逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5… 逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月25日)は、昭和時代の日本の政治家、衆議院議員(9期)。 岡山県の農家に生まれる。 1899年臥竜高等小学校中退。1912年逢沢組を設立、1939年逢沢組を改組し中国土木(アイサワ工業の前身)を設立、同社社長に就任。その間、1937年の第20回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から立憲民政党公認で立候補するが落選。1942年の翼賛選挙で非推薦候補として立候補し初当選。以後当選9回。通算25年代議士を務め、御津郡芳田村(現・岡山市)村長、運輸政務次官や岡山商工会議所会頭、岡山県遺族会会長、日本遺族会副会長などを歴任。
野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月1… 野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月14日 – 1968年(昭和43年)7月27日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院議員、参議院議員、福岡県知事。 福岡県出身。衆議院議員・野田卯太郎の長男として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。南満洲鉄道に入社した。 1924年(大正13年)5月の第15回総選挙で千葉県第九区から政友会公認で出馬して初当選。1927年(昭和2年)に父が死去すると、翌年2月の第16回総選挙では父の地盤だった福岡県第三区から出馬し当選。以後1937年(昭和15年)4月の第20回総選挙まで連続6回の当選を果した。この間犬養内閣の鉄道参与官、鉄道会議議員、廣田内閣の司法政務次官、政友会総務などを歴任する。
藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月… 藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月13日 - 1966年3月6日)は、奈良県宇智郡北宇智村近内(現五條市)出身の内務官僚、俳人(俳号:玉骨)。奈良県宇智郡北宇智村初代村長の藤岡長二郎の長男。 自宅「藤岡家住宅」(奈良県五條市)は2006年(平成18年)、国の登録有形文化財に登録された。
丸山 直友(まるやま なおとも、1888年(明治21年)5月… 丸山 直友(まるやま なおとも、1888年(明治21年)5月13日 - 1975年(昭和50年)12月2日)は、明治末から昭和期の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県古志郡長岡(現・長岡市)出身。1909年(明治42年)金沢医学専門学校医科(現・金沢大学医学部)卒、同校嘱託を経て、上京し東京帝国大学医科大学入沢内科の助手となり、その後、東京南胃腸病院副院長となる。1917年(大正6年)長岡市東坂之上町で開業した。1945年(昭和20年)長岡空襲で被災し玉蔵院町(現:城内町)に医院を新築開業した。長岡市医師会長、新潟県医師会副会長、日本医師会代議員、同常任理事、同副会長などを務める。 1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙では旧新潟3区から民主自由党公認で立候補して当選した。
橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)… 橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)5月12日 - 1942年(昭和17年)10月13日)は、日本の教育者、文部官僚。 福井県足羽郡東郷村(現在の福井市)出身。1911年(明治44年)に盛岡高等農林学校農学科を卒業。宮城県立農学校教諭、同農事試験場技手、福井県今立郡立農学校教諭、盛岡高等農林学校助教授などを歴任。その後高等文官試験に合格し、福岡県鞍手郡長、同糸島郡長、同事務官を務めた。1928年(昭和3年)に文部事務官に移り、大臣官房会計課勤務、専門学務局勤務などを経て、1934年(昭和9年)に文部書記官・宗教局宗務課長に就任した。1937年(昭和12年)からは東京聾唖学校校長を務めた。
柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年… 柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年5月12日 - 1956年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は晋州柳氏(朝鮮語版)、号は怡雲(イウン、이운)。ユ・レワン(漢字同、유래완)という表記も見られる。 京畿道楊平郡出身。神戸市立湊川商工実業学校商業科卒、早稲田大学修了。大韓独立普成団組織団長を務めたが、三・一運動の普成団事件で1年間投獄された。その後は私立養成女学校教員、楊平郡楊西学堂教員、楊平公立普通学校学務委員、楊平郡食糧事務嘱託、楊平面内務主任、楊平面協議会員を歴任した。解放後は初代楊平面長、韓国民主党楊平郡支部支部長、南朝鮮過度立法議院代議員、制憲国会議員、社団法人楊平郡畜産協会会長を歴任した。
荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月1… 荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月10日 – 1950年(昭和25年)1月11日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 埼玉県北埼玉郡佐間村(忍町を経て現行田市)で、荒井久之助の二男として生まれる。1907年(明治40年)関直彦の私塾を卒業。東京で足袋見習修行を行い、1917年(大正6年)独立して忍町で足袋製造業を始め、その後、業界屈指の規模に成長した。行田足袋被服工業組合理事長、全日本足袋工業組合連合会理事、日本足袋共同販売取締役、日本足袋製造統制取締役、日本足袋統制 (株) 理事、忍町被服製造取締役会長、行田足袋元売販売社長、行田足袋工業会理事長、日本足袋配給 (株) 理事、全国足袋卸商業協同組合理事長、忍商工会議所会頭、忍町農業会長などを務めた。
梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 19… 梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 1976年5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍軍医中将。医学博士。 宮城県大崎市出身。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1914年、東京帝国大学医学部卒業。その後陸軍軍医学校を卒業し、東京帝国大学伝染病研究所で細菌学・血清学を学ぶ。1924年3月29日、論文「スパスカヤに於けるパラチフスB型菌性食中毒検索例 : 竝原因食(オムレツ)の菌毒汚染動機に関する実験的研究」で医学博士号取得。1939年、満州関東軍軍医部長。1940年、陸軍軍医総監。 731部隊を統括・監督する立場にあったことから戦後ソビエト連邦軍の捕虜となる。
小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月… 小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月4日 - 1966年(昭和41年)5月11日)は、日本の経済学者。慶應義塾長、帝国学士院会員を歴任。 イギリス古典学派のリカード研究のほか、日本における社会思想研究の先駆者として活動するとともに、マルクス主義への容赦ない批判者として、自由主義の立場から『資本論』の内容をめぐって河上肇や、櫛田民蔵との活発な論戦を展開した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長を務めた。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育責任者にもなり、皇室の近代化に努めた。学士院会員、コロンビア大学名誉文学博士、文化勲章受賞、名誉都民、野球殿堂入り。
崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月… 崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月4日 - 1960年(昭和35年)6月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、那覇市長。 沖縄県首里(現在の那覇市)に崎山嗣記の長男として生まれ、幼時を石垣島で過ごした。沖縄県立中学校を卒業後、第七高等学校に進み、1913年(大正2年)に卒業した。さらに京都帝国大学法科大学独法科に学び、1917年(大正6年)に卒業した。翌年に帰郷し、弁護士を開業した。 那覇市会議員、沖縄県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。計4期務めた。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1937年(昭和12年) 第20回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1943年(昭和18年)3月には那覇市長に選出された。
中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日… 中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。 法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。 日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された。
加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日… 加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日 - 1956年〈昭和31年〉9月1日)は、大正・昭和期の小説家。号は冬海。建築家の丹下健三は三女の婿。門人に佐藤愛子がいる。 神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区)生まれ。高等小学校卒。川尻尋常小学校(現・相模原市立川尻小学校)で訓導(準教員)を務める。親戚に八木重吉がおり、川尻尋常小学校では教え子でもあった。 『文章世界』・『中学世界』誌等への投書家として次第に名を知られ、明治時代末から佐藤義亮に接近。1911年、新潮社に入社し、編集者として『文章倶楽部』などを担当した。 1916年に加藤武雄名義の処女作「土を離れて」を『新潮』誌に発表。
