赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974… 赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974年12月20日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本における経済政策学の第一人者で、雁行形態論(のち小島清や山澤逸平らにより発展)等を提唱したことで知られる。 福岡県に旧久留米藩藩士の長男として生まれる。久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1921年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。1944年経済学博士(東京商科大学)。福田徳三門下。 1921年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)講師、1922年、同教授。1923年から留学し、ドイツでハインリヒ・リッケルトとヘルマン・グロックナーに師事したのちアメリカ合衆国でに移りハーヴァード大学でケースメソッドを学んだ。
川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月… 川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1951年〈昭和26年〉4月24日)は日本の女性歌人。本名、小西 慶子(旧姓、久城)。覇王樹同人の小西憲三は夫。 1898年(明治31年)、福岡県八女郡三河村(現在の八女市)に生まれ、大牟田市で育つ。熊本尚絅女学校卒業後、1916年(大正5年)に白日社の『詩歌』に参加。詩歌の廃刊後は1918年(大正7年)『覇王樹』の創刊と共に参加、同人として出詠。1925年(大正14年)に水町京子、北見志保子らと共に『草の実』を創刊、覇王樹を退いた。1935年(昭和10年)、北原白秋が『多磨』を創刊するとともに同誌に参加する。なお、草の実は戦時中に解散の命で解散している。
野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月… 野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月3日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、日本の官僚・実業家。西日本鉄道社長を務めた。 福岡県柳川市出身。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省。1940年(昭和15年)仙台鉄道管理局局長に就任。退官後は日本通運理事を経て、西日本鉄道副社長に就任。1945年(昭和20年)に同社社長に就任。1951年(昭和26年)に同社会長に就任した。このほか、RKB毎日放送、井筒屋の各取締役などを歴任した。 1959年(昭和34年)に西日本鉄道社長に再就任したものの、在任中の1960年(昭和35年)6月6日に九州大学病院(福岡市)で死去。
香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月… 香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月12日)は、日本の編集者、哲学者。 福岡県北九州市出身。1918年早稲田大学文学部哲学科卒。神田豊穂の興した春秋社に入り編集者として活躍、雑誌『帝国教育』『日本歴史』などを編集。香原志勢は長男。墓所は多磨霊園。
杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1… 杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1987年1月2日)は日本の政治家。衆議院議員、福岡県知事などを務めた。 福岡県福岡市出身。1914年、中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1921年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。 九州帝国大学、福岡高校、福岡女子専門学校の各講師、西南学院専門学校(現・西南学院大学)校長を経て、1946年4月、戦後初の衆議院議員総選挙に福岡1区から社会党所属で出馬し当選、1期務める。1947年4月から2期、福岡県知事を務めて石炭政策を推進した。福岡県知事の任期満了後に両派社会党の推薦で福岡市長選に出馬するが保守系現職の小西春雄に敗れて落選、翌1956年3月から久留米市長となる。
熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10… 熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月9日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、北海道庁長官、衆議院議員。 福岡県出身。裁判所吏員・熊谷澄の長男として生まれる。小倉中学、第五高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1920年(大正9年)10月、農商務省に入り農商務属となり工務局労働課兼工務課勤務となる。1922年(大正11年)11月、内務省に転じ内務省社会局属として第二部保険課に配属された。その後、保険部経理課長、社会局庶務課長、大臣官房会計課長、厚生省職業部長などを歴任。
緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 197… 緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 1970年)は、日本の柔道家(講道館9段)。 広島県呉市にて戦前の海軍はじめ各所で半世紀以上に渡り柔道指導を行い、広島市を中心に活動した倉田太一と共に県下柔道界の大家としてその振興・普及に尽力した。 福岡県の久留米市に生まれた。幼少時より扱心流の柔術を学び、旧制中学校を卒業後に上京して1912年3月に講道館へ入門。返し技(当時は“裏技”と言った)の名手として名高い高橋数良の元で専心修行し、ここで返し技に不可欠な足技を磨き終生の武器として会得した。 1914年2月に初段を許されると、翌1915年に郷里・久留米の憲兵隊柔道教師を拝命し、1918年5月には恩師高橋の斡旋により2段格として呉鎮守府海兵団および江田島海軍学校の柔道教師に着任した。
遠藤 永次郎(えんどう えいじろう、1895年8月8日 - … 遠藤 永次郎(えんどう えいじろう、1895年8月8日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。陸軍技術少将。工学博士。専門は燃料学、造兵学。 福岡県出身。1915年福岡県立中学修猷館、1918年7月第五高等学校工科を経て、1921年3月九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 1921年6月、陸軍工兵中尉任官。1935年1月、論文「発動機燃料ノ「ノツキング」性及防止ニ関スル研究」により工学博士の学位を得る。1939年8月陸軍航空兵大佐に累進。1940年12月陸軍航技大佐に転科し、1941年7月陸軍燃料廠廠員となる。1944年3月陸軍航技少将に累進し、同月、陸軍燃料廠が改組された陸軍燃料本部の陸軍燃料技術研究所所長に就任。
中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 194… 中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 1949年1月20日)は、戦前の日本の新興写真を代表する写真家の1人。福岡県柳川市出身。 福岡県柳川で実業家・中山重行の一人息子として生まれる。小学生のときに家族で上京、仰高小学校、京北中学校を経て、1918年に東京美術学校臨時写真科を卒業(第1期生)。農商務省の派遣で、アメリカのカリフォルニア大学で学ぶ。その後、ニューヨークにて、菊地東陽のスタジオで働いたり、「ラカン・スタジオ」を開設したのち、1926年には渡仏。マン・レイや未来派のエンリコ・プランポリーニと知り合う。 1927年に日本に帰国したのちは、芦屋カメラクラブをハナヤ勘兵衛ら地元の写真愛好家を集め結成し、欧米での経験を生かして活躍。
原田 義和(はらだ よしかず、1895年8月1日 - 197… 原田 義和(はらだ よしかず、1895年8月1日 - 1973年6月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
岩重 隆治(いわしげ りゅうじ、1895年(明治28年)6月… 岩重 隆治(いわしげ りゅうじ、1895年(明治28年)6月21日 - 1975年(昭和50年)3月10日)は、大正後期から昭和期の内務官僚、警察官僚、弁護士。陸軍司政長官、最後の官選福岡県知事。 山口県出身。岩重弥七の長男として生まれる。小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し長野県属兼警部となる。 以後、鹿児島県警察部保安課長、福岡県警察部保安課長、同警務課長、岡山県警察部特別高等課長、愛知県警察部特別高等課長、岡山県学務課長、同社寺課長、兵庫県商工課長、同水産課長、同地方課長、千葉県書記官・学務部長、京都府書記官・学務部長、青森県書記官・経済部長、三重県書記官・総務部長などを歴任。
古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933… 古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933年9月10日)は大正から昭和初期に活躍した洋画家である。日本の初期のシュルレアリスムの代表的な画家として知られる。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。「春江」は通称である。 1895年6月18日、福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。古賀春江は、父・正順が53歳、母・イシが43歳の時の子供でただ一人の男子だった(古賀春江が生まれる前に3人の女の子をもうけたが、2人は早世した)。松田実(後述)によると、そのために両親や姉の溺愛を受けて育ったという。
松岡 運(まつおか はこぶ、1895年(明治28年)5月28… 松岡 運(まつおか はこぶ、1895年(明治28年)5月28日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、福岡県嘉穂郡山田町長。 福岡県嘉麻郡熊田村大字上山田(現嘉麻市上山田)で、熊田村長、同村会議員を務めた松岡乙五郎の二男として生まれる。福岡県立福岡農業学校を卒業後、一年志願兵として入営し、その後、陸軍歩兵中尉に進級した。 その後、熊田村会議員、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、山田農会長、同農業会長、帝国在郷軍人会分会長、同南嘉穂連合分会分会長、嘉穂郡南部食糧品統制組合理事長などを務めた。1933年5月から1945年2月まで山田町長に在任し、炭鉱最盛期の豊富な税収を将来のため町基本金百万円として積立てることを計画、また、1935年6月の大洪水からの復興、山田川改修工事の実施、学校の改築、道路整備などに尽力した。
中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月… 中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。
