釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月2… 釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月25日 - 1949年(昭和24年)6月23日)は、衆議院議員(立憲民政党)、福島市長。 福島県双葉郡幾世橋村(現在の浪江町)出身。浪江郵便局で通信事務員として働いた後、早稲田大学高等予科で学んだ。福島新聞社で記者、主筆を務めた後、福島民友新聞社副社長を経て、1936年(昭和11年)に福島新聞社社長に就任した。 また福島県会議員に4度選出され、1931年(昭和6年)からは議長を2度務めた。1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。 1945年(昭和20年)から2年間福島市長を務めた。戦後、公職追放となり、追放中の1949年(昭和24年)に死去した。
濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5… 濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5月24日 - 1952年〈昭和27年〉3月2日)は、日本の海軍軍人。美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。 岡山県出身。旧制岡山尋常中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1902年(明治35年)12月海軍兵学校(30期)を席次15番で卒業。同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる。海軍大学校乙種学生及び専修学生を修了し航海科専攻士官となり、「新高」、「利根」、「富士」の航海長を務めた。海軍大学校甲種学生(12期)を修了。 第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、南洋群島の占領作戦に従事した。
瀬川 嘉助(せかわ かすけ、1880年(明治13年)5月24… 瀬川 嘉助(せかわ かすけ、1880年(明治13年)5月24日 - 1942年(昭和17年)2月6日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岩手県東和賀郡黒沢尻村(黒沢尻町、和賀郡黒沢尻町を経て現北上市)で、瀬川理三郎の二男として生まれ、瀬川トクの養子となる。1900年(明治33年)家督を相続し帯鋸製作業を営む。 中外時計専務取締役、築地電軌監査役、名古屋証券交換所取締役、甲陽土地取締役、芝園工作所取締役、名古屋市白鳥線土地区画整理組合長、名古屋薬学専門学校(のち名古屋薬科大学)常任理事などを務め、愛知県時計同業組合長となった。 政界では、愛知県会議員、同参事会員、都市計画愛知地方委員会委員、名古屋市会議員、同市財政調査会委員などを務めた。
甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、188… 甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、1880年(明治13年)5月21日 - 1938年(昭和13年)6月25日)は、日本の発明家、実業家。高砂香料工業の創業者。 京都の士族・甲斐荘正秀の長男。京都府師範学校附属小学校、京都府立一中、第三高等学校を経て、京都帝国大学理工科大学純正化学科を卒業した。1906年に久原躬弦の下で助教授に任命された。しかし、応用化学、特に香料工業に関心があったことから休職し、1910年に欧州に私費留学した。欧州では、フランスのグラースに下宿し、製造職工や調合見習いを行い、スイスのジボダンで合成香料の開発と調合を研修し、1913年末に帰国した。 帰国後は、丸見屋(後のミツワ石鹸)に勤めるが、合成香料工業が苦境に陥り、1919年7月に退職した。
三宅 恒方(みやけ つねかた、1880年5月21日 - 19… 三宅 恒方(みやけ つねかた、1880年5月21日 - 1921年2月2日)は、日本の昆虫学者、理学博士。
伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5… 伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5月18日 - 1941年(昭和16年)1月)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家・実業家・歌人。
田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1880年(明治13年)5… 田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1880年(明治13年)5月18日 - 1947年(昭和22年)2月1日)は、大正、昭和と全国の高等女学校で採用される楽曲、現在でも歌い継がれている童謡唱歌、多くの校歌を作曲など、兵庫県を代表する作曲家。 養父郡大蔵村(現:朝来市)の雑貨商「やまとや」の長男として生まれ、大蔵小学校高等科を卒業後、同小学校の教員などをしていたが、後に退職して1902年(明治35年)、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)師範科へ入学した。 音楽学校を卒業した1905年(明治38年)に音楽教員として兵庫県立神戸高等女学校(現:神戸高校)に着任し、その後33年勤務した。当時、神戸高等女学校は開校4年目の学校(現在の兵庫県庁1号館の場所にあった)であり、田中は生徒への指導はもちろん、音楽教育や社会音楽の向上も常々考えていたが、生徒たちにとって発表の場となり、一般市民に音楽に親しんでもらえる場にもなる発表会を企画した。
