矢山 有作(ややま ゆうさく、1924年1月1日 -2017… 矢山 有作(ややま ゆうさく、1924年1月1日 -2017年3月27日)は、日本の政治家。元衆議院議員・参議院議員。日本社会党中央執行委員教宣局長、衆議院石炭対策特別委員長、参議院社会労働委員長を務めた。 岡山県津山市小桁に生まれる。旧制岡山県津山商業学校(現・岡山県立津山商業高等学校)を経て、1949年中央大学法学部卒業、会計検査院事務官となる。1951年に退職後、津山市議会議員を1期、岡山県議会議員を2期務めた。1962年の第6回参議院議員通常選挙に岡山県選挙区から出馬し、トップ当選。参議院社会労働委員長などを歴任し、2期務めた。その後1976年の第34回衆議院議員総選挙に黒田寿男の後継として出馬し、当選した。
木口衛(きぐち まもる、1923年9月6日 - 2006年1… 木口衛(きぐち まもる、1923年9月6日 - 2006年12月22日)は、神戸市を拠点とするアパレルメーカーワールドの創業者。岡山県総社市出身。 名前の漢字は、正しくは「衞」。 1959年、ニット問屋の光商会(のちのエンパイヤー)を退社。光商会の後輩であった畑崎廣敏との二人三脚で、裸一貫からワールドを起こし、同社を有数の大企業に育て上げた立志伝中の人物として知られる。同社の初代社長を務め(このとき畑崎は専務となる)、1972年からは社長を畑崎に譲り自身は会長となった。長らくこの体制が続いたこともあり、「畑崎社長・木口会長」として知られることとなった。 1995年には相談役に就任し経営の第一線から退く一方で、1998年には私財を投じて『財団法人木口ひょうご地域振興財団』を設立し、同財団の理事長としても活躍した。
宗森 信(むねもり まこと、1923年〈大正12年〉7月27… 宗森 信(むねもり まこと、1923年〈大正12年〉7月27日 - 1995年〈平成7年〉7月13日)は、アメリカ合衆国ネバダ州リノ市出身の環境学者。生後まもなくして、両親の地元である岡山県真庭市久世町へ移住。大阪府立大学(現:大阪公立大学)工学部名誉教授。日本初の『環境』を冠とした研究室を開設したことで知られている。 1923年(大正12年)、アメリカ合衆国ネバダ州リノ市で岡山県真庭郡久世町出身の両親の元に出生する。その後、1924年、宗森が小さいときに、アメリカではアジアからの移民を排除する法律(Johnson-Reed移民法、通称:排日移民法)が施行、黄色人種差別が起こり、多くの日系人が帰郷する。
高木 聖鶴(たかぎ せいかく、1923年(大正12年)7月1… 高木 聖鶴(たかぎ せいかく、1923年(大正12年)7月12日 - 2017年(平成29年)2月24日)は、日本の書家。男性。位階は従三位。勲等は文化勲章。本名は高木 郁太(たかぎ いくた)。朝陽書道会会長、公益社団法人日本美術展覧会顧問、公益社団法人日本書芸院最高顧問、読売書法会最高顧問、文化功労者。 社団法人日本書芸院理事、読売書法会理事、読売書法会常任総務、社団法人日本美術展覧会常務理事、社団法人日本美術展覧会理事、社団法人日本美術展覧会参事などを歴任した。 1923年(大正12年)岡山県総社市出身にうまれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、環境化学の権威で大阪府立大学名誉教授となる宗森信がいた。
竹田 喜之助(たけだ きのすけ、大正12年(1923年)6月… 竹田 喜之助(たけだ きのすけ、大正12年(1923年)6月27日 - 昭和54年(1979年)9月5日)は、日本の人形師。本名は岡本 隆郎(おかもと たかお)。 1923年(大正12年)、岡山県邑久郡邑久町豊安(現・瀬戸内市邑久町)に生まれる。岡本家は呉服商の大店であり、隆郎は長男だった。邑久村尋常小学校(現・瀬戸内市立邑久小学校)、岡山第一中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を卒業後、旧制第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1943年(昭和18年)に東京帝国大学工学部航空工学科に入学。1950年(昭和25年)に東京大学第二工学部航空工学科を卒業。卒業と同時に人形芝居の結城孫太郎一座に弟子入りし、隆郎は結城糸城三(しきぞう)を名乗った。
山内 逸郎(やまのうち いつろう、1923年5月6日 - 1… 山内 逸郎(やまのうち いつろう、1923年5月6日 - 1993年6月8日)は、日本の医師。 岡山県岡山市出身。1947年岡山医科大学卒、1955年医学博士(岡山大学)。1952年国立岡山病院小児科医長。1955-1957年米国ニューヨーク州立大学生理学教室に学ぶ。1975年全国に先駆けて小児医療センターを設立、新生児の救急医療体制を整備。小児医療センター長、副院長を経て、1982年院長となる。1979年未熟児網膜症の診療を容易にした「経皮黄疸計」を開発。また母乳運動をすすめ、1986年には全国初の乳房センターを開設した。1976年の鹿児島の5つ子誕生の際には現地で医師団を指導した。1989年退官。
