榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(187… 榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(1870年5月24日) - 昭和4年(1929年)3月19日)は、日本の医学者である。医学博士、文学博士。 明治3年(1870年)4月24日、駿河国駿東郡沼津(現静岡県沼津市)生まれ。父は蘭学者の榊令輔。長兄・榊俶(はじめ)、次兄・榊順次郎、ともに医学者、医学博士である。明治32年(1899年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、明治35年(1902年)、助教授となり、明治36年(1903年)から明治39年(1906年)、文部省留学生として英米独仏の精神病理学を研究した。明治38年(1905年)イタリア・ローマで開催された万国心理学会に日本政府代表として出席し、同学会部長となった。
久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年… 久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1950年(昭和25年)5月10日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 豊前中津藩領下毛郡上宮永村(豊田村、中津町を経て現中津市)に生まれる。生家は平凡な農家で、青年期は種物売りや荷馬などで稼いだ。近衛歩兵連隊に入隊し、日清戦争に従軍。帰朝後の1897年(明治30年)1月、福岡県田川郡弓削田村(後藤寺町を経て現田川市)に赴き、田川採炭に入社するが程なくして退職する。他にも採炭会社を転々としたが長く続かず、自ら石炭商を開業。ついで日露戦争に従軍し、帰朝後に採炭業を始めた。
菅沢 重雄(菅澤、すがさわ しげお、1870年5月20日(明… 菅沢 重雄(菅澤、すがさわ しげお、1870年5月20日(明治3年4月20日) - 1956年(昭和31年)1月7日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。千葉県香取郡久賀村長。 千葉県香取郡、のちの久賀村(現多古町)出身。菅原惣兵衛の長男として生まれ、1893年(明治26年)家督を相続する。農業を営む。 1896年(明治29年)以降、千葉県会議員、香取郡会議員、千葉県山林会、大日本山林会各評議員、久賀村長、郡所得税調査委員、郡宅地価修正委員長のほか、東京成徳高等女学校、東京商業女学校各校長、多古銀行、佐原興業銀行各頭取、日本畜産商事、渋谷急行電鉄、松戸畜産各社長を歴任した。
西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3… 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都帝国大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 加賀国河北郡森村(現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。
鎌田 三郎兵衛(かまた さぶろうべえ、1870年5月18日(… 鎌田 三郎兵衛(かまた さぶろうべえ、1870年5月18日(明治3年4月18日) - 1934年(昭和9年)10月20日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家。衆議院議員。旧名は悦蔵。 先代鎌田三郎兵衛の長男として、但馬国養父郡口大屋村(現・養父市大屋町)に生まれる。1899年(明治32年)8月、襲名し家督を相続する。1894年(明治27年)東京法学院を卒業する。 農業を営む傍ら、口大屋村会議員、同村長、養父郡会議員、兵庫県会議員を歴任する。ほか、養父郡畜産組合長、同農会長、大屋銀行頭取、五十五銀行・西谷銀行各取締役を務めた。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で兵庫県第13区から無所属で出馬して当選し、1期務めた。
高木 藤太郎(たかぎ とうたろう、1870年5月16日〈明治… 高木 藤太郎(たかぎ とうたろう、1870年5月16日〈明治3年4月16日〉 - 1945年〈昭和20年〉3月4日)は、日本の地主・家主、資産家。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)出身。野口米次郎の兄。高木益喜の養子となる。1893年、慶應義塾別科を卒業する。地家主で、貸地貸家業を営む。 商業人であったが、和歌、和文、書道が堪能だった。宗教は真宗。趣味は和歌、漢詩。住所は東京市日本橋区大伝馬塩町・同区本町4丁目、京橋区京橋1丁目・同区大鋸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
近藤 寿市郎(こんどう じゅいちろう、1870年5月15日(… 近藤 寿市郎(こんどう じゅいちろう、1870年5月15日(明治3年4月15日) - 1960年(昭和35年)4月14日)は、愛知県渥美郡高松村(現・田原市)出身の政治家。愛知県東三河地域を日本有数の農業生産地に変えた豊川用水の構想発案者として知られる。渥美郡会議員、愛知県会議員、衆議院議員、豊橋市第12代市長、建設会社の東海興業初代社長。 1870年(明治3年)、愛知県渥美郡高松村(現・田原市高松町)で、庄屋を務めていた家の長男として生まれた。 小学校の高等科卒業後、15歳の時に「これからの国民は法律をわきまえなければならない」と考えて、家族に告げることなく父の友人を頼って東京に上り、明治法律学校へ入校した。
