宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30… 宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本画家、日本芸術院会員。三重県松阪市生まれ。本名・善次郎。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
三重県:1,297人
宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30… 宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本画家、日本芸術院会員。三重県松阪市生まれ。本名・善次郎。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
水谷 昇(みずたに のぼる、1896年〈明治29年〉5月23… 水谷 昇(みずたに のぼる、1896年〈明治29年〉5月23日 - 1988年〈昭和63年〉7月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。桑名市長(5期) 。書家。位階は従四位。 三重県河芸郡、のちの河芸町(現津市)で生まれた。1916年(大正5年)三重師範学校卒。小学校訓導、桑名高等女学校教諭を経て、桑名町議、同議長、桑名市議、同議長、木曽岬村長、三重県議などを歴任し、1946年の第22回衆議院議員総選挙で三重県から立候補するが次点。しかし翌1947年に長井源が辞職したことから、3月19日に繰り上げ当選となった。以来連続4期務め、衆議院図書館運営委員長、第3次吉田内閣で文部政務次官を務めた。
片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月… 片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月19日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家。衆議院議員(2期)。地方議員(三重県会議員・四日市市会議員)。三重郡富洲原町の教育者。 1896年(明治29年)4月19日、三重県三重郡富洲原町(現・四日市市)に生まれる。富田一色地区の三重県下の富豪で名門の商家であった片岡家(有力者の片岡徳松の一粒種の子供)の一人っ子であった。金持ちの1人息子でボンボンと呼ばれて、片岡氏は北勢四十八家の1つで堺村城主だった片岡家の一族である。型破りの人物で、親譲りの監元買別所(四日市市に立地)と、米穀取引所仲買店(名古屋市に立地)と、回漕店(三重郡富洲原町に立地)を切廻して一分の隙もなかった。
衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - … 衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名:小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。 新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督へ転身した。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。
森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 19… 森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 1983年2月13日)は、日本の建築家。建築研究者。三重県生まれ。京都大学名誉教授。また東海大学教授を歴任。過去の様式からの分離を宣言した分離派建築会に名を連ね設計活動を始めるが、西洋建築の歴史的研究を経て、ギリシアやローマの古典精神を探求し、建築論研究にも力を注いだ。 県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年(大正9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。 1934年に「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、189… 江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理作家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームの由来は、小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。本名は平井 太郎(ひらい たろう)。 大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。 1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)で名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。
田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日… 田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日 - 1991年〈平成3年〉11月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。ZTV代表取締役社長田村憲司、衆議院議長田村元の父。自由民主党衆議院議員田村憲久の祖父。TBSテレビアナウンサーの田村真子は曽孫にあたる。 三重県宇治山田市岩淵町(現・伊勢市)出身。 宇治山田中学(旧三重県立第四中学校)を1912年に卒業し、金沢の第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学に入学。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 松阪市で弁護士を開業した。後に三重県弁護士会会長を3期務め、日本弁護士会連合会理事を務めた。 三重県会議員、同議長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で三重2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する(いわゆる「翼賛候補」)。
