佐野 まもる(さの まもる、1899年(明治32年)5月10… 佐野 まもる(さの まもる、1899年(明治32年)5月10日 - 1984年(昭和59年)7月14日)は、日本の俳人。 徳島県徳島市出身。旧制徳島中学(現徳島県立城南高等学校)卒業。 徳島県徳島市に生まれ、旧制徳島中学を卒業後は専売局へ奉職し、1955年(昭和30年)に高知支局長として勤めたのを最後に退職。 仕事の傍ら俳句をしており、1922年(大正11年)から始めた。1933年(昭和8年)に「馬酔木」同人。1956年(昭和31年)に「海郷」創刊、主宰。 現在は板野郡上板町大山寺(四国別格二十霊場1番札所)に句碑が建てられている。
金 天海(キム・チョンへ、きん てんかい、김 천해、1899… 金 天海(キム・チョンへ、きん てんかい、김 천해、1899年5月10日 - 没年不明)は、在日朝鮮人の左翼活動家。在日本朝鮮人連盟最高顧問。日本共産党中央委員。「天海」は僧名で、本名は金 鶴儀(キム・ハクウィ、きん かくぎ、김 학의)。大韓帝国(現在の大韓民国)慶尚南道蔚山郡出身。日本大学中退。 1899年5月10日、大韓帝国慶尚南道蔚山郡で流通・貿易関係を営んでいた家に生まれた。現在は蔚山特別市内の方魚津(방어진)(行政区画としては方魚里)である。一人っ子だった金天海は梁山の通度寺に預けられ、仏道の修行を行なった。 日本統治下の1916年、京城の仏教学校・京城中央学林に入学。京城中央学林卒業後、慶尚南道蔚山郡に帰り、夜間学校の教師をした。
吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1… 吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1988年7月28日)は、日本の実業家、政治家、牧師。第二次世界大戦の戦時下で衆議院議員を1期務めたが、政府批判をして投獄された。獄中で聖書に出会い、戦後キリスト教に入信、公職追放に指定されて牧師となった。追放解除後には若松市長となり、5市合併によって北九州市が成立した際には市長職務執行者を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 俠客出身の実業家で、衆議院議員も務めた吉田磯吉の養子として育ち、小倉中学校(後の福岡県立小倉高等学校の前身)、長崎高等商業学校に学んだ。 東京商科大学を卒業後、三菱鉱業勤務を経て、大倉高等商業学校(後の東京経済大学)講師となった。
中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 196… 中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 1961年1月29日)は、日本の俳優である。本名中村 縣三(なかむら けんぞう)、別芸名中村 憲三(なかむら けんぞう)。 1899年(明治32年)5月7日、秋田県雄勝郡弁天村(現在の同県湯沢市弁天地区)に、旧家の主である父・中村一徳の三男として生まれる。 旧制・秋田縣立横手中學校(現在の秋田県立横手高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)に東京に移り、出版社の雑誌記者や旧制小学校の教師などの職を経て、早稲田大学文科に入学、坪内逍遙の新文藝協会に入って新劇運動に参加する。1920年(大正9年)に明治座での『法難』で岡田嘉子、加藤精一らと共演、初舞台を踏んだ。
李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年… 李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年5月7日 - 1989年7月28日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は広州李氏(朝鮮語版)。号はウギョン(우경)。4人息子のうち2人は記者で1人は画家。妻の実家は潭陽郡昌平面で、元国務総理の李漢基(朝鮮語版)の父とは同郷であり、李晶来は彼の母方のおばの夫に当たる。 全南宝城兼白面またはソウル市鐘路区出身。私立中央学校3学年修了。正則英語学校を経て、早稲田大学専門部政治経済学科修了。1943年、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。1932年からソウル市鐘路で東光堂書店・出版社を経営し、代表取締役を務めた。
廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 198… 廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 1984年1月15日)は昭和期の実業家。住友金属工業元社長・会長。 京都府出身。1923年に京都帝国大学工学部卒業後、住友製鋼所へ入社。1949年に新扶桑金属工業社長となり、1952年に住友金属社長、1962年に会長を務め、1973年より相談役を務めた。また、1956年に財団法人関西生産性本部の創立に力を尽くし、20年間にわたり会長を務めるなど、関西の財界で活躍した。1958年日本金属学会会長。その他には毎日放送取締役なども務めた。1984年1月15日、84歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6… 長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、日本の内務・警察官僚、教育者。最後の官選香川県知事、和洋女子大学学長。位階は従四位。 山口県出身。長瀬栄三郎の長男として生まれる。山口高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、警視庁警部補となる。 以後、青山警察署長、浅草警察署長、蔵前警察署長、沖縄県経済部長、福島県経済部長、茨城県経済部長などを歴任。 その後、香川県内務部長に就任し、1947年3月、前任の増原惠吉が知事選に出馬のため辞任したことに伴い同県知事に昇格した。
