竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月1… 竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1961年〈昭和36年〉11月15日)は、日本の劇作家、小説家。本名は敏太郎。 1891年(明治24年)7月15日、香川県仲多度郡多度津町本町の資産家に生れる。香川県丸亀尋常中学校に入る頃までは家庭も安定していたが、4年生の頃、父が事業に失敗し、一家は大阪へ移り住む。 敏彦は働いて家計を助けなければならず、石炭人夫、人力車夫、沖仲仕、風呂屋の釜焚きなど、様々な肉体労働に従事した。この頃、重労働のために失明寸前になるという出来事もあった。そんな生活の中で仕事や将来への不安に襲われ、悩みぬいた挙句上京し、早稲田大学に入学。按摩などに従事して苦学した。
松永 義雄(まつなが よしお、1891年〈明治24年〉7月1… 松永 義雄(まつなが よしお、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。 愛知県海部郡立田村(現愛西市)出身。1917年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、弁護士を開業。1924年、日本労働総同盟法律部員に就任し、野田醤油労働争議などの弁護を行う。1926年、社会民衆党結党に参画。その他、東京市会議員、同参事会員、社会大衆党常任中央執行委員、日本農民組合総同盟主事などを務めた。1937年4月、第20回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区に社会大衆党所属で出馬し初当選した。 戦後、日本社会党結党に参画し、中央執行委員、党統制委員長、埼玉県連会長などを務めた。
福島小蕾(ふくしま しょうらい、1891年〈明治24年〉7月… 福島小蕾(ふくしま しょうらい、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1969年〈昭和44年〉2月1日)は俳人。島根県安来市今津生まれ。本名、亮。別号、梨東・梨東書屋主人。 広島高等師範学校文科中退。中学校長のち大正5年より神職。俳句は1906年(明治39年)に広江八重桜門に入り、のち奈倉梧月に師事。 「ホトトギス」「懸葵」を経て、「石楠」同人。「礼讃」(のち「白日」「契」「瓶麓」「俳句地帯」「地帯」と改題)主宰。 著書に句集『狭田長田』(昭17)。「狭田長田」「日々」「静日」「雫」。『土をしたふ』(昭和28)啓蒙書に『俳句の第一門』などがある。
中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月1… 中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月13日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の法学者、早稲田大学第5代総長、立教大学元教授。専門は公法学。 1891年7月13日、北海道札幌市に遠藤俊の五男として生まれ、後に中野家の養子となる。 1913年6月、早稲田大学高等予科を、1916年6月、早稲田大学大学部政治経済科を卒業し、同年9月、早稲田大学研究科に入学する。副島義一、中村進午の下で国法学、国際法学を専攻する。 1918年9月、アメリカ合衆国に留学し、シカゴ大学で語学研修等を受けた後、1919年10月から1922年6月までジョンズ・ホプキンズ大学に在学し、ウェステル・ウィロビー(英語: Westel W. Willoughby)の下で政治学、公法学を学ぶ。
2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈… 2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈明治24年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉7月24日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、群馬県会議員(6期)、群馬県群馬郡箕郷町長。幼名は五四二(いよじ)。群馬県知事選挙に立候補したが投票日の3日前に急逝し、弟・俊蔵が補充立候補により当選を果たした。 1891年(明治24年)、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)で造り酒屋「十一屋」を営む竹腰徳蔵・コウ夫婦の長男として生まれる。竹腰家は新潟から移住してきた徳蔵の先々代が酒造業を創業、銘酒「友鶴」を醸造し、広大な山林田畑を持つ資産家だった。 旧制群馬県立高崎中学校を経て市立大阪高等商業学校を卒業。
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7… 長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月… 松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月29日)は、日本の旧内務省の技術官僚。のちに厚生省の技術官僚として医薬品・食品行政全般にわたり重責を果たした。薬事行政の枢機に参画するとともに東京帝国大学医学部講師を兼任するなど教育・啓蒙にも尽力した。1941年-1948年には国立衛生試験所(現国立医薬品食品衛生研究所)の第12代所長を務められ、その後、植物化学の成果の医薬的応用をはかるべく、創業者として常磐植物化学研究所を設立した。また、日本大学薬学科の新設に貢献し、初代薬学科長に就任した。 第一次世界大戦当時、医薬品輸入の途絶への対処として国産化のため、臨時製薬調査業務を担当した。
