広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 19… 広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 1959年4月18日)は、日本の官僚、聖職者、教育者、翻訳家。文部省文部事務官、文部省宗教課文部属、日本聖公会の伝道師。 1910年(明治43年)4月17日、広島県沼隈郡郷村(現・福山市)にて、広安助一郎の三男として生まれる。 1923年(大正12年)、広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)へ入学。結核のため2年間の休学を経て、1930年に同校を卒業。青年期に兄・広安謙一の影響を受けてキリスト教を知るが、兄は、札幌農学校のクラーク博士の遺風を慕って、北海道帝国大学医学部に学び、後に旭川で開業医となっている。 1932年(昭和7年)3月25日に、地元の福山基督教会の司祭・横田金熊のもとで洗礼を受ける。
安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年… 安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年8月24日)は、広島県広島市出身の官僚、教育者。厚生事務次官、医療金融公庫総裁、安田学園理事長を歴任した。 広島の私学・安田学園創立者・安田リヨウの長男。戦後の1949年、厚生省保険局長に就任。戦時及び戦後の混乱で乱雑となった厚生年金台帳の整理に尽力し、また海外視察の経験を基にして台帳整理の機械化導入を指示した。1959年には厚生事務次官に就任。1960年、医療金融公庫総裁となる。退官後の1978年、母リヨウ死去に伴い安田学園理事長に就任。1996年、広島市内の病院で死去。享年86。
進藤 貞和(しんどう さだかず、1910年3月4日 - 20… 進藤 貞和(しんどう さだかず、1910年3月4日 - 2002年2月22日)は、日本の実業家。三菱電機社長を歴任。広島県呉市生まれ、長崎県、高知県育ち。九州帝国大学工学部電気科卒。
入江 仁士(いりえ ひとし、1910年 <明治43年> 2月… 入江 仁士(いりえ ひとし、1910年 <明治43年> 2月26日 - 1973年 <昭和48年> 9月28日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 広島県広島市出身。1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に大阪商船に入社。 1963年5月に取締役、1964年4月に大阪商船三井船舶常務、1965年5月に大阪建物常務を経て、1972年9月に社長に就任。 1973年9月28日、肝癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 19… 加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 1989年6月5日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。防衛事務次官、衆議院議員(2期)。
岡田 慶治(おかだ けいじ、1910年 - 1948年11月… 岡田 慶治(おかだ けいじ、1910年 - 1948年11月)は大日本帝国陸軍の軍人。階級は陸軍少佐。 広島県福山市出身。陸軍士官学校(43期)を出た後、1931年(昭和6年)に陸軍少尉。太平洋戦争では歩兵第56連隊大隊長としてビルマに侵攻。ジャワ島幹部候補生教育隊の教官、パレンバンの南方軍臨時施設隊、ボルネオの混成旅団の大隊長を歴任。 1946年(昭和21年)3月に復員し、長崎で海産物と塩を扱う合資会社を設立するも、1947年(昭和22年)3月、出頭に応じて巣鴨プリズンに収監。同年8月ジャワのチピナン刑務所に移送。スマラン慰安所事件の犯人として、バタビア臨時軍法会議にて死刑を宣告され、1948年(昭和23年)11月に銃殺刑に処された。
佐竹 利彦(さたけ としひこ、1910年(明治43年) - … 佐竹 利彦(さたけ としひこ、1910年(明治43年) - 1998年(平成10年)7月24日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ二代目社長。おいしくて光沢のある白米ができる精米機を発明し、精米理論を体系化した。またヤシ・ソテツ類植物の収集・分類において権威であった。東京大学で農学博士号を取得(近代精米技術に関する研究)、東京農業大学名誉博士(ヤシの研究)、広島大学名誉博士(近代精米およびヤシの研究)。 1910年(明治43年)、佐竹利市の長男として生まれる。旧制山陽中学校(現・山陽高等学校)で優秀な成績を収め、旧制広島高等工業学校(現・広島大学工学部)への推薦入学が決まっていた。
中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5… 中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5日 - 1991年(平成3年)8月9日)は、広島県広島市出身の実業家。中国電力副社長、中国電気工事(中電工)社長、広島商工会議所会頭などを務めた。
