやま てるいち、1900年〈明治33年〉5月9日 - 1982年〈昭和57年〉5月26日)は、日本の政治家。東京都中野区長、東京都議会議員(2期)を務めた。計理士、税理士。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 1900年現在の和歌山県有田市に生まれる。高千穂高等商業学校(現高千穂大学)第6回卒業。1955年4月以来、東京都議会議員に連続2回当選(日本民主党→自由民主党)。1963年3月21日に中野区長に就任。1967年3月に再選。区長を1963年3月22日から1971年3月27日まで務めた。その後1972年4月から1982年5月26日まで高千穂商科大学の理事を務めた。
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平野 威馬雄(ひらの いまお、1900年(明治33年)5月5… 平野 威馬雄(ひらの いまお、1900年(明治33年)5月5日 - 1986年(昭和61年)11月11日)は、日本の詩人・フランス文学者。同人誌「青宋」主宰。日本詩人クラブ創設会員。 横浜市出身。大杉栄との交流の縁から、平野の父とも個人的に交友関係のあったジャン・アンリ・ファーブル関係の著作の翻訳をいくつか手がけたことでも知られている。松戸 淳(まつど じゅん)という変名で好色文学の翻訳も手がけた。2度の結婚で9人の子を持つ。 東京市赤坂区青山北町(現在の東京都港区北青山)の柳原愛子邸に生まれ、横浜市西区老松町に育つ。父は弁護士事務所勤務から富豪の未亡人の3番目の夫となったことで財を成し、美術好きの日本通としてサンフランシスコ日米協会The Japan Society of San Francisco(The Japan Society of Northern Californiaの前身)の初代会長を務めたヘンリイ・パイク・ブイ(Henry Pike Bowie)で、その妻の死後1893年に来日し日米を行き来していた。
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古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 198… 古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 1983年8月23日)は、日本の大蔵官僚、満洲国官僚、実業家。東京府出身。義兄に小金義照。長男は古海建一(国際善隣協会理事長、元東京銀行常務、元ユアサ商事会長)。勲二等瑞宝章(1971年)。 京都一中、三高を経て、東京帝国大学法学部政治学科に進む。学生時代を通じて野球部に在籍し、主にキャッチャーをしていた(帝大時代にはラグビーも兼部)。中学時代には第3回全国中等学校優勝野球大会に出場した。 1924年大学卒業し、大蔵省入省。入省同期に、青木実(満洲国経済部次長、戦後はシベリア抑留を経て合同証券会長、水戸常陽銀行社長)、難波経一(のち満州国専売公署副署長、軍需省燃料局長官・同整備局長官などを経て、戦後山陽パルプ社長・会長)など。
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佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年… 佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年5月4日 - 1981年11月18日)は、日本の土木・地球物理学者。理学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、大阪工業大学第4代学長。日本の地すべり・防災工学研究の第一人者の一人。勲二等旭日重光章受章。 日本地すべり学会創設者・初代会長。文部省測地学審議会委員、日本学術会議会員、地震学会委員長(現・日本地震学会会長)、京都市防災会議地震対策委員会委員長、財団法人防災研究協会理事長などを歴任した。京都大学関連では京都大学防災研究所元所長、京都大学阿武山地震観測所元所長、元桜島火山観測所施設長などを歴任している。 専門は、地球物理学・土木地質学・地学/地すべり学、地震学・火山学・防災工学。
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森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 -… 森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 - 平成6年(1994年)11月4日)は日本の実業家。元資生堂社長。幼名治。
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加賀 二郎(かが じろう、1900年〈明治33年〉5月3日 … 加賀 二郎(かが じろう、1900年〈明治33年〉5月3日 - 1962年〈昭和37年〉4月24日)は、日本の実業家。松竹常務。歌舞伎座専務。衆議院議員加賀卯之吉の息子。陸上競技選手加賀一郎の弟。女優加賀まりこの伯父。テレビプロデューサー加賀義二の父。 大阪府大阪市生まれ。加賀卯之吉の二男。1926年、明治大学商科を卒業。ダイヤモンド記者となる。日活常務、大映監査役などを経て、松竹常務、監査役などを歴任。 1949年、ニューセンチュリー副社長、歌舞伎座専務となり翌年にニューセンチュリー取締役に就く。 趣味は野球、読書、運動、音楽。宗教は真宗。住所は東京都世田谷区若林町、港区赤坂新坂町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
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白石 稔(しらいし みのる、1900年 <明治33年> 5月… 白石 稔(しらいし みのる、1900年 <明治33年> 5月2日 - 1985年 <昭和60年> 11月12日)は、日本の経営者。三菱製紙社長を務めた。位階は従四位。 宮城県仙台市出身。1923年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に三菱製紙に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務を経て、1957年12月から1963年5月までに社長を務めた。奥野煕社長の体調不良により、再び1965年5月から1970年5月までに社長を務め、1970年5月から1973年5月までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年11月12日心不全のために死去。