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7… 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。陸軍士官学校26期・陸軍大学校35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。
酒井 利雄(さかい としお、1891年(明治24年)7月7日… 酒井 利雄(さかい としお、1891年(明治24年)7月7日 - 1969年(昭和44年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、福井県会議長、福井県坂井郡鳴鹿村長。 福井県坂井郡鳴鹿村楽間(丸岡町を経て現坂井市丸岡町楽間)で、酒井利右衛門の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続した。土木建築請負業を営む。 鳴鹿村会議員を経て1934年(昭和9年)鳴鹿村長に就任。福井県会議員に選出され、同議長も務めた。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け福井県全県区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
児玉 政介(こだま まさすけ、1891年〈明治24年〉7月6… 児玉 政介(こだま まさすけ、1891年〈明治24年〉7月6日 - 1978年〈昭和53年〉4月14日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。位階は従三位。 秋田市長(第11代)、厚生次官(第3代)、軍事保護院副総裁、傷兵保護院副総裁、厚生省体力局長、石川県知事(官選第34代)、秋田県知事(官選第35代)、奈良県知事(官選第22代)などを歴任。旧姓・小幡。 東京府出身。小幡小二郎の長男として生まれ、児玉隼槌の養子となる。第三高等学校を卒業。1915年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し岩手県属となる。 以後、三重県警視、新潟県警視、大阪府理事官、内務省社会局書記官、同省大臣官房文書課長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7… 恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。
後藤 圀彦(ごとう くにひこ、1891年(明治24年)7月2… 後藤 圀彦(ごとう くにひこ、1891年(明治24年)7月2日 - 1945年(昭和20年)10月27日)は、日本の実業家。京成電気軌道第二代取締役社長。今日の京成電鉄の礎を築く。 大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の後藤定彦の次男として生まれる。中学二年の時、中川伯の所有林で山火事を起こし、金5円を持って上京。 学生時代は新聞配達など苦学をし、1911年に法政大学政治学科を卒業。読売新聞社に職を奉じ、政治部長、経済部長となる。米国に渡り経済事情を調査し、帰朝後、中国へ視察に赴く。その後、松方正義や財界のまとめ役の男爵郷誠之助の知遇を得て、実業界に身を転じる。関東大震災前頃には、郷を囲う会として岩倉具光、河合良成とともに番町会を設立。
山崎 俊夫(やまざきとしお、1891年(明治24年)7月1日… 山崎 俊夫(やまざきとしお、1891年(明治24年)7月1日 - 1979年(昭和54年)5月7日)は、日本の小説家、脚本家、俳優。 俳優時代の芸名は石垣彌三郎。 明治末期から大正初期にかけて、永井荷風が編集する『三田文学』を中心に、耽美的、少年愛・同性愛的小説を発表するも、その後役者に転向したため、長らく埋もれた作家・幻の作家となっていたが、1986年から生田耕作の主宰する奢灞都館より作品集の刊行が始まり、一部文学愛好家の間で再評価されるようになった。岩田準一は著書の『男色文献書誌』で、山崎俊夫の唯一の著書『童貞』について、「ことごとく衆道情緒をもって描かれたる作品にて稀有の小説集なるべし」と評している。
永田 亀之助(ながた かめのすけ、1890年(明治23年)7… 永田 亀之助(ながた かめのすけ、1890年(明治23年)7月30日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、日本の政治家。元山形県議会議員、元上山市議会議長。
細川 興治(ほそかわ おきはる、1890年(明治23年)7月… 細川 興治(ほそかわ おきはる、1890年(明治23年)7月30日 - 1977年(昭和52年)8月16日)は、明治末から昭和期の宮内官、華族(子爵)。貴族院議員。 清和源氏義季流谷田部細川家、細川興嗣(子爵)の長男として出生する。父の隠居に伴い1909年(明治42年)7月27日、家督を相続して子爵を襲爵した。1914年(大正3年)明治大学法学部を卒業し、さらに東京帝国大学法科大学で学んだ。1924年(大正13年)宮内省に出仕。宮内属、陵墓監、宮内事務官などを歴任した。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月2… 古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県三池郡大牟田町(現大牟田市有明町)で、古賀健蔵の息子として生まれる。1909年(明治42年)久留米市立商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)を卒業した。 1919年(大正8年)12月、円仏古賀商店取締役に就任。1932年(昭和7年)大牟田商工会議所議員、1934年(昭和9年)同副会頭に就任した。その他、大牟田信用組合(現大牟田柳川信用金庫)監事、福岡県陸上小運搬業組合大牟田支部長、旭セメント取締役、三池製氷取締役などを務めた。 1921年(大正10年)大牟田市会議員に選出され、同副議長、大牟田市所得調査委員などを務め、福岡県会議員にも在任した。
