上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月… 上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月23日 - 大正9年(1920年)7月25日)は、日本の明治から大正にかけて活動した日本画家。同時代の北野恒富や菅楯彦、岡本大更らと共に、近代の大阪を代表する画家の一人である。 岡山県小田郡笠岡村字八軒屋(現在の笠岡市笠岡)に、辻嘉平の次男として生まれる。本名は寿治郎で、鳳山は画号で、画房を鳳鳴画室と称した。父嘉平は、初め刀鍛冶、後に理化学機械製造を仕事としていた。祖父・辻鳳山は円山派の絵師で、小寺清先編『備中名勝考』の挿絵を描いており、鳳山の号もこの祖父に由来していると考えられる。幼少から画家を志し、はじめ大阪出身で円山応立の弟子・木村貫山に学び、ついで西山完瑛・渡辺祥益に師事する。
伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日… 伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日 - 1958年(昭和33年)6月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 岡山県岡山市桶屋町出身。鹿児島県士族の伊丹親恒の長男として生れる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第20連隊付となる。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第20連隊中隊長に就任。参謀本部出仕、参謀本部員を経て、1904年(明治37年)4月、第10師団参謀に発令され日露戦争に出征した。
尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月… 尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月12日 - 1926年(大正15年)9月11日)は、日本の歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。本名は中村 鶴三(なかむら かくぞう)。 日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信 源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の2社で1,000本以上の映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。
関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日… 関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日 - 1964年8月2日)は、岡山県笠岡市出身の実業家。元井笠鉄道代表取締役社長。 1875年9月1日、笠岡市西浜で生まれる。 1908年、井原笠岡軽便鉄道(後の井笠鉄道)の設立に尽力し、1934年、井笠鉄道取締役、1935年、専務取締役を経て、1941年、代表取締役社長となり、地方交通の発展に尽力した。 また、笠岡湾の浚渫、防波堤の築造、富岡湾の干拓などの事業に協力し、井笠地域の発展に尽力した。 1964年8月2日死去。享年88。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月1… 森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月10日 - 1964年(昭和39年)12月5日)は日本のキリスト教徒、学者。 樽井藤吉と森本ふさの三男として生まれ、キリスト教について学び、後に津山基督教図書館(現・森本慶三記念館)を設立した。その他にも、学者の一面があり、現在、森本慶三記念館に慶三の遺物が展示されている。 津山一の素封家であった樽井藤吉の三男として岡山県伏見町に生まれる。京都府立洛北高等学校・附属中学校を卒業した後、兄の後を継いで家業の呉服商「錦屋」を営んだ。しかし商売は上手くいかなったため、子供の頃から生きる事に悩んでいたとされている。キリスト教徒である内村鑑三に救われ、自らもキリスト教に入信し、1900年に上京して内村に師事した。
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)1… 満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)10月11日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の洋画家である。十五老とも称した。 1874年10月11日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進むと松原三五郎に画才を認められた。1891年(明治24年)、ついに中学を3年で退学。
内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月… 内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月17日 - 1940年(昭和15年)1月10日)は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身。 1873年(明治6年)岡山県倉敷市に住む内藤永吉の次男として出生する。1899年(明治32年)、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。1901年(明治34年)、第六高等学校教授となり、20年余り勤務した。1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで高知高等学校校長を務めた。