高峰 妙子(たかみね たえこ、本名:中村薫、旧姓:浅井、18… 高峰 妙子(たかみね たえこ、本名:中村薫、旧姓:浅井、1899年(明治32年)5月6日 - 1980年(昭和55年)11月15日)は、元宝塚少女歌劇団男役主演スター(初公演の主役。男役スター第一号。花組&雪組主演男役でもあった。)。宝塚歌劇団1期生。愛称はアッサン。同期生に大江文子、雲井浪子、小倉みゆき、由良道子や筑波峯子らがいる。福井県坂井郡本荘村(現:あわら市)出身。元・宝塚歌劇団・宝塚音楽学校声楽講師である。 この芸名は小倉百人一首の第4番:山部赤人の 1913年7月、宝塚唱歌隊(この年の12月に宝塚少女歌劇養成会に改称)に14歳で入隊。 1914年4月 - 5月、宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇)の初公演である『ドンブラコ』で主演の桃太郎を演じた。
勝本 清一郎(かつもと せいいちろう、1899年5月5日 -… 勝本 清一郎(かつもと せいいちろう、1899年5月5日 - 1967年3月23日)は日本の文芸評論家である。日本ペンクラブ創立に参加。 東京生まれ。1923年慶應義塾大学文学部を卒業し、プロレタリア文学や演劇の運動に関わった。1917年高浜虚子に弟子入りし、翌年から数年間勝本の写生文が「十編近く「ホトトギス」に掲載されている」。「これと並行して、十五歳の頃から」三味線を習った。1921年に永井荷風の元妻で新作舞踊家として活躍していた藤間静枝(藤蔭静樹)について『三田文学』に「藤間静枝女史の芸術-舞踏詩『秋の調べ』に就いて」として発表。これが縁で当時40代だった静枝の年下の恋人となり、静枝の舞踊台本も執筆。
平野 成子(ひらの しげこ、1899年(明治32年)5月5日… 平野 成子(ひらの しげこ、1899年(明治32年)5月5日 - 1988年(昭和63年)12月15日)は、日本の社会運動家、政治家。参議院議員(1期)。本名・シゲ。 栃木県生まれた。私立女子美術学校(現・女子美術大学)を修了。その後、農村社会運動に従事した。 戦後、日本社会党に入党し、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙に山梨県選挙区から日本社会党公認で出馬して当選し(任期3年)、参議院議員を一期務めた。改選を迎えた1950年の参院選には出馬せず、1953年の参院選に右派社会党公認で全国区から立候補したが当選には遠く及ばなかった。 夫平野力三とは農民運動を通じて知り合い、おしどり議員として知られた。
木村 五郎(きむら ごろう、1899年5月5日 - 1935… 木村 五郎(きむら ごろう、1899年5月5日 - 1935年8月1日)は、日本の彫刻家。もっぱら木彫の小品に取り組んだ。短い生涯を通して、150点余りの作品を残し、動物や子供の姿などを捉えた作風から「童心の彫刻家」とも呼ばれる。 木村は、日本各地の風俗を捉えた木彫作品を数多く制作する傍ら、農民美術運動に加わり、各地の人々に木彫の技法を伝授した。木村の作品は、土産物同然としてまともに評価しない向きもあったが、高村光太郎や石井鶴三などには認められていた。 東京府東京市神田区で、洋服商を営む鈴木家に生まれたが、建具職人の木村家の養子となる。1915年に徒弟学校を卒業し山本端雲に師事、さらに石井鶴三の指導を受けた。
田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日… 田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。 栃木県那須郡西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。 大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。 また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5… 笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日本の篤志家、右翼運動家、元A級戦犯被疑者、座右の銘は「世界一家 人類兄弟」。 戦前は国粋大衆党総裁、衆議院議員。戦後は、財団法人日本船舶振興会(1962年設立。現在の公益財団法人日本財団)会長、全日本空手道連盟(1964年設立)の会長、国際勝共連合名誉会長(1968年就任)、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。戦後は日本国内のボートレース(競艇)の創設に尽力し、「競艇界のドン」の異名を取った。 妾との次男が笹川堯、三男が笹川陽平である。
徳川 達成(とくがわ さとなり、1899年(明治32年)5月… 徳川 達成(とくがわ さとなり、1899年(明治32年)5月3日 - 1961年(昭和36年)3月28日)は、田安徳川家の第10代当主。父は徳川達孝。母は徳川知子。妻は戸田氏秀の次女・元子。 子に宗英(第11代当主)、雅子(德川義恭夫人、後に渡邊正廣夫人)、宗賢(言語学者)、宗廣(元通産省官僚、元国土庁官房審議官)、文子(溝口道郎夫人)、松平宗紀(越前松平家当主)がいる。伯父の家達は徳川慶喜の養子になって徳川宗家を継いだ。 東京で生まれ、1920年(大正9年)3月、旧制学習院高等科を卒業。 1923年(大正12年)に東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍に入り、造兵中尉となる。1927年(昭和2年)、欧米各国に留学。
髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年… 髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年)5月2日 - 昭和43年(1968年)2月25日)は、山梨県出身の実業家、政治家。山梨県会議員、衆議院議員を歴任した。幼名は髙野 毅(たかの つよし)。 山梨県甲府市柳町(現在の甲府市中央4丁目)に、父「孫左衛門(第15代目)」、母「とも」の三男として生まれる。山梨師範学校付属小学校を経て大正5年(1916年)3月に市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)を卒業。 早逝した兄「孫親」の妻、義姉の「喜代」と大正11年(1922年)5月に結婚し、油と塩を商いする甲府有数の老舗である家業の吉字屋を継ぐ。大正12年(1923年)4月に単身上京して早稲田大学政治経済学科に入学したが、同年9月1日に発生した関東大震災のため帰郷し、大正14年(1925年)1月に第16代目高野孫左衛門を襲名した。
山下 英男(やました ひでお、1899年5月2日 - 199… 山下 英男(やました ひでお、1899年5月2日 - 1993年5月27日)は、電気通信工学者。東京生まれ。
藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - … 藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - 2002年7月15日)は、日本の建築史家。息子の藤島幸彦も建築史学者で、早稲田大学や大東文化大学講師。 1899年、岩手県盛岡市で生まれた。生後すぐに一家は東京に転居したことから東京で育った。根津小学校、錦城中学校を経て、第六高等学校に入学。1920年に卒業した。 同年、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受けた。特に関野貞の影響を受けて、建築史や考古学の遺構を通した建築学に関心を持つようになり、また卒業論文では日朝建築の交渉史をテーマとした。1923年3月、同大学を卒業。 卒業後は、1923年5月に日本統治下の朝鮮の京城工業学校助教授となり、京城に赴任。
山内 俊吉(やまうち としよし、1899年5月1日 - 20… 山内 俊吉(やまうち としよし、1899年5月1日 - 2001年10月17日) は、日本の材料科学者。東京工業大学名誉教授。東京工業大学出身者として初となる同大学長や、科学技術庁無機材質研究所所長、窯業協会会長、日本セラミックス協会名誉会長などを務めた。藍綬褒章受章。 鹿児島県国分市生まれ。1924年東京高等工業学校(現東京工業大学)附属工業教員養成所卒業。福岡県立中学校教諭を経て、1930年九州帝国大学工学部採鉱学科卒業。同年東京工業大学講師。1939年東京工業大学工学博士。1941年東京工業大学教授。 1945年から1948年まで窯業協会会長。1947年東京工業大学窯業研究所長。1948年大学設置委員会臨時委員。
林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976… 林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976年6月9日)は、日本の音楽研究者、彫刻家。 雅楽の古い楽譜の解読や、正倉院の楽器や伎楽面、東アジアの伝統音楽の研究で知られる。 林謙三は大阪市に生まれた。本名は長屋謙三。1924年に東京美術学校彫刻科を卒業した。彫刻家として活躍する一方、独学で東洋の伝統音楽を研究した。 設立間もない東洋文庫にて、日本に亡命していた郭沫若と交友関係を結び、最初の著書『隋唐燕楽調研究』は郭沫若によって中国語に翻訳されて上海で出版された。林は郭沫若の胸像を作成した。 戦後、正倉院の古楽器の研究、復元を行い、1949年に朝日賞を受賞した。1951年から奈良学芸大学の教授をつとめた。
豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、… 豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、1899年(明治32年)5月1日 - 1978年(昭和53年)1月3日 )は、シテ方金剛流能楽師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は豊嶋 弥平(てしま やへい)、前名は豊嶋 一(てしま はじめ)。 ワキ方高安流豊嶋一松の長男として広島市上幟町に生れ厳島町に育つ。豊嶋家は旧広島藩浅野家お抱えの能楽師で、兄弟6人はみな能楽師となった。1904年(明治34年)『鞍馬天狗』の子方で初舞台。1913年(大正2年)正式にシテ方に転向するため、京都金剛家の内弟子となる。金剛謹之輔、初世金剛巌、金剛右京に師事。1948年(昭和23年)父と弟の追善能で家名の弥左衛門を襲名。
大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月… 大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月29日 - 昭和37年(1962年)3月19日)は、日本の画家。大山町教育長。 美術教師を務める傍ら画業に励み、日本画、水彩画、油彩画など多くの作品を残した。代表作に、第9回帝展で入選した『枯れたる向日葵』がある。
荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981… 荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981年11月9日)は、昭和期の実業家、警察官。 1924年、関西大学専門部卒業。警察に入り、警察官として勤務し、後に特高警察を経て、太平洋戦争末期に兵庫県警察部の労務係長を辞した。身長180cm、体重95kgの巨体。日本製鉄出入りの運輸会社富島組に入社し常務となる。終戦直後、GHQから、広島県呉市沖の瀬戸内海に堆積していた旧日本陸海軍の砲弾処理作業を請け負い巨額の富を得る。爆弾を2メートル程度の浅瀬に捨て、処理料を得て、再び掘り出して火薬を抜き去り、抜け殻をスクラップとして売り払い二重にもうけた。これを元手に解散寸前の山陽製鋼(現・山陽特殊製鋼)を1000万円で買収、1948年社長に就任した。
打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 -… 打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 - 1962年6月29日)は、日本の教育者。鳥取県鳥取市出身。協同組合短期大学(1973年廃止)の創設者でもある。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
堀 真琴(ほり まこと、1898年(明治31年)5月24日 … 堀 真琴(ほり まこと、1898年(明治31年)5月24日 - 1980年(昭和55年)1月16日)は日本の政治学者、政治家。宮城県出身。
清宮 四郎(きよみや しろう、1898年(明治31年)5月2… 清宮 四郎(きよみや しろう、1898年(明治31年)5月23日 - 1989年(平成元年)10月22日)は、日本の法学者。専門は憲法。学位は、法学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。宮沢俊義とともに戦後の憲法学界をリードした。日本学士院会員。美濃部達吉門下。弟子に佐間忠雄、樋口陽一など。
木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5… 木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5月23日 - 1937年(昭和12年)4月4日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。サッカー選手。 大阪市南区(現在は浪速区)出身。早稲田大学に学ぶ。大阪サッカー倶楽部部長を務め、極東選手権競技大会・明治神宮競技大会に出場した。大阪府会議員に3度、同参事会員に2度選ばれ、大阪市会議員・同参事会員にも選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 また若槻礼次郎立憲民政党総裁秘書も務めた。
一井 保造(いちい やすぞう、1898年5月22日 - 19… 一井 保造(いちい やすぞう、1898年5月22日 - 1985年3月27日)は、日本の実業家。三井船舶社長や、同社会長、日本船主協会会長などを務めた。 兵庫県神戸市で生糸商伊藤商店の三男として生まれる。のち篠山藩士一井家に養子入りする。兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1923年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。上田貞次郎ゼミ出身。大学同期に中山伊知郎がいる。 大学卒業後兼松入社。のち三井物産入社。1946年から三井船舶社長を務め、同社を日本郵船とならぶ海運業大手に成長させた。1951年東京水上防火協会初代会長。1954年造船疑獄により逮捕されるが釈放される。
緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20… 緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20日 - 1989年(平成元年)5月22日)は、日本の小児科医。山王病院名誉院長 曾祖父は緒方洪庵。緒方惟準の二男・銈次郎の長男として大阪府に生まれる。母方の祖父は三浦安。弟は緒方富雄。叔父に緒方章と緒方知三郎。五世祖父に佐藤泰然。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、1924年東京帝国大学医学部卒業。1932年「鐵症の実験的研究」で東京帝大医学博士。1937年東宮侍医となり、今上天皇の幼時まで担当医となる。山王病院院長を経て名誉院長。
片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18… 片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍少将。戦後は大平商事会長。 仙台に片倉小太郎陸軍大佐の次男として生まれる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て1917年(大正6年)12月に陸軍士官学校(第31期)に入校。1919年(大正8年)5月、同校を卒業し士官候補生、同年12月に陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第27連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月に歩兵中尉に進級し陸軍大学校(第40期)に入校、1928年(昭和3年)12月、同校を卒業した。1929年(昭和4年)3月に歩兵大尉に進級し、歩兵第27連隊中隊長に補される。