松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1… 松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1972年1月31日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。日本におけるスポーツ中継の実況アナウンサーの草分け。大相撲、東京六大学野球、職業野球、競馬などのスポーツ中継の実況アナウンスで人気となった。 松内則定の三男として、東京市本所区(現:東京都墨田区)で生まれる(兵庫県士族の家系であったため、兵庫県出身と書かれた資料もある)。大阪府立北野中学校(旧制)から慶應義塾大学部理財科(現:慶應義塾大学経済学部)を経て日本電燈へ入社するが、1925年にNHKへ入局してアナウンサーに転職。東京放送局に赴任した。 野球中継においては、「ピッチャー振りかぶりました」「打ちも打ったり取りも取ったり」というような、動作を表現する典型を数多く創造した。
丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日… 丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日 - 1958年(昭和33年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県飯高郡(現松阪市)で丹羽雨斉の五男として生まれる。岩手水産学校(現岩手県立宮古水産高等学校)漁撈科を修了。漁撈の研究を行う。 1915年(大正4年)丹羽船舶漁業部を開設。1919年(大正8年)大阪海事を設立し取締役社長に就任。その他、泰和洋行船舶部長、東明銀行取締役、日本索道常務取締役、丹羽船舶部社長、大阪機帆船海運組合理事、日本海獣取締役、大阪機帆船運送取締役、日本近海汽船取締役、日本海運協会小型船委員会委員、丸三商店取締役、尼崎船渠社長、中央産業社長、海上交通社(大阪)社長、近畿造船連合会副会長などを務めた。
伊藤 整一(いとう せいいち、1890年〈明治23年〉7月2… 伊藤 整一(いとう せいいち、1890年〈明治23年〉7月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。 1890年(明治23年)7月26日、福岡県三池郡高田町(現・みやま市)に父・梅太郎の長男として生まれる。1911年(明治44年)7月海軍兵学校39期を15番で卒業。海軍兵学校同期に遠藤喜一、高木武雄、山県正郷、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 1927年(昭和2年)5月、少佐でアメリカに派遣。アメリカに滞在していた時、レイモンド・スプルーアンスと深い親交を結んだ。伊藤が戦死した坊ノ岬沖海戦の際、米指揮官として攻撃命令を下したのはスプルーアンスであった。
小池 勇助(こいけ ゆうすけ、1890年(明治23年)7月2… 小池 勇助(こいけ ゆうすけ、1890年(明治23年)7月25日 - 1945年(昭和20年)6月26日)は、日本の陸軍軍人、軍医。最終階級は中佐。 長野県南佐久郡野沢村(現佐久市)に男5人、女1人の兄弟の次男として生まれる。野沢中学を経て、1914年金沢医学専門学校を卒業し、同年11月金沢歩兵第七連隊に入営、その後陸軍軍医学校で眼科を専攻。1925年(大正14年)予備役。帝国大学眼科教室で研究生活の後、千葉県銚子町(現銚子市)石津眼科病院勤務を経て、1928年(昭和3年)佐久鉄道(現JR小海線)中込駅前に小池眼科医院を開業。 1937年(昭和12年)日中戦争に軍医として出征、1941年(昭和16年)から満州、1944年(昭和19年)8月沖縄へ。
川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)… 川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)7月23日 - 1987年(昭和62年)6月18日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選山形県知事、東洋インキ製造 (株) 社長。旧姓・古橋。 愛知県北設楽郡出身。大地主・古橋源六郎の三男として生まれ、川村秀豊の養子となる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年(大正4年)5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年6月、内務省に入省し警視庁警部兼内務属となる。 1917年(大正6年)9月、本所太平警察署長に就任。以後、防疫官兼内務書記官・衛生局勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、欧米出張(1924年1月)、警視庁書記官・衛生部長、山形県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長などを歴任。