三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月… 綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。
秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23… 秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23日 - 1938年(昭和13年)11月22日)は、日本の医師、細菌学者。医学博士(東京帝国大学医科大学)。 数百年に渡り、不治の病の筆頭として人類を苦しめて来た梅毒の、史上初の治療薬となったサルバルサン(砒素化合物製剤606号)を、ドイツのパウル・エールリヒ(エールリヒは、秦との共同研究以前の業績で1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞していた)と共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる。 秦は、1911年にノーベル化学賞と1912年・1913年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸した。島根県美濃郡都茂村(現:益田市)出身。
石川 安次郎(いしかわ やすじろう、1872年9月19日〈明… 石川 安次郎(いしかわ やすじろう、1872年9月19日〈明治5年8月17日〉- 1925年〈大正14年〉11月12日)は、明治・大正期の日本のジャーナリスト、代議士。号は半山(はんざん)で、通称石川半山。他の筆名に呑海、城北隠士。 岡山藩士・石川彦衛の次男。岡山市一番町生まれ。慶應義塾を卒業後、ただちに『庚寅新誌』の記者となる。 次いで『信濃日報』主筆、『中央新聞』経済部長、『東京毎日新聞』主筆、次いで『報知新聞』に引き抜かれて北京に留まること5年、記者として北清事変(義和団の乱)に従軍し、中支那の外交機密を紙面で暴露して世間を驚かせた。次いで特派員としてポーツマス会議を取材。報知新聞主筆を経て一時『東京朝日新聞』に在籍したが、最終的に『萬朝報』の主筆として論陣を張り、「政界ゴシップの天才」といわれるようになる。
木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8… 木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8月8日) - 1894年(明治27年)7月29日)は、日清戦争で戦死した大日本帝国陸軍のラッパ手。 戦死しても口からラッパを離さなかったとされた。そのエピソードは1902年(明治35年)から1945年(昭和20年)まで小学校の修身の教科書に掲載され、戦前戦中の日本人においては広く知られた戦争美談であった。 小平は現在の岡山県高梁市成羽の農業・木口久太の長男として生まれ小学校に進学するが、1884年(明治17年)12月に中退。その後小泉鉱山で鉱山夫として働く。1892年(明治25年)12月から広島歩兵第21連隊に入営し歩兵二等卒となり、1894年(明治27年)6月に日清戦争に出征する。
山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年… 山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日。戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日)は、日本の宗教家、説教者。日本人初の救世軍士官(牧師)で、日本人初の日本軍国司令官(日本軍国初代司令官ではない)。最終階級は中将。岡山県哲多郡則安村(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 哲多郡則安村(新見市哲多町)で農業を営む山室佐八、登毛(とも)の三男として生まれた。実家が貧しく、明治14(1881年)年には賀陽郡上足守村の親戚筋の杉本家の養子に出された。漢学者の松浦黙の塾で儒学を学んだ。 14歳で上京して築地活版製造所の職工となり、東京専門学校や英吉利法律学校の講義録を入手して独学する。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年… 平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年2月23日〈明治5年1月15日〉 - 1979年〈昭和54年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛 倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。戸籍では「ひらくし」と濁らない。 写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び近代日本を代表する彫刻家の一人である。ゆかりの地で名誉市民とされているのは、故郷である岡山県井原市(1958年)、広島県福山市(1965年)、晩年を過ごした東京都小平市(1972年)。作品を所蔵する施設として井原市立平櫛田中美術館、小平市平櫛田中彫刻美術館がある。 107歳で亡くなった時点では男性長寿日本一の人物だった。
渡辺 勝三郎(わたなべ かつさぶろう、1872年2月12日(… 渡辺 勝三郎(わたなべ かつさぶろう、1872年2月12日(明治5年1月4日) - 1940年(昭和15年)9月24日)は、日本の内務省官僚。岡山県井原町(現井原市)出身。従三位勲二等。 岡山藩士・小姓格、渡辺徳一郎の三男として生まれる。岡山中学、早稲田専門学校、共立学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となり県治局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。奈良県参事官、広島県参事官、福島県書記官、和歌山県・香川県の各第一部長兼第三部長、香川県・京都府の各内務部長などを歴任。 1908年(明治41年)7月から1914年(大正3年)4月まで徳島県知事を務め、内務省地方局長に転じた。
