望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 19… 望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 1993年10月10日)は、東京府出身のプロ野球選手(投手)。
東京都:388人
望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 19… 望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 1993年10月10日)は、東京府出身のプロ野球選手(投手)。
阿部 重四郎(あべ じゅうしろう、1917年9月2日 - 没… 阿部 重四郎(あべ じゅうしろう、1917年9月2日 - 没年不明)は、東京府出身のプロ野球選手。 東京工業学校から1936年に大東京軍へ入団。代走で1試合に出場したのみで、1937年秋に退団した。
上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉… 上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉1月13日 - 2002年〈平成14年〉2月8日)は、日本のプロ野球選手、政治家。 日大三中から明治大学へ進学。卒業後に満洲電電へ進み、1947年に中部日本ドラゴンズへ入団。 1949年に東急フライヤーズへ移籍。この年は93試合に出場し、翌年も73試合に出場した。東急時代にバッテリーを組んでいた白木義一郎(池田大作の妻・香峯子の従兄弟)に折伏されて創価学会に入信。 1952年に毎日オリオンズへ移籍し、1953年に現役引退。1954年から2年間、高橋ユニオンズでコーチを務めた。 1955年のシーズン中に創価学会を支持母体として船橋市市議会議員選挙に立候補して当選。
宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 19… 宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 1984年6月16日)は、東京都出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。
山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は… 山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(三塁手、遊撃手)。
本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1… 本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1月31日)は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。
金子 裕(かねこ ひろし、1914年9月9日 - 没年不明)… 金子 裕(かねこ ひろし、1914年9月9日 - 没年不明)は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 198… 戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 1986年4月17日)は、東京都出身のプロ野球選手。 荏原中学校から1943年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。翌年退団。
古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1… 古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1961年)は、東京都出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手、一塁手、外野手、二塁手。 史上初の打点王を獲得し、史上初タイとなる本塁打王も獲得している。 八王子中学から八王子実業団を経て1936年に名古屋金鯱軍へ入団。金鯱軍では主将を務めたほか、投手としては先発陣の一角を占め、打っては時には4番に座るなど、主力選手として活躍した。 1年目の1936年秋季リーグでは、山下実、藤村富美男と並んで本塁打王を獲得。さらに打点王も獲得。打率は中根之に及ばず2番目の成績だったためプロ初の3冠王とはならなかったが、見事2冠王となった。この年の秋季リーグは投手兼任だったが全試合出場を記録している。
伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992… 伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992年8月30日)は、東京六大学野球・社会人野球で活躍した野球選手である。右投右打。 旧制市岡中学(現大阪府立市岡高等学校)2年時から野球を始め、全国大会に4度出場。ポジションは捕手で、時にマウンドにも登った。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を受ける予定だったが市岡中の大先輩だった佐伯達夫から薦められて第二早稲田高等学院に進学した(のち早稲田大学商学部に進む)。 入学早々1928年東京六大学野球春季リーグ戦で32打数15安打、打率.469の高率で首位打者を獲得した。1年生春の首位打者は伊達が初めてで、その後1992年の早大・大森篤まで現れなかった。
西池 秀豪(にしいけ ひでたか、1911年 - 没年不明)は… 西池 秀豪(にしいけ ひでたか、1911年 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは捕手。
高橋 外喜雄(たかはし ときお 1908年 - 1944年1… 高橋 外喜雄(たかはし ときお 1908年 - 1944年11月18日)は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。
大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975… 大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975年2月7日)は、東京都出身のプロ野球選手、審判員、俳優。のち婿入りし桐林と改姓したが、球界では大貫姓を使い続けた。 荏原中学校を中退し、1923年に芝浦協会へ入団。当時は山本栄一郎がいたため控え投手だったが一度チームが解散し、その後宝塚運動協会として再結成した際には山本が肩の故障で退団したこともあってエースとなり投打の中心選手として活躍した。 宝塚運動協会解散後は宝塚ファミリーランドの経理係を務めていたが、まもなく退職し、満州に渡る。満州時代の詳しい経歴は不明だが、全奉天や大連実業、奉天日満実業などでプレーしていたことが確認されており、「各地のチームの助っ人をしていたのでは」と佐藤光房は推測している。
