相賀 徹夫(おうが / おおが てつお、1925年〈大正14… 相賀 徹夫(おうが / おおが てつお、1925年〈大正14年〉6月15日 - 2008年〈平成20年〉12月21日)は、日本の実業家。小学館第2代社長、株式会社集英社初代会長、日本書籍出版協会理事長、日本雑誌協会理事長。昭和から平成までの54年間にわたって社長(1938年 - 1992年)を務めた小学館中興の祖。 小学館の初代社長相賀武夫とその妻ナヲの長男として東京に生まれる。1938年、父の死去に伴い13歳で社長職を継いだ。 成蹊小学校、旧制成蹊高等学校(文科甲類)卒業後、東京帝国大学文学部宗教学科で和辻哲郎に師事。在学中、1945年に小学館を株式会社へ改組。1947年に大学を中退して家業に専念する。
山崎 富治(やまざき とみじ、1925年5月30日 - 20… 山崎 富治(やまざき とみじ、1925年5月30日 - 2014年4月16日)は日本の実業家。山種証券(現SMBCフレンド証券)社長、会長、日本青年会議所会頭、山種美術館館長を歴任。「報告」「連絡」「相談」を重視する「ほうれんそう(報・連・相)経営」を提唱したことでも知られる。
岩崎 福三(いわさき ふくぞう、1925年3月11日 - 2… 岩崎 福三(いわさき ふくぞう、1925年3月11日 - 2012年2月29日)は日本の実業家で、鹿児島県に本拠を置く企業集団・岩崎産業の会長。 鹿児島県出身。旧制立教中学校(現:立教池袋中学校・高等学校)を経て、1948年に立教大学経済学部を卒業。1965年千石運送社長、1968年岩崎産業副社長、1972年鹿児島交通社長。岩崎産業の創業者であった父・與八郎から同社を引き継ぎ、1981年にその社長に就任。 後に息子の芳太郎にその役を譲り、同社の会長に就任した。 鹿児島商工会議所の会頭・名誉会頭、指宿市の岩崎美術館の理事長、鹿児島経済同友会の特別幹事、鹿児島県バス協会の名誉会長、鹿児島日仏協会の会長なども務めるなど、地元鹿児島県の経済界の主導者として活躍。
小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 20… 小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日)は、日本の実業家、ヤマト福祉財団元理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。 小倉康臣の次男として代々木に生まれた(長男は早世)。1937年幡代小学校卒業。同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。1942年秋、東京高等学校高等科卒業。1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。1948年9月1日、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社。 入社から半年後の1949年2月2日に肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復し、1953年7月9日に退院し復職した。
吉田 冨士雄(よしだ ふじお、大正13年(1924年)7月5… 吉田 冨士雄(よしだ ふじお、大正13年(1924年)7月5日 - 平成2年(1990年)7月28日)は、山梨県出身の大蔵官僚、サントリー株式会社副社長。 東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区)で、父吉田健(つよし)、母欣子の長男として生まれる。父親の転勤により小学校5年までを新潟県師範学校附属小学校、小学校6年まで鳥取県師範学校附属小学校、旧制中学校2年まで鳥取二中(現在の鳥取県立鳥取東高等学校)に通学。その後、甲府の父親の生家に帰り甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を経て、昭和18年(1943年)9月に第一高等学校文科丙類を卒業。東京帝国大学法学部に入学。 短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。
三田 勝茂(みた かつしげ、1924年(大正13年)4月6日… 三田 勝茂(みた かつしげ、1924年(大正13年)4月6日 - 2007年(平成19年)7月28日)は、日本の実業家、元日立製作所社長・会長。元経済団体連合会副会長。東京都出身。
