大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉… 大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉永5年5月7日) - 1911年)は、明治時代の大相撲力士。本名:沼波銀之助。 現在の岐阜県大垣市出身。京都相撲から高砂の門下となり1879年5月に序ノ口。1885年の新聞記事では阿武松和介門弟となっている。その後高砂部屋所属となった。 1884年5月には幕下に昇進したが幕下中位で10年一進一退だった。1891年5月最高位の幕下15枚目。1896年頃からは三段目が定位置となっている。 1893年頃からは3日ほど出場し残り2日を休場しており、若者頭を兼務していたようである。1905年頃からは常に三段目中位から下位に位置しており、若者頭を兼務しているためと思われる(同時期ののちに若者頭となった若梅も同様に三段目中位から下位に記されている)。
川村 清雄(かわむら きよお、嘉永5年4月26日〈1852年… 川村 清雄(かわむら きよお、嘉永5年4月26日〈1852年6月13日〉 - 昭和9年〈1934年〉5月16日)は、明治期の洋画家。幼名は庄五郎、諱は修寛(ながひろ)、通称清兵衛、号に時童。本格的な油彩画技法を学んだ最初期の日本人画家で、明治洋画の先駆者のひとり。近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示した。 江戸麹町表二番町法眼坂上において、御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男・庄五郎として生まれる。川村家は、初期の御庭番の17名の1人・川村新六を祖とし、曽祖父・修富の代から別れた分家であるが、曽祖父・祖父と奉行職を務め御庭番家筋の中でも名門の一つであった。
荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852… 荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852年6月5日〉 - 1903年〈明治36年〉10月11日)は、明治時代の官僚、政治家。内務省などで務め、福井県知事も務めた。 長州藩領の長門国大津郡向津具村(現・山口県長門市)出身。諸官を経て、1892年11月16日に牧野伸顕の後をついで、内務省衛生局長から福井県知事に任ぜられた。荒川は県知事として、濃尾地震の被害による道路などの修復に県から全額支出させた。また、県内の女子の就学を奨励した。1897年4月6日まで務めた。 1898年、内務省県治局長に任ぜられるがまもなく辞任。その後帝国党の組織に尽力した。1903年10月11日に病死し、同日に位を一級進めて正四位に叙される。
宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4… 宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4月15日) - 1893年(明治26年)2月13日)は、日本の刑法学者、政治家。明治法律学校(のちの明治大学)創設者の一人。衆議院議員。 ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子。ボアソナード起草にかかる旧刑法下で、フランスの刑法理論である新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献し、「東洋のオルトラン」と呼ばれた。なお、オルトランはボアソナードの師である。 その後、宮城の刑法理論は、資本主義の発達に伴う累犯の増加に対応できないとして新派刑法理論の立場から批判された[誰によって?]。 民法典論争では、梅謙次郎と共に施行断行派に与したが、その最中腸チフスのため42歳で急死した。
岡見 正美(おかみ まさみ、1852年6月1日(嘉永5年4月… 岡見 正美(おかみ まさみ、1852年6月1日(嘉永5年4月14日) - 1920年(大正9年)11月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 近江彦根藩領犬上郡彦根町(滋賀県犬上郡彦根町を経て現彦根市)出身。士族・岡見安の長男として生まれ、1872年(明治5年)家督を相続する。同年、陸軍歩兵少尉に任じ、台湾守備歩兵第5連隊長、歩兵第17連隊長などを経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進む。1902年(明治35年)11月、陸軍少将に進級と同時に予備役に編入するが、日露戦争の開戦により召集を受け1904年(明治37年)2月、留守歩兵第21旅団長に補され、1906年(明治39年)2月、召集解除となった。
内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4… 内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日)- 1911年(明治44年)1月8日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国婦負郡石坂村(富山県婦負郡石坂村、桜谷村を経て現富山市)で、十村役を務めた内山吉治の息子として生まれた。1864年(元治元年)富山藩の高島流兵式練修を命じられ、さらに仏式兵法を修めた。農業を営む。 1876年(明治9年)石川県越中第11大区戸長に就任。石坂村外11カ村戸長、田刈屋外23カ村戸長を歴任。その他、学務委員、村会議員、町村組合会議員、所得税調査委員、用水組合会議員なども務めた。 1888年(明治21年)富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任。
