田中 利勝(たなか としかつ、1897年(明治30年)3月1… 田中 利勝(たなか としかつ、1897年(明治30年)3月12日 - 1961年(昭和36年)11月2日)は、日本の社会運動家、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)。 栃木県上都賀郡足尾町(現日光市)で、田中秀助、サヨ夫妻の二男として生まれた。1911年、足尾尋常小学校卒業と同時に足尾銅山の坑夫となる。 1918年米騒動を契機に社会運動に関心を持ち、1919年、足尾銅山に結成された大日本鉱山労働同盟会に加わり役員に就任。同年11月、坑夫の待遇改善運動のため入獄し、1920年、東京控訴院で執行猶予の有罪判決を受けて足尾銅山を解雇された。同年9月、福島県安積郡郡山町に移り、郡山電気(後の東部電力)に入社。
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青木 源吉(あおき げんきち、1897年(明治30年)3月7… 青木 源吉(あおき げんきち、1897年(明治30年)3月7日 - 1973年(昭和48年)1月27日)は、日本の政治家。栃木県今市市長、栃木県議会議員を務めた。 今市町室瀬に生まれる。今市尋常高等小学校を卒業。1929年(昭和4年)、今市町会議員に当選し、1947年(昭和22年)まで務める。1947年4月、今市町長選挙に立候補するが、現職の熊谷安正に敗れる。1948年(昭和23年)2月27日、熊谷が町長在任のまま死去。町長死去に伴う選挙は同年4月25日に行われ、無所属で立候補した青木が当選した。 町長在任中の1949年(昭和24年)に発生した今市地震では復興に努力した。1952年(昭和27年)4月23日の町長選挙では青木の他に立候補者がなく無投票で再選。
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河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月… 河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月22日 - 1982年(昭和57年)8月11日)は、日本の航空技術者、実業家。三菱重工業社長。栃木県大田原市生まれ。次女は岩倉具忠の夫人。 1921年、東京帝国大学工学部機械科を卒業し、三菱内燃機製造に入社する。 三菱内燃機製造では機体設計を担当した。 1937年、陸軍九七式司令部偵察機の主任設計技師を務める(同機の試作機の1機は朝日新聞社に払い下げられ、ロンドンへの飛行を実施した「神風号」として著名になった)。このほか、海軍の九六式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機などの軍用機の設計に関与した。 三菱重工第一製作所、川崎機器製作所各所長を経て、1950年に三菱日本重工取締役となる(同年、三菱重工業は財閥解体により3社に分割)。
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鈴木 醇(すずき じゅん、1896年10月1日 - 1970… 鈴木 醇(すずき じゅん、1896年10月1日 - 1970年3月12日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・岩石学。理学博士(東京大学・1930年)(学位論文「Petrological study of the crystalline schist system of Shikoku, Japan(四國に於ける結晶片岩系の岩石學的研究)」)。北海道帝国大学教授を歴任。栃木県宇都宮市生まれ。 1914年、旧制宇都宮中学校を卒業。1918年、第二高等学校を経て東京帝国大学理学部地質学科へ入学。1921年卒業後助手となり、加藤武夫教授の下で鉱床学の研究を始める。1924年第一高等学校教授となり、1928 - 30年、スイスのチューリヒ大学に留学する。
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菊地 吉治郎(きくち よしじろう、1896年7月31日 - … 菊地 吉治郎(きくち よしじろう、1896年7月31日 - 1967年9月19日)は、日本の経営者。札幌テレビ放送社長を務めた。栃木県出身。 1914年に真岡中学校を卒業。1920年2月に北海タイムス記者に就任し、1950年1月には社長に就任。1957年4月から1961年5月までに札幌テレビ放送社長を務めた。 1967年9月19日腺癌のために死去。71歳没。
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菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月2… 菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月20日 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の政治家。栃木県真岡市長(2期)。 真岡市出身。1912年、芳賀農林学校卒業。1920年、栃木県庁に入る。県庁内では秘書、商工各課長、知事官房主事などを務め、東京都繊維配給に転じ、経理総務各部長を歴任し、その後は栃木県監査委員、県人事委員会委員長などを務めた。1954年、合併による真岡町の町長選挙に立候補し、当選する。真岡町は同年10月に市制施行し、真岡市長となった。市長を2期務め、1967年に市長を退任した。ほか、栃木県土地改良事業団体連合会会長、穴川土地改良区連合会理事長を歴任した。
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山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月1… 山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月15日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