相田 雪雄(あいだ ゆきお、1924年2月1日 - 2015… 相田 雪雄(あいだ ゆきお、1924年2月1日 - 2015年10月8日)は、日本の実業家。元野村證券(現野村ホールディングス)会長。東京都出身。 第一早稲田高等学院時代は竹下登と同級生であった。早稲田大学政治経済学部卒業後の1947年、野村證券に入社。主に国際畑を歩み、副社長を経て、子会社の野村投資顧問(現野村アセットマネジメント)の社長・会長を務めた。1992年、損失補てん問題や暴力団との取引が発覚した証券不祥事で田淵節也野村証券会長が引責辞任した後を受けて、会長として本社に復帰。意識・風土改革を呼びかけるなど社内改革に尽力した。 2015年10月8日、呼吸不全のため死去。91歳没。
渡辺 誠一郎(渡邊 誠一郎、わたなべ せいいちろう、1924… 渡辺 誠一郎(渡邊 誠一郎、わたなべ せいいちろう、1924年(大正13年)1月6日 - 2001年(平成13年)8月20日)は、日本の実業家。日本特殊鋼(現・大同特殊鋼)取締役。紺綬褒章受章。父親の渡辺三郎から引き継いだ「三日月宗近(国宝)」を始めとする数多くの名刀を寄贈したことで有名。 渡辺三郎・あい(小林弥七の妹、三郎の後妻)の長男として東京府に生まれる。1930年(昭和5年)4月、私立南高輪幼稚園を経て成蹊小学校に入学。以後1942年(昭和17年)7月、旧制成蹊高等学校理科甲類を卒業するまで、小中高一貫教育を受ける。 同年10月、東京帝国大学(第一)工学部冶金学科に入学し、父・三郎と同じ金属精錬を勉強する。
小田村 四郎(おだむら しろう、1923年〈大正12年〉10… 小田村 四郎(おだむら しろう、1923年〈大正12年〉10月17日 - 2017年〈平成29年〉12月9日)は、日本の大蔵官僚、経営者。明成社社長。拓殖大学第16代総長、日本李登輝友の会会長(第2代)、日本会議副会長などを務めた。小田村有芳の子、小田村寅二郎の弟、楫取道明の孫、千種有任・楫取素彦・楫取寿の曾孫。 東京府出身。学生時代は、日本学生協会の活動家として「現行の高校、大学には「情意の枯渇」がはなはだしい」と難じ、その刷新運動に参加した。1943年に学徒出陣。 終戦後に東京帝国大学法学部に復学卒業。1947年(昭和22年)大蔵省(現:財務省)に入省。理財局国庫課に配属。名古屋国税局長、内閣官房内閣審議室長、防衛庁経理局長などを務めた。
水野 惣平(みずの そうへい、1923年9月6日 - 198… 水野 惣平(みずの そうへい、1923年9月6日 - 1983年2月12日)は、日本の実業家。元アラビア石油社長。 実父は「アラビア太郎」・「満州太郎」あるいは「山師太郎」こと山下太郎、養父は「財界四天王」の一人として池田勇人を支えた水野成夫。 東京府立一中、旧制府立高等学校を経て、昭和23年、北海道大学理学部卒業。富国生命保険、日本開発銀行を経て、小林中事務所秘書役になる。昭和39年、富士石油専務、昭和43年、アラビア石油専務、46年、社長。社長就任わずか2年で同社会長となり、経団連理事に就任。 アップストリームからダウンストリーム・石油精製部門への進出や、昭和48年の石油ショック前、アラブ支持を打ち出すよう政府に要望する。
海部 八郎(かいふ はちろう、1923年6月29日 - 19… 海部 八郎(かいふ はちろう、1923年6月29日 - 1994年6月28日)は、実業家・元日商岩井副社長。ダグラス・グラマン事件の中心人物。 実家は東京都文京区小石川にあり、東京高等師範学校附属中学校か東京府立第一中学校、東京府立第四中学校への進学を希望していたという。 父は、元は師範学校の英語教師で、その後、浅野物産の幹部になり、高給取りだったため海部の家庭の生活水準はかなり高かったという。海部の中学時代、友人が20銭、50銭という小遣いしかもっていなかったのに対して、海部は5円、10円の札ビラをきったというエピソードがある。 中学時代は国語、漢文、地理、歴史といった文系科目が得意で、中でも英語の成績は抜群だった。
永谷 嘉男(ながたに よしお、1923年(大正12年)5月1… 永谷 嘉男(ながたに よしお、1923年(大正12年)5月16日 - 2005年(平成17年)12月28日)は、日本の実業家。 東京府東京市出身。永谷宗円の子孫の1人。永谷園創業者、名誉会長。 現在の東京都出身。東京市立京橋商業學校卒業後、太平洋戦争に従軍。復員後、戦争で焼失した実家の茶の製造業再建を目指し、「江戸風味お茶づけ海苔」を開発。1952年に発売され、瞬く間に大ヒット商品へと成長させた。 1953年株式会社永谷園本舗(現・株式会社永谷園ホールディングス)を設立。日本の和風料理に革新的なアイデアを取り入れ、インスタントの味噌汁(あさげ等)、お吸い物をはじめ、寿司のもと・すし太郎やふりかけなどを製造・販売。
河西乾二(かさい けんじ 1923年3月26日 - 1995… 河西乾二(かさい けんじ 1923年3月26日 - 1995年6月8日)は、日本の実業家。