横山 正(よこやま ただし、1888年(明治21年)5月 -… 横山 正(よこやま ただし、1888年(明治21年)5月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 島根県出身。藤谷宝城の三男として生まれ、横山賢造の養子となった。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、1917年(大正6年)に高等文官試験に合格した。岐阜県属、神奈川県警視、三重県理事官、岡山県理事官、山口県警察部長、静岡県警察部長、神奈川県警察部長を歴任。1930年(昭和5年)、千葉県書記官・内務部長に就任した。 退官後、新潟市助役を務めた。
丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 196… 丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 1967年4月11日)は、日本の聾唖教育者、社会事業家、ソーシャルワークの実践者。丸山ちよと表記されることがある。 山形県米沢市で、丸山孝一郎の四女として生まれる。姉と妹が聾唖者であったことから聾唖教育を志し、山形県立米沢女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)を経て日本女子大学校に進学した。1909年3月に同校を卒業した後は、教職に就くも病気のため郷里に戻った。その後、父親の死を契機に上京する。日本女子大学校の同窓会組織である桜楓会が運営を模索していた託児所経営に、1913年から主任保母として参加し、貧しい婦人の労働機会を確保するとともにその子弟が教育を受ける機会を広げた。
新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月2… 新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月26日 - 1969年〈昭和44年〉5月19日)は、大正・昭和期の実業家・政治家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 群馬県多野郡保美濃山村(現・藤岡市保美濃山)出身。17歳のとき医学を志して上京、建築業に従事しながら苦学する。1920年(大正9年)協調会社会政策学院を卒業。土木建築請負業を営む。田島応用加工(株)顧問を務めた。 千住町会議員、足立区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、同参事会員、同社会委員長、東京都議会議員、同参事会員を務めた。 第24回衆議院議員総選挙(1949年(昭和24年)1月執行)東京都第6区から選出された聴濤克巳の公職追放、中島守利の死去に伴い1952年(昭和27年)3月に実施された補欠選挙で初当選。
飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治… 飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治20年〉5月25日 - 1938年〈昭和13年〉9月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北甘楽郡富岡町(現・富岡市)出身。農業・飯塚理八の長男として生まれる。富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。 1919年(大正8年)11月から1920年(大正9年)11月までシベリア出兵に従軍し、ニコリスク・ウスリースキー(現・ウスリースク)付近の戦闘で戦功を挙げ、功五級金鵄勲章を受章した。1920年8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第66連隊中隊長に就任。
仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月… 仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月23日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、沖縄県出身のジャーナリスト、政治家。後半生を沖縄の日本復帰運動に挺身し、「復帰男」「沖縄復帰の父」と呼ばれた。 首里儀保村に生まれる。1908年、沖縄県中学校を卒業し、早稲田大学英文科に入学する。大学在学中はキリスト教と文学に傾倒した。1912年、早稲田大学を卒業し、『琉球新報』記者となり、のちに『沖縄朝日新聞』を創設した。1919年に上京し、『東京日日新聞』記者となる。1921年にはアメリカ合衆国に移住し、1923年、ロサンゼルスの羅府新報社に入社し、1925年には帰国し、東京日日新聞社に再入社する。
長尾 優(ながお まさる、1887年(明治20年)5月22日… 長尾 優(ながお まさる、1887年(明治20年)5月22日 - 1975年(昭和50年)10月21日)は、日本の大正・昭和期における歯科医大学教授・医学博士。位階は正三位。東京医科歯科大学初代学長。香川県出身。 1887年(明治20年)5月22日、長尾優は現在の香川県丸亀市に生まれる。丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)、第一高等学校を経て1913年(大正2年)12月東京帝国大学医科大学を卒業し、病理学教室を経験した後石原久が教授を務める東京帝国大学医科大学歯科学教室に入局した。1916年(大正5年)9月にはペンシルベニア大学歯学部へ自費留学し、歯科医療技術を学び、また歯科器材の重要性に注目し機材製造会社を積極的に見学し、1918年(大正7年)5月に帰国した。