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手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年… 手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年)4月12日 - 昭和18年(1943年)5月3日)は、日本の経済学者。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授や東亜同文書院大学教授を務め、日本への近代経済学の導入を行った。 栃木県出身。宇都宮市立宇都宮商業学校(現栃木県立宇都宮商業高等学校)を経て、無試験入学で小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に進学し、1916年に同卒業。1919年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部経済科卒業。福田徳三ゼミ出身。 経済学及び統計学研究のため、1920年から1926年までイギリス、アメリカ、フランスに留学。1921年小樽高等商業学校教授、叙従七位。オーストリア学派などの日本への導入を行った。
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新居 善太郎(あらい ぜんたろう、1896年1月16日 - … 新居 善太郎(あらい ぜんたろう、1896年1月16日 - 1984年1月12日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。公園緑地施策にも多く関わった。 栃木県足利市出身。染料商・新居倉造の四男として生まれる。 佐野中学、第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1922年2月、内務省に入り東京府属となり、内務部庶務課に配属。同年11月、高等試験行政科試験に合格。 1923年3月、広島県佐伯郡長に就任。1926年5月復興局建築部に事務官として在勤。さらに同局建築部庶務課長を務め、市街地建築物法の法文案を起草、土地区画整理事業の実施に寄与する。以後、内務事務官・土木局勤務、兼内閣総理大臣秘書官(斎藤実総理)、兼文部大臣秘書官(斎藤総理、大臣兼務)を歴任。
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菅谷 北斗星(すがや ほくとせい、1895年11月27日 -… 菅谷 北斗星(すがや ほくとせい、1895年11月27日 - 1962年1月21日)は、日本の将棋観戦記者の草分け。本名は菅谷 要。 栃木県栃木市出身。県立栃木中学校卒業後、慶應義塾大学部理財科にはいるも中退。早稲田大学英文科卒業。大衆文藝を志す。 菊池寛の紹介で、当時将棋観戦記で活躍していた大崎熊雄の助手となる。1927年、将棋観戦専門記者として読売新聞に入社。この時筆名として「北斗星」を採用。1937年の坂田三吉・木村義雄の京都南禅寺決戦を始め、多くの観戦記・随筆を手がけた。 一方で将棋史研究にも手をそめ、関連するエッセイを多数発表している。
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相羽 有(あいば たもつ、1895年8月8日 - 1979年… 相羽 有(あいば たもつ、1895年8月8日 - 1979年4月6日)は、日本の民間航空業及び自動車業の草分けとして活躍した実業家。1916年(大正5年)羽田の地に日本飛行学校を設立し、後の東京国際空港(羽田空港)の礎を築いた。通称・羽田の父。 日本最初期の自動車学校も開設しており、日本のスチュワーデス(エア・ガール)の生みの親としても知られる。 1895年(明治28年)8月に栃木県宇都宮町伝馬町の呉服商相瀬屋・相羽正吉の四男として生まれる。家は裕福だったが4歳で父を、5歳で母を亡くし、伯父の田中千代吉に養育された。 小学生の頃にはライト兄弟初飛行のニュースに大きな衝撃を受ける。その後、宇都宮商業学校を中途退学し、横浜にあった英国人学校のフェアモント・アカデミーに入学。
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高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)… 高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)4月13日 - 1974年(昭和49年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板町針生に生まれる。旧制 大田原中学校 卒業(明治45年、第6回卒)。矢板町会議員、栃木県会議員を経て、1942年(昭和17年)に矢板町長に就任。町長は1945年(昭和20年)10月31日まで務めた。 1955年(昭和30年)2月、合併に伴う矢板町長選挙に立候補したが大島喜一郎に敗れた。その後、1959年(昭和34年)2月の矢板市長選挙で当選し、市長は1963年(昭和38年)2月16日まで務めた。市長在任中には、小学校の改築や道路整備などを行い市勢の発展に尽力した。
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上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 … 上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 - ?)は、日本の実業家。 栃木県宇都宮市生まれ。肥料商、栃木県多額納税者・上野松次郎の三男。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。 藤本ビルブローカー本店東京支店各勤務。下野製紙取締役東京支店長、三和製紙、旭土地各取締役をつとめる。 五代上野松次郎の三男、六代上野松次郎の弟である。1928年、分家した。趣味は洋画、登山、書道。宗教は曹洞宗。東京府在籍で、住所は東京市本郷区駒込上富士前町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