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赤間 文三(あかま ぶんぞう、1899年5月31日 - 19… 赤間 文三(あかま ぶんぞう、1899年5月31日 - 1973年5月2日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 大阪府知事(公選初代)、法務大臣(24代)。大阪府知事時代は東京都知事安井誠一郎とともに、1950年代における都道府県知事のボス的存在として君臨し、赤間天皇の異名で呼ばれた。 赤間岩吉の三男として、福岡県宗像郡津屋崎町(現在の福津市)に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制山口高等学校を経て、1925年3月東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する。 1926年2月内務省に入省。岡山県属。同年11月高等試験行政科試験に合格。1935年10月大阪府都市計画課長、1939年4月徳島県経済部長まで務めた後、商工省に転じ、1941年11月大臣官房会計課長。
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及川 貞(おいかわ てい、1899年(明治32年)5月30日… 及川 貞(おいかわ てい、1899年(明治32年)5月30日 - 1993年(昭和61年)11月13日)は日本の女流俳人。旧姓は野並(のなみ)。 東京市麹町区(現千代田区)生まれで、幼い頃は麻布にて育つ。 1916年(大正5年)に東京府立第三高等女学校(現在の都立駒場高等学校)を卒業後、海軍将校、及川鉄五郎の元へ嫁ぐ。そして夫に随って、佐世保、呉、舞鶴などの軍港都市に転居を繰り返した。1932年(昭和7年)に息子の中学入学のために四谷に仮寓する。その翌年、神田で開かれた俳句会にて水原秋桜子の指導を受け、俳人として進むきっかけとなった。 後に『馬酔木』婦人句会を起こしたことで知られ、多くの優れた女流俳人を輩出した。
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青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 19… 青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 1971年12月15日、男性)は、日本の仏文学者、詩人、美術評論家、翻訳家。骨董品収集・随筆でも著名であった。 山梨県西八代郡高田村印沢(現・市川三郷町)にて、四男五女の末子として生まれる。生家はかつて質屋を営んだことがある富裕な地主の旧家だった。幼い頃から書画骨董の詰まった質倉で遊び、骨董に対する鑑賞眼を培った。 1917年に山梨県立甲府中学校(旧制)を卒業後、詩作やフランス語独習に熱中。永井荷風と堀口大學に憧れ、1919年に慶應義塾大学仏文予科に入学。このとき蔵原伸二郎と知り合い、無二の親友となる。1920年、出席時間不足のために留年し、新入生と奥野信太郎と終生の親交を結ぶ。
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中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月2… 中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月26日 - 1979年(昭和54年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。東京で陸軍大尉・中山左源二の長男として生まれる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し歩兵第7連隊中隊長に就任した。 1931年(昭和6年)5月、東京警備参謀に就任し、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
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塩田 良平(しおだ りょうへい、1899年〈明治32年〉5月… 塩田 良平(しおだ りょうへい、1899年〈明治32年〉5月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の国文学者。随筆家。元二松学舎大学学長。近代文学が専門で、代表的な著書に「近代日本文学論」「山田美妙研究」「樋口一葉研究」「明治女流作家論」「明治文学論考」「日本文学論考」、随筆集「妻の記」「おゆき」「夜開花」などがある。また、多くの文庫本に解説を書いている。
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金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月… 金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月24日 - 1974年4月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、大韓民国の警察公務員、政治家。制憲韓国国会議員。 全羅南道莞島郡出身。普成中学校中退(4学年在学中に三・一運動への関与により退学)。日本大学専門部政治学科卒。朝鮮独立運動により投獄されたほか、農業に従事し、莞島郡で蘆花学校、金日学校、瑞星学校を設立し、教育者としても活動した。他は莞島漁業組合理事、東亜日報・朝鮮日報支局長、朝鮮建国準備委員会莞島郡委員長、全羅南道警察庁総務課長、羅州警察署長、第8管区警察庁公報官、制憲国会外務・国防委員、反民特委特別裁判官を務めた。