伊藤 野枝(いとう のえ、1895年(明治28年)1月21日… 伊藤 野枝(いとう のえ、1895年(明治28年)1月21日 - 1923年(大正12年)9月16日)は、日本の婦人解放運動家、無政府主義者、作家、翻訳家、編集者。戸籍名は伊藤ノヱ。 かつて平塚らいてうが編集長を務めていた雑誌「青鞜」で活躍するも編集作業を放棄して休刊させ、不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を発表して戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。その暮らしから世評に「わがまま」「奔放」と批判された反面、現代的自我の精神を50年以上も先取りして人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など現在においても問題として取り上げられている課題を題材とし、多くの評論や小説、翻訳を発表した。
長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年… 長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月… 緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月)は、日本、満洲国、朝鮮の医師。 緒方道平の四男として福岡市に生まれる。祖父は緒方郁蔵。医学者緒方大象、政治家緒方竹虎は兄。1914年福岡県立中学修猷館、1917年7月第五高等学校医科を経て、1921年7月京都帝国大学医学部を卒業。 満洲国の斉斉哈爾鉄道病院院長、朝鮮の清津赤十字病院院長を歴任。戦後、福岡市の在外同胞援護会救療部聖福病院の初代院長となり、引揚者の医療救護にあたった。在職中の1955年3月死去。
権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- … 権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- 1970年(昭和45年))は、日本の建築家。朝香宮邸(東京都庭園美術館)の設計者として知られる。 福岡県筑紫郡三宅村(現・福岡市南区)で権藤伊兵衛の長男として生まれる。福岡県立福岡工業学校(現・福岡県立福岡工業高等学校)建築科から名古屋高等工業学校に進学。1916年(大正5年)同校建築科を銀時計授与され優等で卒業した。 卒業同年、住友総本店営繕課建築係に入り、竹腰健造に師事。 1921年(大正10年)から学校側の推薦により住友を辞し、内匠寮技手として宮内省に勤務。高橋貞太郎の下で東伏見宮邸(大正13年)を手がける。これはのちの宮邸平面計画の原型となる。
三輪 寿壮(みわ じゅそう、1894年(明治27年)12月1… 三輪 寿壮(みわ じゅそう、1894年(明治27年)12月15日‐1956年(昭和31年)11月14日)は日本の法律家、政治家。労働農民党書記長、日本労農党書記長、第二東京弁護士会会長、衆議院議員。
大江 俊明(おおえ としあき、1894年〈明治27年〉9月2… 大江 俊明(おおえ としあき、1894年〈明治27年〉9月27日 - 1954年〈昭和29年〉4月10日)は、日本の実業家、政治家。昭和前期の福岡県築上郡八屋町(現在の豊前市)の名士。築上新聞および築上産業新聞の創刊者。株式会社大江印刷所社長。 父は美濃派俳諧の流れを汲む逸茂庵派四世の大江壽太郎。子供は1男2女あり、長男は大江俊信。曾孫が元テレビ東京アナウンサーの大江麻理子である。 「社会の先駆者」(築上新聞発刊の辞より)たる気概で築上新聞および築上産業新聞を創刊し、20数年にわたり自ら健筆を振るった。また、25歳頃より求菩提山の研究と復興開発を志し、そのため自ら将棋、囲碁、観劇を禁じて生涯尽力した。
山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16… 山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚、政治家。内務三役(警保局長、警視総監、内務次官)を経て政界入りし、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任した。正三位。勲一等。農林大臣・逓信大臣の山崎達之輔は実兄。 福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。
泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980… 泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980年11月10日)は、日本の歌人、美術評論家。本名は山田 邦祐。 福岡県福岡市田島に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1920年早稲田大学文学部英文科を卒業し、研究社に入社。在学中の1917年から北原白秋に師事している。 戦後、「婦人画報」編集局に移り、1935年白秋の歌誌「多磨」創刊に参加、のち編集に従事。1953年に同誌が終刊後、中村正爾の歌誌「中央線」創刊に参加。 本名名義で美術書も出版した。
寺崎 覚(本姓:寺﨑 覺、てらさき さとる、1894年(明治… 寺崎 覚(本姓:寺﨑 覺、てらさき さとる、1894年(明治27年)8月13日 - 1984年(昭和59年)2月2日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員、久留米市功労者。 福岡県久留米市津福本町で生まれる。 久留米市鳥飼産業組合理事、同鳥飼農業会長、久留米市農地委員会長、福岡県農村青年連盟久留米地区委員長、久留米市鳥飼農業協同組合理事などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に福岡県第3区から出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した。この間、日本農民党情報部長などを務めた。 その後、久留米市教育委員会委員長に就任した。
坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7… 坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7日 - 1969年(昭和44年)11月1日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 福岡県福岡市出身。旧福岡藩士の坂本百太郎と母チョウ(同藩士の池田良助の長女)の長男として生まれる。父百太郎は炭鉱王・貝島太助が宮田町の貝島炭鉱に設立した私立大之浦小学校の教員を務めていた。 1914年、第一高等学校大学予科卒業。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。 外務属、外務事務官、外交官補、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館三等書記官、同二等書記官、ブエノスアイレス領事、モンテビデオ領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務書記官・拓務書記官、通商局第三課長、同第二課長、亜米利加局第一課長、同第二課長などを歴任。
高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3… 高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3日 - 1938年(昭和13年)4月13日は、日本の杖術家。号は武勝。玄洋社の一員でもあった。 福岡県宗像郡勝浦村(現在の福津市)出身 。白石範次郎(重明)より神道夢想流杖術を学んだ。 1928年(昭和3年)大日本武徳会杖術錬士之部 (精)錬士 1929年(昭和4年)福岡市大学通3丁目5の自宅に「福岡道場」を開き、兄弟弟子の清水隆次(克泰)、乙藤市蔵(勝法)らと神道夢想流杖術を指導した。同年5月 「第三十三回武徳祭大演武会」において制剛心照流居合術を演武、同年7月 大日本武徳会捕縄術錬士之部 (精)錬士 1930年(昭和5年)11月 「明治神宮鎮座十周年祭奉納武道形大会」において、神道夢想流杖術五月雨、一達流捕縄術、中和流短剣術、大和流軍用抱火筒術を演武 1933年(昭和8年)5月 「第三十七回武徳祭大演武会」において神道流剣術を演武7月 武道総合雑誌『信義』創刊号に福岡道場師範高山喜六武勝として「一達流捕縄術及び一心流鎖鎌術」の解説を寄稿 1935年(昭和10年)5月 大日本武徳会杖術教士之部 教士 1936年(昭和11年)3月20日 福岡農士学校の卒業式に際し、研究科第三期生、本科第四期生に対し高山師範より武道証をそれぞれ授与される。
葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12… 葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12日 - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の小説家。本名嘉重。 福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町)出身。早稲田大学高等予科文科中退。労働運動に従事し、職を転々とする傍ら、「文芸戦線」に発表した『淫売婦』で注目され、作家生活に入る。『セメント樽の中の手紙』や長編『海に生くる人々』などで労働者階級の生活と反抗と連帯感を描き、初期プロレタリア文学の代表的存在となった。その後開拓団員として満洲に渡り、敗戦後、引揚げの車中で病没した。農民小説も書いた。 士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。
鶴 惣市(つる そういち、1894年(明治27年)2月23日… 鶴 惣市(つる そういち、1894年(明治27年)2月23日 - 1961年(昭和36年)3月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 福岡県三池郡大牟田町(現大牟田市)に生まれる。商店員より独立し、米穀商を営み、鶴惣商店を創立し代表社員となる。のち大牟田市会議員に当選し、同参事会員、同議長、福岡県会議員、同参事会員、商工省委員、福岡県公安委員長、大牟田商工会議所顧問、大牟田市体育協会長、大和冷凍興業社長を歴任する。 1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙では福岡県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。以後、衆議院議員を通算3期務めた。戦後は日本進歩党所属に転じた。
諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月1… 諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月11日 - 1990年(平成2年)6月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。 福岡県出身。第17代台湾軍参謀長、その後第10方面軍参謀長。1945年10月25日、国民政府代表との降服式典に台湾総督安藤利吉とともに台湾総督府(日本)代表として出席し、任を終える。 官吏・諫山虎鹿の二男として生れる。中学明善校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業。1915年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。 1925年8月、歩兵第38連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス大使館付武官補佐官などを経て、1930年8月、歩兵少佐に昇進。
簡牛 凡夫(かんぎゅう つねお、1894年(明治27年)1月… 簡牛 凡夫(かんぎゅう つねお、1894年(明治27年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、大蔵政務次官、可也村村長を歴任した。