永野 健(ながの たけし、1923年3月17日 - 2008… 永野 健(ながの たけし、1923年3月17日 - 2008年5月12日)は、日本の実業家。従三位勲一等工学博士。広島県安芸郡下蒲刈町三之瀬(現呉市)出身。 東京府立五中、第二高等学校を経て、東京帝国大学第一工学部卒業。父は運輸大臣を務めた永野護。元日本経済新聞編集委員の永野健二は次男。 大学卒業後の1945年、三菱鉱業に入社。コロンビア大学工学部冶金学科に留学。1962年工学博士(九州大学)。1982年に三菱金属の社長に就任。無公害などの特徴を持つ最後の銅精錬技術「三菱連続製銅法」の商業化を手がけた。また社長在任中、旧本社ビル建て替え・再開発(大手町ファーストスクエア)を主導し、大阪アメニティパークを建設した。
嶋 正彦(しま まさひこ、1923年〈大正12年〉3月13日… 嶋 正彦(しま まさひこ、1923年〈大正12年〉3月13日 - 2014年〈平成26年〉7月30日)は、日本の実業家である。元丸善石油(現・コスモ石油)社長。東京都出身。
金井 紀年(かない のりとし、1923年(大正12年)2月2… 金井 紀年(かない のりとし、1923年(大正12年)2月25日 - 2017年(平成29年)4月22日)とは、日本の実業家。共同貿易元社長。アメリカ合衆国における寿司ブームの仕掛人とされる。日本食海外普及功労者表彰・農林水産大臣賞受賞。また在外日本人選挙権訴訟原告団長を務め、日本国籍の在外投票実現に尽力した。 東京府豊多摩郡落合村 (現東京都新宿区下落合) で文部省官僚の父と、教員の母の下に3男として生まれる。10歳から柔道を始める。講道館柔道4段。 東京府立第九中学校(現東京都立北園高等学校)を経て、1941年東京商科大学(現一橋大学)予科入学。予科在学中の1943年に学徒出陣し、栃木県宇都宮市の大日本帝国陸軍東部第40砲兵連隊に入営。
横田 二郎(よこた じろう、1923年〈大正12年〉1月10… 横田 二郎(よこた じろう、1923年〈大正12年〉1月10日 - 2004年〈平成16年〉6月26日)は、日本の実業家、鉄道マンである。
関野 栄一(せきの えいいち、1923年 - 1999年4月… 関野 栄一(せきの えいいち、1923年 - 1999年4月13日)は、日本の実業家、馬主。 鉄骨工事や鉄道模型の製造・輸出などを手掛けた株式会社あかね製作所の代表取締役を務めていた。東京都八王子市出身。 1923年、東京都出身。経営者としては先述の事業のほか、としまえん(東京都練馬区)の「アフリカ館」の建設にも携わった。関野自身がアフリカへ赴き、研究を重ねて完成させたという。 1999年4月13日午後5時7分、心筋梗塞のため死去。76歳没。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は紫、赤袖、黄鋸歯形。冠名には経営していた会社名より「アカネ」を用いた。
住吉 弘人(すみよし ひろと、1922年(大正11年)12月… 住吉 弘人(すみよし ひろと、1922年(大正11年)12月7日 - 2008年(平成20年)1月9日)は、日本の経営者。コスモ石油社長を務めた。三井物産元社員で田中代表取締役社長の住吉望は三男。 東京都出身。神戸銀行元会長や石原産業社長を歴任した住吉四郎の長男として生まれる。 旧制東京高等学校卒業。1944年(昭和19年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1971年(昭和46年)1月に取締役、1973年(昭和48年)12月に常務取締役に就任。1974年(昭和49年)に大協石油に転じ、常務、専務を経て、1978年(昭和53年)8月に副社長に就任。 1986年(昭和61年)4月に大協石油と丸善石油の合併しコスモ石油設立に伴い、同社副社長に就任し、1987年(昭和62年)6月には社長に昇格。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1922年8月24日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1922年8月24日 - 2012年1月25日)は、日本の実業家。味の素創業者二代目鈴木三郎助の孫で、同社会長や名誉会長、日本食品添加物協会会長等を歴任した。 東京都港区出身。旧名鈴木重明。学習院高等科を経て、1946年東北大学法文学部卒業。1949年味の素入社。1961年取締役に昇格。1965年常務取締役。1969年専務取締役。1973年取締役副社長、日本油脂協会会長。1974年紺綬褒章受章。1975年取締役会長。1982年日本食品添加物協会会長。1988年レジオン・ドヌール勲章受章、全日本広告連盟理事長、日本宣伝クラブ理事長。1989年東京広告協会理事長。
