飯室 芳男(いいむろ よしお、1925年1月18日 - )は… 飯室 芳男(いいむろ よしお、1925年1月18日 - )は、日本の三段跳選手。 山梨県甲府市に生まれる。1942年、甲府工業学校を卒業し、1951年の第1回アジア競技大会の三段跳で優勝する。ついで1952年ヘルシンキオリンピックに出場し、6位に入賞した。 その後は、1954年山梨大学学芸学部非常勤講師、1980年山梨県国体準備局次長、1983年山梨県体育協会専務理事、1987年日本体育協会理事、日本スポーツ少年団副本部長、日本陸上競技連盟審議会会員などを歴任した。1995年県政功績者。2000年勲五等瑞宝章。
石原 萠記(いしはら ほうき、1924年11月5日 -201… 石原 萠記(いしはら ほうき、1924年11月5日 -2017年2月24日)は、日本の社会主義運動家。社会党右派のイデオローグ。ソ連(ロシア)、中華人民共和国、韓国との文化交流、友好親善に努めている。出版社の自由社社長。日本対外文化協会副会長。日本出版協会理事長。STV-Japan取締役。「萠」は俗字で、人名漢字を使用して「石原萌記」と表記されることも多い。 山梨県甲府市百石町の染物店の二男として生まれる。1944年、早稲田大学在学中に陸軍に応召。1945年、中国・漢口の第6方面軍司令部参謀部で終戦を迎える。 1946年、上海から博多に復員。その後、東洋大学史学科で考古学を学ぶ。日本共産党員だった渡辺恒雄や河合武(河合栄治郎の長男)らと学生運動を行う。
増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1… 増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1986年11月23日)は、日本の映画監督、脚本家である。 山梨県甲府市出身。旧制甲府中学から旧制第一高等学校を経て東京大学法学部を卒業。東大法学部時代の知人に三島由紀夫がいる。 1947年、大映に助監督として入社。東京大学文学部哲学科に再入学。1952年、イタリア留学、イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学ぶ。帰国後、溝口健二や市川崑の助監督として参加。1957年、『くちづけ』で監督デビュー。監督第2作『青空娘』より若尾文子とタッグを組み、『妻は告白する』『清作の妻』『「女の小箱」より 夫が見た』『赤い天使』『卍』『刺青』などの佳作にして重要な作品群を残す。
望月 幸明(もちづき こうめい、1924年5月25日 - 2… 望月 幸明(もちづき こうめい、1924年5月25日 - 2020年8月8日)は、日本の政治家。山梨県公選第4代知事。位階勲等は正四位旭日重光章。 山梨県南巨摩郡中富町(現在の身延町)出身。旧制身延中学(現在の山梨県立身延高等学校)卒業。松本高等学校文科乙類(現在の信州大学人文学部)を経て東京大学法学部卒業。日本発送電株式会社勤務を経て山梨県庁に入り、天野久知事時代に県人事委員会総務課長を務める。県教育長、県総務部長などを歴任し、天野知事が5期目で田邊圀男に敗退した後も県政への働きを評価され、1977年(昭和52年)3月に山梨県副知事となる。自民党所属の金丸信は天野前知事支持であったが、金丸が中央政界で地位を上げていくと県議会においても金丸派が最大与党となっており、1979年(昭和54年)の田邊知事4期目をかけた山梨県知事選挙において、野党社会党県本部は田邊知事の4選を阻止するために保革連合で社会党寄りとされていた望月を擁立する。
北条明直(ほうじょう あきなお、1923年12月30日ー20… 北条明直(ほうじょう あきなお、1923年12月30日ー2004年3月3日)は、日本の華道家。 山梨県大月市出身。都留中学校卒、1947年國學院大學文学部哲学科卒。文部省社会教育局芸術課に勤務、退職後はドキュメンタリーテレビ番組の構成作家、記録映画の監督として活動し、生け花界では初の文部大臣招待日本華道展、日花展の担当官として、生け花にかかわる。1965年跡見学園女子大学助教授、1971年いけばな造形大学を創設し学長。1999年日本フラワーデザイン専門学校校長。
上野 晴朗(うえの はるお、1923年(大正12年) - 2… 上野 晴朗(うえの はるお、1923年(大正12年) - 2011年(平成23年)12月2日)は、日本の郷土史家・作家。山梨郷土研究会会員。 山梨県東山梨郡日下部村七日市場(現在の山梨市)に生まれる。山梨県立図書館の司書として郷土資料室に勤務し、1951年(昭和26年)には甲州文庫(現在は山梨県立博物館に移管)の受け入れに携わる。 のち、学芸員として富士博物館に勤務し、山梨県文化財審議委員や山梨県自然環境保全審議員などを歴任する。また、山梨県内の市町村が刊行する自治体史については、1962年(昭和37年)刊行の『勝沼町誌』をはじめ、後に刊行された『南部町誌』、『一宮町誌』、『御坂町誌』、『八代町誌』及び『明野村誌』などの編纂・執筆に携わる。
竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - … 竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - 2011年9月11日)は、日本の映画監督である。名の読みは「しげきち」説あり。日本映画監督協会会員。 1922年(大正11年)6月15日、山梨県甲府市に生まれる。 1940年(昭和15年)、旧制・甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業、第二次世界大戦の召集を受け出征、戦後1946年(昭和21年)に南方戦線から復員する。1947年(昭和22年)、俳優の長谷川一夫が主宰する新演伎座の文芸部に入社し、映画監督の衣笠貞之助や冬島泰三に師事する。 1953年(昭和28年)、宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)助監督課に移籍、冬島のほか、豊田四郎、丸根賛太郎、佐伯幸三らの助監督を務め、1959年(昭和29年)、同社が製作した劇場用映画『やりくりアパート』で監督に昇進、社員から契約監督となる。
降矢 敬雄(ふるや けいゆう、1921年(大正10年)10月… 降矢 敬雄(ふるや けいゆう、1921年(大正10年)10月7日 - 1993年(平成5年)7月14日)は、昭和期の農業協同組合指導者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県で生まれる。1939年(昭和14年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業。1943年(昭和18年)陸軍予備士官学校を卒業し、満洲国、フィリピンなどを転戦し、陸軍中尉で終戦を迎えた。 戦後、郵政事務官となり、全国特定郵便局従業員組合中央本部書記長、同副委員長を務めた。山梨県議会議員に選出され5期在任し、同議長も務めた。その他、山梨県森林組合連合会副会長・理事、同県農業協同組合中央会・信用農業協同組合連合会・経済農業協同組合連合会・全国共済農業協同組合連合会共通会長理事、家の光協会監事、全国新聞情報農業協同組合連合会理事、全国農業協同組合中央会理事などを務めた。
末木 剛博(すえき たけひろ、1921年9月10日 - 20… 末木 剛博(すえき たけひろ、1921年9月10日 - 2007年12月1日)は、日本の哲学者、論理学者、比較思想研究者。東京大学教養学部名誉教授。 戦後いち早く現代論理学(記号論理学)を研究した一人。東大の大学院では科学史・科学哲学と比較文化を教えた。中村元を助け比較思想学会の創立に関わり、同学会の理事を務めた。 1921年、山梨県甲府市生まれ。旧制甲府中学、第一高等学校を経て、1945年東京帝国大学哲学科卒業。卒業後は東京帝国大学副手、電気通信大学助教授を経て、1954年より東京大学教養学部助教授となった。後に同大学教授に昇進。在職中には東京大学陵禪会の顧問を務め、学生と共に参禅していた。この陵禪会の繋がりで、野矢茂樹は末木を師の一人として仰ぐ様になる。
窪田 精(くぼた せい、1921年4月15日 - 2004年… 窪田 精(くぼた せい、1921年4月15日 - 2004年2月29日)は、日本の小説家。 山梨県北巨摩郡高根町(現北杜市)に生まれた。高等小学校修了間際に上京し、夜学に通いながら、大衆演劇の世界にはいる。そのなかで、社会の矛盾にめざめ、傾向映画作品の舞台化をめざす劇団わかもの座に参加する。1940年、演劇活動のなかで右翼の襲撃をうけ、そのトラブルのなかで治安警察法違反に問われて、下獄した。戦時中は南洋群島のトラック島に送られ、流刑囚の生活を送った。 戦後出獄したあと文学の道を選ぶ。清瀬村にあった国立療養所に勤務するなかで、小沢清らと新日本文学会の下部のサークルをつくる。1949年、新日本文学会に入会する。
永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 19… 永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 1975年5月17日)は、日本の広告研究者、評論家。 山梨県塩山市郊外に生まれる。山梨県立日川中学校、多摩美術大学卒業。台糖株式会社宣伝課長、日本経済新聞社『日経広告手帖』編集長、中部日本放送「CBCレポート」編集長、「週刊明星」創刊にかかわり、市場調査機関・永田オペレーション・センターを設立、のち電通PRセンターとし、初代社長となる。1970年株式会社ジャパーク(JPRC)を創立。評論家として著書多数を著した。 1960年代、永田が電通PR(現電通パブリックリレーションズ)社長時代提唱したとされる。
上條 馨(かみじょう かおる、大正10年(1921年)3月7… 上條 馨(かみじょう かおる、大正10年(1921年)3月7日 - 昭和36年(1961年)1月3日)は、山梨県の郷土史家、神職。 山梨県甲府市に御崎神社の宮司を務める上條定久、多津の二男として生まれる。昭和13年(1938年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇學館(現在の皇學館大学)に入学し同校を卒業。山梨県立甲府中学校、山梨県立甲府第一高等学校に勤務し、昭和23年(1948年)には母校である山梨県立甲府第一高等学校の校歌を作詞、また、父の後を継ぎ御崎神社宮司を務める。その後、病気のため同校教諭を辞職。後に山梨学院大学講師、山梨学院大学附属高等学校教諭となる。