田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2… 田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2月11日 - 1931年(昭和6年)10月4日)は三重県生まれの洋画家である。雅号は愛耕と名乗った。 1894年(明治27年)2月11日の紀元節の日に三重県南牟婁郡五郷村(現熊野市五郷町)に生まれる。父は五郷郵便局長の田垣内粂吉、母はけい。 1924年(大正13年)4月、五郷の旧家山東家の長女光恵と婚姻する。1925年(大正14年)東京に上京し、洋画家中川一政に師事する。この頃中川一政に師事をしていた堀内唯生と出会う。1926年(大正15年)に中川一政より油彩(夏の橋)など二点譲り受ける1927年(昭和2年)に第五回春陽会展に五郷桃崎の景と初秋の郊外が入選。
小林 清栄(こばやし きよえい、1894年(明治27年)1月… 小林 清栄(こばやし きよえい、1894年(明治27年)1月5日 - 1987年(昭和62年)12月20日)は三重県生まれの洋画家、政治家である。 1894年1月5日、三重県南牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれる。出生当時の名前は茂。父は神川村村長の小林信太郎、母の名は不詳であるが、文化学院を開いた西村伊作とは従兄弟の関係にあたる。 1905年、青木梅岳に師事。1908年、西村伊作に油絵技法を習う。1920年に鹿子木孟朗の門に入る。1924年、絵画を学ぶため渡仏。1927年(昭和2年)帰国。藤島武二に師事する。1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)にかけてカメラマン2人を率いて紀伊半島各地を巡って写真に収め、それらの写真を吉野熊野国立公園の指定申請書に添付した。
中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> … 中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> - 1968年 <昭和43年> 2月19日)は、日本の政治家。三重県会議員を2期務めた後、初代鳥羽市長に就任し、鳥羽市の発展の基礎を築いた。位階は従五位。 慶應義塾大学教授で政治学者の中村菊男の父である。 1894年(明治27年)、三重県志摩郡答志村大字答志(答志島、現・鳥羽市答志町)に生まれる。父・与助は初代の答志村長や三重県会議員(2期)を務めた政治家であった。 鳥羽町会議員に当選したのを皮切りに政界入りし、1939年(昭和14年)11月に三重県会議員選挙の志摩郡選挙区で石原円吉とともに当選した。1943年(昭和18年)11月の改選は任期延長のため実施されず、1947年(昭和22年)4月の選挙まで県会議員を務めた。
丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月… 丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月1日 - 1975年(昭和50年)2月28日)は、NE式写真電送装置(ファクシミリ)を開発した技術者。東京電機大学初代学長。日本の十大発明家の一人として数えられることもある。工学博士。三重県松阪市名誉市民(第1号)[要出典]。 三重県松阪市出身。旧制八高を経て1916年(大正5年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所を経て、1924年(大正13年)6月に日本電気に入社する。同年から翌年末にかけ欧米へ最新の通信技術を学びに視察。1926年(大正15年)2月に学位論文の「矩形枠捲線輪特ニ其誘導系数ノ計算方法ニ関スル研究」で帝大より工学博士を授与される。
嶋田 的浦(しまだ てきほ、1893年1月22日 - 195… 嶋田 的浦(しまだ てきほ、1893年1月22日 - 1950年4月11日)は日本の俳人。本名は襄。三重県志摩郡的矢村大字的矢(現在の志摩市磯部町的矢)出身。的浦の号は、故郷・的矢が小さな港(浦)を成していることにちなんでいる。嶋田青峰の弟であり、句作の才能は兄の青峰を上回っていたと評されている。 地元の三重県立宇治山田中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)を卒業し上京、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に進学、卒業。 俳人としての活動は、兄の青峰よりも熱心で、1915年(大正4年)の俳句雑誌『ホトトギス』3月号に4句が入選して以降、毎月2、3句が掲載され、同年の10月号と11月号に5句が載った。
平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年)… 平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年) - 1918年(大正7年)11月11日)は、三重県四日市市出身の実業家。平田家の3代目当主である。2代目平田佐次郎の長男で、佐次郎から一旦平田家の家督を継承し、平田紡績の3代目社長も務めた。スペイン風邪の病死者である。 2代目平田佐次郎とたきの長男として、三重県三重郡富洲原村の富田一色本町(現在の四日市市富田一色地区七軒本町)で出生した。祖父は、平田紡績創業者の初代平田佐次郎である。初代と2代目の親子2代で「平田佐次郎」を襲名していたが、3代目当主は「佐十郎」を名乗った。8男4女の12人兄弟であり、母親の平田たきは吉川家出身で、最後に平田佐貞などの双子の男子を出産をした際に体調が悪化して病死した。