沢本 与一(さわもと よいち、1880年(明治13年)5月1… 沢本 与一(さわもと よいち、1880年(明治13年)5月17日 - 1935年(昭和10年)1月16日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)出身。早稲田大学政治経済科を卒業し、新潟新聞や大阪新報の主筆を務めた。その後、久原鉱業株式会社で秘書役や北京事務所所長を務めた。 加藤高明内閣・第1次若槻内閣で江木翼司法大臣の秘書官を務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で当選。その後、第17回・第18回の総選挙でも当選した。第2次若槻内閣では江木鉄道大臣の秘書官を、齋藤内閣では外務参与官を務めた。1933年(昭和8年)から翌年まで東京市助役。
工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月1… 工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月16日 – 1950年(昭和25年)12月17日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 弘前市出身。東京帝国大学法科大学独法科を中退後、時事新報の記者となった。東洋拓殖株式会社嘱託を経て、郷里で陸奥日報社や弘前新聞社の経営にあたった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。6期連続当選を果たした。その間、平沼内閣で鉄道政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。 その他、石川島飛行機製作所顧問を務めた。
作間 耕逸(さくま こういつ、1880年(明治13年)5月1… 作間 耕逸(さくま こういつ、1880年(明治13年)5月15日 - 1951年(昭和26年)1月2日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、貴族院勅選議員、弁護士。 山口県吉敷郡秋穂二島村(現在の山口市)に音羽清逸の三男として生まれ、作間家の養子となった。東京郵便電信学校を卒業し、大阪逓信局に勤務した。在職中に関西大学法律科に入学し、1902年(明治35年)に卒業した。その後長崎逓信局で外国郵便課係長、監理課係長を務め、1906年(明治39年)に退職した。同年、上京して日本大学高等専攻科に入学し、弁護士試験に合格した。 1914年(大正3年)、東京市会議員に当選し、参事会員にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
兼田 秀雄(かねだ ひでお、1880年(明治13年)5月15… 兼田 秀雄(かねだ ひでお、1880年(明治13年)5月15日 - 1937年(昭和12年)11月22日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲政友会→昭和会)。 青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)出身。早稲田大学政治科を卒業後、渡欧した。帰国後、中央新聞政治部記者、東京朝日新聞政治部記者、政治部長を務めた。その後、南満州鉄道に転じ、川村竹治社長のもと、秘書役・参事を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、岡田内閣で鉄道参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加した。
持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)… 持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)5月8日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。持永房種の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。 1907年(明治40年)12月、歩兵中尉に昇進し、1913年(大正2年)7月、兵科を憲兵科へ転科し憲兵中尉となる。1914年(大正3年)4月、憲兵大尉、1920年(大正9年)8月、憲兵少佐に進み東京憲兵分隊長に就任。1922年(大正11年)8月、弘前憲兵隊長に就任。
茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年… 茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年9月2日、旧姓:増田)は、大阪市出身の歌人である。夫はドイツ文学者・詩人の茅野蕭々。本名、まさ。 1880年、大阪市道修町の「増田順血湯」本舗で知られた薬種問屋の次女として生まれる。相愛高等女学校中途退学。1900年与謝野鉄幹が主宰する「新詩社」に加入、「明星」へ投稿。1904年上京して日本女子大学に入学。1905年、与謝野晶子、山川登美子と3人で歌集「恋衣」を刊行(増田雅子名義)、明星派3才媛として雅子の名を世に広めた。晶子が「しら萩」、登美子が「しら百合」と呼ばれたのに対し、雅子は「しら梅の君」という愛称で呼ばれた。鉄幹には「明星」の清怨派と評された。
磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5… 磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5月5日 - 1947年(昭和22年)10月25日、本名は磯田 孫三郎)は日本画家。歴史画に長じ、後半生は現在の船橋市に住んで多くの作品を残した。 東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町に生まれ、当時の姓は「内田」。1889年(明治22年)に磯田家へ養子に入った。 若くして日本画(大和絵)を学び、当初は狩野派の芝永章につき、のちに土佐派の流れを汲む小堀鞆音に師事。1898年(明治31年)、鞆音同門の安田靫彦や小山栄達らと紫紅会を結成し、1900年(明治33年)に同会へ松本楓湖門下の今村紫紅が加わったことで紅児会に改称した後も同会に所属し、主に歴史画について研鑽を積んだ。
丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2… 丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1955年〈昭和30年〉8月16日) は、ジャーナリスト・政治評論家。 号・侃堂。 長野県埴科郡清野村(現長野市)の農家に生まれる。1901年東京専門学校(現・早稲田大学)邦語科行政科卒業、日本新聞に入社、翌年青森新聞主筆となり、日露戦争中に日本新聞に復帰し従軍記者となる。1906年京城日報編集長を務め、1909年大阪朝日新聞社入社。「天声人語」を執筆。のちニューヨーク特派員、通信部長を歴任。1918年には白虹事件のため、長谷川如是閑らとともに退社。 1928年大阪毎日新聞社に入社し、コラム「硯滴」を担当。まもなく東京日日新聞に移り、1953年まで短評論「余録」を担当。
大石 スク(おおいし スク、1880年〈明治13年〉5月2日… 大石 スク(おおいし スク、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1925年〈大正14年〉5月12日)は、日本の社会事業家。北海道札幌市で初めての保育所である札幌保育園(2018年〈平成30年〉に認定こども園に移行して「さっぽろこども園」と改称)の設立者。北海道の保育事業のさきがけとされる。 1880年(明治13年)、岩手県八幡村(後の花巻市)に誕生した。北海道岩内へ移転後、岩手県盛岡出身の男性と結婚し、3女1男の子宝に恵まれたが、結婚から10年後の1908年(明治41年)に、夫が35歳の若さで病死した。 スクは4人の子供の教育環境や生活環境を整えるため、1916年(大正5年)、当時繁栄していた土地として、倶知安町へ移転した。
高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日… 高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日 - 1927年(昭和2年)7月5日)は、日本の社会事業家、児童福祉研究家。 熊本の八代に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後キリスト教徒となる。在学中に児童保護を中心に社会問題について専攻、研究した。卒業後に東京養育院(現在の東京都長寿健康医療センター)付巣鴨分院の主任を務め、1912年(明治45年)に社会問題を学ぶために渡米した。 翌年帰国後は内務省に勤務し、1918年(大正7年)に退職するまで国立感化院(現在の国立武蔵野学院)の創設に携わり、東洋大学の教授として日本で初の社会事業講座を開講した。退職後は関東地方のみならず関西地方でも社会事業の養成、研究に携わり、大阪の石井記念愛染園が経営する社会事業の研究を行った。
三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、187… 三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、1879年(明治12年)5月28日 - 1937年(昭和12年)3月27日)は、日本の法学者。専門はドイツ法、民法。東京帝国大学法学部教授などを務めた。 1879年(明治12年)5月28日、東京湯島に生まれる。獨逸学協会中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独逸法兼修に入学、1905年(明治38年)7月に卒業した。 東京帝国大学卒業の前から早稲田大学講師としてドイツ語を教え、卒業後の1907年(明治40年)には早稲田大学の派遣でドイツ、イタリアに留学し、民法や法理学を学んだ。1909年(明治42年)に帰国、早稲田大学教授に就任。この時期には複数のドイツ語文法書を出版している。
木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月… 木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月27日 - 昭和22年(1947年)11月1日)は、日本の裁判官、検察官、政治家。検事総長、司法大臣、貴族院議員。 熊本県出身。東秀則の二男として生まれ、木村成苗の養子となる。中学済々黌、第五高等学校を経て、1906年7月、京都帝国大学法科大学を卒業。司法官試補となり奈良地方裁判所詰となる。 1908年4月、検事に任官し東京地方裁判所予備検事に着任。以後、岡崎区裁判所検事、千葉地方裁判所検事を歴任し、1911年4月に退職。翌月、ドイツに留学し、チュービンゲン大学、ミュンヘン大学で学んだ。 1914年に帰国し、同年4月、東京地裁判事に復帰した。