土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 193… 土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 1938年7月7日)は、日本の水球選手である。1932年に開催された夏季オリンピックの男子トーナメントに出場した。日中戦争中は陸軍に士官として召集されていたが、日本国内での訓練中の負傷がもとで病死(戦病死)した。 広島県広島市出身。父の土井與一は弁護士であった。広島市立袋町小学校、県立広島第二中学校(現在の広島県立広島観音高等学校)を経て、早稲田大学法学部に学ぶ。 早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。水球には4か国(ドイツ、アメリカ、ハンガリー、日本)が出場した。初出場の日本は国内の優秀選手を送り出したが、全敗を喫した。
江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4… 江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4日 - 1944年(昭和19年)6月15日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。五二一空陸上爆撃機搭乗員として参加したあ号作戦で戦死した。最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)9月4日、広島県芦品郡有磨村下有地(現・福山市芦田町)に農家の九右衛門とキタの三男として生まれる。江草家は旧家で代々地主である。江草姓は、同地方の戦国時代の豪族などに見られ、広島と岡山の県境に多く見られる。 1925年(大正14年)、海軍兵学校と陸軍士官学校の両方を合格。江草は海兵に行く気だったが、入校直前の身体検査で結核と誤診されて海兵57期には入校できなかった。
池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 … 池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 - 2006年4月9日)は日本の彫刻家。仏像の制作を中心に制作活動を行う。その傍らアバンギャルドな作品も多数制作。1950年代には大阪市立美術館の三階屋根裏部屋を仕事場とし、次々と意欲的な作品を生み出した。
浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 197… 浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 1972年7月19日)は、日本の実業家。菱備製作所(現・リョービ)創業者。 広島県芦品郡岩谷村(現在の同県府中市目崎町)生まれ。肥料商の長男。旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、岡崎平夫ら。東京株式取引所に就職し、夜学の日本大学専門部商業学科に通い1930年卒業。成瀬証券を経て東京で友人と工具やベルト販売の会社を設立。1943年設立された三菱電機福山工場(現・福山製作所)が航空機部品の協力企業を探していることを耳にして交渉の末、34歳で帰郷し、岩谷村に醤油蔵を改造したダイカスト工場建屋を完成させ、第1号製品を三菱電機に納入した。
吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 19… 吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 1995年9月17日)は、日本の実業家、馬主。広島県向島(現・尾道市)出身。東京鐵鋼創業者である。東京鐵鋼現社長で、馬主の吉原毎文は長男。 祖父は広島県向島の八幡神社の神官で、祖父まで137代を数える家系。父・吉原敏(1885-1962)が明治大学在学中から清浦奎吾に私淑し卒業後、清浦の秘書として仕えたあと、日本兵器製造の東京支社長などを経て、長男にあたる貞敏とともに1940年に大和製鉄を買収して同社を名称変更したものが東京鐵鋼の創業となる。貞敏は明治大学商学部を1932年に中退し、飛島組に入社。1937年に有明鉄工所、1938年に高級鋳鉄研究所を設立した後、高級鋳鉄の生産を目指して父とともに東京鐵鋼を創業。
高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日… 高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日 - 1963年(昭和38年)12月10日)は、日本の砲丸投選手、写真家。 広島県広島市出身。旧制広陵中学校中退。日本陸上競技選手権大会では、1927年から1935年までの間に砲丸投げで6回優勝。1934年(昭和9年)に大連で開催された日米対抗陸上競技大会において14m13の日本記録を樹立した。この記録は1953年まで保持された。通称「砲丸王」と呼ばれた。 1936年ベルリンオリンピックに砲丸投げで出場したが予選で失格。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から約680メートルの中国配電(現中国電力)本店で被爆。
