久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12… 久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12月29日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の産婦人科学者である。 神奈川県横浜市金沢区に生まれ、岩手県盛岡市にて育つ。盛岡中学卒業。東京帝国大学医科大学に入学し、1906年(明治39年)に同大学を卒業した。卒業後は留学のため渡米し、帰国後は母校の東大医科大学の副手や盛岡市に所在する岩手病院(現在の岩手県立中央病院)の産婦人科の科長として活動する。その後は朝鮮総督府に渡り同府が運営する医院の副医官や、1916年(大正5年)には京城医学専門学校にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)には医学博士を取得し、翌々年の1923年(大正12年)より旧制の金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の教授として活動する。
青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)… 青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)12月26日 - 1960年(昭和35年)7月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、明石市長。弁護士。 岡山県浅口郡富田村(現在の倉敷市)に尾藤廉平の三男として生まれ、青木与八郎の養子となった。1912年(大正元年)、弁護士試験に合格。翌年に中央大学法科を卒業し、弁護士を開業。後に神戸弁護士会会長に選ばれた。1920年(大正9年)、明石市会議員に選出され、議長に当選した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回、第19回でも再選された。1937年(昭和12年)、明石市長に就任した。1946年(昭和21年)、明石市長を辞任した。
倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月2… 倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月25日 - 1938年〈昭和13年〉11月29日)は、日本の洋画家。浦和画家を代表する人物でもある。 自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた。山本鼎の提唱した農民美術運動の協力者でもある。本名は重吉(しげよし)。 埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田幽谷は佐倉藩士の漢学者で、安井息軒の高弟であった。 1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
真鍋 勝(まなべ かつ、1881年〈明治14年〉12月24日… 真鍋 勝(まなべ かつ、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1963年〈昭和38年〉6月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→民主自由党→自由党)、司法参与官。弁護士。 徳島県美馬郡貞光村(現在のつるぎ町)に武田嘉六の子として生まれ、真鍋儀平の養子となった。第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。1923年(大正11年)、京都帝国大学法学部を卒業し、弁護士を開業した。大倉喜八郎の顧問弁護士も務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。第20回まで4回当選を果たした。その間、阿部内閣で司法参与官を務めた。 戦後は第24回衆議院議員総選挙に当選した。
田中 貢一(たなか こういち、1881年12月24日 - 1… 田中 貢一(たなか こういち、1881年12月24日 - 1965年2月25日)は、日本の植物学者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。明治35年(1902年)長野県師範学校在学中のに信濃博物学会創設に参画し、編集主任として「信濃博物雑誌」の発行にあたった。また東宮(のちの大正天皇)の巡幸により同校を訪れた際には、予め採集したトガクシショウマ(トガクシソウ)を献上した。同36年(1903年)卒業、上水内郡古牧小学校訓導となる。同37年(1904年)牧野富太郎の斡旋により東京帝国大学農学部実科の池野成一郎の助手となった。大正2年(1913年)帝国駒場農園が設立されると、技術長として農産物種子検査や苗木の育成、全国の小学校の学校植物園の普及事業に従事した。
高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1943年〈昭和18年〉4月3日)は、実業家、2代豊橋市長。 1881年(明治14年)12月24日、愛知県八名郡賀茂村の竹尾準の次男、竹尾茂彦として生を受ける。札幌農学校卒。 1907年(明治40年)、豊橋市船町の問屋業高橋小十郎(久助)の養子となる。 1912年(明治45年)、初代豊橋市長大口喜六の後を継ぎ2代市長に就任する。 1913年(大正2年)、飯村溜池不正事件の責を負い辞任。先代の大口市長も疑獄事件に関連して辞任したが、結局2代続けて市政の不正事件に関連して市長が辞任する事態となった。 1918年(大正7年)、実父である竹尾準の後任として三遠銀行頭取に就任し、同年豊橋商業会議所会頭にもなる。
