池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月… 池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月13日 - 1917年(大正6年)12月1日)は、明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方。 1886年(明治19年)5月13日、東京・神田雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に1人の弟、3人の妹がいる。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾で福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌や書に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。
阿部 ミツ(あべ ミツ、1886年〈明治19年〉5月12日 … 阿部 ミツ(あべ ミツ、1886年〈明治19年〉5月12日 - 没年不詳)は、日本の第36代内閣総理大臣である阿部信行の妻(内閣総理大臣夫人)。石川県金沢市出身。 1886年(明治19年)、陸軍主計中佐の原知信の長女として生まれる。 その後、金沢で父・知信の後輩にあたる阿部信行と結婚。2男4女を儲ける。長男の信男は軍人ではなく住友金属のエンジニアとなり、次男の信弘は陸軍士官学校から陸軍人となった。また4人の娘は良家へ嫁がせている。 1945年8月15日、敗戦を朝鮮の京城で迎えたが、翌日には朝鮮総督府釜山地方交通局長に命じ、逸早く民間人に先んじて、釜山港から日本へ脱出を図った。しかし悪天候と多くの荷物の過積載によって老朽船が釜山付近の木島で沈没しかけたため、やむを得ず汽車で釜山駅から京城駅に戻った。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 19… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 1973年8月26日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 福島県会津若松市生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育される。札幌中学校を経て、1905年、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事した。在学中の1908年、第2回文展に「海辺」が初入選した。1910年(明治43年)に東京美術学校を卒業、第4回文展に「白粉」が入選した。1911から渡欧し、ルノワールらに傾倒した。1915年(大正4年)、帰国して日本美術院洋画部同人となる。再度渡欧し、帰国後の1923年(大正12年)、同志と春陽会を設立した。1937年(昭和12年)、海洋美術会(後に大日本海洋美術協会)の設立メンバーとなる。
河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月1… 河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月10日 - 昭和45年(1970年)5月14日)は、日本の農商務官僚、政治家、実業家。富山県高岡市名誉市民。
畑 耕一(はた こういち、1886年5月10日 - 1957… 畑 耕一(はた こういち、1886年5月10日 - 1957年10月6日)は、大正・昭和時代前期日本の小説家、劇作家、作詞家。俳号は蜘盞子、別名義に多蛾谷 素一。 1886年(明治19年)、広島市堀川町で漆問屋の家庭に生まれる。生年については1887年(明治20年)、1896年(明治29年)など複数の説があったが、後年の研究で戸籍上の生年が「明治19年」であることが確認されている。父の平蔵は商業を学ばせるためとして耕一を大阪の商家へ奉公に出し、大阪府師範学校附属小学校(現在の大阪教育大学附属天王寺小学校)を経て市立大阪高等商業学校へ進学させる。大阪高商の予科を卒業した後、広島へ帰郷し中国新聞の「中国文壇」欄投稿者の親睦会「詞友会」結成に参加し、幹事を務める。
駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7… 駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7月9日)は、動物学者。日本学士院会員。動物遺伝学、動物系統学、進化論を研究。 三毛猫にオスが少ないことを発見したことで知られる。 1886年、兵庫県姫路市に生まれる。旧姓・福田。東京高等師範学校卒業後、大阪府立富田林中学校で教諭を務めた。その後、東京帝国大学で動物学を学び、1917年(大正6年)に選科修了。コロンビア大学留学ののち、1925年(大正14年)京都帝国大学、東京帝大兼任教授、1947年(昭和22年)東大定年退官、1948年(昭和23年)学士院会員、1949年(昭和24年)国立遺伝学研究所部長。 1924年(大正13年)2月 東京大学 理学博士「Studies on two aberrant ctenophores, Coeloplana and Gastrodes(二種の異状なる櫛水母シロープラナ及びガストロデスの研究)」。