岡崎文吉(おかざき ぶんきち、1872年(明治5年)- 19… 岡崎文吉(おかざき ぶんきち、1872年(明治5年)- 1945年(昭和20年))は日本の治水技術者。北海道庁の技師として、石狩川の治水計画の基礎を築いた人物。長男の岡崎一夫は自由法曹団団長を務めた弁護士。 岡山県に士族岡崎壽の長男として生まれる。岡山尋常中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、17歳と年齢をごまかし、15歳で札幌農学校工学科に1期生として入学。授業料免除で学資も給付される校費生として、「港湾工学の父」と称せられる広井勇のもとで学ぶ。卒業後は給費研究生となり、21歳の若さで札幌農学校助教授に就任。1896年(明治29年)、北海道庁の技師に任ぜられる。当時の北海道庁長官北垣国道は排水路を運河として活用することを意識しており、札幌・茨戸間運河(現在の創成川)、花畔・銭函間運河、幌向運河、馬追運河の設計と技術を担当した。
前田 金四郎(まえだ きんしろう、1871年〈明治4年〉9月… 前田 金四郎(まえだ きんしろう、1871年〈明治4年〉9月16日 - 1962年〈昭和37年〉2月15日)は北海道十勝地方の富農。本別村会議員などを務め本別町の開拓功労者に認定されている。 1871年(明治4年)9月16日、岡山県真島郡新庄村(現在の真庭郡新庄村)に生まれる。1898年(明治31年)に故郷を離れ、池田町青山に移住する。翌1899年(明治32年)本別町美里別に入植。青山トメと結婚する。 1915年(大正4年)から1937年(昭和12年)の間、6期18年にわたって本別村会議員を務めたほか、農会総代人、評議員、副会長を歴任、1935年(昭和10年)には本別農会長となった。また本別町立本町中学校(現在の北海道本別高等学校)の敷地の提供、設立資金の寄付なども行った。
関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年… 関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年6月7日)- 1957年(昭和32年)5月9日)は、岡山県小田郡陶山村(現・笠岡市)出身の官吏、地方政治家。初代倉敷市長。 1871年6月7日、小田郡陶山村に生まれる。私立関西学館を卒業し、小田郡書記となる。 その後、岡山県庁へ入り県知事官房主事まで昇進したが辞任し、1921年、赤磐郡長となる。その後、浅口郡長、倉敷町長を歴任。1928年、市制が発布され、初代倉敷市長に就任する。その後日比町長となる。 1940年、日比町と宇野町が合併し玉野市となり初代市長に就任する。初代市長に2度就任することは稀な出来事であった。戦後、公職追放となる。
岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年… 岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、鉄道官僚。一年志願兵を経て将校となり、鉄道会社勤務を経て帝国鉄道庁・鉄道省に出仕。札幌鉄道局苗穂工場長や北海道鉄道管理局旭川工場長等を歴任する。東京府士族で官位は陸軍歩兵少尉従五位勲四等。 岡山県岡山市富田町に生まれ、1893年(明治26年)に東京工業学校機械工芸部機械科を卒業、同年12月、一年志願兵として歩兵第2連隊に入隊。1895年(明治28年)7月、歩兵少尉任官と共に予備役となり日本鉄道株式会社に入社、汽車課に勤務する。同年10月、勲六等瑞宝章を受章。1896年(明治29年)2月、盛岡工場に転属。
岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、1871年1月21日〈… 岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、1871年1月21日〈明治3年12月1日〉 - 1919年〈大正8年〉10月10日)は、近代日本の篆刻家である。 本名は岡本義邦(旧姓・山名)、字は叔礼、椿所は号。津山出身。 東京に出て1895年(明治28年)に中井敬所の菡萏居社に入門し篆刻を学ぶ。同門に岡村梅軒・郡司楳所・田口逸所・増田立所・井口卓所などがいる。三村竹清に印を売り、その後交渉している。1907年(明治40年)には河井荃廬・初世中村蘭台・五世浜村蔵六・山田寒山らと丁未印社を設立した。宮内省図書寮に奉職した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)… 徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)は、明治-大正期にかけて活躍した岡山県出身の画家。画号は柳洲(りゅうしゅう)のほか、青々居という別号も使用した。 1871年(明治4年)6月8日、備前国和気郡藤野村(現在の岡山県和気郡和気町)の農家であった徳長吉太郎とむめの次男として生まれる。幼名が武四郎、のちに仁太、仁臣。(遠祖が徳永と称していたため、仁臣は徳長から徳永へ姓を変えた) 岡山市で初めて洋画を見て感激し、洋画家になることを決心する。母校の小学校で助教員をしながら、松原三五郎の天彩学舎に通い洋画の基礎を学んだ後、1889年(明治22年)に18歳で上京し、二代目五姓田芳柳に師事した。
竹越 竹代(たけこし たけよ、明治3年10月12日(1870… 竹越 竹代(たけこし たけよ、明治3年10月12日(1870年11月5日)-昭和19年(1944年)12月19日)は、明治時代の婦人運動家である。日本初の女性記者として『國民新聞』で取材し記事を書いた。 明治3年(1870年)10月12日に岡山に生まれる。父は岡山藩の士族である中村秀人だったが、竹代が9歳時に死去。母である中村静子に育てられた。 女学校入学後の明治16年(1883年)に金森通倫から洗礼を受け、キリスト教徒となった。岡山の山陽女学校を卒業し、明治20年(1887年)に大阪の梅花女学校に入学した。 明治22年(1889年)に、新聞記者の竹越 與三郎と結婚した。同年に、夫とともに徳富蘇峰の民友社に招かれて上京し、明治23年(1990年)の『國民新聞』の創刊に参画した。