石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010… 石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010年7月17日)は、日本のシャンソン歌手、エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業、東京音楽学校声楽専科卒業。 政治家・石井光次郎の次女として生まれ、母の勧めにより6歳からピアノを習う。ただ、歌は好きだがピアノは好きになれなかったという。ピアノを教えていた岡本たま(音楽家岡本敏明の妻)は、そんな好子にピアノを無理強いすることなく、ただ好きな歌を歌うよう勧めた。
諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2… 諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2013年6月23日)は、東京府北豊島郡出身の実業家、サッカー選手。
遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月… 遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月4日 - 2014年(平成26年)12月10日)は、日本の音楽評論家・実業家。日興證券会長を務めた遠山元一の長男。 遠山元一の長男として東京市麻布区笄町(現在の港区西麻布)に生まれ育つ。クリスチャンの家庭であり、一行自身もプロテスタントの信仰で育った。 1929年(昭和4年)、成城学園小学校に入学。同級に加藤一郎がいた。1933年(昭和8年)、澤柳政太郎没後の学園経営をめぐるトラブル、いわゆる成城事件(成城騒動)により小学6年時に自主退学し、第2学期から麻布区立南山小学校に転校。1935年(昭和10年)、府立高等学校尋常科に入学。第1学年2学期からピアノを朴啓成(後の属啓成)に師事。
石田 博(いしだ ひろし、1922年3月24日 - 2002… 石田 博(いしだ ひろし、1922年3月24日 - 2002年12月16日)は、日本の経営者、元日本交通公社(JTB)社長。東京都小平市出身。官立旧制和歌山高等商業学校(現:和歌山大学経済学部)卒業
東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 … 東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 - 1973年7月31日)は、東京市下谷区(現・東京都台東区)出身で高砂部屋(入門時は富士ヶ根部屋)に所属した大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。本名は井上 謹一(いのうえ きんいち)。 子供時代から巨躯・怪力で、大人に交じって家業の鉄工所を手伝っていたことから“下谷に怪童あり”と評判になる。その評判を聞きつけた富士ヶ根が勧誘して入門させ、1936年1月場所に初土俵を踏む。しかし、緊張から鍛え上げられた力を発揮できずに前相撲を通過して番付に載るまで2年を要したが、幕下時代から双葉山定次に目をかけられ、「キン坊、来い」と呼ばれては猛稽古で鍛えられた。
久米 豊(くめ ゆたか、1921年(大正10年)5月20日 … 久米 豊(くめ ゆたか、1921年(大正10年)5月20日 - 2014年(平成26年)9月10日)は、日本の実業家、元日産自動車社長、元日本自動車工業会会長。東京都出身。位階は従三位。
久保 正雄(くぼ まさお、1921年 - 1984年11月7… 久保 正雄(くぼ まさお、1921年 - 1984年11月7日)は、日本の実業家。政商。東日貿易創業者で、自民党政権や伊藤忠商事に太いパイプを持ち、インドネシアの戦後賠償ビジネスで巨万の富を得た人物。 1921年(大正10年)、東京深川生まれ。戦後に韓国からの海苔、アメリカ、インド、ギリシャなどからの食料品雑貨の輸入業に手を染め、高級乗用車が不足した時代に、GHQの軍人や来日牧師らの名義でアメリカの高級車を輸入し、東芝など日本の大企業などに転売して荒稼ぎした。この時期に町井久之と知り合ったとされる。1955年、東京銀座に資本金5千万円で東日貿易を設立した。株主には大野伴睦や河野一郎、児玉誉士夫らが名を連ね、東日貿易は、自民党の裏の政治資金ルートの一つになった。