北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - … 北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - 1968年11月15日)は日本の政治家、銀行家。 1886年5月9日、京都で生まれる。子供の頃から身体が弱く、ほとんど病床で過ごしたため、幼年時代の遊びは全く知らず、友だちと外で駆け回ったこともなかった。青年期も健康にはならなかった上に、二人の兄が早く死んだ。また一人の兄は16歳で亡くなったので、自分がその年頃になると、ますます死の恐れを感じ、この不安を何とか解決したいと思い悩んだ。生家は浄土真宗だったので、ただ阿弥陀如来に頼れば極楽浄土に往生すると教えられたが、信じることができなかったという。 読書するうちにトルストイの作品に出会い、感動し、聖書を読み始めるようになった。
川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月… 川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月8日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、日本の画家。岐阜県岐阜市生まれ、出生時の本名は中野 隆一(なかの りゅういち)、後に川﨑へ改姓。 岐阜県庁勤務の中野金之助と妻あゆの長男として生まれ、幼少期から母方の祖父である川﨑千虎に大和絵を学び、さらに千虎が佐賀県有田町にあった佐賀県有田陶芸学校の校長になるとその専科で絵画と図案を学んだ。1902年(明治35年)の千虎没後は千虎門下の小堀鞆音に師事し、東京美術学校卒業後は教員を経て創作活動に専念した。 初期には千虎や鞆音の系譜を継ぎ、大和絵を基調とした叙情的な作品を描いたが、次第に人間的な色合いの濃い作風へと変わり、晩年は身近な自然や動物などの素朴な主題を描く。
隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 195… 隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 1957年12月23日)は、日本の教育者。 隈部忠記の長男として熊本県菊池郡隈府町(現・菊池市)に生まれる。1909年第五高等学校文科を経て、1913年東京帝国大学文科大学西洋史学科を卒業。 鹿児島県立志布志中学校校長、山梨県立日川中学校校長、山梨県立甲府中学校校長、1937年8月福岡県中学修猷館校長、1941年5月京都府立京都第一中学校校長を歴任する。1946年4月京都府立京都第一中学校校長を退任。 1947年4月、学制改革により新制甲南中学校が開校すると、その初代校長に就任。翌1948年4月、新制甲南高等学校が開校すると、その校長も兼務した。
山口 尚章(やまぐち なおあき、1886年(明治19年)5月… 山口 尚章(やまぐち なおあき、1886年(明治19年)5月6日 - 1952年(昭和27年)4月2日)は、内務官僚。長崎県大村市長。旧姓・冨永。 長崎県東彼杵郡千綿村瀬戸郷(現東彼杵町瀬戸郷)で、冨永新作の長男として生まれる。1895年(明治28年)3月1日、母の実家、彼杵村坂本郷俵坂の山口家の養子となる。長崎県立長崎中学校を経て、1905年(明治38年)第一高等学校に入学したが病のため退学。その後静養して、1911年(明治44年)早稲田大学政治科を卒業。1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。愛媛県属、西宇和郡長、愛媛県理事官、福島県理事官、佐賀県理事官、岩手県警察部長、鳥取県内務部長、滋賀県内務部長、鹿児島県警察部長、沖縄県内務部長、福井県内務部長、同総務部長を歴任し、1936年(昭和11年)に退官した。
武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 195… 武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 1958年3月29日)は、大正・昭和期の日本の国文学者(上代文学)。万葉集や古事記の研究で業績がある。元國學院大學教授。日本学士院賞受賞。 1886年(明治19年)、東京市日本橋区(現・東京都中央区)で生まれた。幼少期は大阪で育ち、大阪府第五尋常小学校(現 天王寺中学)に入学。同級生に折口信夫・岩橋小弥太・西田直二郎がいた。1908年(明治41年)國學院大學に入学し、三矢重松に師事した。 1913年(大正2年)に國學院大学を卒業。翌年、小田原中学校教諭となった。1916年(大正5年)に退職し、東京帝国大学において、佐佐木信綱の『校本万葉集』編纂に従事する。
有吉 実(ありよし みのる、1886年(明治19年)5月5日… 有吉 実(ありよし みのる、1886年(明治19年)5月5日 - 1968年(昭和43年)6月29日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選宮崎県知事、尼崎市長。 京都府出身。有吉三七の三男として生まれる。第六高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省を経て内務省に入省し徳島県属となる。 以後、徳島県警視、徳島県理事官、長野県理事官、山形県理事官、鳥取県警察部長、三重県警察部長、福岡県書記官・警察部長、宮崎県書記官・内務部長、愛知県書記官・警察部長などを歴任。 1930年(昭和5年)8月、宮崎県知事に就任。
藤田 一郎(ふじた いちろう、1886年〈明治19年〉5月5… 藤田 一郎(ふじた いちろう、1886年〈明治19年〉5月5日 - 1949年〈昭和24年〉9月19日)は、日本の実業家、土木建築請負業、地主。藤田組(現・フジタ)初代社長。広島県多額納税者。東亜木材防腐社長。広島商工会議所顧問。族籍は広島県平民。参議院議長を務めた藤田正明は甥。 広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれた。藤田次助の二男。1900年、高等小学校を卒業。 郷里で百姓のまま埋もれたくなかったため、広島市で請負業をやっていた母方のおじに当たる森信正市の店で小僧として働く。土木建築業の見習いの傍ら夜学に通い、建築や簿記を学ぶ。17歳の時、アメリカへの密航を企てたが、失敗に終わり再び森信方に連れ戻された。
岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年(明治19年)5月3… 岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年(明治19年)5月3日 - 1958年(昭和33年)4月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧尾張藩士・岩松義行の長男として生れる。愛知一中、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業、翌月、陸軍少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 歩兵第61連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部付(支那駐在)、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員、欧州出張、台湾歩兵第1連隊付、台湾歩兵第2連隊長、第5師団参謀長、参謀本部支那課長、参謀本部付(南京駐在)などを経て、1934年3月、陸軍少将に進級する。
大関 善雄(おおぜき よしお、1886年(明治19年)5月3… 大関 善雄(おおぜき よしお、1886年(明治19年)5月3日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。屏東市尹。 福島県若松市善久町(現・会津若松市日新町)に生まれる。1911年(明治44年)東洋協会専門学校を卒業し、1914年(大正3年)4月、府民政部通信局庶務課勤務となる。 ついで通信局府報材料報告主任、文山郡庶務課長、台北市役所秘書係長を経て、1935年(昭和10年)9月、地方理事官に進み、屏東市助役に就任した。翌年の10月、新竹州竹東郡守に転じ、1939年(昭和14年)10月、屏東市尹に就任した。
黒崎 幸吉(くろさき こうきち、1886年(明治19年)5月… 黒崎 幸吉(くろさき こうきち、1886年(明治19年)5月2日 - 1970年(昭和45年)6月6日)は、日本の聖書学者、キリスト教伝道者、元住友本社社員。 書家・黒崎研堂の長男として生まれる。 荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1911年(明治44年)7月に東京帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。帝大在学中に内村鑑三の聖書研究会に加わり入信する。同年8月に住友本社に入社。住友家嗣子の教育掛となり、1915年(大正4年)にこれに随行し渡米留学する。その後、大阪、東京、別子に勤務。1921年(大正10年)の妻の死をきっかけとして、住友製鋼所副支配人を最後に住友を退社。
奥田 茂造(おくだ しげぞう、1886年〈明治19年〉5月2… 奥田 茂造(おくだ しげぞう、1886年〈明治19年〉5月2日 - 1960年〈昭和35年〉9月28日)は、日本の内務官僚。三重県鈴鹿市長。 三重県飯南郡櫛田村(現在の松阪市)出身。1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業。1917年(大正6年)、大蔵属となり、翌年に東京府属に転じた。1920年(大正9年)、高等文官試験に合格。秋田県北秋田郡長、同山本郡長、同事務官、奈良県事務官、福井県事務官を歴任し、1932年(昭和7年)に北海道庁事務官・産業部長に就任した。さらに佐賀県書記官・学務部長、山口県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)より川崎市助役を務めた。 その後、日本屑繊維配給統制株式会社社長、日本機下屑統制株式会社社長を務め、1943年(昭和18年)に初代鈴鹿市長に就任した。
住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)… 住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)5月1日 - 1962年(昭和37年)11月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府出身。住山宗次郎の長男として生まれる。学習院中等科を経て、1906年(明治39年)11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、同専修学生として学び、水上機母艦「若宮丸」分隊長、通報艦「淀」航海長、海兵教官、第三艦隊参謀、東郷平八郎元帥副官などを経て、1919年(大正8年)12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業。以後、巡洋戦艦「鞍馬」航海長、第三艦隊参謀、横須賀海兵団分隊長、戦艦「敷島」航海長、第二艦隊参謀、海軍省人事局第1課局員などを歴任。