甲斐ノ山 福人(かいのやま ふくひと、1921年3月4日 -… 甲斐ノ山 福人(かいのやま ふくひと、1921年3月4日 - 没年不明)は、山梨県東山梨郡塩山町(現・同県甲州市)出身で錦嶋部屋に所属した大相撲力士。本名は田草川 次夫(たくさがわ つぎお)。現役時代の体格は170cm、113kg。得意手は右四つ、寄り。引退後は、およそ9年半の間、年寄として後進の指導に努めた。 14歳の時に錦嶋部屋へ入門し、1935年5月場所で初土俵を踏んだ。 「大蛇嶋」の名で初めて番付に載るまでに3年近くを要し、その後も出世は遅々として進まず、1944年1月場所で漸く新十両に昇進。そして、これを機に、四股名を故郷・山梨県の旧称に因んだ「甲斐ノ山」に改めた。 以降は、幕下と十両との往復を繰り返した。
甲斐錦 勝(かいにしき まさる、1920年(大正9年)10月… 甲斐錦 勝(かいにしき まさる、1920年(大正9年)10月31日 - 没年不明)は、山梨県山梨市牧丘町(現役当時は東山梨郡中牧村)出身で、二所ノ関部屋(入門時は松ヶ根部屋)に所属した大相撲力士。本名は鶴田 勝(つるた まさる)。最高位は西前頭12枚目(1950年5月場所)。現役時代の体格は175cm、86kg。得意手は左四つ、吊り、寄り。 17歳の時に上京し、元小結・紅葉川が率いる松ヶ根部屋へ入門。1938年(昭和13年)5月場所で初土俵を踏んだ。同期生には、後の横綱・吉葉山や小結・大起などがいる。当初の四股名は、本名と同一の「鶴田」。改名後の「甲斐錦」は、故郷・山梨県の旧称・甲斐に因む。 三段目時代と新十両昇進時(1945年(昭和20年)6月場所後)に応召された事も災いして出世は遅れ、初土俵から新入幕(1949年(昭和24年)5月場所)まで、およそ11年を要した。
三枝 佐枝子(さいぐさ さえこ、1920年(大正9年)10月… 三枝 佐枝子(さいぐさ さえこ、1920年(大正9年)10月4日 - 2023年(令和5年)1月12日)は、日本の編集者、著述家。中央公論社編集局長、商品科学研究所所長などを務めた。旧姓、若尾。 若尾金造の三女として山梨県甲府市に生まれる。生家の若尾家は甲州財閥の中心的存在だった。 1938年東洋英和女学院高等部、1941年日本女子大学を卒業。1942年、同郷の三枝守雄と結婚。守雄は東大生時代に本郷追分のYMCAに寄宿していたことから佐枝子と知り合った。 守雄が気付いた新聞の三行広告をきっかけに、1946年4月に中央公論社に入社。 1958年9月、嶋中鵬二に代わって『婦人公論』編集長となり、日本で初めて商業誌の女性編集長となった。
堀内 幸枝(ほりうち さちえ、1920年9月6日 - 202… 堀内 幸枝(ほりうち さちえ、1920年9月6日 - 2021年10月11日)は、日本の詩人。 山梨県東八代郡御代咲村(現笛吹市)生まれ。本姓・千葉。大妻専門学校卒。 22歳で甲府在住の千葉幸男と結婚するが、姑とあわず、3ヶ月で婚家を出て、夫を誘い東京に出て二人で生活する。 神保光太郎、深尾須磨子らの知遇を得て『四季』などに詩を発表する。詩誌『葡萄』発行人。中田喜直、田中隆司の作曲により歌曲となった作品も多数ある。 現代詩人会会員。101歳で死去。 夫の千葉幸男は、上野精養軒に勤め、社長、会長、のち相談役。
飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10… 飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10日 - 2007年(平成19年)2月25日)は、山梨県出身の俳人。飯田蛇笏の四男で、蛇笏を継ぎ俳誌「雲母」を主宰。戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。
増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 -… 増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 - 1989年(平成元年)4月9日)は、日本の画家。洋画家。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現在の都留市谷村町下谷)に生まれる。父は理容店を営む清治郎で、誠は次男。母はかね。幼い頃より絵が得意で、中学時代には似顔絵の天才と賞されたという。 1931年(昭和6年)には父の清治郎が死去。谷村尋常高等小学校、山梨県立都留中学校(現在の山梨県立都留高等学校)を経て、山梨師範学校(現在の山梨大学)を卒業。1938年(昭和13年)には吉田尋常高等小学校の教員となり、富士上吉田町(現在の富士吉田市上吉田)の西念寺の離れに下宿する。翌1939年8月には退職し、同年11月には国華工業へ就職する。
小澤 道雄(おざわ どうゆう、本名みちお。1920年(大正9… 小澤 道雄(おざわ どうゆう、本名みちお。1920年(大正9年)4月25日 - 1978年(昭和53年)3月16日)は、日本の僧侶。曹洞宗法永寺住職。 大正9年に山梨県東八代郡(現甲府市)中道町に農家の次男として生まれる。昭和6年母方の親戚の寺の養子となる。昭和10年地元の小学校高等科を卒業後、横浜の禅林学校に安居する。 昭和15年、20歳で入隊し外地に出征。昭和20年北朝鮮で終戦を迎える。シベリア抑留中に右肩を負傷し、厳寒期の貨車による後送の途中で両足が重度の凍傷に冒される。昭和21年1月牡丹江の旧日本軍陸軍病院で両足首より切断手術をうける。その後帰国命令が下るも、両足がないため復員船の到着する胡蘆島までの移動は困難を極めた。
