中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月1… 中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月14日 - 1942年(昭和17年)8月3日)は、大正・昭和期の中国学者。 中江兆民の長男として大阪に生まれた。小石川竹早小学校、旧制早稲田中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1913年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌年8月に袁世凱の憲法制定顧問となった有賀長雄博士の助手として北京に赴く。これは当時官界にあった曹汝霖・章宗祥が日本留学中に中江家に寄寓していたという機縁によるものである。その期限が満了した1915年夏に日本に帰国。しかし、数ヶ月後に再び中国に渡り、以降30年にわたる北京での生活を始める。1919年、五四運動の際には曹汝霖・章宗祥を救出し、その前後から中国思想の研究に励む。
織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日… 織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家、漫画原作者。貴族院議員。爵位は子爵。筆名は織田 小星(おだ しょうせい)。漫画『正チャンの冒険』の原案・文を作った。織田信正、織田信昭の父。 1889年(明治22年)8月3日、元相馬中村藩藩主の子爵相馬誠胤の長男として東京府に生まれる。生母は東明氏。初名は相馬秀胤(そうま ひでたね)。1895年(明治28年)6月、元天童藩藩主の子爵織田信敏の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父信敏の死去により襲爵。学習院高等科 (旧制)を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。
石川 栄一(榮一、いしかわ えいいち、1889年(明治22年… 石川 栄一(榮一、いしかわ えいいち、1889年(明治22年)5月10日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 埼玉県榛沢郡新会村(大里郡豊里村を経て現深谷市)で、石川浅次郎の息子として生まれる。1905年(明治38年)群馬県立伊勢崎染織学校(現群馬県立伊勢崎工業高等学校)を卒業した。さらに神田正則英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。 1918年(大正7年)新会村会議員に選出され5期在任。1938年(昭和13年)埼玉県会議員に当選し3期在任して、同副議長も務めた。その他、民主党埼玉県支部幹事長、自由党埼玉県支部副支部長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区から自由党公認で立候補して当選し、参議院議員に1期在任した。
鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - … 鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - 1959年2月1日)は日本の公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。日本鳥学会会長。「鳥の公爵」と呼ばれた。
山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2… 山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2月9日)は、日本の実業家。オリンパス(旧・高千穂製作所)創業者、高千穂製作所社長。顕微鏡をはじめとする光学機器の製造業を経営した。 鹿児島県名瀬の金久(現・奄美市内)出身。名瀬の高等小学校で3年間学んだ後、鹿児島の本家にひきとられて中学造士館に入る。1904年に上京。東京の京北中学校 (旧制)と京都の第三高等学校 (旧制)を卒業。1915年東京帝国大学法科大学法律学科(独法科)卒業。弁護士となるが、父の勧めで実業界に転じ親戚の松方正義関連の企業に就職することとなる。川崎造船所などの大企業は断り、松方の五男・五郎が経営する常盤商会に1918年入社。
柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21… 柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21日 - 1961年〈昭和36年〉5月3日)は、日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家。民藝運動の主唱者である。名前は「やなぎ そうえつ」とも読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記される。 宗教哲学、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著名な著書に『手仕事の日本』、『民藝四十年』などがある。 1889年(明治22年)3月21日、東京府東京市麻布区市兵衛町二丁目(現在の東京都港区六本木)に(父の元海軍少将・柳楢悦と母・勝子の三男として生まれる。1891年、宗悦が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた。
岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫… 岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫(おおぬき)、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月18日)は、日本の大正・昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。 若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られた。小説家として実質的にデビューしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。 代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大和屋大貫家の別邸で誕生。
渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 19… 渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 1983年5月19日)は、日本の編集者、児童文学作家、児童文学研究者。本名・寿三郎。別名・孤星、素風。 1889年(明治22年)、東京八丁堀に生まれ、まもなく浅草千束町に移る。浅草尋常高等小学校に入学、小学校時代、友人であった小宮山豊作や久保田万太郎の影響で文学に関心を持つ。東京府立第三中学校を経て早稲田大学英文科に入学し、片上伸に師事する。 1912年(明治45年)早稲田大学文学部英文学科を卒業。島村抱月の紹介で実業之日本社に入社する。はじめ、1913年(大正2年)に大隈重信、渋沢栄一らによって創刊された『実業講習録』編集部に勤務するが、同社の雑誌『少女の友』に少女小説「悲しき海へ」を寄稿したのがきっかけで、1914年(大正4年)同誌へ配属された。
田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月1… 田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。 1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村(現豊橋市)で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となるが、卒業は1年遅れた。1941年(昭和16年)1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが田村は欠席した。
奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月… 奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉9月25日)は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。 没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。
高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889… 高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889年)2月9日 - 昭和38年(1963年)4月8日)は、大正から昭和後期にかけて活動した医学者、整形外科医。 1926年(大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。クリュッペルハイムの概念を日本へと持ち込み、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園(現:心身障害児総合医療療育センター整肢療護園)の創設者で初代理事長。
上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 198… 上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 1981年10月24日)は、日本の造園研究家。学位は、林学博士。東京農業大学名誉教授。 東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)の創設者。日本の造園教育の創始者として知られる。また造園の技術者としても、東京帝国大学大学院在学時に本多静六等と明治神宮の造園などを設計。その他、横浜山手の西洋庭園をはじめ、築造した庭園は三百余になるといわれている。 上原の著書の多くは造園系学校・学科の学生の参考書として現在も多く活用されている。 東京深川で材木業の家に生まれる。上原の先祖は丹波綾部が郷国で、北面の武士になり、祖父が京都鷹司家分身朽木近江守一族で代々藩主の祐筆を務めていたといい、上原本人も父から書の塾へ通わされていたという。
木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950… 木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950年4月15日)は、東京府出身の作家、翻訳家。本名の読みは「しょうた」。別名に久木今作、木村艸太(そうた)。木村荘平の子。女性関係と奇人ぶりで知られた。 東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)に、木村荘平の妾腹の子として生まれる。 父は牛鍋屋チェーン店"いろは"を20数箇所に展開して"いろは大王"と呼ばれると共に、葬儀会社"博善社"の社長も兼ねた実業家で、正妻の他に多数の愛人を持ち、諸方に儲けた子の数が男13人に女17人。荘太の異母姉栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、同母弟に木村荘八(挿絵画家)、異母弟に木村荘十(直木賞作家)と木村荘十二(映画監督)がいる。