森岡 二朗(もりおか じろう、1886年〈明治19年〉5月1… 森岡 二朗(もりおか じろう、1886年〈明治19年〉5月1日 - 1950年〈昭和25年〉12月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、台湾総督府総務長官。 森岡万平の二男として奈良県山辺郡丹波(現:天理市)で生まれる。郡山中学、四高を経て、1911年(明治44年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し内務省に入省。兵庫県警部に任官し警察部保安課に配属された。 1912年(大正元年)10月、兵庫県出石郡長に就任。以後、兵庫県理事官、同県警視、青森県警察部長、神奈川県警察部長、警視庁刑事部長、警視庁官房主事、京都府書記官・内務部長などを歴任。1923年(大正12年)の関東大震災当時は神奈川県警察部長で、大阪府知事、兵庫県知事、千葉県知事、茨城県知事、横須賀鎮守府、横須賀軍港停泊中の艦船および大阪朝日新聞社と大阪毎日新聞社に至急官報で救援を要請した。
山本 犀蔵(やまもと さいぞう、1886年(明治19年)5月… 山本 犀蔵(やまもと さいぞう、1886年(明治19年)5月 - 没年不詳)は、日本の法制官僚、朝鮮総督府官僚。 兵庫県出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、東京府属兼内務属となった。高等文官試験合格後、群馬県事務官、同理事官、同視学官、法制局参事官・内閣恩給局書記官、法制局第一部長を歴任した。1924年(大正13年)、朝鮮総督府事務官に転じ、逓信局長・海員審判所長を務めた。 1933年(昭和8年)に退官した後は、西鮮合同電気株式会社社長、朝鮮送電株式会社取締役、朝鮮放送協会理事などを務めた。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月… 牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月26日 - 1961年(昭和36年)6月1日)は、日本の政治家。 岐阜県大野郡高山町上向町(現・高山市)に旅館主・牧野伊平の三男として生まれた。斐太中学、旧制山口高等学校(旧旧山高)を経て東京帝国大学法科大学に進学し、卒業後、官界・法曹界を経て政界に入った。総選挙に通算12回立候補し、10回当選した。 戦前は立憲政友会に所属した。政友会内にあっては自由主義の立場に立ち、1939年(昭和14年)の政友会の分裂に際しては自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)に所属し、翌1940年(昭和15年)に反軍演説による斎藤隆夫除名問題に際しても同じ政友会正統派所属の芦田均や宮脇長吉らとともに斎藤除名に対し反対票を投じた(反対票は7票のみ)。
平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 194… 平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 1947年2月10日)は、歌人、詩人である。本名は平野久保(ひさやす)。 埼玉県北足立郡大門町(現:さいたま市緑区)の甚三の次男として生まれる。1890年一家が上京し、本郷森川町三二番地に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森於菟を5歳まで預かった。 本郷区立駒本尋常高等小学校(現・文京区立駒本小学校)を経て、当時、錦城、共立、日本中学と並んで、東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学ぶ。同校を1901年卒業の年、新詩社入社、翌年9月一高入学。1905年東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。
岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月… 岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。栃木県塩谷郡長。同理事官を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、平安南道財務部長、殖産局水産課長、同山林課長、総督官房会計課長、専売局製造課長、殖産局商工課長、全羅南道内務部長、慶尚北道内務部長、朝鮮総督府山林部長を歴任。1931年(昭和6年)、忠清南道知事となり、1935年(昭和10年)に慶尚北道知事に転じた。 1936年(昭和11年)に退官した後は日本赤十字社朝鮮本部常務副総長を務め、1939年(昭和14年)に退任。
中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日… 中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の小説家・詩人・随筆家。明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される。 1885年(明治18年)5月22日、東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近)の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・鐘(志やう、しょう、当時37歳)の五男として生まれた。
豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22… 豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22日 - 1957年(昭和32年)9月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。海兵33期・海大甲種15期首席。最後となる第19代軍令部総長を務めた。 1885年(明治18年)5月22日、大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれる。名前の「副武」は「添え物」に由来する。旧制大分県立杵築中学校を経て、1904年(明治35年)12月17日、海軍兵学校第33期に180名中第107位の成績で入校。同期には、「両豊田」の片割れの豊田貞次郎がいるが、和歌山県出身の貞次郎とはこれが初面識であった。1905年(明治38年)11月28日、卒業成績順位171名中第26位で海軍兵学校を卒業。