川手 良萬(かわて よしかず、1920年3月29日 - 1… 川手 良萬(かわて よしかず、1920年3月29日 - 1986年10月18日)は、日本の実業家。山梨県建設業協会会長、山梨県サッカー協会会長。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するヴァンフォーレ甲府の前身である甲府サッカークラブの創始者でもある。 山梨県北巨摩郡若神子村(現在の北杜市須玉町)生まれ。父の川手良雄は小学校長や無尽会社の支店長などを歴任した。長兄の川手良親は山梨県土木部長や須玉町長を務めた。良雄の従姉の夫は、昭和初期に衆議院議員を務めた川手甫雄 。 旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校、以下「甲府一高」と記述)に進学しサッカー部に所属していた。山梨高等工業学校(現在の山梨大学工学部)を卒業後、山梨県土木課に勤務した。
星野紀(ほしの とし、1918年(大正7年)5月13日 - … 星野紀(ほしの とし、1918年(大正7年)5月13日 - 1991年(平成3年)2月12日 )は、囲碁の棋士。山梨県出身、竹田逸子四段門下、日本棋院所属、九段。 大月市に生まれる。1932年に中学を中退して上京し竹田逸子に入門し、1934年に入段。1938年に召集され、騎兵として1939年にノモンハンで重傷を負い入院、続いて青森県の連隊に配属されるが上官を殴って重営倉入りとなり、紀元節で恩赦になった。1942年二段。 1950年大手合後期第三部優勝、三段。1951年四段。1953年五段。1956年六段。1962年七段。1966年首相杯争奪高段者トーナメントに優勝。1969年八段。1970年本因坊戦リーグ入り。
五味 芳夫(ごみ よしお、1917年11月14日 - 198… 五味 芳夫(ごみ よしお、1917年11月14日 - 1988年9月10日)は、山梨県甲府市出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは内野手。 甲府中学では1年生からレギュラーとなり、第21回全国中等学校優勝野球大会に出場。1回戦の青島中学戦で1試合5盗塁を記録。この記録は現在も夏の甲子園の大会記録として残っている。 1936年に名古屋金鯱軍へ入団し、山梨県初のプロ野球選手となった。1939年は30盗塁を記録し、山田伝と並んで盗塁王を獲得した。これにより1937年の秋のシーズンに島秀之助が盗塁王を獲得してから、江口行男、佐々木常助、五味芳夫と、4シーズン連続で同一の球団(名古屋金鯱軍)の各選手が盗塁王を獲得するという、珍記録が達成されたことになる。
島田 屯(しまだ とん、1917年10月27日- 1965年… 島田 屯(しまだ とん、1917年10月27日- 1965年11月7日)は、山梨県甲府市出身の俳優。 画家を志し、太平洋美術学校で絵を学んでいたが俳優志望に転向。1939年に新協劇団入団。1940年、日活多摩川撮影所入社。東宝演劇研究会を経て、1943年に再結成された東宝劇団に入団。瑞穂劇団在籍中の1945年に召集を受ける。1949年、第2次新協劇団に入団。劇団青俳、フリーランス期間を経て、東京俳優生活協同組合に所属していた。 戦前は舞台を中心に活動。戦後は映画やテレビドラマにも多数出演しており、映画では東映の教育映画や独立プロ映画を中心に『おとし穴』などの作品に、ドラマでは『バス通り裏』などに出演した。
原 忠三(はら ちゅうぞう、1917年 <大正6年> 3月2… 原 忠三(はら ちゅうぞう、1917年 <大正6年> 3月24日 - 2004年 <平成16年> 12月15日)は、日本の政治家。山梨県甲府市長(2期)、山梨県議会議員(3期)。位階は正五位。 山梨県出身。1933年、甲府市立商業学校(現・甲府市立甲府商業高等学校)卒。家業の製糸業に従事し、1946年、東京電力に入社する。1955年山梨県労連事務局長、1956年、同議長、1957年東電労組本部書記長を経て、1959年、山梨県議に当選。3期務め、1967年には副議長に就任した。1980年の第12回参議院議員通常選挙において山梨地方区から日本社会党公認で立候補したが落選した。1983年、甲府市長に当選、2期務めた。
小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年(大正6年)2月15… 小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年(大正6年)2月15日 - 1986年(昭和61年)10月27日)は、日本の実業家。国際興業グループ創業者。 戦時体制下では軍需省に取り入って蓄財し、日本の敗戦後には駐留外国人相手の事業で成功した。また、運輸・観光事業も手広く行い、日本国内の有名ホテルを複数買収したほか、ハワイの観光資源にいち早く注目してワイキキの名門ホテルを多数手中にするなどして、「ホテル王」と呼ばれたこともある。 また、後の内閣総理大臣・田中角栄との関係が「刎頸の友」と言われるなど有力な政商として知られ、政財界と暴力団の橋渡しを行っているなどとの噂から、「裏世界の首領」、「黒幕」などと揶揄されることもあった。