松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は… 松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は、日本の建築家。松田平田設計の創始者。福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)生まれ。 兄・松田昌平は旧門司三井倶楽部の設計者で知られる建築家。父の武一郎は鉱山技師。福岡工業学校から名古屋高等工業学校に進学し卒業後、清水組設計部に勤務。1921年に渡米し、コーネル大学で建築学を学ぶ。コーネル大学を卒業してアメリカの建築設計事務所、トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所(英語版)で修行。三井本館監理副主任に就任。三井銀行の本店と支店を担当した。 1931年(昭和6年)赤坂の地に兄と松田事務所を開設し、1942年にはコーネル大学卒業の藤井羊三、平田重雄を迎え、株式会社松田平田設計に発展、日本におけるパートナーシップにより運営される組織系建築設計事務所の草分け的存在となる。
沖 蔵(藏、おき おさむ、1893年(明治26年)11月2日… 沖 蔵(藏、おき おさむ、1893年(明治26年)11月2日 - 1978年(昭和53年)10月29日)は、大正末から昭和期の弁護士・農民運動家・政治家。衆議院議員。 福岡県山門郡水上村大字小田(東山村、瀬高町を経て現みやま市瀬高町小田)で、沖健雄の二男として生まれる。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、さらに1922年(大正11年)同大法学部法律学科(独法)を卒業した。 弁護士を開業し、法政大学教授、上智大学講師も務めた。1923年(大正12年)から2年間、自費でドイツを中心としたヨーロッパ各国の政治経済の状況を視察して帰国し、郷里に戻った。
大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月2… 大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月26日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、第15代にして最後の樺太庁長官。現在の福岡県柳川市生まれ。 福岡県立中学伝習館、第五高等学校 (旧制)を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部を卒業した。1916年軍務に服し少尉の位で陸軍主計少尉となった。1919年(大正8年)大阪府林務部に入り部長まで務めた。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで内務省に入省、警視庁刑務部長、1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)まで長崎県内務部長、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)は神奈川県経済部長、1936年(昭和11年)には満州国新京市の民生部総務部長。
末次 留蔵(すえつぐ とめぞう、1893年(明治26年)2月… 末次 留蔵(すえつぐ とめぞう、1893年(明治26年)2月27日 - 1975年(昭和50年)6月15日)は、日本の剣道家。段位は剣道範士七段、居合道範士八段、銃剣道範士八段。夢想神伝流居合を九州に広めた。 福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)の農家に生まれる。少年の頃より剣道、柔道を学んだ。水上尋常小学校を卒業。 1913年(大正2年)、志願して陸軍歩兵第48連隊に入隊。1914年(大正3年)、日独戦争青島の戦いに出征。1918年(大正7年)及び1919年(大正8年)、第18師団長主催の銃剣術大会を連覇。 1919年(大正8年)3月、陸軍戸山学校に入校。同時に剣道を学ぶため高野佐三郎の修道学院に入門し、その5日後には居合を学ぶため中山博道の有信館に入門した。
大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1… 大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1964年4月16日)は、福岡県山門郡大和町(現在の柳川市)出身で陸奥部屋に所属した大相撲力士。本名は塩塚 又吉。最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、90kg。得意手は右四つ、吊り、寄り、上手投げ、突っ張り。 1911年(明治44年)6月場所、序ノ口で初土俵を踏んだ。5年後の1916年(大正5年)5月場所に十両昇進、その翌年、1917年(大正6年)5月場所には入幕を果たした。この場所、初日から勝ち続けて9連勝、千秋楽こそ預りとなったものの9勝1預無敗の堂々たる成績で優勝旗手となった(この場所、優勝は同成績の大関栃木山)。新入幕力士の無敗は1914年(大正3年)5月場所の前頭14枚目両國以来の快挙で、その後も1945年(昭和20年)11月場所の前頭10枚目千代ノ山を最後に出ていない。
児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 -… 児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 - 1962年3月22日)は、日本の洋画家である。
尾中 蘆山(おなか ろざん、1893年(明治26年)‐196… 尾中 蘆山(おなか ろざん、1893年(明治26年)‐1963年(昭和38年))は大正時代から昭和時代の日本画家。