白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889… 白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889年1月28日 - 1961年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、教員、独立運動家、政治家。二・八独立宣言を主導したほか、第7代東亜日報社社長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏、号は芹村(クンチョン、근촌)。白仁傑(朝鮮語版)の10代孫で、父は白道鎮、独立運動家の白麟洙は従兄。実業家・漢陽大学校創設者の金連俊(朝鮮語版)は娘婿、元漢陽大学校総長の金鍾亮(朝鮮語版)は外孫。 朝鮮国全羅北道(現・大韓民国全北特別自治道)高敞郡星内面(朝鮮語版)出身。5歳の時に田愚(朝鮮語版)の下で漢学を学んだ後、同郷で友人である金性洙・宋鎮禹とともに白羊寺清流庵(朝鮮語版)で修業をし、韓承履の下でも学んだ。
菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月… 菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月8日 - 1944年〈昭和19年〉9月23日)は、日本の華族。貴族院侯爵議員、侯爵。 華族・菊亭脩季の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)11月6日、侯爵を襲爵。1914年(大正3年)1月7日、満25歳となり貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属し死去するまで在任した。 1915年(大正4年)、殿掌に就任したが、同年4月15日に依願免となった。 東山天皇の男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。 兼季 - 実尹 - 公直 - 実直 - 公行 - 実富 - 公富 - 教季 - 公興 - 季孝 - 公彦 - 晴季 - 季持 - 経季 - 公規 - 伊季 - 公香 - 公詮 - 実興 - 誠季 - 公言 - 実種 - 尚季 - 公久 - 実順 - 脩季 - 公長 - 実賢 - 直子 -
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年… 河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年〉1月3日 - 1965年〈昭和40年〉12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。 東京都港区出身。古材木商河上新太郎の息子として生まれた。丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。丈太郎は5歳の時から、父に連れられて霊南坂の祈禱会に通った。 ちょうど教会不振の折で、牧師の留岡幸助と本間俊平、河上父子の4人だったが、熱烈な会で2~3時間もかかり、幼い丈太郎は退屈した。しかし熱い祈りの印象が強く残った。
岸野 菊三郎(きしの きくさぶろう、1889年〈明治22年〉… 岸野 菊三郎(きしの きくさぶろう、1889年〈明治22年〉 - 没年不明)は、日本の商人(高知堂、文房具商)。信用組合巣鴨町金庫理事。 東京・池袋出身。地主・西巣鴨町会議員の岸野伊太郎の弟。区内の信望が厚く、宮本親和会副会長、巣鴨警察署協和会理事、豊島区防護団巣鴨第三分団常務理事等に挙げられる。1936年7月に宮本親和会会長、同会衛生組合長に推され、1937年2月に信用組合巣鴨町金庫理事に選ばれる。 大塚終点未発展の時代にあって常に意を付近発展に用い、よく後住者を指導して同所今日の発展に隠れた功績を残す。住所は東京市豊島区巣鴨7丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、18… 東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、1889年(明治22年) - 1933年(昭和8年)3月20日)は、日本のユーモア作家、翻訳家、映画評論家。筆名は愚教師のほか、森田三祢子、森田みね子などを用いた。 東京都出身、正則英語学校卒。大正から昭和にかけて、ユーモア小説、雑文、シャーロック・ホームズ等の初期の翻訳家として活躍した。実父は「坂の上の雲」の秋山好古と陸軍士官学校同期の陸軍騎兵第二連隊長騎兵大佐東常久である。妻、静江は外務省参事官(広東総領事)森田寛蔵の息女。家族は長女冨士子(神奈川県三浦郡葉山町在住)の三人。 松竹キネマ俳優学校で映画劇史を教え、徳川夢声と知り合う。東の没後、夫人は友人の徳川夢声(徳川も妻に先立たれていた)と再婚した。
石田 益義 (いしだ ますよし 1889年 - 1946年)… 石田 益義 (いしだ ますよし 1889年 - 1946年) は、稲城の元村長である。 東長沼で生まれる。稲城の議員を務めた後、1940年に助役になる。 1943年に村長に就任。当時は戦争の真っ只中であった。1945年に森一郎に村長を譲り、1年後の1946年に死去。57歳。
野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月… 野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月23日 - 1986年(昭和61年)9月27日)は、日本の機構学者。東京帝国大学教授、工学院大学初代学長。日本機械学会、日本クレーン協会の各会長。『穀粒層を通過する気流に関する研究』で工学博士(東京帝大)。