嘉納 徳三郎(かのう とくさぶろう、明治3年4月12日(18… 嘉納 徳三郎(かのう とくさぶろう、明治3年4月12日(1870年5月12日) - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 兵庫県出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵属、主税官、税務監督官、青森税務管理局長、松山税務管理局長、神戸税関監視部長、長崎税関長、横浜税関長を歴任。1916年(大正5年)に大蔵省専売局長官に就任した。 1918年(大正7年)6月7日に退官した後、同年同月21日、錦鶏間祗候になると同時に朝鮮銀行副総裁に就任した。1923年(大正12年)に朝鮮銀行を退職した後は、財団法人講道館理事を務めた。
松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870… 松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870年5月10日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は、静岡県出身のジャーナリスト、政治家、教育者、思想家。文学博士、衆議院議員。 妻は旧土佐藩士・岡内重俊の娘「壽(ひさ)」。 遠江国小笠郡中内田村(現:静岡県菊川市)の初代村長・松本丑太郎の二男として中内田村213番地に生まれる。幼名は貞次郎。母は木佐森茂助の三女「幸(こう)」。長じて岡田淡山の私塾・冀北学舎で国学・漢学・英語を3年間学んだ後、東京に遊学した。 1887年(明治20年)8月31日、名を「君平」と改める。 1890年(明治23年)9月11日、兄・栄太郎が廃嫡し、同月17日、静岡県佐野郡西郷村の松浦五平治の養子となって家を出た為、君平が惣領息子となる。
衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4… 衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4月9日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家。大分県農工銀行頭取等を歴任した。 1870年(明治3年)、大分県速見郡北由布村(現・由布市)に溝口家の四男として誕生。1891年(明治24年)に衞藤家に養子に入る。1913年(大正2年)、大分県農工銀行に入り、1922年(大正11年)に常務取締役、1926年(大正15年)には頭取を歴任した。また、佐伯土地、大分証券、豊後土地、大分電気工業の取締役も兼任している。さらに、公職としては、大分県農事講習所長、大分市会議員、大分県会議員を務めた。 この間、1925年(大正14年)に大湯線(現在の久大本線)の湯平駅 - 北由布駅(現在の由布院駅)間が開通したが、その際に由布院盆地内を大きくカーブして北由布駅を通る現ルートの実現に力を尽くし、後の由布院発展の礎となった。
足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日… 足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和22年(1947年)11月15日)は日本の実業家。日本徴兵保険社長(1936-1941)。教育者足立正の弟。 鳥取県上道村(現在の境港市上道町)に足立国五郎の次男として生まれる。父・国五郎は村の助役、収入役、村会議員等を歴任した人物。 旧制鳥取県尋常中学校(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、明治25年(1892年)慶應義塾大学部文学科を卒業し時事新報社に入社。主として翻訳小説を同紙上に掲載する。後政治部に転じ、専ら外交、政治方面に活動し伊藤博文、陸奥宗光等の知遇を得た。日清戦争では大本営付き主任記者となり、後政治部長に栄進、明治34年(1901年)編集長となる。
常盤 大定(ときわ だいじょう、1870年5月8日〈明治3年… 常盤 大定(ときわ だいじょう、1870年5月8日〈明治3年4月8日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月5日)は、仏教研究者、浄土真宗大谷派の僧。号は「榴邱」。 1870年、磐城国伊具郡大張村(現宮城県伊具郡丸森町)で常盤大宣の二男として生まれた。生家は順忍寺。15歳の時に仙台新寺小路の道仁寺に入り、伯父・常盤了然の養子となった。小学校の卒業を待たず東京に出て、大谷教校に入学。大谷教校では漢籍中心であったため、共立学校で併せて英語を学んだ。1889年、第一高等中学に進学。 1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。当時、井上哲次郎、元良勇次郎らが教官を務めていたが、最も影響を受けたのは一高時代から徳風会を通じて知っていた村上専精であったという。