池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月… 池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月22日 - 1905年〈明治38年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。日本海海戦で戦死した海軍中尉である。大蔵大臣などを歴任した池田成彬は兄。従七位勲六等功四級。 海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。 池田は新造駆逐艦の配置を希望し、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。
斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - … 斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - 1966年11月6日)は、日本の映画美術の美術デザイナー、背景画家、出版における挿絵画家である。日本映画の黎明期に、吉沢商店、日活向島撮影所、国際活映角筈撮影所で、クレジットされることもなくセットの背景を描いた人物であり、後に『少年倶楽部』の表紙画で人気を博した。岡田三郎助門下。 1881年(明治14年)12月21日、千葉県長柄郡一宮本郷村(現在の長生郡一宮町)に、旧一宮藩(加納氏)家老堀内家の三男、俊郎の第七子として産まれる。のち、父の俊郎が旧大和田原本藩(平野氏)家老斎藤家の養子となったため、斎藤姓となる。 一宮尋常高等小学校(現在の一宮町立一宮小学校)、私立京華中学校を卒業。
橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月… 橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月21日 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。 かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。鹿児島県尋常中学校の在籍を経て、鹿児島県中学造士館を卒業。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1… 田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1957年3月18日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション会長、株式会社後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)第4代社長、日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナー。株式会社よみうりランド初代社長。新東宝社長、日本テレビ放送網会長を歴任した人物である。 田邊 宗英(旧名:五四三)の兄の田邊七六とその息子田邊圀男は衆議院議員、第一勧業銀行理事の田邊加多丸は弟、阪急東宝グループの創業者小林一三は異母兄、後に後楽園スタヂアム社長を務めた東京弁護士会真鍋八千代は義従弟である。息子の田邊英蔵は後楽園スタヂアム副社長、熱海後楽園社長、文教大学国際学部教授を務めた。
乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月1… 乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月16日 - 1904年(明治37年)11月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大将・乃木希典、静子夫妻の次男。
木檜 恕一(こぐれ じょいち、1881年〈明治14年〉12月… 木檜 恕一(こぐれ じょいち、1881年〈明治14年〉12月14日 - 1943年〈昭和18年〉10月20日)は、日本の工芸家、家具デザイナーである。高等官二等正四位勲四等。 群馬県吾妻郡久賀村須川(現・利根郡みなかみ町須川)の生まれ。父は新治村初代村長を務めた木檜仙太郎。 1902年(明治35年)群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)を卒業し、多野郡吉井尋常高等小学校訓導として勤務する。東京高等工業学校(現・東京工業大学)に入学し、教員養成所建築科に所属する。1908年(明治41年)卒業。 卒業後は同校の助教授として活動し、後大学時代に木檜が所属した室内装飾科の研究会である「樫葉会」(後の木材工芸学会)の創設に携わり同時に会長を務めた。
奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12… 奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12月10日 - 1959年(昭和34年)2月4日)は、日本の医学者。専門は細菌学。神奈川県中郡秦野町(現・秦野市)出身。 血脇守之助に師事する。東京歯科医学専門学校校長、東京歯科大学学長・東京歯科大学理事長などの要職を歴任した。 妻は澤田半之助の娘。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
井阪 豊光(いさか とよみつ、1881年(明治14年)12月… 井阪 豊光(いさか とよみつ、1881年(明治14年)12月9日 – 1966年(昭和41年)2月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→立憲政友会→昭和会)、外務政務次官。大阪府岸和田市長。弁護士。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 大阪府泉南郡八木村(春木町を経て現在の岸和田市)に衆議院議員井阪光暉の長男として生まれる。1910年(明治43年)、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回、第16回と当選を重ねた。その後、岸和田市長に選出された。 1932年(昭和7年)には第18回衆議院議員総選挙で返り咲きを果たした。