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吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27… 吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27日 - 1984年(昭和59年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。吉原文平の二男として生まれる。栃木県立真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し鉄道連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し鉄道第1連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)1月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、工兵監部員、陸大教官、陸軍省整備局課員、軍務局課員(兵務課)などを務め、1934年(昭和9年)8月、工兵中佐に昇進。
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柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉… 柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉9月2日 - 1993年〈平成5年〉11月18日)は、日本の実業家。日本航空初代社長を務めた。 栃木県足利町(現足利市)に生糸商・柳田武一郎、さとの次男として生まれる。 高等科2年を終えた、数え年で13歳のとき、上京して諸井時三郎の養子となった。諸井時三郎の妻くらは母さとの妹である。 京華中学校、第一高等学校を経て1917年(大正6年)4月に東京帝国大学を卒業するとともに、日本銀行へ入行する。 1942年(昭和17年)5月に日銀理事となり、1945年(昭和20年)10月に日銀副総裁に就任。しかし、国の外資事業の責任者であったことから、1946年(昭和21年)6月に公職追放を受け、日銀を去る。
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千葉 省三(ちば しょうぞう、1892年(明治25年)11月… 千葉 省三(ちば しょうぞう、1892年(明治25年)11月27日 - 1975年(昭和50年)10月13日)は、日本の児童文学者、編集者。 1892年(明治25年)12月12日、栃木県河内郡篠井村(現・宇都宮市)で小学校教員の父・亀五郎と母・ハマの長男として出生。1894年(明治27年)に亀五郎が吉沢尋常小学校(現・日光市立第三小学校)の校長になったため、一家で吉沢に引っ越した後、1898年(明治31年)に吉沢小の2年生に入学。1899年(明治32年)には亀五郎が楡木尋常小学校(現・鹿沼市立楡木小学校)に赴任したため転校し、現在の鹿沼市楡木町で育つ。1901年(明治34年)、南押原高等小学校(現・鹿沼市立南押原中学校)入学。
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小泉 善一郎(こいずみ ぜんいちろう、1892年(明治25年… 小泉 善一郎(こいずみ ぜんいちろう、1892年(明治25年)10月11日 - 1977年(昭和52年)5月15日)は、日本の政治家。栃木県(旧)佐野市長を務めた。 安蘇郡佐野町に生まれる。実家は織物業を営んでおり十代で家業を継ぐ。1929年(昭和4年)、佐野町議会議員に就任し以後14年間務める。また、1935年(昭和10年)9月から1939年(昭和14年)9月まで安蘇郡選出の県会議員を務めている。この他に、佐野織物工業組合理事長や日本綿織物工業組合連合会監事なども歴任している。 1942年(昭和17年)、佐野町長に就任。当時の佐野町は周辺の自治体との合併による市制施行を検討しており、小泉はその実現に向けて主導的役割を果たした。
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佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉7月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月19日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)。 栃木県河内郡豊郷村(現宇都宮市)出身。1909年(明治42年)栃木県立宇都宮農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)河内郡農会代議員に就任。その他、1929年(昭和4年)豊郷村会議員に選出され、同村消防組頭も務めた。1937年(昭和12年)満洲国に移り南満洲鉄道嘱託、軍人、官吏となる。 終戦後に帰国し、豊郷村農業会長、同農業協同組合長を務め、1947年(昭和22年)栃木県議会議員に選出され2期在任し、1951年(昭和26年)同議長となった。
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牧島 如鳩(まきしま にょきゅう、明治25年(1892年)6… 牧島 如鳩(まきしま にょきゅう、明治25年(1892年)6月25日 - 昭和50年1975年)12月31日)は、栃木県出身の画家で、日本ハリストス正教会の自給伝道者。本名は省三(せいぞう)、聖名はパウェル・ペートロイチ。若いころの号は朝陽、1926年(昭和元年)頃から如鳩、1962年(昭和37年)からは如九と名乗った。伝道の傍らイコンも手がける一方、観音や達磨など仏画や日本の八百万神のみならず、両者を習合した仏耶一如とも言える独特の絵を描いた。 1892年、栃木県梁田郡御厨村字上渋垂(現在の足利市上渋垂町)に、南画家で正教徒の牧島百祿の長男として生まれる。百祿は地元の日本画家・田崎草雲の弟子でもあった。