久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月… 久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡上名手村(現在の和歌山県紀の川市)の三井家に生まれ、久下純菴の養子となった。英仏学舎、大阪英学舎に学ぶ。1893年(明治26年)、読売新聞社の記者となった。1897年(明治30年)、和歌山新報社に入り、主筆、社長を歴任した。1899年(明治32年)より和歌山県会議員を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年… 二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年4月7日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。福島県福島市長。 二宮直躬の長男として、のちの福島市柳町に生まれる。福島小学校に入学し、途中教育改革を経て、1884年(明治17年)福島高等小学校高等科を卒業。上京し、私立大学予備学校に入り、1887年(明治20年)5月、獨逸学協会学校に入学した。同普通科を卒業し、1890年(明治23年)9月、専修科に入学し、政治経済学を学び、1893年(明治26年)7月に卒業した。同年12月、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊第7中隊に入り、1894年(明治27年)日清戦争が勃発すると同年12月に臨時召集を受け、翌年8月に陸軍歩兵少尉に進み、12月に召集解除となった。
野沢 悌吾(野澤 悌吾、のざわ ていご、1870年5月6日〈… 野沢 悌吾(野澤 悌吾、のざわ ていご、1870年5月6日〈明治3年4月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉8月5日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県平民・野澤瀧右衛門の長男として生まれ、1901年(明治34年)2月に家督を相続した。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1904年(明治37年)3月、袁世凱に招聘され清に渡る。1910年(明治43年)11月に陸軍歩兵大佐・歩兵第30連隊長、1912年(大正元年)11月に第2師団参謀長を経て、1916年(大正5年)4月に陸軍少将・歩兵第14旅団長に任官。
川口 木七郎(かわぐち きしちろう、1870年5月5日(明治… 川口 木七郎(かわぐち きしちろう、1870年5月5日(明治3年4月5日)- 1937年(昭和12年)10月17日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 播磨国飾西郡書写村(兵庫県飾西郡曽左村、飾磨郡曽左村を経て現姫路市)で、大地主で代々里正を務めた醤油醸造業、川口家先代当主・川口木七郎、つた の長男として生れ、1881年(明治14年)8月、家督を相続し木七郎を襲名した。漢学を修め、のち神戸で外国人教師から英語、フランス語を学んだ。 家業の醤油醸造業を営み、山陽醤油社長、神戸信託取締役、姫路三十八銀行取締役、姫路銀行取締役、飾磨銀行取締役、神栄生糸取締役、飾磨郡素麺製造販売組合長などを務めた。
安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治… 安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1944年(昭和19年)2月13日)は日本の実業家。東洋拓殖総裁、三井合名会社理事。 1870年(明治3年)4月4日、京都府南桑田郡篠村(現・亀岡市)に生まれる。第三高等学校に入学するも、大阪商業学校(大阪市立天王寺商業高等学校および大阪市立大学の前身)に転じ、1890年(明治23年)に卒業する。卒業後、三井物産に入社し、天津支店長、満洲営業部長、大連支店長を経て、1914年(大正3年)に本店営業部長となる。1918年(大正7年)に取締役、同年さらに南条金雄、武村貞一郎とともに常務取締役となり、1924年(大正13年)に筆頭常務に就任する。
降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5… 降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5月2日) - 昭和12年(1937年)10月11日)は、日本の電気工学者。工学博士(1907年)。旧姓は増田。 信濃国小県郡泉田村(現長野県上田市)生まれ。明治27年(1894年)旧制第一高等中学校卒業、東京帝国大学電気工学科に進学し、明治31年(1898年)7月に卒業。逓信省鉄道作業局に就職するがすぐに退職し、明治32年から同35年にかけて故郷長野県において松本・諏訪・上田の電灯敷設に従事した。明治36年(1903年)から3年間文部省留学生として欧米に派遣され、スイスのチューリッヒ大学のウェーバー教授主宰の電気研究所で約1年間蓄電池に関する研究を行った。
湯地 幸平(ゆち こうへい、1870年5月2日(明治3年4月… 湯地 幸平(ゆち こうへい、1870年5月2日(明治3年4月2日)- 1931年(昭和6年)8月10日)は、日本の文部・内務官僚、政治家。福井県知事、貴族院議員。 日向国出身。湯地貞吉の長男として生まれる。東京師範学校、日本法律学校を経て、1902年、明治法律学校を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。文部省に入り普通学務局属となる。 以後、茨城県視学官、同県第二部長、鹿児島県事務官・第四部長、福岡県事務官、三重県内務部長、警視庁警視、同官房主事、愛知県内務部長などを歴任。 1915年12月、台湾総督府警視総長に就任。1919年4月、福井県知事に転じ、敦賀港改修計画を推進した。1921年5月、内務省警保局長に就任。
濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4… 濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4月1日〉- 1931年〈昭和6年〉8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。 大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁(初代)などを歴任した。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。大日本帝国憲法下で、衆議院から総理大臣となった3人のうちの1人である。 1870年5月1日(明治3年4月1日)、土佐国長岡郡池村唐谷(のちの五台山村を経て現:高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。 1889年(明治22年)、高知県安芸郡田野村(現:田野町)の素封家・濱口義立の16歳の長女・夏と結婚し、濱口家の養嗣子となる。
戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5… 戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5月30日) - 昭和4年(1929年)1月14日)は、日本の教育者。戸板学園の創立者。 1869年(明治2年)、仙台藩士で漢学者の戸板善内の一人娘として仙台北5番町で生まれた。生まれた年に父を亡くし、母の手で育てられた。 仙台の松操女学校で学び、18歳で小学校教員となった。自らの知識を磨くために上京し、横浜のフェリス女学校に入学する一方、フェリス女学校、東洋英和女学校、東京女学館で裁縫教師を務めた。1893年、鳥居坂教会の武田芳三郎牧師と結婚し家庭に入るが、教育への情熱から夫と離れて戸板姓に戻った。後に芳三郎と和解し、芳三郎が戸板家に入ることとなった。
東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月2… 東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月25日) - 昭和14年(1939年)9月3日)は日本の政治家、出版事業家。従四位勲二等。所属政党は立憲政友会。別名、東牧堂(あずま ぼくどう)。 大和国十津川(現・奈良県吉野郡十津川村)に東義次の長男として生まれる。東家は旧十津川郷士であった。郷校文武館(現・奈良県立十津川高等学校)を経て東京法学院(現・中央大学法学部)に在学中、1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、十津川村の住民を指導して北海道新十津川村(現在の新十津川町)への移民事業に挺身。1891年(明治24年)、自らも北海道に移住して開拓事業を推進した。森源三、五十嵐久助とともに菊亭農場の管理人となり、農場解体後は土地の譲受者となった。
中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2… 中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2年4月14日) - 1939年(昭和14年)12月27日)は、日本の歴史家。 独学で地史研究・文筆力を養い滋賀県内各郡志の編纂に携わる。 中川泉三は、1869年(明治2年)4月14日に近江国坂田郡大野木村(現滋賀県米原市大野木)で宮川藩士中川洸平次の長男として生まれた。12歳の時に父が死去し、母の手一つで育てられ、母からは常に「友に劣るな、寡婦の子とそしりを受けるな。」と叱咤激励された。小学高等科卒業後、家業の農業に従事する傍ら、独学で学問を修め母校の代用教員まで務めた。 特に漢詩文に興味を持ち小野湖山・土屋鳳州らから添削指導を受けた。
桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年… 桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年4月13日) - 没年不明)は、明治時代後期から大正時代の朝鮮総督府官僚。文部官僚。咸鏡北道長官。忠清南道長官(知事)。 桑原苞の長男として岐阜県に生まれ、1875年(明治8年)7月に家督を相続する。1893年(明治26年)東京帝国大学法科大学を卒業する。群馬県属、文部省属、宮城、岩手両県への出張、香川県属を経て、秘書官として朝鮮総督府に出仕。咸鏡北道長官を務めたのち、忠清南道長官(のち知事)に転じた。1921年(大正10年)9月25日、退官した。
大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年… 大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年4月12日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、「大和花」醸造元、広島県酒造組合賀茂郡支部長、広島県多額納税者、政治家(広島県賀茂郡西志和村長)、名望家。 広島県賀茂郡西志和村(現東広島市)に生まれた。大山源之助の長男。1897年、家督を相続した。酒造業を営んだ。 1909年、村会議員に当選。1921年8月より1933年5月まで3期にわたり西志和村長在職。村長退職に際し村より影徳碑を建設された。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 大山家は醤油醸造業を営んでいたが、正樹の父・源之助は明治初年に酒造業にあらため「大和花」と命名し斯業を経営した。
金子 元三郎(かねこ もとさぶろう、1869年5月19日(明… 金子 元三郎(かねこ もとさぶろう、1869年5月19日(明治2年4月8日)- 1952年(昭和27年)4月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(立憲同志会)、貴族院多額納税者議員、初代小樽区長。 越後国三島郡寺泊町(現・新潟県長岡市)で資産家の家に生まれる。幼少時に北海道松前の富豪、先代・金子元三郎の養嗣子となり、その後、養父と共に小樽に移る。 東京に遊学し、頭山満、井上角五郎らと交わる。1891年(明治24年)中江兆民を迎えて『北門新報』を創刊し、自由民権を唱道した。1900年(明治33年)1月、小樽区の初代区長に就任し、道路、水道、港湾、学校施設の整備を推進した。1902年(明治35年)8月、石川県出身で元代議士の遠藤秀景に誘われ第7回衆議院議員総選挙に金沢市選挙区から出馬したが落選。