杉田 定一(すぎた ていいち、1851年6月30日〈嘉永4年… 杉田 定一(すぎた ていいち、1851年6月30日〈嘉永4年6月2日〉- 1929年〈昭和4年〉3月23日)は、日本の政治家。衆議院議長などを務めた。号は鶉山(じゅんざん)。越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市波寄町)出身。 豪農の杉田仙十郎(1820-1893)・隆(りう、-1855)夫妻の長男として生まれる。1868年(明治元年)ごろ大阪に出て外国語や理化学を学び、その後東京の三崎嘯輔の塾でドイツ語・理化学を学んだ。1873年(明治6年)にいったん波寄村にもどり、再び各地を放浪したのち、1875年(明治8年)、東京で『采風新聞』を創刊するが、筆禍事件により収監を経験した(1876年3月禁獄6か月)。
松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年… 松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年6月29日) - 明治45年(1912年)2月18日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。幼名・山平。 熊本藩士、郡吏・松永和吉の二男として山鹿郡中富村に生まれる。明治4年(1871年)、伏見青年学舎を経て伏見教導隊に入る。二等伍長、二等軍曹、権曹長、曹長と昇進し、明治6年(1873年)5月、陸軍少尉に任官し歩兵第19大隊付となる。明治7年(1874年)5月から10月まで台湾出兵に従軍。歩兵第14連隊付、近衛歩兵第2連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学んだ。明治10年(1877年)3月から10月まで西南戦争に出征した。 近衛局参謀、東部監軍部参謀、歩兵第4連隊大隊長、広島鎮台参謀、監軍部参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長、対馬警備隊司令官、広島大本営付等を歴任し、日清戦争には歩兵第2連隊長として出征し、田庄台や営口での戦闘に参加した。
磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5… 磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5月26日) - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の法学者。大審院検事・判事。弁護士。法典調査会委員。衆議院議員。貴族院勅選議員。 娘婿は政治家の磯部尚、孫は歌舞伎役者の二代目坂東市太郎。 花札賭博が大好きで、大審院検事のとき、大審院長や同僚を誘い、柳橋で芸者をあげて遊興三昧のあげく、辞職に追い込まれた。それでも花札は終生止められず、明治天皇にまで教え、いたく興味をもたれたという。 1892年(明治25年)の弄花事件は、前年の大津事件の報復とも、大審院内部の判事対検事の抗争とも言われるが、磯部の免官は、この事件で訴追側の検察内部に疑惑の中心人物がいては不都合だったためとも考えられる。
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。
加藤 正恵(正惠、かとう まさえ、1851年6月21日(嘉永… 加藤 正恵(正惠、かとう まさえ、1851年6月21日(嘉永4年5月22日)- 1931年(昭和6年)2月25日)は、明治から昭和初期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 伊予国新居郡黒島村(愛媛県新居郡多喜浜村を経て現新居浜市)で、地主・加藤清吉の長男として生まれる。 1882年(明治15年)以降、多喜浜村黒島村戸長、多喜浜村郵便局長、多喜浜村会議員などを務めた。 1904年(明治37年)、貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。なお加藤の議員選出に際して、前2回の選挙において互選者の多い新居郡から選ばれていたため、他郡の互選者から不満の声が上がり、小西荘三郎らから要求されて額面4千6百円余の公債証書を互選者団体の愛媛親睦会に寄付することによって当選した。
遠山 品右衛門(とおやま しなえもん、1851年6月17日(… 遠山 品右衛門(とおやま しなえもん、1851年6月17日(嘉永4年5月18日) - 1920年(大正9年)8月28日)は、黒部で猟師をしていた人物。山人(やまうど)。明治期日本アルプスの登山者の案内をしたことで有名。 信濃国安曇郡野口村(現・長野県大町市)生まれ。戸籍上の名前(本名)は遠山里吉。父の名は新三郎、母はりせ。1869年(明治2年)10月、北安曇郡常盤村(現・長野県大町市常盤)の荒井弥吾吉の次女・きさと結婚。 明治維新で加賀藩による奥山廻りが終わり御締山の禁が解かれた頃、20歳頃から山に入り、黒部川畔、黒部川本流と針ノ木谷の合流点に小屋(平の小屋)を建て、ときおり里に下りる猟生活に入る。
