栗田 裕夫(くりた ひろお、1926年1月7日 - 2016… 栗田 裕夫(くりた ひろお、1926年1月7日 - 2016年7月19日)は、日本の自衛隊員、実業家。位階は従四位。 陸上自衛隊第11師団長・陸将や、セブン-イレブン・ジャパン社長を務めた。 1943年、旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)卒業。1945年、陸軍士官学校卒業。日本の降伏後、陸上自衛隊に入隊。1979年、陸上自衛隊第11師団長。1981年にセブン-イレブン・ジャパン入社。1992年には鈴木敏文の後任としてセブン-イレブン・ジャパン社長に就任した。1995年の阪神・淡路大震災ではヘリコプターを使って弁当を空輸し、「ライフライン」で第12回新語・流行語大賞トップテンに入賞した。1997年、健康上の理由で退任。
小高 登貫(こだか のりつら、1923年2月 - 1992年… 小高 登貫(こだか のりつら、1923年2月 - 1992年3月)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争における撃墜王。第三四三海軍航空隊に所属し、紫電改を乗機とした。 1923年2月長野県東筑摩郡島内村(現:松本市)に生まれる。1938年、島内尋常高等小学校卒業後、名古屋市千種区陸軍工廠に勤務。1941年5月、横須賀海兵団に入り、新兵として二か月間の教育を受けた。第12海軍航空隊に勤務。海軍航空兵を志願し、1942年、第10期普通科海軍操縦練習生卒業。飛行訓練を受け、戦闘機搭乗員となる。同年、第25期高等科海軍操縦練習生卒業。九六式艦戦で実用機訓練を受ける。練習生時代の射撃で一番の成績だった。富高空に配属。
上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1… 上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍特別攻撃隊第56振武隊員。 「自由主義者」を標榜する遺書の内容で有名。上原が書き残した遺書や手記などは、近代日本史上の軍人が書き残した遺稿の中で、最もよく知られているものの一つであり、『きけ わだつみのこえ』などの多くの書籍に掲載され、映画やドキュメンタリー番組で度々取り上げられている。 長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の父・上原寅太郎、母・よ志江の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。 遠縁にあたる「有明医院」を継いだ上原家は裕福で子供らに文化的な生活を送らせており、近くの乳房川で家族みんなで写真の撮影会をしたり、家の離れに近所の子供たちを集めて肝試し大会を開催したり、広い裏庭ではテニスをやったり、またスキーや登山といった遠出も頻繁に行っていた。
原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 … 原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 - 2016年(平成28年)5月3日)は、日本の海軍軍人、戦闘機操縦者、最終階級は海軍中尉。 長野県上水内郡浅川村(現長野市)の農家に生まれた。わんぱくで勉強は好きではないが、よく出来たほうで、1929年(昭和4年)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)に入学する。 1933年(昭和8年)、一般志願兵として海軍に入隊し、横須賀海兵団で新兵教育を終えた後、駆逐艦「潮」乗組みとなった。だが大砲や魚雷があまり好きになれず、やがて幼少時に見て以来ずっと憧れていた飛行機に乗りたいと志すようになったものの、上司や父の反対のため、たまには飛行機に乗せてもらえるということで、1935年(昭和10年)横須賀航空隊に航空兵器術練習生として入隊した。
代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年… 代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年6月7日)は、日本の陸軍軍人・作詞家。最終階級は中尉。 戦後の死刑囚時代に「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞を手がけたことで知られる。 長野県下伊那郡松尾村(現在の飯田市)出身。第二次世界大戦の勃発に伴い陸軍に召集され、憲兵としてフィリピン・セブ島を転戦。終戦時は少尉であったが、ポツダム宣言により中尉に昇進。 その後、戦犯死刑囚としてフィリピンのモンテンルパにある刑務所に収容された。1951年、自身と同じ死刑判決をうけた日本兵が処刑されたのを契機に、同僚たちを勇気付けるため「ああモンテンルパの夜は更けて」を作詞。代田と同じく死刑囚となっていた伊藤正康大尉が曲をつけた。
柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1… 柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1956年10月20日)は、日本の陸軍軍人、軍医。 長野県小県郡(現・上田市)で小学校教員の次男として生まれた。貧しい柄沢家を背負って立つ跡継ぎとして期待され育てられた。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1929年東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学。1933年卒業、陸軍少尉。1936年4月、陸軍軍医学校に入学。軍医中将梶塚隆二が主幹を務める軍陣防疫学教室に所属、細菌学を学んだ。1937年7月、日華事変により学生のまま防疫部の一員として天津に渡り、防疫活動に従事した。この半年前に結婚し、天津にいる間に一女をもうけている。 1939年9月、陸軍軍医学校を卒業。