常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8… 常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の海軍軍人。軍令部、艦隊、鎮守府、要港部などの参謀職を歴任した海軍少将である。 福島県出身。父は旧会津藩士・常盤盛敦。会津中学5回生で外務省顧問・斎藤良衛、樺太庁長官・岸本正雄は同級生である。1899年(明治32年)海軍兵学校入校(30期)。二年次に学術優等章を授与される。1902年(明治35年)卒業。席次は187名中5番。 「初瀬」乗組みとして日露戦争を迎えたが、同艦は1904年(明治37年)5月15日に旅順港外において触雷し沈没。その際常盤は初瀬の艦載水雷艇を指揮し、哨戒のため裏長山列島に赴いていた。
新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月… 新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月8日 - 1952年(昭和27年)9月1日)は、日本の実業家。元・東京電力会長。元・日本発送電総裁。 埼玉県大里郡大麻生村(現熊谷市)に篤農家だった新井健吉の長男として出生。1905年に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業。秩父鉄道勤務を経て日本鉄道に入社するも病気で退社し、加療の後に義父の葉住利蔵が経営していた利根発電へ1913年に入社して取締役支配人となる。1921年に利根発電が東京電燈に吸収合併されてからは前橋支店長から本社で営業部次長となり1933年に取締役営業部長に就任してから常務取締役(1936年)・副社長(1937年)を歴任した。
小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3… 小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3日 - 1966年〈昭和41年〉11月18日)は、東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)。京都帝国大学名誉教授。号は「抱甕」(ほうおう)。財団法人板垣会顧問。 1881年、高知県吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市)で生まれた。弘岡上ノ村の小学校を卒業して高知県立第一中学校に進学し、漢文の授業では『日本外史』『十八史略』『孟子』などを学び、荻生徂徠の立場から孟子を非難する教師に反論して孟子を弁護したりしたという。また、後年の小島は、これまで読んできたなかで最も有益で興味深い中国の書物として、中学時代から読んできた『孟子』『荘子』『史記』を挙げると述べている。
馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日… 馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日 - 1944年(昭和19年)3月30日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、門司市長。 現在の熊本市出身。第五高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年、内務省に入省し広島県属となる。 以後、広島県事務官補、警視庁方面監察官、福井県理事官、群馬県警察部長、群馬県内務部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1923年10月、青森県知事に就任。農水産業の振興に尽力。1924年6月、休職となる。同年に退官した。その後、門司市長、侯爵細川護立家家扶を務めた。
岡本 一巳(おかもと かずみ、1881年(明治14年)12月… 岡本 一巳(おかもと かずみ、1881年(明治14年)12月2日 - 1947年(昭和22年)11月19日)は、日本の政治家、実業家。 岩手県盛岡市出身。明治法律学校と専修学校で学ぶ。実業界に進み、盛岡新聞社を創設した他、岩手銀行支配人、扶桑新聞社政治経済部長、大阪新報社政治部長兼外交部長などを歴任した。 1932年2月の第18回衆議院議員総選挙に栃木県第二区で立憲政友会から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。1934年2月に立憲政友会から第一控室に移る。1935年3月には尾崎行雄、床次竹二郎らと院内会派「無所属室」を結成し、加入する。1936年の第19回衆議院議員総選挙では栃木県第一区から中立(無所属)で出馬したが、最下位で落選した。
岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月… 岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月1日 - 1956年(昭和31年)6月29日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 素封家・岩崎彦左衛門の長男として、のちの静岡県安倍郡麻機村(現静岡市葵区)に生まれる。26歳にして麻機村農会長に選ばれ、安倍郡農会幹事を経て、30歳の時、麻機村長に就任する。さらに翌年、安倍郡農会長を経て、静岡県会議員に当選。ついで33歳の時、静岡県柑橘組合連合会長に推された。ほか、日本農具、静岡賤機焼陶業、日本山羊各社長を歴任した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12… 海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月6日)は、日本の政治家、政治活動家。衆議院議員(2期、政友会→政友本党)。 1881年(明治14年)、兵庫県神戸市に生まれる。和仏法律学校(現法政大学)を卒業し、徳島県庁に入る。その後、神戸新聞の記者を経て、徳島県の属官時代に同県知事であった床次竹二郎の知遇を得ていたことで、床次が鉄道院総裁に就くと、その秘書に抜擢される。 内務大臣秘書官に就任した後、第14回衆議院議員総選挙(1920年(大正9年))、第15回衆議院議員総選挙(1924年(大正13年))に徳島1区から出馬し、当選する。 農商務省山林払い下げにおける詐欺事件で1926年(昭和元年)12月28日、東京控訴院から懲役8月執行猶予1年の有罪判決、1927年(昭和2年)4月19日、大審院で上告棄却され、確定となり議員失職。