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萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年… 萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年〉5月23日 - 1938年〈昭和13年〉11月22日)は、大正・昭和時代の詩人。大正末期の芸術革命の先頭に立ち、はじめはダダイストとして活動したが、のちアナキズム運動に傾倒。若くしてこの世を去った。詩集『死刑宣告』、詩篇「もうろくずきん」「亜細亜に巨人あり」などの作品で知られる。本姓は金井(養子になったことによる)。 1899年(明治32年)、群馬県勢多郡南橘村日輪寺(現・前橋市日輪寺町)の農家、萩原森三郎・だいの次男として生まれる。幼少期にナイフが右眼に刺さったことが原因で強度の近視となる。1909年(明治42年)に父の叔母・金井ソウ(元総社村石倉)と養子縁組し、金井恭次郎となる。
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春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000… 春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000年10月25日)は、昭和時代の研究者、経営者。島根県出身。京都帝国大学卒。富士フイルム株式会社社長を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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李 英燮(イ・ヨンソプ、朝鮮語: 이영섭、1899年5月22… 李 英燮(イ・ヨンソプ、朝鮮語: 이영섭、1899年5月22日 - 1982年8月17日)は、大韓民国の政治家。始興郡新東面長、第3代韓国国会議員を歴任した。 京畿道始興郡出身。中央高等普通学校、安養中等普通学校、中央大学卒。新幹会始興郡責任者、始興郡新東面長、京畿道教育会評議員、大韓農民会中央委員、大韓復興建設団始興郡支部理事長、大韓蚕糸会中央理事・副会長、自由党始興郡党委員長、京畿道肥料株式会社取締役副社長、安養中高等学校設立者・理事長を務めた。 1982年8月17日、老衰によりソウル市江南区の自宅で死去。88歳没。
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上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899… 上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899年5月21日 - 1975年10月28日)は、日本の歴史学者。専門は中世ヨーロッパ史。東京商科大学学長(就任時は東京産業大学:現一橋大学)であり、戦後の一橋大学新制大学化にあたり指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学構想は別名を「上原構想」とも呼ばれている。学長退任後は構想の核となった初代一橋大学社会学部長を務めた。 1899年、京都市西陣にあった日蓮宗檀家の商家に生まれた。小学校3年から松山市大街道商店街の薬種商であった叔父の家に住む。旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1915年、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学した。
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賀谷 與吉 / 与吉(かや よきち、1899年(明治32年)… 賀谷 與吉 / 与吉(かや よきち、1899年(明治32年)5月20日 - 1945年(昭和20年)6月25日)は、日本の陸軍軍人。生前の最終階級は中佐(戦死後、特進により少将)。沖縄戦において第62師団歩兵第63旅団独立歩兵第12大隊(通称:賀谷支隊)を率いた事跡で知られる。 山口県佐波郡牟礼村(現・防府市)生まれ。広島幼年学校を卒業。陸軍士官学校第33期生。1942年6月26日第3軍第1国境守備隊第4地区隊長。1944年1月13日第62師団独立歩兵第12大隊長。同年8月、沖縄県中頭郡北中城村の島袋地区で陣地構築に携わる。 1945年(昭和20年)4月1日、アイスバーグ作戦により嘉手納海岸に上陸した第7師団、第96師団を相手に独立歩兵第12大隊(総員1,233名)で4日間の遅滞戦闘を行い、日本軍が待ち構える嘉数陣地まで米軍を誘導することに成功した。
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石原 一郎(いしはら いちろう、1899年〈明治32年〉5月… 石原 一郎(いしはら いちろう、1899年〈明治32年〉5月18日 - 1972年〈昭和47年〉8月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(2期)、愛知県議会議員(3期)、愛知県議会議長などを歴任した。位階は従五位。 愛知県碧海郡古井村(現・安城市古井町)出身。1918年(大正7年)3月、愛知県安城農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業。1919年(大正8年)3月に愛知県農事試験場(現・愛知県農業総合試験場)練習生を修了後、安城町実業補習学校の助教諭となる。 1938年(昭和13年)4月に碧海郡役所書記となり、1940年(昭和15年)7月に愛知県庁官房室に転じ、1941年(昭和16年)4月、碧海地方事務所に勤務。
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稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1… 稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1963年7月20日)は、熊本県熊本市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は古閑 勉。173cm、94kg。最高位は東前頭14枚目。 1919年1月初土俵、出世は速く、序ノ口から7場所目の1923年5月に十両昇進。土俵上の駆け引きに熟練するところがあり、柔軟な取り口はうまく、四つに組んでの投げにも無理がなく、寄り身も速かった。1926年5月に入幕するも、幕内では全く通用せず、対戦相手の為すがままに取られて11戦全敗を喫し十両に陥落。幕内在位はこの1場所に終わり、十両陥落後も勝ち越せず、1928年3月廃業。