加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月1… 加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月10日 - 1937年(昭和12年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・三橋。 東京府東京市小石川区新諏訪町(現・東京都文京区後楽)出身。陸軍文官・三橋淳の二男として生まれ、6歳で加納家の養子となる。開成中学校(現開成中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。 1914年(大正3年)8月、名古屋陸軍地方幼年学校生徒監に就任。中央幼年学校生徒隊付、同校副官、歩兵第34連隊付、同連隊大隊副官、同連隊中隊長、陸士副官、関東軍副官を務め、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に進級し歩兵第18連隊付となる。
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)… 末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 19… 小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 1973年6月18日)は、日本基督教団牧師、神学者。エキュメニカル運動の指導者。
儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11… 儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11日 - 1938年〈昭和13年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。
物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月2… 物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月26日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の小説家、掃苔家。藤岡 一枝とも。本名は藤浪和。 国学者・物集高見の娘で、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。実兄の物集高量は国文学者、姉は同じく小説家の大倉燁子(本名は芳子)。義兄の藤浪鑑は病理学者(京都帝国大学教授)。また、親族に女優の早瀬久美がいる(姉妹の物集千代子の孫)。 東京府東京市本郷区駒込千駄木林町(現在の東京都文京区千駄木)出身、跡見高等女学校卒業。 文学を志して姉の芳子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年(明治41年)、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。
細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月2… 細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月27日 - 1962年〈昭和37年〉12月2日)は、日本のジャーナリスト・政治学者。日本共産党参議院議員。 ※以下、第一高等学校時代までの記述は、1953年に服部之総が細川からの聞き取りにより作成したが未刊となっていた「河童自伝」(2019年刊行の『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』に収録)および『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』巻末年譜に基づく。 富山県下新川郡泊町(現・朝日町)出身。生家があったのは、東三浦町と呼ばれる一角だった。後年の回想によると、父の実家は町方で晒問屋を営んでいたが、近代的紡績産業の発展で仕事を失い、実家の次男だった父は季節によって様々な仕事に就く「稼ぎ人」と呼ばれる職業だった。
3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21… 3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21年〉9月4日 - 1971年〈昭和46年〉2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上 良太郎。位階は正五位。 東京浅草生まれ。隅田川に窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、旧制錦城中学校卒業の頃、1905年から作陶に従事する。板谷波山に師事。1914年に横浜へ移り、1928年、帝展初入選。1953年、第1回横浜文化賞受賞。1959年、「丸紋平皿」で日本芸術院賞を受賞。1966年、日展理事に任じられるとともに、日本芸術院会員となる。1967年、勲三等瑞宝章受賞。1971年死去。死没日付をもって正五位に叙された。 温厚な人柄を反映したかのような、気品の高い風格ある作風が特徴である。
野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - … 野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - 1945年5月25日)は、日本の落語評論家。
二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(… 二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(明治21年)7月24日 - 1969年(昭和44年)12月1日)は、大正・昭和時代の資産家、実業家。旧名は清吾。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。三重農場取締役会長。諸戸殖産社長。諸戸合名代表社員。三菱鉱業、朝鮮無煙炭各監査役。三重県桑名で家業の山林経営をつぎ、林産物の生産、加工、販売などをおこなう。 1888年(明治21年)7月24日に三重県に生まれた。初代諸戸清六の四男、諸戸精太の弟、諸戸精文の叔父である。初代清六と深い親交のあった大隈重信が設立に関わった早稲田中学校に進学したが、彼が18歳の時初代清六が没したため、急遽呼び戻され、次男精太が初代の屋敷を継承し、四男清吾が清六の名を襲名した。
