田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - … 田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - 2001年3月8日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1961年)。日本学士院会員。京都府舞鶴市出身。
京都府:370人
田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - … 田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - 2001年3月8日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1961年)。日本学士院会員。京都府舞鶴市出身。
喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11… 喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11月12日 - 2005年〈平成17年〉7月30日)は、昭和〜平成期に活躍した医師、郷土史家。奈良地方の郷土史を記録する多くの著作や中世地誌の現代語訳を残した。京都府京都市出身。 1910年(明治43年)11月12日、父・竹澤徳蔵、母うめの五男、竹澤徳俊として生まれる。 1935年(昭和10年)、名古屋医科大学を外科学専攻にて卒業し、同年名古屋大学医学部助手としての勤務を始める。同年末、奈良市中筋町で病院を経営する喜多野義夫との養子縁組およびその長女、文子との縁談が持ち込まれる。医学者としての研究継続を望んでいた徳俊は逡巡したが、学位論文完成までは研究を続けること、その後は奈良で喜多野病院を継ぐが、家業の耳鼻咽喉科だけでなく、徳俊の専門であった外科の診療も行うことなどを条件に、縁談は進められることとなった。
木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986… 木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986年12月29日)は、日本史学者、社会事業学者。栄照寺住職。 京都市生まれ。別名・武応。1933年京都帝国大学文学部国史学科卒。大阪経済大学助教授、教授、龍谷大学教授、神戸女子大学教授、種智院大学教授。
安藤 俊雄(あんどう としお、1909年10月12日 - 1… 安藤 俊雄(あんどう としお、1909年10月12日 - 1973年12月26日)は、天台宗の仏教学者。大谷大学学長。 1909年、愛知県田原町(現:田原市)生まれ。1933年九州帝国大学法文学部哲学科を卒業。1936年京都帝国大学大学院修了。宗教哲学を専攻した。同年、大谷大学専門部嘱託教授、1937年より真宗専門学校教授(1950年の校名変更に伴い同朋大学教授)、1953年大谷大学専任講師、京都大学講師。1955年に「天台実相論の研究、一念三千論の展開」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1956年に大谷大学教授となり、1970年からは学長を務めた。
田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月2… 田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月20日 - 1989年 <平成元年> 11月13日)は、日本の経営学者。京都大学名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章。 長野県木曽郡楢川村(現塩尻市)出身。旧制京都府立第一中学、旧制第三高等学校を経て、1932年京都帝国大学経済学部卒業。1938年京都帝国大学助手、1939年講師、1946年助教授、1949年京都大学経済学部教授。1958年経済学部長、1972年定年退官、名誉教授。同年より京都学園大学教授を務め、1981年同大学学長に就任。1983年からは開学に尽力した京都文化短期大学学長も兼ねた。1987年「下請制工業論 經濟發展過程における中小工業」で、経済学博士(京都大学)。
松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 19… 松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日本の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。 茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった。父は京都で小児科医を開業していた。 京都市立明倫小学校、京都一中、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが、共産党に入党する決心はできなかった。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた。 1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。
井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年… 井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年5月12日)は、日本の美学者、京都大学名誉教授。井島 勉とも表記。専門は西洋芸術哲学・芸術史。兄は元大阪高等検察庁検事長の井嶋磐根(wikidata)であり、兄・磐根の子である元最高裁判所判事の井嶋一友は甥にあたる。 京都市上京区出身。京都府師範学校附属小学校、京都府立第一中学校、第三高等学校を経て1932年京都帝国大学文学部哲学科卒。1947年「藝術の創造と歴史」で京都大学文学博士。1943年京都大学文学部美学美術史助教授、1947年同教授。 1951年に日本美術教育学会を設立し、没するまで会長を務めた。1968年 - 1969年、京都大学文学部長。
岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 199… 岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 1992年12月2日)は、日本の経営学者・商学者。専門は、中小企業経営論。元・旭川大学学長。元・札幌大学学長。小樽商科大学名誉教授。 京都府亀岡市出身。桃山中学校(旧制)(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。1932年関西大学第二部商科卒業。1936年(昭和11年)神戸商業大学卒業。その後、小樽高等商業学校講師を経て、1940年(昭和15年)小樽高等商業学校教授。1951年(昭和26年)小樽商科大学商学部教授。1970年(昭和45年)小樽商科大学停年退官。同名誉教授。札幌大学学長代行代理。1971年札幌大学学長。1974年札幌大学学長を退任。
山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治4… 山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治40年> 9月3日 - 2007年 <平成19年> 6月28日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 京都市生まれ。1925年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。1915年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。八木助市に師事し、ヘンリー・ジョージなどの土地制度論の研究を行った。 1932年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。1936年同大学研究科修了。1937年大連高等商業学校教授。1948年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1951年神戸大学経済学部助教授。1953年神戸大学経済学部教授。1962年経済学博士。1965年神戸大学経済学部長。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1… 出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1985年3月9日)は、日本の蔵書家、郷土史家。 岸和田市の称名寺の長男として生まれる。平安中学校卒業。岸和田市役所書記等を勤めたのち、1947年、称名寺住職を継ぐ。市役所勤務のころから、郷土資料の収集・研究を行い、のちに反町茂雄から「異常に熱心な郷土資料の蒐集家」と評された。1943年4月に蔵書をもとに鬼洞文庫を設立。蔵書は、現在は関西大学図書館や大阪歴史博物館などに収められている。1949年には和泉文化研究会を設立し、機関誌として『流木』(のち『和泉志』と改題)を創刊し、また和泉文化研究会図書館の館長も務めた。その他に「鬼洞叢書」や「和泉史料叢書」として史料集の編纂刊行を行った。
大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3… 大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1996年〈平成8年〉7月9日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。 高柳暁と井手久登は娘婿。 1907年京都府生まれ。京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒業後、旧制第三高等学校入学。このとき、片足を負傷し、後に切断することになる。1930年、東京帝国大学経済学部卒業。大学時代は本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師(1933年)、同大助教授(1935年)、同大教授(1938年)、東京帝大経済学部助教授(1939年)を経て、1947年同大学教授、1968年から同大学名誉教授。
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 20… 真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 2007年3月7日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。専攻は近世文学・国語学。女性語について研究した。 京都府京都市出身。1933年、東京帝国大学国語国文学科卒。広島文理科大学助教授、広島大学教授。1971年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 2007年3月7日、慢性腎不全のため死去。100歳没。 真下は多彩な文献から多くの用例を収集し、そこから言語体系を抽出するよりも、個々の用例そのものを検討した。言語体系の抽出が現代言語学の要件だとすれば、一見すると真下は古いタイプの国語学者のように思えるが、そもそも真下が研究活動に従事していた当時は、ソシュールを批判した時枝誠記の言語過程説が強い影響力を持っていた時期でもあることから、真下が体系の抽出ではなく個々の用例に目を向けたのは、差異や体系に言語の本質を求めるソシュールへの批判が込められていたとされる。