西郷 市之助(さいごう いちのすけ、1869年5月15日(明… 西郷 市之助(さいごう いちのすけ、1869年5月15日(明治2年4月4日)- 1944年7月17日)は、長崎県南高来郡西郷村(のち瑞穂村→瑞穂町、現・雲仙市)出身で伊勢ノ海部屋に所属した明治時代の元大相撲力士。本名は森崎 常太郎。年寄3代陸奥。175cm、100kg前後。 伊勢ノ海部屋に入門し、1894年5月序ノ口。1895年1月序二段、1896年5月三段目、1897年5月幕下と順調に昇進し、その後病気により一時低迷するが、1901年5月新十両。連続15場所十両を務め、十両筆頭まで進むも入幕はならず、1909年1月幕下に陥落し引退。年寄陸奥となる。 立派な体格で、力量もあり、鳳凰などの薫陶を受けたが、小心のため土俵で不覚をとることが多く、幕内に昇進できなかった。
清野 長太郎(せいの ちょうたろう、1869年5月12日(明… 清野 長太郎(せいの ちょうたろう、1869年5月12日(明治2年4月1日) - 1926年9月15日)は、日本の内務官僚。憲政会系官選県知事、復興局長官。 香川県高松出身。高松藩士・清野彦三郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1895年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。富山県参事官、神奈川県参事官、内務省地方局町村課長などを歴任。 1906年1月、秋田県知事に就任。同年11月、南満州鉄道理事に転じた。1916年4月、兵庫県知事に発令され、1919年4月まで在任。在任中の1918年(大正7年)8月には、神戸市内で米騒動(1918年米騒動)が激化。
吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日(明治2年… 吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日(明治2年3月27日) - 1930年(昭和5年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。 1869年(明治2年)5月、肥後国(現・熊本県宇城市小川地区)に、肥後藩士の長男として生まれる。済々黌卒業。1891年(明治24年)海軍兵学校18期を卒業し、海軍少尉となる。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍。「富士」回航委員などを経て、1901年(明治34年)海軍大学校2期を卒業。1904年(明治37年)海軍少佐となり、日露戦争では、第2艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦した。1912年(大正元年)大喪儀海軍事務委員、海軍演習審判官となる。
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明… 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉- 1932年〈昭和7年〉2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9・11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。位階は従二位。 帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。 第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。
中村 竹蔵(なかむら たけぞう、明治2年3月25日(1869… 中村 竹蔵(なかむら たけぞう、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 1945年(昭和20年)2月2日)は、日本の検事。 東京府出身。1892年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所判事、函館地方裁判所判事、函館控訴院検事、東京地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、東京控訴院検事、函館地方裁判所検事正を歴任した。1907年(明治40年)、統監府判事に転じ、京城地方裁判所長となり、さらに朝鮮総督府検事となり、京城控訴院検事長、京城覆審法院検事長を経て、1920年(大正9年)に高等法院検事長に就任した。 1945年(昭和20年)2月2日、東京都世田谷区の自宅で死去、75歳。
橋本 卯太郎(はしもと うたろう、明治2年3月25日(186… 橋本 卯太郎(はしもと うたろう、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和13年(1938年)7月7日)は、日本の実業家。大日本麦酒(現・サッポロビール)の常務取締役を務めた。酵母を扱う技師から常務に出世した、明治、大正期における郷土出身の立志伝中の一人である。東京府平民。 厚生大臣、文部大臣などを歴任した橋本龍伍の父。内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎、高知県知事を務めた橋本大二郎の祖父。衆議院議員の橋本岳の曾祖父。 橋本源三郎の長男として岡山県下道郡秦下村(現総社市秦)の旧家に生まれた。 農民だった卯太郎は、わらじをつくって旅費をかせぎ、明治20年(1887年)、20歳のとき「男子一たび郷関を出づ、功ならずんば二度と郷土にまみえず」と意を決し、東京へ出た。