鈴木 忠治郎(すずき ちゅうじろう、1887年(明治20年)… 鈴木 忠治郎(すずき ちゅうじろう、1887年(明治20年)5月21日 - 1964年(昭和39年)7月14日)は、大正・昭和期の実業家、発明家。裾野市名誉市民第一号。生涯で470件余の特許を得ており、代表例として1913年(大正2年)の加熱麦圧搾機が挙げられる。全国油糧機器製造協議会会長を務めた。 1887年(明治20年)、静岡県駿東郡小泉村(現・裾野市佐野)出身。1905年(明治38年)、独立して生糸繭の売買業を開始する。その後、商売も順調に進み、沼津に店を持つに至ったが、胃腸疾患・風邪から肺・胸の病気を併発し、3年間に及ぶ闘病生活を余儀なくされた。また、1913年(大正2年)の沼津大火の際には、店だけでなく穀物などの商品を保管してあった倉庫も焼失してしまう。
坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18… 坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18日 - 1973年(昭和48年)1月4日)は、日本の政治家(元衆議院議員)、教育者で八代市長、名誉市民。長男は防衛庁長官、衆議院議長を務めた坂田道太。 熊本県八代郡植柳村(現在の八代市)に生まれる。父は明治新田製造の功労者たる坂田貞である。 八代中学校(現・熊本県立八代中学校・高等学校)時代から秀才の誉れが高かった。1905年(明治38年)9月、第五高等学校第一部独法科に入学する。 1908年(明治41年)7月、同科を卒業し、ただちに東京帝国大学法科大学独逸法科に入学する。 1912年(明治45年)7月、同大学を卒業する。 1913年(大正2年)9月、第五高等学校教授(法制経済・独逸語担当)に任ぜられる。
権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5… 権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5月17日 - 1951年(昭和26年)1月5日)は、日本の社会学者。 東京生まれ。明治32年、早稲田中学に入学。東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1921年大原社会問題研究所に入る。1924年にヨーロッパに渡る。のちに日本大学講師、文部省の委託を受けて各地の都市研究に従事する。 1919年(大正8年)に実施した、小額俸給生活者の家計調査は有名。また同時期、京都の映画監督で、「日本映画の父」として知られる牧野省三が設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男(保篠龍緒)とともに協力する。
野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月1… 野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月17日 - 1968年(昭和43年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第七大隊付となる。1911年(明治44年)12月26日に工兵中尉に昇進し、1912年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(18期)高等科を卒業。更に員外学生として在学し、1916年(大正5年)7月10日には東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 1918年(大正7年)7月29日に工兵大尉に昇進し陸軍技術審査部付となる。その後、長らく陸軍技術本部部員に在籍し、在任中の1924年(大正13年)3月15日工兵少佐に、1928年(昭和3年)3月24日工兵中佐に、1932年(昭和7年)8月8日に工兵大佐に昇進。
保坂 玉泉(ほさか ぎょくせん、1887年5月15日 - 1… 保坂 玉泉(ほさか ぎょくせん、1887年5月15日 - 1964年8月28日)は、日本の仏教学者・博士。駒澤大学総長・学長。曹洞宗の僧侶。 新潟県出身。明治35年、新潟県観音寺で得度。大正2年、曹洞宗大学(現∶駒澤大学)卒業。同年、曹洞宗研究生となり法隆寺佐伯定胤に倶舎、唯識、因明を学ぶ。5年に曹洞宗大講師、第1中学林校長を経て、14年に駒澤大教授。中国仏教視察後、1972年から9年間、新潟県観音寺住職。この間、曹洞宗宗会議員、宗務院人事部長、教学部長を歴任。1935年、駒澤大教授に再任。世田谷中学校長、栃木県祥雲寺住職。1957年、駒澤大総長に就任。同年、大教師。 1958年『唯識三類境の研究』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
作田 高太郎(さくた たかたろう、1887年(明治20年)5… 作田 高太郎(さくた たかたろう、1887年(明治20年)5月15日 – 1970年(昭和45年)3月15日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。文部政務次官、文部参与官。弁護士。 広島県沼隈郡藤江村(現在の福山市)出身。1915年(大正4年)、中央大学を卒業。1917年(大正6年)、弁護士試験に合格し、開業した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで6回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で文部参与官を、阿部内閣で文部政務次官を務めた。 戦後、日本進歩党に加入するが、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。 その他、常磐採炭株式会社取締役、日英醸造株式会社取締役、大日本醸造株式会社監査役、千代田毛織株式会社監査役、関東航空計器株式会社社長、和田製本工業株式会社社長などを務めた。