山本 飼山(やまもと しざん、1890年(明治23年)7月2… 山本 飼山(やまもと しざん、1890年(明治23年)7月23日 - 1913年(大正2年)11月5日)は、思想家、社会運動家。本名は山本 一蔵。 1890年(明治23年)、東京に生まれる。8歳の時自由民権運動の壮士であった父を失い、母とともに長野県松本市にある亡父の生家に寄寓。その後、飼山の母は彼が12歳の時に、彼を残して再嫁している。 小学校時代より無教会派キリスト教の感化を受け、旧制長野県松本中学に在学中、キリスト教的社会主義に共鳴し、とりわけ木下尚江の思想に関心を示した。15歳の頃、日露戦争の際に、非戦論の演説をし、停学処分を受けている。その後、早稲田大学文学部に入り、石川三四郎・渡辺政太郎を介して、大杉栄・荒畑寒村・幸徳秋水らの知遇を得、『近代思想』に評論を寄せるようになる。
千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 19… 千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 1944年12月25日戦死認定)は、日本海軍の軍人。ビアク島の戦いにて戦死。戦死後、一階級進級し海軍中将。正四位勲二等旭日重光章。
佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月1… 佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月17日 - 1944年〈昭和19年〉4月13日)は、大正から昭和期の華族。佐竹宗家34代当主。貴族院侯爵議員。位階は従二位。勲等は勲二等。 侯爵・佐竹義生、祚子夫妻の長男として生まれる。父の死去に伴い1915年(大正4年)3月30日、侯爵を襲爵。同年、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。同年7月16日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任した。1928年(昭和3年)火曜会に入会して死去するまで在任した。 明治以来、佐竹侯爵家の財政は逼迫しており、1917年(大正6年)11月、家令の大縄久雄が義春同意のもと、益田鈍翁、高橋箒庵を世話人とした美術品の売立て「佐竹侯爵家御蔵器入札」を東京美術倶楽部で行った。
楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年… 楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年)7月17日 - 1979年(昭和54年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、楠本右之助の長男として生まれる。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)3月、歩兵少佐に昇進し近衛歩兵第3連隊付となる。1929年(昭和4年)3月、近衛歩兵第3連隊大隊長に就任し、中国出張(支那政府応聘、北京陸軍大学教官)、歩兵第42連隊付、参謀本部付を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に進み参謀本部付(上海駐在)となる。
岡 新(おか あらた、1890年〈明治23年〉7月16日 -… 岡 新(おか あらた、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1958年〈昭和33年〉3月23日)は、日本の海軍軍人。第3代総力戦研究所所長。海兵40期首席、海大甲種22期首席、砲術校高等科18期首席。最終階級は海軍中将。 東京府麻布区、現在の東京都港区出身。旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第40期入校。入校時成績順位は150名中第38位、卒業時成績順位は144名中首席。海軍大学校も首席卒業。 太平洋戦争勃発直前に於ける総力戦研究所での活躍が知られている。 「スピード、スピード、これからの歴史は、今までの何倍、何十倍のスピードで進む。起ち上がるのも、亡び去るのも。」「若いときのひらめきには概して間違いがない。
上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16… 上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1965年〈昭和40年〉2月16日)は、日本の華族、海軍軍人。北白川宮能久親王の六男。爵位は伯爵、最終階級は海軍少将。旧姓は永田。 → 詳細は「北白川宮能久親王」項の「落胤」節を参照 東京府出身。母は福井県士族前波某の娘の栄。北白川宮能久親王の第六男であると判明したため、1897年(明治30年)7月1日、伯爵を授けられ華族に列した。 1912年(明治45年)7月17日、海軍兵学校を卒業(40期)。翌年12月、海軍少尉任官し「金剛」乗組となる。1918年(大正7年)12月から1年間、海軍水雷学校高等科で学んだ。 1919年(大正8年)12月、「扶桑」分隊長となり、「龍田」分隊長、「浦風」水雷長兼水雷学校教官、「汐風」水雷長などを経て、1923年(大正12年)3月、海軍大学校選科学生となった。