横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - … 横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - 1995年11月28日)は、プロ野球選手・監督。後年には国民野球連盟理事長を経て、パシフィック・リーグの審判部長を務めた。妻は元宝塚歌劇団の花野春子。 東京セネタースでプレーした横沢四郎・七郎は実弟(七郎は戦後セネタースでもプレーした)。 1904年12月16日に当時日本の領土であった台湾で生まれ、東京府東京市(現:東京都特別区)で育つ。旧制荏原中学校時代は遊撃手、旧制明治大学時代は二塁手。大学卒業後、社会人クラブチーム・東京倶楽部の内野手としてプレーし、都市対抗野球4度の優勝に貢献。 1936年にプロ野球球団の東京セネタースが設立されると初代の監督として招聘され、1937年秋季リーグ戦では選手としても1試合に出場したが、同年秋季途中で監督を辞任。
根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、… 根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。 早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)から茨城県の竜ヶ崎中学校に転校し、1921年の甲子園に投手として出場(初戦で大連商に3-5で惜敗)。早稲田大学では名遊撃手として活躍した。 プロ野球選手としての経歴はないものの、指導者として長く様々なチームに関わった。早大進学後には、合宿を抜け出して母校の竜ヶ崎中学校を泊まり込みで指導し、甲子園に導いている。秋田商や中央大学の監督を経て、1938年に桝嘉一の後任として名古屋軍の監督に就任した。 しかし、当時の名古屋軍は主力が抜けた後でチーム事情が悪く、投手では西沢道夫・松尾幸造、打者では大沢清が活躍するも低迷。
岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 -… 岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 - 1977年10月26日)は、東京都 出身の野球選手・指導者(名古屋金鯱軍監督。明治大学硬式野球部監督)。
安藤 忍(あんどう しのぶ、1895年 - 1970年12月… 安藤 忍(あんどう しのぶ、1895年 - 1970年12月8日)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。
池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952… 池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952年10月21日)は、東京府北多摩郡武蔵野村(現:武蔵野市)出身のプロ野球監督・審判。 早稲田中学校を経て、早稲田大学卒業。早大時代は三塁手。卒業後東京六大学野球連盟の審判となる。 1936年、大学の先輩河野安通志が総監督をつとめる大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)の初代監督に就任。河野が後楽園イーグルスを設立すると同時に辞任した。 名古屋軍では後に公式戦の基点となる東京の職業野球連盟発足記念トーナメントで優勝を果たし(ただし、大阪では阪急に、名古屋では大阪にさらわれた。)、「プロ野球選手は自前で養成しよう」との信念から、少年野球から西沢道夫を発掘し、後に中日の大選手になる道筋を作っている。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11月23日 - 1965年〈昭和40年〉6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。 神戸中学校を経て荏原中学校に進む。明治大学野球部時代、現在のアジア競技大会の原点である「極東オリンピック・マニラ大会」(1913年)の日本代表に選ばれ、名遊撃手として活躍。 その後造船会社へ就職したが、野球を忘れられず、1922年には、翌年プロ野球球団であることを宣言する天勝野球団の一員として活動。1923年には満洲(現・中国東北部)の満洲鉄道会社(満鉄)に就職し、社会人野球チーム「大連満洲クラブ」(満鉄の社員を中心に編成)でプレイングマネジャー(選手兼任監督)を歴任。
浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 194… 浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 1944年1月24日)は、日本の元プロ野球監督。 旧制立教中学に在籍し、野球部(立教大学野球部の基礎)を創設。立教大学教授で聖公会の司祭でもあったハーバート・ロイドに技術的指導を受ける。その後早稲田大学商科に進み、二塁手として野球部第9代主将を務める。東京六大学野球連盟の初代首位打者。 その後、東京六大学野球リーグ戦で審判を務める。八十川ボーク事件(1931年(昭和6年)5月18日)で、騒動の発端となるボーク判定を行った試合の球審を務めたのが浅沼であった[リンク切れ][出典無効]。 1922年(大正11年)、第二高等学校(旧制二高)の野球部のコーチをする。
山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年1… 山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年12月24日)は、東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督。 旧制早稲田中学(現・早稲田中学校・高等学校)時代に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄に見いだされ、早稲田大学野球部に入部。捕手として「早稲田のエース」河野安通志を支え、1903年の第一回早慶戦や1905年の米国遠征に参加する。1907年から1910年まで早稲田大学野球部キャプテンを務め、1910年のハワイ遠征を以て大学野球を引退。そのままアメリカに残り、9年後の1919年11月に帰国。 早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日にアメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームが来日し、戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際に、早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行うことになり、早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっていると言う。