小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年(明治43年)5月… 小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年(明治43年)5月22日 - 1959年(昭和34年)2月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少佐。 長野県出身。農業・小岩井鈴弥の三男として生れる。松本中学校から陸軍士官学校予科を経て、1934年(昭和9年)6月、陸軍士官学校(46期)を卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第5連隊付となる。 その後、支那駐屯歩兵第1連隊付から、同連隊中隊長、第27師団参謀部付などを経て、1942年(昭和17年)3月、シンガポール攻略後の歩兵第41連隊第2大隊の大隊長となり、同年8月陸軍少佐に昇進した。 歩兵第41連隊第2大隊の大隊長としてポートモレスビー作戦に参戦し、ニューギニア戦線から帰還後参謀本部付を経て、1945年(昭和20年)6月、第96師団参謀となり終戦を迎えた。
藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月… 藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月28日 - 1995年 (平成7年) 7月6日 )は、日本海軍軍人。海兵56期卒業。最終階級は海軍中佐。 1907年11月28日長野県諏訪郡湖南村(現諏訪市)に生まれる。諏訪中学を経て、1925年(大正14年)4月海軍兵学校56期に入校。1928年3月、同校を席次111名中16番で卒業。少尉候補生として練習航海に出発。1929年11月少尉任官。1931年12月中尉。1934年11月大尉。1936年12月潜水艦学校乙種卒業。1937年12月伊号第二十三潜水艦水雷長。1938年7月伊号第六十四潜水艦水雷長。1939年伊号第七十五潜水艦水雷長。
島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月… 島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月7日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。殉職後は海軍大佐。 長野県東筑摩郡島内村(現松本市)出身。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、海軍兵学校卒(51期)。兵学校では高松宮宣仁親王の「学友」を命じられる。少尉候補生から海軍砲術学校、「古鷹」、「榛名」、横須賀鎮守府、「厳島」、「響」、「大鯨」、第二艦隊司令部などに配属された。 太平洋戦争開戦(1941年)時、連合艦隊旗艦「長門」司令部の真珠湾攻撃作戦指揮に気象担当として従事した。のちに(1943年7月、8月15日付以降との説もある)古賀峯一連合艦隊司令長官のもと、トラック泊地でも旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部幕僚(参謀・気象長)として所属した。
今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23… 今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23日 - 1982年〈昭和57年〉6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は少将。 長野県上水内郡朝陽村(現長野市)の自作農今井熊太郎の六子のうち末子・四男として生まれた。1915年(大正4年)、(旧制)長野中学校を卒業(15回生)。六年制になったばかりの尋常小学校初の卒業生で、早生まれのため、高等小学校卒業生の多かった長野中学卒業生の中で今井は2番目に若かった。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期、兵科は歩兵)を、1928年(昭和3年)、陸軍大学校(40期)をそれぞれ卒業。 陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日中戦争期間中、和平工作に従事した。
柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年… 柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年)2月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。海兵46期、海大29期(首席)。最終階級は海軍少将。長野県佐久市出身。 旧制長野県野沢中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第30期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第46期入校。入校時成績順位は131名中第6位、卒業時成績順位は124名中第16位。 柳澤は、海軍通信学校高等科課程を修了しているが、当時の日本海軍で通信関係に進むものに、成績優秀かつ健康に恵まれた者は比較的少なく、このことが海軍の情報軽視の背景の一つであったとされる。柳澤は首席で卒業している。
有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月2… 有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生まれた。父の作太郎は旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。
古村 啓蔵(こむら けいぞう、1896年〈明治29年〉7月2… 古村 啓蔵(こむら けいぞう、1896年〈明治29年〉7月20日 - 1978年〈昭和53年〉2月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲二等。戦艦「武蔵」の第2代艦長であり、坊ノ岬沖海戦では軽巡洋艦「矢矧」に乗艦。第二水雷戦隊を指揮していた。あだ名は「両舷直の親玉」。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒後、海軍兵学校45期を89名中10位の成績で卒業。病のため1年留年している。海軍兵学校の同期生では、坊の岬沖海戦時に共に戦った第二艦隊参謀長森下信衛少将、同郷同窓の戦艦「大和」艦長有賀幸作大佐(戦死後中将)が有名である。
宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2… 宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。警察官・宮崎岩太郎の長男として生まれる。豊橋中学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第17連隊付となる。陸士予科区隊長などを経て、1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し歩兵第17連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)2月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(外国戦史課)に異動。1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進。
岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 … 岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の編集者、書店主、陸軍軍人。大正から昭和初頭の日本に於いて、民族・民俗学や考古学専門の書店「岡書院」、山岳書専門の「梓書房」を創業、経営。民族学・考古学から山岳・自然関係の名著を、短期間ながら多数出版した。 学術史上の名著となる多くの書籍、雑誌を世に送り出した。南方熊楠を最初に見出し、鳥居龍蔵や新村出の著作を出版するなど、岩波書店と並ぶ良心的な出版人として知られた。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。陸軍中央幼年学校から陸軍士官学校(28期)を経て1916年(大正5年)12月26日に歩兵第60連隊附の歩兵少尉となった。
中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28… 中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28日 - 1977年(昭和52年)12月22日)は、日本の海軍軍人。海兵43期、海大26期。最終階級は海軍中将。戦時中は特攻作戦を承認し強く推進した責任者でもある。「日本海軍の提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評される一方で、終戦時には部下に「俺は死ぬ係じゃないから」と発言したことでも知られる。 1894年(明治27年)6月28日、長野県諏訪郡豊田村(現諏訪市)で農業・染色を営む父・忠助のもとに生まれる。中澤宗家は代々諏訪藩右筆だったが、明治維新により帰農した。父・忠助は豊田村村長も務めた。旧制長野県諏訪中学校を経て1912年(大正元年)9月9日、海軍兵学校第43期に100名中71番の席次で入校。
金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日… 金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日 - 1974年(昭和49年)5月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸士27期次席。最終階級は陸軍少将。功四級。 1894年(明治27年)に長野県塩尻市で生まれた。名古屋陸軍幼年学校台賜、中央幼年学校および陸軍士官学校第27期をいずれも恩賜で卒業。原隊は工兵第18大隊。陸軍砲工学校高等科卒業後、兵器局、整備局勤務を経て、1939年(昭和14年)3月9日に工兵第3連隊長(第11軍・第3師団)に就任し、8月1日に陸軍工兵大佐に進級した。日中戦争に出動し、冀東作戦、宜昌作戦、漢水作戦などを連戦した。1941年(昭和16年)3月に陸軍築城部部員に転じた。
北村 勝三(きたむら かつぞう、1894年(明治27年)1月… 北村 勝三(きたむら かつぞう、1894年(明治27年)1月15日 - 1947年(昭和22年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 長野県出身。菜種商・北村長次の長男として生まれる。長野中学校(現長野県長野高等学校)、東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。1916年(大正5年)9月から1917年(大正6年)1月まで陸軍戸山学校学生となる。1918年(大正7年)12月、第12師団司令部付に発令され、1919年(大正8年)1月から1920年(大正9年)3月までシベリア出兵に出征。
渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月1… 渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月18日 - 1945年〈昭和20年〉1月12日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争初期に第十六駆逐隊司令として南方攻略戦に参加し、のち第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将である。 長野県出身。海軍兵学校44期で、席次は95名中32番。1917年(大正6年)少尉任官。渋谷は海軍水雷学校高等科学生を修了した水雷専攻士官で、ほぼ一貫して海上勤務に終始した海上戦闘の猛者であった。4艦の水雷長、3艦の駆逐艦長、軽巡洋艦「神通」副長を経て、第一水雷隊及び第二十七駆逐隊の司令を務めた。この間1928年(昭和3年)少佐、1934年(昭和9年)中佐へ進級。1939年(昭和14年)11月大佐へ進級し、第一掃海隊司令、第七駆逐隊司令を経て第十六駆逐隊司令に就任。
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 19… 柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日… 細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7… 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。陸軍士官学校26期・陸軍大学校35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。