真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1… 真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1985年2月9日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。京都府立一中、第三高等学校から京都帝国大学文学部哲学科に学ぶ。中学の同期には湯川秀樹がいた。三高時代には武田麟太郎と親交を結んだ。大学の同窓には戸坂潤がいた。大学院に進学、1933年の滝川事件のときには院生代表として活動する。院修了後は同志社大学勤務、のち教授。1935年中井正一らと雑誌『世界文化』を創刊、反ファシズムの立場で活動したが、1937年11月、新村猛らとともに治安維持法違反の容疑で検挙された。 戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言、名古屋大学助教授、教授。
谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1… 谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1989年11月8日)は、日本の法学者(民法)。大阪市立大学名誉教授。法学博士(京都大学・論文博士・1949年)(博士論文「不当利得の研究」)。日本学士院会員。京都府出身。末川博門下。 京都市下京区木屋町仏光寺で誕生、山紫水明処の隣の屋敷で育つ。幼少時、祇園祭の長刀鉾の稚児を3年間務めた。民事訴訟法学者である谷口安平は知平の次男、裁判官の谷口安史は孫に当たる。 京都府立京都第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を4年間を通して首席で卒業、三高へ進学。京都帝国大学においても当時は18課目を履修すれば卒業できるところ40課目を履修し、さらに平均点首位で卒業した。
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年… 朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の理論物理学者。東京教育大学名誉教授。学位は理学博士(東京帝国大学・1939年)。位階は従二位。 京都帝国大学理学部物理学科卒。東京帝国大学にて博士号取得。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。 1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(祖父は肥前大村藩の重臣であった朝長氏)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。
榎園 喜徳(えのきぞの よしのり、1906年(明治39年)2… 榎園 喜徳(えのきぞの よしのり、1906年(明治39年)2月22日 - 1969年(昭和44年)12月25日)は、日本の法学者。元八幡大学教授(労働法)。福岡県八幡市出身。 福岡県立小倉中学校卒業後、八幡製鐵入社。1925年(大正14年)八幡製鐵退社後、法政大学予科入学、フランス文学専攻。父親死去のため中退し帰郷。再度八幡製鐵入社。その後九州法学校(後の九州国際大学)入学。大澤章、宇賀田順三に師事。1933年(昭和8年)在学中に高等文官行政科試験合格。1934年(昭和9年)九州法学校卒業。1942年(昭和17年)、朝鮮の兼二浦製鉄所労務課長に就任。1946年(昭和21年)帰国後、戸畑専門学校奉職。
小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 199… 小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 1993年6月6日)は、日本の分子物理学者、生物物理学者。理学博士。東京大学・東京理科大学名誉教授、東京理科大学元学長。京都府京都市生まれ。明仁上皇の教育係を務めた。 田艇吉の二男哲と、柏原銀行頭取や柏原町長を務めた小谷保太郎の長女ふきの子として生まれる。父が小谷家に婿養子に入ったため、小谷姓を名乗った。 1929年に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。卒業後は、東京帝国大学工学部講師、理学部助教授、後に教授昇進。東京大学理学部長、大阪大学基礎工学部教授をつとめた。また京都大学でも教鞭をとり、京都大学兼任教授も務めた。 1960年に日本生物物理学会を創設。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)… 川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)5月22日 - 1978年(昭和53年)12月23日)は、日本の歴史学者・考古学者・美術史家。学位は、文学博士。専門はサンスクリット、石造美術の研究。京都市生まれ。 京都府京都市生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業後、建築史家の天沼俊一に師事し、石造遺品への関心を深めた。1926年に自宅で書店をひらき、屋号をスズカケと称し、1928年にはスズカケ出版部を設け、『古美術史蹟 京都行脚』を刊行し、1929年、京都史蹟会の会誌『京都史蹟』の創刊に携わった。1930年、史迹美術同攷会(しせきびじゅつどうこうかい)を創立し、会の機関誌として研究雑誌『史迹と美術』を創刊した。
藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - … 藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - 1976年1月13日)は、日本の編集者・歴史家。出雲国風土記偽書説など大胆な新説を唱え、松本清張が師事した在野の古代史家として知られる。 京都市生まれ。1924年京都市立第一商業学校専修科卒業。1925年京都帝国大学文学部史学科選科入学、1928年中退。 1928年至誠堂に入社し、1932年飛鳥園、1933年日出芸林社と転籍し、書籍の編集者として活躍する。1934年株式会社便利堂に入社し、1950年同社取締役に就任。1951年に退社。同年、自ら綜芸舎(綜芸種智院に因む)を創立する。この間、文献、美術、石造文化財などの史資料を使った古代史研究や能楽研究、易学研究の著作・論文を公刊した。