山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月… 山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月2日 - 1996年(平成8年)2月25日)は、日本の土木工学者であり、教育者でもある。建設省を経て関西大学工学部教授。国際ジオシンセティックス名誉会員。岡山県高梁市出身。 1923年(大正12年)、岡山県上房郡(現:高梁市)の山岡信治郎の子として出生する。1942年(昭和17年)地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、同年、山口県にある旧制山口高等学校理科へ進学する。 その後、同校を1945年(昭和20年)に卒業し、同年、京都帝国大学工学部へ進学。その直後日本は第二次世界大戦に敗北。戦後の混乱の中、1947年(昭和22年)山岡は3年次途中で卒業扱いとなり、同大学を卒業し、建設省へ入省する。
稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19… 稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19日 - 2022年(令和4年)6月5日)は、日本の食品科学者。九州大学名誉教授。元カルピス食品工業(現:アサヒ飲料)常務取締役、元日本食品科学工業学会副会長。カネミ油症事件の原因を解明した。岡山県新見市出身。 1923年(大正12年)、岡山県新見市に生まれる。その後、地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、天野昇(日本原子力研究所副理事長)、福田正彦(新見市長)、古米初男(丸善石油副参与)、田井庄之助(大分大学教授)がいた。1940年(昭和15年)、高梁中学校を卒業、鳥取高等農業学校獣医畜産学科へ進学する。
名越 二荒之助(なごし ふたらのすけ、1923年3月14日 … 名越 二荒之助(なごし ふたらのすけ、1923年3月14日 - 2007年4月11日)は、日本の思想史家、評論家。元高千穂商科大学教授。専攻は社会思想史。 岡山市生まれ。山口高等商業学校卒業後、新京の陸軍経理学校を経て出征。朝鮮半島で終戦を迎え、ソビエト連邦に抑留を経て1950年に帰国。岡山県に戻り高校教師となり、高千穂商科大学助教授を経て1982年に教授。1997年に退職後、著作活動に専念。 2007年4月11日、呼吸不全のため死去。 パラオでの戦没者の慰霊活動を多く行っており、その一環として南洋神社にパラオ挺身隊の顕彰碑を建立した。
大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月… 大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月13日 - 1992年〈平成4年〉7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。 主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。 順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。
森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月… 森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月2日 - 1992年(平成4年)6月8日)は、実業家である。元日清製粉(現:日清製粉グループ)取締役。広島県出身。 1923年(大正11年)、広島県に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、同期には、日本原子力研究所副理事長となる天野昇、新見市長となる福田正彦、丸善石油副参与・北海道の丸善石油関連社長となる古米初男、大学教授となる田井庄之助がいた。1940年(昭和15年)3月に同校卒業した。 その後、同年に旧制松山高等学校文科乙類へ進学する。1943年(昭和18年)に同校を卒業を経て、京都帝国大学法学部へ進学。1946年(昭和21年)3月に京都帝国大学法学部を卒業する。