阿竹 斎次郎(阿竹 斉次郎、あたけ さいじろう、1892年(… 阿竹 斎次郎(阿竹 斉次郎、あたけ さいじろう、1892年(明治25年)2月13日 - 1985年(昭和60年)12月30日)は、日本の政治家。宇治山田市(現・伊勢市)長(1期)。参議院議員(1期)。 三重県度会郡宇治山田町中島町(宇治山田市中島町を経て現伊勢市)で生まれる。第五小学校を卒業した。家業の阿竹味噌醤油醸造業を継承。尾崎行雄に私淑し、咢堂会会長を務めた。 1926年(大正15年)10月、宇治山田市会議員に当選し6期在任。1931年(昭和6年)10月、三重県会議員に選出され2期在任した。この間、市是調査委員、市税調査委員、臨時財政調査員、都市計画三重地方委員、選挙粛清実行委員、高等女学校建築委員、学務委員などを務めた。
古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年〈明治24年〉11… 古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年〈明治24年〉11月13日 - 1966年〈昭和41年〉4月24日)は「同盟通信社」を運営した日本の通信事業経営者。 1891年11月13日、三重県朝明郡富田村(現在の四日市市)に織物業を営む古野宗七の長男として生まれた。5歳のとき、父が事故で亡くなると一家は経済的に逼迫した。高等小学校を卒業した年に上京。洋品店の小僧、次いで株屋の店員として働きながら神田の国民英学校へ通った。1909年から京橋区瀧山町六番地のAP通信東京支局で給仕として働いた。当時の支局長は元ワシントン・ポスト特派員のジョン・ラッセル・ケネディ(John Russel Kennedy)というアイルランド人であった。
野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 199… 野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 1992年7月30日)は、日本の銀行家、経営者。住友銀行社長兼会長を務めた。 三重県津市出身。旧制津中学、旧制一高を経て1915年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、同年に住友銀行に入行。 常務、専務、副社長などを歴任し、1945年から財閥解体後に初めて社長兼会長に就任したが、公職追放の拡大により、その影響が出ることを恐れ、1947年2月に退任。 大阪銀行協会会長、大阪商工会議所監事、レンゴー相談役、武田薬品工業顧問なども歴任した。 1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年7月30日、急性心不全のために死去。101歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月… 古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月15日 - 1975年(昭和50年)5月6日)は、日本の法医学者。医学博士。日本学士院会員。東京大学名誉教授。位階は正三位。科学警察研究所所長を務め、科学捜査の研究に寄与。日本の法医学の草分けの一人である。ABO式血液型の研究に若干の功績を残した。その一方でその鑑定方法は権威主義的であり、冤罪事件を多数作り出した御用学者と見なす向きもある。 三重県南牟婁郡相野谷村(現紀宝町)出身。古畑虎之助の次男。和歌山中学校、第三高等学校を経て1912年、東京帝国大学(医科)に入学。1916年、同大学を卒業し同大学助手となり1921年、欧米各国に留学した。
松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12… 松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12日 - 1966年(昭和41年)10月1日)は、貴族院議員などを務めた内務官僚。
中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> … 中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> 1月1日 - 1985年 <昭和60年> 1月7日)は、日本の政治家。三重県宇治山田(現・伊勢市)市長、伊勢市長。位階は従六位。 三重県度会郡神社町(現・伊勢市)出身。神社港で旅館業を営む両親のもと生まれる。 1911年(明治44年)3月、三重県師範学校(現・三重大学)卒業後、小学校教諭を経て1914年(大正3年)関西大学専門部法科へ入学。卒業一か月前に、旧軍閥打倒の護国戦争に投じるため中華民国上海へ渡った。1919年(大正8年)に帰国後は東京労働日報主筆に就任する傍ら、尾崎行雄に師事し大野伴睦らと共に普選運動を展開した。 1929年(昭和4年)3月、神社町助役、1933年(昭和8年)同町会議員、1947年(昭和22年)宇治山田市議会議員、1951年(昭和26年)三重県議会議員となる。
丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日… 丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日 - 1958年(昭和33年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県飯高郡(現松阪市)で丹羽雨斉の五男として生まれる。岩手水産学校(現岩手県立宮古水産高等学校)漁撈科を修了。漁撈の研究を行う。 1915年(大正4年)丹羽船舶漁業部を開設。1919年(大正8年)大阪海事を設立し取締役社長に就任。その他、泰和洋行船舶部長、東明銀行取締役、日本索道常務取締役、丹羽船舶部社長、大阪機帆船海運組合理事、日本海獣取締役、大阪機帆船運送取締役、日本近海汽船取締役、日本海運協会小型船委員会委員、丸三商店取締役、尼崎船渠社長、中央産業社長、海上交通社(大阪)社長、近畿造船連合会副会長などを務めた。
澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月… 澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月12日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、日本の国文学者、万葉学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。 1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現:三重県伊勢市)で生まれた。三重県立第四中学校(現:三重県立宇治山田高等学校)・第三高等学校を経て、京都帝国大学文科大学に進学。文学科国文学専攻で学び、1915年に卒業。 第五高等学校教授を経て、1922年に京都帝国大学文学部助教授に就いた。1935年、学位論文『上代歌謡ノ作者及ビ時代考』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。翌1936年に教授昇格。1951年、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となった。
天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月… 天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月15日 - 1976年(昭和51年)12月1日)は、日本の発明家・実業家。アマノ株式会社の創設者。子息に立命館大学名誉教授・学校法人立命館元総長の天野和夫。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の三重県鈴鹿市石薬師町)出身。1911年(大正元年)、23歳の時に「A式綴紙器」を発明して特許を取得。1931年(昭和6年)、東京蒲田に天野製作所を設立してタイムレコーダー・気象用計器の製造を開始した。1938年(昭和13年)に海軍から雷道計の開発・製造を請け負い横浜菊名に新工場を建設し、1942年(昭和17年)には海軍管理工場に指定されて本社を菊名工場に移転したが、敗戦により工場閉鎖。
多賀之丞(たがのじょう、1890年 - ?)は、大相撲の元呼… 多賀之丞(たがのじょう、1890年 - ?)は、大相撲の元呼出し。本名:小西多賀之丞。三重県一志郡一志町(現津市)出身。 元々、保険外交員のかたわら消防団長を務め、義太夫語りや素人相撲の呼出しをしていたが、1934年より大相撲の高砂一門の巡業の手伝いをするようになり、1938年には高砂親方(元大関・朝潮)から呼出しの免状が与えられた。高砂部屋の呼出し初太郎とも親しくなり、1940年6月に愛知での巡業の際、呼出し不足のため電報が入り呼出しとして加入。1940年10月に病身だった呼出し初太郎が急死して、高砂一門の呼出しが不足したため呼出しとして正式採用された。 渋みのある美声で評判であり、50歳で入門しながらも呼び出し小鉄と交代で結びの一番を呼び上げていた。
伊藤 幸太郎(いとう こうたろう、1889年(明治22年)1… 伊藤 幸太郎(いとう こうたろう、1889年(明治22年)12月17日 - 1966年(昭和41年)9月9日)は日本の政治家。衆議院議員(1期)、三重県長島村長、長島町長。桑名市名誉市民。三重県桑名郡長島村(現・桑名市)出身。
花川 環(はながわ たまき、1889年5月15日 - 没年不… 花川 環(はながわ たまき、1889年5月15日 - 没年不詳)は、日本の元女優。三重県南牟婁郡木本町(現:熊野市)出身。本名は勝見 みね子(旧姓・島田 みね子)。夫は俳優の勝見庸太郎である。 旅劇団一座の女優であったが、大正10年(1921年)に松竹蒲田にスカウトされ入社。同年『黒き潮(死刑囚の娘)』で映画デビューする。代表作は『母いづこ』『マイフレンド』など。当時は母親役や年配の婦人の役が多かった。 大正12年(1923年)頃に同所属俳優の勝見庸太郎と結婚し、女優業を引退。その後は勝見とともに勝見庸太郎プロダクションを設立し、彼の映画制作・監督業を支えた。 没年月日は伝わっていないが、夫の勝見庸太郎の死去(1962年)以前には既に亡くなっているという。
須賀 彦次郎(すが ひこじろう、1889年〈明治22年〉3月… 須賀 彦次郎(すが ひこじろう、1889年〈明治22年〉3月4日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。位階勲等は従四位勲二等。三重県飯南郡松阪町(現・松阪市)出身。 旧制三重県立松阪中学校を経て海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中4番、卒業時成績順位は149名中54番。津田静枝、佐藤脩に続き、日本海軍が養成した中国関係の専門家である。尉官時代は水雷屋で「葦」駆逐艦長在職中は美保関事件に遭遇。部下28名が殉職した。 河川砲艦「堅田」艦長着任後は殆ど中国関係の勤務に限定された。情報活動に携わったが、中国人協力者の信頼が厚く、国民党政権が重慶に移ってからも、須賀のもとには重慶からの情報が絶えずもたらされていた。
池村 平太郎(いけむら へいたろう、1887年(明治20年)… 池村 平太郎(いけむら へいたろう、1887年(明治20年)12月16日 - 1954年(昭和29年)12月17日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、旧制中学校長。 三重県安濃郡野田村(神戸村を経て現津市野田)で、池村浅次郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)3月、三重県師範学校を卒業。小学校訓導を務め、1909年(明治42年)12月、文部省教員検定試験で博物科に合格した。 1912年(明治45年)3月、三重県の伊賀実科高等女学校教諭に就任。以後、福岡県立柳河高等女学校教諭、福岡県立若松中学校教諭、福岡県師範学校教諭、和歌山県立海南中学校教諭を歴任。 1925年(大正14年)3月、和歌山県立日高高等女学校長に就任した。
馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年… 馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1966年〈昭和41年〉1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 三重県山田郡、のちの阿山郡布引村(大山田村を経て現伊賀市)出身。農林業を営む。布引村長、三重県会議員、同参事会員、同副議長、農林省委員、大山田村長となる。三重県山林会評議員、伊山銀行監査役、伊賀農商銀行、伊賀窯業各(株)取締役、馬野川水電(株)取締役社長、三重県信用購買販売組合連合会会長、全国購買組合連合会監事、全国購買販売組合連合会常務理事となる。 1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙において三重1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。