川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月… 川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月9日 - 昭和34年(1959年)4月17日)は明治・大正・昭和期の詩人、評論家。本名は誠。 曾祖父は幕末の旗本・外国奉行、川路聖謨。父は川路寛堂、母はハナ子(浅野長祚の五女、母方の祖父は岩城隆喜)。 東京府芝区三田生まれ。幼少期は福山市や淡路島の洲本で過ごした。洲本中学時代から文学に関心を持ち、『中学世界』『ハガキ文学』『小国民』などに投稿を始めた。 1903年(明治36年)中学校を中退し、京都の美術工芸学校に入学した。1906年(明治39年)から口語自由詩の詩作を始める。同年、美術工芸学校卒業後は関西美術院の夜学に通い、浅井忠に油絵を学ぶ。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。
千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8… 千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8日 - 1948年〈昭和23年〉3月14日)は、日本の詩人。人道派的な詩人として知られる。新しき村の関係者。 出雲国造家当主の千家尊福の長男(庶子)として東京市麹町区(現・東京都千代田区)三番町の父の別邸に生まれる。母は画家の小川梅崖(本名・豊子)。浦和、静岡、麻布六本木の小学校を転じたのちに、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部に入り、寄宿舎に入ったが1年で退学し、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に転校して、校長の自宅に預けられた。1904年(明治37年)学業に興味を失い実家に戻る。さらに家出事件を起こし、仙台に預けられるも半年ほどで東京に帰る。
洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888… 洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888年5月23日 - 1968年3月5日)は、朝鮮の独立運動家、作家。本貫は豊山洪氏。忠清北道槐山出身。号は碧初。 1905年日本の東京に留学するが、1910年の日韓併合時、錦山郡守であった父・洪範植の自決により、中国に亡命し、申采浩らと交友し、独立運動に参加する。1919年の三・一独立運動では故郷の槐山でデモ活動を指導する。『東亜日報』の主筆を務める。後に東亜日報の主筆、時代日報社の社長、五山学校校長などを務める。小説『林巨正』を執筆する。1927年からは、民族統一戦線組織新幹会運動の中心となったが、1929年に検挙され、投獄された。 1945年の光復後は、南朝鮮で政治運動を展開する。
小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月… 小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月4日 - 1966年(昭和41年)5月11日)は、日本の経済学者。慶應義塾長、帝国学士院会員を歴任。 イギリス古典学派のリカード研究のほか、日本における社会思想研究の先駆者として活動するとともに、マルクス主義への容赦ない批判者として、自由主義の立場から『資本論』の内容をめぐって河上肇や、櫛田民蔵との活発な論戦を展開した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長を務めた。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育責任者にもなり、皇室の近代化に努めた。学士院会員、コロンビア大学名誉文学博士、文化勲章受賞、名誉都民、野球殿堂入り。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月… 冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月23日 - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍大将。 東京都出身。冨永政利陸軍中佐の息子として生まれる。早稲田中学、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業。 日中戦争勃発後には、第21師団の第21歩兵団長として徐州に駐屯し治安維持に当たる傍ら蘇北作戦などにも参戦。次いで1940年(昭和15年)12月から第27師団長として天津に駐屯。 1942年(昭和17年)12月に第19軍司令官に補されインドネシアのアンボンに赴任するが現地で発病、1943年(昭和18年)11月9日に亡くなる。死去に際しては祭資が、葬送に際しては勅使が派遣されて幣帛が下賜された。