大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年… 大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月19日)は、日本の内務及び台湾総督府官僚、政治家。第18代東京市長。衆議院議員(4期)。 茨城県行方郡吉川村(津澄村、北浦村、北浦町を経て現行方市吉川)で大久保佐吉の次男として生まれる。生家は農家。1913年(大正2年)東京高等師範学校(筑波大学の前身)地歴科卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入省、警察畑を歩む。新橋、牛込、神楽坂各警察署長、警視庁特高課長、刑事部長、官房主事、台湾総督府警務局長を歴任。この間、堺利彦、徳田球一らが検挙された第1次共産党事件(1923年)、約1600人が検挙された三・一五事件(1928年)など、共産党員の大量検挙事件の指揮にあたる。
高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5… 高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5月11日 - 1967年(昭和42年)6月11日)は、日本の法学者。専門は英米法。位階は正三位。東京大学名誉教授。成蹊大学名誉教授。貴族院勅選議員。大正・昭和期の代表的英米法学者として知られる。弟子に末延三次、田中和夫、守屋善輝など。 埼玉県熊谷市に生まれる。正則英語学校、府立四中、一高を経て、1912年東京帝国大学法科大学卒業。 1913年東京帝国大学大学院(旧制)中退し、東京帝国大学法科大学助教授。1921年東京帝国大学法学部教授(後に附属図書館館長兼務)を歴任した。イギリス法研究が主流であった時代に、1915年~1920年ハーバード大学ロースクールなどに留学し、違憲立法審査権などアメリカ法研究に本格的に取組んだ。
岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月… 岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月10日〈1886年生とも〉- 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲三等。 平民出身で初めて宮家(高松宮)付の武官となった人物。 広島県芦品郡駅家町大字服部本郷(現在の福山市)の屋号観音堂の、岡田馳次郎・アサの次男として生まれる。品治高等小学校2年を修了後、広島県第二中学校(後の誠之館)に入学する。1904年(明治37年)、19歳の時に広島県立福山中学校(誠之館)を卒業する。1907年(明治40年)、22歳の時に海軍兵学校を第35期生として卒業する。1909年(明治42年)、24歳の時に海軍大学を第16期生として卒業。
鈴木 重次(すずき しげじ、1887年〈明治20年〉5月10… 鈴木 重次(すずき しげじ、1887年〈明治20年〉5月10日 - 1951年〈昭和26年〉11月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県北松浦郡、のちの江迎村(江迎町を経て現佐世保市江迎町)出身。1905年長崎県立平戸中学校猶興館(現・長崎県立猶興館高等学校)卒。小学校訓導兼校長、江迎村長、長崎県議、同議長、大政翼賛会長崎県支部顧問、同中央協力会議員となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では長崎2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除後に死去した。
伊澤 平馬(いさわ / いざわ へいま、1887年(明治20… 伊澤 平馬(いさわ / いざわ へいま、1887年(明治20年)5月10日 - 1940年(昭和15年)4月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 宮城県仙台区(現仙台市)で実業家・伊澤平左衛門の三男として生まれる。1907年(明治40年)宮城県立仙台第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)を卒業。また、醸造試験所(現酒類総合研究所)講習所を修了した。 1907年以降、家業の酒造業に従事。また、仙台平機業社長、仙台染織製綿社長、東北貯蓄銀行取締役、七十七銀行取締役、宮城銀行取締役、仙台瓦斯取締役、仙北鉄道取締役、宮城電気鉄道取締役などを務めた。その他、宮城県連合保護会理事、吉田高等女学校(現聖和学園高等学校)理事長、第二中学校奨学会監事、日本赤十字社宮城県支部商議員、仙台市社会事業協会委員、仙台育英会評議員、仙台市政振興会委員、警防団長なども務めた。