築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 -… 築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 - 1989年6月27日)は、日本の東洋史学者。 京都府京都市生まれ。京都府立第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)卒、東京高等師範学校地歴科卒、1934年東京文理科大学東洋史学科卒、群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)教諭、神戸市立第一中学校(現神戸市立葺合高等学校)教諭、岩手県師範学校教授、北海道第三師範学校教授、青森師範学校教授、弘前大学助教授、1968年「唐代政治制度の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。西京大学助教授、1953年京都府立大学教授、1969年定年退官、名誉教授、園田学園女子大学教授、京都産業大学教授。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。
貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1… 貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。 1904年(明治37年)、東京で地質学者・小川琢治の次男として生まれた。旧制京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学。1928年3月に卒業。同年4月、同大学院文学研究科に進学。1930年3月に修士課程を修了。1932年5月に博士後期課程を退学。 同1932年5月、東方文化学院京都研究所研究員に採用された。1938年4月、研究所の改組に伴い、以降東方文化研究所研究員。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年… 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究」。 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。
下村 寅太郎(しもむら とらたろう、1902年(明治35年)… 下村 寅太郎(しもむら とらたろう、1902年(明治35年)8月17日 - 1995年(平成7年)1月22日)は、日本の哲学者・科学史家。 1902年、京都市下京で生まれた。旧制京都一中、旧制三高で学び、京都帝国大学文学部に入学。哲学科で西田幾多郎、田辺元に師事し、ライプニッツ研究や、数学の哲学であったり、科学哲学の分野に関心を持って研究を開始した。1926年に京都帝国大学文学部を卒業。 卒業後から15年を経て、1941年に東京文理科大学助教授に就いた。1945年に教授昇格。 1945年、学位論文『無限論の形成と構造』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。学制改革によって1949年5月に東京文理科大学が新制大学として東京教育大学に包摂されて以降は、同大学教授。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
淡川 康一(あわかわ こういち、1902年6月1日 - 19… 淡川 康一(あわかわ こういち、1902年6月1日 - 1976年12月3日)は、日本の経済学者・地理学者・禅画研究家、立命館大学名誉教授。 京都府生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)で学び、1921年、20歳の時、名古屋高等商業学校に一期生として入学して、宮田喜代蔵 (1896-1977) の経済学などを学んだ。1924年、京都帝国大学経済学部独逸経済学科に入学。財部静治 (1881-1946) 教授の統計学に傾き、経済地理学へと向かう。1927年京都帝国大学経済学部卒。立命館大学教授、1967年定年退任、名誉教授、大阪学院大学教授。 禅画の研究、蒐集を行った。
柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年… 柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年11月19日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は、法学博士(立命館大学・論文博士・1950年)(学位論文「ローマ法における売主瑕疵担保責任研究」)。第4代神戸大学学長。叙正三位、旭日重光章追贈。京都府加佐郡舞鶴町(現・舞鶴市)生まれ(本籍は鹿児島県)。弟子に、高木多喜男らがいる。 1919年(大正8年)、京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業して第三高等学校に進み、1922年(大正11年)に文科甲類を卒業後、京都帝国大学に進学。1925年(大正14年)京都帝国大学法学部法律科を卒業するとともに同大学助手に就任した。