小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 194… 小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 1945年9月10日)は、ホーリネス弾圧事件で堺刑務所で殉教した、ホーリネス系の日本聖教会参与、牧師である。元日本ホーリネス教会、アライアンスの牧師。 日本基督教団ホーリネスの群の重鎮であった小出忍の実父。 1888年(明治21年)に新潟県三条町に生まれる。小学校卒業後に上京する。昼間は商店員として働き、夜間は正則英語学校に通学する。1904年(明治37年)頃に中央福音伝道館で受洗する。 柏木聖書学院に学び、東洋宣教会(後の、日本ホーリネス教会)の牧師になる。 1907年(明治40年)に長岡市の福音伝道館に赴任する。赴任直後、11月24日より、新潟県を巡回した中田重治に同伴し、小出だけ新潟県にとどまり伝道をする。
香川 鉄蔵(かがわ てつぞう、1888年2月15日 - 19… 香川 鉄蔵(かがわ てつぞう、1888年2月15日 - 1968年12月9日)は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦後にかけて大蔵省に嘱託として勤務した人物。セルマ・ラーゲルレーヴ『ニルスのふしぎな旅』を日本語へ翻訳したことで知られる。 1888年、東京市浅草区の区会議員を務める香川直吉の三男として生まれる。1892年に父・直吉が49歳で死去、長男の初太郎は旧制中学の英語教員を勤め家計を助けたが1905年に30歳で死去している。 鉄蔵は兄や姉の支援を受け、1906年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進み心理学を専攻するが、大学卒業直前の1911年12月に自主退学した。
森 清(もり きよし、1888年2月4日 - 1933年6月… 森 清(もり きよし、1888年2月4日 - 1933年6月30日)は、日本の俳優である。森 きよしとクレジットされた作品もある。本名大塚 秀次郎(おおつか ひでじろう)。サイレント映画の時代、日活向島撮影所の女形役者として知られる。 1888年(明治21年)2月4日、滋賀県栗太郡草津村(現在の同県草津市)に生まれる。 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)および『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)には、旧制・岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)を卒業した旨の記述があるが、『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)によれば、旧制小学校を卒業後、旧制の「大津中学校」(滋賀県第二中学校、現在の滋賀県立膳所高等学校)を2年次に落第して中途退学し、1907年(明治40年)、数え年20歳のときに京都大丸呉服店(現在の大丸京都店)の店員、同年、大阪三越呉服店(のちの三越大阪店、2005年閉店)の店員になったとあり、岩倉鉄道学校については一切言及されていない。
矢部 又吉(やべ またきち、1888年(明治21年)2月 -… 矢部 又吉(やべ またきち、1888年(明治21年)2月 - 1941年(昭和16年)3月24日)は、明治末期から昭和初期にかけて横浜で活躍した建築家。川崎銀行をはじめとした銀行建築を多く手がけたことで知られる。 1888年建築請負人の矢部国太郎の子として横浜市元町に生まれる。立教中学、工手学校(現在の工学院大学)建築科を卒業後、妻木頼黄のもとで設計に携わる。その後、1906年にドイツに渡り、シャルロッテンブルク工科大学(現在のベルリン工科大学)建築科で学びながら、日本でも活躍したドイツ人建築家ゼールに師事した。 1911年(明治44年)に帰国し、父・国太郎の跡を継ぎ、横浜市内に建築設計事務所(日本庭園会社)を開設した。
中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 19… 中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 1977年12月22日)は、日本の柔道家(十段)。内股の名人として有名である。 新潟県五泉町(現:五泉市)で出生。17歳で上京し講道館に入門。また東京正規英語学校(現:正則学園高等学校)を経て日本大学殖民科で学ぶ。 自然体から左右の内股・跳腰等は後の柔道発展に大きな影響を与えた。 伝説と呼ばれるほどの中野の内股は柔道形にある後ろに崩して投げる技とは違い、腰で跳ね上げるタイプの内股であった。相手が左極端でも右極端でも、押していても引いていても投げられたという。 「新しく内股をやり始めたと言っても、その基礎は跳腰でやっていたから、そんなに苦労はなかった」、「内股は、胸と腰さえ取れば、それほど足を突っ込まなくてもかかる。
岡見 義男(おかみよしお、1888年(明治21年) - 19… 岡見 義男(おかみよしお、1888年(明治21年) - 1963年(昭和38年))は、日本の造園家。園芸家。ラン栽培家、花卉装飾家。フラワーデザイナー。宮内省の宮廷造園や花卉装飾で活躍。この他恵泉女学園にて後進育成にもまい進する。東京生まれ。 園芸文化協会評議員、日本蘭協会顧問、全日本蘭協会顧問、浜松蘭友会顧問などを歴任。ラン栽培界に多大な功績をのこす。 1907年(明治40年)芝の旧制正則尋常中学校(現・正則高等学校)を卒業するが、病を患う。その後、宮内省内匠寮に入省し、新宿御苑に配属。 これは病気静養の後について、医師の勧めにより園芸を志したからで、当時上級の園芸学校がなく、やむを得ず新宿御苑を管理運営する宮内省に奉職したもの。
宋 必満(ソン・ピルマン、朝鮮語: 송필만/宋必滿、1887… 宋 必満(ソン・ピルマン、朝鮮語: 송필만/宋必滿、1887年12月3日または1890年 - 1978年7月23日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員、第5代国会参議院議員。初代韓国大統領の李承晩の側近であった。 本貫は礪山宋氏。別名は鳴皐。 京畿道利川郡長湖院生まれ、忠清北道鎮川郡出身。1908年ごろに新学問を学ぶために渡日し、正則英語学校中等科、中央大学法学部卒。帰国後の1919年に延禧専門学校の法律教授となり、4年間在職した。その後は法律研究のために渡米しようとしたが、東京で関東大震災での朝鮮人虐殺を目撃し苦境に陥った。その時、アメリカ人の宣教師の力を借りてハワイに密航し、そこで李承晩と知り合ってそのまま滞在し、1924年6月までに大韓人同志会の総務として機関誌『太平洋雑誌』を発刊し、関東大震災での朝鮮人虐殺の真相を宣伝した。