内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6… 内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6月14日) - 昭和19年(1944年)11月9日)は、幕末から昭和初期にかけての女性。旧姓は日向(ひなた)。会津藩士・日向左衛門の次女で、旧薩摩藩士・内藤兼備(かねとも)の妻。 会津藩の上士で御旗奉行(後に町奉行)を務めていた父・日向左衛門、母・ちかの次女として会津若松城下に生まれた。 ちかは会津藩士・飯沼粂之進の娘。ちかの姉(ユキの伯母にあたる人物)は藩家老・西郷頼母の妻・千恵子。 元白虎隊士・飯沼貞吉はユキの母方の陸軍軍人・柴五郎は父方のいとこに当たる。 3歳で生母を失い、後に有賀豊之助の妹・秀が左衛門の後妻となる。日向家の近所には、藩砲術師範であった山本権八や、藩大目付であった高木小十郎の家があったことから、彼らの娘である山本八重・高木時尾とは幼馴染であった。
天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851… 天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851年6月9日) - 明治42年(1909年)12月4日)は、明治前期の浄土真宗本願寺派の僧侶・政治家。諡号は即生院。 父の天野若空(文政2年3月13日(1819年4月7日)-明治31年(1898年)3月9日)は浄土真宗の学僧として名高く、美濃国厚見郡岩戸村(北長森村を経て現在の岐阜県岐阜市)にあった善龍寺の住職を務め、没後の明治34年(1901年)には勧学の地位を贈られている。 若円は若空の長男として生まれ、明治13年(1880年)浄土真宗本派大教校普通全科卒業後善龍寺を継ぎ、更に高田教務所管事や本山(西本願寺)の教学課長などを歴任した。
岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5… 岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5月9日) - 1909年(明治42年)7月15日)は、幕末期の肥後熊本藩士、維新後は官吏、各県知事などを歴任した。 熊本城下坪井で、熊本藩士・岩男伝之允の三男として生まれる。藩校時習館で学ぶ。横井小楠の高弟で、幕末期には野々口為志、鵜殿豊之進、横井左平太、横井忠平らと交わり、勝海舟の神戸海軍操練所で航海術を学び、長崎に遊学、熊本藩の洋学所管術となる。 維新後は福澤諭吉に師事して慶應義塾に入学、卒業後の明治3年(1870年)、民部省監督権正となり東北に派遣される。山形県大参事となったが罷免される。明治5年(1872年)、熊本藩主細川護久の弟・長岡護美の従者としてアメリカに留学。
橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永… 橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永3年9月25日)- 1928年(昭和3年)5月30日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・吉田。 越中国礪波郡中田町(富山県東礪波郡中田町を経て現高岡市)で吉田要蔵の二男として生まれる。射水郡、のちの守山村(現:高岡市)の米穀商・砂紋四郎家に住み込みで奉公し、同村の農業・安右衛門の養子となり、文久2年3月(1862年3-4月)家督を相続。1872年(明治5年)橘姓で戸籍の届け出を行った。 米の仲買人として成功して一代で財産を築いた。越中物産取締役、北越人造肥料取締役、高岡銀行取締役、高田共立銀行監査役なども務めた。
岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6… 岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6月28日〉 - 大正3年〈1914年〉9月10日)は、日本の実業家・発明家。 嘉永3年(1850年)5月、美濃国山県郡保戸島村大字戸田16(現在の岐阜県関市戸田267)の庄屋の家に生まれた。 故郷は長良川と今川に挟まれており、古くから水害の多い場所だった。1933年(昭和8年)に保戸島橋が架かるまで、渡し舟を用いないと対岸との行き来ができない土地だった。 岡田は自費で用水の開削と堤防の築造を計画し、1880年(明治13年)8月に両者が竣工した。さらに各務用水の開削にも着手し、1891年(明治24年)5月にはほとんど完成に至ったが、同年10月28日の濃尾地震で水路が崩壊した。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 19… 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保
久保田 貫一(くぼた かんいち、1850年6月26日(嘉永3… 久保田 貫一(くぼた かんいち、1850年6月26日(嘉永3年5月17日)- 1942年(昭和17年)6月13日)は、明治期の官僚。県知事、錦鶏間祗候。 但馬豊岡藩士・久保田周輔の三男として豊岡に生まれる。 1879年、外務省に入り書記生となりロンドンに在勤。以後、農商務省・参事院・内務省などの各書記官、兼内務大臣秘書官などを歴任。 1891年4月、埼玉県知事に就任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行った。このため民党から反発が起こり、同年11月、県会において知事不信任案が可決された。久保田は県会の解散を命じて選挙が行われたが、不信任案に賛同した議員のほとんどが再選され、同年12月に久保田は知事を非職となった。