福田 正彦(ふくだ まさひこ、1923年〈大正12年〉1月2… 福田 正彦(ふくだ まさひこ、1923年〈大正12年〉1月2日 - 2001年〈平成13年〉4月29日 )は、岡山県出身の政治家。新見市議会長を経て新見市長を3期務めた。 岡山県新見市にて生れる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同期には、東芝を経て日本原子力研究所副理事長を務める天野昇や大学教授になる田井庄之助、丸善石油(現:コスモ石油)副参与と北海道の各社の関連社長を務めた古米初男がいる。1940年(昭和15年)同校を卒業した。 その後、紆余曲折を経て新見市議会議員となり、新見市議会議長を務めた後、当時の新見市長を4期務めた赤木孜一の退任に伴う、新見市長選挙で松浦宏美と塚村正二に競り勝ち、新見市長となる。
山本 まつよ(やまもと まつよ、1923年 - 2021年1… 山本 まつよ(やまもと まつよ、1923年 - 2021年11月27日 )は、日本の翻訳家、児童文学研究家。 岡山県岡山市出身。神戸女学院高等部英語師範科卒業。 山陽新聞の記者として働いていた1949年に、アメリカの招待で新聞社の代表としてアメリカに派遣され、新聞事情を学ぶ。翌年、ミズーリ大学でジャーナリズムを学び、帰国後、1962年までアジア財団日本支部に勤めた。 石井桃子との出会いを機に、児童文学に関心を寄せ、「子ども文庫の会」を設立。児童書の翻訳と、家庭文庫の普及に努めた。みずからも「わかば文庫」を運営しながら、1980年創刊の『季刊 子どもと本』の刊行や、児童書に関するセミナーで、子どもの本を選ぶことの重要性を伝えた。
星島 一夫(ほしじま かずお、1922年9月10日 - 20… 星島 一夫(ほしじま かずお、1922年9月10日 - 2003年8月3日)は、日本の経済学者(社会政策論)。愛媛大学名誉教授。経済学博士。岡山県岡山市出身。 1922年(大正11年)岡山県岡山市生まれ。旧制釜山中学、旧制第六高等学校を経て、1948年(昭和23年)京都帝国大学法学部卒、昭和26年愛媛大学文理学部助手、昭和44年法文学部教授、附属図書館長、昭和60年法文学部長、愛媛大学退官後松山大学経済学部教授、平成5年今治明徳短期大学長。この間株式会社えひめ勤労者生活情報センター所長も務める。社会政策、労働問題を精力的に研究し、特に来島グループの坪内寿夫の経営姿勢や労務管理に批判的であった。後年には伊賀貞雪・愛媛県知事の推進した「生活文化」を賞賛した。
古米 初男(ふるまい はつお、1922年〈大正11年〉7月2… 古米 初男(ふるまい はつお、1922年〈大正11年〉7月25日 - )は、日本の実業家である。丸善石油(現:コスモ石油)副参与を経て、北海道ツバメ石油社長、札幌小野田レミコン社長を務めた。岡山県新見市出身。 1922年(大正11年)に岡山県阿哲郡石蟹郷村(現:新見市)に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、日本原子力研究所副理事長を務める天野昇、岡山県新見市長になる福田正彦、中世芸能史の研究者で大学教授になる田井庄之助がいた。特に、同級生の田井庄之助は自身の著書『碧い霧』で、高梁時代で一番印象に残った人物として同学年で最も秀才であった古米初男を挙げていた。
田井 庄之助 (たい しょうのすけ、1922年 <大正11年… 田井 庄之助 (たい しょうのすけ、1922年 <大正11年> 7月10日 - 2012年 <平成24年> 10月31日) は、日本の教育者であり文学者である。大分大学教授、別府大学教授を務めた。位階は従四位。岡山県高梁市出身。 1922年(大正11年)7月10日、岡山県高梁市に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、日本原子力研究所副理事長を務める天野昇、岡山県新見市長になる福田正彦、丸善石油(現:コスモ石油)副参与と北海道の丸善石油関連社長を務めた古米初男がいる。 1940年(昭和15年)同校を卒業し、広島高等師範学校文科へ進学した。同校を1944年(昭和19年)卒業し、広島文理大学文学部へ進学する。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。
風間 力三(かざま りきぞう、1922年2月7日 - )は、… 風間 力三(かざま りきぞう、1922年2月7日 - )は、日本の国語学者、甲南大学名誉教授。 岡山県津山市生まれ。1947年東北帝国大学法文学部文学科国語専攻卒、甲南大学助教授、教授、1986年定年退任、名誉教授、大手前女子大学文学部教授。
藤原 一郎(ふじわら いちろう、1922年(大正11年)1月… 藤原 一郎(ふじわら いちろう、1922年(大正11年)1月13日 - 2000年(平成12年)7月18日)は、昭和から平成時代の通産官僚。実業家。通産事務次官。電源開発社長、同顧問。 岡山県岡山市出身。藤原末作・貞子の長男として生まれる。旧制一高を経て1948年(昭和23年)東京大学法学部政治学科を卒業し、翌1949年商工省総務局に入る。同期に牧野隆守、村上信二郎、平松守彦、大永勇作(元中小企業信用保険公庫総裁)、大薗英夫(元日本自転車振興会理事長)らがいる。大臣秘書官事務取扱、貿易振興局輸出保険課長、大臣官房審議官、化学工業局化学第一課長、企業局外資課長、貿易振興局貿易振興課長、産業政策局総務課長、中小企業庁小規模企業部長、通産省大臣官房審議官、生活産業局長、官房長、通商政策局長を経て、1981年(昭和56年)6月、通産事務次官に就任した。