川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 -… 川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 - 1973年2月12日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務め、在任中ビール業界トップシェアを実現した。 東京・深川(現在の東京都江東区深川)生まれ。東京府第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1915年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。剣道部出身。 卒業後三菱合資会社入社。1935年三菱商事ロンドン支店長。1942年三菱商事産業部長。 1943年岩崎小弥太の意向による人事で、キリンビール専務取締役に転じる。1951年からはキリンビールで取締役社長を務め、1954年には朝日麦酒、日本麦酒を抜きビール業界トップシェアを実現。
神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月1… 神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月14日 - 1966年(昭和41年)4月12日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。旧姓・小岩井。 長野県出身。小岩井永次郎の二男として生まれ、神林玄進の養子となる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1917年(大正6年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第56連隊付となる。1918年(大正7年)6月、久留米衛戍病院付となる。1920年(大正9年)8月、陸軍軍医学校に専攻学生として入学。1921年(大正10年)4月、一等軍医に昇進。その後、東京陸軍幼年学校付、陸軍省医務局課員を務め、1925年(大正14年)3月、医学博士の学位を受けた。
澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月… 澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月12日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、日本の国文学者、万葉学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。 1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現:三重県伊勢市)で生まれた。三重県立第四中学校(現:三重県立宇治山田高等学校)・第三高等学校を経て、京都帝国大学文科大学に進学。文学科国文学専攻で学び、1915年に卒業。 第五高等学校教授を経て、1922年に京都帝国大学文学部助教授に就いた。1935年、学位論文『上代歌謡ノ作者及ビ時代考』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。翌1936年に教授昇格。1951年、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となった。
犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1… 犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1965年2月19日)は、日本の海軍軍人、ユダヤ研究家。最終階級は海軍大佐。筆名は宇都宮 希洋(うつのみや きよう)。 陸軍の安江仙弘と共に日本軍のユダヤ人問題専門家であった。 蒲池氏庶流犬塚氏出身。本籍佐賀県。佐賀藩士、翻訳家・犬塚浩道の長男として東京で生まれる。 新明きよ子(1910年(明治43年)生まれ)は、毎日新聞婦人記者、帝都日日新聞記者を経て、1939年(昭和14年)春、政府が正式に河豚計画を承認すると同時に、讀賣新聞上海特派員となり、上海で犬塚と初対面し、間もなく、犬塚の妻となった。 早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。
川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年… 川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年〉7月10日 - 1970年〈昭和45年〉11月9日)は日本の政治家。旧姓柳原。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。衆議院議員当選14回、自治庁長官、行政管理庁長官等を歴任した。 自治庁長官、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、第18回オリンピック東京大会担当国務大臣、自民党幹事長、自民党副総裁を歴任。 閣僚としては軽量級ポストしか経験しなかったが、党の幹部としては重職を得た。川島派(交友クラブ)領袖であり、長く自由民主党副総裁として、自民党のナンバー2に君臨した。当選14回。 専修大学総長、千葉工業大学理事長・会長、成田山奉賛会初代会長を歴任。