横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治… 横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日)- 1947年(昭和22年)4月10日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した。 備前国邑久郡鶴海村(岡山県邑久郡鶴山村鶴海、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し兵役に服し、帰郷して家業の酒造業を手伝った。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め、畜産などの農業振興に尽力。
杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3… 杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1917年(大正6年)5月13日)は、日本の明治・大正期の劇評家。本名は諦一郎。 備中国阿哲郡野馳村(現、岡山県新見市哲西町)に生まれた。幼少期から漢文を学ぶ一方で、芝居に親しんだ。 1886年(明治19年)(16歳)、上京して明治法律学校に入学し、中退した。郷土の先輩犬養毅の手配で、犬養がいた朝野新聞に入社し、郵便報知新聞に移り、1894年から歌舞伎の劇評を書いた。 演劇雑誌が少なく、新聞紙上の劇評が読まれる時代だった。贋阿弥の評は媚びなくて、松居松葉・岡鬼太郎と共に『三暴れ』と称され、興行側から脅される事もあったと言う。
国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(187… 国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(1870年3月4日) - 昭和28年(1953年)12月1日)は、日本の教育者。岡山市長。 備中国浅口郡鴨方(現在の岡山県浅口市)の高戸家に生まれ、岡山市の国富大三郎の養子となった。岡山県師範学校卒業後、岡山県下の小学校で校長を務めた。1904年(明治37年)に岡山実科女学校校長に就任し、1908年(明治41年)には岡山実科高等女学校(のち就実高等女学校に改称)を設立し、両校の校長を兼ねた。岡山県教育副会長、岡山市教育会長、帝国教育会理事を歴任。また県会議員、市会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1941年(昭和16年)、岡山市長に就任し、1944年(昭和19年)まで務めた。
豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年… 豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。岡山県美作市出身。 岡山県英田郡栗広村(現:美作市)出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京専門学校及び哲学館で学ぶ。農業と林業を営む。粟広村(現・美作市)会議員、英田郡会議員、所得税調査委員となる。また、倉庫業を経営し、勝英銀行、勝英貯蓄銀行各頭取、播美軽便鉄道(株)社長を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において岡山県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
安藤 橡面坊(あんどう とちめんぼう、1869年9月21日(… 安藤 橡面坊(あんどう とちめんぼう、1869年9月21日(明治2年8月16日) - 1914年(大正3年)9月25日)は、岡山県出身の俳人。本名錬三郎。別号に影人、橡庵など。小田郡新賀(現笠岡市)生。1897年に大阪毎日新聞社に入社。校正部長を務めた。俳句ははじめ高浜虚子選の『国民新聞』に投句、のち正岡子規選の『日本』紙に投句。1901年、初代選者の桜井芳水の死を受けて「毎日唫壇(ぎんだん)」の二代目選者。 子規の俳句革新運動に加わり関西俳壇を盛り立てる。亀田小蛄主宰の糸瓜会の同人として活躍し「車百合」「宝船」「アラレ」の選者も務めた。「鴨川は千鳥に交じる落ち葉かな」「草花を集めて地蔵祭かな」など、日本派風の温厚な写生句を作った 。
和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治… 和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治2年8月15日) - 1939年(昭和14年)6月11日)は、日本の実業家。大日本製氷社長。製氷業のパイオニアといわれる。また今日言うM&Aの先駆け的経営者でもあった。族籍は東京府士族。 広島市土手町出身。広島藩士・和合善男と梅子の長男。岡山中学校卒業。1890年、渋沢栄一や浅野総一郎などが株主として名を連ねる青山製氷所が設立されると同時に入社する。この時代は寒冷地から天然氷を切って輸送し販売、氷を貯蔵した氷室で食品保存を行っていた。このため大量の氷を扱う製氷業は大きなビジネスであった。 1897年、気候によって価格が左右されやすく供給も不安定な天然氷に代わり、本格的な製氷機(機械製氷)を導入した機械製氷株式会社が設立された。