大森 荘蔵(おおもり しょうぞう、1921年8月1日 - 1… 大森 荘蔵(おおもり しょうぞう、1921年8月1日 - 1997年2月17日)は、日本の哲学者。東京大学名誉教授。 物理学から哲学に転向し、科学における哲学的問題の検証を目指した。物心二元論を否定し、独特の一元論による哲学体系を確立。著書に『言語・知覚・世界』(1971年)、『時間と存在』(1994年)などがある。 岡山県生まれ。東京府立一中から第一高等学校理科乙類を経て、1944年 東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1945年、海軍技術研究所三鷹実験所勤務。当初は物理学を志すも、科学における哲学的問題を問うため、哲学に転向。1949年、東京大学文学部哲学科を卒業する。はじめ現象学などを学ぶが、満足せずアメリカに留学。
山田 徹一(やまだ てついち、1921年〈大正10年〉3月1… 山田 徹一(やまだ てついち、1921年〈大正10年〉3月12日 - 1997年〈平成9年〉2月28日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 岡山県岡山市で生まれる。1940年(昭和15年)関西中学校(現関西高等学校)を卒業した。会社経営を行う。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙に全国区から公明党公認で出馬して当選。1971年(昭和46年)6月の第9回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。その間、創価学会総務、公明党中小企業局長、同統制委員長、参議院公明党議員団長、参議院懲罰委員長、公明党財務委員長、同岡山県本部長、国土開発幹線自動車道建設審議会委員などを務めた。
氏平 競重(うじひら たかしげ、1921年2月28日 - 2… 氏平 競重(うじひら たかしげ、1921年2月28日 - 2012年4月6日) は、岡山県久米郡久米町出身の実業家。尼崎信用金庫元理事長、元会長。元尼崎商工会議所会頭。 1921年、岡山県久米郡久米町(現:津山市)で出生する。旧制閑谷中学(現:岡山県立和気閑谷高等学校)へ入学。1940年に卒業する。その後、法政大学へ進学し、1944年(昭和19年)法政大学経済学部を卒業する。しかしながら、第二次世界大戦で日本がアメリカと戦争を始めると、徐々に戦況が悪化し、大学卒業後、学徒動員で中国大陸へ出征する。そのまま、中国で敗戦を迎える。 終戦後、1947年(昭和22年)大蔵省(現:財務省)へ入省する。中国財務局金融検査官、金融課長補佐などを経て、1962年尼崎信用金庫へ転職する。
三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2… 三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2006年4月16日)は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。 玉島中(現・玉島商)では砲丸投で全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。 1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。開幕から一塁手、六番打者に抜擢される。同年の松竹ロビンスとの日本シリーズでは、一塁手、代打として2試合に出場。1951年は外野手も兼ね、5月から四番打者に起用されるなど打線の主軸として活躍、初の規定打席(16位、打率.281)に達する。1952年には自己最高の打率.294(12位)、18本塁打を記録。
石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月… 石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月14日 - 2014年(平成26年)6月15日)は、日本の実業家、元国際電信電話(現・KDDI)社長、元郵政事務次官。岡山県岡山市出身。長男の石井健一郎は名古屋大学名誉教授、次男の石井洋二郎は東京大学名誉教授で元東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長。 旧制岡山県第一岡山中学校、旧制第六高等学校文科甲類卒業。