伊藤 皆次郎(いとう みなじろう、1887年(明治20年)5… 伊藤 皆次郎(いとう みなじろう、1887年(明治20年)5月10日 - 1960年(昭和35年)9月24日)は、日本の政治家、実業家。徳島県鳴門市出身。 伊藤縫吉の長男として板野郡里浦村(現在の鳴門市里浦町里浦花面)で生まれる。1908年(明治41年)徳島県師範学校を卒業。長く教職に就いていたが、退職後は実業家となり、和布製造の里浦商事会社を起した。 1919年(大正8年)より里浦村長に就任し、以来、12年間務める。1927年(昭和2年)、徳島県会議員に当選。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で当選。 1960年(昭和35年)9月24日、74歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
真鍋 頼一(まなべ よりいち、1887年5月7日 - 197… 真鍋 頼一(まなべ よりいち、1887年5月7日 - 1971年11月19日)は、日本基督教団の牧師である。 1887年に現在の愛媛県西条市に生まれる。1903年に洗礼を受ける。1913年に青山学院神学部を卒業し、日本メソジスト教会の牧師になる。日本メソジスト牛込教会牧師、日本メソジスト教会社会局長などを経て、1941年の日本基督教団の成立時に日本基督教団の第2部の牧師になる。そして阿部義宗の後をついで、1946年まで日本基督教団第2代議長になる。同年、日本基督教団池の上教会の牧師に就任する。空襲で会堂を失った日本基督教団牛込教会の会員が参集する。 牛込教会と池の上教会は真鍋の元で合同礼拝持ち、1948年3月に牛込教会と池の上教会が合併して日本基督教団美以教会が誕生、同年7月教団の指導により頌栄教会と改称され、真鍋が頌栄教会初代牧師になる。
吉丸 末吉(よしまる すえきち、1887年5月6日 - 19… 吉丸 末吉(よしまる すえきち、1887年5月6日 - 1973年)は、日本の薬剤師。 ふりかけ食品の元になる製品を考案したことで知られる。 熊本県で生まれる。1908年9月に当時の熊本薬学校(熊本大学薬学部の前身)を卒業した。 当時日本では食料が不足しており、特にカルシウムが足りていなかった。それを補うために「魚を骨ごと細かくし、美味しく味付けをしてご飯にかけて食べる」という方法を考案した。このアイディアを事業化し、「御飯の友」の商品名で販売した。吉丸が「御飯の友」を考案したのは1913年(大正2年)年頃とされている。「御飯の友」の製造元は後にフタバとなった。 2013年に熊本で結成された国際ふりかけ協議会が、2015年に吉丸の誕生日にちなんで5月6日を「ふりかけの日」に制定した。
久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4… 久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4月19日)は、日本の鉱山技術者(工学博士)、経営者。撫順炭鉱など満洲における鉱物資源採掘、経営に携わった。中華民国(国民政府)によって平頂山事件の責任を問われ銃殺刑に処されたが、日本では冤罪と考えられている。 1887年(明治20年)5月5日、父・義道と母・久米の長男として高知県土佐郡大川筋で生まれた。幼名は東洋士。1905年(明治38年)に高知県立第一中学校を卒業、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学。1912年(明治45年)7月に同大学工科大学採鉱冶金学科を卒業すると、すぐに南満洲鉄道に就職、撫順炭鉱の鉱務課に勤務した。 順調に昇進を続け、1932年(昭和7年)には撫順炭鉱長に着任。
高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 196… 高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 1965年5月25日)は宗教家、哲学者、教育者。 金光教第二世代の代表的人物。金光教学院長として数多くの若者を育てるとともに、金光教教監(現在の教務総長に相当する役職)として現在の金光教団の基礎を確立し、現在の金光教に続く結界取次を中心とする人間の生き方や、ゆるやかで自己内省的な教義を広めた。
梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943… 梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943年9月24日)は明治から昭和初期に活躍した、新派劇の二枚目俳優。本名、福島 卯三郎(ふくしま うさぶろう)。代表的な当たり役として「婦系図」早瀬主税、「金色夜叉」間貫一、「不如帰」川島武男、「滝の白糸」村越欣弥がある。 1887年、東京市日本橋区本船町に生まれる。慶応義塾普通部3年を経て東京薬学専門学校に入学するも中退。1910年、菊池武成門下で新派俳優となる。翌1911年、川上音二郎に師事し御伽芝居「浮かれ胡弓」で初舞台。同年、川上が死去し、最後の弟子となる。1912年に高田実の門下となる。さらに水野好美一座に移り、梅島昇を名のり二枚目として認められる。
斎村 五郎(さいむら ごろう、1887年(明治20年)5月4… 斎村 五郎(さいむら ごろう、1887年(明治20年)5月4日 - 1969年(昭和44年)3月13日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。昭和の剣聖の一人に挙げられ「剣聖十段」といわれた。また、その気性の激しさから、“雷五郎”、“ケンカ五郎”とも呼ばれた。