狩野 揆一郎(かのう / かの きいちろう、1850年6月2… 狩野 揆一郎(かのう / かの きいちろう、1850年6月24日(嘉永3年5月15日)- 1893年(明治26年)3月5日)は、明治期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。名・順、名・天佑、号・尚堂、通称・揆一郎。 下総国印旛郡山田村(千葉県印旛郡山田村、六合村、印旛村を経て現印西市)で、豪農、酒醸造業を営む狩野家に生まれた。佐倉の郷儒・島田から学び、さらに江戸の安井海保に師事して漢学を修めた。 廃藩置県後、印旛県から里正、戸長に任じられ、1873年(明治6年)10月、印旛・南相馬郡学区取締に就任。 1876年(明治9年)内務省に出仕し、図書局、戸籍局で勤務した。1880年(明治13年)千葉県に転じ、庶務、学務を担当。
寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年… 寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年5月9日)- 1917年(大正6年)11月17日)は、明治期の教育者・政治家(立憲政友会所属)。勲四等。 弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館でロシア正教会伝道者ニコライよりロシア語を学び、1869年(明治2年)には慶應義塾で政治学・法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。 その後、教育者として弘前英漢学校英学係、一等教授兼幹事、小学校教員、同校長を務める。また。政治家として土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などを歴任。
大浦 兼武(おおうら かねたけ、1850年6月15日〈嘉永3… 大浦 兼武(おおうら かねたけ、1850年6月15日〈嘉永3年5月6日〉- 1918年〈大正7年〉9月30日)は、明治・大正期の日本の内務官僚、政治家。 島根県知事(第10代)、山口県知事(第4代)、熊本県知事(第4代)、宮城県知事(第6代)、警視総監(第12・14代)、貴族院議員(勅選)、逓信大臣(第14代)、農商務大臣(第22・26代)、内務大臣(第24・27代)、大日本武徳会会長を歴任した。 薩摩藩主島津家の分家である宮之城島津家の家臣の大浦源太夫の長男として宮之城屋地に生まれる。幼名は均。戊辰戦争では19歳で、薩摩藩軍に参加し、奥羽会津城方面に出征。1869年、宮之城町に藩の常備隊が置かれると、二番小隊の小頭に任じられた。
島田 孝之(しまだ たかゆき、嘉永3年5月3日(1850年6… 島田 孝之(しまだ たかゆき、嘉永3年5月3日(1850年6月12日) - 明治40年(1907年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党)、実業家。字は維則、号は克堂・湘洲・鴎東など。 越中国礪波郡島新村(現在の富山県高岡市)出身。明治8年(1875年)に新川県教務監督となるが、翌年に新川県が石川県に吸収されて廃県になると、県令山田秀典の新たな赴任先の青森県に随行し、野辺地警察署長に就任した。明治14年(1881年)に辞任して郷里に帰り、自由民権運動に参加し、北辰社を結成した。翌年、北辰社は他の結社と合同して越中改進党となり、幹事の島田は石川県会議員に選出された。明治16年(1883年)に富山県が置かれると、富山県会議員となり、3期務めた。
岩谷 松平(いわや まつへい、1850年6月 - 1920年… 岩谷 松平(いわや まつへい、1850年6月 - 1920年3月10日)は、薩摩国(鹿児島県)出身の実業家、政治家。岩谷商会会長。別名、岩谷天狗。煙草事業で競合した村井兄弟商会の村井吉兵衛ととも、明治時代の「たばこ王」として知られる。日本の煙草産業の大立者として「たばこの父」と呼ばれるほか、卓越した広告センスを持ち、宣伝広告の在り方や印刷技術の発展にも大きな影響を与えたことから、「近代日本のPRの父」とも呼ばれる。 薩摩国薩摩郡隈之城郷東手村の向田町(現在の薩摩川内市)にて、郷士・岩谷卯之助の二男として生まれる。1858年に母と死別。1863年に父をも失った。両親同じく熱病で長兄も失い、家族を養うために小菓を作って近在を行商して3年ほど糊口を凌いだのち、酒造業と質屋を営む本家・岩谷松兵衛の長女さい子の婿養子となる。
加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(184… 加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(1849年6月21日) - 昭和10年(1935年)6月17日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏、警察官、教育者、銀行家である。号は六石。 若松城下に生まれる。藩が戊辰戦争に敗れたのち、青森中学の助教となる。次いで警察官となり、千葉県警察署長に就任。明治9年(1876年)、同藩出身の永岡久茂らが萩の乱に呼応して挙兵を図り千葉へ向う途中で乱闘となり検挙された(思案橋事件)。これは千葉に加藤ら会津藩出身の警察官がいたため、永岡は加藤らの協力を期待して千葉での挙兵を計画したといわれる。 翌年生起した西南戦争において加藤は抜刀隊小隊長となり歴戦している。