2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879… 2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879年〈明治12年〉5月27日 - 1961年〈昭和36年〉10月21日)は、日本の商人(呉服商)、青森県多額納税者、政治家(貴族院多額納税者議員)、実業家、銀行家。青森銀行頭取。津軽鉄道顧問。「布嘉」佐々木家3代目。 青森県北津軽郡五所川原村(五所川原町を経て現五所川原市)に生まれる。佐々木眞平の長男。初代・佐々木嘉太郎の孫。早逝した2代目の跡を継ぐ。呉服商を営む。1915年(大正4年)、五所川原町会議員に当選。 1918年(大正7年)には青森銀行頭取を兼ねて佐々木銀行を設立した。呉服屋稼業から金融業へと「布嘉」の看板を掛けかえた。ほか、陸奥鉄道社長、津軽鉄道取締役などを歴任した。
木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月2… 木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月26日 - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。 島根県出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1908年(明治41年)、外交官及領事官試験・高等文官試験に合格し、外交官補となった。外務省参事官、ベルギー公使館三等書記官、フランス大使館二等書記官を務めた。1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員随員を務め、帰国後は亜細亜局の課長となった。ワシントン会議でも全権委員随員を務め、1923年(大正12年)からアメリカ合衆国大使館一等書記官、同参事官を歴任した。1925年(大正14年)より亜細亜局長となり、1927年(昭和2年)に駐チェコスロバキア公使に転じた。
竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月… 竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月24日 - 没年不明)は、日本の医師。竈門眼科医院院長。有田郡医師会評議員、健保査定委員。族籍は和歌山県平民。 和歌山県出身。湯浅町湯浅在籍。1905年(明治38年)8月、岡山医学専門学校(のちの岡山大学医学部)を卒業後、同年香川県高松市市立病院勤務。1906年(明治39年)、神戸市山本眼科病院勤務。なお、勤務中に船医としてハワイ(布哇)移民局トラホーム検査の情態視察に赴き、同地に四か月滞在した。 1907年(明治40年)、和歌山市木下眼科医院に勤務し、同年竈門眼科医院を開業。 趣味は書画と魚釣り。
勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日… 勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日 - 1957年(昭和32年)11月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、逓信大臣。 福岡県出身。元小倉藩士・勝平八郎の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。塩務局属兼大蔵属となり横浜塩務局兼理財局国債課勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1906年(明治39年)12月、税務監督局事務官・大阪税務監督局勤務となり、以後、税務行政を担当する。1907年(明治40年)5月、松江税務監督局長に就任。さらに、兼松江塩務局長、長崎税務監督局長、鹿児島税務監督局長、長野税務監督局長、税務監督官・東京税務監督局、函館税関長、仙台税務監督局長、大蔵書記官・主税局国税課長、兼大蔵省参事官、東京税務監督局長、海外駐箚財務官(米国駐在)、兼米国大使館付などを歴任。
石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18… 石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18日 - 1938年(昭和13年)12月11日)は日本の生理学者、医学博士。 兵庫県伊丹出身。1901年(明治34年)東京帝国大学医科大学卒。当初、内科医を目指すものの中耳炎のため聴診・打診に支障をきたしたため生理学に転向する。卒業後、欧州留学(マールブルク、ウィーン)を命ぜられ、留学中に京都帝国大学福岡医科大学助教授に任官される。1906年9月同大学教授に就任する。 1911年(明治44年)に日本で初めて心電図を記録するなど心臓の自働性の研究(心臓前房の電流曲線の研究)に業績を上げ、この分野において石原は世界的権威として知られた。コイやフナの血清学的研究などで知られた。
浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月… 浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月18日 - 1958年(昭和33年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。旧姓・笹森。 青森県弘前で笹森要蔵の五男として生まれ、陸軍大将・男爵浅田信興の養子となり、1927年(昭和2年)6月1日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)11月21日陸軍士官学校(11期)を卒業後、1900年(明治33年)6月22日に歩兵少尉に任官。日露戦争に従軍し、陸軍大学校(22期、1910年11月卒業)に学び、1929年(昭和4年)8月1日に陸軍中将に至った。その間、近衛歩兵第2旅団副官、近衛歩兵第3連隊中隊長、参謀本部部員、陸軍歩兵学校研究部部員、歩兵第57連隊大隊長、教育総監部部員、陸軍大学校教官、歩兵第7連隊長、第11師団参謀長、歩兵第33旅団長、近衛師団司令部附、東京湾要塞司令官などを歴任した。