土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月1… 土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 - 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。東京帝国大学教授、経済学部長。統制経済の第一人者。専攻は理論経済学、財政学。結婚前の旧姓は、「町田 成美」(まちだ せいび)。 1890年、兵庫県姫路市に生まれる。父は姫路市会議長を経て1903年に衆議院議員となった町田猛郎(たけし)。祖先は代々酒井家に仕える武士であったという。兵庫県立姫路中学校を卒業後、父の意向で旧制高等学校の中では姫路に一番近い岡山の第六高等学校に進学する。東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業。 在学中に高等文官試験に合格していたが、大学に残る。
霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973… 霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973年1月28日)は、日本の物理学者・教育者・教育学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員の霜田光一は息子。 埼玉県出身。本名・利平。1912年東京美術学校卒。小・中学校教師を経て、1920年東京帝国大学で美学・心理学の研究をする。1928年英国へ留学、教育家A・S・ニイルに師事。帰国後、主婦之友社で児童相談を担当。のち、井荻児童研究所を設立し所長となる。多摩美術大学教授、長野女子短期大学教授も務めた。1968年『ニイル著作集』で第5回日本翻訳文化賞受賞。堀真一郎、國分康孝が門下にいる。
鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969… 鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。
山田 忠次(やまだ ちゅうじ、1890年〈明治23年〉7月8… 山田 忠次(やまだ ちゅうじ、1890年〈明治23年〉7月8日 - 1986年〈昭和61年〉3月22日)は、日本の逓信官僚。朝鮮総督府官僚。 山形県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。逓信局書記、同属、通信事務官補、秋田郵便局長、福島郵便局長、朝鮮総督府逓信事務官、京城貯金管理所長、通信事務官、京都郵便局長、逓信局事務官、広島逓信局規画課長、大阪逓信局規画課長、同用品課長、逓信書記官、郵務局規画課長、経理局需品課長、大臣官房保健課長、同秘書課長を経て、1936年(昭和11年)に仙台逓信局長に就任した。同年7月、朝鮮総督府逓信局長に移り、高等海員審判所長を兼ねた。
峰地 光重(みねじ みつしげ、1890年7月8日 - 196… 峰地 光重(みねじ みつしげ、1890年7月8日 - 1968年12月28日)は、日本の教育者、評論家。 鳥取県西伯郡大山町出身。鳥取師範学校卒。東京の私立池袋児童の村小学校などで小砂丘忠義、野村芳兵衛らとともに生活綴方教育を行う。1927年鳥取県上灘小学校校長。42年綴方運動弾圧により退職。戦後52年教職に復帰。57-61年岐阜県多治見市立池田小学校つづ原分校教諭。65年ペスタロッチ賞受賞。著作集18巻がある。
山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)… 山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)7月7日 - 1971年(昭和46年)12月11日)は、昭和期の日本の政治家で、公選2人目の佐世保市長である。 佐世保市出身。戦前に佐世保市議会議員を1期(1933年~1937年)務めた後、市役所職員となり、総務課長、助役を経て、1955年4月の市長選挙で現職の中田正輔を破って第15代佐世保市長に就任、2期8年間に及び市長を務めた。 在職中には佐世保工業高等専門学校、海上自衛隊教育隊の誘致を実現したほか、石岳動植物園の開園、鹿子前への観光道路整備など、観光都市としての基盤整備に努めた。 1963年4月の市長選に3選を目指し出馬したが、元市議会議長の辻一三に阻まれ落選、4年後の1967年4月の市長選にも再度挑戦したが再び辻に敗れた。
ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Muker… ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Mukerji, 1890年7月6日 - 1936年7月14日)は、インド出身の英語で書いた児童文学作家。 米国で初めて成功を収めたインド出身の作家。1928年にニューベリー賞を受賞している。カルカッタ大学、東京帝国大学、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学で学んだ。 カルカッタ近郊の村に生まれた。父は弁護士だが音楽家を諦めていた。1910年にダーン・ゴパルは機械工学と織機を学ぶため東京へ留学に出されたが、東京で工場労働者の劣悪な環境にショックを受け、船でサンフランシスコへ渡った。アナキストとしての思想を持ち始めていたムカージーは1914年にスタンフォード大学で哲学の学士号をとる。
鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年… 鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年)7月3日 - 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の物理化学者である。 大阪市の生まれ。東京帝国大学理科大学(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)に入学し、1914年(大正3年)に卒業後は後に義理の父となる池田菊苗に師事した。1918年(大正7年)離日し、アメリカ合衆国ではノーベル化学賞を受賞したセオドア・リチャーズに師事しイギリスではアイルランド出身のフレデリック・ドナン、フランスではジャン・ペランに師事する等欧米の津々浦々で学ぶ。その後帰国し1921年(大正11年)には東北帝国大学(現在の東北大学)の助教授となり、翌1922年(大正12年)には同大学の教授に昇格した。
多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日… 多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)は、日本の僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を修行。日本への帰国に際して多数の仏典、文献を持ち帰り、斯界の学識経験者として活躍した。 南秋田郡土崎港町旭町(現在の秋田市土崎港)の西船寺の住職の3男として生まれる。家庭が6男2女の子だくさんであまり豊かではなかったため、小学校卒業時から檀家回りをして家計を助ける。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)卒業後、勉学のため京都にのぼり西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。
高村 豊周(たかむら とよちか、1890年〈明治23年〉7月… 高村 豊周(たかむら とよちか、1890年〈明治23年〉7月1日 - 1972年〈昭和47年〉6月2日)は、日本の鋳金家。金沢美術工芸大学名誉教授。日本芸術院会員。 高村光雲の三男、高村光太郎の弟として東京下谷区に生まれる。津田信夫に入門、1915年(大正4年)に東京美術学校鋳造科本科を卒業する。 1919年(大正8年)、岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会を設立。1926年(大正15年)、東京美術学校助教授。同年、工芸団体・无型(むけい)を組織し、1935年(昭和10年)、実在工藝美術会結成に参加する。その間、1934年(昭和9年)には帝展審査員に就任。その後も新文展、日展審査員を務める。
山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27… 山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27日 - 1970年8月18日)は、日本の政治家・実業家。鹿児島県松山町議会議長(2期)、松山町議会議員(4期)、松山遺族会会長、松山町商工会会長などを歴任した。 1889年〈明治22年〉、和歌山県日高郡上山路村(現・田辺市)に生まれる。 1913年〈大正2年〉、23歳の時に医師を志して家を出て、親類を頼って人吉へ移った。1917年〈大正6年〉、製材所で勤めていた茂は、親類の杭木商・古久保安次郎の手引きで松山へ移った。翌1918年〈大正7年〉、28歳の時に水力利用の製材所を興し、以後製材業を続け、1940年〈昭和15年〉、囎唹郡製材統合株式会社副社長・郡内伐出組合長・県坑木組合囎唹支部長・県平木組合長に就任した。
石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没… 石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没年不詳)は、日本の化学者、鉱物工学者。東北大学名誉教授。鉱物の選鉱製錬研究において重要な業績を残した。特に、金属資源の有効利用に関する研究に従事し、戦前・戦中の日本の工業発展に貢献した。 1889年(明治22年)、宮城県に生まれる。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を経て、1915年(大正4年)東北帝国大学理科大学化学科を卒業。東北帝国大学附属興業専門部、理学部を経て、1923年同大学工学部に勤める。1924年、イギリス、フランス、ドイツへ留学。同年、東北大学工学博士の学位を取得、選鉱製錬研究所の第三代所長に就任。当時、日本は自国の鉱物資源に乏しく、戦争遂行のために鉄や銅などの金属資源確保が急務で、石原は鉱石の選鉱技術や製錬技術を発展させ、より効率的に金属を精錬する方法を研究した。
河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26… 河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26日 - 1966年(昭和41年)10月31日)は、大正から昭和期の外交官、外務次官。終戦連絡中央事務局次長やオーストラリア公使等を務めた。旧姓・永井。 広島県賀茂郡竹原村(現竹原市)出身。永井潜の実弟で、河相保四郎の養子となる。旧制第一高等学校を経て1915年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、北海道炭礦汽船入社。翌年退職し1918年、外交官及領事官試験に合格、外務省入省。 バンクーバー総領事代理、青島在勤外務書記官、情報一課長、関東庁官房外事課長、米国大使館一等書記官、中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任。1937年外務省情報部長となり、同年10月の米ルーズベルト大統領のシカゴ演説(隔離演説)に反駁談話を発表、「持てる国」中国に対し「持たざる国」日本が不公平是正の戦いを挑むことの正当性を主張し注目された。
緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1… 緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1928年10月14日)は、現在の千葉県市原市出身で二十山部屋に所属した元力士。本名は鈴木 勇作。167cm、109kg。最高位は東前頭17枚目。 1903年1月13歳で入門。1905年1月場所序ノ口に付き、最初「槙ノ嶌」を名乗って着実に出世した。1910年1月場所新十両昇進、一時番付に「牧ノ嶌」と書かれたこともあった。1913年1月場所幕下に陥落したが、1914年1月場所に十両に復帰した。1915年1月場所、再び幕下に陥落していたが、この場所から四股名を「緋縅」と改めて翌1915年6月場所で再び十両に復帰し、そこで4勝1敗の好成績を残して1916年1月場所で新入幕を果たした。
井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 196… 井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 1965年7月20日)は、島根県出身の文部官僚。1930年代の国語読本である『小学国語読本』(サクラ読本)の編集の中心となった。 県立松江中学校、第一高等学校(同期に近衛文麿、山本有三、土屋文明)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業した。1921年、鹿児島県の第七高等学校造士館教授の時、大学の先輩である高木市之助に誘われ、文部省図書監修官となる。以後20年にわたって国定教科書の編集に関わる。 1925年から教科書研究のため1年間欧米に留学する。 1931年から『小学国語読本』の編纂に着手する。従来巻一の冒頭に単語から教えていたが井上は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に象徴されるように文から習うように改めた。
青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1… 青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本の俳優、演出家、映画監督である。本名は青山 達美(あおやま たつみ)。 新潟県北蒲原郡紫雲寺村(紫雲寺町を経て、現在の新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる。12歳下の弟に青山敏美 がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)を卒業した。 1909年(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学した。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい、英文科に転じた後大学を中退する。
岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月2… 岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月21日 - 1959年〈昭和34年〉2月2日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(3期、立憲民政党)、参議院議員(1期、民主党)。農林政務次官。 栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都宮市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年の高等文官試験に合格し、宮城県志田郡長、北海道庁理事官、石川県理事官を経て、警視庁理事官に任命され、工場課長、保安課長、外事課長、特別高等課長を歴任した。その後、宮崎県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長に就任。1927年(昭和2年)、京都市助役となった。1929年(昭和4年)、岐阜県書記官・警察部長となり、翌年には宮崎県書記官・内務部長となった。
森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 19… 森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 1964年2月4日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員、農林大臣、滋賀県知事などを歴任。位階は正三位。勲一等瑞宝章。 滋賀県東浅井郡竹生村(現在の長浜市)出身。1905年に長浜農学校を卒業後、家業の農業・蚕種製造・水産業などを行っていたが、政治の世界を志して竹生村長となり、1917年には38歳で立憲政友会より滋賀県会議員となり2期務める。1936年の第19回衆議院議員総選挙で滋賀県選挙区から立憲政友会の公認で立候補して当選するが、3期目を目指した1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補して落選した。