岡崎 平夫(おかざき ひらお、1909年(明治42年)2月1… 岡崎 平夫(おかざき ひらお、1909年(明治42年)2月1日 - 1993年(平成5年)12月27日)は、日本の政治家。第22 - 26代岡山市長で、歴代最多の5期務めた。岡山市名誉市民。 旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、浦上豊ら。徳島高等工業学校(現・徳島大学)卒業後、大阪市水道局に就職したが応召、ボルネオで終戦を迎えた。帰国を待つ間に大腸ガンを2度手術、1946年病院船で帰国。 戦後の1947年、大阪に水道工事会社を設立後、翌1948年吹田市水道部長に転職。1952年関西大学第二部法学部を卒業。岡山市水道局長を経て、1963年岡山市長に初当選、以来連続5期20年在任し、歴代の岡山市長では最も長く市長を務めた。
田淵 実夫(たぶち じつお、1909年1月25日 - 199… 田淵 実夫(たぶち じつお、1909年1月25日 - 1991年3月8日)は、日本の俳人、政治家、民俗学者。 俳号・十風子。広島県三次市生まれ。関西大学卒、京都大学大学院言語学専攻博士課程満期退学。中学、高校、大学教師ののち、1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧広島3区から日本社会党公認で出馬し初当選。1949年、落選。広島市立図書館長。広島市文化センター管理者。比治山女子短期大学教授、広島女学院大学教授。広島方言、石垣などを研究した。
辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年1… 辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年11月30日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。鴻池運輸創業家に婿入りした辻卓史は子。 1934年に神戸商業大学(現神戸大学)を卒業。サンマス貿易での勤務を経て、1939年に日商に転じ、取締役、常務、専務を経て、1968年10月に日商岩井専務に就任し、1969年11月には社長に昇格。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1980年11月30日急性肝炎のために死去。71歳没。
有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5… 有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の言語学者、日本語学者。日本語の音韻史や音韻論に関して業績を遺した。上代特殊仮名遣に関する有坂の法則で知られる。 大学卒業後、矢継ぎ早に論文を出し、当時の学界の第一線に立った。しかし、その活躍は卒業後のわずか10年間のみであり、その10年もほとんどの時間を病院・診療所で過ごしている。33歳以降は論文の数は激減し、闘病の末43歳で没した。橋本進吉から、東京帝大の国語学主任教授の後任と白羽の矢を立てられながら、辞退したのも病身の故であった。 有坂が昭和5年12月に東京帝国大学へ提出した卒業論文は、言語学科主任教授の藤岡勝二教授ひとりが目にしたと思われ、現存はしないようである。
清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976… 清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976年4月27日)は電気工学者、実業家。元富士通社長、会長。日本のコンピューターパイオニアの一人。旧姓根岸。 広島県広島市大手町(現在の同市中区)出身。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高校)から第一高等学校をへて東京帝国大学電気工学科卒(1932年)。逓信省電気試験所第4部に入り、光通信、電子管(マグネトロン、速度変調管)などの研究を担当。1936年、関杜夫とともにグラスファイバーを光通信に使うアイデアを発明した。 終戦後の1947年12月23日、アメリカベル電話研究所でトランジスタが発明され、翌1948年6月30日公表された。
永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 … 永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 - 1982年12月7日)は、日本の僧侶、政治家、参議院議員(1期)。戦後、政財界で活躍した永野一族の一人。 広島県下蒲刈島にある浄土真宗本願寺派弘願寺の生まれ。旧制広島一中、旧制広島高校を経て東北帝国大学卒業後、1939年龍谷大学文学部卒業、1941年に龍谷大学研究科を卒業。自坊の弘願寺住職を継承した後に西本願寺宗務所に勤務し、総務や親鸞聖人大遠忌常務理事などを歴任。1957年には全日本仏教会の代表として当時正式な国交のなかった中華人民共和国を訪問している。 1968年、第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補し当選。
梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25… 梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25日 - 1987年(昭和62年)10月8日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍中佐。名は「覬」と表記される場合がある。 1908年(明治41年)6月25日、現在の広島県江田島市鷲部に、父・藤市と母・スギの9人兄弟の末っ子として生まれる。旧制呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)を経て、1925年(大正14年)4月、海軍兵学校に第56期生として入学、1928年(昭和3年)3月卒業。 装甲巡洋艦「八雲」、重巡洋艦「青葉」、航空母艦「赤城」その他に乗組、1930年(昭和5年)中尉に任ぜられる。その後、駆逐艦「菊」砲術長、駆逐艦「朝顔」、防護巡洋艦「対馬」、吹雪型駆逐艦「白雪」への乗組を経て、1934年(昭和9年)、海軍水雷学校高等科に学び、同年大尉に任ぜられる。
渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4… 渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4日 - 1939年(昭和14年)8月21日)は、広島県呉市出身の歌人。 呉一中(現:広島県立呉三津田高等学校)、広島高等師範学校(現:広島大学)卒業。芥川龍之介に影響を受けた文学青年で、マルクス主義にも関心を持った。異父兄・高橋彰三の影響で短歌を始める。1935年(昭和10年)、伊藤左千夫を中心にして1908年(明治41年)に作られた短歌誌『アララギ』に入会し、土屋文明に師事した。しかし当初の渡辺の作品は牧歌的で、島木赤彦や文明の模倣でしかなかった。 呉市立高等女学校(現:呉三津田高等学校)の国語教師として奉職中だった1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、中国に第五師団歩兵第十一連隊陸軍少尉として送られる。
赤城 さかえ(あかぎ さかえ、1908年〈明治41年〉6月3… 赤城 さかえ(あかぎ さかえ、1908年〈明治41年〉6月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月16日)は、俳人、俳論家。本名・藤村 昌(ふじむら さかえ)。 国文学者・藤村作の次男として広島県広島市に生まれる。二歳の時に父、作の東京帝国大学赴任に伴い上京、千駄ヶ谷尋常高等小学校(のちの渋谷区立渋谷小学校)、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)、旧制山形高校を経て東京帝国大学文学部中退。東大在学中に日本共産党(非常時共産党)に入党、山本健吉や亀井勝一郎、原民喜らと地下活動に入るも熱海事件に巻き込まれて知多半島に逃亡。のち転向し、1937年召集。1938年には昭和鉱業に勤務するが、1940年結核を発病して逗子湘南サナトリウムに入院。
高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 19… 高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 1962年1月23日)は、日本の農林省官僚、農林技官。コシヒカリ生みの親。 広島県高田郡川根村(現在の安芸高田市)出身。旧制三次中学(現在の三次高校)、旧制広島高校卒業。三代続いた医者の息子で、医者になることを望まれたが解剖を嫌い九州大学農学部に進み育種学を専攻。中学時代は落第もしたが大学時代の成績は優秀で、1935年卒業時には九大からただ一人推薦されて農林省農事試験場に採用された。農林技官として関東東山農業試験場(現在の埼玉県鴻巣市)に赴任し小麦の品種改良などを研究。5年後の1940年、新潟県農事試験場に転勤し水稲新品種育成試験地の主任となる。
重園 贇雄(しげぞの よしお、1908年1月19日 - 19… 重園 贇雄(しげぞの よしお、1908年1月19日 - 1980年12月29日)は、日本の作詞家、中等教育教員。おもに「ひろしま平和の歌」の作詞者として知られる。 1908年(明治41年)1月19日、アメリカ合衆国ハワイ島のヒロで日系移民の重園梅太郎・セキ夫妻の一子として出生する。2歳で両親と共に日本へ帰国し、広島県豊田郡椹梨村(賀茂郡大和町を経て現在の三原市)で育った。 旧制忠海中学校を首席で卒業後、満洲へ渡り満洲教育専門学校文科一部へ入学。卒業後、長春市室町尋常高等小学校訓導に着任する。 1931年(昭和8年)、満洲事変勃発に伴い新聞紙上で懸賞募集が行われた「噫 南嶺三十八勇士の歌」で一等入選。
植田 敏郎(うえだ としろう、1908年1月17日 - 19… 植田 敏郎(うえだ としろう、1908年1月17日 - 1992年10月21日)は、日本のドイツ文学者・翻訳家。静岡高等学校教授、東京外国語学校教授、学習院教授、学習院大学教授、一橋大学教授、東北歯科大学教授を歴任。 広島県広島市生れ。旧制広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高校を経て1931年東京帝国大学独文科卒、同年渡欧、ウィーン大学、ボン大学、ベルリン大学で学び1936年帰国。1937年静岡高等学校教授。専門はゲーテ時代のドイツ文学で、のち東京外国語学校教授、学習院教授、1949年学習院大学教授、1953年一橋大学社会学部教授、1971年定年となり東北歯科大学教授。1973年『クリュス選集』の翻訳により日本翻訳文化賞受賞。