入江節次郎(いりえ せつじろう、1921年2月9日- )は、… 入江節次郎(いりえ せつじろう、1921年2月9日- )は、日本の経済学者、同志社大学名誉教授。 岡山市生まれ。1944年東京帝国大学法学部卒。1980年「帝国主義論への道」で大阪市立大学経済学博士。同志社大学経済学部助教授、教授、92年定年退任、名誉教授。
脇本 平也(わきもと つねや、1921年1月11日- 200… 脇本 平也(わきもと つねや、1921年1月11日- 2008年10月24日)は、日本の宗教学者、東京大学名誉教授(文学部)。 岡山県生まれ。1944年東京帝国大学文学部宗教学科卒業。 立教大学助教授を経て、1964年東京大学文学部助教授(宗教学)就任、70年教授に昇任、81年に定年退官し名誉教授、駒澤大学教授、国際宗教学研究所理事長。 1989年に紫綬褒章受章。94年秋、勲三等瑞宝章受勲。
藤井 貞夫(ふじい さだお、1920年7月16日 - 199… 藤井 貞夫(ふじい さだお、1920年7月16日 - 1997年4月28日)は松下電工代表取締役相談役、合成樹脂工業協会会長。 1935年に松下電器製作所に入社。1963年に松下電工に移籍し取締役となる。1971年に常務取締役、1977年に専務取締役、1981年に代表取締役副社長を経て、1985年3月に代表取締役社長に就任。1989年2月に代表取締役会長。1992年1月11日に亡くなった丹羽正治名誉会長の葬儀・告別式の委員長を務め、同年、代表取締役相談役に退く。 1997年4月28日午前4時10分に脳出血の為死亡。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
岸本 泰延(きしもと やすのぶ、1919年9月23日 - 2… 岸本 泰延(きしもと やすのぶ、1919年9月23日 - 2012年10月17日)は、日本の経営者。昭和電工社長、会長を務めた。 岡山県岡山市出身。1941年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、翌年に昭和電工に入社した。1967年2月に取締役に就任し、同年8月に常務、1973年2月に専務を経て、1979年7月に副社長に就任し、1981年3月には社長に昇格した。1987年3月に会長に就任し、1995年3月から相談役を務めた。 2012年10月17日、転移性肺がんのために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松本孝之(まつもと たかゆき、1919年9月20日 - 20… 松本孝之(まつもと たかゆき、1919年9月20日 - 2002年4月9日 )は日本の実業家。上新電機の元代表取締役社長。岡山県岡山市出身。 1941年昭和高等商業学校(現大阪経済大学)卒業、大阪貯蓄銀行(現りそな銀行)入行。1972年上新電機常務取締役、1976年同社専務取締役、1985年同社代表取締役社長。 元上新電機社長で、同社創業者・浄弘信三郎の子息・2代目社長の浄弘博光が急死したことにともない後を継いで社長に就任。社長在任中には同社の東証1部上場も果たした。 1986年には会長に退いた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 -… 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動した。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活動した。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。
水野 義久(みずの よしひさ、1919年9月13日 - 20… 水野 義久(みずの よしひさ、1919年9月13日 - 2005年5月24日)は、岡山県出身の薬学者。北海道大学名誉教授。第二次世界大戦時は陸軍に入隊した。
逸見 吉之助(へんみ きちのすけ、1919年6月28日 - … 逸見 吉之助(へんみ きちのすけ、1919年6月28日 - 1997年11月11日)は、日本の地球科学者。専門は鉱物学。岡山大学名誉教授。理学博士。 岡山市生まれ。岡山一中、第六高等学校を経て、1941年東京大学理学部地質学科を卒業。満州国大陸科学院高等官試補、岡山県立岡山操山高等学校教諭を経て、1951年、岡山大学理学部講師に着任。1952年助教授。教授、理学部長を経て1984年に退官し以後、名誉教授。 戦後、岡山県倉敷市の三吉鉱山の金属鉱床から日本で初めて砒銅ウラン石を発見した。さらに、広島県庄原市東城町久代および岡山県高梁市備中町布賀の高温型スカルンを発見し、高温型スカルンの成因の解明のみならず、多数の世界新鉱物の発見した。