横江 嘉純(よこえ よしずみ、1887年(明治20年)5月3… 横江 嘉純(よこえ よしずみ、1887年(明治20年)5月3日 - 1962年(昭和37年)2月14日)は、日本の彫刻家。塑像を得意とし、木彫、大理石像、洋画も遺した。 富山県婦負郡保内村(現・富山市)に出生。祖父も父も、同村の村長だった。小学校高等科を卒業後、絵画家を志すも挫折し、彫刻家に憧れる。京都の常楽寺で書生をしながら京都市立美術工芸学校に学んだ。学校を特待生として1906年(明治39年)3月に卒業。 その後、徴兵のため3年間入隊。兵役終了後東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、1914年(大正3年)に彫刻科を卒業。結婚して一男一女をもうけたが、長女が夭逝し、続いて母、長兄、妻をも亡くした(長男も1941年(昭和16年)に死去)。
湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)… 湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)5月2日 - 1963年(昭和38年)4月9日)は、日本の国語学者。 1887年(明治20年)、秋田県広山田村(現・秋田市広面)に農家の三男として生まれる。広山田村立楢山尋常小学校卒。 秋田県立秋田中学校を経て1905年(明治38年)東京高等師範学校国語国文学科に入学、卒業後は富山県立薬学専門学校、東京府立第四高等女学校の教員となるが、府立第四高女に勤めながら東京帝国大学国文学選科に進み、これを修了、1915年(大正4年)文部省嘱託となる。 1933年(昭和8年)東洋大学教授に就任。以後、文部省図書監修官(1942年(昭和17年)就任)、早稲田大学教授(1949年(昭和24年)就任)、上智大学教授(1959年(昭和34年)就任)を歴任した。
山本 發次郎(やまもと はつじろう、1887年(明治20年)… 山本 發次郎(やまもと はつじろう、1887年(明治20年)5月1日 - 1951年(昭和26年)9月30日)は、日本の実業家であり、美術蒐集家でもある。本記事に記載するのは2代目發次郎である。 山発商店第2代社長、日本絹綿紡織(現:日本毛織)取締役。発次郎の美術コレクションがきっかけとなり、大阪中之島美術館建設計画が発足。2022年に開館となった。如水会会員。 岡山県上房郡北房町(現:真庭市)に生まれる。 戸田嘉平の三男で出生名は清、生家は水田村の庄屋の家柄だった。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、総合商社兼松の社長になる林荘太郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
岡本 保三(おかもと やすぞう、1887年(明治20年)5月… 岡本 保三(おかもと やすぞう、1887年(明治20年)5月1日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 兵庫県出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業して、同年に高等文官試験に合格した。大阪府属・西成郡書記、同府工場監督官補、大分県西国東郡長、同県理事官、宮崎県理事官、北海道庁事務官、群馬県書記官・学務部長を歴任。1930年(昭和5年)に樺太庁農林部長に就任した。 退官後、横須賀市助役を務めた。
小笠原 勁一(おがさわら けいいち、1886年(明治19年)… 小笠原 勁一(おがさわら けいいち、1886年(明治19年)5月31日 - 1919年(大正8年)11月3日)は、大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・小笠原長育の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)3月14日、子爵を襲爵した。 1910年(明治43年)早稲田大学政治経済科を卒業。1914年(大正3年)帝室林野管理局属に就任。 1917年(大正6年)3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。 1919年11月、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町の自邸で療養中に死去した。 長清 - 長経 - 長忠 - 長政 - 長氏 - 宗長 貞宗 - 政長 - 長基 - 長将 - 長秀 - 持長 - 清宗 - 長朝 - 貞朝 - 長棟 - 長時 - 貞慶 秀政 - 忠脩 - 忠真 - 忠雄 - 忠基 - 忠総 - 忠苗 - 忠固 - 忠徴 - 忠嘉 - 忠幹 - 忠忱 長幹 - 忠春 - 忠統 - 長雅 光康 - 家長 - 定基 - 貞忠 - 信貴 - 信嶺 - 信之 - 政信 - 貞信 - 信辰 - 信成 - 信胤 - 信房 - 長教 - 長貴 - 長守 - 長育 - 勁一 - 牧四郎 - 長定
松本 昇(まつもと のぼる、1886年(明治19年)5月27… 松本 昇(まつもと のぼる、1886年(明治19年)5月27日 – 1954年(昭和29年)6月9日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、資生堂社長。 香川県阿野郡、のちの端岡村(綾歌郡端岡村、国分寺町端岡、現高松市)で、松本彦三郎の二男として生まれた。生家は代々、香川郡、阿野郡、鵜足郡の三郡で地頭を務めた旧家。高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)を経て早稲田大学商科で学んだ。同大を中退して1905年(明治38年)アメリカに留学し、アスベリパーク・ハイスクールを経て、ニューヨーク市の百貨店シンプソン・クロフォード商会で昼に勤務し、夜はニューヨーク大学商科に通学して1909年(明治42年)に同大を卒業。