上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(18… 上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(1849年6月20日) - 大正5年(1916年)8月8日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等功一級男爵。あだ名は「船乗り将軍」。
上田 農夫(うえだ のうふ、1848年6月30日(嘉永元年5… 上田 農夫(うえだ のうふ、1848年6月30日(嘉永元年5月30日)- 1895年(明治28年)8月29日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。幼名は馬太郎。 陸奥国岩手郡、のちの岩手県南岩手郡東中野村(現盛岡市)で盛岡藩士・上田長次の二男として生まれる。藩校作人館を経て1872年(明治5年)東京で遊学し、帰郷後の1876年(明治9年)岩手県に奉職する。聴訟課権少属、警部を経て、久慈警察署長、一関警察署長を歴任。1877年(明治10年)の西南戦争では官軍の新撰旅団小警部心得として出征する。自由民権運動に加わり、政治結社・求我社に加わった。1879年(明治12年)には岩手県会議員に当選し、議長を歴任した。
武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元… 武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元年5月25日) - 1917年(大正6年)8月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 周防国都濃郡末武北村(のち山口県都濃郡花岡村、現・下松市)生まれ。長州藩士で農業を営む。漢、英、数、兵学を修め、1868年、陸軍に入り、1874年、大尉に進み、正七位に叙せられる。1877年、徴兵副使となり、西南戦争に参加する。翌年勲五等双光旭日章を授けられる。1881年、軍を退役し、村会議員、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員を務め、防長農工銀行、防長米同業組合各創立委員となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において山口4区から中央交渉会公認で立候補して初当選する。
川越 進(かわごえ すすむ、1848年6月20日(嘉永元年5… 川越 進(かわごえ すすむ、1848年6月20日(嘉永元年5月20日)- 1914年(大正3年)11月16日)は、明治時代の政治家。現在の宮崎県宮崎市生まれ。鹿児島県会議員・同議長、宮崎県会議長を経て、衆議院議員(5期)。宮崎県が鹿児島県に併合されていた時代に宮崎県分県(再置)運動を導き、「宮崎県の父」と称される。 日向国宮崎郡加納に飫肥藩士の川越茂平の子として生まれる。1854年に郷校の明教堂に入った。 1872年に宮崎県加納村戸長となった後、宮崎県訓導、同出仕となるが、1876年に宮崎県は鹿児島県に編入されてしまう。それに伴い、川越は鹿児島県宮崎支庁に出仕する。西南戦争では鹿児島県を依願免官して旧飫肥藩士らとともに薩摩軍に従軍した(飫肥隊)。
上田 忠一郎(うえだ ちゅういちろう、1848年6月18日〈… 上田 忠一郎(うえだ ちゅういちろう、1848年6月18日〈嘉永元年5月18日〉 - 1914年〈大正3年〉7月12日)は、明治時代の神奈川県の政治家。自由民権運動家として活動し、神奈川県会議員、溝口村会議員を務めた。武蔵国橘樹郡溝口村(現在の神奈川県川崎市高津区溝口)出身。 1848年6月18日(嘉永元年5月18日)、武蔵国橘樹郡溝口村(現在の神奈川県川崎市高津区溝口)の醤油醸造業・稲毛屋の6代目安左衛門の次男として生まれる。文化3年(1806年)に醤油の醸造を始めた稲毛屋は、文政年間には醸造場を拡大し、天保年間には500石から800石に、文久年間には900石余りに生産高を増やした。生産した醤油は江戸にも出荷し、幕末期には店での販売量と出荷量が同水準にまでなった。
香川 善治郎(かがわ ぜんじろう、1848年6月14日(嘉永… 香川 善治郎(かがわ ぜんじろう、1848年6月14日(嘉永元年5月14日)- 1921年(大正10年)3月7日)は、日本の剣道家。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。一刀正伝無刀流山岡鉄舟の高弟。 讃岐国豊田郡古川村(現香川県観音寺市)の中農の二男として生まれる。幼少時に母が他界し、父も病弱であったため祖父母に養育される。祖父磯五郎は武術を好み、自宅に道場を備えていた。 15歳で丸亀藩剣術師範の直清流矢野市之進に入門。3年後の1865年(慶応元年)江戸に出て、田宮流島村勇雄の道場に1年間留学。1866年(慶応2年)に帰郷し矢野から直清流目録を授けられる。その年祖父磯五郎が死去。 1870年(明治3年)、赤心報国党に参加し挙兵を企て捕縛される。
伊藤 儀兵衛(いとう ぎへい、1848年6月10日(嘉永元年… 伊藤 儀兵衛(いとう ぎへい、1848年6月10日(嘉永元年5月10日)- 1923年(大正12年)9月20日)は、岩手県花巻市出身の商人、政治家(貴族院議員)。 1848年(嘉永元年)、花巻に生まれる。生家は岩手県下一の豪商・豪農で、屋号は笹屋だった。 1881年(明治14年)8月18日 明治天皇の東北御巡幸の際に自宅を行在所として提供。数百円を投じて御休憩所を新築した。 1889年(明治23年) 四男の儀七(岡山不衣)を岡山直機の養子とする。 1890年(明治23年) 東北本線が盛岡駅まで開通して、花巻駅が開業した。当時、地主たちは鉄道をおそれ、駅の敷地を提供する者がいなかったという。その状況で、花巻地方では花巻川口町の沢藤家と並ぶ豪商の主だった儀兵衛は、進んで現在の駅の敷地を無償で提供した。