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落合 甚九郎(おちあい じんくろう、1892年(明治25年)… 落合 甚九郎(おちあい じんくろう、1892年(明治25年)3月28日 - 1971年(昭和46年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県出身。栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1928年(昭和3年)8月、陸士付となり、さらに同教官を務め、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進。1930年(昭和5年)2月、応聘により支那出張となり北京陸軍大学教官に就任。1931年(昭和6年)3月、第7師団司令部付となり、歩兵第26連隊付、支那駐屯軍司令部付を経て、1934年(昭和9年)8月、歩兵中佐に進み第2師団参謀に就任。
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栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1… 栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。 1892年2月5日、栃木県下都賀郡(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)の農家に長男として生まれる。遅くに誕生した男子だったことで「家を守り立てて欲しい」との願いから“守也”と名付けられた。幼少期から家業を手伝いつつ漢学塾に通いながら、自宅近所にあった岩船山の石を人力トロッコで渡良瀬川へ運ぶ仕事に従事し、強健な体になる。17歳で結婚するが、18歳の時に妊娠中だった妻を残して上京し、出羽ノ海部屋に入門する。
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生田 龍作(いくた りゅうさく、1892年〈明治25年〉1月… 生田 龍作(いくた りゅうさく、1892年〈明治25年〉1月25日 - 没年不明)は、日本の政治家。全日本金属鉱山労働組合連合会中央執行委員長・栃木県県議会議員(後に副議長)。
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田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1… 田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1月9日 - 1957年〈昭和32年〉7月24日)は、日本の仏教学者。大正大学教授。真言宗豊山派大僧正。 チベット語に訳された仏教文献の精査解読とそれに基づくチベット訳と漢訳の仏典対照研究の先駆けとなった。 大正末期、日本におけるチベット語の先駆者河口慧海に師事しチベット語を修得。昭和初期にフランスに渡りソルボンヌ大学に留学。チベット訳の『大日経』や曼荼羅の研究に学績を残した。また大戦後、花山信勝の後を受けて巣鴨拘置所の教誨師となり、刑場に臨む戦犯に寄り添い処刑に立ち会うとともにBC級戦犯の助命減刑嘆願にも奔走した。その「代受苦」(地蔵菩薩の身代りの徳)の活動が多くの戦犯から感謝され、「巣鴨の父」と慕われた。
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大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)… 大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)1月25日 - 1980年(昭和55年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板村幸岡に生まれる。塩谷郡書記などを経て、1944年(昭和19年)に矢板町助役に就任。1947年(昭和22年)4月から1951年(昭和26年)4月まで塩谷郡選出の栃木県議会議員を務めた。 1955年(昭和30年)2月17日、合併に伴う矢板町長選挙が行われ、大島がいずれも元矢板町長の高柳宰正と高橋保平を破り当選した。1958年(昭和33年)11月1日、矢板町の市制施行に伴い矢板市長に就任し、市長は1959年(昭和34年)2月16日まで務めた。町長および市長在任中には公共施設の整備や合併後の地域の一体化に努力した。
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柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 -… 柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 - 1973年1月26日)は、日本の右翼で教育者。国士舘創立者。正四位勲二等、瑞宝章受章。経済学博士。
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上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1… 上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1978年7月7日)は、日本の児童文学者童話作家教育者である。 1890年に栃木県上都賀郡東大芦村(現 鹿沼市)に生まれる。地元の引田尋常小学校および高等科を卒業して上京。日本銀行に見習いとして採用される。1907年、日本基督教団日本橋教会で洗礼を受け、以後、キリスト者の道を歩む。1919年に結婚した後に日本銀行を退職、アメリカ合衆国へ留学する。1923年にワシントン州立大学教育学部卒業後、帰国。子供之友編集主任、日本キリスト教文化協会長などを歴任する。1938年、洗足幼稚園の経営を引き継ぐが、戦局の悪化に伴い1944年に休園。やがて1945年3月の東京大空襲により幼稚園が焼失し、郷里に疎開させていた家族のもとへ戻る。