神沢 浄(かんざわ きよし、正式には「神澤淨」。1915年8… 神沢 浄(かんざわ きよし、正式には「神澤淨」。1915年8月25日 - 2007年3月1日)は、日本の政治家。日本社会党参議院議員、衆議院議員。 山梨県中巨摩郡竜王村(現・甲斐市)の農家に生まれる。1933年旧制甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。戦前は中国に渡り、貿易会社に勤務する。終戦後は郷里で青年団運動に打ち込み、1947年竜王村村長に当選する。同年4月15日に就任した。翌1948年に社会党に入党。1951年4月4日に村長を退任した。同年の山梨県議会議員選挙に中巨摩郡選挙区から社会党公認で立候補したが、この時は落選した。1955年の県議選では左派社会党から立候補して当選した。
金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 … 金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日)は、日本の政治家。 衆議院議員(12期)、副総理、民間活力導入担当大臣、防衛庁長官(第35代)、建設大臣(第34代)、自由民主党副総裁、自由民主党幹事長(第26代)、自由民主党総務会長(第27代)、自由民主党国会対策委員長(第16、24代)を歴任した。 1914年(大正3年)9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)の造り酒屋を営む地主の家に長男として生まれる。父は金丸康三、母はとくで信は長男。祖父は山梨交通電車線のルーツ甲府電車軌道の中心的人物であった金丸宗之助。叔父には県会議長などを務めた小宮山清三がいる。
倉金 章介(くらかね しょうすけ、本名:倉金 虎雄〈くらかね… 倉金 章介(くらかね しょうすけ、本名:倉金 虎雄〈くらかね とらお〉、1914年2月13日 - 1973年8月25日)は、日本の漫画家、出版美術家連盟会員。『あんみつ姫』の作者として知られる。 倉金 とらを、倉金 良行(くらかね よしゆき)の筆名で活動していたこともある。 1914年(大正3年)2月13日、山梨県甲府市で料理屋の四男として生まれる。 甲府市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)に在学中から、『少年倶楽部』や『少女倶楽部』などの雑誌に作品を投稿。 卒業後、料理屋の仕事を継ぐのがどうしても嫌だった倉金は、家族に告げずに、雑誌に掲載された作品や写真、履歴書を同封した弟子志望の手紙を尊敬する田河水泡に送る。
深沢 七郎(ふかざわ しちろう、1914年〈大正3年〉1月2… 深沢 七郎(ふかざわ しちろう、1914年〈大正3年〉1月29日 - 1987年〈昭和62年〉8月18日) は、日本の小説家、ギタリスト。 山梨県出身。職を転々とし、ギター奏者として日劇ミュージックホールに出演。『楢山節考』が正宗白鳥に激賞され、異色の新人として注目を集めた。「中央公論」に発表した『風流夢譚』に関わる右翼テロ事件(嶋中事件)後、筆を折った時期もあったが、土俗的な庶民のエネルギーを描いて独自の作品を発表し続けた。農場や今川焼屋を経営したり、ギター・リサイタルを開催したりと多くの話題を残した。他に代表作『笛吹川』『東京のプリンスたち』『庶民烈伝』『みちのくの人形たち』など。 1914年(大正3年)1月29日、印刷業の父・隣次郎、母さとじの四男として、山梨県東八代郡石和町(現笛吹市石和町)市部に生まれる。
菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914… 菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914年1月28日 - 1989年3月18日)は、日本の脚本家。山梨県甲府市出身。日本ペンクラブ、日本シナリオ作家協会、日本演劇協会、日本文芸家協会所属。 ★印は黒澤明監督作品。
岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 19… 岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 1972年7月8日)は、日本の騎手、競走馬調教師。東京競馬倶楽部、国営競馬、日本中央競馬会に所属。騎手時代にはトキノミノル、ゴールデンウエーブなどに騎乗した。 1914年、山梨県中巨摩郡玉幡村(現:甲斐市西八幡)に農家の三男として生まれる。幼少期から農耕馬の世話で馬に親しんだ。19歳の時に上京、東京競馬倶楽部の田中和一郎厩舎(目黒競馬場)に騎手見習いとして入門した。 1934年に正騎手となり、3月に初騎乗。同年9月3日、セイサンで初勝利を挙げた。以後「追える騎手」として徐々に頭角を現す。1940年春にはトキノチカラで帝室御賞典・春(阪神競馬場)を制し、特殊競走(重賞競走)初勝利を帝室御賞典で挙げた。