泥谷 帯刀(ひじや たてわき、1886年(明治19年)5月2… 泥谷 帯刀(ひじや たてわき、1886年(明治19年)5月23日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 泥谷嘉之吉の長男として、宮崎県児湯郡高鍋町に生まれる。宮崎中学校を卒業後、1907年(明治40年)拓殖大学を卒業。同年渡台し、台湾総督府内務局に奉職する。1914年(大正3年)台南庁属を拝命し、翌年法務課勤務に転じ、1922年(大正11年)台中州竹山郡守に任じた。のち台北州文山郡守に就任した。
高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月… 高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 - 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。 1886年(明治19年)5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった。 1901年(明治34年)に油井小学校高等科を卒業したのち福島高等女学校3年へ編入学した。
笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5… 笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5月18日 - 1976年〈昭和51年〉2月13日)は、日本の政治家、教育者、剣道家。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は政治学士、剣道範士。東奥義塾塾長、青山学院院長、衆議院議員(4期)、参議院議員(3期)、復員庁総裁、賠償庁長官、全日本剣道連盟最高顧問などを歴任した。 青森県中津軽郡弘前町弘前若党町(現:弘前市若党町)に旧弘前藩藩士・笹森要蔵の六男として誕生。8歳で北辰堂道場に入門し、小野派一刀流剣術を学ぶ。14歳のときキリスト教の洗礼を受ける。 1910年、早稲田大学政治経済科を卒業後、雑誌『新公論』記者を経て1912年に渡米し、コロラド州デンバー大学大学院を修了。
櫻川 五良藏(さくらがわ ごろぞう、1886年5月17日 -… 櫻川 五良藏(さくらがわ ごろぞう、1886年5月17日 - 1924年2月25日)は、現在の青森県黒石市出身で立田山部屋に所属した力士。本名は木村 慶次郎。身長167cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目。 郷里にいた頃は裁判所の職員をしながら教員を目指していた経歴を持つ。1903年1月に初土俵を踏み、1911年2月十両昇進。1912年1月入幕を果たし、2枚目まで躍進するが三役昇進はならなかった。十両に陥落してからは振るわず、1917年1月廃業した。櫻川五良藏の四股名は講談の登場人物の名から付けた。
久保田 不二子(くぼた ふじこ、1886年〈明治19年〉5月… 久保田 不二子(くぼた ふじこ、1886年〈明治19年〉5月16日 - 1965年〈昭和40年〉12月17日)は、明治 - 昭和時代の歌人。島木赤彦の二人目の妻でもある。 1886年(明治19年)に長野県下諏訪町高木で生まれた。父は政信、母はぬい。10歳上に姉のうたが居た。 1902年(明治35年)1月、不二子が同年7月、16歳の時に姉のうたが亡くなる。その後彼女の子ども(長男)の面倒を見るため、後妻として島木赤彦に嫁ぐ。1903年(明治36年)に島木との間に二女、初瀬(はつせ)が生まれた。島木との年齢差は10歳であったが、妻として夫を支えようと努めていた。島木が東筑摩郡広丘村(現在の塩尻市)で小学校の校長として勤めている間も、下諏訪にて子育てと家事、農作業に勤しんでいた。
石橋 智信(いしばし とものぶ、1886年5月15日 - 1… 石橋 智信(いしばし とものぶ、1886年5月15日 - 1947年12月21日)は、日本の宗教学者。
新井 尭爾(新井堯爾、あらい たかじ / ぎょうじ、1886… 新井 尭爾(新井堯爾、あらい たかじ / ぎょうじ、1886年(明治19年)5月15日 – 1966年(昭和41年)5月9日)は、日本の政治家、鉄道官僚。衆議院議員(2期) 埼玉県南埼玉郡篠津村(現在の白岡市)に衆議院議員新井啓一郎の三男として生まれる。旧制第四高等学校を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。高等文官試験に合格し、鉄道院書記、沼津駅助役、程ヶ谷駅駅長、鉄道院参事補、同副参事、同参事、鉄道書記官、監督局業務課長、門司鉄道局運輸課長、東京鉄道局運輸課長、運輸局国際課長、同局配車課長などを歴任した。 1930年(昭和5年)、国際観光局が新設されると局長に就任し、観光基盤作りに尽力した。
田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 - 1941… 田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 - 1941年4月24日)は、日本の美術家。埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。浦和画家の一人で、海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。 旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒業後、単身渡米しシアトルへ渡る。