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児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 199… 児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 1997年7月25日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。山口県出身。 1923年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、後に関西ペイントに入社。1937年に取締役に就任し、1945年9月に顧問、1947年12月に再び取締役、1955年5月に常務、1964年5月に副社長を経て、1966年5月から1969年11月までに社長を務めた。1972年11月には名誉顧問に就任。 1964年9月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年7月25日心不全のために死去。98歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
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井上 英煕(いのうえ ひでひろ、1899年5月15日 - 1… 井上 英煕(いのうえ ひでひろ、1899年5月15日 - 1979年6月3日)は、日本の実業家。経済同友会代表幹事、日本セメント会長。 香川県出身。1920年第六高等学校二部甲類卒業。1923年東京帝国大学機械学科卒業。同年浅野セメント入社。1949年日本セメントの社長に就任。1966年から会長、相談役を歴任した。セメントの第一人者として知られ、『セメント』などの専門書を著したほか、セメント協会でも要職を歴任した。一方で財界活動でも活躍。1958年、中山素平(日本興業銀行頭取)と組んで経済同友会代表幹事を務めた。同年に同友会は「経営者啓発についての所見」を発表した。1959年には岩佐凱實とコンビを組んで再び経済同友会代表幹事に就任。
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山極 三郎(やまぎわ さぶろう、1899年(明治32年)5月… 山極 三郎(やまぎわ さぶろう、1899年(明治32年)5月15日 - 1993年(平成5年)5月18日)は、日本の動物学者・病理学者。専門は獣医病理学。農学博士。元帯広畜産大学学長。位階は従三位。父親は幻のノーベル賞受賞者といわれる山極勝三郎東大医学部教授(病理解剖学)。京都大学総長を務めた山極寿一は遠縁にあたる。 東京出身。1923年(大正12年)北海道帝国大学農学部卒。北大農学部畜産学科比較病理学教室では東大で父親山極勝三郎の研究を手伝い、父勝三郎と一緒に帝国学士院賞を受賞した市川厚一に学ぶ。1927年北海道大学 農学博士 「有尾類ノ尿生殖器系統」。 満鉄獣疫研究所研究科長を経て、1938年(昭和13年)同参事。
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大野 勇(おおの いさむ、1899年5月14日 - 1984… 大野 勇(おおの いさむ、1899年5月14日 - 1984年5月30日)は、日本の経営者。森永乳業社長を務めた。 東京都出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に森永乳業に入社した。1972年1月に森永乳業専務に就任し、1960年5月には社長に昇格した。1974年5月に会長に就任し、1979年6月から取締役相談役を務めた。 1964年11月に藍綬褒章を受章。 1984年5月30日、心不全のために死去。85歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
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上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月… 上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月11日 - 1968年〈昭和43年〉9月4日)は、日本の書道家である。 前衛書道の分野でよく知られる。本名は上田順(旧姓:藤田)。 兵庫県三木市(旧美嚢郡吉川町)奥谷出身。二松學舍専門学校卒。 1899年5月11日に兵庫県美嚢郡吉川町(現三木市)に父・藤田石太郎、母・こうの三男として生まれ、吉川高等小学校・私立三田中学校(現三田学園中学校・高等学校)を1917年(大正6年)3月に卒業し、1919年(大正8年)に宝塚市にある上田亀蔵の養女・上田りんと結婚し、上田姓となった。 1926年に義父が友人の保証をしていたが、その破産が上田家に影響し、全財産を失い、翌1927年(昭和2年)に決断書専門に生きる志を抱いて、小寺氏に相談したところ、賛成されたので、家事を整理し、同年11月に上京した。
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滝野 啓次郎(たきの けいじろう、1899年(明治32年)5… 滝野 啓次郎(たきの けいじろう、1899年(明治32年)5月10日 - 1973年(昭和48年)1月13日)は、日本の政治家・実業家。北海道旭川市出身。北海道北見市長(1963年 - 1967年、1期)。 北海道庁立上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業。1916年(大正5年)野付牛町(現・北見市)に移住、家業である菓子問屋を継いで1940年(昭和15年)北海道菓子卸売協同組合常務、1948年(昭和23年)同組合理事長。1950年(昭和25年)北宝食品代表取締役社長。1953年(昭和28年)北見信用金庫理事長。1955年(昭和30年)北見商工会議所会頭に就任。伊谷半次郎の後継候補として、1963年(昭和38年)北見市長選挙に出馬し対立候補の宇佐美福生を僅差で破って初当選するも1967年(昭和42年)に前回と同じ対立候補の宇佐美福生に敗れ落選した。
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