工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年… 工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年6月29日〉 - 1916年〈大正5年〉1月11日)は、明治時代の司法官。大審院検事。 工藤勇蔵の長男として陸奥弘前(現青森県弘前市)に生まれる。弘前藩藩校稽古館で学ぶ。1871年(明治4年)司法省に奉職し検事となり、1878年(明治11年)判事に転じる。1880年(明治13年)岩手重罪裁判長兼控訴院評定官となり、1889年(明治22年)宇都宮予審裁判所長、1892年(明治25年)東京地方裁判所検事正、1898年(明治31年)函館控訴院検事長を経て、1903年(明治36年)大審院検事に進んだ。
立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5… 立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5月13日)- 1929年(昭和4年)4月4日)は、明治時代の政治家、養蚕家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。旧姓は小野。 備中国浅口郡船穂村(現・倉敷市船穂町船穂)の豪農・小野市太夫の4男として生まれる。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ。1866年(慶応2年)10月、19歳の時に美作国津山藩領西西条郡二宮村(苫田郡二宮村を経て、現在の津山市二宮)の大庄屋・立石正介の養嗣子となった。父の正介は大橋敬之助(立石孫一郎)とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した。 1878年(明治11年)4月、中島衛らと共に共之社を結成。
小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年… 小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年4月25日)- 1891年(明治24年)5月29日)は、明治時代の漆芸家。本名は繁次郎。 江戸の日本橋に金具師であった小川忠蔵の子として生まれる。1862年(文久2年)に中山胡民の門人となり蒔絵を学んだ。後に池田孤村の門人となり、尾形光琳の画風を学ぶ。この経験を活かし、古作の蒔絵を模造した漆器の制作にあたった。 明治維新後の1870年(明治3年)に独立して、浅草馬道町に転じる。1876年(明治9年)に開催されたフィラデルフィア万博に出品し視察するために渡米した。帰国後は再度蒔絵を使用した漆器の制作にあたり、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会には松民の作品が出品された。
8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろ… 8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろう、1847年6月6日(弘化4年4月23日) - 1917年(大正6年)2月26日)は、明治時代の地主、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。族籍は新潟県平民。幼名は千吉、のち宗輔と称した。第四国立銀行設立者。 越後国蒲原郡天王新田(新潟県北蒲原郡天王新田、天王村、中浦村、福島村、豊浦村、豊浦町を経て現新発田市)出身。1871年(明治4年)以降、新潟県第二十二大区小八区天王新田用掛、同県第二十二大区長、天王村長を歴任する。第四銀行の発起人に名を連ね、1874年(明治7年)初代頭取に就任した。 また、新潟県下第一の大地主であり、1890年(明治23年)には新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
辨開 凧次郎(べんかい たこじろう、1847年(弘化4年)6… 辨開 凧次郎(べんかい たこじろう、1847年(弘化4年)6月 - 1924年(大正13年)10月23日)は、アイヌの家畜商、のちに許可を受けて獣医を兼業した。アイヌ語によるアイヌ名は「エカシバ」。なお、「辨開」を「弁開」と表記することも多い。 のちに二海郡八雲町落部となる地域のコタンに生まれ、20歳で落部コタンのリーダーとなる。当時の獣医にあたる伯楽の活動で周囲から尊敬を受け、薬草の知識もあり、また造園家としても活躍した。 1900年(明治33年)5月、皇太子明宮嘉仁親王の結婚の儀に際し、ヒグマ2頭を献上した。この時のアイヌ正装姿の写真が小学校教科書にアイヌ風俗として掲載された。また、凧次郎は皇室より、紋章付の器具、菓子、巻煙草、酒、手箱、千本松の盆栽32本(「御所の松」)を拝領し、明治天皇・皇后引見の栄誉を受けた。