吉野 高善(よしの こうぜん、1898年(明治31年)5月1… 吉野 高善(よしの こうぜん、1898年(明治31年)5月15日 - 1965年(昭和40年)11月4日)は、八重山民政府の政治家で、八重山民政府知事を務めた。沖縄県八重山郡竹富町小浜島出身。 明治31年生まれ。沖縄県立第二中学校を経て台北医学専門学校を卒業する。 その後、昭和2年(1927年)に帰島し、石垣島で医院を開業した。 沖縄戦後は、八重山自治会の副会長に選出され、続いて八重山支庁の衛生部長に就任する。その後、米軍によって八重山民政府の知事に任命される。 1950年の八重山群島知事選挙では、安里積千代候補に敗れた。
能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 19… 能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 1978年3月10日)は、日本の演劇評論家、劇作家、翻訳家。 大阪府大阪市北区出身。早稲田大学英文科卒。 在学中の1922年(大正11年)市村座脚本部に入り、かたわら「劇と評論」を創刊。同年に戯曲「秋の心」「波紋」を発表。のち「演劇新潮」編集同人となり、劇評・劇論を担当。また第一書房の『近代劇全集』の編集にも従事した。他に「東京小景」「詩人の靴」などの作品がある。 戦後は、主に推理小説などの翻訳などをおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年… 井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉7月27日)は、日本の実業家。井上工業社長・会長。 ブルーノ・タウトを招聘しての工芸運動や、群馬交響楽団の創設、群馬音楽センターの建設といった文化活動によっても知られている。 1898年(明治31年)群馬県西群馬郡高崎町新町(現・高崎市八島町)に生まれる。高崎白衣大観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男。母は戸ウ(こう)。実母は1904年(明治37年)に死去した。 高崎市立南尋常小学校、旧制高崎中学校を経て、1916年(大正5年)に早稲田大学へ進学する。同時に川合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る。
松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月… 松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月13日 - 1981年〈昭和56年〉2月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者、思想家。文学博士。浄土宗の僧籍。 戦前はボン大学教授や報知新聞論説委員などを務め、戦後は日本科学振興財団理事長、芝中学校・高等学校理事長・校長、淑徳短期大学(現淑徳大学短期大学部)教授、大正大学理事長などを歴任した。 1898年、広島市に生まれる。浄土宗内地研究生となった後、1921年〈大正10年〉から1927年〈昭和2年〉にかけて仏教学者で東京帝国大学文学部教授の高楠順次郎の助手となり、「大正新脩大蔵経」刊行事業に従事。1927年〈昭和2年〉からセイロン島で南方仏教を研究した後、ドイツのボン大学に入学。
西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - … 西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - 1964年1月17日)は、日本の国文学者、東京教育大学名誉教授。旧姓は岡村。 岡山県西北条郡津山町(現・津山市)出身。1922年東京高等師範学校国漢科卒業後、佐賀中学校教諭。東京帝国大学国文科選科を経て、1927年に本科卒。東大国文学研究室副手として源氏物語などの書誌研究を行う。 第六高等学校教授を経て、1953年「古今集の伝本の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。戦後は岡山大学教授、東京教育大学教授、上智大学教授。平安朝文学、特に古今集の和歌を専門とする。蔵書は没後に国文学研究資料館に収蔵された。
西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5… 西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5月8日)- 1958年(昭和33年)11月24日)は、日本の農林官僚、教育者、政治家。富山県知事、大東文化大学教授、衆議院議員。旧姓・永井。 長野県上水内郡古牧村平林(現長野市)出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、松本高等学校理科を経て1923年、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、翌1924年、同大法学部政治学科を卒業。農林省に入り農林属となる。 以後、農林事務官、農林書記官、大阪営林局長、農林省山林局長などを歴任。1944年2月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。農商省農政局長に移り、さらに馬政局長官、農林省開拓局長を務めた。
町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 197… 町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 1971年1月16日)は、日本の法学者。専門は西洋法制史。一橋大学名誉教授。
岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日… 岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日 – 1980年〈昭和55年〉9月30日)は、日本の内務官僚、政治家。山口県知事(官選第27代)、富山県知事(官選第31代)、衆議院議員(4期)。旧姓は小野。 奈良県出身。小野は奈の三男として生まれ、岡本佐七の養子となる。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学にさらに一年間在学し、1925年に法学部法律学科を卒業。内務省に入省し滋賀県属となる。 1927年、島根県に移り、会計、学務、庶務の各課長を務める。以後、香川県警察部・新潟県警察部の各特別高等警察課長、満洲国国務院民政部総務科長、内務省社会局事務官、滋賀県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安部長、内務省計画局都市計画課長、同地方局振興課長、大阪府書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。
永野 若松(ながの わかまつ、1898年(明治31年)5月7… 永野 若松(ながの わかまつ、1898年(明治31年)5月7日 - 1977年(昭和52年)3月30日 )は、日本の内務官僚。勲二等瑞宝章。福井県知事などを歴任し、特に原爆被災時の(官選)長崎県知事として知られる。 福岡県北九州市小倉区生まれ。東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、同大学法学部に編入し卒業後、内務省に入省。厚生省労政課長、警視庁刑事部長、同特高部長、内務省保安部長、福井県知事、東海地方協議会参事官、内務省防空総本部総務局長を経て1945年4月21日、長崎県知事に任命された。 同年8月8日夕方、広島市への原子爆弾投下後に被災状況を実見し、長崎に帰った西岡竹次郎代議士から広島の惨状を聞いた永野は、警察との協議で現時点で無傷である長崎にも原子爆弾が投下される可能性が高いとの結論に至った。
内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7… 内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7日 - 1972年(昭和47年))は、昭和初期に活躍した日本の歌手、舞台演出家。東京府(現:東京都)出身。 浅草オペラ時代には宇津美 清(うつみ きよし)の名で知られていた。妻は同じく歌手の松島詩子。 東京府吾嬬町(後に東京市向島区東)で履物商を営む内海喜太郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校卒業後、浅草オペラで活躍した。1917年(大正6年)、河合澄子、天野喜久代、千賀美寿一らとともに佐々紅華の東京歌劇座に参加している。 レコードは宇津美清の時代からニッポノホンでお伽歌劇などを吹き込んでいるが、昭和期にはオリエントおよびニットーレコードでジャズソングを数多く録音した。
弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年… 弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年6月19日)は昭和期の日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1917年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業した。1926年から1929年まで東京帝国大学大学院に在学。1930年に医学博士を取得。 札幌市立病院の小児科医となり、田坂重元とともに風疹ウイルスを日本で初めて発見した。また、日本における臨床ウィルス学の先駆者と呼ばれている[誰によって?]。1934年から1936年まで欧米に留学し、主にベルリン大学小児科教室・病理科教室で研究に当たった。1947年熊本医科大学医学部教授及び熊本医科大学附属病院院長、1950年北海道大学医学部教授となった。
安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月… 安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月3日 - 1985年(昭和60年)2月10日)は、日本の政治家、操縦士。衆議院議員(2期)。 愛知県知多郡岡田村(岡田町、知多町を経て現知多市)出身。1916年、名古屋港上空で米飛行士アート・スミスの曲芸飛行を見て航空界を志す。陸軍所沢飛行第四大隊に入り、一等飛行機操縦士となる。陸軍を除隊後、知多郡八幡村(現・知多市)に水上飛行場を開設する。その後、名古屋二見間の定期航空路や和歌山新宮間の航空路を開設する。その一方で1924年に安藤飛行機研究所を開き、所長となり、操縦士、機関士の育成などを行った。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では旧愛知2区(戦前)から無所属で立候補して初当選。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 19… 森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 1980年3月23日)は、日本の実業家。日本特殊陶業社長や、全日本空輸社長、日本航空常務取締役、日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役などを歴任した。 1918年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)卒業。1936年日本特殊陶業取締役。1944年日本特殊陶業取締役社長。1950年大日本製糖監査役。1951年日本特殊陶業取締役会長。1953年日本航空常務取締役。1955年日本航空監査役、日本特殊陶業取締役社長。1961年日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役、日本特殊陶業取締役会長。1962年全日本空輸取締役、日東石膏取締役。1963年東洋サーモコントロール監査役。