田邊 國男(田辺 国男、または田邉 國男、たなべ くにお、1… 田邊 國男(田辺 国男、または田邉 國男、たなべ くにお、1913年9月24日 - 2005年12月19日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党衆議院議員、山梨県知事、鈴木改造内閣の総理府総務長官、沖縄開発庁長官を歴任したほか、田辺酒造店主でもある。 山梨県塩山市下於曽(現在の甲州市)に生まれる。造酒業を営む田辺家の次男。田邊宗英の甥にあたる。父の田邊七六は戦前に実業界から衆議院議員となった人物で、立憲政友会に所属し幹事長を務め、戦後も日本進歩党に所属し、自民党山梨県連初代会長を務め山梨県政に影響力を持っていた。 1938年(昭和13年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、1958年(昭和33年)に第28回衆議院議員総選挙において旧山梨全県区から立候補し初当選して以来、通算当選9回(当選同期に安倍晋太郎・倉成正・斎藤邦吉など)。
田邊 圀男(田辺 国男、たなべ くにお、1913年9月24日… 田邊 圀男(田辺 国男、たなべ くにお、1913年9月24日 - 2005年12月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員、山梨県知事、鈴木改造内閣の沖縄開発庁長官、総理府総務長官を歴任したほか、田辺酒造店主。
萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22… 萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22日 - 2007年〈平成19年〉11月4日)は、日本の画家、版画家。油彩画、現代木版画などを描く。 1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市宝一丁目)に生まれる。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男。父の元治郎は警察署長を務め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人の飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった。 1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には家族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る。1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する。
岡田 晟(おかだ あきら、1913年 - 没年不詳)は、日本… 岡田 晟(おかだ あきら、1913年 - 没年不詳)は、日本の漫画家。主に絵本・漫画・挿絵を専門とし、戦後は漫画、紙芝居作家から貸本漫画の表紙絵を担当。つげ義春の『白面夜叉』『涙の仇討』『愛の調べ』の表紙は岡田の手によるもの。山梨県甲府市出身。つげ義春の「義男の青春」の「田山先生」のモデルとして知られる。昭和初期のモダニズムの影響を強く受けた生活ぶりであった。
奈良 武衛(なら たけえ、1912年10月28日 - 201… 奈良 武衛(なら たけえ、1912年10月28日 - 2011年4月13日)は日本の大蔵官僚、税理士。東京国税局調査第二部長、高松国税局長を務める。東京都小金井市東町在住。 山梨県大月市出身。山梨県立都留中学校卒業。1931年4月 都留税務署臨時雇用。1932年4月 大蔵省主税局。1935年3月 日本大学専門部法律科本科卒業。1936年7月 日本橋税務署。1942年10月 大臣官房秘書課。1950年5月 大宮税務署長。1954年7月 淀橋税務署長。1960年7月 東京国税局総務部人事課長。1962年7月 京橋税務署長。1964年7月 東京国税局調査第一部次長。1966年7月 東京国税局協議団本部長。
茂手木 元蔵(もてぎ もとぞう、1912年6月21日 - 1… 茂手木 元蔵(もてぎ もとぞう、1912年6月21日 - 1998年6月25日)は、日本の古代哲学研究者。 山梨県甲府市出身。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。東洋高等学校講師、横浜大学[疑問点 – ノート]助教授、校名変更で横浜市立大学教授となり、1978年定年退官、名誉教授、大正大学教授を務めた。アリストテレスやルキウス・セネカを専門とする。
伊藤友司(いとう ともじ、1912年(明治45年)5月9日 … 伊藤友司(いとう ともじ、1912年(明治45年)5月9日 - 1967年(昭和42年)8月6日)は、日本の女性宗教家。真如苑霊祖・初代苑主。 僧名は眞如。大僧正。遷化後の法号は摂受心院(しょうじゅしんいん)。夫は真如苑開祖の伊藤真乗。娘は伊藤真聰。 山梨県北巨摩郡高根村東井出(現:北杜市高根町)に内田家の長女として誕生。1915年12月23日、父・内田義平と死別。その後、1919年1月、母・もとよが大芝家に再嫁したので、祖母・内田きん(宝珠院)のもとで育つ。 1931年1月、甲府市の和裁学校に入学。1932年4月27日、伊藤文明(のちの真乗)と結婚。東京・立川に移住。1935年12月28日、運慶作と口伝される不動明王像を勧請。