高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月1… 高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月13日 - 不明)は、広島県広島市出身の実業家・経営者である。萬国製針二代目社長・会長を歴任。父は萬国製針創業者の高橋誠太郎。 1908年1月13日に広島県広島市で生まれる。1926年に旧制崇徳中学校を卒業し、家業を継ぐべく萬国製針商会に入社する。1936年に同会代表者となる。1945年8月6日に原子爆弾の被害により、工場・設備の一切を失い、自宅も焼かれ、長男を始め近親者の10名が亡くなった。高橋自身、原爆を恨み、アメリカに対する憎悪の念を燃やしながら終戦を迎えたとされる。アメリカに対する憎悪は、やがてアメリカへの積極的な針の輸出という企業化精神へと転化されていった。
藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年… 藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年5月29日)は、日本の水泳・水球選手。ロサンゼルス五輪(1932年)水球日本代表選手主将兼コーチ。元日本水泳連盟会長。実業家、元日本ゼオン専務、関東ゴム社長。早稲田大学商学部卒業。広島県広島市出身。 後年、広島平和記念公園となる広島市中島町の生まれ。中島小学校の先生に水泳にも堪能だった多田徳雄がいて正しい泳法を習う。広島一中(現広島県立国泰寺高校)で水泳部を創部し水泳・水球の名選手として鳴らした。尊敬する中学の先輩・沖田芳夫、織田幹雄を追い早稲田高等学院、早稲田大学と進学する。その全てで主将を務めた。全国から水の英才が集結し、第一次黄金時代を誇った早稲田大学水泳部で活躍する。
土井 忠雄(どい ただお、1908年 - 1994年)は、日… 土井 忠雄(どい ただお、1908年 - 1994年)は、日本の仏教学者、真宗学者。京都女子大学名誉教授。浄土真宗本願寺派勧学。広島県生まれ。 長年の蔵書を中央仏教学院に寄贈し、土井文庫となる。現在入手不可能な本も多数あり。
坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - … 坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - 1988年〈昭和63年〉6月26日)は、日本の平和運動家。広島県広島市中区の千田保育園初代園長。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。広島県広島市天神町(後の中区中島町)出身、広島市立第一高等女学校(以下、市女と略。後の広島市立舟入高等学校)卒業。 天神町の酒屋の長女として誕生。市女を卒業した後、19歳で結婚し、1男1女に恵まれた。 広島市舟入本町在住であった1945年(昭和20年)8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。当時13歳の長女は爆心地からわずか500メートルの場所で建物疎開に動員されていために重傷を負い、その日の内に母の目の前で死去した。
住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1… 住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1971年)は、日本の陸上競技(投擲)選手。 1920年代後半から1930年代前半までやり投で活躍した選手で、「槍の住吉」と呼ばれた。オリンピック出場2回(1928年アムステルダム・1932年ロサンゼルス)。姓はのちに岩崎。早稲田大学理工学部卒業。 広島県安芸郡江田島町(現在の江田島市)生まれ。呉一中(現在の広島県立呉三津田高等学校)を卒業。1925年の第7回極東選手権競技大会(マニラ)にやり投と走高跳で出場。 早稲田大学に進学後はやり投選手として活躍。1927年、第8回極東選手権競技大会(上海)ではやり投で優勝。 1928年4月29日に関東選手権で61m08の記録を出して日本記録を更新。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1… 小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1981年8月3日)は、日本の外交官。公正取引委員会事務局長、法務省入国管理局長、駐ビルマ特命全権大使などを歴任した。 広島県尾道市出身。第一高等学校文科丙類を経て、1931年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1932年外務省入省。外務省条約局事務官、情報局総裁秘書官、戦争調査会事務局事務官、横須賀捕獲審検所評定官等を経て、1952年調達庁総務部調停官。1953年公正取引委員会事務局長。1957年在ヴィエトナム日本国大使館参事官。 1959年外務大臣官房審議官。1960年駐ハンガリー特命全権公使。1962年法務省入国管理局長。1964年駐ヴァチカン特命全権大使。