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坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)… 坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)11月15日 – 1970年(昭和45年)12月28日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、栃木県河内郡姿川村長。栃木県を代表する戦後昭和期の農業指導者。 栃木県河内郡姿川村下欠(現宇都宮市)で、坪山弥重、トモの二男として生まれる。1910年(明治43年)栃木県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業した。 その後、家業の農業に従事。徴兵され、その後、陸軍砲兵中尉に昇進し、帝国軍人教育会地方委員、帝国在郷軍人会姿川分会長、同河内郡連合分会長などを務めた。また、地方森林会議員、栃木県馬匹畜産組合連合会副会長、同養蚕組合連合会副会長などにも就任した。
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上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8… 上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8日 - 1953年(昭和28年)12月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 栃木県芳賀郡中村(現在の真岡市)に栃木県会議員上野大太郎の三男として生まれた。真岡中学校、第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。西沢金山株式会社社員、第一生命保険相互会社社員、下野電力株式会社支配人、野州電気株式会社専務取締役などを務めた。その後、弁護士を開業し、栃木県会議員に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
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村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1… 村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1968年8月8日)は、日本の商工官僚、政治家、実業家。商工次官、貴族院議員、法制局長官、綜合計画局長官。 栃木県宇都宮市出身。本籍・愛知県。村瀬七三郎の長男として生まれる。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、兵庫県立洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)、第五高等学校を経て、1914年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。1913年11月、文官高等試験に合格し、1914年7月、農商務省に入り農商務属・大臣官房文書課に配属された。 鉱業監督官、兼工場監督官、兼農商務参事官、法制局参事官、内閣書記官・内閣官房会計課長、法制局第二部長などを歴任し、その間1925年に農商務省が農林省と商工省に分割され、商工省に属した。
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岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 -… 岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 - 1934年6月25日)は、現在の栃木県宇都宮市出身(出生地は福島県白河市)で清見潟部屋に所属した大相撲力士。本名は横越 孫平(旧姓兼子)。7代清見潟。171cm、87kg。最高位は東前頭6枚目。 1906年1月初土俵、1910年6月新十両昇進。一時幕下に陥落していたが、1912年1月に十両に復帰した後、1915年1月に十両優勝を記録し、1915年6月に新入幕。土俵度胸が良く、立ち合いからの駆け引きもうまく、上突っ張りから右四つ、寄りの速い取り口を得意とした。いつもニコニコして、力士仲間からは「孫さん」と言われ親しまれた。二枚鑑札となった1920年5月に引退し、その後は木戸部長を務めて1930年に廃業した。
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宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15… 宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、現在の栃木県鹿沼市出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は上沢 新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。最高位は前頭2枚目。話のうまさで知られ、明治 - 大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。 常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。立ち合いのさまは実に精悍で、長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で2度の8勝2敗がある以外は2 - 6勝の成績に終始した。現役時代を通して上の名前の改名はなかったが、下の名前については現役前期には本名と同じ「新七郎」を名乗っていたが、1916年1月「新八郎」、同年5月「新七郎」とし、1917年1月からの現役後期には引退まで「新八郎」を名乗った。