清水 金一(しみず きんいち、本名雄三(のちに武雄)、191… 清水 金一(しみず きんいち、本名雄三(のちに武雄)、1912年5月5日 - 1966年10月10日)は、日本のコメディアン、映画俳優である。浅草の軽演劇、およびトーキー初期を彩るミュージカル・コメディのスターとして知られる。愛称はシミキン。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」の流行語を生んだほか、「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」も有名なフレーズであった。 山梨県甲府市に生まれる。 上京し、1928年(昭和3年)、16歳のときに、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、清水金一を名乗る。このころ一座の女優嶺レイ子との間に1児をもうけている。
長谷川 テル(はせがわ てる、1912年〈明治45年〉3月7… 長谷川 テル(はせがわ てる、1912年〈明治45年〉3月7日 - 1947年〈昭和22年〉1月10日ないし1月14日(文献により異なる)は、日本のエスペランティスト、反戦・反帝国主義運動家。 本名は長谷川 照子(はせがわ てるこ)。筆名は緑川 英子(みどりかわ えいこ)。エスペラント名は Verda Majo (ヴェルダ・マーヨ:緑の五月)。父は土木技師。女優の吉永小百合の母和枝とその妹の評論家川田泰代は遠縁にあたる。 山梨県大月市に生まれる。1929年、東京府立第三高女(現在の東京都立駒場高等学校)を卒業後、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)に進学。学内で文化サークルを同級生と伴に作り、エスペラントを学ぶ。
檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月3日 -… 檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日)は、日本の小説家、作詞家、料理家。 私小説や歴史小説、料理の本などで知られる。「最後の無頼派」作家・文士ともいわれた。また、西遊記の日本語抄訳もある(東京創元社ほか)。 代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』、時代娯楽作品も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に亘り、書き継がれライフワークとなった遺作『火宅の人』(1986年、東映で異父弟のプロデューサーの高岩淡の企画、深作欣二監督、緒形拳主演により映画化)など。
川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986… 川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986年8月22日)は、日本の新聞記者、会社経営者。名古屋放送株式会社代表取締役社長、会長。全国朝日放送取締役。 山梨県北杜市(旧須玉町若神子)出身。父は、昭和初期に立憲政友会所属で山梨県選出の衆議院議員だった川手甫雄。兄は、山梨トヨタ自動車社長やテレビ山梨取締役を務めた川手淳一。弟は、日軽アルミニウム工業専務を務めた川手雄三。 山梨県立甲府中学校、日本大学法学部卒業。大学卒業後の1936年に朝日新聞社に入社。社会部の事件記者として鳴らし、警視庁キャップを務めた。1961年に東京本社特信部長に就任。 1962年4月、名古屋放送の開局に際して放送界に転じ、取締役東京支社長に就任。
市古 貞次(いちこ ていじ、1911年5月5日 - 2004… 市古 貞次(いちこ ていじ、1911年5月5日 - 2004年3月25日)は、日本の文学者(中世日本文学)。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1954年)(学位論文「中世小説の研究」)。元日本学士院院長。1973年紫綬褒章受章、1984年文化功労者。日本文学研究者として初めて文化勲章を受章。 1911年、山梨県甲府市で生まれた。旧制巣鴨中学校(現巣鴨中学校・高等学校)、第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部国文学科に進学。1934年に卒業した。 1936年、東京帝国大学文学部副手に採用された。1939年、第一高等学校講師を命じられ、1940年に同教授昇格。1950年、東京大学教養学部助教授に就いた。
植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月1… 植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月15日 - 2006年(平成19年)6月22日)は、日本の郷土史家。山梨県の郷土研究を行う。位階は従六位。 山梨県北巨摩郡津金村(現在の北杜市須玉町)に生まれる。山梨県師範学校本科一部・同校専攻科を卒業後、西八代郡高田村(現・市川三郷町)の高田小学校、山梨県女子師範学校附属小学校に勤務し初等教育に携わり、1948年(昭和23年)には東山梨郡後屋敷村(現・山梨市)の後屋敷小学校、塩山市立北小学校、山梨市立八幡小学校において教頭職を務め、1966年(昭和41年)に東山梨郡牧丘町の牧丘町立牧丘第二中学校(現在・山梨市立牧丘第二中学校)校長で退職。