崔 栄哲(チェ・ヨンチョル、朝鮮語: 최영철/崔榮哲、190… 崔 栄哲(チェ・ヨンチョル、朝鮮語: 최영철/崔榮哲、1907年8月2日 - 1991年8月5日)は、大韓民国の校長、政治家。初代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、第3代韓国国会議員を歴任した。 全南羅州出身。広島県立呉中学校、千葉高等園芸学校卒。羅州金川中学校校長、湖南園芸高等学校(朝鮮語版)校長、国民会全南道支部宣伝部次長・羅州郡支部長、初代全羅南道議会議員などを歴任した。1954年の第3代総選挙では無所属で羅州郡甲選挙区から出馬し当選し、すぐに民主国民党に入党したが、その後自由党に移籍したことで民主国民党と選挙区民から背信の非難を受けた。 1991年8月5日、ソウル市の江南聖母病院で持病により死去。
金井 清(かない きよし、1907年(明治40年)7月25日… 金井 清(かない きよし、1907年(明治40年)7月25日 - 2008年(平成20年)4月13日)は、日本の地震工学者。分散性表面波、常時微動の測定法開発、構造物や地盤の振動理論などの研究で知られる。東京大学教授・日本大学副総長を歴任。 1907年(明治40年)、広島市で生まれる。広島県立広島第一中学校を経て、1928年(昭和3年)に広島高等工業学校電気工学科を卒業した。卒業後は同校久保研究室で実験助手を勤めていたが、1931年(昭和6年)に上京し、東京帝国大学地震研究所の妹沢克惟を訪れ、1934年(昭和9年)に正式に助手となった。妹沢との共同研究は10年余に及んだが、この期間に地震研究所彙報により発表された論文は年に10-20編に達する。
小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)… 小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)6月27日 - ?)は、日本の自動車技術者。 男爵小早川家の当主。位階は正五位。旧姓名は毛利元治。 東京府出身。明治40年(1907年)、第29代毛利宗家当主の毛利元昭の次男として生まれる。その後、叔父にあたる男爵・小早川四郎の養子となる。広島の旧制崇徳中学校、日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業。崇徳中学校時代には弁論部で活躍、大学時代にはディーゼル機関の研究を行っていた。卒業後は日産自動車の技術者となる。また、ジェントルマンドライバー (アマチュアドライバー) としても活動し、イギリスからMG・K3マグネットを入手して多摩川スピードウェイに参戦するなどしたという。
靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19… 靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19日)は、日本の洋画家。昭和前期(戦前・戦中期)に活動した。本名は石村 日郎(いしむら にちろう)。 靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。 戦時下の状況から、靉光は戦争画を描く事を当局より迫られ「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。 東京国立近代美術館(MOMAT)の入り口に作品が飾られているほど近代美術にとって重要な人物である。
三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25… 三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25日 - 1996年(平成8年)7月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最後の連合艦隊作戦参謀で、戦後は自衛艦隊司令官を務める。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。妻は今村信次郎海軍中将の娘。 広島県芦品郡宜山村(現・福山市駅家町)大橋出身。福山中学を経て海軍兵学校56期を卒業。同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八らがいる。三上は砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で駆逐艦の砲術長や戦艦日向の副砲長、砲術学校教官などを務めた。海軍大学校甲種37期を卒業。中島親孝、岡田貞外茂、藤村義一らが同期である。在校中に海軍少佐に進級し、第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。
近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 199… 近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)出身の唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。
阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 198… 阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 1981年4月28日)は、日本の歴史学者(近代思想史、歴史理論)、旧・東京都立大学(現首都大学東京を経て東京都立大学)教授、牧師。平和運動家。政治家、第10代東京都立川市長。 広島県広島市出身。最初、川端画学校の藤島武二に師事したが1928年、賀川豊彦の集会に出席して神学を学ぶことを決意する。神田の中央バプテスト教会(三崎町教会)で中島力三郎からバプテスマ(洗礼)を受ける。 関東学院に入学、神学部に学ぶ。キリスト者学生運動に参加の後、日本戦闘的無神論者同盟に加盟。1933年治安維持法違反容疑で検挙され執行猶予。1937年同志社大学文学部神学科を卒業すると姫路バプテスト教会に赴任する。
八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - … 八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - 1970年3月23日)は、日本の技術者、実業家。日本触媒化学工業(現・日本触媒)第2代社長(実質の創業者)。高杉良の経済小説『炎の経営者』の主人公として実名で登場する日本の石油化学工業のパイオニア。 広島県比婆郡山内東村(現・庄原市)出身。三次中学(現三次高等学校)卒業。代用教員を経験した後、大阪高等工業学校を経て一旦就職し、働きながら苦学して1932年、大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業。由良染料を経て。1935年にヲサメ硫酸工業事務所へ入社。研究責任者としてバナジウム触媒の開発を行う。 1941年にヲサメ硫酸工業事務所から、大阪桃谷(現在の大阪市生野区桃谷)の長屋の2階にヲサメ合成化學工業株式會社が設立。
小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12… 小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校56期。サイパン島で戦死。最終階級は海軍大佐。旧姓は堂本。 広島県呉市西谷町、堂本永次郎二男。辰川尋常小学校、呉市立工業補習学校卒業後、呉海軍工廠で造船製図見習工として働きながら海軍兵学校を志し、1928年(昭和3年)海軍兵学校(56期)を卒業(卒業席次5番/111人中)。 1929年少尉、1931年中尉任官。1933年「灘風」砲術長。1934年海軍通信学校高等科学生(同年大尉任官)となり、翌年「北上」通信長。以後通信分野を歩む。結婚2年後の1936年、妻の実父小野弥一中将(海兵第33期、予備役)と養子縁組し、小野と改姓した。
藤原 節夫(ふじわら せつお、1906年〈明治39年〉11月… 藤原 節夫(ふじわら せつお、1906年〈明治39年〉11月10日 - 1992年〈平成4年〉4月17日)は、日本の新聞記者、官僚、政治家。衆議院議員、総理府総務副長官(事務担当)。 岡山県出身。1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 時事新報、読売新聞の記者を経て官界に転じ、逓信大臣秘書官、司法大臣秘書官、綜合計画局参事官、戦災復興院事務官、建設省弘報課長、総理府総務副長官(事務)を歴任。臨時恩給等調査会委員、南方同胞援護会設立委員、中央青少年問題協議会副会長、日本民主党事務局長、自由民主党事務局長も務めた。 1958年(昭和33年)の衆議院総選挙で岡山県第2区から自民党公認で出馬するが次々点で落選(ちなみに次点は藤井勝志)、1960年(昭和35年)の総選挙でトップ当選して衆議院議員となるが、この時大規模な選挙違反を起こして運動員や妻が検挙される。
野澤 正雄(のざわ まさお、1906年8月26日-1994年… 野澤 正雄(のざわ まさお、1906年8月26日-1994年11月18日[要出典])は、広島県出身の元サッカー選手、日本代表選手(全日本)。野澤晁、野澤信韶は実弟。 同級の手島志郎らと共に広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)から1925年、創設間もない旧制広島高校(現広島大学総合科学部)に進学。1926年、東京帝大主催による旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)では、ハーフバック(HB)・主将として1、2年生チームをまとめ準優勝。1928年の第5回大会では優勝に導いた。幅広い動きは当代随一と評され前線の手島らに好パスを供給し、全4試合で合計25得点を挙げる原動力となった。