大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月1… 大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月10日 - 1946年(昭和21年)5月24日)は、日本の司法官僚、判事、検事。
横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1… 横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 愛知県海部郡弥富村(現弥富市)出身の洋画家である。
山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)… 山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)8月21日 - 1949年(昭和24年)8月8日)は、日本の点字出版社の創設者、点字雑誌の創刊者、社会事業家である。少年時代の失明により、視覚障害者が読める点字書籍の不足を痛感し、視覚障害者に情報保障を行うため、点字医学書・点字医学雑誌、日本初の視覚障害者向け通信大学講義録の点訳出版を手掛けた。 1886年(明治19年)、三重県名張町(現・名張市)で商家の三男に生まれる。1902年(明治35年)に緑内障を発症した。 1906年(明治39年)に京都府立盲学校に入学、YMCAの英語夜学校で英語を学ぶ。1909年(明治42年)に同針按科を卒業した。
諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月1… 諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月11日 - 1931年(昭和6年)10月2日)は、日本の地主、三重県多額納税者、資産家、実業家。諸戸タオル代表社員。族籍は三重県平民。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。 三重県桑名郡桑名町(現桑名市)生まれ。三重県の富豪初代諸戸清六の次男。二代目諸戸清六の兄。1907年、分家して一家を創立する。農業、林業、養魚業を営む。傍ら諸戸精太商会を主宰し、高級タオルの製織を為し、業礎を築く。 諸戸殖産合名会社、合名会社諸戸精太商会、諸戸タオル合名会社各代表社員、保証責任西諸戸家信用購買販売利用組合理事長、桑名商工会長、桑名郡動力組合長、桑名郡水産会長などをつとめる。
吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2… 吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2月17日 - 1948年(昭和23年)7月25日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道空知郡上富良野村長。 三重県奄芸郡一身田村(現津市)で農業・米穀商の吉田貞吉の長男として生まれる。家業の不振のため、1900年、16歳の時に三重団体に加わる父に従い北海道空知郡富良野村(現上富良野町)に移住した。忙しい開墾の合間に独学で学びを続け、徴兵時には一年志願兵を優秀な成績で終え、在郷中に陸軍歩兵中尉に昇進した。 村役場職員となり、以後、上富良野村会議員、同村長、信用購買組合長、農業組合長、農業会長、帝国在郷軍人会上富良野分会長、東中富良野及び草分土功組合長などを務めた。
岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉… 岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉 - 1927年〈昭和2年〉)は、四日市岡田家・岡田屋の6代目当主である。5代目当主の岡田惣右衛門の甥で養子。 5代目四日市岡田家当主の岡田惣右衛門夫妻は不妊症で、子どもが生まれなかった。「このままでは岡田屋が滅亡する。夫婦養子をとろう」となり、惣右衛門の妹の岡田ひさが婿養子をもらうこととなった。婿養子となったのは、前田末吉。イオンの社史など史料で詳しい経歴が公開されていないため家柄などの出自が判明していない人物である。前田末吉は、貿易関係者であった。貿易商人として朝鮮半島と関係があり、四日市西町の紙商店である鍵忠の奉公人として修業し、勤勉に働いていた男性だった。
杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治… 杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治17年)11月21日 - 1974年 <昭和49年> 5月5日)は、昭和時代前期の政治家、俳人。三重県上野市長。雅号は干柿。位階は正六位。 三重県出身。上野中学(現三重県立上野高等学校)を卒業する。 上野町助役となり、全国に先駆け上下水道の完成、町営塵芥焼却炉、町立保育園の建設、公共的企業の創設や育成、伊賀文化産業城の建設などに尽力した。 1939年(昭和14年)11月、同町長となった。1941年(昭和16年)9月に町長を退任した。同年11月29日、周辺自治体との合併で発足した上野市の初代市長となった。 町長時代には市制施行の実現、市長に就任後は市民福祉の向上、地域産業の育成、工場誘致や市域拡張の諸政策を遂行した。
堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月1… 堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月17日 - 1963年(昭和38年)6月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲民政党)。津市長。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。旧制三重県立津中学(現・三重県立津高等学校)を経て、1908年(明治41年)、早稲田大学大学部政治経済科を卒業。『東京日日新聞』記者となり、また一年志願兵として陸軍三等主計に任じられ、さらにアメリカ合衆国のコロンビア大学、イギリスのロンドン大学に留学した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1922年(大正11年)から1927年(昭和2年)まで『中外商業新報』記者を務めた。
小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4… 小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月21日)は、明治末から昭和前期の農業経営者・政治家。衆議院議員、三重県一志郡下之川村長、同郡久居町長。 三重県一志郡下ノ川村(下之川村大字下之川、美杉村大字下之川を経て現津市美杉町下之川)で、豪農・小野耕平の長男として生まれ、1902年(明治35年)三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)を卒業し、同年に家督を相続し農業を営む。 下之川村産業組合長、地方森林会議員、一志郡木炭同業組合長、三重県木炭同業組合連合会評議員、産業組合中央会三重支部理事、三重県海外協会理事、同海外移住組合理事などを務め、農事の改善、産業振興に尽力した。
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 194… 嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。 三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。 1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。
井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1… 井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1月14日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、明治末から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県三重郡、のちの四日市町(現四日市市)で、素封家、石材商・井口長右衛門の二男として生まれた。小学校卒業後に上京し、国民英学会で学んだ。 貿易商薩摩商会に入り下積みから始めて次第に信頼を得て、東京本店、大阪支店、旅順出張所などで勤務した。第一次世界大戦時に井口汽船部、弥彦商会、東京海運 (株) を設立して、海運業で巨万の富を築いた。その他、朝日海陸運輸、東洋耐火煉瓦、東洋電業、明光堂などを経営した。 政界にも進出し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で三重県第2区から政友本党公認で出馬して初当選し、1928年(昭和3年)2月の第16回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934… 橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934年1月9日)は、日本の医師、病理学者。橋本病、Hashimoto's thyroiditisを初めて記載した。 三重県阿拝郡西柘植村(現伊賀市)御代の医家に生まれる。旧制津中学校、旧制第三高等学校をへて、京都帝国大福岡医科大学(現九州大学医学部)1907年第1回卒業生として卒業。第一外科に入局。1911年4月“甲状腺ノリンパ腫様変化ニ関スル組織的並ビニ臨床的知見ニ就キテ”を福岡医科大学第17回集談会にて発表、1年後の1912年にまとめてArchiv für klinische Chirurgieに掲載した。今日では橋本病という疾患名が与えられている。
藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 … 藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 - 1946年10月12日)は、日本の数学者・数学史家。第二次世界大戦前において、90編の欧文論文を著し、1936年にオスロで開催された国際数学者会議で招待講演を行うなど、当時の日本の数学界を代表する数学者であり、また日本数学史、中国数学史、朝鮮数学史をカバーする和漢数学史家としても大きな業績を残した。特に8000枚という膨大な遺稿「日本数学史」は『明治前日本数学史』全5巻(岩波書店、1955-1960)としてまとめられ、現在においても和算史を研究する上で最も重要かつ基本的な文献となっている。 1911年(明治44年)、東北帝国大学に数学科が設置されると、30歳で教授に就任。
藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - … 藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - 1967年6月1日)は、日本の商学者・経済学者。専門は、海上保険論・統計学。当時の日本の保険学の最高権威とされた。一橋大学名誉教授。日本統計学会会長、東京海上火災保険監査役等を歴任。また、日本初の商学博士としても知られる。勲二等旭日重光章受章。村瀬春雄門下。 福井県丹生郡生まれ。三重県四日市市川原町出身。小学校時代は常に優等で鳴らし、三重県初の商業学校である四日市商業学校(現三重県立四日市商業高等学校)を第1期生として卒業後、同校で教鞭を執った。その後も母校四日市商業にたびたび貢献し、創立90周年記念に作成された胸像「藤本幸太郎翁」が正面玄関に置かれている。
伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5… 伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5月18日 - 1941年(昭和16年)1月)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家・実業家・歌人。
伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)1… 伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)12月17日 - 昭和15年(1940年)12月17日)は、衆議院議員(4期)、鉄道実業家。昭和会所属。 三重県河曲郡、のちの河芸郡若松村(現鈴鹿市)出身。慶應義塾で学ぶ。 若松村長、三重県会議員、三重県参事官、三重県議会副議長を経て、三重県会議員議長(26代)を歴任。鉄道会議員となり、伊勢鉄道会社社長、その後の伊勢電鉄株式会社取締役。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以降3回当選)。のちに昭和会の結成に参加し、所属する。 他には、「開国曙光碑」の発起人となる。 五私鉄疑獄事件で贈賄罪で公判に付される。
宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月2… 宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員。
11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年… 11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年)10月 - 1960年(昭和35年)6月26日)は、三重県四日市市出身の実業家。三岐鉄道社長や東洋紡績会長、志摩電鉄社長、貴族院議員等を歴任した。10代目伊藤伝七の甥で養子。 1878年(明治11年)10月に10代目伊藤伝七の弟・伝平の子・栄治郎(栄次郎とも)として生まれる。10代目伝七の二女せきの夫となり、伊藤家の家督を相続して11代目伊藤伝七を襲名する。1899年(明治32年)に高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1910年(明治43年)7月に三岐鉄道株式会社の創立委員長となる。藤原岳にセメントの原料となる石灰岩がある事に注目した浅野セメントと小野田セメントの2大企業が、原料の確保とセメント製品の陸上運搬のために鉄道敷設を計画し、「藤原鉄道」と「員弁鉄道」の2つをそれぞれ候補名にして鉄道敷設免許の申請を昭和2年度に三重県に提出した。
石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治… 石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治10年)12月7日 - 1973年(昭和48年)2月2日)は、大正から昭和期の漁業関係者、政治家、実業家。衆議院議員(3期)、三重県志摩郡和具町長。初名は彦四郎。 三重県英虞郡和具村(現志摩市志摩町和具)で、先代・石原円吉の長男として生まれる。1919年(大正8年)家督を相続し円吉を襲名。 三重県会議員、同議長、和具町長を務め、水産振興、漁港整備などに尽力。また、三重県水産会長、三重沃土取締役社長、石原満俺取締役社長、三重県鮮魚運搬統制組合理事長、ラジオ三重監査役、三重交通取締役、志摩観光ホテル取締役、全国漁業協同組合連合会監事、三重県漁業協同組合連合会長、伊勢志摩国立公園協会長などを務めた。
河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2… 河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2月11日)は、日本の女性教育者。元日本YWCA同盟総幹事、恵泉女学園の創立者。クリスチャン。世界恐慌から第二次世界大戦に到る中で平和主義を掲げ、戦後に昭和天皇への戦争犯罪訴追が回避された動きにも大きく関わった。三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。
伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治… 伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)、1877年(明治10年)4月24日 - 1968年(昭和43年)1月7日)は、三重県度会郡宇治浦田町(現伊勢市宇治浦田町)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家。 伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれている。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、1891年(明治24年)頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始める。明治28年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いた。 1898年(明治31年)には画家になることを決意し京都に出て、磯部百鱗の紹介により森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため歴史画を得意とする谷口香嶠に師事し、「小坡」の雅号を受けている。
伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月1… 伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月10日 - 1963年(昭和38年)1月14日)は、日本の仏教思想家、社会運動家。青年期には出家した僧であった。 三重県員弁郡久米村坂井(後の桑名市坂井)の農家に生まれ、幼名を清九郎といった。 13歳で出家して真宗大谷派円授寺で得度し、僧となって、名を証信とした。岐阜県大垣の美濃教校、京都市の真宗中学校を経て、真宗大学(大谷大学の前身)に学ぶ。在学中から清沢満之に師事し、大学の東京への移転を機に上京する。大学卒業後は、清沢が唱えた「精神主義」の運動に加わった。 1904年、父の看病のために久米村へ帰郷した際、霊感体験をし「無我の愛」を悟ったという。