神成文吉(かんなり ぶんきち、1869年5月6日〈明治2年3… 神成文吉(かんなり ぶんきち、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉 - 1902年〈明治35年〉1月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人。八甲田雪中行軍遭難事件において、青森歩兵第5連隊雪中行軍隊の主任中隊長であった人物として知られる。 1869年5月6日(明治2年3月25日)生まれで、久保田藩領の羽後国秋田郡鷹巣村(現・秋田県北秋田市)出身。 陸軍教導団卒業。1894年(明治27年)10月に特務曹長に昇進し、日清戦争に従軍。威海衛で戦闘の後、1895年(明治28年)4月1日陸軍歩兵少尉に昇進。その後、遼東半島守備を経て、1896年(明治29年)4月3日付けで台湾守備歩兵第2連隊付となり台湾へ出征し、1897年(明治30年)9月7日付けで青森歩兵第5連隊へ帰還。
有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月… 有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉- 1954年〈昭和29年〉12月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 筑後国三潴郡久留米城下(現:福岡県久留米市)で、久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、同藩重臣・有馬孝三郎の養嗣子となる。1889年(明治22年)、久留米尋常中学校を卒業し、1892年(明治25年)、帝国大学農科大学実科を卒業。 その後、旧藩主・有馬伯爵家の家令となり、同家の財政の立て直しに尽力した。久留米六十一銀行の頭取を務め、旧久留米藩の士族授産企業・赤松社の活動にも貢献した。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で福岡県久留米選挙区から出馬して当選。
村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年… 村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉 - 1957年〈昭和32年〉11月10日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。 鳥取県西伯郡淀江町(現在の鳥取県米子市)出身。村田晋の長男。父の下に専ら漢学を修め、傍ら小学校に通う。 1883年(明治16年)に上京し、二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ後、獨逸協會學校(現在の獨協大学)を卒業。 神奈川県足柄上郡で役所雇及び小学校授業生をした後、1888年(明治21年)に東京法学院に入学した。1891年(明治24年)には東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1893年(明治26年)、札幌で弁護士事務所を開業し、後には札幌弁護士会長に選出された。
稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(186… 稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民。 弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。 鳥取県米子市久米町出身。稲田喜重郎の二男。家業は酒・醤油醸造業(現・稲田本店)。 明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。 明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。
河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 -… 河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 - 没年不詳)は、日本の教育者・数学者。 富山県出身、第一高等中学校卒業、1894年(明治27年)、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業すると1895年に現・金沢市の第四高等学校教授に就任、やがて四高生の風紀の乱れを嘆く北条時敬校長に応え、1897年(明治33年)頃から「三々会」という修養の集まりに講師として西田幾太郎、堀維孝、三竹鉄五郎らと参加する。主担当の数学を教えるかたわら、1910年(明治43年度)から1916年(大正5年度)のあいだの5年間、物理担当の西英盛(明治5年生まれ)をたすけて大学で専攻した物理学も教えた。 1913年1月と9月(44歳前後)に学術調査のため出張を承認されている。