石原 清志(いしはら きよし、1919年6月18日 - 19… 石原 清志(いしはら きよし、1919年6月18日 - 1999年12月21日)は、日本の国文学者。 岡山県岡山市生まれ。1943年京城帝国大学法文学部卒。1963年大阪市立大学大学院博士課程満期退学。1980年「釈教歌の研究」で大阪市立大学より文学博士の学位を取得。龍谷大学文学部助教授、教授、1988年退任、名誉教授、神戸女子大学教授。中世和歌が専門。 1999年、脳内出血のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伏見 格之助(ふしみ かくのすけ、1919年〈大正8年〉3月… 伏見 格之助(ふしみ かくのすけ、1919年〈大正8年〉3月12日 - 2007年〈平成19年〉7月2日)は、日本の政治家、東大阪市長。日本社会党と日本共産党の推薦で革新市政を12年間担った。 岡山県岡山市出身。旧制大阪府立八尾中学校(現・府立八尾高等学校)を経て、大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大学)卒。大阪教職員組合委員長、日本社会党大阪府本部書記長となる。 1967年(昭和42年)4月の大阪府議会議員選挙に日本社会党から立候補(布施市選挙区)も次点。 1970年6月の東大阪市長選挙に日本社会党と日本共産党の推薦で立候補。現職の初代市長で自由民主党の辰巳佐太郎を破り初当選した。 1967年4月の東京都知事選挙で社会党・共産党推薦の美濃部亮吉が初当選するなど革新自治体ブームの最中であり、同2月に誕生 したばかりの人口50万人を抱える全国15番目の大都市 に革新市政が生まれた衝撃は大きく、翌1971年の大阪府知事選挙で黒田了一革新府政が誕生するきっかけとなった。
石田 寛(いしだ ひろし、1919年3月1日 - 2019年… 石田 寛(いしだ ひろし、1919年3月1日 - 2019年1月22日)は、日本の地理学者、広島大学名誉教授。岡山県出身。 岡山県熊山村(後の熊山町→赤磐市)に生まれ、岡山県第二岡山中学校(後の岡山県立岡山操山中学校・高等学校の前身)から広島高等師範学校地歴科に進み、1940年3月に文科第三部乙を卒業、さらに京都帝国大学文学部で地理学を学んだ。1942年9月、文学部史学科地理学専攻を繰り上げ卒業後、大学院に進んだが、召集を受け10月に中部第48部隊(歩兵第10連隊留守隊)に入隊した。1944年8月兵科見習士官として陸軍中央通信調査部に配属され、アメリカ軍の暗号解読に従事した。1945年1月陸軍少尉に昇進したが、敗戦を受け、9月に召集解除となった。
梅本 政夫(うめもと まさお、1919年 - 没年不明)は、… 梅本 政夫(うめもと まさお、1919年 - 没年不明)は、岡山県出身のプロ野球選手。
山上 正太郎(やまのうえ しょうたろう、1919年 - 20… 山上 正太郎(やまのうえ しょうたろう、1919年 - 2010年)は、日本の歴史学者、電気通信大学名誉教授。西洋史専攻。 岡山県岡山市生まれ。東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。学習院大学助教授、電気通信大学教授、1983年定年退官、名誉教授。第一次世界大戦、第二次世界大戦、フランス革命などを研究した。
蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日… 蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日 - 2020年(令和2年)8月3日)は、日本の教育者、歴史家である。長年教諭を務め、小学校校長を務めた後、有漢町教育委員会指導員となり、有漢町の歴史を編纂した人物。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県上房郡高梁町川端(現:高梁市)で出生する。1930年(昭和10年)に上房郡有漢村(後の有漢町)の蛭田傳助の養子となる。岡山県師範学校(現:岡山大学教育学部)を卒業する。 有漢中学校や有漢東小などで教師を40年務める。小学校の校長を務めた後、地元の有漢の歴史や伝承の編纂を行う。1991年(平成3年)には、「有漢点描」として全9巻出版し、明治、大正の動乱を中心に有漢の歴史をまとめている。
丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月2… 丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月22日 - 詳細不明)は、実業家である。三菱スペース・ソフトウエア(現:三菱電機ソフトウエア)取締役となり、郵政省電波技術審議会専門委員、鉄道通信協会副会長を務めた。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)に生れる。その後、1931年(昭和6年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1936年(昭和11年)に同校を卒業し、同年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1939年(昭和14年)3月に同校を卒業し、京都帝国大学理学部へ入学する。1942年(昭和17年)に同校物理学科を卒業した。