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石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2… 石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2月11日 - 1936年(昭和11年)3月25日)は、大正-昭和時代前期の日本画家。本名は石川寅寿。 1890年(明治 23年)2月11日栃木県那須郡黒羽町大字北野上(現:栃木県大田原市北野上)石川渉・カネ夫妻の次男として生まれる。本名の虎寿は、干支にちなんでいる。黒羽尋常小学校、大田原中学校を卒業後、1909年(明治42年)に19歳で上京、郵便局員として働くかたわら太平洋画会研究所に通って洋画を学び、その一方で佐竹永邨に日本画を習う。1910年(明治43年)肺炎を患い、夏の徴兵検査に不合格。1911年(明治44年)帰郷・結婚し、代用教員として勤務するかたわら、頃から西那須野の雲照寺に参禅し、釈戒光の感化を受け、「寒巌」の道号を与えられる。
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瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年)10月3日 … 瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年)10月3日 - 昭和29年(1954年)5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
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村上 啓作(むらかみ けいさく、1889年(明治22年)6月… 村上 啓作(むらかみ けいさく、1889年(明治22年)6月16日 - 1948年(昭和23年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県喜連川町鷲宿(現:栃木県さくら市鷲宿)出身。農業・村上角次の四男として生れる。鷲宿小学校、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を優等で卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を優等で卒業した。 陸軍技術審査部付(軍事調査部)、歩兵第3連隊付(ロシア出張)、ロシア駐在、陸大教官、兼参謀本部員、参謀本部員、陸大教官、陸軍省軍務局課員(軍事課)、歩兵第34連隊長、陸軍歩兵学校教導隊長、陸軍省兵務課長などを歴任し、二・二六事件当時は軍事課長であった。
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二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月2… 二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月22日 - 1909年(明治42年)8月18日)は、日本の伯爵。北白川宮能久親王の庶子で、後にその父子関係が確認されて華族に列せられた。旧姓は山本。 北白川宮能久親王の庶子として栃木県に生まれる。生母は側室の申橋カネ。申橋家は栃木県平民で、日光輪王寺宮元家司に申橋姓がある。 1891年(明治24年)、能久親王の信任が篤かった浅間牧場主事の黒岩有哉に密かに預けられ、群馬県吾妻郡長野原町で3年間を過ごしたのち、1894年(明治27年)から応桑村小学校(当時、現・長野原町立応桑小学校)に学んだ。当時は、快活で明朗大胆な性格だった。 1895年(明治28年)10月28日、父能久親王と死別。
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麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21… 麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21年)11月1日 - 1969年(昭和44年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県出身。麦倉奉蔵の四男として生れる。宇都宮中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第65連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 1921年(大正10年)5月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第19師団参謀、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)などを経て、1927年(昭和2年)10月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)12月、歩兵第61連隊大隊長となり、歩兵第27連隊付、第1師団参謀、陸軍歩兵学校教官などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11連隊長に就任した。
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島田 善介(しまだ ぜんすけ、旧名:福田 子之助、1888年… 島田 善介(しまだ ぜんすけ、旧名:福田 子之助、1888年10月7日 - 1955年1月29日)は、栃木県氏家町(現・さくら市)出身の野球選手。 慶應義塾普通部では1年生からレギュラー遊撃手であった。 慶應義塾大学へ進学すると捕手にコンバートし、1906年秋に中止となった早慶戦にも出場していた。また、ハワイ遠征やアメリカ遠征に参加した。強肩で有名であり、二塁送球が鮮やかと評され名物であった。 大学卒業後は「島田善介」と改名し、引き続き三田倶楽部でプレー。 1922年11月に来日した米大リーグ選抜チームとの試合では小野三千麿とバッテリーを組み9対3で勝利し、自身も1回にホームランを打っている。 晩年は日本学生野球協会審査委員、副会長を歴任した。