高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月1… 高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月15日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、広島県広島市出身の元日本のバレーボール選手、元バレーボール全日本選手。指導者、元日本バレーボール協会副理事長・名誉副会長。元大阪府バレーボール協会会長。広島高等師範附属中学校(現広島大学附属高校)~神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業(1928年)。「黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会」を創設する等、日本のバレーボールの草分け時代に、選手、指導者として、日本のバレーボール発展の礎を築いた。 多田徳雄監督下で日本バレーの草分けとなった神戸高商の中心選手として最強時代に貢献。在学中の1927年、当時唯一の国際大会だった極東選手権競技大会の第8回上海大会に神戸高商単独チームの主将として参加。
小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 … 小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 - 1980年(昭和55年)12月18日)は、日本の中国文学者。東京大学名誉教授。 1906年、東京・神田で生まれた(広島県呉市出身)。1926年に松山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に師事し、1929年に卒業。 アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後、1934年に冨山房に入社。百科辞典の編纂に携わったほか、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。 1946年より國學院大學で講師を務めたのを皮切りに、東京大学、九州大学、京都大学などで非常勤講師を務めた。
八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 198… 八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 1983年4月15日)は、日本のレスリング選手・指導者、政治家である。日本レスリング界の父であり、参議院議員も務めた。また、1964年東京オリンピック招致にも尽力した。広島県安芸郡江田島町(現・江田島市)出身。
市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年… 市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年)5月8日 - 1978年(昭和53年)1月15日)は、歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分する剣劇俳優であった。戦後は芸名を百々木 直(ももき なお)と名乗った。本名は上田 直正(うえだ なおまさ)。 広島県広島市に生まれる。 1911年(明治45年)、『近江源氏戦陣館』の小四郎で初舞台を踏む。12歳のとき、市川中車の門下となりちんこ芝居(小青年歌舞伎)の一座を組織して各地を巡業、葉村屋一派、中村扇雀一座などにも加入出演した。 1922年(大正11年)9月、17歳のときに、帝国キネマ演芸(帝キネ)小坂撮影所へ入社、同年、中川紫郎監督の『異端者の恋』や『大江戸の武士』に出演し、映画俳優としてデビュー。
呉錦 三郎(くれにしき さぶろう、1906年4月6日 - 1… 呉錦 三郎(くれにしき さぶろう、1906年4月6日 - 1944年5月16日)は、広島県呉市出身で出羽海部屋に所属した昭和時代の元大相撲力士。本名は金谷 三郎。最高位は十両6枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、1922年1月で初土俵を踏む。1931年1月十両に昇進したが、2勝9敗と負け越し、同地位にあった翌3月も2敗9休と連続で負け越して幕下に落ちた。1933年5月十両に復帰し6勝5敗と勝ち越し、翌1934年1月は全休で再び幕下に落ちてからは十両に復帰できなかった。1940年1月に廃業。1944年死去。 1933年に沖ツ海福雄がフグ中毒で急死したとき同席していたが、彼は一命をとりとめた。
松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983… 松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983年2月26日)は、広島県呉市出身の技術者、実業家。ダイワ精工創業者。 1923年山陽中学校卒。広島でカメラ店を経営するが上京し1953年、カメラの距離計の製造を主とする「松井製作所」を創業。1955年からは釣り具のリールの製造を開始、釣り用品の需要増大に伴い、リールを本格的に生産するため1958年、東京都中野区に資本金200万円で「大和精工」を設立した。さらにスポーツ用品の製造も開始。1960年、リール生産工場を東京都東久留米市前沢に新設、1962年本社もここへ移転した。 1964年、グラスロッド(ガラス繊維強化プラスチック製の釣り竿)の生産工場を新設、1965年にはオリジナル仕様のダイワブランド・リールを開発、販売を開始した。