佐藤 忠勇(さとう ただお、1887年〈明治20年〉11月 … 佐藤 忠勇(さとう ただお、1887年〈明治20年〉11月 - 1984年〈昭和59年〉4月1日)は日本の水産学者。カキの浄化法を確立した人物であり、的矢かきの生みの親である。 1887年(明治20年)11月、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区本所)に生まれる。旧制早稲田中学校に入学し、当時教師をしていた浮田和民から「自分の一番得意なものを専攻し、それを社会に役立てよ」と言われたことから水産学を志すことを決心した。卒業後、東北帝国大学水産大学(現在の北海道大学水産学部)に入学。プランクトンの研究を行い1908年(明治41年)卒業。1913年(大正2年)には北海道庁技手に就任、北海道水産試験場に勤務する。
桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月… 桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月26日 - 1975年(昭和50年)6月5日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
堀田 正恒(ほった まさつね、1887年(明治20年)10月… 堀田 正恒(ほった まさつね、1887年(明治20年)10月21日 - 1951年(昭和26年)3月16日)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧姓名・鍋島直言。
浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9… 浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1965年(昭和40年)3月8日)は、大正から昭和時代の政治家・実業家。千葉県東葛飾郡市川町長、初代市川市長。北総鉄道支配人。 浮谷権兵衛の弟として千葉県に生まれる。浮谷家は葛飾郡市川新田で農業を営み、当主は代々権兵衛を名乗っていた。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、東北帝国大学農科大学予科を経て、1913年(大正2年)7月に同大畜産科を卒業する。卒業後、志願兵として1年従軍し、1917年(大正6年)陸軍騎兵少尉に進んだ。 ついで、北海道技手、東北帝国大学農科大学予科講師、宮城県農業技師、京成電軌重役秘書、会計・工務課長、北総鉄道支配人、成田鉄道会社取締役建設部長などを歴任。
栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 -… 栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月7日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。有栖川宮家の嗣子であったが、継承することなく薨去した。 有栖川宮威仁親王の第一王子(第2子)で、 母は加賀金沢藩主前田慶寧の四女・慰子。徳川實枝子(徳川慶久公爵夫人)は実妹で、その次女高松宮妃喜久子は姪。 1887年(明治20年)9月22日午後11時30分、有栖川宮威仁親王と同妃慰子の第1男子として誕生し、同月28日の御七夜で「栽仁」と命名される。 1901年(明治34年)6月、威仁親王とともに参内した栽仁王に、明治天皇は父宮と同じく帝国海軍士官を志すよう命じた。
川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921… 川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921年5月5日)は明治・大正期の日本の画家。本名は川上乙次郎。 東京府東京市本郷区本郷(現・東京都文京区本郷)に生まれる。1906年に太平洋画会研究所に入る。1907年に岸田劉生や川村信雄とともに紫紅会を結成し、美術回覧雑誌『紫紅』の編輯にたずさわる。1910年に川村信雄・萬鐵五郎・三並花弟・松村巽らと雑草会を結成し、本郷教会で展覧会を催す。1911年、二六新報の美術記者となる。1912年、フュウザン会に出品。1914年から中野で大森商二(熊本県山鹿町出身、東大中退の洋画家)と自炊生活をはじめ、この年から木炭による風景画を描く。1915年、東中野にアトリエを構え、越後・佐渡に旅行する。
江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年… 江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年1月18日)は、日本の小説家である。東京麹町生まれであるが、出身地は父の故郷である栃木県烏山町である。本名は同表記で「きよし」であるが、戦後は「かん」と改めた。父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鷗外と同期であった。 三重四中から第四高等学校に進学するも父と進路をめぐって対立し、四高を退学、第五高等学校に入り直す。この時期には俳句に没頭し、河東碧梧桐に認められる。1912年、東京帝国大学英文科に進学する。この年、雑誌『スバル』に短編『かかり船』(後に「赤い矢帆」と改題)を発表し、作家として認められる。このころから佐藤春夫・広津和郎・宇野浩二たちとの交友がはじまる。