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湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月2… 湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月20日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、大正・昭和期の日本の政治家、内務官僚。宮城・広島・兵庫県知事や東條内閣の内務大臣を務め、戦後も自由民主党参議院議員として活動した。
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若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 - … 若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 - 1941年11月12日)は、現在の栃木県栃木市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は北条 義(旧姓岡本)。4代富士ヶ根。167cm、96kg。最高位は西小結。得意技は押し、右四つ、寄り。 1905年5月場所初土俵、その後一時病気で帰京し、大坂相撲の朝日山部屋で修業した後再び東上。広い肩幅、重い腰を利した右差しからの寄りで、1913年1月場所に新入幕、「若湊」と改名した後の1919年1月新鋭常ノ花を破るなど5勝5敗、翌1919年5月場所に小結昇進。1922年1月場所限りで引退し、4代富士ヶ根を襲名。弟子は冨士ヶ嶽孝一郎を育てた。協会内では理事を務め、金庫番となった。
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大島 定吉(おおしま さだきち、1887年10月8日 - 1… 大島 定吉(おおしま さだきち、1887年10月8日 - 1977年10月28日)は、日本の政治家。位階は正五位。 衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。栃木市長。 栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木市)出身。足利工業学校卒。家業の染色業に従事し、のち煙草小売業に転身する。県懐炉灰組合、栃木煙草協同組合各理事長を務める。栃木町議から栃木県議を経て、1945年7月栃木市長に就任する。翌1946年3月に退任。4月の第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた後1947年4月の第1回参議院議員通常選挙に民主党から立候補して当選した。1953年の第3回参議院議員通常選挙で自由党公認で立候補したが落選した。
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半田 良平(はんだ りょうへい、1887年(明治20年)9月… 半田 良平(はんだ りょうへい、1887年(明治20年)9月10日 - 1945年(昭和20年)5月19日)は、日本の歌人。 栃木県上都賀郡北犬飼村深津(鹿沼市深津)出身。北犬飼東尋常小学校(現・鹿沼市立津田小学校)、姿川尋常高等小学校(現・宇都宮市立姿川中央小学校)卒。宇都宮中学在学中に下級生の千葉省三と親交を結ぶ。短歌欄の投稿を通じて松村英一、植松寿樹らと知り合い、窪田空穂を中心に結成された十月会に参加。旧制第二高等学校を経て東京帝国大学英文科を卒業。同大学院に進学するも、現役補充兵として召集されたため、退学。その後、空穂主宰の短歌結社である「国民文学」の中心的人物となり、中学の英語教師のかたわら短歌・評論などを多く書いた。
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6代上野 松次郎(うえの まつじろう、1887年〈明治20年… 6代上野 松次郎(うえの まつじろう、1887年〈明治20年〉8月31日 - 1954年〈昭和29年〉10月5日)は、日本の商人(油屋、肥料商)、政治家(貴族院議員)、栃木県多額納税者、実業家、銀行家。下野貯蓄銀行頭取。前名・順一。勲四等。 栃木県宇都宮市本郷町出身。上野松次郎の長男。1936年、父・松次郎の隠居により家督を相続し、翌1937年に6代目松次郎を襲名し、家業の肥料商を継承した。 また銀行、会社の重役であった。宇都宮商工会議所会頭、栃木県農工銀行頭取、下野貯蓄銀行頭取。また1925年(大正14年)に鹿沼銀行、宇都宮銀行、下野実業銀行、喜連川銀行、烏山産業銀行、今市銀行が合同して発足した下野中央銀行の頭取となった。
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山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月… 山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉三鷹市民。本名は山本 勇造。 人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。 第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。 呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。