古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5… 古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5月16日 - 1954年(昭和29年)9月6日)は、日本の郷土史家。長崎学の基礎を築いた人物として知られる。 黒田藩長崎屋敷の御用達「万屋」の12代目として生まれる。1895年、長崎市立商業学校を首席卒業。在学中、菅沼貞風『大日本商業史』と呉秀三『シーボルト』を読み、長崎の歴史に興味を持つ。1901年、高商附属外国語学校英語学科(現在の東京外国語大学)を卒業する。東京外国語学校の同級生に永井荷風(中退)がいた。 広島で3年間ほど英語教師を務めた後、長崎に帰郷して家業を継ぐ。1912年に『長崎批評』を創刊し、1913年に第1期長崎史談会を設立するなど、長崎研究を本格化させる。
岡 今朝雄(おか けさお、1879年〈明治12年〉5月15日… 岡 今朝雄(おか けさお、1879年〈明治12年〉5月15日 - 1941年〈昭和16年〉10月15日)は、日本の官僚。会計検査院長。 佐賀県出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。税務属・大蔵属、税務監督局事務官・塩務局事務官、検査官補、副検査官、朝鮮総督府事務官、同営林廠長を歴任。1921年(大正10年)より検査官となり、1924年(大正13年)からは会計検査院部長を務めた。1938年(昭和13年)、会計検査院長に就任した。1941年(昭和16年)10月15日、幽門狭窄症で療養中に東京府東京市大森区雪ヶ谷町(現東京都大田区)の自宅で死去、62歳。
近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年(明治12年)5月… 近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年(明治12年)5月13日) - 1965年(昭和40年)10月17日)は、愛知県碧海郡鷲塚村(現・碧南市)出身の医師(医学博士)。 1879年(明治12年)5月13日、近藤坦平の三男として生まれた。1903年(明治36年)、義兄である近藤次繁の妹としと結婚した。兄ふたりと弟(坦平の長男・二男・四男)は幼くして病没しており、三男である乾郎が近藤家の家督を継いでいる。 1904年(明治37年)に大阪高等医学校(現・大阪大学医学部)を卒業し、京都帝国大学医化学教室などで研究活動を行った後、1908年(明治41年)からドイツとオーストリアのウィーン大学に留学した。
上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - … 上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - 1940年5月8日)は日本の経営学者、経済学者。経営学という概念を命名・提唱した。1937年、帝国学士院会員。1932年、勲二等瑞宝章。1940年、正三位勲二等旭日重光章。 上田家は祖父の代まで町人であったが、父上田章が漢学をやったために、士族に引き上げられた。 旧制正則中学校(現正則高等学校)を経て、1902年に高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒、同年福田徳三に師事。卒業後イギリスやドイツ等に留学し、アシュレーやシドニー・ウェッブ夫妻等の下で学ぶ。1919年、法学博士。1925年、如水会常務理事。 1902年、高等商業学校嘱託講師となり、1905年に同教授。
村瀬 武男(むらせ たけお、1879年(明治12年)5月11… 村瀬 武男(むらせ たけお、1879年(明治12年)5月11日 - 1959年(昭和34年)2月3日)は、愛媛県出身の政治家。衆議院議員、愛媛県会議長などを務めた。
高光 大船(たかみつ だいせん、1879年5月11日 - 1… 高光 大船(たかみつ だいせん、1879年5月11日 - 1951年9月15日)は、浄土真宗の僧侶。 石川県石川郡北間(現金沢市)の富豪高木家に生まれ、檀那寺の真宗大谷派専称寺に養子として入りのち住職。1908年真宗大学卒。七尾市で刑務所の教戒師を務め、清沢満之に師事。1916年藤原鉄乗、暁烏敏と並んで「加賀の三羽烏」と呼ばれ、一緒に金沢に愚禿社を設立し、雑誌『氾濫』を刊行。1926年から自坊で講習会を定期的に開いた。
重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年(明治12年)… 重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年(明治12年)5月10日 - 1971年(昭和46年)1月16日)は、日本の海軍軍人。井出謙治らに続き、潜水艦の拡充に尽力した海軍中将である。なお"重岡信次郎"とする資料もある。 愛媛県出身。松山中学から1898年(明治31年)海軍兵学校に29期として入校。留年し1902年(明治35年)30期として卒業した。兵学校の卒業成績が昇進に大きく影響した海軍で、席次が187名中156番の重岡は中将まで昇進した。 尉官時代は「磐手」、「比叡」、「厳島」、「韓崎丸」乗組等を経て第一潜水艇隊付、同艇長心得、同艇長、第二潜水艇隊艇長と実務経験を重ね、以後もほぼ一貫して潜水艦畑を歩む。