中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 19… 中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 1947年3月21日)は、東京都出身の野球選手、審判員。中野武営の子。
中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 19… 中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 1966年8月28日)は、東京都出身の野球選手、応用化学者、日本高等学校野球連盟会長。
守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 -… 守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 - 1912年2月12日)は、東京都出身の野球選手。 獨逸学協会学校を卒業し、1899年に第一高等学校へ入学。 ドロップボールを駆使して、「一高第二次黄金時代」の左投手として活躍した。 1901年5月に横浜外国人チーム(横浜アマチュアクラブ)と対戦し5対6で敗れた。その後、制球力を向上させるため、一塁側グラウンドの後方にあったレンガ塀に5寸大の穴が開くまで投げ続けたり、投球練習中に痛めた左肘を治すため、校庭の桜の木に左手一本でぶら下がり伸ばすなど、校友会雑誌に「上野の杜にカラスの鳴かぬ日はあれど、守山の姿を運動場に見ざる日はなし」と書かれるほど猛練習に明け暮れた。
橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、… 橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、1879年(明治12年)3月10日 - 1936年(昭和11年)3月23日)は、日本のアマチュア野球選手(遊撃手、投手)、新聞記者。ペンネームは「橋戸 頑鉄」(はしど がんてつ)。
中平 千佳 は、日本の元女子プロ野球選手。
佐々木 希 は、神奈川県藤沢市出身の元女子プロ野球選手。蒲田… 佐々木 希 は、神奈川県藤沢市出身の元女子プロ野球選手。蒲田女子高等学校卒業。ポジションは内野手。血液型A型。
大倉 三佳 は、日本の元女子プロ野球選手。三重県四日市市出身… 大倉 三佳 は、日本の元女子プロ野球選手。三重県四日市市出身。投手、内野手、外野手。右投げ右打ち。
河本 悠 は、日本の元女子プロ野球選手。東京都出身。第1回I… 河本 悠 は、日本の元女子プロ野球選手。東京都出身。第1回IBAF女子ワールドカップ日本代表。
熊崎 愛 は、日本の元女子プロ野球選手(捕手)。
田口 紗帆 は、神奈川県出身の元女子プロ野球選手、指導者、監… 田口 紗帆 は、神奈川県出身の元女子プロ野球選手、指導者、監督。
半田 渚 は、日本の元女子プロ野球選手。
塚田 晃平 は、東京都目黒区出身の元プロ野球選手(投手)。右… 塚田 晃平 は、東京都目黒区出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。NPBでは育成選手であった。
多田野 数人 は、東京都墨田区押上出身の元プロ野球選手(投手… 多田野 数人 は、東京都墨田区押上出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ、スカウト。右投右打。
石井 久至(いしい ひさし)は、日本の元アマチュア野球選手、… 石井 久至(いしい ひさし)は、日本の元アマチュア野球選手、監督である。ポジションは内野手。 日本大学第一高等学校では、エースとして1963年に春夏連続で甲子園へ出場。春の選抜は、2回戦で東田正義、元田昌義を擁する御所工に敗退。夏の選手権では、1回戦で徳島商のエース三好幸雄に抑えられ大敗を喫する。高校の1年下に小林正之がいた。 日本大学に進学し、内野手に転向。東都大学野球リーグでは、同期のエースである森内一忠の好投もあって1966年春季リーグで優勝。最高殊勲選手、ベストナイン(遊撃手)に選出される。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で山下律夫、有藤通世らのいた近大を降し優勝。他の大学同期に二塁手の田草川伸生(日本生命)、外野手の正垣泰祐がいた。
猪狩 志郎(いかり しろう)は、日本の元アマチュア野球選手で… 猪狩 志郎(いかり しろう)は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは投手。 佼成学園高校在学時の1968年、エースとして第40回選抜高等学校野球大会に出場。しかし1回戦で、この大会に準優勝した尾道商の井上幸信と投げ合った末に1-2で敗れる。高校同期に右翼手の森山正義と遊撃手の清水透らがいた。 1968年のドラフト会議で阪神から3位指名されたが入団を拒否し、駒澤大学に入学した。 大学を卒業した後は、本田技研に入社する。その後、外野手に転向。
吉岡 雄二 は、東京都足立区出身の元プロ野球選手(内野手・外… 吉岡 雄二 は、東京都足立区出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)、監督、コーチ。1995年から1997年までの登録名は「吉岡 佑弐」(読み同じ)。
吉田 秀雄(よしだ ひでお)は、日本の元アマチュア野球選手(… 吉田 秀雄(よしだ ひでお)は、日本の元アマチュア野球選手(捕手)。 修徳高等学校では、捕手として1968年秋季東京大会準決勝に進むが国士舘高に敗れる。翌1969年夏の甲子園都予選も準々決勝でエース但田裕介を擁する堀越高に敗退。 駒澤大学に進学。東都大学野球リーグでは在学中1972年秋季リーグ、1973年秋季リーグの2回優勝。1973年春季リーグでは首位打者となり、直後の日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。同年の明治神宮野球大会では、同期のエース赤津宏二(日立製作所)とバッテリーを組み、決勝で田尾安志のいた同志社大を降し優勝を飾る。ベストナイン(捕手)2回受賞。赤津以外の大学同期に栗橋茂、木下富雄らがいた。