長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年… 長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年)12月1日 - 昭和43年(1968年)11月25日)は最高裁判所判事。弁護士。第一東京弁護士会会長。
時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 -… 時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 - 1942年12月21日)は、日本の歴史学者。ヨーロッパ政治外交史専攻。
林田 操(はやしだ みさお、1880年12月28日 - 19… 林田 操(はやしだ みさお、1880年12月28日 - 1972年1月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県出身。1906年、東京帝国大学独法科卒。富士瓦斯紡績(株)に入り、工場長、調査部長から、中津絹糸紡績(株)専務取締役を経て、富士瓦斯紡績専務取締役となり、富士電力(株)取締役、(株)伊勢丹常務取締役を務めた。 1934年1月の福岡4区での補欠選挙に立憲政友会公認で立候補して初当選した。衆議院議員を1期務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1972年死去。
川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)… 川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)、1880年(明治13年)12月28日 - 1949年(昭和24年)2月3日)は、日本の政治家。長男に実業家の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫、川崎秀人は曾孫にあたる。 三重県伊賀上野(現・伊賀市)出身。生家は油屋である。1898年(明治31年)に、政治家を志して同じ郷土三重県出身の尾崎行雄を頼って上京した。日本法律学校(現在の日本大学)で法律を学び、東京外語学校(現在の東京外国語大学)でフランス語を学んだ。1903年(明治36年)に東京市長であった尾崎の下で東京市の書記を務めた後、日本新聞社記者となり日本の統治下であった朝鮮半島に渡り元山時事新報の記者、元山民団の団長を務める。
伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(い… 伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(いは ふせい、1880年(明治13年)12月27日 - 1945年(昭和20年)5月30日)は、沖縄県のジャーナリスト、琉歌の歌人。「沖縄学の父」と称される伊波普猷の弟。 1880年(明治13年)12月27日に、当時の那覇西村(後の那覇市西)で、父・伊波普済、母・マツルの間に生まれた。 兄・普猷とともに、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校などを経て、沖縄県立首里高等学校に系譜が繋がる)に学び、1895年(明治28年)から1896年(明治29年)にかけて、普猷ら上級生が主導した尋常中学校ストライキ事件の際には、下級生としてこれに加わったが、最終的に学校に残り、1899年(明治32年)に卒業した。
志村 清右衛門(しむら せいえもん、1880年12月27日 … 志村 清右衛門(しむら せいえもん、1880年12月27日 - 1930年4月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 千葉県出身。1907年、東京高等商業学校卒。大阪住友銀行社員となる。その後、千葉郡議、同副議長、千葉県議、同参事会員、幕張町長、漁業組合長を務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において千葉1区から政友本党公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では千葉1区から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年4月に死去した。
苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12… 苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12月25日 - 1959年〈昭和34年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。運輸大臣(第8代)、内閣官房長官(第3代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、サンフランシスコ講和会議全権委員。 1880年(明治13年)12月25日、青森県上北郡相坂村(藤坂村を経て現在の十和田市)に生まれる。父の金次郎は村の評議員で、明治22年の市町村制施行時は、藤坂村の第1期村会議員にも選ばれた地域の有力者だった。一方で北海道開拓に並々ならぬ関心を抱いており、翌1890年(明治23年)には全財産を担保にして土地を買い、後志国磯谷郡南尻別村大谷地(現在の北海道蘭越町大谷地)に移り住んだ。
沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 193… 沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 1932年10月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1880年(明治13年)、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に生まれた。海南中学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 平和条約実施委員、陸軍大学校兵学教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部運輸課長に就任。1924年(大正13年)7月、歩兵第68連隊長となり、参謀本部運輸課長、陸軍省人事局補任課長を歴任。
青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)1… 青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)12月21日 - 1954年(昭和29年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・龍間。 茨城県西葛飾郡、のちの猿島郡五霞村(現五霞町)で、先代・青木才次郎の長男として生まれる。私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)を経て、明治法律学校を修了した。1919年(大正8年)家督を相続し才次郎を襲名した。 青木組を組織して土木建築請負業を営み、茨城土木工業社長、水戸商工会議所議員などを務めた。 また、水戸市会議員、同参事会員、茨城県小作調停委員、同治水委員会委員、同耕地整理組合長などを歴任した。 1924年(大正13年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月3日に就任し1925年(大正14年)9月28日まで在任。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20… 平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20日 - 1925年11月9日)は、現在の福島県いわき市出身で玉垣部屋、尾車部屋、峰崎部屋に所属した元大相撲力士。12代玉垣。本名は緑川 辰次郎。167cm、94kg。最高位は西前頭4枚目。 磐城炭坑で石炭運搬に従事していたが、相撲の強さを見出した上司から勧められて入門。1900年1月、初土俵・序ノ口。三段目に在位していた1905年に、師匠の死によって玉垣部屋が消滅し、それに伴い尾車部屋に移籍し、横綱大砲、大関荒岩の指導を受け、1908年5月十両昇進した。1911年2月新入幕。新入幕までには序ノ口から11年(22場所)かかっており、このうち三段目は4年半(9場所)に及んだ。
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月… 八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月19日 - 1965年〈昭和40年〉1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。 岩手県盛岡市出身。栃内曽次郎海軍大将は叔父。八角が海軍兵学校を志願するきっかけは原敬の激励だったという。 岩手県立盛岡尋常中学校より海軍兵学校(29期)へ進んだ。席次は入校時137名中119番。卒業時は125名中75番。第一駆逐隊所属の駆逐艦「吹雪」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。大尉時代に『敵艦進路及び速力の誤測に対する命中限界算法、魚雷動的発射に於ける誤差』と題する論文を発表 し、海軍水雷術の発展に貢献している。海軍水雷学校校長、第二水雷戦隊司令官を務めた水雷の権威である。
盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)1… 盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)12月19日 – 1941年(昭和16年)3月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 沖縄県宮古郡下地村(現在の宮古島市)出身。1902年(明治35年)に沖縄県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。その後、長崎医学専門学校に入学し、1908年(明治41年)に卒業。翌年、郷里に医院を開業した。 医業のかたわら、1917年(大正6年)より県会議員となり、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し当選。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選されたが、1938年(昭和13年)4月7日、衆議院議員選挙法違反事件で大審院で上告棄却となり長崎控訴院判決が確定して退職した。
小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12… 小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12月19日 – 1938年(昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家。いけばな小原流二世家元。島根県松江市出身。本名は光一郎。 1880年(明治13年)、島根県松江市に生まれる。1890年(明治23年)、父(小原雲心)に呼ばれ大阪に転居する。父の勧めで商人を目指していたが、小原流興隆のため1904年(明治37年)、25歳で華道家に転身。1916年(大正5年)、父の死を受けて小原流家元を継承。以来、積極的に花展を開催し、ラジオや新聞・雑誌などで講座を受け持つなど、小原流いけばなの大衆化を図る。盛花に「型」を定め家元制度を確立させ、盛花をいける人を急増させる。
藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月… 藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1990年〈平成2年〉3月6日)は、編集者、東洋美術史・中国書道史研究者。号は楚水(そすい)。書や漢詩に関する著書多数。男性長寿日本一だった(109歳)。 大分県西国東郡呉崎村(現:豊後高田市)生まれ。呉崎小学校教師を経て、1901年、関西法律学校を卒業後、明治法律学校で法律・経済学を学び、1904年、実業之日本社に入社。編集長、理事を務める。1928年、退社後は三省堂出版部顧問に。 戦後は東洋美術史、中国書道史の著述をする傍ら、駒澤大学、東京学芸大学、横浜国立大学で東洋美術史、中国書道史を講義。1961年、論文『中国書道史』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12… 天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、明治・大正・昭和初期の内務・逓信官僚。売勲事件で知られる。 内閣総理大臣桂太郎の娘・輝子の夫。逓信省為替貯金局長、逓信省貯金局長、賞勲局総裁を歴任。位階勲等は従三位勲二等、後に失位・褫奪。岐阜県出身。 岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)で、旧大垣藩士・天岡通剣の長男として生まれた。1906年東京帝国大学法科大学卒業、内務省入省。 1907年、内閣書記官。1912年、内閣会計課長。1917年に逓信省に移って逓信省為替貯金局長となり、1920年に貯金局が分離すると逓信省貯金局初代局長になった。
中山 寿彦(中山 壽彦、なかやま としひこ、1880年12月… 中山 寿彦(中山 壽彦、なかやま としひこ、1880年12月16日 - 1957年11月26日)は、日本の医師、政治家。日本医師会4代会長、貴族院議員、参議院議員、国務大臣。位階は従三位。勲等は勲二等。 兵庫県生まれ。1907年、東京帝国大学医学部を卒業。同年、東京医科大学附属病院助手となった。1920年、東京府豊多摩病院長に就任。東京府医師会長、同医師会附属下谷病院長、東京市理事、日本医療団東京支部事務局長、母子愛育会理事、公衆衛生院顧問、医師国家試験審議会委員などを歴任。 1946年(昭和21年)2月に日本医師会会長に就任した。戦後の新体制を準備していたが、GHQから戦争協力者に対する公職追放を医師会役員にも適用するという通告を受けて会長職を辞任した。
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 194… 秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人)共同設立者。今の広島県安芸郡海田町出身。 広島県立広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学薬学部に入学したが、同大学工科大学応用科学科に転入学した。1908年に卒業後、樟脳事務局に就職。のち神戸税関を経て、米沢市にある旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授となり、研究室でビスコース人造絹糸(レーヨン)製造に専念する。 1884年にフランス人イレール・ド・シャルドネ(フランス語版、英語版)によって発明されたレーヨンは、1892年に工業化に成功し、日本にも紹介され、1905年から本格的な輸入が始まり、日本市場にも徐々に普及していった。
富永 鴻(とみなが こう、1880年(明治13年)12月13… 富永 鴻(とみなが こう、1880年(明治13年)12月13日 - 1937年(昭和12年)5月15日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、長崎市長。 静岡県城東郡、のちの大須賀村(小笠郡横須賀町、大須賀町を経て現掛川市)出身。衆議院議員・富永発叔の二男として生まれ、富永ひでの養子となる。第三高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学を卒業。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し台湾課属となる。 以後、鹿児島県事務官、兵庫県事務官、神奈川県事務官、同県港務部長、徳島県警察部長、宮城県警察部長、石川県内務部長、山梨県内務部長などを歴任。 1921年6月、佐賀県知事に就任。
辛島 知己(からしま ともき、1880年(明治13年)12月… 辛島 知己(からしま ともき、1880年(明治13年)12月12日 – 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の内務官僚。熊本市長。 熊本県熊本市に辛島格の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、高等文官試験に合格した。衆議院試補、同書記官を経て、岩手県理事官、山梨県警察部長、静岡県警察部長、静岡県内務部長を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、熊本市長に選出された。 1930年(昭和5年)より関東庁事務官となり、大連民政署長、専売局長事務取扱を務めた。 その後は帝国発明協会専務理事・研究所総務部長となり、1943年(昭和18年)には関東州住宅営団理事長に就任した。