池永 次郎(いけなが じろう、1920年1月9日 - 201… 池永 次郎(いけなが じろう、1920年1月9日 - 2016年1月16日)は、日本の実業家。日魯漁業(現・マルハニチロ食品)の元社長。 東京府出身。東京府立第一中学(現・日比谷高校)四修卒を経て、水産講習所(現・東京海洋大学)卒業。一中ではのちにNHK経営委員長となる竹見淳一らと同期。日魯漁業入社。取締役を経て、1973年に常務、翌年に専務に就任するが、1975年に常務に降格。子会社の日魯工業社長を経て、1981年に日魯漁業に社長として復帰。1986年2月に会長、以後は相談役。
舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - … 舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - 1998年(平成10年)4月9日)は、日本の実業家。三菱自動車工業社長。 大日本炭鉱の専務を務めた舘香緑・すえ夫妻の四男として、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区平河町)に生まれる。舘家は、旧伊勢国桑名藩士の家柄で、陸地測量師の館潔彦は祖父。 旧制東京高校、東京帝国大学経済学部を卒業後、1942年に三菱重工業に入社。三菱商事への出向時代には造船の営業を担当。 1970年6月、三菱重工と米・クライスラーとの合弁で発足する三菱自動車工業に移籍。1977年、取締役に選任され、常務を歴任後、1983年に社長となる。トップ時代には1988年に三菱自動車を東証1部に上場させ、「三菱自動車中興の祖」と呼ばれる。
小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日… 小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日 - 2013年〈平成25年〉6月15日)は、日本の実業家。群馬銀行代表取締役頭取。 東京都豊島区巣鴨に生まれる。旧制府立五中を経て、1942年(昭和17年)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。同年高等試験行政科に合格し、日本銀行入行。 短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、館山海軍航空隊付となる。同年5月、海軍省経理局第三課に転じ国防献金受付に従事。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み、同年6月、第四南遣艦隊付に転じ第1次糧食生産隊長(アンボン)に着任。
原 正雄(はら まさお、1919年9月19日 - 2008年… 原 正雄(はら まさお、1919年9月19日 - 2008年10月7日) は、日本の実業家。帝国ホテル代表取締役社長や、日本ホテル協会会長を務めた。 武蔵高等学校を経て、1941年東京帝国大学経済学部卒業。1942年第一銀行入行。第一銀行京橋支店長を経て、業績不振が続いていた帝国ホテルに招かれ、1970年から帝国ホテル専務取締役。1974年帝国ホテル代表取締役専務。1976年帝国ホテル代表取締役社長。1979年日本ホテル協会会長。1986年帝国ホテル取締役相談役。
渥美 健夫(あつみ たけお 1919年(大正8年)7月24日… 渥美 健夫(あつみ たけお 1919年(大正8年)7月24日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の実業家、官僚。鹿島建設(鹿島)名誉会長。 大阪商船取締役・渥美育郎の長男として東京に生まれる。 東京府立一中、旧制浦和高校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、商工省入省。鹿島守之助の長女・伊都子と結婚する。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年(昭和18年)9月、海軍経理学校に入学。1944年(昭和19年)3月に卒業し、海軍主計中尉に任官。呉経理部に配属。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1945年10月に商工省に復職。
吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 19… 吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 1997年9月5日)は、日本の大蔵官僚、実業家。位階は従三位。国税庁長官(第11代)、大蔵事務次官、横浜銀行頭取を務めた。 神奈川県出身。旧制東京高等学校を経て1941年11月、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、大蔵省に入省(預金部兼大臣官房文書課)。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年6月、海軍省調査課勤務となる。同年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年9月に予備役に編入された。 1945年10月に下京税務署長。主税局税制第二課長、理財局証券第二課長、理財局証券第一課長、主税局総務課長、主税局総務課長兼主税局国際租税課長、主税局総務課長、大臣官房文書課長、大臣官房財務調査官(主税局担当)、東京国税局長などを経て、1967年8月に証券局長、同年11月に主税局長、1969年より国税庁長官に就任。