内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏… 内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏4月5日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。明治文壇を代表する批評家として知られ、旺盛な好奇心と広範な知識は文学を超えて、民族学や文明論的な拡がりを持った。江戸下谷車坂六軒町(現・東京都台東区)生まれ。洋画家内田巌は長男。孫(巌の娘)に翻訳家の内田莉莎子。 旧幕臣の子・貢(幼名・貢太郎)として下谷車坂三軒町に生まれる。父・正には7人の妻がおり、魯庵は最初の妻との子。はじめは政治・実業に関心を持ち、1882年(明治15年)に15歳で築地の立教学校(現立教大学)に入学して英語を学んだほか、東京専門学校(現早稲田大学)英語部などでも英語を学び、東京大学予備門にも入ったが、家が貧しく結局どこも中退し、文部省編輯局翻訳係であった叔父(継母の姉妹の夫)・井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。
鏡 保之助(かがみ やすのすけ、慶応4年4月28日(1868… 鏡 保之助(かがみ やすのすけ、慶応4年4月28日(1868年5月20日) - 昭和6年(1931年)3月29日)は、明治から昭和始めにかけて活躍した農学者。農業教育者、庭園研究家。元姓は中川で人造肥料施用法原理を表した他、庭園研究にも勤しむ。駿河国(現在の静岡県)出身。 1890年(明治23年)、帝国大学農科大学卒業。1890年(明治23年)8月から1896年(明治29年)3月まで母校の静岡県尋常中学校で英語・博物・農業の教員を務める。1897年(明治30年)から農商務省農事試験場技師となる。1905年(明治38年)から1909年(明治42年)まで、京都府立農林専門学校に教諭として赴任し、のち校長を務める。
匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年… 匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年4月26日〉 – 1944年〈昭和19年〉11月9日)は、日本のジャーナリスト・政治家。立憲政友会所属の衆議院議員。 1868年5月18日、美濃国郡上郡八幡(現在の岐阜県郡上市)に於いて郡上藩士匹田重秋の長男として生まれる。1888年(明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業。読売新聞社の記者となった後、1902年(明治35年)に富山日報の主筆に招かれ、1910年(明治43年)からは九州日報の主筆となった。さらに北陸タイムス主筆に転じ、1913年(大正2年)からは岐阜日日新聞社の社長兼主筆を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
土居 通博(どい みちひろ、1868年5月16日(慶応4年4… 土居 通博(どい みちひろ、1868年5月16日(慶応4年4月24日) - 1939年(昭和14年)12月8日)は、岡山県出身の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 美作国(現岡山県)出身。明治法律学校卒業後、実業界に進む。 1897年(明治30年)、土居銀行の創立に関わり、勝間田銀行、久世銀行、武藤銀行、備前加茂銀行等を合併させて、作備銀行を設立。その後、津山銀行を加えて1924年(大正13年)に山陽銀行を設立し、頭取に就任。以降も、阿哲銀行、足守銀行、鞆銀行、丸亀銀行、倉敷大橋銀行など県内外の銀行を合併吸収。1930年(昭和5年)には、第一合同銀行と合併し、中国銀行創立に関与。 津山製糸取締役、中国鉄道取締役などにも就任。
岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年… 岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年4月23日) - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、警視総監、貴族院議員。旧姓・伊丹。 備前国御野郡大安寺村(後の岡山県御津郡大野村を経て現岡山市北区)出身。農業・伊丹喜三郎の長男として生まれ、旧幕臣・岡敬孝の養子となる。岡山中学、成立学舎、大学予備門を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験に合格し、内務省試補となり警保局に配属され、さらに県治局へ異動した。 1893年11月、鳥取県参事官に就任。以後、青森県内務部長、内務書記官・警保局警務課長、大阪府内務部長などを歴任。
阿部 秀逸(あべ しゅういつ、1868年5月15日(明治元年… 阿部 秀逸(あべ しゅういつ、1868年5月15日(明治元年4月23日) - 1935年(昭和10年)4月29日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・小林。 小林庄之助の長男としてのちの宮城県に生まれ、先代阿部たかの養子となり1906年(明治39年)家督を相続する。宮城師範学校を経て、明治法律学校を卒業し、1882年(明治15年)小学校訓導となる。ついで中津山村会議員、桃生郡会議員、仙台米穀取引所理事長、小牛田倉庫社長、宮城商業銀行取締役、仙台平機業監査役、宮城県信用組合理事、石巻製氷社長、石巻共同運輸、石巻運輸造船、東北製凾各取締役、仙台染織製綿監査役などを歴任した。
江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日… 江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日〉 - 1947年〈昭和22年〉3月31日)は静岡県出身の製鉄技術者であり工学博士。室蘭製鉄所の初代所長を務めた。 駿河国駿東郡金岡村にて平民・江藤俊平の五男として生まれる。1887年(明治20年)7月、第一高等中学校の予科第三級へ入学。東京帝国大学工科大学の採鉱冶金科を1895年(明治28年)7月に卒業し、当時国内唯一の近代式製鉄所として稼働していた釜石鉱山田中製鉄所に勤めた。1896年(明治29年)5月に退職すると、同年7月に官営八幡製鉄所の技手に任官、工務部に所属した。翌1897年には研修のためドイツへ留学し、ベルリン大学で2年間研究したのち帰国。
桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(18… 桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(1868年5月10日) - 昭和30年(1955年)7月21日)は、明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)。 肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる。1910年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた。 慶応4年4月18日(1868年5月10日)、代々松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。
武田 貞之助(たけだ ていのすけ、慶応4年4月15日(186… 武田 貞之助(たけだ ていのすけ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 昭和17年(1942年)3月11日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 近江国伊香郡高時村(現在の滋賀県長浜市)出身。1884年(明治17年)に滋賀県師範学校を卒業し、小学校教員を務めていたが、大阪に出て関西法律学校(現在の関西大学)に入学した。1892年(明治25年)に卒業した後、弁護士試験に合格し、大阪に事務所を開いた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後大阪商業学校校主・理事、原田汽船株式会社監査役、虎屋信託株式会社監査役、福井商店監査役などを務めた。
豊島 愿(とよしま げん、慶応4年4月15日(1868年5月… 豊島 愿(とよしま げん、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 没年不詳)は、日本の内務官僚。新潟県長岡市長。 金沢の佐久間家に生まれ、豊島永頼の養子となった。1891年(明治24年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1895年(明治28年)には専修学校(現在の専修大学)を卒業した。1899年(明治32年)に高等文官試験に合格し、青森県視学官、福島県視学官、同事務官、熊本県事務官、佐賀県内務部長、福井県内務部長、岩手県内務部長、岐阜県内務部長を歴任した。 退官後は長岡市長を務めた。
本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(186… 本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(1868年5月7日) - 1938年(昭和13年)7月8日)は戦前日本の歴史学者。山形県立山形中学校長、宮内省臨時帝室編修局御用掛、法政大学、立教大学講師。 明治元年(1868年)4月15日愛知県海部郡津島町に七里長兵衛の次男として生まれた。1886年(明治19年)上京して浅草区小島町に住み、大谷教校に通ったが、同年高等科が京都に移転したため、共立学校に入学した。1889年(明治22年)第一高等中学校、1895年(明治28年)東京帝国大学国史科、1898年(明治31年)帝国大学大学院に進んだ。 1898年(明治31年)本多正開の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続した。
花子(はなこ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - … 花子(はなこ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 昭和20年(1945年)4月2日)は、明治から昭和初期にかけてヨーロッパで活躍した日本人女優、ダンサー。本名、太田ひさ。 1900年代初頭、単身でヨーロッパに渡り舞台女優として活躍し、日本文化の紹介者としての役割を担った。また、彫刻家オーギュスト・ロダンに認められ、モデルとなっている。森鷗外の短編小説『花子』のモデルである。 尾張国中島郡上祖父江村(現・愛知県一宮市上祖父江)出身。2歳の時に親元を離れて名古屋に移り住み、4歳の時に養子に出され、酒井ひさとなる。 家の没落の影響もあり、旅芸人一座に入れられる。その後、1880年に舞子になり、1884年に芸者となる。
尾越 辰雄(おごせ たつお、慶応4年4月14日(1868年5… 尾越 辰雄(おごせ たつお、慶応4年4月14日(1868年5月6日) - 大正12年(1923年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。旧姓・武藤。 肥後国宇土郡宇土(現宇土市)に宇土藩士武藤三兵衛の三男に生まれ、尾越可俊の養子となった。1893年(明治26年)、獨逸協会学校専修科(現在の獨協大学)を卒業し、熊本市で弁護士を開業した。1898年(明治31年)よりドイツのライプツィヒに留学し、1901年(明治34年)に博士号を得た。帰国後は破産管財人、熊本市会議員、同参事会員などを務めた。1906年(明治39年)からは東京市に事務所を開いた。 1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙に出馬し当選。