神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)1… 神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)12月8日 - 昭和54年(1979年))は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉海軍病院長、海軍医学校校長を歴任する。長野県長野市出身。 明治23年(1890年)12月8日、長野県更科郡稲里村(現在の長野市)の士族であった神林英三郎の五男として出生する。第二高等学校を経て、大正6年(1917年)に九州帝国大学医学部医学科を成績優秀で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。海軍省に入省後、軍医となる。大正12年4月に九州帝国大学大学院へ進学し、小野寺教授の下で指導を受ける。大正14年11月に同校を修了する。 大正15年(1926年)には、久邇宮の欧州外遊に同行し、昭和3年(1927年)2月、ドイツ駐在員となる。
小池 勇助(こいけ ゆうすけ、1890年(明治23年)7月2… 小池 勇助(こいけ ゆうすけ、1890年(明治23年)7月25日 - 1945年(昭和20年)6月26日)は、日本の陸軍軍人、軍医。最終階級は中佐。 長野県南佐久郡野沢村(現佐久市)に男5人、女1人の兄弟の次男として生まれる。野沢中学を経て、1914年金沢医学専門学校を卒業し、同年11月金沢歩兵第七連隊に入営、その後陸軍軍医学校で眼科を専攻。1925年(大正14年)予備役。帝国大学眼科教室で研究生活の後、千葉県銚子町(現銚子市)石津眼科病院勤務を経て、1928年(昭和3年)佐久鉄道(現JR小海線)中込駅前に小池眼科医院を開業。 1937年(昭和12年)日中戦争に軍医として出征、1941年(昭和16年)から満州、1944年(昭和19年)8月沖縄へ。
神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月1… 神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月14日 - 1966年(昭和41年)4月12日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。旧姓・小岩井。 長野県出身。小岩井永次郎の二男として生まれ、神林玄進の養子となる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1917年(大正6年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第56連隊付となる。1918年(大正7年)6月、久留米衛戍病院付となる。1920年(大正9年)8月、陸軍軍医学校に専攻学生として入学。1921年(大正10年)4月、一等軍医に昇進。その後、東京陸軍幼年学校付、陸軍省医務局課員を務め、1925年(大正14年)3月、医学博士の学位を受けた。
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月2… 板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月29日 - 1961年(昭和36年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に農業・板花茂一郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校で偵察を学んだ。1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進。
細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6… 細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6月24日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階は従三位。 農業、細萱伊勢吉の四男として長野県南佐久郡桜井村(現佐久市)に生まれる。野沢中学を経て、1908年(明治41年)11月海軍兵学校(36期)を卒業し、1910年(明治43年)に少尉任官。1914年海軍水雷学校高等科を卒業後、駆逐艦「樺」乗組、第1特務艦隊参謀、佐世保鎮守府副官などを歴任。1920年(大正9年)、海軍大学校(甲種18期)を卒業。以後、第4戦隊参謀、軍令部第2班第4課参謀、「夕張」副長、「日向」副長、呉軍需部第1課長、「鳥海」艦長、軍需局第1課長、佐世保工廠造兵部長、「陸奥」艦長などを歴任し、1935年(昭和10年)海軍少将に進級。
清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日… 清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日 - 1971年(昭和46年)5月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1… 両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1月4日 - 1963年(昭和38年)9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県諏訪郡湖東村[要出典](現茅野市)出身。諏訪中学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。同連隊中隊長などを経て、陸軍歩兵学校で甲種学生として学んだ。 以後、陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。