古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 19… 古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 1993年8月)は、日本の看護教育者。戦後の看護教育の基礎を築くとともに、看護学校の大学化への運動を行った。歌人として八代 かの江の筆名も用いた。 山梨県東八代郡御代咲村(現・笛吹市)に生まれる。両親はともに小学校教員で、父盛治は校長を務めたが結核に罹患し47歳で他界した。 1930年に山梨県女子師範学校本科第一部を卒業し、1930年4月から1934年3月まで山梨県御代咲小学校教員を務める。1934年4月に日本赤十字社中央病院看護婦養成所(甲種)に入学、1937年3月に卒業し、成績優秀により橋本記念賞受賞。同年4月、日本赤十字社山梨支部診療所に勤務。
武藤 欣之助(むとう きんのすけ、1910年〈明治43年〉3… 武藤 欣之助(むとう きんのすけ、1910年〈明治43年〉3月25日 - 没年不明)は、日本の実業家。広正社創業者。 山梨県東山梨郡平等村上岩下(現・山梨市上岩下)出身。1931年、20歳で広正社を個人創業。各種看板の製作、屋外広告、浴場広告を主として取扱う。 1953年、有限会社に改組する。1955年、株式会社組織に改める。宣伝自動車、交通広告の方面に進出する。 京成電鉄広告会会長、東京都浴場広告連盟理事、広正社社長、東京浴場組合理事、京成懇談会会長などをつとめる。 趣味は旅行。住所は東京都葛飾区青戸6丁目。本籍は山梨県山梨市上岩下。 1969年5月に税務署に於て発表した年間所得500万円以上の高額所得者の名簿である『全国高額所得調 昭和44年度版』に武藤欣之助(広告宣伝業)が掲載されている。
小野 巡(おの めぐる、1910年(明治43年)3月18日 … 小野 巡(おの めぐる、1910年(明治43年)3月18日 - 2009年(平成21年)6月22日 )は、山梨県甲府市出身の元・歌手。本名は章高。妻は元・歌手の大宮小夜子。 東京・新宿の淀橋署の巡査だったが、大久保の銭湯で藤原義江の「鉾をおさめて」を唄っていたところを作曲家細田義勝にスカウトされる。当時、警察官は5年の奉職という規定があったため神経衰弱という理由で退職した。他にも、巡査から歌手になった人物にキングレコードの筑波高がいる。 1935年(昭和10年)にビクターレコードから「祖国の護り」でデビュー。芸名の小野巡というのは、巡査の巡からとられた。1936年(昭和11年)に「守備兵ぶし」がヒット。
古屋 五郎(ふるや ごろう、1910年 <明治43年> 1月… 古屋 五郎(ふるや ごろう、1910年 <明治43年> 1月2日 - 1994年 <平成6年> 9月4日)は、日本の政治家、陸軍軍人。山梨県北巨摩郡菅原村長および初代白州町長(ともに現在の北杜市)。最終階級は陸軍衛生兵長。位階は従六位。応召先の陸軍病院長が行った物資の横領や従軍看護婦の強姦行為を告発した人物として知られる。 1910年(明治43年)1月2日、山梨県北巨摩郡菅原村字竹宇(現北杜市)の旧家古屋浜吉・ふじの三男として生まれる。旧制甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)に進学するも、兄二人が東京帝国大学在学中に病よって倒れたことから、同じ轍をふまないようにと両親の考えにより卒業後は進学を諦め、家業の農業を継ぐ傍ら1927年(昭和2年)から菅原村役場の書記として勤務をはじめる。
細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1… 細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1969年11月29日)は、日本の新聞記者。 山梨県甲府市出身。東京外国語学校フランス語科卒。東京市役所勤務ののち、1939年読売新聞社に入社。ハノイ特派員、バンコク支局長などを経て、1946年論説委員となり、1955年から夕刊コラム「よみうり寸評」を担当した。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員を務めた。
山本 三郎(やまもと さぶろう、1909年(明治42年)11… 山本 三郎(やまもと さぶろう、1909年(明治42年)11月17日 - 1997年(平成9年)10月15日)は、日本の建設官僚、経営者。工学博士。建設事務次官などを歴任した。 山梨県に生まれる。1933年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同年に内務省土木局に就職。関東地方建設局内の各所長などを経て、1956年、建設省河川局長、1960年、建設省技監、1961年、建設事務次官を歴任。1963年に退官した。同年、土木学会会長( - 1964年)に就任。 1964年、三井港湾開発社長となる。1974年、水資源開発公団総裁に就任し、1982年まで在任した。1997年死去。享年87。 治水分野で活躍し、特定多目的ダム法や海岸法、地すべり等防止法、治山治水緊急措置法の制定や、1963年に新河川法が制定される際に中心的な役割を果たした。