松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1… 松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1919年1月22日)は、日本の俳人。 山形県谷地町生まれ。1907年曹洞宗大学(現 駒澤大学)、1911年京都帝大文学部卒業。別名・通称、湛堂。山形県谷地町の定林寺巨勢寂湛によって得度。1911年、母校曹洞宗大学講師となる。俳句は大須賀乙字に学び、作家として特異な地歩を占めていた。著書に名和三幹竹編「月嶺句集」がある。大正8年1月22日逝去、39歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10… 土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10日 - 1950年(昭和25年)11月12日)は、衆議院議員(立憲民政党)、尾道市長。 広島県御調郡栗原村(のち栗原町、現尾道市)出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。その間、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて尾道市長を務めた。 戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、間もなく公職追放となった。
浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治1… 浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治13年)12月9日 - 1926年(大正15年)9月8日)は、明治末から大正期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福岡市会議長。清蔵の表記有り。 鹿児島県 姶良郡、のちの加治木村(加治木町を経て現姶良市)で、浜田清四郎の二男として生まれた。1905年(明治38年)慶應義塾大学政治科を卒業した。 時事新報記者となりロンドン特派員、経済部長などを務めた。千代田生命保険に転じ、福岡支部長などを務めた。その後、博多商業会議所副会頭、諏訪炭礦専務取締役、西部合同瓦斯会社(現西部ガスホールディングス)社長、日本水電取締役などを務めた。 政界では、福岡市会議員に選出され、同議長にも在任した。
お鯉(おこい、1880年12月8日 - 1948年8月14日… お鯉(おこい、1880年12月8日 - 1948年8月14日)は、芸妓から、のちに政治家桂太郎の愛妾になり、晩年に尼僧となった女性。本名は小久江(のち安藤)照。 東京・四谷見附の漆問屋に生まれ(貰い子とも)、6歳で新宿の引手茶屋主人・安藤兼作の養女となるも養家の家産が傾き、14歳で新橋「照近江」の芸者となり花柳界に入る。のち市村羽左衛門と結婚したが、間もなく離婚して花柳界に戻った。24歳ころ、山縣有朋の紹介で60歳近い桂太郎の愛妾となり、赤坂榎坂町に暮らし、病気がちな本妻可那子に代わって桂の世話をした。日比谷焼討事件では「桂とともにお鯉を殺せ」の声が上がり、榎坂町の自邸が焼かれた。 1913年、桂の死後は待合や銀座カフェー・ナショナルを経営した。
近藤 寿一郎(こんどう じゅいちろう、1880年〈明治13年… 近藤 寿一郎(こんどう じゅいちろう、1880年〈明治13年〉12月8日 - 1958年〈昭和33年〉11月7日)は、日本の実業家、林業並びに製薬業鋼商。近藤家第7代。 鳥取県日野郡根雨宿(のち日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤喜兵衛の長男。近藤家は製鉄業を営み、大山林地主である。大阪工業学校(現大阪大学工学部)に学んだが、中退する。 1912年、根雨銀行監査役に就任する。1913年、日野郡根雨町に木材乾溜工場を設立する。1914年、日野郡是製糸取締役となる(後に社長)。1916年、酢酸精製工場として大阪府堺市に近藤製薬工場を建設する。1920年、日野郡教育会長に就任する。 1921年、日野郡木炭同業組合副会長に就任する。
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治… 内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治13年)12月6日 - 1971年(昭和46年)1月7日)は日本の実業家、政治家。
松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 -… 松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 - 1958年1月14日)は、日本の歴史学者、俳人。東京文理科大学名誉教授、野辺地町名誉町民。「金鶏城」と号した。 青森県上北郡野辺地村(後の野辺地町)に生まれる。1903年、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学法科に進んだが、1904年に東京帝国大学文科大学史学科に入学。1908年に卒業 卒業後は慶應義塾普通部の教員となり、1919年に第六高等学校教授となった。1915年にはシカゴ大学への留学を経験する。1930年、東京文理科大学助教授となる。1931年に教授に昇進し、国史学教室主任として後進を指導した。1943年に東京文理科大学を定年退職し、1944年に同大学名誉教授となった。
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)… 今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。米沢中学校を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校(30期)を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。この時席次は百武源吾と入れ替わり首席となった。日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵32期の指導にあたり、日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。「須磨」乗組、「鹿島」回航委員、同分隊長などを経て、海軍砲術学校特修科を首席で修了。