平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - … 平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - 1969年5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。
高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10… 高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10日 - 1956年(昭和31年)8月15日)は、日本の政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。政治家としては衆議院議員を歴任した。長野県出身。陸士19期、陸大26期。 長野県南安曇郡高家村(現在の安曇野市)出身。松本中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官。1914年(大正3年)には陸軍大学校(26期)を卒業した。浦塩派遣軍参謀、参謀本部員、第14師団参謀、第6師団参謀、台湾歩兵第1連隊大隊長、奉天独立守備第2大隊長、福井連隊区司令官、歩兵第26連隊長、第8師団参謀長、歩兵第39旅団長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月15日には留守第2師団長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日陸軍中将に進級した。
横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10… 横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10日 - 1971年(昭和46年)1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 長野県飯山市出身。陸軍士官学校第19期卒業。1925年(大正13年)3月、陸軍騎兵少佐に進級し、同年9月時点で陸軍騎兵学校附の任にあった。1924年(大正14年)9月時点で騎兵第13連隊附を発令され、成蹊高等学校兼成蹊実務学校配属となり、1928年(昭和3年)3月に近衛騎兵連隊附に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍騎兵中佐進級と同時に騎兵第16連隊附に着任した。1931年(昭和6年)3月に軍馬補充部十勝支部長に就任し、1933年(昭和8年)8月に騎兵第9連隊長(第9師団)に転補され、1934年(昭和9年)8月に陸軍騎兵大佐に進級した。
小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1… 小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1977年12月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。
永田 鉄山(ながた てつざん、1884年〈明治17年〉1月1… 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年〈明治17年〉1月14日 - 1935年〈昭和10年〉8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。 陸軍中央幼年学校次席卒業、陸軍士官学校首席卒業、陸軍大学校次席卒業を経て参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。 軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。陸軍刷新(長州閥支配打破など)を進めた。 陸軍省軍務局長(階級は陸軍少将)時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された(相沢事件)。 長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月… 塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。
山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月… 山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日 - 1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16… 斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16日 - 1953年(昭和28年)7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。 長野県北安曇郡七貴村(後の安曇野市)に旧松本藩士・三宅政明の四男として生まれる。既に帰農していたため、士族籍ではなく平民籍であった。貧しかったため幼少期には丁稚奉公に出されている。旧制松本中学(後の長野県松本深志高等学校)を経て1901年に陸軍士官学校(12期)を卒業。歩兵少尉に任官した。同期に杉山元、小磯國昭、香椎浩平らがいる。旧制中学時代に医師で漢学者の斎藤順の養子となった。 1903年中尉に昇進し、1904年に勃発した日露戦争に従軍。
倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)… 倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)4月28日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 長野県小県郡本原村(現・上田市真田町本原)出身。1898年(明治31年)陸軍士官学校第10期卒業。 1922年(大正11年)2月に麻布連隊区司令官を経て、同年4月に陸軍歩兵大佐に昇進。その後、1923年(大正12年)8月に歩兵第69連隊長、1925年(大正14年)5月に富山連隊区司令部附、同年8月に第9師団司令部附・金沢医科大学服務を経て、1927年(昭和2年)3月に陸軍少将・歩兵第4旅団長に補任。翌年の1928年(昭和3年)8月10日に待命、同年8月29日に予備役に編入した。
隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年… 隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和9年(1934年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)で旧小諸藩士隈部忠良の三男として生まれる。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科37番/103名で卒業している。1891年(明治24年)3月に歩兵少尉に任官し、歩兵第3連隊附。歩兵第2連隊中隊長、陸軍省人事課員、参謀本部副官、第1師団軍法会議判士長などを務めた。日清戦争・北清事変に出征し、日露戦争では歩兵第2連隊大隊長として転戦し、第3回旅順総攻撃に第1師団副官として参加した。
神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日… 神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日(慶応2年4月27日) - 1941年(昭和16年)8月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従三位勲二等功三級。 信濃国水内郡檀田村(長野県長野市)に神頭三太夫の三男として生まれ、1910年(明治43年)分家する。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1912年(大正元年)9月に陸軍歩兵大佐・高知連隊区司令官、1913年(大正2年)8月に歩兵第28連隊長、1916年(大正5年)3月に第3師団参謀長、1917年(大正6年)5月に中支那派遣隊司令官を経て、同年8月に陸軍少将に進級。
小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年… 小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年4月25日) - 明治34年(1901年)3月19日)は、日本の陸軍軍人、国粋主義者。清仏戦争に乗じて清国改造の革命を起こそうとした。東邦協会設立発起人。 信濃国上諏訪宿(現長野県諏訪市)に生まれる。年少時に江戸に出てフランス語を学び、次いで陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879年(明治12年)に陸軍工兵少尉に任ぜられる。1883年(明治16年)に参謀本部出仕となり、翌年清国に派遣され、福州に駐在して諜報任務に当たる。 清国の地下組織「哥老会」と結んで清朝転覆を企て、山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤吉と連絡を取り合い策謀するところにあったが、本国より柴五郎が駆けつけ、計画は中止となった。
世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年1… 世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年10月31日〉- 明治33年〈1900年〉8月1日)は、日本の海軍軍人。アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将。 海軍省主事、海軍省軍務局軍事課長、戦艦「富士」艦長、戦艦「三笠」回航委員長などの要職を歴任したが、現役の海軍少将のまま、満43歳の若さで病死した。 ※ 本節の出典は、特記ない限り、秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮。 信濃国・上田藩の上田城下に出生。父は、上田藩士で弓術師範を務めた山本義隆。幼名は山本源之丞で、廃藩の際に本姓に復し、世良田亮と名乗った。 世良田は神童の評判が高く、9歳の時から上田藩の藩校に学んだ。
安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9… 安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9月21日〈嘉永6年8月19日〉- 1932年〈昭和7年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、第6代台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。勲功により男爵に叙爵された。 信濃国伊那郡南部の飯田藩槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚。長男欽一郎を儲けたが、志記が早世したため、貞美の生母である島地菊子を娶った。貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(柳田家に養子、柳田國男の義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(… 岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(1912年)1月15日)は、明治時代の日本の大日本帝国陸軍官吏・軍人。陸軍主計として会計・監督畑を歩み、日清戦争に出征した。最終官等は陸軍二等監督(中佐相当官)、位階は従五位、勲等は勲三等である。 岡村は信濃国東筑摩郡松本南深志町(現長野県松本市)の士族の出身である。明治7年(1874年)頃、中山信吉・中村宗則・浅田恭郷らとともに陸軍軍吏に任じられ、正七位を叙せられた。 同年、陸軍大尉として佐賀の乱に出征している。明治8年(1875年)には司契副に転じ、仙台鎮台司契課長を兼ね、さらに工兵第二方面本署監督課会計官を務めた。 明治10年(1877年)には二等司契に昇進し従六位となり、その後二等副監督に転じた。
丸山 政男(まるやま まさお、1889年9月13日 - 19… 丸山 政男(まるやま まさお、1889年9月13日 - 1957年11月11日は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。