松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月… 松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月8日 - 1904年(明治37年)7月23日)は、詩人、評論家。本名・悟、別名・暗濤蒼浪庵。最初の 「君が代」批判論者として知られる。西川文子の前夫。 1879年(明治12年)、熊本県八代郡高田村(現・八代市平山新町)にて松岡喜三(蔵)の五男(9人兄弟の末子)として生まれる。本名は悟(さとる)。同志社尋常中学校ついで同志社高等学部を卒業し、早稲田大学に入学。北村透谷、田中正造、安部磯雄らの影響を受け、詩や評論を雑誌「社会主義」に発表した。貧困問題、足尾銅山鉱毒事件などに強い関心を持ち、社会主義運動の先駆けとして活動する。1904年(明治37年)、25歳で結核により没した。
永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日… 永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日 - 1955年4月4日)は、大正から昭和前期の新聞記者、教育者、翻訳家。朝日新聞社外報部長。号は朴公。 1879年(明治12年)生まれ。島根県出身。弟の永井瓢斎(本名、栄蔵)も新聞記者、俳人である。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 若い頃に、松江の中学校で英語教師を務めるが、この時の生徒に文部省の国定教科書「サクラ読本」の生みの親である井上赳がいる。 1912年(明治45年)、外務大臣官房報告課嘱託となり、翻訳に務めた。 1914年(大正3年)、東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)に入社し、外報部に所属する。論説班員も兼務し、1924年(大正13年)朝日新聞社外報部長に就任した。
吉田 清風(よしだ きよかぜ、1879年(明治12年)5月7… 吉田 清風(よしだ きよかぜ、1879年(明治12年)5月7日 - 1937年(昭和12年)11月27日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府で外交官・吉田清成の長男として生まれる。父の死去に伴い、1891年8月20日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を修了。1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。
吉野 小一郎(よしの こいちろう、1879年(明治12年)5… 吉野 小一郎(よしの こいちろう、1879年(明治12年)5月1日 - 1948年(昭和23年)6月20日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。神奈川県津久井郡吉野町長。 吉野十郎の長男として神奈川県津久井郡吉野駅(吉野町、藤野町、相模原市を経て現同市緑区吉野)に生まれ、1900年(明治33年)12月、家督を相続する。学習院から第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、台湾銀行に入行。同行秘書課勤務・助役補を務めた。 1931年(昭和6年)奉天にて事業を興し、満州中央銀行の創立に関わり、奥地開発や日満経済の連携に尽くした。また、醸造酒販売会社を設立し日本酒の中国進出を行った。
西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉… 西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉5月26日 - 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、日本の医学者、内科医。学位は医学博士(1914年・文部大臣)。日本学士院会員、慶應義塾大学名誉教授。内閣恩給局顧問医。 1878年山形県南置賜郡南原村(現・米沢市)に生まれる。山形県立米沢中学校興譲館を経て、第四高等学校から東京帝国大学医科大学に入学。1903年に卒業し、翌年同大学理学科教室助手になる。1909年から山形市立病院済生館に勤務し内科部長から館長になる。1913年山口県立病院長に就任、次いで日本赤十字山口支部病院長になる。1920年慶應義塾大学教授になる。1944年同大学医学部長兼病院長に就任、1946年同大学名誉教授になる。
徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月2… 徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月26日 - 1951年(昭和26年)10月5日)は、日本の実業家、相場師。徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)社長、日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。 山梨県出身。旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会入社。入社後頭角を現し、3年後に支配人就任。徳田商会創業者の徳田孝平の婿養子となり、ロンドンに3年間留学。その後ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学ぶ。 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任。