常國 隆(つねくに たかし、1918年(大正7年)5月19日… 常國 隆(つねくに たかし、1918年(大正7年)5月19日 - 1997年(平成9年)6月22日)は、二級滑空士であり、元グライダー日本記録保持者。戦後、帝産グループの取締役などを歴任した。 父は常國稚英、母光代の長男として、岡山県後月郡井原町中町に生まれる。昭和12年、大日本青年航空団第二空軍に応募、合格。大日本航空青年団は、第二空軍(軍用機パイロットなどの養成を目的とした航空団)であり、井上幾太郎陸軍大将を団長に、堀丈夫中将を副団長として、陸軍、海軍、民間、学術の航空権威者を集め、優秀な人材育成を目指した組織であった。 1937年(昭和12年)8月、第1回霧ヶ峰訓練大会に参加し、1938年(昭和13年)5月の滑空機中級訓練長野大会や同年6月の西部訓練大会都城訓練大会に参加した。
池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 199… 池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 1997年1月6日 )は、日本の経営者。日本旅行社長を務めた。 岡山県出身。旧制矢掛中学(現:岡山県立矢掛高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に高文行政科に合格。鉄道省、日本国有鉄道での勤務を経て、1966年9月に日本旅行専務に就任し、1977年1月には社長に昇格した。1984年5月に取締役相談役を経て、1988年4月から顧問を務めた。 1997年1月6日脳梗塞で死去。78歳没。
山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 200… 山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 2002年12月23日)は、日本の政治家、公明党の衆議院議員(6期)。岡山市出身。
山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 200… 山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日 - 2002年12月23日)は、日本の政治家、公明党の衆議院議員(6期)。岡山市出身。 1941年、慶應義塾大学文学部を卒業。1967年の第31回衆議院議員総選挙で当時の中選挙区であった岡山県第1区で、党結成後初めての総選挙に公明党から出馬して初当選し、以降、1980年の第36回衆議院議員総選挙まで連続6回の当選を果たした。この間、1972年には政策審議会文教部会長、1981年には中央統制委員など、党内の要職を歴任した。2002年12月23日、岡山市内の病院で脳梗塞の後遺症により84歳で亡くなった。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
長野 士郎(ながの しろう、1917年10月2日 - 200… 長野 士郎(ながの しろう、1917年10月2日 - 2006年12月5日)は、日本の内務・自治官僚、政治家。 自治省選挙局長(1963年〜1966年)、行政局長(1966年〜1969年)、財政局長(1969年〜1971年)、自治事務次官(1971年~1972年)、公選8-13代岡山県知事(6期)、全国知事会会長(1995年~1996年)を歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。 1917年、岡山県吉備郡服部村(現・岡山県総社市南溝手)に医師であった父・健次郎と母・菊野の四男として生まれる。岡山県第一岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1941年、高等文官試験行政科に合格する。
竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3… 竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3日 - 1990年(平成2年)8月)は、日本の検察官であり、弁護士でもある。大分弁護士会会長を務めた後、大分県地方労働委員会会長を務める。岡山県高梁市出身。 1917年(大正6年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)の竹中家に出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1935年(昭和10年)同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校文科乙類へ進学し、1938年(昭和13年)同校を卒業、東京帝国大学法学部へ進学する。1941年(昭和16年)10月、東大在籍中に司法試験に合格。同年12月、第二次世界大戦の影響で、同大学政治学科を3ヶ月繰上げ卒業になった。