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松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 -… 松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 - 1975年9月1日)は、日本の動物学者、地質学者、古生物学者、人類学者、考古学者、博物学者。 大正時代に、仙台湾周辺の貝塚において層位学的な発掘調査を行い、科学的・実証的な発掘調査法と編年学の基礎をつくった。戦後、花泉遺跡の調査を行い、ハナイズミモリウシ(Lephobison hanaizumiensis)の命名者としても著名である。日本哺乳動物学会名誉会員。 動物分類学を出発点に、初めて詳細な土器の型式分類を試み、その紋様構成の系統について進化論的な新しい見方を示したほか、地質学における分層発掘の方法を取り入れ、堆積層によって土器の紋様・厚さ・器種の構成比が異なってくることを見出し、日本最初の層位学的な研究を実施、考古学における層位論研究の開祖となった。
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君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。叔父に九州帝国大学(現・九州大学)元教授である君島武男がいる。 1887年4月16日、栃木県生まれ。栃木県塩谷郡塩原町(現・那須塩原市)の君島五郎の長男。君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営んでいる。 1905年3月、栃木中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)卒業。旧制第一高等学校へと進学する。第一高等学校では野球部に所属し、2年先輩であった中野武二の後継者として、1907年から1908年までの2年間二塁手を務めた。
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君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月16日 - 1975年(昭和50年)4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。
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清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 … 清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)で、清水藤十郎・ムラ夫妻の長男として生まれる。弟は東亜同文書院教授や外交官となった清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
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小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - … 小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - 1960年4月3日)は、栃木県出身の日本の政治家、実業家。 1886年(明治19年)9月10日、栃木県下都賀郡石橋町(現下野市)に生まれる。栃木県立宇都宮農学校(のち栃木県立宇都宮農業高等学校、現在の栃木県立宇都宮白楊高等学校)卒業、明治大学予科を中退。1927年(昭和2年)の栃木県会議員選に立候補し当選し3期務める。1930年からは6年間は石橋町長も兼任した。 1937年(昭和12年)には第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では推薦に漏れ落選した。1947年(昭和22年)4月に初代公選栃木県知事に当選。
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川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - … 川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - 1971年10月6日)は、日本の洋画家。栃木県足利市出身。 1886年3月9日、栃木県足利市に生まれる。1890年、祖父母と共に東京へ転居。 1905年、アメリカへ渡り、ワシントンのコーコラン美術学校に入学、1910年に同校卒業。なお、同校在学中の1906年にはニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインへ特待生として学び、褒状を得ている。 1911年にはフランスへ渡って、まずはパリのアカデミー・ジュリアンへ、その後アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌1912年にサロン・ドートンヌで入選した。この時期、フランス当地のフォーヴィスム、キュビスムの新運動隆盛に刺激を受け、藤田嗣治、パブロ・ピカソなどと交友を結んだ。
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若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不… 若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名同じ。雅号を若山 南柯(わかやま なんか)とする。監督作はいっさい現存していないが、溝口健二の映画界入りのきっかけとなり、師となったことで名を残す。 1886年(明治19年)2月25日、栃木県足利郡足利町(現在の同県足利市)に生まれる。 最終学歴は旧制中学校卒業である。卒業後、薬局に勤務したり、弁護士の書生を務めたり、俳諧師の門下に入ったりといった経歴を経て、1919年(大正8年)6月、満33歳のときに日活向島撮影所に入社する。翌1920年(大正9年)には監督に昇進し、同年9月18日に公開された『罪の影』が、記録残るもっとも古い監督作である。
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