佐波 正一(さば しょういち、1919年〈大正8年〉2月28… 佐波 正一(さば しょういち、1919年〈大正8年〉2月28日 - 2012年〈平成24年〉9月10日)は日本の実業家、元東芝社長・会長、国際基督教大学理事長。東京都出身。 曽祖父は佐倉藩士で蘭学者の佐波銀次郎(1825 - 1891)。手塚律蔵に学び、藩命で樺太探検、幕府蕃書調所教授手伝、神奈川奉行で外交文書の翻訳などに当たった。祖父の佐波一郎は、銀次郎の甥で養嫡子。一郎は横須賀造船所黌舎で学んだのち、フランス留学を経て海軍技師として軍艦設計に携わり、海軍兵学校の教官も務めた。一郎の実姉の淑は依田学海に嫁ぎ、次女は、一郎の学友で『八十日間世界一周』の訳者として知られる横浜正金銀行員の川島忠之助と結婚するも、のちに離婚する。
戸田 順之助(とだ じゅんのすけ、1918年(大正7年)12… 戸田 順之助(とだ じゅんのすけ、1918年(大正7年)12月1日 - 2013年(平成25年)10月9日)は日本の実業家、元戸田建設社長・会長。東京都出身。
遠山 景久(とおやま かげひさ、1918年〈大正7年〉10月… 遠山 景久(とおやま かげひさ、1918年〈大正7年〉10月28日 - 1999年〈平成11年〉7月13日)は、日本の実業家。アール・エフ・ラジオ日本(以下「RF」)の社長、会長を務めた。妻は遠山佐和子で、一時期は遠山夫妻でRFの半分以上の株式を持っていた。佐和子との間には子供がいるが、詳細は明らかにされていない。 東京府東京市神田区神田(現:東京都千代田区神田)出身。「遠山の金さん」こと江戸化政の町奉行・遠山景元の末裔にあたる。 幼少の頃、「京浜実業新聞」を運営し借財を抱えていた父と死別し、日本統治時代の台湾で判事を務めていた長兄・遠山景一の下で台北で育つ。一家の帰国で、台北一中から府立四中に転校。
関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)… 関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)8月25日 - 2000年9月9日)は、日本の実業家。元よみうりランド代表取締役社長。祖父は政治家、実業家の小坂善之助。妻は正力松太郎の次女。 埼玉出身。大正7年(1918年)に関根善作(日本銀行行員、後に第百銀行頭取、合併により三菱銀行副頭取を歴任)と国(小坂善之助三女)の間に三男として生まれる。祖父の小坂善之助は衆議院議員を歴任した政治家であったが、信濃銀行を創業し、信濃毎日新聞社の経営基盤を確立するなど、実業家としても影響力を持っていた。長三郎の叔父で小坂善之助の長男の小坂順造は、父の関根善作と明治37年(1904年)に日本銀行に入社した同期であり、明治40年(1908年)に信濃銀行へ取締役として移籍し、安田銀行への合併処理の後に、信濃毎日新聞社長、衆議院議員を歴任していた。
松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2… 松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2002年9月22日)は、日本の実業家、第2代松井証券社長。 松井房吉商店(現在の松井証券)創業の日(1918年5月10日)に創業者・松井房吉の長男として生まれる。旧制府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)、東京高等学校 (旧制)、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した。1949年、松井證券の代表取締役社長に就任した。第二次世界大戦で房吉がほとんどすべての財産を失っていたが、戦後約40年間堅実な経営を続け、資本的に完全に独立した証券会社として会社を存続させる。1987年に三菱銀行出身の弟の松井正俊に社長を譲り、会長に就任した。1990年以降、娘婿で日本郵船出身の松井道夫(当時常務取締役営業本部長)が社内改革を始めると、これに口を挟まず陰で改革を支えた。