今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月2… 今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月25日 - 1951年(昭和26年)6月30日)は、衆議院議員、弁護士。法学博士。 愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ。今井角次の二男。1897年に愛媛県立松山中学校を、1900年に第一高等学校を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。さらに同大学院で国際法を専攻。修了後、東京地方裁判所判事に任命された。1908年、清の招聘で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した。 1914年、帰国して判事を退官し、大阪で弁護士の業務に就く。同年12月24日に法学博士の学位を授与された。1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した。
川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月… 川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。愛媛県生まれ。 1878年(明治11年)5月25日、愛媛県士族の川島右一の長男として生まれる。 松山市外側尋常小学校、愛媛県尋常中学校を経て、1898年(明治31年)、陸軍士官学校(10期)卒業。1908年(明治41年)、陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。 二・二六事件後、予備役に編入。終戦直後の1945年(昭和20年)9月8日、死去。
黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25… 黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25日 - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の小説家、記者。本名は直道。滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)生まれ。 1878年(明治11年)6月2日、滋賀県甲賀郡水口町に生まれる。上京した後、東京専門学校(現:早稲田大学)にて学び、同郷出身で近江国水口藩の藩医の出であった巖谷小波に師事。 小波と共に1885年(明治18年)に発足した文学同人結社の硯友社で活動し、日本初の純文芸雑誌である『我楽多文庫』に参加、執筆する。 1895年(明治28年)創刊で小波が編集していた、博文館発行の児童文学誌『少年世界』やそれに続くシリーズに参加、多くの児童文学作品を発表する。
戸沢 民十郎(とざわ たみじゅうろう、1878年〈明治11年… 戸沢 民十郎(とざわ たみじゅうろう、1878年〈明治11年〉5月20日 – 1952年〈昭和27年〉9月23日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、司法参与官。弁護士。 香川県小豆郡安田村(現在の小豆島町)生まれ。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高松市で弁護士事務所を開業した。1914年(大正3年)、高松市会議員に当選。1918年(大正7年)、香川県会議員に当選した。その後、東京市で弁護士事務所を開いた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回連続当選を果たした。その間、第2次若槻内閣で司法参与官を務めた。 また南満洲太興合名会社の理事となり、同社の子会社の天図鉄道公司の総弁に就任した。
広瀬 徳蔵(廣瀬 德藏、ひろせ とくぞう、1878年(明治1… 広瀬 徳蔵(廣瀬 德藏、ひろせ とくぞう、1878年(明治11年)5月19日 - 1933年(昭和8年)5月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(大阪府第三区選出、当選4回)。 大阪市出身。広瀬種蔵の長男。関西法律学校(現在の関西大学)出身。判検事登用試験・弁護士試験に合格し、判事に任命された。辞職して弁護士を開業した。白川静を事務所に雇い入れていたことがある。その後、大阪市会議員、大阪府会議員・議長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。憲政会、立憲民政党に所属。一方で、宝塚尼崎電気鉄道株式会社の取締役、城北土地株式会社・東神火災保険会社・大阪土地建物株式会社・境川運河株式会社の監査役を務めた。
渡辺 与七(わたなべ よしち、1878年(明治11年)5月1… 渡辺 与七(わたなべ よしち、1878年(明治11年)5月19日 - 1945年(昭和20年)4月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 宮崎県那珂郡、のちの南那珂郡油津町(現日南市)で生まれた。1902年(明治35年)東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻科卒。日露戦争に参加し、陸軍一等計手となる。その後、酒造業を営み、油津町(現・日南市)議、南那珂郡会議員、宮崎県議、同副議長、同議長、営業税調査委員となる。ほか油津漁業組合長、南那珂郡酒造組合長、県及び郡水産会長、帝国水産会評議員、油津信用組合長、県信用組合連合会理事、県酒造組合連合会長、酒造組合中央会評議員、日南水産、油津製氷冷蔵各(株)取締役社長などを歴任する。