江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9… 江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、岡山市生まれの小説家、翻訳家、編集者、冒険家。本名:忠功(ただかつ)。 文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説、探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社、博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇 室鷲郎』など。 江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。
野田別天楼(のだ べってんろう、1869年7月3日(明治2年… 野田別天楼(のだ べってんろう、1869年7月3日(明治2年5月24日) - 1944年(昭和19年)9月26日)は、俳人。 備前国邑久郡磯上村(現・岡山県瀬戸内市)出身。本名は要吉。1897年より正岡子規の指導を受け『ホトトギス』などに投句。教職にあり、報徳商業学校(現報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。京阪満月会では幹事を務める。松瀬青々の『倦鳥』の同人となり関西俳壇で活躍。京阪満月会から分離し大阪満月会を結集し中心的に活動した。1934年『足日木』を、1935年『雁来紅』(がんらいこう)を創刊、主宰した。俳諧史の研究で潁原退蔵と親交があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治… 白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 明治27年(1894年)7月29日)は、日清戦争で戦死した日本陸軍兵士。備中国浅口郡水江村(現在の岡山県倉敷市)出身。 貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた。1894年(明治27年)、広島の歩兵第21連隊に入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く、21連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが満期除隊した。日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征。7月29日、成歓の戦いにおいて武田秀山中佐率いる右翼隊第21連隊第9中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり溺死した。
田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 -… 田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日)は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。 1886年・翌87年の警視庁武術大会での大勝を機に日の出の勢いとなった新興の講道館柔道が各地に根付く柔術各派を圧倒し、在京の各派の多くが講道館の軍門に下る中、それでも一部の流派が講道館に挑み続けてその急先鋒と云われたのが不遷流出身の田辺であった。得意の寝技を以って講道館四天王の山下義韶や大豪・戸張滝三郎を破るなどし、富田常次郎、横山作次郎、西郷四郎など並居る講道館の重鎮たちが田辺との試合を避けてきた史実から、“講道館が最も恐れた男”として伝説的な存在となっている。
宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年… 宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。
岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年… 岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年4月23日) - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、警視総監、貴族院議員。旧姓・伊丹。 備前国御野郡大安寺村(後の岡山県御津郡大野村を経て現岡山市北区)出身。農業・伊丹喜三郎の長男として生まれ、旧幕臣・岡敬孝の養子となる。岡山中学、成立学舎、大学予備門を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験に合格し、内務省試補となり警保局に配属され、さらに県治局へ異動した。 1893年11月、鳥取県参事官に就任。以後、青森県内務部長、内務書記官・警保局警務課長、大阪府内務部長などを歴任。
野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月… 野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月2日) - 昭和21年(1946年)2月18日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。ジャーナリスト。 岡山藩士野間隼太の長男として生まれる。岡山中学校を卒業後、同志社英学校などを経て、1887年(明治20年)に東京専門学校に入学した。1888年(明治21年)に英語科を卒業し、翌年には邦語政治科を卒業した。1890年(明治23年)、『東京日日新聞』の記者となる。翌年、清に渡って広東同文館で中国語を学び、また『東京日日新聞』『東京新報』特派員として長江流域の哥老会反乱を報じた。1893年(明治26年)、沖縄県に渡って琉球新報社を興し、主筆となった。
吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶… 吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶応4年2月17日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の洋画家である。岡山県における美術教育に尽力した。 良吉・飛佐の次男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。吉富家は昔「小寺屋」と称し、酒造業や刻み煙草商を営んでいたが、農業にも従事していた。総社市西宮本町の堀和平が神戸に行って外人から油絵の技法を習得して帰り、自宅のアトリエでさかんに製作しているのを見よう見まねで自分も画くようになった。この頃、総社市門田の満谷国四郎は、堀和平と甥・叔父の間柄であったので、しばしば遊びに来て、6歳年上の朝次郎に兄事していた。その後、朝次郎が一時浅尾小学校(現総社市門田)で代用教員を務めた頃、国四郎は彼の教え子であった。
鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868… 鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868年1月14日) - 昭和5年(1930年)4月9日)は、日本の教育者。 岡山藩士島村円造の二男として生まれ、鈴木光輝の養子となった。岡山中学校を経て、1889年(明治22年)に高等師範学校を卒業した。同訓導、女子高等師範学校助教諭、同助教授、東京府師範学校教諭・附属小学校主事を歴任した。1897年(明治30年)、台湾総督府国語学校教授となり、1899年(明治33年)に東京府師範学校首席教諭に戻った。1900年(明治33年)、栃木県師範学校校長に就任し、1906年(明治36年)に京都府師範学校校長に転じた。1909年(明治42年)からは東京府女子師範学校校長・東京府立第二高等女学校を務めた。
山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867… 山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867年12月18日) - 昭和27年(1952年)11月21日)は、日本の漢学者・陽明学者・教育者。二松学舎専門学校の初代校長。二松学舎名誉学長、大東文化学院名誉教授。幼名は鎨三郎、本名は準、字は士表、済斎は号で正しくは濟齋である。 済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島中洲に学んだ。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった。
大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日… 大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日(慶応3年8月13日) - 1944年(昭和19年)1月15日)は日本の篤農家である。白桃や大久保桃の作出で知られる。 1867年(慶応3年)、赤磐郡可真村弥上字山の池(現在の岡山市東区瀬戸町塩納)に生まれる。1879年(明治12年)に千種小学校を卒業すると、1880年(明治13年)に小山益太の門下生となり1886年(明治19年)より山の池にて桃の品種改良につとめる。1899年(明治32年)に恩師小山益太よりもらい受けた上海桃より白桃を発見、1901年(明治34年)結実する。なお、この発見年に関しては1890年(明治23年)とする資料も存在する。
朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年… 朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年7月19日) - 1922年7月1日)は、岡山県小田郡矢掛町出身の実業家、ジャーナリスト。 小田郡矢掛町で生まれる。若い頃は教員をしていた。 1888年、上京し、山縣内閣の機関として設立された時事通信社へ入社する。 1893年、独立して帝国通信社を設立し、常務取締役として経営に携わった。 また、池田寅治郎らと中央生命保険会社を設立した。 1922年7月1日死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2… 九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2年11月16日)- 1943年(昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、日露戦争に出征。 日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年… 内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年10月12日〉- 1933年〈昭和8年〉1月3日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 逓信省管船局長、台湾総督府民政長官、逓信次官、台湾総督(第9代)、貴族院議員などをつとめた。 東京出身。内田正八の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年(明治24年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月、司法官試補、翌月、逓信省試補となり逓信省に入る。逓信事務官、逓信書記官(兼務)、船舶司検所司検官兼逓信省参事官、逓信大臣秘書官、官房秘書課長、人事課長(兼務)、高等海員審判所所長などを歴任。