田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918… 田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。号は越山。 衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。 自民党内最大派閥である田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理などと呼ばれ、多大な影響力をもった政治家として知られる。 自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。
福岡 成忠 (ふくおか しげただ、1918年 <大正7年> … 福岡 成忠 (ふくおか しげただ、1918年 <大正7年> 3月14日 - 2004年 <平成16年> 9月7日)は、日本の経営者。ニコン社長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。武蔵高等学校を経て、1940年に東京帝国大学工学部造兵学科を卒業し、同年に日本光学工業(のちのニコン)に入社。同年9月に海軍に技術大尉として入隊し、1943年1月に復帰。1973年5月に取締役に就任し、1977年6月に常務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1993年6月に相談役を経て、2000年6月から特別顧問を務めた。 1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
町村 鉄雄(まちむら てつお、1917年9月8日 - 199… 町村 鉄雄(まちむら てつお、1917年9月8日 - 1992年6月10日)は、日本の実業家。 1917年(大正6年)9月8日、北海道石狩町樽川にて、町村農場創業者の町村敬貴三男として誕生する。11歳の1928年(昭和3年)に東京の大久保町立戸山尋常小学校に転校した。旧制武蔵高等学校(入学は尋常科)から東京帝国大学に進み、1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業した。 1942年(昭和17年)住友銀行に入行するも、軍隊への入営のため休職となり、短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、同年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年(昭和18年)11月、海軍主計大尉に昇進した。
石水 幸安(いしみず ゆきやす、1917年8月12日 - 1… 石水 幸安(いしみず ゆきやす、1917年8月12日 - 1985年2月16日)は、日本の実業家。石屋製菓創業者。父の石水亀一の三男。祖父は石水八郎。八郎は1899年(明治32年)愛媛県宇摩郡関川村(現四国中央市)から、屯田兵として先に移住していた兄の石水七之助を頼って移住。 北海道雨竜郡一已村(現深川市一已町)生まれ。東亜商業学校(現東亜学園高等学校)卒業。戦前は南満州鉄道株式会社に勤務した。戦後、妻の郷里の広島を経て、北海道に引き揚げる。1947年澱粉加工業を始め、後に駄菓子・生菓子の製造に従事。 1967年より高級菓子製造に路線を転換し、長男・勲の協力も得て1971年最初のヒット作「シェルター」を世に出す。
吉原 信之(よしはら のぶゆき、1916年11月5日 - 2… 吉原 信之(よしはら のぶゆき、1916年11月5日 - 2007年3月15日)は、日本の実業家。アパレルメーカー三陽商会の創業者。
野口 昭子(のぐち あきこ、1916年(大正5年)11月1日… 野口 昭子(のぐち あきこ、1916年(大正5年)11月1日 - 2004年(平成16年)7月27日)は、全生社社長、社団法人整体協会会長。整体協会創始者である野口晴哉の妻。旧姓・近衛、島津。 公爵近衛文麿の長女。母は毛利高範の娘・千代子。東京生まれ。女子学習院を卒業後、1937年に公爵島津忠重の嫡子・忠秀に嫁して修久ら二男一女を儲けるが、戦後の混乱期に忠秀のもとを去って出入りの整体師野口晴哉と駆け落ちし、「昭和のノラ事件」と呼ばれて話題になった。1945年12月に島津忠秀と離縁した。 野口晴哉と結婚してからは、晴哉の著作を発行する全生社の社長に就任し、出版事業を通じて野口整体の普及に貢献した。