山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月… 山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月26日 - 1971年(昭和46年)11月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福岡県出身。山田定直陸軍大佐の長男として生まれる。松江中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を5番/117名の成績で卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。1916年(大正5年)12月から翌年まで航空術学生として学んだ。横須賀航空隊付、フランス駐在、横須賀航空隊分隊長、同飛行隊長、霞ヶ浦航空隊教官などを経て、1928年(昭和3年)12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業した。 連合艦隊参謀、軍令部第1班第2課参謀、同第2班第3課参謀、第1航空戦隊参謀、海軍省臨時調査課員、フランス大使館付武官、軍令部第3部第7課長、横須賀鎮守府付、「蒼龍」「加賀」の各艦長などを経て、1941年(昭和16年)10月、42期の一選抜組として少将に進級。
松月 秀雄(まつづき ひでお、1892年9月18日 - 19… 松月 秀雄(まつづき ひでお、1892年9月18日 - 1993年)は、日本の教育学者。文学博士。東京理科大学学長。
結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 197… 結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 1971年6月18日)は、日本の経営者。大日本セルロイド社長を務めた。福岡県久留米市出身。 1915年に東京高等商業学校を卒業。三井物産での勤務を経て、大日本セルロイドに転じ、1937年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年1月には社長に就任。1964年1月から1968年1月までに会長を務めた。富士写真フィルム監査役も務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等旭日中綬章を受章。 1971年6月18日急性心不全のために死去。78歳没。
山本 作兵衛(やまもと さくべえ / さくべい、1892年〈… 山本 作兵衛(やまもと さくべえ / さくべい、1892年〈明治25年〉5月17日 - 1984年〈昭和59年)12月19日〉)は、福岡県出身の炭鉱労働者、炭鉱記録画家。 日本で初めてユネスコ記憶遺産(世界の記憶)の登録を受けた炭鉱画で知られる。 1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)で、石炭を輸送する川舟の船頭をしていた山本福太郎の次男として産まれる。1899年(明治32年)、1893年(明治26年)に開通した筑豊本線によって石炭輸送の代替が進んだため、福太郎は川舟を廃業して一家で上三緒炭坑(現・飯塚市)に移住し、炭鉱夫に転職した。作兵衛も7歳で兄とともに炭鉱に入り、父の仕事を手伝うようになる。
山本 募(やまもと つのる、1892年(明治25年)5月10… 山本 募(やまもと つのる、1892年(明治25年)5月10日 - 1963年(昭和38年)10月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・山本勘四郎の三男として1892年(明治25年)に生まれた。旧制東筑中学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校第26期卒業。同年12月歩兵少尉に任官し、歩兵第7連隊附となる。1922年(大正11年)陸軍大学校第34期卒業。1923年(大正12年)より歩兵第7連隊中隊長心得、陸軍兵器本廠附、陸軍省整備局課員、歩兵第1連隊附(日大附属中学校配属)、津軽要塞参謀、陸軍省整備局課員などを歴任。 1936年(昭和11年)に台湾軍司令部附を経て、1937年(昭和12年)に台湾軍参謀に就任。
石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 … 石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 石橋次作の二男として、福岡県早良郡田隈村に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学英語第一法律科(司法科)卒業。 1921年判事に任官し、長崎地方裁判所、福岡地方裁判所、熊本地方裁判所、鹿児島地方裁判所、大分地方裁判所、1947年11月福岡高等裁判所の各判事を務めた後、1951年12月佐賀地方裁判所所長兼佐賀家庭裁判所所長を経て、1954年10月鹿児島地方裁判所所長兼鹿児島家庭裁判所所長に就任。
岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 196… 岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 1966年11月6日)は日本のスポーツ指導者、柔道家、日本で最初のアメリカンフットボール紹介者。スポーツ黎明期の日本に科学的トレーニングを導入した事から「近代コーチの祖」と呼ばれている。柔道8段、剣道5段。 福岡県糸島郡芥屋村(現在の糸島市)出身。 1891年(明治24年)養蚕業と櫨ろう業を営む農家の9人兄弟の長男として生まれる。 1908年(明治41年)福岡師範学校(現・福岡教育大学)入学。学校では持前の運動神経を発揮し、柔道、剣道、相撲、軟式テニス、陸上、野球、ボートと多岐にわたり活躍する。 1911年(明治44年)当時の武道界最大の大会で、京都武徳殿(旧武徳殿)で開かれた「青年大演武会」柔術16歳以上20歳未満 選抜勝負の部 で準優勝(金光弥一兵衛、宇土虎雄も出場)。
藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 194… 藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 1943年5月28日)は、日本の版画家。 福岡県久留米市生まれ。白馬会原町洋画研究所に入り、東京美術学校予備科西洋画科志望に入学後、1914年に田中恭吉や恩地孝四郎とともに版画誌『月映』を刊行した。東京美術学校をその2年後に卒業し、福岡で中学校の教師を務めた。1922年に『詩と版画』の同人となり、1937年から日本版画協会の常任理事・事務を担当した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日… 宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日 - 1961年〈昭和36年〉9月21日)は、日本の小説家。本名は格次郎。父は六三郎、母はキョウ。7歳年長の兄・崎太郎は幼時に脳膜炎にかかり知的障害があった。日本芸術院会員。 福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区荒戸一丁目)に生まれる。早稲田大学英文科中退。『蔵の中』『苦の世界』など、おかしみと哀感のある作品を独自の説語体で発表し、文壇に認められた。その後『山恋ひ』『子を貸し屋』などで作風の幅を広げた。一時精神に変調をきたすが、復活後は冷厳に現実を見つめる簡素で写実的な作風に転じ、『枯木のある風景』『器用貧乏』『思ひ川』などを発表。他に松川事件の被告を弁護した『世にも不思議な物語』などがある。
森山 ヨネ(もりやま ヨネ、1891年(明治24年)1月14… 森山 ヨネ(もりやま ヨネ、1891年(明治24年)1月14日 - 1990年(平成2年)10月30日)は、政治家、衆議院議員(1期)。 福岡県久留米市出身。福岡女学校を経て奈良女子高等師範学校を卒業する。1927年栄養学を学ぶため文部省の在外研究員として米国のコロンビア大学に留学する。帰国後は鹿児島県立国分高等女学校教諭や三重県と福岡県の女子師範学校の教諭を経て、福岡県女子専門学校教授になる。その後、退職してブラジルに渡り、戦時中の1942年に帰国した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙では福岡県から日本進歩党公認で立候補してトップ当選した。進歩党では渉外連絡部副部長を務めた。翌年の第23回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1… 江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉4月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡矢部村(八女郡矢部村を経て現八女市)で生まれる。高等小学校卒業。農業、石炭業を営む。 東豊炭坑江田鉱業所長、恩賜財団同胞援護会福岡県川崎分会長などを務めた。 1933年(昭和8年)川崎町会議員に当選し、以後3選した。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から民主自由党所属で出馬して当選した。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙(福岡県第4区、自由党)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 1957年(昭和32年)4月19日死去、66歳。
高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年… 高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年)12月9日 - 1972年(昭和47年)3月4日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 福岡県八女郡、現在の八女市で酒造家の家に生まれる。1918年(大正7年)明治学院普通部を卒業。 若いときから院外団に加わった。福岡県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、八女郡教育会評議員も務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から1947年(昭和22年)第23回総選挙まで立候補を続けたがいずれも落選。同年の福岡県知事選挙でも落選した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙(福岡県第3区、無所属)で当選。当時の地元新聞に「同情票で勝利」と分析した記事が掲載された。
横山 静雄(よこやま しずお、1890年12月1日 - 19… 横山 静雄(よこやま しずお、1890年12月1日 - 1961年1月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。村役場収入役・横山麓の長男として生まれる。中学伝習館を経て、1912年5月、陸軍士官学校(24期)を卒業、同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第24連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第24連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、欧州出張、関東軍鉄道線区司令部付、同鉄道線区司令官、関東軍司令部付などを歴任。日中戦争では歩兵第2連隊長として出征し、河北戡定作戦、徐州会戦に参加。1939年3月、陸軍少将に進級。第2野戦鉄道司令官、第1野戦鉄道司令官などを歴任し、1941年10月、陸軍中将となった。
豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月… 豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月27日 - 1955年(昭和30年)6月18日)は、日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。