杉浦 翠子(すぎうら すいこ、1885年(明治18年)5月1… 杉浦 翠子(すぎうら すいこ、1885年(明治18年)5月17日 - 1960年(昭和35年)2月16日)は、明治から昭和にかけての歌人。旧姓は岩崎 翠。 夫は日本のグラフィックデザインの礎を築き多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長となった杉浦非水。洋画家の岩崎勝平は甥。 埼玉県川越(現川越市)に、父・岩崎紀一、母・サダの六人兄弟の三女として生まれた。旧姓は岩崎翠(いわさき みどり)。次兄の福澤桃介は福澤諭吉の娘婿となった大実業家。 翠子が2歳のときに父・紀一と、3歳で母・サダとそれぞれ死別し、祖母・ミキに育てられる。祖母が死去すると次姉・てるの嫁ぎ先である東京・赤坂の出渕豊保に身を寄せ、国語伝習所、女子美術学校(現女子美術大学)を卒業する。
姉歯 松平(あねは しょうへい、1885年(明治18年)5月… 姉歯 松平(あねは しょうへい、1885年(明治18年)5月17日 - 1941年(昭和16年)10月10日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。日本統治下の台湾で活動した。 1885年(明治18年)、宮城県栗原郡長岡村大野(現在の大崎市古川、旧・古川市)に、姉歯五郎左衛門の五男として生まれた。 中学生のとき、学費が払えず中学校を中退し、のちに上京し、弁護士飯田宏作の事務所で写字生として活動した。 1906年(明治39年)6月、中央大学専門科卒業後、1907年、1908年、1909年、1910年の4回にわたって判事検事登用試験を受験したものの 、いずれも失敗し、1911年(明治44年)にようやく合格を果たした。
2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5… 2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5月16日 - 1962年(昭和37年)12月22日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、小樽市長。旧名・真吉。 北海道出身。実業家、初代・宮吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)早稲田大学商科を卒業。 1912年、板谷商船取締役に就任。1924年(大正13年)先代の死去により家督を相続して2代・宮吉を襲名し、板谷商船社長、樺太銀行頭取に就任。その他、板谷生命保険社長、 (株) 十合呉服店会長、北海貯蓄銀行頭取、尾張時計監査役、黒姫汽船 (資) 代表社員、肥料調査委員会委員、北海道拓殖計画調査会委員などを務めた。 1926年(大正15年)北海道多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年6月25日に就任し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(… 安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(1885年)5月16日 - 昭和34年(1959年)5月6日)は、大正から昭和初期にかけての彫刻家。本名は和吉(わきち)。主に象牙彫刻(牙彫)の分野で活動し、萬蔵、萬造、萬象の号を使用した。 明治18年(1885年)、浅草で父・小澤卯之助と母・せんの次男として生まれる。父の死後、3歳で安藤家に養子に入った。 高等小学校卒業後に象牙彫刻を習って独立した。師匠は大谷光利とされ、東京彫工会に所属。明治43年(1910年)、大正10年(1921年)とその翌年には、下谷御徒町(現・台東区西部)に住んでいた。大正12年(1923年)の関東大震災で自宅を焼失したことを機に雑司が谷に転居し、昭和14年(1939年)には板橋区向原に転居した。
野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月1… 野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月15日 - 1973年〈昭和48年〉12月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣にて6日間だけ海軍大臣を務めた。これは戦前の閣僚在任期間の最短記録であった。旧名:仁蔵。 鹿児島県日置郡吉利村(現在の日置市日吉町吉利)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校より海軍兵学校第35期入校。入校成績順位は183名中第125位、卒業成績順位は171名中第43位。 1920年(大正9年)海軍大学校(第18期)を次席で卒業。卒業後は第1潜水隊参謀を務め、1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで大使館付武官としてドイツに駐在し、潜水艦の研究に没頭する。
岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月… 岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月13日 - 1943年(昭和18年)6月4日)は、日本の陸軍法務官。最終階級は陸軍法務中将。軍法の権威として知られた。 1885年(明治18年)5月、高知県幡多郡平田村(現在の宿毛市)に生まれた。海南中学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。 第2師団法官部理事、陸軍法務官近衛師団軍法会議法務官、兼憲兵練習所教官、兼法務部司法事務官、関東軍軍法会議法務官、陸軍法務官、兼陸軍司法事務官、兼陸軍監獄長、朝鮮軍軍法会議法務官、朝鮮軍法務部部長、兼第24師団法務部長、朝鮮衛戍刑務所所長などを歴任。 1942年(昭和17年)4月、陸軍法務少将に昇進し、南方軍法務部長に就任。
長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13… 長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13日 - 1949年(昭和24年)5月5日)は、詩人、小説家、劇作家。 東京出身。獨協中学校卒業後、明治大学にて学ぶ。『明星』の詩人として北原白秋、木下杢太郎らとともに活躍。パンの会、『スバル』にも参加。最初の戯曲「歓楽の鬼」が自由劇場で上演され、以後劇作家として活躍、新劇運動に加わった。1920年(大正9年)には大作「大仏開眼」を発表、以後多くの歌舞伎劇の史劇を書く。1939年築地小劇場が会社組織となるに際して代表取締役。新協劇団(第一次)の代表者にも就任。1936年(昭和11年)には、井上正夫が立ち上げた井上演劇道場にも参加した。 1940年(昭和15年)8月20日、警視庁特高第一課は長田を呼び出し、社会主義思想を基調とした新協劇団を自発的に解散するように強要した。
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路… 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路 實篤、1885年〈明治18年〉5月12日 - 1976年〈昭和51年〉4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。名誉三鷹市民。贈従三位(没時叙位)。 姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと正すことはなかったという。
畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 … 畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 - 1936年(昭和11年)12月19日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部)。 長野県東筑摩郡松本町(現在の松本市)出身。東京帝国大学法科大学政治科選科修了。1913年(大正2年)に中華民国を漫遊した。衆議院議員尾崎行雄の秘書となり、第2次大隈内閣で尾崎が司法大臣に就任すると司法大臣秘書官となり、大礼使典儀官を務めた。1922年(大正11年)から翌年まで欧米諸国を訪問し、政治・経済情勢を視察した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ… 野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、1885年〈明治18年〉5月6日 - 1985年〈昭和60年〉3月30日)は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。夏目漱石の紹介で『縁』を発表して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 フンドーキン醤油の創業家に生まれた。14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。1906年に夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。漱石と直接会うことは少なかったが主に書簡を通じて指導を受け、1907年、漱石の推薦によって『ホトトギス』に『縁』を発表し、作家デビューを果たした。
石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 … 石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 - 1959年(昭和34年)1月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事、警視総監。 山口県都濃郡徳山村(徳山町、徳山市を経て現周南市)出身。石田清次の長男として生まれる。徳山中学、第五高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年12月、内務省に入り新潟県属となる。その後、新潟県理事官、福岡県視学官、東京府学務課長、青森県警察部長、内務省地方局府県課長、栃木県書記官・警察部長、岡山県書記官・内務部長、警視庁官房主事、警視庁保安部長、京都府内務部長などを歴任。 1929年(昭和4年)7月、宮崎県知事に就任。