山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年… 山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年5月15日〉- 1904年〈明治37年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。第5師団長、歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から「戦将中の戦将」と評された。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級子爵。 山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。 明治3年(1870年)9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年(1871年)4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉、中尉、大尉と累進し1873年(明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。
佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化… 佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化3年5月14日)- 1929年(昭和4年)2月5日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。徳清の9代目、貴族院多額納税者議員。幼名は種次郎。 盛岡出身。佐藤徳次郎の長男として生まれる。幼少期に小野組の銭店で丁稚奉公する。1879年(明治12年)10月、祖父清右衛門から家督を相続した。ほか、北上回漕会社、交話会、第九十国立銀行重役などを歴任した。1896年(明治29年)には盛岡銀行の創立に参画し、岩手農工銀行の重役も務めた。 1892年(明治25年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任。
緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5… 緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5月10日〉 - 1925年〈大正14年〉7月23日)は、明治時代の日本の山林官僚。オーストリアで山林学を修めた。次男は医学者の緒方大象、三男はジャーナリスト・国会議員の緒方竹虎、四男は医師の緒方龍。 備中国下道郡矢田村(現・岡山県倉敷市)において郷士であった父妹尾康信の三男として生まれた。 1866年(慶応2年)、摂津国名塩村の蘭医伊藤慎蔵に師事し、次いで伊藤の師である大阪の緒方洪庵について蘭学を学んだ。ここで蘭学者緒方研堂から子弟を託され、研堂の養子となって緒方姓を名乗ることとなる。1872年(明治5年)、緒方は上京し、ドイツ語通訳としてウィーン万国博覧会で日本館を出展する田中芳男、津田仙、佐野常民らに随行してオーストリアに渡航した。
水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年… 水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年5月25日)- 1922年(大正11年)4月11日)は、明治期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・佐藤。 豊前国宇佐郡日足村(大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村(宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰)の婿養子となる。1871年(明治4年7月)家督を相続した。 家業の製塩業を営む。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った。
高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(… 高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(弘化2年5月16日) - 1915年(大正4年)4月28日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・幸治郎。 陸奥仙台藩領栗原郡若柳村(宮城県若柳町を経て現栗原市)に生まれる。1884年(明治17年)若柳村会議員に当選。ついで宮城県会議員、栗原郡会議員、同参事会員のほか、栗原郡岩ヶ崎製糸会社社長、塩釜水産、第八十八銀行各取締役、第七十七銀行監査役などを歴任した。ほか、仙台米穀取引所の設立に関与した。 1900年(明治33年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年… 三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年5月12日) - 1908年(明治41年)8月20日)とは、日本の法曹。初代検事総長、大審院院長を歴任し、退官後は弁護士、貴族院議員を務めた。錦鶏間祗候。 旧暦弘化2年5月(1845年6月)、日向国(現在の宮崎県児湯郡高鍋町)高鍋藩士の家に生まれる。藩校明倫堂で学んだ後、遊学して安井息軒に師事。 明治2年(1869年)に新政府に出仕して高鍋藩の少参事を務めた後、地方官や大蔵省官吏を歴任。この間、大蔵省出仕のまま明治4年7月3日(1871年)、27歳で慶應義塾に入塾した。同塾が芝新銭座(現在の港区浜松町一丁目)から三田に移ったばかりで、同窓には猪飼麻次郎、九鬼隆一、雨山達也、矢野文雄、高嶺秀夫らがいた。
鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日… 鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日 - 大正15年(1926年)1月25日)は江戸時代の武士、明治時代の開拓者。幼名は軍次郎、通称は半蔵。 信濃国佐久郡小諸城下に小諸藩士・神戸安右衛門の次男に生まれ、同藩士の鳥居氏の養子となった。明治3年(1870年)知藩事牧野康済に抜擢され、為政党の幹事となり、藩命により御牧ヶ原の開墾に着手し、21年間のあいだに田畑1500ヘクタール、山林700ヘクタール、農家300戸を数えるほどになり、馬産と植林事業にも尽力した。また明治8年(1875年)からは軽井沢の官有原野100町歩と民有地を買収し、優良馬の牧場経営と大農法による飼料作物栽培を行い、防風のために落葉松林を植樹した。
佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月… 佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月30日〉- 1917年〈大正6年〉7月26日)は、明治から大正にかけて愛知県名古屋市で活動した実業家である。大須旭廓「寿楼(壽樓)」の営業主で、名古屋電灯の取締役や名古屋劇場常務取締役も務めた。 尾張国中島郡大里村(現在の愛知県稲沢市)の出身。弘化元年5月15日(1844年6月30日)、佐治儀右衛門の長男として生まれる。明治2年8月(1869年)に分家した。 佐治は名古屋市大須にあった旭廓(1923年に大須から移転し中村遊廓となる)の「寿楼」の営業主であった。その旭廓では、1892年(明治25年)3月、大須観音境内を火元とする大須大火に巻き込まれ、廓内を焼失するという事件があった。
海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(184… 海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(1844年6月30日) - 大正4年(1915年)10月6日)は、日本の彫金家。幼名・竹次郎。別号は東華斎、芳州。 常陸国・水戸にて、伝右衛門の四男として生まれる。叔父にあたり水戸藩士だった初代・海野美盛に金属彫刻を学ぶ。更に美盛の紹介で、当時水戸彫金界の泰斗だった同藩士・萩谷勝平から金属工芸の諸技術を収めて、基平と名乗った。「勝珉」の名は、師・萩谷勝平の「勝」と江戸時代の名彫金家・横谷宗珉の「珉」を合わせ後に名乗ったものと考えられる。また水戸時代には、安達梅渓に絵を、武庄次郎に漢籍も学び、高い教養も身につけている。 明治初年上京、明治9年(1876年)駒込千駄木町で開業した。
野口 源之助(のぐち げんのすけ、弘化元年5月2日(1844… 野口 源之助(のぐち げんのすけ、弘化元年5月2日(1844年6月17日) - 没年不詳)は明治時代の英語通詞。神奈川県訳官、開拓使御用掛、函館県職員、函館師範学校教諭、東京農林学校教授。ノグチゲラの名前の由来とする説がある。 弘化元年(1844年)5月2日肥前国彼杵郡長崎に小森蓮翁の次男として生まれた。実名は信一、本籍は大浦田町54番地。 慶応4年(1868年)井関盛艮と横浜に渡り、4月2日寺島宗則・井関配下で神奈川運上所通弁御用、閏4月20日神奈川裁判所通弁を務めた後、12月3日神奈川県直属の従事補通弁官となり、明治2年(1869年)11月判任史生、明治4年(1871年)2月14日権少属、10月7日四等訳官を歴任した。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。
渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843… 渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1921年〈大正10年〉8月27日)は、明治・大正期の日本の官僚。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵。 信濃国諏訪郡東堀村(現:長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺斧蔵政徳の子として生まれる。楓関と号する。生家は、岡谷市長地柴宮に「旧渡辺家住宅」(県宝指定)として保存されている。 明治維新後、鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年(明治43年)4月には宮内大臣に就任する。1911年(明治44年)4月、朝鮮併合の功により伯爵になるも、渡辺に何の関係があるのかと疑を生じ、井上馨も大いに憤慨する。
伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日… 伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1914年〈大正3年〉1月16日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。 薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主・伊東氏に連なる名門の出身である(伊東祐安の養子で弟の右衛門の子孫という)。開成所にてイギリスの学問を学んだ。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われている。江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。