五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 … 五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 - 1989年(平成元年)3月20日)は、日本の実業家。東京急行電鉄社長・会長。日本商工会議所会頭。五島慶太の長男。 東京府東京市神田区駿河台(現・東京都千代田区神田駿河台)に、五島慶太、万千代(旧姓久米)の長男として生まれる。学習院初等科、中等科 (旧制)、高等科 (旧制) を経て東京帝国大学経済学部を卒業。学生時代は野球部に籍を置き捕手としてならしたが、のちにゴルフ部へ転部。ゴルフがきっかけで知遇を得た東京芝浦電気副社長・津守豊治の紹介で同社に入社した。昇には父の跡を継ぐ気がなかった。 慶太には昇と進という二人の息子がいた。兄・昇は常日頃から父に反抗し「絶対に(父の)を跡を継がない」と放言していた。
石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3… 石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3月28日 - 1992年(平成4年)3月2日)は、日本の実業家、古美術商。レストランクレッセント創業者。栄典は紺綬褒章。祖父に石黒忠悳、父に石黒忠篤が居る。 1916年(大正5年)3月28日、東京府東京市牛込区揚場町17番地(現東京都新宿区揚場町)に石黒忠篤の次男として生まれる。父は農政の神様といわれた農林大臣の石黒忠篤。祖父は日本陸軍軍医で日本赤十字社第4代社長の石黒忠悳。 旧制成蹊高等学校を経て1941年(昭和16年)に京都帝国大学法学部を卒業し、翌年三井物産に入社。戦時中は物資補給を担った。このときの部下に楊馥成が居る。1946年(昭和21年)、三井物産退社。
梶井 健一(かじい けんいち、1916年(大正5年)3月1日… 梶井 健一(かじい けんいち、1916年(大正5年)3月1日 - 2011年(平成23年)7月16日 )は、日本の実業家。名古屋鉄道の元社長。梶井剛の長男。位階は正四位。 東京都出身。武蔵高等学校を経て、1940年(昭和15年)に東京帝国大学経済学部卒業とともに日本銀行に入行。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月に経理学校を卒業。衣笠に配属され、以後、厦門警備隊勤務、岩国海軍航空隊副官兼海兵教官を歴任。1942年(昭和17年)5月、主計大尉に昇進。出水海軍航空隊主計長、兼国分海軍航空隊主計長、光州海軍航空隊主計長を務め、1945年(昭和20年)4月、光海軍工廠会計部に転任し、同年5月、主計少佐に進み終戦を迎えた。
伊藤 達二(いとう たつじ、1916年(大正5年)2月28日… 伊藤 達二(いとう たつじ、1916年(大正5年)2月28日 - 2000年(平成12年)12月11日)は日本の実業家。元三菱地所社長。 神田生まれ。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。大学の同期に水上達三(のちに三井物産社長)がいる。1953年三菱地所に転籍し、主に営業畑を歩む。 副社長等を経て、1980年社長就任。従来のオフィスビル事業、住宅事業に加え、新たに大型商業施設事業に参入。また三菱重工業横浜造船所跡地を取得し、横浜みなとみらい21の開発を行った。1987年取締役相談役。 2000年12月11日、神奈川県鎌倉市の病院で死去、享年84。
金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年… 金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年3月22日)は日本の実業家。死亡時の役職は東宝代表取締役副社長、生活衛生同業組合京都興行理事長。東京都小平市出身。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 200… 八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 2001年10月27日)は東京都出身の実業家。三井物産の社長や会長を歴任したほか、商社出身者として初めて経済団体連合会副会長を務めた。1987年に勲一等瑞宝章を受章。 東京で生まれたものの、日本製粉勤務の父の仕事の関係でまもなく福岡県久留米市に転居。4年後、父が下関支店長となったため、下関に転居。 養治小学校、旧制豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)、旧制第二神戸中学(現:兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1932年旧制麻布中学校卒業。旧制東京商科大学(現:一橋大学)卒業。大学では一橋新聞部、上田辰之助ゼミナールに所属。戸倉勝城(元阪急監督)は小学校、中学校の友人。