田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1… 田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1日/9日 - 1955年〈昭和30年〉12月15日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍軍医学校校長を務めた。医学博士。埼玉県坂戸市出身。 1885年(明治18年)5月1日、埼玉県入間郡大家村(現在の坂戸市)に生れる。旧制川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業後、1909年(明治42年)に千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)を卒業し、1910年(明治43年)海軍軍医学校を卒業する。その後、海軍軍医となり、1923年(大正12年)アメリカのシカゴ大学へ留学。帰国後、1926年(大正15年)東京帝国大学より医学博士号を授与される。
上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1… 上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1日 - 1946年〈昭和21年〉4月9日)は、日本の政治家。尼崎市長(官選第2代)。 兵庫県川辺郡立花村大字東難波の大地主の家に生まれる。父は1883年(明治16年)から1903年まで県会議員を務めた上村文三郎(立憲改進党)。 明治大学(旧制大学)法学部卒業、大阪新報(のちに都新聞と合併)記者や立花村会、尼崎市会、兵庫県会の議員を経て、1922年(大正11年)6月23日、尼崎市長に就任。全国で最年少市長だった。1928年(昭和3年)1月22日まで務めた。 任期中に、尼崎市への県立中学校(旧制)設置の要望が高まったため、1916年(大正5年)に県に陳情したが財政難を理由に拒否されたため、上村が中心となり市立で中学校を建設する市民運動を始めた。
神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月… 神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月 - 1969年〈昭和44年〉2月27日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、実業家。官選鳥取県知事。 山口県出身。神田柳助の長男として生まれる。第六高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。朝鮮総督府に入府し内務部試補となる。 以後、朝鮮総督府事務官、同書記官、長崎県理事官、陸軍省航空局書記官、関東庁内務局長、大連民政署長などを歴任。 1930年8月26日、鳥取県知事に就任。県財政の健全化のため緊縮政策を推進した。1931年12月18日、知事を休職。1932年1月29日、依願免本官となり退官した。
杉野 繁(すぎの しげる、1885年(明治18年)5月 - … 杉野 繁(すぎの しげる、1885年(明治18年)5月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。弁護士。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。鹿児島県属、同警視、同理事官、岡山県理事官、同視学官を経て、1919年(大正8年)に福井県警察部長・港務部長、1921年(大正10年)に三重県警察部長、1923年(大正12年)に群馬県内務部長、1924年(大正13年)に栃木県内務部長を務めた。 退官後は、神戸市助役、同電気局長を務めた。1942年(昭和17年)からは関西配電株式会社理事・神戸支店長に就任した。
三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961… 三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961年11月19日)は、日本の経営者。阿波商業銀行(現在の阿波銀行)頭取を務めた。 徳島県出身。1909年に東京帝国大学政治学科を卒業。藤本ビルブローカー証券での勤務を経て、1934年に阿波商業銀行常務、1940年に専務、1948年に副頭取を経て、1949年10月には頭取に就任。 1961年11月19日、急性心不全のために在任時に死去。77歳没。
和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27… 和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27日 - 1949年(昭和24年)3月19日)は、宮崎市長。判事。 宮崎県宮崎郡清武町(現在の宮崎市)に吉田格太郎の二男として生まれ、和田重明の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となり、水戸区裁判所判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任した。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官となり、台北地方法院判官、覆審法院判官、高等法院覆審部判官を歴任した。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、法務部民刑課長・監獄課長、法務部長、総督官房文書課長・調査課長、台湾総督秘書官を務めた。
金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月2… 金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 大阪府交野郡倉治村(北河内郡交野村、交野町を経て現交野市倉治)で、金沢楢松の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、同事務官、熊本県理事官、長崎県理事官、愛媛県警察部長、群馬県警察部長、沖縄県内務部長、岐阜県内務部長、長崎県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。
跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日… 跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日 - 1953年〈昭和28年〉10月22日)は、東京府(現・東京都)出身の洋画家。浦和画家のひとり。 日本画家で跡見女学校(現・跡見学園女子大学)創設者の跡見花蹊の甥にあたる。東京美術学校卒業後は黒田清輝の指導を受ける。文展、帝展、日展と官展に出品し、無鑑査から委嘱へと次第に重きをなしていった。関東大震災後、浦和町(1934年に浦和市、現さいたま市浦和区)に移住し、浦和画家の一人として名を連ねる。高田誠を指導した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月2… 岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月20日 - 1963年(昭和38年)5月1日)は、大正、昭和期の実業家、企業経営者。岡崎財閥の創業者で、神戸財界の雄と呼ばれた岡崎藤吉の婿養子。佐賀県出身。慶應義塾大学部理財科卒業。 岡崎財閥の創業者岡崎藤吉には男子がいなかったため、岡崎藤吉の兄である石丸忠英の息子・石丸忠雄を婿養子に迎えた。これが後の岡崎忠雄である。忠雄は大学卒業後、養父岡崎藤吉が設立した岡崎汽船で海運業に従事したが、一方で1913年(大正2年)7月、神戸財界の有力者によって内外ゴムが創業された際、出資者の一人として名を連ね、更には1917年(大正6年)5月、養父が神戸岡崎銀行を設立した際は、常務に就任するなど、若いうちから後継者として育てられた。
藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)… 藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)5月19日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 長崎県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部となり、府中警察署長、太平警察署長、原庭警察署長を務めた。その後、関東都督府(のち関東庁)に転じ、警視、警務局衛生課長、奉天警察署長、警察講習所教官、旅順民政署長を歴任した。1929年(昭和4年)、退官。
小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5… 小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5月18日 - 1962年〈昭和37年〉3月30日)は、日本の剣道家。段位称号は範士十段。 愛知県丹羽郡岩倉村(現・岩倉市)に生まれる。名古屋へ出て北辰一刀流 加藤貫一(加藤七左衛門の養父)に入門。 愛知県警察部に勧誘されたが、小川は警察官になる気はなく、一旦断った。「制服は着なくてもよい、試験だけは形式的に受けろ」と説得され、1903年(明治36年)、愛知県警察部に奉職。京都の大日本武徳会出張修行を命じられ、3年半修行した。 愛知県巡査教習所剣道教師を経て、1914年(大正3年)に内藤高治の要請で武道専門学校助手に就任。 1919年(大正8年)、道場「弘道館」を開く。
宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5… 宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5月18日 - 1963年(昭和38年)5月8日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員、茨城県会議長、茨城県那珂郡那珂湊町長、初代那珂湊市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。幼名・長松。 茨城県那珂郡湊村牛久保(湊町牛久保、那珂湊町、那珂湊市を経て現ひたちなか市牛久保)で、漁業家・宮原卯之松の長男として生まれる。湊尋常高等小学校を卒業。横須賀海兵団に入団し日露戦争に従軍して除隊した。 1908年(明治41年)12月に家業を継承した。漁業の全般の改良に務め、1920年(大正9年)2月、茨城製網常務取締役に就任。その他、湊漁業組合長、湊水難救済会長、那珂郡水産会長、茨城県漁業組合連合会長、同漁船保険組合長、同水産業会長、同信用漁業協同組合連合会長、水戸魚市場取締役、日本油脂販売監査役、宮庄漁業社長などを務めた。
江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1… 江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1938年4月7日)は、日本の外交官。 福井県三方郡三方町横渡、江戸勘四郎家の長男として出生。 1904年(明治37年)3月、旧制小浜中学校卒業、明治40年度に早稲田大学高等師範部歴史地理科を卒業し、さらにその翌年に東京帝国大学選科(国史)を卒業し、旧制志布志中学校、旧制水戸中学校に教諭として勤務する。 1918年(大正7年)、外交官補試験に合格、外務省入省。1919年(大正8年)領事館補。1925年(大正14年)より領事として青島、漢口(中国)、リバプール(イギリス)、バンクーバー(カナダ)等に勤務。1931年(昭和6年)より外務省文化事業部第二課長、第一課長兼文部書記官歴任。