田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 199… 田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 1994年12月23日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1939年)。一橋大学名誉教授。初代一橋大学法学部学部長を歴任。1981年12月12日より日本学士院会員。授勲勲二等瑞宝章。 指導学生等に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、吉永榮助(一橋大学名誉教授)、加美和照(中央大学名誉教授)などがいる。 田中ゼミ出身者に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、並木俊守(元日本大学教授、人気弁護士)、加美和照(中央大学名誉教授)、原茂太一(元青山学院大学教授)、佐藤節子(元青山学院大学教授)、柿沼幸一郎(元公正取引委員会委員)、岡村勲(元日本弁護士連合会副会長)、倉島研二(元法務省法務総合研究所教官)など。
黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29… 黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1991年〈平成3年〉6月26日)は、日本の元皇族。黒田長礼侯爵夫人。閑院宮載仁親王の第2女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、茂子女王(しげこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1897年(明治30年)5月29日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2女子(第3子)として誕生。1914年(大正3年)1月21日、黒田長礼(黑田長禮、黒田長成侯爵の嫡男)に降嫁した。1978年(昭和53年)4月16日に夫・長礼が没した後、茂子は「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」ため、それらを故郷に帰すという亡夫の遺志を継ぎ、同年9月19日に国宝・漢委奴国王印をはじめ黒田家に伝来した文化財や歴史資料を『黒田資料』として一括して福岡市へ寄贈した。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年… 周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年4月28日〉 - 1948年〈民国37年〉2月28日)は、中華民国の財政家・政治家。本名周 福海。汪兆銘政権の有力者。 湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。 その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は戴季陶の庇護を受け、蔣介石の下で三民主義のイデオローグとして活躍、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。
西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日… 西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・赤松。 海軍士官・赤松則良の七男として生まれ、1899年(明治32年)に海軍士官・西紳六郎の養子となる。養父の死去に伴い、1933年(昭和8年)11月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、第一銀行に入行し書記に就任。その後、南洋拓殖参事、南洋バルブ取締役、太洋真珠監査役、南洋水産監査役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 19… 鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 1968年2月19日)は、日本画家。 大阪市北区福島番外413番地に生まれる。父熊太郎(1865年(慶応元年)生まれ)、母ミチ(旧姓牧、1876年(明治9年)生まれ)の長男。鍋島熊太郎は旧佐賀蓮池藩連枝。 1915年(大正4年)東北学院中等部卒業。4月、東京美術学校日本画科に入学。4月から7月まで予備科、8月から本科に進む。川合玉堂、結城素明、松岡映丘の指導を受ける。 1921年(大正10年)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。卒業制作は、東京芸術大学収蔵品として保管されているが、一般公開はされていない。[要出典] 恩師・川合玉堂の言葉「塵汚の渦中に巻込まれる勿れ、一意我が道に精進せよ」を受けて中央画壇に背を向け、大阪南部の羽曳野市に住み、人知れず「己が魂」を描き続けた。
瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 -… 瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。