美土路 達雄(みどろ たつお、1917年(大正6年)5月1日… 美土路 達雄(みどろ たつお、1917年(大正6年)5月1日 - 1992年(平成4年)11月29日)は、日本の農業経済学者・教育学者・家政学者。専門は農業経済学・農民教育論・農業家政学・農業協同組合経営論など。農産物市場論において市場構造分析の基礎を築き、農協の経営主義を批判するなど、研究領域は多岐に渡る。教育学博士(北海道大学)。名寄女子短期大学名誉教授。 岡山県津山市生まれ。1938年第一高等学校 (旧制)卒業。1942年東京帝国大学農学部卒業。同年、日本勧業銀行に入社。1945年東京帝國大学大学院(旧制)特別研究生修了。その後、病気療養。1955年協同組合短期大学協同組合科助教授に就任。
柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3… 柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3月26日 - 1978年〈昭和53年〉6月30日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名齋藤錬三郎(さいとう れんざぶろう)。代表作に『眠狂四郎』シリーズ、『赤い影法師』『御家人斬九郎』『三国志 英雄ここにあり』などがあり、剣客ブームを巻き起こし、時代小説に新風を送った。「シバレン(柴錬)」の通称でも呼ばれた。 岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。父は日本画家でもあった。3歳で父を亡くしたが、遺された漢籍に親しみ、唐宋詩人の詩を愛吟して育った。 鶴山尋常小学校を卒業後、1929年に旧制岡山県第二岡山中学校に進学。
福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 198… 福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 1989年7月2日)は、日本の社会学者。文学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。岡山県岡山市出身。 1917年(大正6年)岡山県岡山市に出生する。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1937年(昭和12年)第六高等学校を卒業する。その後、1940年(昭和15年)東京帝国大学文学部社会学科卒業した。 卒業論文は「社會學と社會的現實−社會學方法論における諸問題−」。1948年に東京大学文学部助教授、1960年に教授。1962年に「日本村落の社会構造」で東京大学より文学博士の学位を取得。1977年(昭和52年)に定年退官、名誉教授。
野津 克巳(のづ かつみ、1917年〈大正6年〉1月16日 … 野津 克巳(のづ かつみ、1917年〈大正6年〉1月16日 - 2002年〈平成14年〉9月13日)は、日本の実業家。野津総業代表取締役会長、カバヤ食品会長、オハヨー乳業社長、会長を務めた。長男は野津喬(日本カバヤ・オハヨーホールディングス会長)、孫は池田基煕(喬の長男、旧岡山藩主池田家第16代当主池田隆政の妻で昭和天皇第4皇女池田厚子の養子、日本カバヤ・オハヨーホールディングスCEO)。 岡山県総社市真壁出身。1941年、ハルビン学院出身、満鉄に入社し、奉天鉄道局総務部での勤務を経て、1946年に林原に入社。 1948年12月にカバヤ食品に転じた。常務、専務を経て、1979年に会長に就任した。
出宮 順一(でみや じゅんいち、1917年 - 1945年6… 出宮 順一(でみや じゅんいち、1917年 - 1945年6月)は、日本の自転車競技選手。岡山県の旧玉島町(現・倉敷市)出身。 1936年ベルリンオリンピック日本代表選手に選出され、同大会の開会式には参加したが、役員の登録ミスでレースに出場できなかった。その3ヵ月後、結果的に日本人選手として、オリンピックも含めて初めて自転車競技の世界大会出場となった、スイスのチューリッヒとベルンで開催された同年世界選手権自転車競技大会に、石塚隆春、村上二三九、困見辰夫の3人とともに参加。スクラッチ及び145kmロードレース(いずれもアマチュア部門)に出場し、ロードレースにおいて7位に入る健闘を見せた。 その後、第二次世界大戦が始まると陸軍に召集されて出征。