田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994… 田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994年3月14日)は、日本の法学者。専門は憲法。同志社大学名誉教授。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 -… 天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 - 1992年8月6日)は、日本の書誌学者。 京都府京都市出身。京都帝國大学図書館司書、関西大学図書館図書課長などを歴任。1967年から1972年3月まで東洋大学社会学部教授を務めた。 代表的な編著書に『日本書誌の書誌』。1987年に第1回物集索引賞特別賞を受賞。 大正時代に京都帝國大学図書館に職員として採用されて以来、天野は書誌情報の収集に心血を注ぎ、「書誌の書誌」などの参考図書の作成に生涯を費やした。作成する書誌の原稿ができあがると、それが最もわかりやすい簡明な形式で印刷されるよう、掲載が予定されている刊行物の性格に即して、原稿には割付を加えておくのが常であり、赤インキで細かく清潔に活字の組み方を指示していた。
木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 199… 木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 1991年4月24日)は、日本の民法学者。京都大学名誉教授。長女は推理小説家の山村美紗、長男は政治学者で北海道大学名誉教授の木村汎、孫は女優の山村紅葉。
松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治… 松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の元政治家、国際政治学者、著述家。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長、Ph.D(コロンビア大学)、正四位、勲二等旭日重光章受章。 極東軍事裁判では東条英機の弁護人を務めたほか、岸信介首相の特使として英国政府にクリスマス島の原水爆実験の中止要請を行った。強固な反共主義者としても知られ、民社党系の核禁会議の結成に尽力。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の最高幹部として関連団体で要職を歴任した。
寿岳 文章(じゅがく ぶんしょう、1900年3月28日 - … 寿岳 文章(じゅがく ぶんしょう、1900年3月28日 - 1992年1月16日)は、日本の英文学者、随筆家、翻訳家、書誌学者。民藝運動家。和紙研究の第一人者的地位にあり、和紙関係の著作も多い。 妻は寿岳しづ、長女は日本語学者の寿岳章子、長男は天文学者の寿岳潤。 兵庫県明石郡押部谷村(現・神戸市西区)生まれ。家は鈴木家で父は寺の住職。規矩王麻呂と名づけられる。姉の婚家である寺の養子となり、得度して寿岳文章となる。 1919年、東寺中学校卒業、関西学院高等学部英文科入学、失明学生の岩橋武夫を知り、その妹静子を知る。1923年、卒業し静子と結婚(寿岳しづ)。 1924年、京都帝国大学文学部文学科選科入学、1927年、修了。
黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年… 黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年12月2日)は、日本の法学者。京都大学教授、東京都立大学 教授、神奈川大学教授および学長代行を務めた。 京都府京都市出身。第三高等学校から1923年3月に京都帝国大学法学部を卒業、同年4月より大学院に進む。京都帝大では憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事[要出典]。 1925年(大正14年)京都帝大法学部助教授に就任した。ドイツ法を専攻し、純粋法学のハンス・ケルゼンと彼が所属したウィーン学派の研究を手がけた。1927年から1930年まで、文部省在外研究員として渡欧し、このときにはケルゼン本人に受講、個人的な親交を結んでいる。しかし、帰国後にケルゼンの影響からは次第に遠ざかったとされる。
岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15… 岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15日 - 1943年(昭和18年)1月31日)は、日本の国語学者、国文学者、辞書学者。 京都府葛野郡七条村(現在の京都市下京区)に農家の服部家の次男として生まれる。名は市治郎。3歳で父の浅吉を亡くし、5歳で母のヤヱを亡くした後、乙訓郡久世村(現在の京都市南区)にある曹洞宗の鷲尾寺の住職である岡田希僊に引き取られる。1904年(明治37年)に養子として入籍し、1910年(明治43年)に得度を受けて「希雄」と名前を改め、翌1911年(明治44年)3月に僧籍に登録された。 1915年(大正4年)に京都府立京都第二中学校を卒業後、第三高等学校に入学する。
安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
神田 喜一郎(かんだ きいちろう、1897年(明治30年)1… 神田 喜一郎(かんだ きいちろう、1897年(明治30年)10月16日 - 1984年(昭和59年)4月10日)は、日本の東洋学者、書誌学者。号を鬯盦、書室を佞古書屋と称した。
川崎 俊一(かわさき しゅんいち、1896年(明治29年)1… 川崎 俊一(かわさき しゅんいち、1896年(明治29年)1月24日 - 1943年(昭和18年)1月19日)は、日本の大正から昭和期における地球物理学者。 京都帝国大学理学部宇宙物理学教室の最初の卒業生で、水沢緯度観測所第二代所長を務めた。 滋賀県栗太郡治田村(現在草津市と栗東市にまたがる)に生まれる。姉の英子は、天文学者で京都帝国大学教授山本一清の妻となる。京都府立第二中学校、1912年(大正3年)広島高等師範学校に入学し、京都帝国大学理学部に1917年(大正8年)入学、1920年(大正11年)京都帝国大学理学部宇宙物理学教室第一期生として卒業する。 1920年(大正11年)京都帝国大学卒業後水沢緯度観測所に技師として入所する。
竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9… 竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9日 - 1980年(昭和55年)2月18日)は、日本の社会学者・社会福祉学者。日本における社会福祉学の構築に寄与した研究者で、ソーシャル・ケースワーク研究の黎明期を支えた第一人者。日本ソーシャルワーカー協会の初代会長。 京都府京都市生まれ。父は同志社神学科にて学び、愛二が生まれてのち長崎県を中心に九州伝道を行った牧師であり、母も伝道の道にいた人物であるとされる。幼少期の愛二も両親の伝道の旅に付き添ったため、書類によってはその道程の地域を出身地としたものも散見される。 1913年に旧制同志社中学校を卒業し、神戸三菱造船所に就職。1924年に学問への志、断ち難く三菱造船を辞して米国への私費留学へと赴く。
勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1… 勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1993年4月17日)は、大正時代から平成時代の法学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1928年)。 東京出身。1912年京都府立第一中学校卒業。1915年第三高等学校卒業。1918年東京帝国大学法科大学独逸法律学科卒業。 1918年東京帝国大学法科大学助手(指導教員:鳩山秀夫)。1921年独・仏・米に研究留学(1923年まで)。1923年東北帝国大学法文学部助教授。1924年東北帝国大学法文学部教授となり、1928年3月3日に東京帝国大学から法学博士を受ける。1949年から京都大学法学部教授。 1951年京都大学を退官して弁護士・弁理士を開業。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)… 吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)12月1日 - 1976年(昭和51年)11月20日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、社会運動家、政治家、法学者。参議院議員(1期)。次男は元東映プロデューサー吉川進。 京都府京都市出身。吉川利兵衛の養子となる。京都薬学校(現京都薬科大学)卒を経て、1918年(大正7年)同志社大学政治科を卒業した。1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけて欧米に留学し、コロンビア大学政経部大学院などで学んだ。ロイター通信記者、日米時報主筆、帝都復興院嘱託、東京市政調査会研究員などを務め、社会運動に従事した。 1926年(大正15年)社会民衆党創立に加わり、1927年(昭和2年)京都支部創立に伴い支部長に就任。
末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月2… 末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の法学者(民法)。法学博士(京都帝国大学・論文博士・1931年)。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。岡松参太郎に師事。弟子に谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫、浅井清信、草鹿浅之介、吉田五郎など。筆名に欽風生。 末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。
秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 197… 秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 1977年1月16日)は、日本の美術史学者。金沢美術工芸大学名誉教授。専門は日本近世絵画史。 1888年、静岡県田方郡で三島大社宮司・秋山光條の子として生まれた。京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法科大学に入学。しかし芸術への関心を断つことができず、同文科大学哲学科に転じ、美学美術史学を専攻した。1913年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院在学中より京都絵画専門学校などで美術史を講じた。1918年、図書頭兼帝室博物館総長・森鴎外の推挙により宮内省図書寮に奉職。1924年に宮内省御物管理委員、1926年に帝室博物館監査官となった。
平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2… 平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2月28日 - 1939年(昭和14年)9月9日)は、日本の貝類学者。父の平瀬與一郎や同年代の黒田徳米らとともに、日本における貝類学の発展に寄与した学者の一人である。 ニシキウズガイ科の巻貝の一種 ヒラセギンエビス Ginebis argenteonitens hirasei Otsuka et Taki,1943 は、平瀬の功績を記念した献名がなされている。 1884年(明治17年)、平瀬與一郎の長男として淡路島福良(現 : 南あわじ市)に生まれた。旧制の京都府立第一中学校(現 : 京都府立洛北高等学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部(現 : 京都大学)を卒業した。