松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1… 松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1934年7月22日)は、日本の作家、新聞記者。 都市風俗、特にアンダーグランドの探訪を得意とし、『淪落の女』『銀座』などを著した。神戸事件の滝善三郎は祖母の弟。 岡山県真庭市(真庭郡落合町)生まれ。名は市郎。15歳で母親を亡くす。 学歴は小学校4年修業であるが、生来、文才があり、1900年、大阪新報をふりだしに、大阪朝日新聞、上京して国民新聞、東京朝日新聞、毎夕新聞、都新聞、二六新聞、中央新聞などで27年間の新聞記者生活をすごした。一方、35歳(1912年)のとき、浅草区千束町の私娼窟(いわゆる十二階下)をテーマにした『淪落の女』を著し、その叙情的名文で読者を酔わせた。
松本 真平(眞平、まつもと しんぺい、1878年(明治11年… 松本 真平(眞平、まつもと しんぺい、1878年(明治11年)5月12日 - 1971年(昭和46年)5月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、熊谷市名誉市民。 埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で、米穀商・4代目松本平蔵の長男として生まれる。高等小学校卒業後、1891年に開京英語学校に入学したが病のため帰郷し、埼玉英和学校(現:埼玉県立不動岡高等学校)で学び、1900年、東京高等商業学校を卒業。 大倉商業学校教諭となり、1901年、尾張屋銀行に入行し、明治義会中学校の英語教師を兼務。1903年、実業界に進むことを決意して帰郷した。 1914年、松本米穀会社を設立して、父が社長に真平が専務に就任。
参木 録郎(みつぎ ろくろう、1878年(明治11年)5月1… 参木 録郎(みつぎ ろくろう、1878年(明治11年)5月10日 - 1935年(昭和10年)1月1日)は日本の実業家。東京瓦斯常務、京浜コークス社長。 栃木県上都賀郡南摩村(現鹿沼市)に参木彦次の四男として生まれる。1897年(明治30年)3月宇都宮中学卒業、同年9月第一高等学校第二部(工科)入学、学生時代はボート競技に勤しんでいた。1900年(明治33年)7月卒業、同年9月東京帝国大学工学部応用化学科入学、1903年(明治36年)6月卒業、級中首位岡本桜に次ぐ成績優秀で銀時計恩賜。同大学院にも学ぶ。 兵庫県神戸市の直木燐寸に入社、1904年(明治37年)陸軍省傘下の王子火薬製造所に奉職、1905年(明治38年)退職、同年4月に自費でドイツ留学、ベルリン大学とドレスデン工科大学で最新の応用化学を学び、研究や実地調査を重ね、1910年(明治43年)帰国、同年5月東京瓦斯と競合となる千代田瓦斯を設立、その後、同社の技術長だった岡本桜の勧めで東京瓦斯入社。
中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日… 中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日 - 1951年(昭和26年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、山口市長。弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1898年(明治31年)に裁判所書記登用試験に合格し、裁判所書記となった。1903年(明治36年)に弁護士試験に合格して弁護士となり、後には山口弁護士会会長に選出された。山口町会議員、山口県会議員、同議長を歴任。 1933年(昭和8年)、山口市長に選出された。その後、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、山口土地建物株式会社監査役を務めた。
佐々木 隆興(ささき たかおき、1878年(明治11年)5月… 佐々木 隆興(ささき たかおき、1878年(明治11年)5月5日 - 1966年(昭和41年)10月31日)は、日本の医学者。専門は、生化学、内科学、実験腫瘍学。学士院恩賜賞(二回)受賞。文化勲章受章。 生前、1935年・1936年・1939年・1941年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 東京生まれ。蘭方医・佐々木東洋の養嗣子である佐々木政吉の養嗣子、獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)卒業後、東京帝国大学卒。ドイツに留学し、ストラスブルク大学生化学ホーフマイステル教授、ベルリン大学化学フィッシャー教授、ベルリン伝染病研究所、ベルリン病理学研究所細菌血清学モルゲンロート博士、ベルリン大学内科ヒス、フリードマン教授らに学ぶ。
黒崎 真也(くろさき しんや、1878年(明治11年)5月5… 黒崎 真也(くろさき しんや、1878年(明治11年)5月5日 -1959年(昭和34年)3月26日)は、日本の内務官僚。民政党系府県知事。 山形県南置賜郡米沢花沢信濃町生まれ。旧米沢藩士・五十嵐力助の二男として生まれ、叔父・黒崎忠助の養子となる。姉の久子は海軍中将上泉徳弥の妻。 第二高等学校を経て、1905年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官補、奈良県事務官、大分県事務官・警察部長などを歴任。1913年、関東都督府に転じ、事務官、民政部庶務課長などを務める。1920年3月に退官し大連取引所長となる。