露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4… 露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4月3日) - 昭和16年(1941年)2月22日)は日本組合基督教会の牧師である。 1866年(慶応2年)備中国倉敷天城に久次郎、せん子の子として生まれる。1882年(明治15年)岡山市に出て原泉学舎で漢学を学び、オティス・ケーリや金森通倫によりキリスト教に接する。 新聞で新島襄の経歴を読んで渡米することを志すが、天城教会の亀山昇から同志社に行くように勧められ、同志社英学校に入学した。在学中に、京都第二公会(現・日本基督教団同志社教会)でアメリカンボードのJ・D・デイヴィスから洗礼を受ける。 在学中、同志社英学校で開催された第1回夏季学校の記録を編集して、『学生之大会』を刊行する。
守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866… 守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866年3月11日) - 昭和5年(1930年)12月10日)は、日本の実業家。幼名は、久太。父は、彌作。 備中国小田郡大井村東大戸2087番地(現在の岡山県笠岡市)に生まれる。1876年、祖父の名を継いで善兵衛と改名する。地元の学校に学ぶが1880年上京し、東京外国語学校(旧外語)および独逸学協会学校でドイツ学を学ぶ。1883年、東京に欧亜学館を設立する。 1885年からは政府各省の依頼により、種々のドイツ語文書を翻訳する。その後台湾総督府の後藤新平、児玉源太郎などの知遇を得、1898年、台湾日報社と台湾新報社を合併して台湾日々新報社を創立し、社長となる。
藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶… 藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶應2年1月10日)- 1933年(昭和8年)3月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県児島郡八浜村長、同郡八浜町長。 備前国児島郡八浜村(岡山県小島郡玉井村、八浜村、八浜町を経て現玉野市)で、藤原久三郎の長男として生れ、1890年(明治23年)7月に家督を相続した。旧制岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校)で学んだ。 玉井村(のち八浜村に改称)助役を経て、1892年(明治25年)10月、玉野村長に就任し、1925年(大正14年)2月まで連続して八浜村長、八浜町長を務めた。また、1898年(明治31年)岡山県会議員に選出され1915年(大正4年)3月まで在任し、1909年(明治42年)から1911年(明治44年)まで県会議長を務めた。
池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年1… 池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年12月24日〉- 1909年〈明治42年〉6月1日)は、侯爵・貴族院議員。旧岡山藩池田家第13代当主。 1866年(慶応元年)、備前国岡山城下鴨方藩邸(現在の岡山県岡山市)生まれ。幼名銀三郎。明治維新後に鴨方藩池田家から池田宗家を継承し、備前岡山藩の最後の藩主となった池田章政(政詮)の三男(名前は父の初名を逆にしたようなものになっている)。母は大垣藩主戸田氏正の娘鑑子。 1882年(明治15年)、フランスに留学。公爵島津忠義の次女充子と結婚したが、1889年(明治22年)に離婚し、翌1890年(明治23年)に久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王と再婚している。
岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(186… 岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(1866年1月22日) - 昭和3年(1928年)11月16日)は、日本の宗教学者。宗教学者の岸本英夫は次男である。 慶応元年12月16日(1866年1月22日)、岡山県岡山市花畑に岡山藩士である滝義夫の次男として生まれる。 1880年7月、岡山中学校を卒業し、同年9月、京都同志社英学校普通科に入学する。1882年2月5日、新島襄から洗礼を受ける。1884年6月、京都同志社英学校普通科を卒業する。 1885年4月、同志社英学校神学科に入学し、1887年6月、卒業する。 仙台の東華学校で教師を務めた後、1890年9月、ハーバード大学神学科に留学し、宗教哲学、比較宗教学、サンスクリット語、パーリ語を研究する。
アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams… アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams、1866年?-1937年)は、アメリカのアメリカン・ボード宣教師。ニューハンプシャー州出身。医療・社会福祉に従事し、石井十次、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。
留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、186… 留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、1866年(慶応2年) - 1900年(明治33年)4月30日)は留岡幸助の前妻。社会福祉活動家。現在の岡山県出身。 1866年(慶應2年)、備中国川上郡下切村(のち、倉敷県川上郡下切村→深津県川上郡下切村→小田県川上郡下切村→岡山県川上郡玉川村、現・高梁市玉川町下切大成)の森峰定五郎と妻・むめの11番目の末っ子として誕生した。1879年(明治12年)養子・留岡幸助の嫁になるため、夏子が13歳のとき留岡金助の養女として引き取られた。同年、幸助が座敷牢に入れられているのを助け出し、幸助は四国の今治へ逃れた。その後、留岡家を出て夏子の実家に帰るが、再び高梁の須藤英江医師のもとへ奉公に出た。